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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/16


 
 


 
 

ジョージ・スティール
George "The Animal" Steele
1937/4/16

アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミシガン州デトロイト出身。本名はウィリアム・ジェームズ・マイヤーズWilliam James Myers)。

ジ・アニマルの異名通り、スキンヘッドに全身剛毛の狂獣系ヒールとして一時代を築いた怪奇派レスラーの大御所である。1980年代半ばからはWWF(現・WWE)でコミカルなベビーフェイスに転向し、子供達の人気を集めた。

※日本では「ジョージ・スチール」と表記されていたが、本項では原音に近い表記に準ずる

来歴

ミシガン州立大学を卒業後、ミシガン州マディソンハイツで高等学校の体育教師をしていた。教職に就く一方、地元デトロイト地区のプロモーターだったバート・ルビーに師事し、1962年にプロレスラーとしてデビューする。当時は教員を続けながら学校の休暇時にリングに上がり、素性を隠すために覆面レスラーのザ・ステューデントThe Student)として試合を行っていた。

その後、覆面を脱いで狂乱ファイターのジョージ "ジ・アニマル" スティールに変身。ハイスクールでアメリカンフットボールとレスリングの非常勤コーチを務めつつ、本格的にプロレスに注力するようになる。1967年からはニューヨークのWWWFに進出。翌1968/5/20には、マディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦している。

以降、1980年代初頭までデトロイトのNWAビッグ・タイム・レスリングとWWWF(WWF)を主戦場に、両テリトリーを股にかけて活躍した。本拠地デトロイトではザ・シークやボボ・ブラジルと遺恨試合を繰り広げ、1980年にはNWA世界タッグ王座を獲得。ニューヨークではゴリラ・モンスーンやチーフ・ジェイ・ストロンボーと抗争し、ペドロ・モラレス、サンマルチノ、ボブ・バックランドら歴代王者にも再三挑戦した。

この間、日本には1971年7月に日本プロレス、1974年7月に全日本プロレス、1979年6月に新日本プロレスに来日している。直線的で単調な試合スタイルが日本では受け入れられず、実績を残すことはできなかった(なお、WWFでは1981年にキラー・カーンとタッグチームを組んだことがある)。

1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米侵攻を進めていたWWFと再契約。ミスター・フジをマネージャーに迎え、かつてと同様ヒールのポジションでWWF世界王者ハルク・ホーガンに挑戦したが、1985年5月のサタデー・ナイト・メイン・イベントの6人タッグマッチにおいて、悪党仲間のアイアン・シーク&ニコライ・ボルコフと仲間割れ。これを機にベビーフェイスに転向し、異色の人気者となる。1986年からはランディ・サベージとの抗争がスタートし、サベージのマネージャーだったミス・エリザベスに恋をするという美女と野獣アングルも組まれた。1988年には "Mine" なるハンドパペットを「友人」として帯同するなど、後のマンカインドとミスター・ソッコのギミックの先駆的存在ともなった。

その後もWWFの前座戦線で活躍していたが、1988年にクローン病を患い引退。リタイア後は、その特異なキャラクターを活かし俳優業にも進出、1994年公開の映画『エド・ウッド』(ティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演)では、同じく元プロレスラーの俳優トー・ジョンソン(Tor Johnson)の役を演じた。風貌が似ていることから、スティールはレスラー時代にジョンソンと間違えられることが度々あったという。

1995年にWWF Hall of Fameに迎えられ、1997/12/29にはTAKAみちのくのパートナーとして『Raw is War』に出場(ジェリー・ローラー&ブライアン・クリストファーと対戦)。翌1998年末からはベビーフェイスの怪物軍団オディティーズ(クルガン、ゴルガ、ジャイアント・シルバ)のマネージャー役でアティテュード期のWWFに復帰した。

2000/1/10にはWCWの『マンデー・ナイトロ』でジェフ・ジャレットと対戦、クリス・ベノワとアーン・アンダーソンのフォローを受けて勝利を飾っている。近年もインディー団体にスポット参戦しており、2008/6/8にはジェイク・ロバーツ、カマラ、ココ・B・ウェアと共にTNAのPPV "Slammiversary" に登場。ジェイ・リーサルとソウ・カル・バルのウェディング・セレモニー(かつてWWFで行われたランディ・サベージとエリザベスの結婚式のパロディ)に出席した。

