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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/14


 
 


 
 

ジェシー・バー
Jesse "Bulldog" Barr
1959/4/14

本名:Ferrin Barr, Jr.は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ユタ州ソルトレイクシティ出身。

WWFにおけるカウボーイ・ギミックのヒール、ジミー・ジャック・ファンクJimmy Jack Funk)またはJ・J・ファンクJ.J. Funk)のリングネームでも知られる。

オレゴン地区のプロモーターとしても活動した父親のサンディ・バー、メキシコのAAAにてラブ・マシーンのリングネームで活躍した実弟のアート・バーも元プロレスラーである。

来歴

1980年3月、オレゴン州ポートランドを拠点とする太平洋岸北西部のPNWPacific Northwest Wrestling)にてデビュー。1984年よりフロリダ地区にて若手のヒールとして活動し、スコット・マギーやブライアン・ブレアーと抗争。1985/4/16にはリック・ルードと組んでジェイ・ヤングブラッドとマーク・ヤングブラッドの兄弟チームからUSタッグ王座を奪取した。同年11月、ハーリー・レイスのパートナーに起用されて全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に初来日。帰国後もフロリダを主戦場に、1986/1/15には新人時代のレックス・ルガーからNWA南部ヘビー級王座を獲得している。

1986年4月、負傷したテリー・ファンクに代わるホス・ファンク(ドリー・ファンク・ジュニア)の新パートナーとして、ジミー・ジャック・ファンクのリングネームでWWFに登場。ジミー・ハートをマネージャーに、ローン・レンジャー風の覆面をつけたカウボーイ・スタイルのラフファイターに変身し、ファンク・ファミリーの末弟を名乗った。ドリーの離脱後はシングルプレイヤーとなってジョバーを務め、1987年1月3日放送(1986年12月14日収録)のサタデー・ナイト・メイン・イベントではブラックジャック・マリガンとのカウボーイ対決も行われた。

WWF退団後もジミー・ジャック・ファンクの名義を用い、フリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWに参戦。1987年11月2日には、WCCWと提携していたテネシー州メンフィスのCWAにてジェフ・ジャレットからミッドアメリカ・ヘビー級王座を奪取した(同王座は、若手時代の1982年11月にもダッチ・マンテルを破り獲得している)。その後はリングネームをジェシー・バーに戻し、1989年からはマネージャーのスカンドル・アクバとの仲間割れを機にベビーフェイスに転向、クリス・アダムスと組んでアイスマン・パーソンズ&ブリックハウス・ブラウンの黒人チームなどと抗争した。

1990年にWCCWが活動を停止すると古巣のPNWに復帰し、弟のアート・バーとのタッグで活躍。1992/1/19にはブルーズ・ブラザーズ(ロン・ハリス&ドン・ハリス)を破り、パシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を獲得した。同年8月、PNWの後継団体であるCWUSAChampionship Wrestling U.S.A. )を父親のサンディ・バーと共に設立。同時期に剛竜馬が旗揚げした日本のオリエンタルプロレスと提携し、剛のタッグ・パートナーとして度々来日した。CWUSAは1997年6月まで活動を続けた。

獲得タイトル

  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:2回
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / リック・ルード)
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
  • CWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:2回
  • WCCWテキサス・タッグ王座:1回(w / ハリウッド・ジョン・テータム)
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:1回(w / アート・バー)
  • CWUSAインターナショナル・タッグ王座:2回(w / 剛竜馬)

 
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島田信行
1962/4/14

日本の格闘技トレーナー。岡山県津山市出身。

2000年にボクシングトレーナーとして第11回「エディ・タウンゼント賞」を受賞しているが、日本ボクシングコミッション(JBC)がボクシング以外のプロ格闘技との兼業を禁じているため、総合格闘技のトレーナーがメインの現在はJBCのライセンスは返上している。

島田信行が育てたボクサー

世界チャンピオン

  • 辰吉丈一郎

日本チャンピオン

  • グレート金山
  • 越本隆志
  • 本田秀伸
  • 興梠貴之
  • 湯場忠志





ブライアン・アダムス
Brian Adams
1963/4/14 - 2007/8/13

アメリカ合衆国のプロレスラー。ハワイ州カイルア・コナ出身。新日本プロレスの練習生を経て、WWE、WCWで活躍した。

来歴

アメリカ空軍の隊員として日本の横田基地に配属されていた際、新日本プロレスの試合を見てプロレスラー転向を決意。除隊後の1986年、かねてからの希望通りに練習生として新日本への入門を果たすが、ビザの関係で日本でのデビュー戦を行うことはできなかった。この練習生時代に武藤敬司主演の映画 『光る女』(相米慎二監督)に敵役で出演している。

帰国後、オレゴン州のPacific Northwest Wrestling(PNW)にて1987年にデビュー。日本でトレーニングを積んでいたことから、ジ・アメリカン・ニンジャなるニックネームが与えられる。新日本に来日経験のあるザ・グラップラーとのタッグチーム "レッキング・クルー" で活躍し、1989年にパシフィック・ノースウエスト(PN)タッグ王座を奪取。シングルでもPNヘビー級王座を獲得した。

この間、1988年にマスクマンのミッドナイト・ソルジャーとして新日マットに逆上陸している。元練習生であったアダムスの実質日本デビューであるにもかかわらず、素顔ではなくマスクマンとしてリングに上げたことに一部で批判もあった。1989年には素顔で全日本プロレスに参戦。目立った活躍はなかったがTVマッチに出た際、解説のジャイアント馬場が「この選手は基礎がしっかり出来ていますね」などとべた褒めしており、新日練習生だった片鱗を見せた。

WWF

1990年4月、体調不良でセミリタイアすることになったデモリッションのチームリーダー、アックス(マスクド・スーパースター、ビリー・クラッシャー)の交代要員として、デモリッション3人目のメンバー、クラッシュを名乗りWWF(現・WWE)に登場。タイトルをアックスから譲り受け、スマッシュ(クラッシャー・クルスチェフ、リポマン)とのコンビでWWFタッグ王座にも載冠している[1]。同年夏にリージョン・オブ・ドゥーム(LOD)がWWFに移籍してくると、アルティメット・ウォリアーも巻き込んで派手な軍団抗争を展開した。1991年のレッスルマニア7では、天龍源一郎、北尾光司組と対戦している。

デモリッション解散後の1991年下期には、WWF時代と同じリングネーム、コスチューム、キャラクターで古巣のPNWに転戦。PNヘビー級王座を再度獲得している。1992年からはベビーフェイスのシングルプレーヤーとしてWWFと再契約。ニックネームをコナ・クラッシュに、ハワイのサーファーをキャラクターとした爽やか路線で売り出した。その後、ヒールに転向してランディ・サベージらと抗争を展開したものの、1995年3月、ステロイド剤の購入とスタンガンの不法所持で逮捕投獄され、それがもとでWWFを解雇されてしまう。

しかし1996年、弁護士を名乗るクラレンス・メイスンをマネージャーに「執行猶予処分」という設定のもと、実生活上のトラブルをギミックに取り入れた形でWWFに復帰。ストリートギャング風のキャラクターに変身し、ファルークが結成した黒人至上主義団体・ネーション・オブ・ドミネーション(NOD)(モデルはマルコムXの影響下にあったブラックパンサー党)に加入。白人でありながらファルークのボディーガードとして悪名を轟かせ、同時期にWWFと再契約したLODやアーメッド・ジョンソンらと抗争を繰り広げた。

