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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/6


 
 


 
 

アントン・ヘーシンク
Anthonius Geesink
1934/4/6 - 2010/8/27 

オランダ・ユトレヒト出身の柔道家、プロレスラーである。身長198cm。 

1973年から5年間、プロレスラーとして全日本プロレスで活動している。
日本でも知名度の高い柔道金メダリストということもあって、ザ・ファンクスの指導を受け、
ジャイアント馬場とタッグを組んでブルーノ・サンマルチノと戦うという華々しいデビュー戦
(1973/11/24・蔵前国技館)を飾り、その後もゴリラ・モンスーンと柔道ジャケットマッチを行うなど、
スター選手として特別扱いをされていたが、ファンからの反響は乏しいものだった。
馬場は当時のアントンについて「プロレスに適応しようとしなかった」
「柔道着を着て押さえ込まれたらこれほど強い男はいないが、裸になるとこれほど弱い男もいない」
と評している

ジャイアント馬場
メモリアル王者の魂
ジャイアント馬場メモリアル 王者の魂―私たちは馬場さんを忘れない

職業・柔道家
職業・柔道家
PRIDE 男祭り 2005
-ITADAKI-

PRIDE 男祭り 2005 -ITADAKI-

 
 
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ピーター・メイビア
"High Chief" Peter Maivia
1937/4/6 - 1982/6/13

アメリカ領サモア出身のプロレスラー。本名はファネネ・ピタ・メイビアFanene Leifi Pita Maivia)。より原音に近い表記は「マイヴィア」。生年は1935年説もある。

かつてWWEで活躍した元プロレスラーの俳優、ドゥエイン "ザ・ロック" ジョンソンの祖父として知られる。下腹部から大腿部にかけて一面に彫られたサモア民族の入れ墨を "ハイ・チーフ" のシンボルとしていた。

来歴

ニュージーランドのプロモーター兼レスラーであるスティーブ・リッカードのトレーニングを受け、1960年代初頭にプロレスラーとしてデビュー。 1964年、カンガルー・ケネディを破りNWAオーストラジアン・ヘビー級王座を獲得。ヨーロッパにも遠征し、1966年には悪役で出演した映画『007は二度死ぬ』の撮影で日本を訪れている。

1968年よりハワイに進出し、ジム・ハーディーとのコンビでキング・カーティス・イヤウケア&リッパー・コリンズからNWAハワイ・タッグ王座を奪取。以降、同王座を4回に渡って獲得している。同年11月、国際プロレスの第1回IWAワールド・シリーズに来日。予選リーグ戦で対戦したビル・ロビンソンとはリングを離れてもストリートファイトを演じた(ロビンソンは、この時にメイビアに目玉をくり抜かれて義眼になったとされる場合があるが、自著によると少年時代の怪我で片方の眼球を損傷していたという)。

1969年にアメリカ本土のサンフランシスコ地区に上陸し、レイ・スティーブンスのパートナーとなってNWA世界タッグ王座に載冠。1971/7/31には同地区の看板タイトルであるUSヘビー級王座をポール・デマルコから奪取している。以降もハワイとサンフランシスコを主戦場として往復しつつ、南部のテキサス州ダラス地区にも進出。1975年10月にジョン・トロスを破りテキサス・ヘビー級王座を獲得した(メイビアの戴冠後、同王座は空位となり、新王者には後に娘婿となるロッキー・ジョンソンが認定された)。1976年はミネソタのAWAに参戦、11月にニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している。

1977年、ニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。当初はサモアの王族ギミックのベビーフェイスとして、当時の悪党王者スーパースター・ビリー・グラハムと抗争。インディアン・ギミックのチーフ・ジェイ・ストロンボーとのチーフ・コンビも人気を呼んだ。1978年、ボブ・バックランドがグラハムを破り新王者になってからもバックランドの盟友として活躍していたが、同年11月、バックランドを裏切ってヒールに転向。フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、MSG定期戦においてバックランドのWWFヘビー級王座に3カ月連続で挑戦している(3度目の挑戦となる1979/1/22の定期戦では、スチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われた)。