2010/11/15、"Old School edition" と銘打って行われたスペシャル版のWWE『Raw』に出演、コフィ・キングストン対デビッド・オタンガ戦に乱入し、往年の"Big Bite"(ターンバックルの噛み破り)を見せた。

エピソード

  • ヒール期のインタビューシーンでは、よだれを垂らしながら緑色に塗られた舌を突き出していた。マネージャーのフレッド・ブラッシーによると、口の中にクロレッツを含んで色を付けていたとのこと。
  • 少女時代のステファニー・マクマホンは、スティールを本当の狂人と思い込んで真剣に怖がり、会場で彼に出くわすとビンスの後ろに隠れて怯えていたという。

 
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グラン・アパッチェ
Gran Apache
1959/4/16

メキシコのプロレスラー。メキシコ・メキシコシティ出身。本名はマリオ・バルブエナ・ゴンザレス。

ラファエル・サラマンカ、ブルー・デモン等のコーチを受け、1975/8/8トルーカでデビュー。1998年にAAA入りしルードに転向。

日本には1995年よりIWA JAPANに来日、その後もみちのくプロレスにも参戦、近年ではハッスルのリングにも上がっている。

タイトル履歴

  • AAA混合タッグチーム王座
  • サンペドロイスタカルコ・ライトヘビー級王座
  • アレナサンタマルタタッグチーム王座
  • パピヨンアステカタッグチーム王座





ヴィッキー・ゲレロ 
Vickie Lynn Guerrero
1968/4/16

アメリカのプロレス団体WWEなどで活躍したプロレスラーであったエディ・ゲレロの未亡人である。

WWEでの活動

WWEへの登場は2005年からで、エディとレイ・ミステリオとの確執や、エディ死後のチャボ・ゲレロとミステリオとの抗争などに関わった。

2007年10月には、セオドア・ロングが(アングルによる)心臓発作によってスマックダウンのゼネラルマネージャーを退いたことによって、その後任となった(当初はGM代行という肩書きだったが、後に正式なGMに任命される)。就任当初は、前任のロングの路線を引き継いで善良なGMとして活動したが、エッジとの恋愛が発覚したことをきっかけにヒールターン、エッジを勝利に導くためにあらゆる手段を講じるようになる。

また、2008年にはエッジ、チャボ、カート・ホーキンス、ザック・ライダーとラ・ファミリアと称するチームを結成。数々のライバルと激しい抗争を繰り広げ、その中でジ・アンダーテイカーからリング上でツームストーン・パイルドライバーを浴びる羽目にもなった。

エッジとは(アングルによる)結婚をするが、程なくしてエッジの浮気が発覚して激怒、サマースラムにてエッジにテイカーとヘル・イン・ア・セルで戦わせるという制裁を加え、敗れたエッジが長期欠場に追い込まれたことで、一旦は破局したかのように思われた。しかし、サバイバー・シリーズでのトリプルHとウラジミール・コズロフとのWWE王座戦に介入、試合をトリプルスレットマッチに変更して欠場明けのエッジを途中参加させるという強権発動によって、エッジをチャンピオンに返り咲かせることに成功し、関係が復活する。

ストーリー展開では試合に出場したり、レフェリーを務めることがある。また、スマックダウンに女子王座がなかったことから、2008年7月にディーヴァズ王座を創設した。2009年3月には、RAWのGMであったステファニー・マクマホンが抗争で負傷したため、その代行も務めるようになった。4/1には公式サイトで妊娠したことが発表されたが、これはジョン・シナの発案によるエイプリルフールのジョークであった。レッスルマニア25の後、正式にRAWのGMに就任し、スマックダウンのGMからは退任(後任はセオドア・ロング)することが発表された。

RAWのGM就任後はビッグ・ショーとの不倫がジョン・シナによって暴露され、ビックショー、エッジとの三角関係が展開された。その後は、サンティーノ・マレラから豚呼ばわりされたのをきっかけに、マレラの妹サンティーナと「ミス・レッスルマニア」の座を巡る抗争を展開。一度はRAWでミス・レッスルマニアをサンティーナから奪うも、6/7のExtreme Rulesでの豚小屋マッチで敗れ、ミス・レッスルマニアの座を失う。マレラ兄妹との抗争中にはチャボ、リーガル、マットをGMの特権を利用して協力させたりしていた。