ファルークと仲間割れした1997年には、ディサイプルズ・オブ・アポカリプス(DOA)というバイカー系のユニットを結成。PNW時代の抗争相手でもあったスカル&8ボール(ブルーズ・ブラザーズ)、チェインズ(ブライアン・リー)をメンバーに、リーダーとして活躍した。

WCW〜WWE復帰

WWF離脱後はWCWに移籍。リングネームを本名に戻し、nWoハリウッドのメンバーに加入、ハルク・ホーガンのパートナーになったこともある。また、1998年にはnWoジャパンのメンバーとして来日した。

その後はキッスとのコラボレーションで生まれたザ・デーモンへの一時的な変身を経て、2000年にブライアン・クラークとクロニック(KroniK)を結成。WCW世界タッグ王座を2度獲得したが、ダーク・カーニバル(グレート・ムタ&バンピーロ)にタイトルを奪われてからは王座に返り咲くことはなかった。以降はナチュラル・ボーン・スリラーズとの抗争などが組まれるも、負けブックが多くなっていた。途中クラークが負傷したためシングルで戦っていたが、自身も虫垂炎を患い、以後クロニックがWCWに登場することはなかった。

WCW崩壊後はWWEの契約選手には入れず、プロゴルファーへの転身も噂されたものの、2001年9月にスティーブン・リチャーズの用心棒としてクラークと共にWWEに復帰。ジ・アンダーテイカーのバイクを攻撃して喧嘩を売り、同月に行われたアンフォーギヴェンでアンダーテイカー&ケインのWCWタッグ王座に挑戦した。しかし、これが大凡戦となり、WWEからディベロップメント契約(下部団体での再調整)への条件変更を要請される。クラークはその条件に不満を持ち退団。アダムスは下部組織のHAWで活動することになったが、すぐに解雇された。

日本での活動〜引退

解雇後は、2002年7月に全日本プロレスに登場。武藤敬司&太陽ケアが持つ世界タッグ王座にいきなり挑戦し、なんと奪取にまで成功する。この試合はクロニックの生涯のベストバウトとも言われる好試合であった。その後全日の外人エースの主導を奪うため、マイク・バートン、ジム・スティールと対戦するなどするが、クロニックは精彩を欠いた。その後アダムスはプロボクサーに転向(結局、実現せず)のためにクロニックは解散することになった。

2003年1月、WRESTLE-1にクロニックとして一夜限りの復活参戦。しかしこの試合も酷評され、その後アダムスは背中と肩の怪我のため引退することになった。引退後は、ラッパーとしても活動しているランディ・サベージのボディーガードを務めた。

死去

2007年8月13日、自宅のベッドで意識がなく倒れているところを妻が発見し、救急隊員が駆けつけるも死去していた。44歳没。

獲得タイトル

PNW
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:2回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:2回(w / ザ・グラップラー、スティーブ・ドール)
WWE
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / アックス&スマッシュ)
WCW
  • WCW世界タッグ王座:2回(w / ブライアン・クラーク)
全日本プロレス
  • 世界タッグ王座:1回(w / ブライアン・クラーク)





アダム・ボム/クロニック
Adam Bomb/KroniK
1964/4/14

ブライアン・クラーク(Bryan Clark)アメリカ合衆国のプロレスラー。ペンシルベニア州ハリスバーグ出身。

来歴

1990年、ザ・ナイトストーカーThe Nightstalker)のリングネームでAWAの提携団体CCWにてデビュー。AWAが活動停止すると、しばらくジム・コルネットのSMWに参戦する。

1993年にWWF(現・WWE)と契約。アダム・ボムと名乗り活躍する。リング上でポーズを構えると、バックでキノコ雲が噴煙するというド派手なパフォーマンスで客を沸かせていた。ヨーロッパ遠征などではジ・アンダーテイカーに次ぐ人気があったという。スター候補としてWWFからもプッシュされるが、レスリングテクニックが稚拙だったこともありチャンスをモノにすることができず退団。また、キノコ雲のパフォーマンスが批判を浴び、途中で中止になっている。

1997年にWCWに新天地を移す。怪奇系ギミックのラスWrath)として活動するが、特に目立った活躍はできず、途中で怪我をしてしまったこともあり、ここでもチャンスを生かせなかった。

2000年に、ブライアン・アダムスと共にクロニックを結成。タッグ結成後すぐに2度のタッグ王座となるなど活躍するが、ダーク・カーニバル(グレート・ムタ&バンピーロ)にタイトルを奪われてからは王座に返り咲くことはなかった。若手ユニットのナチュラル・ボーン・スリラーズとの抗争などもあったが、負けの方が多くなっていた。そんな中、クラークはまた怪我をし、アダムスは虫垂炎とことごとくチャンスをダメにし、結局アダムスの虫垂炎になったと同時にその後クロニックはWCWで試合することがなかった。

WCW崩壊後はWWEの契約リストには名前がなくしばらく消息は絶っていたが、2001年9月にスティーブン・リチャーズの用心棒として現れ、アンダーテイカーのバイクを攻撃し喧嘩を売った。そして、同月に行われたアンフォーギヴェンでテイカー&ケインのWCWタッグ王座に挑戦。しかし、これが大凡戦となってしまい、WWEからディベロップメント契約(下部団体でやり直し)を要請される。クラークはその条件に激怒しWWEをそのまま退団。アダムスだけは下部組織のHAWで活動することになったが、彼もその後すぐに解雇されてしまう。

2002年7月に全日本プロレスに登場。武藤敬司、太陽ケア組が持つ世界タッグ王座にいきなり挑戦し、なんと奪取にまで成功する。この試合はクロニックの生涯のベストバウトとも言われる好試合であった。その後全日の外人エースの主導を奪うため、マイク・バートン、ジム・スティールと対戦するなどするが、クロニックは精彩を欠いた。それからしばらくし、アダムスがボクサーに転向のためにクロニックは解散することになった。

2003年1月のWRESTLE-1に一夜限りの復活なのか参戦する。しかしこの試合も各雑誌で酷評される。

2006年に古傷である背中の手術を受けている。

獲得タイトル

SMW
  • ビート・ザ・チャンプ TV王座:1回
WCW
  • WCW世界タッグ王座:2回(w / ブライアン・アダムス)
全日本プロレス
  • 世界タッグ王座:1回(w / ブライアン・アダムス)

  



ジェフ・ジャレット
Jeff Jarrett
1967/4/14

アメリカ合衆国のプロレスラー。ダブルJDouble J)のニックネームを持つ。テネシー州ナッシュビル出身、TNA所属。父親のジェリー・ジャレットとともにTNAを創設した人物でもある。

来歴

1986年4月、父ジェリー・ジャレットがジェリー・ローラーと共同で主宰していたテネシー州メンフィスのCWAにてデビュー。ベビーフェイスのアイドル系レスラーとして売り出され、テキサス州ダラスのWCCW(WCWA)にも参戦してケリー・フォン・エリックともタッグを組んだ。1989年にCWAと同団体が合併してUSWAが発足すると主力レスラーとして活躍。1991年10月にはSWSに初来日し、佐野直喜と好勝負を展開した。

