本文へスキップ
 


 
 
”重要なお知らせ”


2011/9/1よりパワーアップでページ独立!

 
 


 
 
プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/15


 
 


 
 

エンセン井上
Enson Inoue
1967/4/15

アメリカ合衆国の総合格闘家、プロレスラー。ハワイ州出身。日系アメリカ人4世。PUREBRED所属。初代修斗ヘビー級王者。修斗四天王の一人。

キャッチフレーズは「大和魂」であり、自身の胸と背中にも「大和魂」と刺青を彫っている。

来歴

広島にルーツを持つ日系アメリカ人4世。ハワイ大学在学中にラケットボールの選手として来日。22歳から始めた柔術をバックボーンに1995年1月に修斗デビュー。以後、ヘビー級で活躍。1997/10/12にはジョー・エステスを破って、初代修斗ヘビー級王座を獲得した。

1998/10/25、VALE TUDE JAPAN '98でランディ・クートゥアに一本勝ちを収めた。試合後に「皆さん!オレが負ける言った人、くたばれ!」とマイクアピールした。

1998/12/11、「U-DREAMS 1st IMPACT」でジョン・カルボと変形修斗ルールで対戦し、2分13秒腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

1999/4/29、PRIDE初参戦となったPRIDE.5で西田操一に一本勝ち。

1999/9/5、同年3月に起こした傷害事件を原因として修斗ヘビー級王座を返上およびプロ修斗ライセンスの無期停止処分が発表された(2000/2/9付けでライセンス無期停止処分が解除された)。

PRIDEでは負けん気の強さと特攻ファイトで、大和魂Tシャツが人気を得るようになる。選手活動と並行して、1995年から埼玉県の総合格闘技ジム「PUREBRED大宮」で柔術の指導を務めた。

相手の土俵で試合をしようとするため、なかなか勝ち星に恵まれなくなり、2000年のイゴール・ボブチャンチン戦ではスタンドでのパンチ合戦に挑み、鼓膜など耳内を損傷する大怪我を負う。その後遺症もあって引退を決意。「心が折れたため」「イラク戦争で米兵に志願するため」という理由もあった。

2000/12/23、PRIDE.12でヒース・ヒーリングと対戦し、膝蹴りでレフェリーストップ負け。試合後、リング上で「今日は100%出しました。今日が私の大和魂の最後の試合でした」と突然の引退宣言を行った。

2002/2/24、PRIDE.19でアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと引退マッチを行って、三角絞めで失神し負ける。

2003/3/9、新日本プロレスにクレイジードッグスのボスとして初参戦。魔界倶楽部と抗争した。新日本離脱後は、リキプロ、ビッグマウス・ラウドへ参戦している。

2006/8/15には、自身がプロデューサーを務めた総合格闘技興行「『心』 Kill or be Killed」を後楽園ホールで開催。金原弘光やジャダンバ・ナラントンガラグなどが参戦した。

2008/10/18、東京都豊島区で大麻16.9グラムを所持していたところを職務質問を受け、大麻取締法違反で現行犯逮捕された。

2008/12/26、大麻所持事件の判決公判が開かれ、懲役10か月、執行猶予3年(求刑懲役10か月)の判決が言い渡された。

2010/4/25、吉田秀彦引退興行 〜ASTRA〜にて、およそ6年ぶりに総合格闘技に復帰。アンズ・"ノトリアス"・ナンセンと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