この間、1978年6月にWWFとの提携ルートで新日本プロレスに参戦し、10年ぶりの来日を果たす。7/24には広島でヘイスタック・カルホーンと組んで坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座に挑戦。新日本にはバックランドとの抗争終結後の翌1979年4月にも来日し、MSGシリーズの第2回大会に出場したが、予選トーナメントで長州力に敗れ、決勝リーグ進出は果たせなかった。同年9月にはニュージーランドでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦、王座奪取はならなかったものの、流血の死闘を演じてレイスを追い込んでいる。

1980年代に入るとハワイでプロモーターとして活動。現役選手としても、1981年5月にロサンゼルス地区でビクター・リベラからアメリカス・ヘビー級王座を奪取し健在ぶりをアピールしたが、1982/6/13、ハワイ・ホノルル市内の病院で癌のため死去。45歳没。2008年にはWWE Hall of Fameに迎えられ、孫のザ・ロックがインダクター(プレゼンター)を務めた。


獲得タイトル

  • NWAオーストラジアン・ヘビー級王座:2回
  • NWAニュージーランド・ヘビー級王座:1回
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:1回
  • NWAハワイ・タッグ王座:4回(w / ジム・ハーディー、ビリー・ホワイト・ウルフ、サム・スティムボート×2)
  • NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):2回
  • NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):2回(w / レイ・スティーブンス、パット・パターソン)
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:1回
  • WWE Hall of Fame:2008年度

 etc.


WWE
レッスルマニア・
アンソロジー
BOX1 I-VII
WWE レッスルマニア・アンソロジーBOX

WWE
レッスルマニア・
アンソロジー
BOX2 VIII-XIV
WWE レッスルマニア・アンソロジーBOX

WWE
レッスルマニア・
アンソロジーBOX2
VIII-XIV
WWE レッスルマニア・アンソロジーBOX






フィッシュマン
Fishman
1951/4/6
フィッシュマン

ホセ・アンヘル・ナヘラ・サンチェスJosé Ángel Nájera Sánchez)は、メキシコ・コアウィラ州トレオン出身の元プロレスラー。 ルードの覆面レスラーとして、1970年代から1990年代にかけてメキシコの各団体で活躍した。

来歴

1969年11月、NWA加盟団体のEMLLにてデビュー。当初はゴライアス・レジェスGoliath Reyes)、後にタイタンTitán)のリングネームを名乗り、ルードのポジションで活動する。

1974年(1971年説もあり)、メキシコのプロレス雑誌『ルチャ・リブレ』が行ったミル・マスカラスのマスクデザイン・コンテストの中から覆面のデザインを選び、同年よりフィッシュマンFishMan)に変身。10/3にはエル・マルケスからナショナル・ウェルター級王座を奪取、以降、同王座を通算3回獲得した[1]。1976/4/9には古豪ブルー・デモンを破り、NWA世界ウェルター級王座にも戴冠している。

1978年5月よりUWAに移籍。1980/12/12、ペロ・アグアヨを下してUWA世界ライトヘビー級王者となる。1981年3月に新日本プロレスに初来日し、WWFライトヘビー級王座の争奪リーグ戦に出場。優勝を逸し戴冠は果たせなかったものの、9/25にカリフォルニア州ロサンゼルスにてアグアヨから同王座を奪取した。

アメリカにはロサンゼルスをはじめ、メキシカン人口の多いテキサスにも時折遠征しており、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたダラスのWCCWでは、悪徳マネージャーのスカンドル・アクバ率いるヒール軍団に加入。1983/6/17に行われたビッグイベント "Star Wars" にはワイルド・ビル・アーウィン&ザ・モンゴル(ジン・ルイス)と組んで6人タッグマッチに出場、クリス・アダムス、チャボ・ゲレロ、ホセ・ロザリオのトリオと対戦している。

その5日前の1983/6/12、当時空位だったWWFジュニアヘビー級王座をメキシコシティにて初代タイガーマスクと争い、翌1984年8月には全日本プロレスに参戦して二代目タイガーマスクとも対戦した。1985年10月には新日本プロレスにUターンしてザ・コブラのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦している。