1993年、USWAとWWF(現・WWE)の業務提携に伴い、ヒールとしてWWFに登場。WWFではザ・ローディーことブライアン・ジェイムスを付き人役に、カントリー・ミュージシャンのギミックが与えられる。1995/1/22のロイヤルランブルでは、レイザー・ラモンを破りインターコンチネンタル王座を獲得。以降もボブ・ホーリー、ショーン・マイケルズ、アーメッド・ジョンソンらと王座を争った。

1996年にWCWへ移籍。同スタイルのリック・フレアーと共闘しフォー・ホースメンの客分的存在として活動するも、1997年にWWFへ戻った。

WWF復帰当初はカントリー・ミュージシャンのギミックを継続させるが、1998/8/30のサマースラムにてXパックとの髪切りマッチに敗れ、ブロンドの長髪を失ったことを機に、その逆恨みで誰構わず髪の毛を切り落とそうとする傍若無人なキャラクターに変身。"Don't Piss Me Off" を決め台詞に、WCWで一緒だったデブラをマネージャーに従え、オーエン・ハートとのタッグやチャイナとの抗争などで活躍した。1999/10/17、PPV『ノー・マーシー』でジャレットはチャイナに敗れ、当時保持していたIC王座を失う(チャイナが女性初のIC王者となった)。その日をもってWWFを退団し、翌10/18にRaw is Warの裏番組『WCWマンデー・ナイトロ』へ出演、WCWへの再度の電撃移籍を決行した。

移籍後の12/20にはクリス・ベノワからWCW USヘビー級王座を奪取。2000年からはnWo2000の一員としても活動した。WCW世界ヘビー級王座もダイヤモンド・ダラス・ペイジやリック・フレアーらを下し通算4回獲得。以降、2001年の消滅までWCWに在籍した。

WCW崩壊後はオーストラリア・ブリスベンのWWAを経て、2002年に父ジェリーと共同でTNAを設立(設立時はNWA-TNA)。自身がブッカー兼務の主力レスラーとなり、NWA世界ヘビー級王座やTNA世界ヘビー級王座戦線で活躍している。

WCW崩壊時には、WWFのPPV翌日にWCWへ移籍した経緯からビンス・マクマホンに眼の仇にされ、「ジャレットだけは使わない」とまで言われた。近年WWEより発売されたDVD『Rise & Fall of WCW』の中でも、「ジャレットはギターを6000個も壊し、客も呼べないのに、自分がホーガンより大物と思っていた勘違い男」などと非難されている。しかし、そのことが逆にジャレットの商品価値を高め、TNAを全米第2の団体に成長させる一因ともなった。

獲得タイトル

TNA
  • NWA世界ヘビー級王座 : 5回
CWA
  • AWA南部タッグ王座 : 4回(w / ビリー・ジョー・トラビス×3、パット・タナカ)
  • NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座 : 5回
  • CWAヘビー級王座 : 1回
  • CWAインターナショナル・タッグ王座 : 2回(w / パット・タナカ、ポール・ダイヤモンド)
WCCW(WCWA)
  • WCWAライトヘビー級王座 : 2回
  • WCWAタッグ王座 : 3回(w / ケリー・フォン・エリック、マット・ボーン、ミル・マスカラス)
USWA
  • USWAユニファイド世界ヘビー級王座 : 3回
  • USWA南部ヘビー級王座 : 10回
  • USWAタッグ王座 : 14回(w / ブライアン・クリストファー×2、コーディ・ウィリアムス、ジェフ・ゲイロード×2、ジェリー・ローラー×4、マット・ボーン×2、ロバート・フラー×3)
  • USWA西部タッグ王座 : 1回(w / ロバート・フラー)
WWF
  • NWA北米ヘビー級王座 : 1回(ジム・コルネットがWWFに持ち込んだインディー版タイトル)
  • WWFインターコンチネンタル王座 : 6回
  • WWFヨーロピアン王座 : 1回
  • WWF世界タッグ王座 : 1回(w / オーエン・ハート)
WCW
  • WCW世界ヘビー級王座 : 4回
  • WCW USヘビー級王座 : 3回
NWAサイバースペース
  • NWAサイバースペース・ヘビー級王座 : 1回
PCW
  • PCW USヘビー級王座 : 1回
WSW
  • WSWヘビー級王座 : 1回
WWA
  • WWA世界ヘビー級王座 : 2回





植松 寿絵
1974/4/14

日本の女子プロレスラー。静岡県富士宮市出身。

デビューしたGAEA JAPANの解散以降、フリーランスとして各団体に出場し、年間100試合以上をこなす。体の小ささを技術で補う技巧派・職人タイプのレスラー。前髪を立ててツノのようにし、目や口にペイントを施した出で立ちで試合を行う。トリッキーな動きや対戦相手を挑発するような動きで観客を沸かせる。

プロレスリングWAVEでは選手の他にコーチとしての役割も果たし、WAVE所属以外の練習参加を希望する選手も含めて、植松独自の方法で若手選手への指導を行っている。

また最近では表現力を学ぶ一環として舞台にも出演している。

所属

  • GAEA JAPAN(1994年 - 2005年)
  • フリーランス(2005年 - )
  • FEVER DRAGON NEO(2008年 - )ただし舞台出演の場合のみ。