人物

  • 兄は、総合格闘家のイーゲン井上。
  • 女子レスリング選手の山本美憂は元妻。2000年に結婚、2004年に離婚している。
  • 山本美憂の弟、山本"KID"徳郁とも親しく、KIDに総合格闘技の指導をしたのはエンセンである。
  • 1999年3月に記者に対し傷害事件を起こし、2002年に有罪判決を受けた(懲役6か月、執行猶予2年)。2002年には元所属会社社長を恐喝・暴行し、2004年に賠償命令を受けた。その後はメジャーな格闘技興行からは遠ざかり、プロレスの試合を中心に行っている。
  • 刺青を多数彫っている。それ故にイラク戦争時にはアメリカ兵に志願したにもかかわらず入隊を拒否されている。特に上半身に非常に多い。
  • 独特な日本語の話し方をする。
  • 大の動物好きで、ブログ等で自分の愛犬「修斗くん」(2010年3月9日死去、アメリカン・ピット・ブル・テリア)」、愛猿「ホシャンくん(マーモセット)」や他の動物と撮った写真を記載することが多い。
  • その迫力に満ちた風貌とは裏腹に根は優しく、会場ではファンに対して気軽にサインや写真に応じている。
  • 「リングの魂 - 格闘界アームレスリング王」では自分より巨漢な格闘家達をことごとく倒し優勝している。

獲得タイトル

  • 初代修斗ヘビー級王座

エンセン井上Blog
エンセン井上ブログ

 
広告


オースチン・スター/オースチン・エイリース
The Austin Starr/Austin Aries
1978/4/15

アメリカ合衆国の男性プロレスラーである。ウィスコンシン州ミルウォーキー出身、本名はダニエル・ハーリー・ダン・ソルウォルド・ジュニアDaniel Healy "Dan" Solwold, Jr.)。175cm、98kg。現在、アメリカの団体であるROHで活動している。

来歴

トレーニング〜デビュー

エリーズはエディ・シャーキーとテリー・フォックスの下で2000年にプロレスのトレーニングを開始し、11月に“シェリフ”ジョニー・エメラルドとの試合でデビュー。数年間、中西部でキャリアを積んだ後、2004年に「ECWA Super 8トーナメント」に出場。現在WWEやTNAで活躍するレスラーが若手の頃に多数参加し、若手の登竜門として知られているこのトーナメントで決勝に進出する。優勝こそできなかったもののその能力の高さから米インディー界の注目の的になる。

Generation Next結成~ROH世界王座・タッグ王座戴冠

トーナメント直後、エリーズはROHに参戦することを決意する。彼は「ROH: Reborn Stage 2」にて、4コーナーサバイバルというROH独自の形式でジミー・レイヴ、ロッキー・ロメロ、ナイジェル・マッギネスを相手にROHデビューを果たす。その年の夏にかけて同じく若手のジャック・エヴァンスやロドリック・ストロング、アレックス・シェリーと共に「Generation Next」というユニットを結成。一気にROHの主役へ駆け上がる。

彼にとってECWA Super8トーナメント以上のキャリアアップとなったのは「Final Battle 2004」でのROH世界王座戦である。当時ROH世界王者で、2年以上もベルトを巻き続けていたサモア・ジョーとのROH世界王座戦に見事勝利し、参戦開始から1年足らずで団体の頂点へと上り詰める。

その後、2005/6/18にCMパンクとの対決で破れ王座陥落となるも、その評価が下がることはなく、ROHのレスリングスクールのトレーナーに就任する。

また年末の「Final Battle 2005」においてロデリック・ストロングと組んで、サル・リナウロ&トニー・ママルークが保持するROHタッグ王座に挑戦。見事奪取する。

2006年にはROHと日本のプロレスリング・ノアとの交流が始まり、エリーズも日本のレスラーとの対決することになる。特に注目されたのは6月24日にシカゴで行われたKENTAとのシングルマッチだったが、KENTAのGo2Sleepの前に敗れる。同年9/16にクリス・ヒーロー&クラウディオ・カスタニョーリによるタッグチーム「キング・オブ・レスリング」に破れ、数十回防衛してきたROHタッグ王座を失う。

