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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/10


 
 


 
 

アンジェロ ボッフォ
John Angelo Poffo
1925/4/10 – 2010/3/4

”マッチョマン”ランディ・サベージ、ラニー・ポッフォ(ザ・ジニアス)の父。
国際プロレス
金網デスマッチ
1971/3/2 東京体育館
○ラッシャー木村(KO、22:17)ザ・クエッション(アンジェロ・ボッフォ)●

日本プロレス
第10回ワールドリーグ公式戦
1968/4/10 八戸市体育館
アントニオ猪木(8分51秒コブラツイスト)アンジェロ・ボッフォ

 
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クルト・フォン・ヘス 
Kurt Von Hess
1942/4/10 - 1999/3/13

カナダのプロレスラー。オンタリオ州ハミルトン出身。本名はウィリアム・E・テリーWilliam E. Terry)、通称ビル・テリーBill Terry)。

全盛時はナチ・ギミックのドイツ系ヒールとなって、カナダを主戦場に活躍。日本でも昭和期の各団体に参戦し、主にタッグ・プレイヤーとして実績を残した。

来歴

1968年、地元オンタリオのトロントを本拠とするメープル・リーフ・レスリング(フランク・タニー主宰)にて、ビッグ・ビル・テリーのリングネームでデビュー。その後、ナチ・ギミックのクルト・フォン・ヘスに変身し、カルガリーのスタンピード・レスリングに参戦。1971年末に同地区のメインタイトルである北米ヘビー級王座を獲得し、翌1972年2月にキラー・トーア・カマタに敗れるまで保持した。

1972年より、モントリオールにて同じギミックのカール・フォン・ショッツ(ジョン・アンソン)とタッグチームを結成。ザ・シークが牛耳っていたアメリカのNWAデトロイト地区にも進出し、同年12月にザ・ストンパー&ベン・ジャスティスからデトロイト版のNWA世界タッグ王座を奪取、以降1974年にかけて、ショッツとのコンビで同王座を再三獲得した。1974年5月には新日本プロレスに揃って初来日している(後述)。なお、ヘスとショッツのタッグチームは、日本では「戦犯コンビ」と呼ばれた。

コンビ解散後、ヘスはビッグ・ジョン・クイン、ショッツはリングネームを本名のジョン・アンソンに戻してドン・レオ・ジョナサンを新パートナーに、1976年にバンクーバー地区でカナディアン・タッグ王座を争っている。以降はシングル・プレイヤーとなって各地を転戦し、アラバマ地区では1977年にガルフ・コースト・ヘビー級王座を2回獲得。ミッドサウスのトライステート地区では、1978年に当時のドイツ系ヒールの新鋭ジークフリート・スタンキーと組み、レイ・キャンディ&スティーブン・リトルベアからルイジアナ・タッグ王座を奪取した。1980年代初頭は、テネシー州メンフィスのCWAに登場している。

キャリア晩年は古巣のトロント地区(メープル・リーフ・レスリング)に定着し、同地区と提携する各メジャー団体にもベテランのジョバーとして出場。1983年はNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)にてNWA世界ヘビー級王者のリック・フレアーと対戦。同年12/6にはWWFでレネ・グレイと組み、当時のWWFタッグ王者チームのロッキー・ジョンソン&トニー・アトラスと対戦するなど、チャンピオン・クラスの大物選手のジョバーを務めた。1984/1/8にはバズ・ソイヤーの代打として、トロントにてロディ・パイパーとドッグ・カラー・マッチを行っている。

1986年に腎臓病を患い現役を引退。6年以上に及ぶ人工透析を受け、1996年に臓器移植を行ったものの、1999年3月13日、心臓発作により故郷のハミルトンにて死去。享年56歳。

日本での活躍

初来日は1974年5月、カール・フォン・ショッツと共に「NWA北米タッグ王者チーム」として新日本プロレスに参戦している(初代王者チームのパット・パターソン&ジョニー・パワーズを破り、戴冠したとされる。当初はNWFの世界タッグ王者チームとして来日する予定だった)。6/7の札幌大会でアントニオ猪木と坂口征二の黄金コンビの挑戦を退けタイトルをアメリカに持ち帰るも、8/16にロサンゼルスにて猪木&坂口に敗れて王座から陥落。以降、北米タッグ王座は新日本に定着した。