経歴

1995年
  • 4/15、東京・後楽園ホールにおいて、対永島千佳世戦でGAEA JAPANでデビュー。時間切れ引き分け。
1996年
  • 5/11、東京・大田区体育館「第1回ジュニア・オールスター戦」において、チャパリータASARIと対戦、スカイツイスター・プレスで敗れる。
1997年
  • 4/4、アメリカ・WCWに遠征。WCW世界女子クルーザー級初代王座決定トーナメントに参戦。決勝でマリア・ホサカに勝利し初代王者となった。
2005年
  • 4/10、GAEA解散。以後フリーとしていろいろな大会に出場。
  • 4/25、M's一周年大会のワンデートーナメントのXとして、2回戦で栗原あゆみと対戦。
  • 8/7、M's「Mab〜夢を支配V〜」ワンデータッグトーナメントを輝優優とのタッグで優勝。
  • 9/18、東京・後楽園ホール(BRACE UP '05)において、輝優優と組んで、NEOマシンガンズ(タニー・マウス、宮崎有妃組)と対戦。スクールボーイで宮崎から勝利。
  • 11/20、M's「Mab〜夢を支配VIII〜」において、対アジャ・コング戦で勝利。
  • 11/27、東京・キネマ倶楽部において、闘牛・空と組んで、タニー・マウス、ウルティモ・モレノ組とマスカラ・コントラ・カベジェラで対戦。モレノのダイビングボディーアタックで敗れる。
  • 12/11、東京・後楽園ホール(STAND OUT)において、輝優優と組んで、NEOマシンガンズと対戦。タニーのミス・ミッコリで敗れる。
2006年
  • 1/9、東京・後楽園ホール(HOME COMING)において、宮崎有妃、さくらえみと3WAY戦。宮崎の外道クラッチで敗れる。
  • 7/2、「レディゴンまつり」において、輝優優と組んで、木村響子、闘牛・空組と対戦。丸め込みで空から勝利。
  • 8/27、東京・新宿FACE(M'sワンデータッグトーナメント)を輝優優とのタッグで優勝。
  • 9/10、新木場1stRING(“息吹”大会)において、吉田万里子と組んで、木村響子、チェリー組と対戦。吉田が足4の字固めで木村からギブアップ勝ち。その後沼津に直行し沼津プロレス旗揚げ戦に地元出身選手として参戦し大声援を浴びた。
  • 11/16 プロレスリングSUNでアメージング・コング率いるREM入りをした。
  • 11/17、東京・新宿FACE「第21回Ozアカデミー興行〜再会〜」において、永島千佳世と組んで、里村明衣子、加藤園子組と対戦。永島が裏足4の字固めで加藤からギブアップ勝ち。
2007年
  • 1/14、東京・後楽園ホールでのSUN「COLORS」にて行われたWDBタッグ王座決定戦にスティーブ・コリノと組んで参戦し、前村早紀・バンビ・キラー組を倒して第3代王者となった。
  • 4/5、東京・新木場1stRINGでのSUN「COLORS〜ココロはダイアモンド☆〜」にてWDBタッグ王座の防衛戦が行われ、挑戦者の\(^o^)/チエ・KUSHIDA組を破り初防衛に成功。
  • 7/8、東京・キネマ倶楽部でのJWP「Power up!!」にて行われたJWP認定タッグ選手権試合に輝優優と組んで挑戦し、阿部幸江・KAZUKI組を破って第27代JWP認定タッグ王者となった。
  • 8/12、東京・板橋グリーンホールでのJWP「Power up!!」にて行われたJWP認定タッグ選手権試合で初防衛に失敗、倉垣翼・春山香代子組が第28代王者となった。
  • 8/18、東京・後楽園ホールでのOZアカデミー「プラムの花咲くOZの国」に輝優優と出場し、この日復活を果たしたD-FIX(尾崎魔弓・KAORU)と対戦、随所で植松・輝らしさを見せたものの、復活で勢いのあったD-FIXに敗れる。
  • 8/26、東京・新木場1stRINGでのプロレスリングWAVE旗揚げ戦「Sail a way」に輝優優と出場し、この日約2年ぶりに膝の怪我から本格復帰を果たした桜花由美(パートナーは大向美智子)と対戦し、イス等を使ったシビアな攻撃で桜花選手の膝をあえて攻め立て、今までとは違ったヒールスタイルをWAVEのリングでは出していくことをアピール(試合は植松・輝組の勝利)。
  • 9/30、東京・ディファ有明での「MARVELOUS NIGHT MIRACLE GAME」で里村明衣子・永島千佳世と組み、輝優優・加藤園子・カルロス天野組とセミファイナルで対戦。師匠・長与千種が本部席で見守る中、ソラリーナで輝優優から3カウントを奪って勝利。なお、この日の試合は「デビル雅美レスラー30年突入記念興行」として行われ、メインに出場したデビル雅美は試合後に引退を表明。
  • 10/3-10/8、東京芸術劇場小ホール1で上演された劇団FEVER DRAGON NEO 第4回公演「RING」にKAORUと共に出演し、舞台女優デビューを果たした。「RING」は女子プロレスをテーマにした舞台で、他にレフェリーの伊東幸子も出演している。
  • 11/4、東京・後楽園ホールでのNEO女子プロレス「STAND OUT 07」で、希月あおい・野崎渚のチーム青春緑と組み、豊田真奈美・チェリー・石井美紀組と対戦。それまでの展開の中でチーム青春緑の最高顧問に就任させられたため、チームカラーに合わせ新人時代に着ていた緑色の水着を着て試合を行った。当の本人は入場から試合開始まで終始照れまくっていた。(試合は植松がノーザンライト・スープレックスで石井をフォールして勝利)
2008年
  • 3/9、東京・新宿FACEでのOZアカデミー「CALROS WORLD」にてデビル雅美とシングルで対戦し、ソラリーナでフォール勝ち。かつてGAEA JAPANでタッグを組み、それがレスラー人生における大きな転機となったデビル選手との対戦は現在の植松選手を存分にぶつける、恩返しに充分な試合内容となった。
  • 3/12、東京・新木場1stRINGでのプロレスリングWAVE「Weekday WAVE vol.3」にて春日萌花と組みJWPの日向あずみ・新関真由香組と対戦。この日が約1年2か月ぶりの復帰戦となる春日選手の練習のコーチを数か月前から行ってきた植松選手がタッグパートナーを務め、復帰試合を見守った。試合は最後、日向選手が期待を込めてのみちのくドライバーIIを放ち、春日選手がフォール負け。
  • 3/15-3/16、東京・シアターサンモールにて行われた舞台「こんなメンバーでやっちゃいました PART-7」に出演、昨年の「RING」に引き続き2度目の舞台出演を果たした。舞台は1970年代の歌番組の設定で、植松選手は番組ADの役で出演した。
  • 3/30、東京・新木場1stRINGでのプロレスリングWAVE「Climax WAVE Mar.」にて春日萌花とシングルマッチで対戦。復帰戦ではタッグを組んだがこの日は対戦することにより春日萌花の実戦での動きを確かめた。最後は「親バカだなぁ」とつぶやきながらドラゴン・スープレックス・ホールドを期待を込めて放ち勝利した。
  • 4/13、東京・後楽園ホールでのKAIENTAI-DOJO「CLUB-K SUPER ev.7」にて山縣優とシングルマッチで対戦。最後は溺遭(できあい)と名づけた技で山縣優がフォール勝ちを収めた。試合後は互いに感謝の意を表した後、植松が「今度はあなたが女子のリングに上がってください」とマイクアピール。
  • 7/3-7/6、東京・ウッディーシアターにて行われた劇団B→topsショートコメディ公演第5弾「B→chot〜V〜」に出演。6作品で構成されるオムニバスのうち3作品に出演、KAORUらとともにコメディー作品を演じた。
  • 7/13、東京・後楽園ホールでのNEO「SUMMER STAMPEDE 08」にてだいのぞみと対戦。団体所属レスラーのデビュー戦の相手をフリーの選手が務めるというのは通常あまりなく珍しい。
  • 8/10、東京・後楽園ホールでのOZアカデミー「プラムの花咲くOZの国2008 I」にて、デビル雅美が自らの試合後にリングに植松を呼び出し、スーパーヒールの継承を打診。植松は戸惑いながらも差し出された木刀を受け取り、継承を受諾した。