エクストリーム・ルールズの翌日のRAWで「RAWを根底から揺るがす発表を行なう」と宣言して自らのGM辞職を表明。するとエッジが現れ、職権を利用するために結婚したことを激白して離婚へ。この放送を最後にWWEを退団した(アングルではなく正式に退団)。

その後10月にスマックダウン10周年の記念特番が放送された際に新しい恋人(アングル上)のエリック・エスコバーを連れて再びWWEに登場し、以降エスコバーのマネージャーとして活動する。11月には会長のビンス・マクマホンによりスマックダウンの相談役に任命される。その後GMのセオドア・ロングにエスコバーとジョン・モリソンのIC王座戦を半ば無理やりに組ませた。しかしエスコバーが王座奪取に失敗したことに怒り試合後のエスコバーに平手打ちをし別れを告げ、エスコバーとの恋人アングルは終了した。その後はドルフ・ジグラーと恋人アングルが開始され二転三転していたが、ジグラーは8月6日のスマックダウンでコフィ・キングストンからIC王座を奪取し落ち着いた。しかしNXTシーズン3で指導しているケイトリンとの不倫が発覚し、三角関係となっていたがケイトリンが身を引く形で終わった。

ステージへの登場時やマイクアピールに対して観客のブーイングが鳴り止まないときなど、"Excuse me!"と連呼するのが定番となっており、これを抗争中のレスラーからからかわれていた。

プライベート

エディ・ゲレロとは1990年4月に結婚。2人の間には2人の娘が誕生した。


レガシー・オブ・
エディ・ゲレロ
レガシー・オブ・エディ・ゲレロ
エディ・ゲレロ
スポーツセル
エディ・ゲレロスポーツセル
エディ・ゲレロ
ライ・チート・スティール
(2枚組)
ライ・チート・スティール





K-ness.
1974/4/16

日本のプロレスラー。本名は斎藤 誠(さいとう まこと)。東京都練馬区出身。身長172cm、体重80kg。血液型B型。DRAGON GATE所属。

来歴

アニマル浜口レスリング道場でトレーニングを行なった後、1996年にみちのくプロレスでデビュー。その後レッスル夢ファクトリーに移籍し、MAKOTOのリングネームで闘龍門JAPANに参戦、C-MAXの一員となるもTARUと不仲を起こし、敗者追放マッチに敗れ闘龍門マットから姿を消す。

その後、謎の覆面レスラー、ダークネス・ドラゴン(通称・クネス)として闘龍門マットに再登場。望月成晃率いるM2Kに加入し、ドラゴン・キッドと抗争を繰り広げるが、2002年に有明コロシアムで行われたマスカラ・コントラ・マスカラ戦でキッドに敗れ、マスクを脱ぎ素顔を公開する。

抗争終結後はマスクを一新してリングネームを現在のK-ness.に改め、一時は正規軍に所属していたが、それは斎藤了を引き込む為のスパイ行為であり、リーダーがマグナムTOKYOに替わったM2Kに再合流してDo FIXERを結成。2003年以降は肩の怪我に悩まされ、欠場を繰り返す。

2004年、DRAGON GATEの発足と同時にDo FIXERを離れ、望月らとファイナルM2Kを結成。その後は椎間板ヘルニアを患い、2005年末のKING OF GATE出場を最後に長期欠場を宣言。2006年のワールド記念ホール大会で復帰したが、状態はまだ思わしくなく、継続して試合に出ることは出来なかった。

2006年末にトップ戦線から一歩退いた形として再度復帰、またファイナルM2Kからの脱退と前後してDRAGON GATEの現場監督に就任する。それからは“ハリウッド”ストーカー市川等とコミカルな試合をするのがリング上での主な姿だったが、体調が上向いてきたことから2007年8月に行われたタッグリーグ戦にドン・フジイと組んで出場。同時に第一線への復帰を宣言する。リーグ戦の結果は厳しいものであったが、翌9月に博多スターレーンで行われたトライアングルゲート選手権で勝利を収め、戴冠と共に完全復活をアピールした。

現在は選手として活躍する傍ら、現場監督としても、冷静な判断と場を読む上手さと間をいかしたマイクアピールで、DRAGON GATEを統括している。

2009/12/20に12月27日の福岡国際センターでのマスカラ・コントラ・カベジェラ金網マッチに出場予定だった負傷欠場中の斎藤了の代役として登場し、REAL HAZARDに加入した。