年が明けて2007年、既にジェネレーション・ネクストは解散していたものの、その時の繋がりで長い間タッグを組んでいたロデリック・ストロングと再びROHタッグ王座に挑戦するも敗北。仲違いしてしまい、エリーズが新ユニット「レジリエンス」を、ロデリックは「ノー・リモーズ・コープス」を結成し対立状態になる。しかしTNAに関係したゴタゴタ(以下参照)の影響で一時的に離脱することになり、レジリエンスも自然消滅してしまう。

Total Nonstop Action Wrestling(TNA)参戦

2005年7月、TNAは「サクリファイス2005」におけるXディヴィジョン王座戦を“インターネット・ドリームマッチ”として、挑戦者をインターネット投票で決定することを発表。所属ではないエリーズ、ロデリック・ストロング、ジェイ・リーサル、マット・サイダルの名前があがり、最終的にエリーズが選ばれる。結局、所属ではないことから王者クリストファー・ダニエルズとのノンタイトル戦に変更になった。試合そのものには敗北するも、素晴らしい試合だったことからTNAの上層部から再び試合の契約を持ちかけられ、「アンブレイカブル2005」(2005年9月11日)にてロデリック・ストロングとのシングルマッチという形で再登場。この試合も上々の内容でTNAの上層部の評価はさらに高まる。

その直後の9/22、エリーズは自身のサイトでTNAとレギュラー契約を結んだことを発表する。さらにロデリック・ストロングとアレックス・シェリーも契約を結ぶ。

年が明けて2006年2月、エリーズとロデリックはROHに出場した後、飛行機で移動してTNAの「アゲインスト・オール・オッズ2006」に出場するというスケジュールを立てていたが、吹雪により飛行機が止まり、出場取り消しの憂き目に会う。この事件によりTNA上層部は徐々にROHとの掛け持ち禁止・トップ選手の独占出場契約を結ぶ方向性にシフトしていく。

しばらくTNAには出場できなかったエリーズだったが、9月の「バウンド・フォー・グローリー2006」(2006年10月22日)にて「オースチン・スター」のリングネームで再デビューする。その後Xディヴィジョンの選手との試合が組まれ続けるも、2007年4月に“問題行動”が原因で90日の謹慎処分が下される。ただしROHと対立していくような路線を取るTNA上層部に対して、早くから反発とも取れるような言動をしており、謹慎もそれが根底にあるという見方が根強い。

2007年6月に自ら解雇要求を求め、TNAを解雇される。その後、再度ROHと契約を結んだ。

ROH復帰~2度目のROH世界王座戴冠

ROHに復帰後、2007年末の「Rising Above」で行われたナイジェル・マッギネスとの世界王座戦が名勝負になったのを皮切りに、再びROH世界王座戦線で活躍するようになる。王者であるナイジェル・マッギネスは勿論のこと、ブライアン・ダニエルソン、タイラー・ブラック、ジミー・ジェイコブスとも激しい抗争を繰り広げた末、2009年6月に行われた「MANHATTAN MAYHEM III」にてジェリー・リンを破り、2度目のROH世界王座戴冠となった。

主要タイトル履歴

Ring of Honor(ROH)
  • ROH世界王座 : 1回(第4代)
  • ROH世界タッグ王座 : 1回
パートナーはロドリック・ストロング。

その他、各所米インディ団体にてクルーザー階級のタイトルを中心に多数獲得。

その他

  • ベジタリアンらしく、動物の肉はまったく食べない。
  • 別名「羊」、右肩に漢字でタトゥーを入れている(ちなみにエリーズは日本語でおひつじ座)。





田口 隆祐
1979/4/15

日本のプロレスラーである。新日本プロレス所属。宮城県岩沼市出身。宮城県仙台第一高等学校卒業。

経歴

宮城県仙台第一高等学校サッカー部、東海大学レスリング部出身。2002年3月に新日本プロレスのスカウト部長になる前の木村健悟にスカウトされて新日本プロレスに入団し、同年11/22後楽園ホール興行での対矢野通戦でプロレスデビュー。その後前座戦線で活躍しかなり早い段階で頭角を現した。またドロップキックの空中姿勢、華麗さに定評がありドロップキック・マスターというニックネームがついた。