  • 8/22-8/24、大阪・インディペンデントシアター2ndで上演された劇団FEVER DRAGON NEO 第5回公演「RING〜Starting Over〜」に出演。「RING〜Starting Over〜」は昨年上演された女子プロレスをテーマにした舞台「RING」の続編にあたり、昨年も共演したKAORUや今回が初舞台となった栗原あゆみらとともに、実際と同名の選手役を舞台の中で演じた。なおこれ以降、舞台出演に関してはFEVER DRAGON NEO所属として活動することとなった。
  • 10/12、東京・新宿FACEでのJWP「Survival road.1」にて春山香代子・倉垣翼の持つJWP認定タッグ選手権・デイリースポーツ認定女子タッグ選手権に輝優優と組んで挑戦し、最後は輝がデビル雅美から受け継いだ技・ファイヤーバレーで倉垣をフォールし、植松・輝組が第29代JWP認定タッグ、第2代デイリースポーツ認定女子タッグの王者チームとなった。
  • 10/31、東京・新木場1stRINGでのプロレスリングWAVE「Climax WAVE・OCT」にて、輝優優と保持するJWP認定タッグ選手権・デイリースポーツ認定女子タッグ選手権を賭けてNOSAWA論外・MAZADAの東京愚連隊と対戦。女子のタイトルに男子が挑戦するという前代未聞のこのタイトルマッチは、最後は植松が急所攻撃からNOSAWA論外を丸め込み、タイトル防衛を果たした。なお、9月15日に行われた同一カードでのノンタイトル戦でリングアウトによって勝敗が決まったため、この試合ではリングアウトなし、反則裁定なしの完全決着ルールで行われた。
  • 11/27-11/30、東京・笹塚ファクトリーで上演された劇団FEVER DRAGON NEO 第6回公演「FAKE〜偽りの顔〜」に出演。死んだ信長が亡霊となって再び戦国の世に甦るという時代劇ホラーとでも呼ぶべき作品の中で、妖怪・牛蜘蛛を演じた。
  • 12/28、東京・後楽園ホールでのJWP「JWP-CLIMAX 2008」にて、輝優優と保持するJWP認定タッグ選手権・デイリースポーツ認定女子タッグ選手権を賭けて元気美佐恵・蹴射斗組と対戦。3日後に引退を控える元気が相手だったが、最後は輝がファイヤーバレーで蹴射斗をフォールし、植松・輝組が2度目の防衛を果たした。
  • 12/30、東京・後楽園ホールでの長与千種プロデュース興行「MARVELOUS NIGHT V」にて、この日引退するデビル雅美とメインで6人タッグで対戦。最後は植松がドラゴン・スープレックス・ホールドでデビルから3カウントを奪い、師匠と慕うデビルのレスラーとしての介錯人を務めた形となった。
2009年
  • 1/25、大阪・デルフィンアリーナでのJWP「Osaka Pure Fire!!2」にて、輝優優と保持するJWP認定タッグ選手権・デイリースポーツ認定女子タッグ選手権を賭けて堀田祐美子・蹴射斗組と対戦。蹴射斗がシュバインで植松をフォールし、植松・輝組は3度目の防衛を果たせず、堀田・蹴射斗組が新王者となった。
  • 2/22、東京・後楽園ホールでのOZアカデミー「魔性の花咲くOZの国」にてスーパーヒール・植松寿絵として出場。全身白のコスチュームで登場し、KAORUとシングルで対戦。最後はKAORUのエクスカリバーを切り返しての丸め込みで植松が勝利した。
  • 4/4、東京・新木場1stRINGでのプロレスリングWAVE「桜花由美Happy Birthday WAVE〜サクラサク2.0」にて、「植松WAVE」と題したスペシャルロイヤルランブルが行われ、参加選手全員が植松の歴代のコスチュームを身にまとい、コーナーで水を噴いて入場し、試合を行った。参加した選手は、GAMI、輝優優、中川ともか、ダイナマイト関西、桜花由美、木村響子、闘牛・空、植松寿絵、春日萌花。優勝は春日。
  • 4/26、東京・ベルサール六本木でのCHICK FIGHTS SUN「SUNSET〜Hikaru・前村さきFINAL〜」にて、日高郁人と組んで前村さき・藤田ミノル組と対戦、この日引退する前村と最後の対戦を行った。
  • 4/29、東京・新宿FACEでの極悪興行「極悪血祭りVIII」にて、チェリーと組み、ダンプ松本・サソリ組と対戦、この日引退するサソリと最後の対戦を行った。
  • 4/30、東京・後楽園ホールでの「Yes we can〜賭けと挑戦〜」にて行われた同世代選手による1DAYトーナメントに出場、1回戦で春山香代子と対戦するが敗戦し2回戦進出ならず。優勝は加藤園子、輝優優、永島千佳世を下した里村明衣子。
  • 5/15、静岡・富士宮市民体育館での富士宮プロレス旗揚げ戦に参戦、サクヤとシングルマッチを行い、地元・富士宮で開催されたイベントに花を添えた。
  • 6/19、大阪・ミナミ ムーブ・オンアリーナでの「テッド・タナベ追悼興行」にて、女子プロレス提供試合としてGAMIと組み、コマンド・ボリショイ&宮崎有妃組と試合を行い、生前、植松を始め数多くの選手の試合を裁いてきた故人を偲んだ。
  • 8/2、東京・キネマ倶楽部でのJWP「JWPNo.1夏女決定トーナメント2009」に出場、1回戦は蹴射斗から勝利、2回戦は日向あずみから勝利するが、準決勝で桜花由美に敗れる。トーナメントは決勝で桜花を破った米山香織が優勝した。
  • 8/29-8/30、千葉・三井ガーデンホテル 船橋ららぽーとで上演された劇団FEVER DRAGON NEO 第7回公演「FEEL SO GOOD」に出演。オムニバス3話のうち2話に登場した。
  • 10/5、NHK総合にて放送された「生中継 ふるさと一番!『富士山ろくにゴング鳴る〜静岡県富士宮市〜』」に富士宮プロレス、沼津プロレスの選手らと共に出演し試合を行った。NHKでは力道山以来となるプロレス試合生中継となった。
  • 10/22-11/1、東京・笹塚ファクトリー、大阪・in→dependent theatre 2ndにて上演された劇団FEVER DRAGON NEO 第8回公演「RING 〜DESTINY〜」に出演、2年前から続くシリーズ作品に選手役で出演した。
2010年
  • 3/14、神奈川・川崎市体育館でのNEO「〜10周年記念大会〜 NEO SPECTACLE IN 聖地川崎」にて、芸能人女子フットサルチーム「南葛シューターズ」の藤本つかさ(アイスリボン)、吉川綾乃とタッグを組み、NEOマシンガンズと変則タッグマッチで対戦。南葛チームのセコンドには松原渓が付き、同フットサルチームの監督も務める高橋陽一も花束贈呈でリングに登場、一方のマシンガンズ側も串田アキラが登場し入場テーマ曲を生歌で歌うなど、かつて週刊少年ジャンプで連載をしていた作品同士の華やかな演出となった。試合はタニーが筋肉バスターで藤本から勝利した。
  • 3/22、大阪・世界館でのJWP「Road to MANIAX 2010 〜OCCリーグ戦」にて、KAZUKIと組みJWP認定タッグ&デイリースポーツ認定女子タッグ新王者決定トーナメント決勝戦でコマンド・ボリショイ・藪下めぐみ組と対戦、KAZUKIが藪下からフォールを奪い、植松組が第34代JWP認定タッグ、第7代デイリースポーツ認定女子タッグ王者となる。
  • 5/30、東京・新木場1stRINGでのプロレスリングWAVE「Sunday WAVE vol.4」にて「闘牛・空引退試合〜伝説のシングル5人がけ!」に3人目の対戦相手として出場。この日で引退することになった闘牛・空とシングルマッチを行った。
  • 7/24、東京・新宿FACEでの「SMASH.6」にてSMASHに初参戦し、小路晃と組んでAKIRA、リン・バイロン組と対戦した。「素の植松寿絵」をテーマにリングに上がり、いつものメイクや角はなく、リングコスチュームも白とオレンジを基調とした新しいものを使用して試合を行った。
  • 8/29-8/30、千葉・三井ガーデンホテル 船橋ららぽーとで上演された劇団FEVER DRAGON NEO 第9回公演「3on3」に出演。舞台本番期間中にも試合の予定が組まれていて、試合と舞台を交互にこなした。
  • 9/19、東京・新宿FACEでのJWP「JWP REVOLUTION 2010」にて、KAZUKIと組みJWP認定タッグ&デイリースポーツ認定女子タッグ防衛戦をアジャ・コング・阿部幸江組と行い、阿部がKAZUKIからフォールを奪い、王者組が6度目の防衛に失敗。
  • 10/8-10/17、東京・笹塚ファクトリーと大阪・世界館にて上演された劇団FEVER DRAGON NEO 第10回公演「RING 〜VALKYRIE〜」に出演。

