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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/8


 
 


 
 

大磯 武
1944/4/8

富山県新湊市出身で立浪部屋所属の元大相撲力士、東京プロレス、国際プロレス所属の元プロレスラー。本名は、摺崎武ニ。大相撲時代の四股名は大磯浪、最高位は三段目14枚目。プロレスラー時代は身長181cm、体重117kg。

来歴

大相撲の立浪部屋に入門し、1963年7月場所に本名の摺崎の四股名で初土俵を踏んだ。1965年3月場所に四股名を大磯浪に改名したが伸び悩み、1966年5月場所限りに三段目で廃業した。大相撲廃業後は、1966年に東京プロレス設立に伴いプロレスに転向、入門同期には寺西勇・大剛鉄之助・柴田勝久・永源遙らがいた。しかし、東京プロレスが経営に行き詰まったため、ラッシャー木村らと共に国際プロレスに移籍した。アフリカ、ヨーロッパに海外遠征した経験を持つが日本ではあまり活躍できないままに現役を引退した。しかしプロレスへの情熱を捨て切れず、その後フィリピンにプロレス団体を設立して現地でレスラーの育成に務めた。

 
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太田 章
1957/4/8

日本のレスリング選手(フリースタイル)。秋田県秋田市出身。血液型B型。

早稲田大学スポーツ科学部准教授、日本レスリング協会強化委員、埼玉県所沢市教育委員。






蹴射斗
1973/4/8

青野 敬子は、日本の女子プロレスラー。大阪府門真市出身。

経歴

LLPWに入門し、1995/2/10の後楽園ホール大会における、対レオ北村戦でデビュー。2001年9月に、遠藤美月、カルロス天野とユニット「DASH!」を結成。BLACK JOKERやG-MAXと抗争した。2002/6/15の桂スタジオ大会でBLACK JOKERに勝利し、6人タッグ王座を獲得した。選手会長を務めていた時期もあったが、2004/3/31付でLLPWを解雇された。

フリー転向後はNEO女子プロレスやGIRLS DOORに素顔で上がっていたが、同時進行で「別の姿」でJWP女子プロレスに上がっているという「噂」が立っていた。そして2007/4/15のJWP後楽園ホール大会で、ECO対コマンド・ボリショイ対闘獣牙Leonのマスカラ・コントラ・マスカラ・3WAYマッチが行われ、ECOが敗戦。ECOがマスクを脱ぎ、正体が青野敬子であることが明かされた。

素顔に戻った後も青野はJWP所属としてリングに上がり、2007/5/13にはリングネームを蹴射斗に改めた。

2010/9/19を以ってJWPを退団。再びフリーとなる。

2011年、井上京子が社長を務めるワールド女子プロレス・ディアナの旗揚げに参加。同時にリングネームを本名に戻す。

所属

  • LLPW(1994年 - 2004年)
  • フリーランス(2004年 - 2007年)
  • JWP女子プロレス(2007年 - 2010年)
  • フリーランス(2010年)
  • ディアナ(2011年 - )





伊東 竜二 
1976/4/8

日本のプロレスラー。通称「デスマッチドラゴン」。大日本プロレスを主戦場としつつ、地元日本のアパッチプロレス軍、WMF、DDTプロレスリング、米国のIWAミッドサウス、IWAイーストコースト、チカラなど、数多のプロレス団体のマットを舞台に活動してきた。

経歴

大日本プロレス入団

高校時代はボクシングに勤しんだ。茨城大学工学部を中退し、1999年、大日本プロレスに入団。同年の4/29に行った葛西純相手の試合でデビュー。

2003年からデスマッチの第一線で戦うようになり、8月には金村キンタローからBJW認定デスマッチヘビー級王座を奪取。デスマッチ参戦からわずか3か月の快挙を達成した。以来このタイトルを保持し続けたが、2005年の12月にアブドーラ小林に敗れたことでこれを失った。

2005年の6月にタイトルマッチで対戦した佐々木貴とタッグを結成。アパッチプロレス軍の対立派閥「たかし軍団」にも参加していた。チーム名は一時期募集していたが、該当なしという結果に終わり、チーム名なしのまま活動を続けている。その時の候補は、「竜二と貴」・「ドラゴン&バキューン」であった。