ジュニアヘビー級戦線で活動し、2003年にはベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに出場。2004年にはヤングライオン杯、ヤングライオン闘魂トーナメントで優勝を飾り、新日本のヤングライオン(若手レスラー)の中ではトッププレイヤーになった。2005年には2月から10月までメキシコのCMLLへ海外遠征に出発。同団体で元全日本プロレスの奥村茂雄とツナミ・デル・オリエンテを結成。

2005年10月に帰国し、緑のオーバーマスクをかぶり新日本に凱旋帰国。2006/2/19両国でエル・サムライとタッグを組み稔&後藤洋央紀組を破り、第16代IWGPジュニアタッグ王座を獲得。

長期メキシコ遠征帰国後から、勝利後リング上でテーマソングに乗ってファンキーな踊り(通称:タグダンス)を見せるようになった。日本初公開のタグダンスは、2006/1/28後楽園ホールにて、ファンキー仕様の髪型を初披露した田口が4代目タイガーマスクと組み、後藤洋央紀、稔組と戦った試合で田口が後藤を必殺のどどんで破った後に多少中途半端ながら披露された(その直後に小バカにした態度で稔に真似されていた)。

2007年3月にはサムライジムに入門。エル・サムライにテクニックを伝授し4月には稔の持つIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦。6月のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアにはBブロック1位通過を果たしベスト4に進出。7/6の後楽園ホールにて、稔にリベンジを果たし第52代IWGPジュニアヘビー級王者に輝き、同時に稔に奪われたサムライジムの看板を取り戻した。その後12/9の井上亘に敗れるまで4度の防衛を果たした。

2009年、プリンス・デヴィットとのタッグチーム“Apollo 55”を結成し7/5、アレックス・シェリー・クリス・セイビンのモーターシティマシンガンズに勝利し、第24代IWGPジュニアタッグ王座を獲得。7/21には、ミラノコレクションA.T.・タイチとのタッグチーム“ユニオーネ”相手に初防衛。9月にはモーターシティマシンガンズと再戦を行い勝利し2度目の防衛に成功した。

11月に行われたG1 TAG LEAGUEではApollo 55でエントリー。スピード溢れる連携を駆使して数々のヘビー級タッグチームと互角に張り合い、Bブロック2位で通過。準決勝では中邑真輔、矢野通組を撃破し決勝進出。決勝でジャイアント・バーナード、カール・アンダーソンと対決するも、あえなく敗戦。しかし、ジュニアながらも準優勝という大健闘を見せ付けた。

12/4に金本浩二、吉橋伸雄組とタイトルマッチ。これに3度目の防衛に成功。

2010/1/4にはCMLLの刺客として送られたアベルノ、ウルティモ・ゲレーロ組と対戦。両者派手な技、アピールとスピード駆使して最後はブラックホールバケーションで勝利。4度目の防衛に成功。

2/14に5度目の防衛戦として邪道、外道が挑戦する予定だったが、邪道が前日の試合で頸椎を負傷するアクシデントのため、外道は急遽ディック東郷を連れて挑戦(当日、入場テーマ曲が鳴るまで誰が登場するのか分からなかった)。最後はブラックホールバケーションで外道を黙らせ5度目の防衛に成功。試合後、Apollo 55のセコンドについていたミラノがリングに上がり外道にトラース・キックを発射させ、共に喜びを分かち合った。

10/11、新日本両国大会では飯伏幸太&ケニー・オメガの「ゴールデンラヴァーズ」と戦いIWGPジュニアタッグ防衛に失敗するも、プロレス大賞「ベストバウト賞」に選ばれた(プロレス大賞ベストバウトにジュニアヘビー級タッグ戦が選ばれたのは史上初であった)。