再来日は1977年2月、国際プロレスの『第6回IWAワールド・シリーズ』。同シリーズではシングルのリーグ戦と並行してIWA世界タッグ王座を賭けたタッグ・トーナメントが行われ、ヘスはバンクーバーでもタッグを組んでいたビッグ・ジョン・クインとのコンビで出場。3/25の横浜大会でアニマル浜口&寺西勇を破って優勝しタイトルを獲得したが、翌26日のシリーズ最終戦(東京・蔵前国技館大会)でグレート草津&浜口に敗れ、1日天下に終わった。国際には翌1978年にも参戦し、5/2にマスクド・インターン(トム・アンドリュース)と組んで草津&浜口のIWA世界タッグ王座に挑戦している。

1979年1月には新日本プロレスに再登場。2/25に札幌にてボブ・ループとのコンビで坂口&ストロング小林の北米タッグ王座に挑むも、タイトル奪回は果たせなかった。

1980年8月には全日本プロレスに初参戦。シリーズ中に行われた『PWF杯争奪タッグ・トーナメント』にカール・フォン・スタイガーと組んで出場、1回戦でマスカラス・ブラザーズ(ミル・マスカラス&ドス・カラス)に敗退している。全日本には1982年5月にも来日し、前年のレスリング・ウォーにより新日本から移籍してきたタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンのタッグ・パートナーを務めたが、体力的な衰えは隠せず、これが最後の来日となった。






ポール・ベアラー
Paul Bearer
1954/4/10

本名:ウィリアム・アルヴィン・ムーディ / William Alvin Moody)は、アメリカ合衆国のプロレスリング・マネージャー。アラバマ州モービル出身。

WWEにおけるジ・アンダーテイカーのマネージャーとして知られる。

来歴

1974年、地元アラバマのガルフ・コースト地区にてプロレスラーとしてデビュー。当時は覆面を被り、ミスターXMr. X)などのリングネームでジョバーを務めていた。その後レスラーを廃業してアメリカ空軍に入隊。1976年の除隊後に、葬儀ディレクターの資格を取得している。

1977年よりプロレス界に復帰し、パーシー・プリングル3世Percy Pringle III)を名乗りヒールのマネージャーに転身。1979年6月には、ザ・モンゴリアンズのマネージャーとして国際プロレスに初来日した。

1980年代前半はプロレスリング・ビジネスを離れ葬儀業に専念していたが、1985年よりフルタイムのマネージャー業に復帰。以降1980年代全般に渡り、ダラスのWCCWやフロリダのCWFなど南部のNWA圏を中心に活動。WCCWでは若手時代のアルティメット・ウォリアー(当時ディンゴ・ウォリアー)やスティーブ・オースチン、そして覆面レスラーのザ・パニッシャーを名乗っていたマーク・キャラウェイのマネージャーも務めた。

1991年、ブラザー・ラブに代わるジ・アンダーテイカーの新しいマネージャーとしてWWFと契約。アンダーテイカーのギミックに合わせ、骨壺を手に喪服を着た白塗りの従者という、副業の葬儀業をデフォルメしたスタイルのポール・ベアラーPaul Bearer)に変身する。トークの才能を活かし、フューネラル・パーラーThe Funeral Parlor)なるインタビュー・コーナーも担当した。

翌1992年、共闘していたジェイク・ロバーツとの仲間割れを機に揃ってベビーフェイスに転向。以降、アンダーテイカーとの怪奇派コンビでニュージェネレーション期に入った1990年代のWWFを支えた。1996年からはアンダーテイカーを裏切ってヒールターンし、ベイダー、マンカインド、ケインらをマネージメントしてアンダーテイカーとの抗争に臨んだ。異父兄弟という設定のアンダーテイカーとケインの抗争アングルでは、ベアラーはケインの実父であり、アンダーテイカーの母親に彼を産ませたというサイドストーリーも設けられた。

1998年10月にアンダーテイカーがヒールターンすると彼とのコンビを復活させ、1999年には怪奇派ユニットのミニストリー・オブ・ダークネスMinistry of Darkness)を編成。ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、ザ・ロック、D-ジェネレーションXらアティテュード期のWWFスーパースターズと抗争を繰り広げた。

2000年からはロード・エージェントやステージ・マネージャーなどの裏方業務も担当。2002年の契約満了後はTNAに登場したが、ジム・ロスの要請で2004年よりWWEと再契約。アメリカン・バッド・アス路線からデッドマンのギミックに戻ったアンダーテイカーのマネージャーを務めた。

2007年にWWEを離れ、ホームタウンのガルフ・コーストで葬儀サービス事業を手掛けつつ、インディー団体へのスポット出場を続けた。一時期はかなりの肥満体だったものの、近年は110kg程度まで減量することに成功した。

2010/9/21収録のスマックダウンにおいて短期間ながらWWEに復帰。ケインと抗争中のアンダーテイカーのマネージャーとして登場したが、10/3のPPV『ヘル・イン・ア・セル2010』にてアンダーテイカーを裏切りケインと再合体した。