その後、横須賀享とユニットを離脱(その後REAL HAZARADは分裂)その後ユニットには属さずに横須賀享と「クネスカ」として活動

2010/1/11に最多防衛記録をかけた谷嵜なおきから勝利し、悲願のブレイブゲート奪取。 設立者の一人だが、意外にも初戴冠であった。 2月7日に博多スターレーンでPACから防衛を果たすも、 2月27日の京都KBSホールでスペル・シーサーからベルトを奪われる。

5/13の後楽園ホールで横須賀享と共にツインゲートを奪取。 第12代王者に輝いた。 その後4度の防衛に成功するが、土井成樹&Gamma組に奪われてしまう。

リングネーム

斎藤誠が用いたことがあるリングネーム

斎藤誠(本名)
MAKOTO
素顔にペイント。
ダークネス・ドラゴン
ウルティモ・ドラゴンもしくはドラゴン・キッドを模した黒いマスク。
K-ness.(現在も使用中)
マスク側頭部の「龍」の部分が十字架に変更されるなどなどドラゴンからは独立したキャラクターになる。その後、イメージカラーを青に変更。アニマル浜口道場からの友人である吉江豊が参戦したときは、吉江のカラーに合わせてピンク色のコスチュームだった。
ターボness.

その他

  • ダークネス・ドラゴンからK-ness.に改名するきっかけはM2Kの時の仲間チョコフレークK-ICHIがアダ名で呼んでいたことに由来する。
  • YOSSINO(現:吉野正人)との抗争で吉野の新技に「白夜」と名付けたり、公式掲示板で時折詩を書く等ポエマーとしても知られる。
  • かなりのゲーマーで、新幹線での移動中などはPSPなどで時間を潰している。
  • かなりのドラゴンボール(漫画)好きであり、自宅にはレアフィギアなどを数え切れないほど所有している。
  • 現場監督というポジションのため、試合後、選手に呼ばれて『こいつと試合を組ませてくれ。』と要望されることが多々あるが、その際、『いいよ。』と即座に軽く答えることがある。
  • ブレイブゲート王座の提唱者の一人。
  • かなりの酒豪であるが現在は節制中。2007年に入ってからのコンディションの向上は禁酒によるものとも言われる。
  • たびたび若手お笑い女芸人の合コンの話で出てくる(合コンの時もマスクを被っていると言う話)。

K-ness.ブログ
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DRAGON GATE
2010 1st season
DRAGON GATE 2010 1st season



DRAGON GATE 2009
final season
DRAGON GATE 2009


DRAGON GATE
special edition
関西テレビ×
DRAGON GATE
DRAGON GATE 2009

  



ジョー・ドーリング
Joe Doering
1982/4/16

アメリカ合衆国のプロレスラーである。イリノイ州シカゴ出身。

来歴

プロレスデビューは2004/12/19。TNAではTVショーのTNA iMPACT!やPPV大会にも出場していた。

2007年6月に、全日本プロレスにフィル・アトラスと共に留学生として来日。道場で若手選手、練習生と共同生活をしていた。

2007/6/24から始まったCROSS OVERシリーズで日本マットデビュー。7月には武藤敬司からVOODOO-MURDERS退治のパートナーに抜擢された。

2007年8月いっぱいで留学期間を終え、9月シリーズからは一外国人選手として参戦。

2007/10/18の代々木大会では諏訪魔から勝利を奪う。

2007年11月からは武藤敬司と共に世界最強タッグリーグへの出場し、優勝を果たした。

2008/1/3の後楽園大会で武藤と共に小島&TARU組から世界タッグ王座を奪取。自身初の王座獲得となった。

2008/3/22の新潟大会ではタッグ戦ではありながらも太陽ケアからも勝利を収めた。

2008/4/5から開催されたチャンピオン・カーニバルに出場。西村修、そして前三冠王者の鈴木みのるから勝利を収めた。

2008/5/11、後楽園大会でVOODOO-MURDERSの外国人選手ゾディアックと一騎打ちが実現し、スパイラル・ボムで勝利。試合後VOODOO-MURDERSがジョーの髪とゾディアックのマスクを賭けたリベンジマッチを要求しこれをジョーが受諾。5月25日の神戸大会でマスカラ・コントラ・カベジェラマッチで再戦し、その試合でも勝利した。