2011/1/22には後楽園ホールで行われた、CMLLと新日本プロレスの共催興業でマスカラ・ドラダの持つCMLL世界ウェルター級王座に挑戦し、二対一で勝利し王座に輝いた。

タイトル歴

新日本プロレス
  • IWGPジュニアヘビー級王座 : 1回(第52代)
  • IWGPジュニアタッグ王座 : 2回(第16代、第24代)
パートナーはエル・サムライ、プリンス・デヴィット。
  • J SPORTS CROWN 2010 優勝(パートナーはプリンス・デヴィット・後藤洋央紀)
K-AWARD
  • 年間最高試合賞(タッグマッチ部門)(2004年)
CMLL
  • CMLL世界ウェルター級王座 : 1回

入場テーマ曲

  • MASTER OF DROPKICK / ONE TRACK MIND





ハン・スーファン
Bang Seung Hwan
1983/4/15

大韓民国出身の総合格闘家。TEAM FORCE所属。元DEEPライト級王者。

来歴

2005/10/3、Neo Fight 6のトーナメントに出場。1回戦を判定勝ちすると、決勝でKO勝ちし、優勝を果たした。

2005/11/19、REALRHYTHM 2nd STAGEのタッグマッチに出場。リー・ジョンホと組み、三島☆ド根性ノ助&中尾受太郎組と15分3本勝負で対戦。1本目で三島に左フックで失神KO勝ち(2本目以降は時間切れ)。

2006/2/5、DEEP 23で宮本優太朗と対戦予定であったが、怪我により欠場となった。

2007/7/8、DEEP初参戦となったDEEP 30で池本誠知と対戦し、判定負け。

2007/12/12、DEEP 33で中尾受太郎と対戦し、左フックでKO勝ち。

2008/3/29、CLUB DEEP TOKYOで禅道会のLUIZと対戦し、判定勝ち。DEEPライト級タイトルへの挑戦権を獲得した。

2008/5/19、DEEP 35で王者横田一則とDEEPライト級タイトルマッチで対戦し、右フックでKO勝ち。DEEP初の韓国人王者となった。

2008/8/16のGLADIATORで毛利昭彦と対戦予定であったが、戦極参戦が決定し、欠場となった。

2008/8/24、戦極 〜第四陣〜で五味隆典と対戦し、判定負け。

2008年10月、DEEPライト級王座を返上した。

2008/11/1、戦極 〜第六陣〜のライト級グランプリ・リザーブマッチでホルヘ・マスヴィダルと対戦し、0-3の判定負け。

2009/6/7、武神でキム・セギと対戦し、2-0の判定勝ち。

2010/7/3、M-1 SELECTION ASIA FINAL 2010 〜EPISODE 1〜でカマラオ・シルバと対戦し、パウンドでTKO勝ち。

2010/7/24、GLADIATOR 8で石黒竜也と対戦し、右ローキックでKO負けを喫した。

獲得タイトル

  • 第4代DEEPライト級王座

  



八田 一朗
1906/6/3 - 1983/4/15

日本のレスリング選手・指導者、政治家である。日本レスリング界の父であり、参議院議員も務めた。また、東京オリンピック招致にも尽力した。広島県安芸郡江田島町(現・江田島市)出身。





カート・ホーキンス
Curt Hawkins
1985/4/15

ブライアン・マイヤーズ(Brian Myers)はアメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州グレンコーヴ出身。現在WWEに所属。

経歴

元ECWマイキー・ウィプレック主宰のレスリングスクールでトレーニングを積む。(ザック・ライダーもこのスクール出身である。)2006年からDSWに所属し、2007年にOVWに移籍。