エピソード

  • 1979年6月の国際プロレス来日時は東京サミットの開催時期でもあり、成田空港では厳戒態勢が敷かれていたため、不審人物として入国審査に引っ掛かったことがある。空港から彼の身元について問い合わせを受けた国際プロレスは、サミット終了までの日程と宿泊先を提出させられたという。当時のリングアナウンサーだった飯橋一敏(現プロレスリング・ノア)は、「それだけ怪しい男だった」と述懐している。

担当選手

パーシー・プリングル3世
  • ザ・モンゴリアンズ / ザ・サモアンズ(タプー・サモア、ティオ・サモア)
  • シュガー・ベア・ハリス
  • オキ・シキナ(サパタ・マルチネス)
  • ファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ、テリー・ゴディ)
  • ブラックジャック・マリガン
  • ザ・スポイラー
  • ザ・グレート・カブキ
  • バズ・ソイヤー
  • マット・ボーン
  • ディンゴ・ウォリアー
  • ミッシング・リンク
  • リック・ルード
  • ジェシー・バー
  • プリティ・ヤング・シングス(ココ・B・ウェア、ノーベル・オースチン)
  • アブドーラ・ザ・ブッチャー
  • ハーキュリーズ・ヘルナンデス
  • レックス・ルガー
  • キング・パーソンズ
  • ザ・パニッシャー
  • スティーブ・オースチン
ポール・ベアラー
  • ジ・アンダーテイカー
  • ベイダー
  • マンカインド
  • ジ・エクスキューショナー
  • ケイン
  • ミニストリー・オブ・ダークネス
    • ジ・アコライツ(ファルーク、ブラッドショー)
    • ミディオン
    • ヴィセラ
    • ザ・ブルード(ギャングレル、エッジ、クリスチャン)





ペドロ高石
1966/4/10

日本のマッスルを中心に活動していたカポエイラ選手兼プロレスラー。本名は高石 一哉。マッスル解散後は、地下プロレスや頑固プロレスに準レギュラー参戦。20年後のマッスル11に向けて、ペドロ2世の育成(育児)に情熱を注ぐ。

経歴・戦歴

  • 2001/8/19、第8回全日本総合格闘技大会の総合格闘技無差別級トーナメントに出場し、4位となった。
  • 2001年9月、闘龍比祭に出場。(結果3位)
  • 2002年、ジャッキー・リン&チェリー戦でプロレスデビュー(パートナーは佐野直)。
  • 2004年真陰流トーナメント出場、準決勝で桜木裕司に1R2分KO負け。
  • 2004年10月13日、北沢タウンホールにおける「マッスル」に自己実現のために初参加。
  • 2005/12/16、リアルジャパンプロレスの掣圏真陰流トーナメントに出場。細江俊裕(截空道総本部)に1R2分42秒でTKO負け。
  • 2006/1/28、格闘技大会「W-カプセル」に出場。高森啓吾と総合格闘技ルールで対戦。1R17秒鉄槌連打によるKO負け。
  • 2007/9/5、マッスル15においてMr.マジックとのコンビで、2人の年収を合わせて命名された「2000万マネーズ」を結成する。

特記

  • 戸田市スポーツセンターにおいてカポエイラ練習会を17年間主宰している。
  • ダンスユニット「ペドロカポエイラ」を率い、

 ストリートダンスイベントや即興演劇イベントで、パフォーマンスしている。

  • カポエイラの経験によってポルトガル語ができることからアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラの通訳を務めていた。
  • 日産カップのソロダンス部門で優勝したことがある。
  • 筑波大学で、健康教育学を学び、東京大学でスポーツ科学の研究員をしていた。
  • ファイナンシャル・プランナーの資格者で、平日は生命保険会社で所長をしている。
  • サルサが好きで、オルケスタ・デ・ラ・ルスの「キッスは目にして」のPVで踊っている。
  • 登山とプロレスが好きで、富士山頂プロレス(2010年8月29日)に出場し、週刊新潮のグラビアに出た。
  • 映画「漂流街」に日系ブラジル人のカポエイリスタとして、出演した。
  • 大学1年の時に筑波万博の紹介番組EXPOスクランブルで、ネルトン教のボディガード(とんねるずの舎弟)をしていた、衣装は自前の穴の開いたビキニの海パンだけだった。
  • 2006年夏に岩手県一関市で火事に遭遇、老婆を救助。2007年夏にJR秋葉原駅で線路に落ちた紳士を救助。

入場曲

  • 「Zoom-Zoom-Zoom」(Serepis Bey)

  

















 
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