2008/6/28、鈴木みのる、太陽ケア組に破れ世界タッグ王者から陥落。

2008/9/13、GURENTAIとのキャプテンフォールイリミネーションマッチに出場。武藤敬司等の攻撃が誤爆し退場となるときに本隊と不穏な空気を見せた。だが、その後のシリーズでは特に異常な様子は見られず、良好に試合をこなしていたため、この空気は一時治まったかのように見えた。しかし、最終戦でパートナーである真田聖也にレボリューションボムを食らわせてまさかのVM入りとなった。

VM加入後はトレードマークの金髪とVMカラーの赤を混ぜている。2008年の最強タッグではゾディアックとの『ブードゥータワーズ』で出陣し、その圧倒的な破壊力で相手を圧倒し最終戦前まで勝ち点8と優勝決定戦進出を目前としていた。ところが、ゾディアックが急性腹膜炎で緊急手術をすることになり、リタイアとなった。

2010年、WWEとマイナー契約を結び、3月にFCWにてデビューした。4月にリングネームをドレイク・ブリュワーに変更。体格、力が上のレスラーが多いせいか出番が少なく、9月に解雇という形になってしまった。

2010/11/5、全日本プロレス台湾大会に於いてチャーリー・ハースの諸般の事情による欠場を受けて、急遽出場となった。

エピソード

  • プロレス評論家でGAORAの全日本プロレス中継で解説を勤めている小佐野景浩が留学生当時の時に「今年(2007年)の暮れぐらいにはすごい戦力になっているかも」と言っていたが、その通りに2007年10月には諏訪魔から金星を挙げ、12月の最強タッグリーグでは武藤と共に優勝、2008年1月には武藤とのコンビで小島&TARUから世界タッグ王座を奪取するなど、当時の全日本正規軍には欠かせない選手の1人となった。
  • 留学生当時はなぜか『ジョン・ドーリング』と表記されていた。

タイトル歴

  • 世界最強タッグ決定リーグ戦 2007 優勝(パートナーは武藤敬司)
  • 世界タッグ王座・・・第54代、第58代(パートナーは武藤敬司→KONO)





レイ・メンドーサ
Ray Mendoza
1929/6/6 - 2003/4/16

ホセ・ディアス・ヴェラスケスJosé Díaz Velazquez)は、メキシコの元ルチャドール(プロレスラー)。

実子が順にビジャノ1号、2号、3号、5号、4号、義理の娘はラ・インフェルナル(3号の妻)。彼らのユニット名は「ロス・ビジャノス」と呼ばれる。

来歴

1950年にプロボクサーとしてデビュー。1954年に「チャト・ディアス(Chato Diaz)」のリングネームでプロレスデビュー。また「エル・ラヨ・ロホ」(El Rayo Rojo)のリングネームで覆面レスラーだった時期もある。

1955年より「レイ・メンドーサ(Ray Mendoza)」のリングネームを用いるようになる。

1959/9/11にドリー・ディクソンを破りNWA世界ライトヘビー級王座を奪取を皮切りに以降1967年、1968年、1970年、1972年、1973年と計6度の王座についた。

1963/11/30にエスパント1号を破りメキシコナショナルライトヘビー級王座を奪取。1967/3/11にレネ・グアハルドを破りNWA世界ミドル級王座を奪取。

1970/12/4にジョン・トロスを破りユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座を奪取。1971年1月にミル・マスカラスと組んでブラック・ゴードマン&エル・ゴリアスを破りNWAアメリカスタッグ王座を奪取。1972年にラウル・マタ、1973年にはラウル・レイエスと組んで同ベルト奪取を。1971年3月に日本プロレスに来日。1975年1月には長らく所属だったEMLLを離れフランシスコ・フローレス、ベンジャミン・モーラらとともに新団体ユニバーサル・レスリング・アソシエーション(UWA)を旗揚げ。11月には新設されたUWA世界ライトヘビー級王座の初代王者となる。

1982年にリタイア。2003年4月に病死。

タイトル歴

  • NWA世界ライトヘビー級王座 : 6回
  • メキシコナショナルライトヘビー級王座 : 3回
  • NWA世界ミドル級王座
  • ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座 : 1回
  • NWAアメリカスタッグ王座 : 3回













 
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