1986/8/24、ビジャノ3号を破りWWFライトヘビー級王座を再び獲得。1988年よりティフアナのWWAに移籍し、1990/2/18にWWA世界ジュニア・ライトヘビー級王座をレイ・ミステリオ・ジュニアから奪取した。

以降、1990年代はAAAを主戦場に活動したが、2000/8/27にマスカラ・サグラダとのマスカラ・コントラ・マスカラに敗れて覆面を失い、素顔となって引退した。


藤波辰巳/木村健吾vsエル・カネック/フィッシュマン





エル・ソリタリオ
El Solitario
1946/5/25 - 1986/4/6
エル・ソリタリオ

メキシコ・ハリスコ州ヤウアリカ出身の覆面レスラー。本名はロベルト・ゴンサーレス・クルスRoberto González Cruz)。

息子のエル・イホ・デル・ソリタリオもプロレスラーである。

来歴

"Othon Banzica" のリングネームで活動していた兄のヘスス・ゴンサーレスの紹介により、ジョー・エル・エルモソのトレーニングを受けて1960年に14歳でデビュー。前年に試合中のアクシデントで死去したヘススのリングネームを継承し、覆面レスラーの "Othon Banzica II" として活動していたが、1962年12月にマスカラ・コントラ・マスカラで敗れてマスクを失う。その後、ディアブロ・ベラスコのもとで再びトレーニングを積み、1966年2月にエル・ソリタリオとして再デビューを果たした。

「エル・ソリタリオ」のリングネームは、アメリカの活劇ドラマ『ローン・レンジャー』のメキシコでのタイトル "El Llanero Solitario" から取られており、劇中で主人公が着けていた黒いアイマスクを模した縁取りの黄金色の覆面を被るなど、プロモーターのレイ・プラタによって西部劇のガンマンをイメージしたキャラクターが与えられた。

エル・サントの「エンマスカラード・デ・プラタ」(銀色の仮面)に対する「エンマスカラード・デ・オロ」(黄金の仮面)として、当初はルードのポジションで活動。1967年よりEMLLに参戦、1969年8月にはエル・ラヨ・デ・ハリスコを破ってNWA世界ミドル級王座を獲得し、1970年11月にはレイ・メンドーサからNWA世界ライトヘビー級王座を奪取した。1971年はアメリカのNWAロサンゼルス地区にも進出し、国際的なスターとなっていたミル・マスカラスとも激闘を展開している。

1972年7月、日本プロレスの『サマー・ビッグ・シリーズ』に初来日し、ジャイアント馬場や坂口征二らスーパーヘビー級の選手とも対戦。同シリーズにはミル・マスカラスも参戦しており、当時メキシコやロサンゼルスでは敵同士だった両者のタッグチームが実現している。ソリタリオ(孤独な男)というリングネーム通り、華やかなマスカラスとは対照的なクールな雰囲気から、日本では「孤狼仮面」なる異名が付けられた。

帰国後の1972年12月、パートナーだったアンヘル・ブランコをマスカラ・コントラ・マスカラで破ったことを機にテクニコに転向。翌1973年には最優秀人気選手に選ばれ、以降マスカラスに匹敵する人気を持つ重量級ルチャドールのトップ・スターとなってメキシコのマット界に君臨した。

1977年よりUWAに移籍し、1979年5月にはUWAの提携ルートで新日本プロレスの『第2回MSGシリーズ』に来日、中盤戦特別参加でリーグ戦には出場しなかったものの、エル・カネックとのメキシカン・コンビで注目を集めた。新日本には1981年9月の『ブラディ・ファイト・シリーズ』にも再来日し、田園コロシアムにて藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦している。