タイトル歴

  • 初代WCW世界女子クルーザー級
  • 第11代、第16代AAAWタッグ王座(パートナーは輝優優)
  • 第24代、第27代、第29代JWP認定タッグ王座(パートナーは輝優優)
  • 第34代JWP認定タッグ王座(パートナーはKAZUKI)
  • 第180代、第214代、第780代アイアンマンヘビーメタル級王座
  • 第44代HHH王座
  • 第3代WDBタッグ王座(パートナーはスティーブ・コリノ)
  • 第2代デイリースポーツ認定女子タッグ(パートナーは輝優優)
  • 第7代デイリースポーツ認定女子タッグ(パートナーはKAZUKI)

入場テーマ曲

  • 「RETURN TO THE DRAGON」(MANCHILD) 「united states」に収録。

植松寿絵BLOG
植松寿絵BLOG





リタ
Lita
1975/4/14

エーミィ・ダーマスAmy Dumas)は、アメリカ合衆国の女子プロレスラー、ディーヴァ、現在はバンドThe Luchagorsのボーカリスト。ノースカロライナ州サンフォード出身。身長168cm、体重61kg。アメリカのプロレス団体WWEに所属していた。

来歴

1998年にノースカロライナ州を拠点とするプロレス団体、オメガ・レスリングにてプロレスデビュー。オメガ・レスリングには、後のハーディー・ボーイズ、シャノン・ムーア、グレゴリー・ヘルムズ、クリストファー・ダニエルズなども所属していた。 1999年にECWに移籍。リングネームをアンジェリカとして、女子マネージャー役としての登場であった。1999年の年末にはWWE(当時WWF)に移籍し、現在のリングネームリタを用い始めた。

WWFの番組にはルチャードであるエッセ・リオスのマネージャー役としての登場であった。最初はマネージャー役のみでの登場だったが、女子レスラーとしての活動も開始する。その後、ディーン・マレンコとのストーカー的なアングル(実生活で恋人同士であったマット・ハーディーとリタを番組内でも恋人同士として扱うためのストーリー)を経て、ハーディー・ボーイズに加入、3人でチーム・エクストリームを結成した。チームメンバーのマット・ハーディーとは実生活の恋人だけでなく、アングル上においても恋人同士となる。チーム・エクストリームは2001年の年末に喧嘩別れをして解散、マット・ハーディーとジェフ・ハーディーの兄弟対決ストーリーへと続き、リタはマット・ハーディーとはギミック上のみ破局する。しかし、翌年の2002/1/20、マット・ハーディーがRoyal Rumble 2002のロイヤルランブル・マッチに参戦した際にリタ同伴で登場。2/17に行われた次大会、No Way Out 2002では、WWFタッグ王座第一挑戦者決定戦に3人そろって仲良く参戦(リタはあくまでマネージャーであり、試合参戦はしていないが)し、何事もなかったかのようにチーム・エクストリームは復活している。

ハーディー・ボーイズのマネージャー的な役割と並行して、女子王座戦線の主役として活動していたが、FOXのテレビ番組ダーク・エンジェル撮影中に首を負傷し、WWEから長期離脱する。選手としての復帰までの間、ジョナサン・コーチマンと共に、RAWの別番組「Sunday Night HEAT」の解説を務めたり、自伝を出版したりした。なお、リタの怪我による欠場と、マット・ハーディーのSmackDown!移籍によるハーディー・ボーイズの事実上の解散で、チーム・エクストリームも徐々にフェードアウトしていった。そのため、破局や解散といったストーリーは描かれておらず、のちのストーリーへの展開に一役買うことになった。

2003/4/21、HEATの解説を務める傍ら、怪我の回復具合とトレーニング再開をファンに報告するためRAWに出演する。しかし、GMエリック・ビショフが登場。さんざんセクハラされたあげく、クビを宣告されるという悲惨な目に遭ってしまう。しかし、共同GMのストーン・コールド・スティーブ・オースチンによって再雇用され、失業は免れた。 そして怪我も癒え、満を持して9/15のRAWでモーリー・ホーリーとゲイル・キムからトリッシュ・ストラタスを救援する形で復帰する。そのままトリッシュ・ストラタスとのタッグで活動しつつ、女子王座挑戦権を獲得しモーリー・ホーリーと抗争した。11/16、Survivor Series 2003でモーリー・ホーリーの王座に挑むものの敗れた。翌日のRAWでは、マット・ハーディーがSmackDown!より移籍してきてリタにプロポーズ、かと思ったら、直後の試合でマット・ハーディーにフラれ、あげくエリック・ビショフにクビを宣告される(どちらもギミック上での話)という悲惨な目に遭った。このクビはクリスチャンがすぐに取り消し、事なきを得た。翌週11/24のRAWでは、ビクトリアと番組史上初のディーヴァによる金網戦を行っている。この試合は、マット・ハーディーの妨害により敗れた。度重なるマット・ハーディーからの嫌がらせで傷心のリタに対し、クリスチャンが優しく慰めてくれた、かと思ったら、それはクリス・ジェリコとクリスチャンのどちらが先に女を落とせるかという賭け事に巻き込まれただけであり、結局フラれたような形となり、そのまま同じような境遇にあったトリッシュ・ストラタスと共に、クリス・ジェリコとクリスチャンを相手に抗争に入った。そしてそのままクリス・ジェリコとクリスチャンがトリッシュ・ストラタスを巡る抗争に入ったため、トリッシュ・ストラタスとのコンビはなくなった。

2004年には、リタを巡ってのケインとマット・ハーディーの抗争、その後のアングル上での結婚、妊娠、ジーン・スニツキーの攻撃による流産(当初は流産はストーリーにはなかったが、ケインがスニツキーの攻撃を受けた際に、受け止めきれずに勢いあまってリタに覆いかぶさるように倒れてしまったために急遽追加したもので、これにより妊娠ストーリーは予定より早く終了した)、その後の復讐と続き、そしてトリッシュ・ストラタスとの抗争へと続いた。12/6のRAWでは、トリッシュ・ストラタスを倒して自身二度目となる女子王座を獲得している。