5月1日のWWEのECWでブレット・メジャーとメジャー・ブラザーズを結成し、ブライアン・メジャーのリングネームでデビュー。このデビュー戦でマット・ストライカーとマーキス・コー・ヴァンのタッグから勝利を飾っている。6月の追加ドラフトでパートナーのブレット・メジャーと共にSmackDown!へ移籍する。11/7にはMVP & マット・ハーディーが保持するWWEタッグ王座に挑戦するも敗れている。12月のArmageddonでエッジの変装をして乱入する形で勝利をアシストしヒールターンした。 翌週のSmackDown!でリングネームをカート・ホーキンス(Curt Hawkins)と改名する。その後チーム名もジ・エッジヘッズに改めエッジの手下として活動する。2008/7/20に行われたGreat American Bashでのフェイタル4ウェイ形式のWWEタッグ王座戦に勝利し、WWEタッグ王座を獲得する。しかし、一度も防衛することなく9月26日のSmackdown!でカリート & プリモに敗れ王座を失う。 その後はザック・ライダー共々ザ・グレート・カリに瞬殺されるなどジョバー的な役回りが多くなり、レッスルマニア25で行われたタッグ王座統一戦にランバージャック要員として登場したのがジ・エッジヘッズとしての最後の出番になった。

2009年4月のドラフトでパートナーのザック・ライダーはECWへ移籍、ホーキンス本人はSmackdown!に残留となったが直後にFCWでの再調整を命じられた。(ただしWWE公式ホームページではSmackdown!所属のまま掲載されていた。) FCWではデュードバスターズ(ケイレン・クロフト & トレント・バレッタによるタッグチーム)に加入し、3人合同でFCWフロリダタッグチーム王座を獲得したが、ジョー・ヘニング & ブレット・デビアスとの王座戦でホーキンスがフォールを取られたため陥落している。その後はヴァンス・アーチャー & ジャクソン・アンドリュースとユニットを結成した。

2010年5月13日放送のWWEスーパースターズでヴァンス・アーチャーとタッグを組んで登場。ジョバー2人に圧勝しおよそ1年ぶりにWWEへの復帰を果たした。 その後タッグ名をゲート・クラッシャーズとし、クリスチャン、MVPとの抗争が組まれるがうやむやのまま短期間で終了し、その後はWWEスーパースターズを中心にデュードバスターズとの3回にわたっての抗争を繰り広げるも1勝2敗と負け越している(なお2敗ともアーチャーがピンフォールを奪われたものである)。その後Smackdown!でビッグ・ショーとのハンディ戦の際にショーのキャメルクラッチに捕まったアーチャーを救出しないなど仲間割れの兆候が見え始める。そして10月7日放送のWWEスーパースターズにおいてクリス・マスターズとのシングルマッチに挑むアーチャーに勢い余ってクローズラインを誤爆されたことに怒りが爆発し足をつかんで妨害したうえに、敗れたアーチャーに試合後も暴行を加えてタッグを解消した。

10月14日のWWEスーパースターズで入場曲をジ・エッジヘッズ時代のものに戻し、トレント・バレッタに勝利してシングルプレイヤーに転向した。

獲得タイトル

  • WWE・タッグチーム王座 : 1回(w / ザック・ライダー)
  • FCWフロリダタッグチーム王座 : 1回(w / ケイレン・クロフト、トレント・バレッタ)

入場曲

  • In the Middle of it Now(現在使用中)
  • Outcome(FCWで使用)
  • Black Fury(ゲート・クラッシャーズ時代に使用)

その他

  • WWE.com内の番組「ダート・シート」に出演した際には自身のことを「The Youngest WWE Tag Team Champion」と自己紹介していたが、2004年にレネ・デュプリーが満20歳で獲得しているため、この場合の「Youngest」はタッグの合計年齢を指すものである(レネ・デュプリーとケンゾー・スズキの合計年齢は50歳、一方、ホーキンスとザック・ライダーの合計年齢は46歳である)。また世界タッグ王座の合計年齢の最年少はケニーとマイキーの合計42歳である。













 
   ↑ トップへヤフーオークション  


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system