その間の1980年1月にはメキシコシティにて栗栖正伸を破りUWA世界ジュニアライトヘビー級王座を獲得。また、新日本プロレスでもタッグを組んだことのあるアンドレ・ザ・ジャイアントのメキシコ参戦時のパートナーも務め、アンドレとのコンビで2対3の変則タッグマッチも行った。ロサンゼルスやテキサスなどメキシカン人口の多いアメリカのテリトリーにも時折遠征し、ダラスのWCCWではキラー・ブルックスなどの主力ヒールと対戦、1982/6/4にテキサス・スタジアムで行われたフリッツ・フォン・エリックの引退興行にも出場した。

1982年にはUWA世界ジュニアヘビー級王座の初代チャンピオンに認定され、以降もペロ・アグアヨらと抗争を展開した後、1984年5月に第3団体のスペル・リブレスに移籍。1985年12月にはカルロス・エリソンドの主宰する独立プロモーションに登場し、ドクトル・ワグナーと対戦した。

翌1986年1月にUWAに復帰したが、3月末にモンテレイでの試合中に腰を強打。歩行困難となる重傷を負い手術を受けるも、施術中に心臓麻痺を起こし同年4月6日に死去。39歳没。

獲得タイトル

EMLL
  • NWA世界ライトヘビー級王座:1回
  • NWA世界ミドル級王座:1回
UWA
  • UWA世界ジュニアヘビー級王座:1回
  • UWA世界ジュニアライトヘビー級王座:2回
  • UWA世界ライトヘビー級王座:1回

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中島 安里紗
1989/4/6

日本の元女子プロレスラー。身長160cm、体重60kg、血液型O型。埼玉県秩父市出身。最終所属はJWP女子プロレス。

経歴・戦歴

2005年
  • AtoZ入団。
2006年
  • 1/3 「ONLY ONE(KOプロダクション主催興行)」後楽園ホール大会の対水沼美加戦でデビュー。
  • 5/3 後楽園ホール大会を最後にAtoZは活動停止となった。

以後フリーとして阿部幸江と共に、JWPを主戦場に活動していたが、8/6、阿部と共にJWP所属となった。

  • 12/24 JWP後楽園ホール大会において、希月あおいを初公開のキューティースペシャルで下し、渡辺えりかの引退で空位となっていたJWPジュニア王座を獲得。
2007年
  • 6/17 格闘美興行において、浦井百合、松本浩代との巴戦を制し、第2回「LEAGUE PRINCESS」に優勝すると共に、空位となっていたPOP王座を獲得しジュニア二冠王となった。
  • 11/18 仙女・Zepp Sendai大会において、ティラノサウルス奥田に敗れ二冠王座を失う。
2008年
  • 5/4 ハードコアレディース桂スタジオ大会において、自身初となる有刺鉄線ボードデスマッチに挑戦するも、尾崎魔弓(OZアカデミー)・バンビ(KAIENTAI-DOJO)組に敗戦(パートナーは永島千佳世)。
  • 6/4 JWP大阪アゼリア大正大会において、奥田のJWPジュニア&POP王座4度目の防衛に挑戦、キューティースペシャルで勝利。第15代JWPジュニア、第5代POP王者に返り咲く。
  • 10/12 JWP新宿FACE大会において、仙女水波綾とジュニア二冠選手権試合。ダイビングフットスタンプからの片エビ固めで王座防衛。
  • 12/21、息吹・後楽園ホール大会、松本浩代とのジュニア二冠選手権試合。ライガーボムで王座陥落。
2009年
  • 4/19博多大会以降、体調不良を理由に長期欠場。
  • 6/2、5/31付けで退団・引退したことを発表。

所属

  • AtoZ(2005年 - 2006年)
  • フリーランス(2006年)
  • JWP女子プロレス(2006年 - 2009年)

タイトル歴

  • 第13代、第15代JWP認定ジュニア王座
  • 第3代、第5代POP王座

入場テーマ曲

  • 「Show Me Heaven」(Saint Feat Suzanna Dee)

女神列伝
女子プロレスパー
フェクトガイド
1950~2011

女神列伝

JWP女子プロレス
JWP激闘史 vol.1
THE PURE HEART
15th ANNIVERSARY
JWP 15
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JWP激闘史 vol.1
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