2005年に入り、エッジと不倫しケインとアングル上離婚する。WWE入団以来一貫してベビーフェイスであったが、この時ヒールにターンする。このエッジとの不倫はもともと実生活においての実際の出来事。このことが原因で、チーム・エクストリーム時代以来実生活での恋人であったマット・ハーディーと別れることとなる。エッジとは、2005年6月にアングル上の結婚をする。そして、ケイン、マット・ハーディーとの抗争を繰り広げ始めた。その際、彼女の事を「HO〜(日本語で「娼婦」という意味、字幕では「アバズレ」。)」とチャントするのが恒例となっていた。

ヒールターンしてからは、エッジというトップヒールがずる賢く試合に勝利するためのアシスト役に収まることが多くなり、試合をする回数が圧倒的に減った。トリッシュ引退及び自身の引退試合を除くと、ルチャ系の技を全く使わずに試合をしていた事になる。

その後はトリッシュの引退によりベビーターンしたミッキー・ジェームスと抗争を続けていたが、2006/11/26Survivor Series 2006において引退。しかし、盛大に祝福されながら引退したトリッシュとは対称的に観客から大ブーイングされた挙句、クライム・タイムに下着を盗まれる等、いくらアングルとはいえあまりにも惨めな引退となってしまった。

もちろんショー終了後、エッジやカリートらに祝福され、引退パーティーをした。

引退後は、パンクロックバンドThe Luchagorsのボーカルとして活動している。

2007/12/10、トリッシュ・ストラタスと共にRAW15周年記念特別番組に登場し、元気な姿を見せた。ちなみにこの時は引退試合と打って変わって、観客から大声援を受けた。

タイトル履歴

WWE
  • WWE女子王座 : 4回

入場曲

  • LoveFuryPassionEnergy (Boy Hits Car)
  • It Just Feels Right

その他

得意技であるハリケーン・ラナはリタが使うことで『ハリケーン・リタ』と呼ばれたことがある。また日本語で訳したときの文字に誤りがあり『リタケーン・ラナ』『リタケーン・リタ』になったこともある。






アンデウソン・シウバ
Anderson Silva
1975/4/14

ブラジルの総合格闘家。パラナ州クリチーバ出身。ブラック・ハウス所属。現UFC世界ミドル級王者、元Cage Rage世界ミドル級王者。ブラジリアン柔術黒帯。リーチ197cm。

細長い手足から、「ザ・スパイダー」(蜘蛛)の異名を持つ。長い手足とバックボーンのムエタイで培った強烈な打撃を武器に長期に渡ってUFC世界ミドル級王者として君臨しており、総合格闘技におけるパウンド・フォー・パウンドの1人と目されている。

UFCにおいて、全階級を通じて王座の在位期間が史上最長であり、全階級を通じた王座の最多連続防衛記録及び同イベントにおける最多連勝記録をも有する。

来歴

サンパウロに生まれ、経済的な理由から4歳の時にクリチーバの叔母の下へ預けられた。クリチーバではカン・アカデミーでテコンドーを8年間学んだ。その後ムエタイを3年間学んだ後、当時シュートボクセ・アカデミーに所属していたファビオ・ノグシの下で7年間トレーニングを積んだ。

その後、才能がシュートボクセ会長のフジマール・フェデリコの目に留まり、シュートボクセの本部へ移籍した。

2000/5/27、Meca World Vale Tudo 1のルイス・アゼレード戦でプロ総合格闘家デビュー。

2001/3/2、プロ修斗で初来日し、加藤鉄史に判定勝ちを収めた。

2001/8/26、無敗のプロ修斗世界ミドル級王者桜井"マッハ"速人に判定勝ちし、タイトル奪取に成功して一気に脚光を浴びた。しかしPRIDEに参戦するようになり、1度も防衛戦を行うことなく2002/11/26付けでタイトルを返上した。

PRIDE・Cage Rage

2002年にPRIDEと契約すると共に、階級を76kg級から84kg級に上げた。

2003/3/16、PRIDE.25でカーロス・ニュートンにKO勝ちを収めてPRIDEで3連勝を挙げたが、6月8日、PRIDE.26で高瀬大樹に三角絞めで1Rタップアウト負け。

2003年11月にアスエリオ・シウバらとシュートボクセ・アカデミーを離れ、ムエタイ・ドリームチーム(MTDT)を結成するもすぐに離脱(後にMTDTは実質機能していなかったと語っている)。

2004/9/11、Cage Rage 8ではリー・マーレイを判定で下し、Cage Rage世界ミドル級王座を獲得した。

2004/12/31、PRIDE 男祭り 2004で長南亮と対戦。打撃で優勢に試合を進めていたが、3Rに蟹挟みからのヒールホールドでタップアウト負け。その後はシュートボクセ・アカデミーのフジマール・フェデリコ会長の政治的圧力によってPRIDE離脱を余儀なくされ、主戦場をCage Rageに移す。

この頃から親交の深いアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラらと共に練習をするようになり、総合格闘技で高いグラップリング技術を持つノゲイラの手ほどきで、グラップリングのスキルを磨くことで現在の活躍への基盤を作った(もともと柔術は茶帯で寝技のスキルは低くなかったが、2005年に2人から黒帯を授与されている)。

2005/8/5、柔術の師匠でもあるミノタウロことアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラが地元で主催した大会「ミノタウロ・ファイト」でボクシング戦を行い、KO勝ちを収めている。

2006/1/20、ハワイで行われたRumble on the Rock 8では、岡見勇信相手に優勢に試合を進めておきながら、両膝をキャンバスについたグラウンド状態の岡見に対して、ルールで認められていないペダラーダ(グラウンドでの下からの顔面蹴り上げ)を放ってしまい反則負けとなった。

UFC

2006/6/28、UFC初参戦となったUltimate Fight Night 5でクリス・リーベンと対戦し、開始49秒で膝蹴りによるKO勝ちを収めた。続く10/14、UFC 64のミドル級タイトルマッチではリッチ・フランクリンを1Rに首相撲からの膝蹴り連打でKO勝ち、UFC2戦目にして第5代UFC世界ミドル級王者となった。

2006年11月にはカーロス・バヘットをリーダーにアスエリオ・シウバ、ビクトー・ベウフォート、リョート・マチダ、ニーノ・シェンブリらと共にブラック・ハウスに移籍した。

2007/2/3、UFC 67でトラヴィス・ルターと対戦、三角絞めを極めながらの肘打ち連打で一本勝ち。なお、この試合はUFC世界ミドル級タイトルマッチとなるはずだったが、ルターが計量をパスできなかったため、ノンタイトルマッチとして行われた。

2007/7/7、UFC 73のUFC世界ミドル級タイトルマッチでネイサン・マーコートをグラウンドパンチによるTKOで破り、初防衛に成功する。10/20、UFC 77の王座防衛戦ではリッチ・フランクリンと再戦。膝蹴りでダウンを奪いTKO勝ちを収め、2度目の王座防衛に成功。ノックアウト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2008/3/1、UFC 82の防衛戦ではPRIDEウェルター級王者ダン・ヘンダーソンをチョークスリーパーで破り、ミドル級王座の3度目の防衛を果たし、ファイト・オブ・ザ・ナイトおよびサブミッション・オブ・ザ・ナイトを同時に獲得した。なお、この試合によってPRIDEウェルター級王座はUFC世界ミドル級王座に併合された。