故障離脱とベルト返上

2006/9/10の大会で佐々木貴の持つBJWデスマッチヘビー級ベルトに挑戦。前年とは逆の立場で、同じ会場での対戦となったが、見事佐々木貴を下し第19代王者となった。しかし試合中にケージとラダーを組み合わせた4メートル近い高所からのドラゴンスプラッシュの失敗により左月状骨周囲脱臼、右橈骨幹部骨折など大怪我を負い即入院。手術は成功したが長期欠場を余儀なくされる。これについて『デスマッチのチャンピオンが興行に出ないのはおかしいし、何よりもデスマッチファイターは怪我をしてはいけないという自分の考えを守り切れなかった。不甲斐無い気持ちでいっぱいです。このベルトを狙うデスマッチファイターには申し訳ないですが自分のわがままで返上させていただきます』との見解を示し、ベルトの返上を申し出た。

後のインタビューで、ドラゴンスプラッシュの失敗は、ラダーが組み合わされたケージ上部の蓋が踏み切りの瞬間に開いてしまい、バランスを崩して落下したのが原因であったと語った。ケージは組立と解体を容易にするため、完全な固定式ではなく、はめ込み式となっていた。

次期挑戦者候補として葛西純が挙がっていた。前に伊東がベルトを獲得して以降、葛西の名前を常に挙げ続け、当時ZERO-ONEに所属していた葛西がアパッチプロレス軍へ移籍し、大日本へ復帰した理由も、大日本で伊東とのタイトルマッチをやりたいからと公言している。

復帰

2007年の2月に行った記者会見にて、3/14の後楽園ホール大会で復帰戦を行うことを表明。同大会のボブワイヤーボードデスマッチで復帰を果たした。

2008年には米国のウェストバージニアへと赴いたうえでIWAイーストコーストのデスマッチ選手権―マスターズ・オブ・ペインに初参戦。ドレイク・ヤンガーとダニー・ハボックを下して勝ち進むも、決勝戦の蛍光灯ガラステーブルデスマッチでサムタック・ジャックに下され敗退した。この年にはフィラデルフィアへと赴いたうえでチカラの『グローバル・ガントレット』という大会に参戦することにもなった。

2009年5月の大日本プロレスの大会にて、割れた蛍光灯が背中に深く刺さり皮膚が抉れてしまうという重傷を負い、入院・欠場に追い込まれた。そのため、決勝進出が決定していた「最侠タッグリーグ戦」も欠場となり、竹田誠志&木高イサミ組が決勝へ進出、優勝した。

年間最高試合賞受賞

6/29の後楽園ホール大会にて試合復帰を果たした。

11/20の大会でカミソリ十字架ボードを用いたデスマッチを葛西純と敢行。敗れはしたものの、この試合そのものが高い評価を獲得し、この試合がこの年のプロレス大賞における年間最高試合賞を受賞する運びとなった。デスマッチがこの賞に選ばれたのは、1990年の大仁田厚対ターザン後藤の電流爆破デスマッチ以来19年ぶりのことであった。

その翌2010年にあっては、大日本プロレスの5/4の大会において、200本の蛍光灯を用いた金網デスマッチで宮本裕向を破り、第25代目のBJW認定デスマッチヘビー級王者となった。

戴冠歴

  • BJW認定デスマッチヘビー級王座×4
  • WEWハードコアタッグ王座×1
  • BJW認定タッグ王座×1
  • KO-Dタッグ王座×1

テーマ曲

  • THE THEME OF MORTAL KOMBAT / モータルコンバット(サントラ)
  • 龍の道(現在使用中)

その他

2001年に大日本プロレスのレフェリーである李日韓と入籍。プロレスラーとレフェリーのカップルとして話題を博し、バラエティ番組(キスだけじゃイヤッ!)にも取り上げられた。

MARS SIXTEENのデザイナー榮菟が2005年からグッズを含む全てのアートワークを行っている。

大日本プロレスの別ブランドにあたる横浜プロレスでは、「オリエンタル・ドラゴン」という名のマスクマンとして、佐々木貴扮する「ウエスタン・タイガー」と共に活動している。

  

















 
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