2008/7/19、UFC: Silva vs. Irvinのメインイベントにてライトヘビー級デビュー戦でジェームス・アーヴィンと対戦。アーヴィンのミドルキックを捕らえた状態から右ストレートでダウンを奪い、開始1分でパウンドによるKO勝ちを収めた。10/25、UFC 90: Silva vs. Cote<ではUFC世界ミドル級王座防衛戦でパトリック・コーテと対戦。優位に試合を進める中3ラウンドに突如コーテが右膝を脱臼し続行不能となり、4度目の防衛に成功した。

2009/4/18、UFC 97の防衛戦でターレス・レイチに判定勝ちし、UFC全階級を通じて最多タイ記録となる5度目の王座防衛に成功するとともに、UFC9連勝によりそれまでホイス・グレイシーの持っていたUFCの連勝記録を更新した。

2009/8/8、UFC 101にて、1階級上の元UFC世界ライトヘビー級王者フォレスト・グリフィンとライトヘビー級契約で対戦。ノーガードで挑発しながらスウェーとダッキングでグリフィンの攻撃を避けつつパンチで2度のダウンを奪い、最後は後退しながらのカウンターの右ストレートでグリフィンをKOし、自身の持つUFC連勝記録を10連勝に更新した。この試合でファイト・オブ・ザ・ナイトおよびノックアウト・オブ・ザ・ナイトを同時に獲得した。

2010/4/10、UFC 112のデミアン・マイアとの防衛戦では、5Rを戦い抜き3-0の判定勝ちを収めた。この勝利でUFC最多防衛記録となる6連続防衛を果たすとともにUFC11連勝を達成し、UFCの最多連勝記録を更新したが、試合中のマイアに対する度重なる挑発行為と、後半の消極的な試合運びに対して試合終了後までブーイングが沸き起こった。

2010/8/7、UFC 117では7度目の防衛戦としてチェール・ソネンと対戦。試合では多くの場面で有利なポジションを許し、また途中ダウンを喫するなど苦戦したが、5Rに腕ひしぎ三角固めによる逆転勝ちを収め、史上最多の7度目の王座防衛を果たすとともに、UFC最多連勝記録を12に伸ばした。また、この試合でファイト・オブ・ザ・ナイトとサブミッション・オブ・ザ・ナイトを同時に獲得した。

2011/2/5、UFC 126でビクトー・ベウフォートと対戦。1R中盤に左前蹴りでダウンを奪い、追撃のパウンドでTKO勝ちを収めた。この勝利でUFC史上最多となる8度目の防衛を果たすとともに、UFCでの連勝記録を13に伸ばした。また同大会のノックアウト・オブ・ザ・ナイトを獲得した。

獲得タイトル

  • 第5代UFC世界ミドル級王座(2006年)
  • 第2代Cage Rage世界ミドル級王座(2004年)
  • 第5代修斗世界ミドル級王座

人物

  • 入場時にダンスを披露したり、K-1がヘビー級しかない(発言当時)ことを知らないまま参戦を熱望していた。
  • ボクシング世界王者ロイ・ジョーンズ・ジュニアと、ボクシングルールで対戦することを熱望している。ロイ・ジョーンズもこの対戦に関して意欲的だが、UFCは選手に対して独占契約を結んでいるため、他団体や他競技で試合をすることが許されておらず、いまだにこの対戦は実現していない。また、ロイ・ジョーンズが「MMAルールでも構わないからアンデウソンと対戦したい」と言ったが、UFC社長のダナ・ホワイトはこの対戦には否定的である。また、アンデウソンはボクシングルールの実績が皆無なため、10回戦マッチ出場のためのボクシング・ライセンスを持っていないこともあり、ロイ・ジョーンズ戦の実現は困難な状況にある。
  • 元同門のヴァンダレイ・シウバのミドル級転向に対しては否定的である。
  • 柔術黒帯を授かったノゲイラ兄弟を尊敬している。ノゲイラ兄弟について、「俺は彼らに自分の人生を捧げている。彼らに恩を着せようとかそういうことじゃないんだ。ホドリゴは俺の師匠で、ホジェリオは俺の兄弟であり先生なんだ。彼らの存在無くして今の自分はあり得ない。」と語っている。





ジン・キニスキー
Gene Kiniski
1928/11/23 - 2010/4/14

カナダの元プロレスラー。本名はユージン・ニコラス・キニスキーEugene Nicholas Kiniski)。アルバータ州エドモントン出身のポーランド系カナダ人である。日本での異名は「荒法師」。

来歴

アリゾナ大学在籍時からアメリカンフットボール選手として名を馳せ、卒業後はCFLのエドモントン・エスキモーズに在籍しつつ、カルガリーでスチュ・ハートのコーチを受け1952年からプロレスラーとしても活動を開始。1954年よりプロレスに専念するようになる。以降、キラー・コワルスキー、ジョニー・バレンタインと並んで「ポーランド系の三凶鬼」として畏怖された。

1961/7/7、セントポールでバーン・ガニアを破り第3代AWA世界ヘビー級王者となり、1965/8/21にはインディアナポリスでディック・ザ・ブルーザーを下しWWA世界ヘビー級王座も獲得した。この間、1964年には日本プロレスのワールドリーグ戦に初来日、豊登と決勝戦で戦ったほか、カリプス・ハリケーンとのコンビで豊登&吉村道明からアジアタッグ王座を奪取。2週間で豊登&ジャイアント馬場に奪回されるが、これが馬場にとって国内初タイトルとなった。

1966/1/7、セントルイスのキール・オーディトリアムでルー・テーズを破り第45代NWA世界ヘビー級王者となる。団体として全盛期にあった際のAWA世界ヘビー級王座とNWA世界ヘビー級王座の双方を獲得したのは偉大な記録である。1967年には王者として日本プロレスに登場、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦(NWA王座は懸けていない)。8/14に大阪球場で行われた一戦は、馬場が後年自身のベストマッチに選ぶほどの名勝負となった。

1969年2月、ドリー・ファンク・ジュニアに敗れてNWA王座転落。1970年にはジャイアント馬場を破りインターナショナル王者となっている。1975年には全日本プロレスのチャンピオン・カーニバルに登場し決勝戦で馬場に敗退。現役選手としての最後の来日は1979年4月だった。

1968年から1983年にかけては、カナダのバンクーバーでNWAオールスター・レスリングを主宰、プロモーターとしても活動した。

1993年、ジャイアント馬場5000試合達成記念試合のスペシャルゲストとして来日。

1999年5月2日にはジャイアント馬場没後の「引退記念試合」に際し、馬場&ザ・デストロイヤーの対戦相手としてブルーノ・サンマルチノと共に指名され来日。自身が生前の馬場と戦っている映像が流れた際には、皆が静観する中で一人握り締めた拳を振りかざしていた。その後の挨拶で「ババ、君は偉大なスポーツマン、レスラー、アスリートであり、本物のプロフェッショナル・レスラーだった。私は君と日米で闘えたことを誇りに思う」と馬場を称えた。

2000年秋には全日本プロレスの分裂による三冠王者空位を受けて行われた「新三冠王者決定トーナメント」の立会人として来日している。

2010/4/14、ガンのために逝去。享年81歳。





 
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