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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/21


 
 


 
 

輪島 功一
1943/4/21

日本の元プロボクサー。元WBA・WBC世界スーパーウェルター級王者。現在はタレント兼団子屋経営者。本名は輪島 公一(読み同じ)。樺太出身、北海道士別市育ち。血液型はB型。

世界スーパーウェルター級王座を3度獲得(1度目と2度目はWBA・WBC統一王座。3度目はWBAのみ)。"炎の男"の異名を持ち、"かえる跳び"等で知られる変則右ボクサー。具志堅用高、ガッツ石松、輪島功一の三人でボクシング界の重鎮として共演することが多い。

次男はプロボクサーの輪島大千。


だんごの輪島

 
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ビッキー・ウィリアムス
Vicki Williams
1956/4/21

アメリカ合衆国の女子プロレスラー。ジョージア州サバンナ出身。ベアフットの選手として知られた。

来歴

1970年
  • WWWF(現・WWE)でデビュー。
1972年
  • 7月、女子初となるマディソン・スクエア・ガーデンでの試合として師匠ファビュラス・ムーラと対戦。
1973年
  • 10月、ジョイス・グレーブルとのタッグでNWA世界女子タッグ王座獲得。
1974年
  • 11月、国際プロレスに初来日
1979年
  • 「日米対抗リーグ戦」で全日本女子プロレス初参戦。
  • 12月、UWA世界女子初代王座獲得。
1980年
  • 引退

タイトル

  • NWA世界女子タッグ王座(パートナーはジョイス・グレーブル)
  • UWA世界女子王座

ディーバ プレミアムBOX
ディーバ プレミアムBOX






ブルータス・ビーフケーキ
Brutus Beefcake
1957/4/21

エド・レスリーEdward Harrison Leslie)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州タンパ出身。ハルク・ホーガンとは幼馴染であり、兄のように慕っていた。

来歴

幼少時代から近くに住む4歳年上のテリー・ボレア(ハルク・ホーガン)と行動を共にし、ホーガンが高校卒業後にプロレスラーになる夢を抱くと、レスリーも真似をするかのようにプロレスラーを目指す。ヒロ・マツダからプロレスの基礎を教わったホーガンは、その基礎をレスリーにも教え共に成長する。

1978年、地元フロリダ州のNWA傘下団体でデビュー。当時のホーガンのリングネームであったテリー・ボールダーにあやかり、エディ・ボールダーとして戦う。その後ホーガンがディジー・ゴールデンに改名すると、レスリーもディジー・ホーガンに改名。この頃からギミックとしてホーガンの弟を名乗るようになり、その後エド・ハリソン・レスリーに改名した頃から、ホーガン自身もレスリーとは実の兄弟だと称するようになる。そのためかギミックとは知らず2人を本当の兄弟だと信じていたファンが多かった。

1980年にホーガンが新日本プロレスに登場して常連外国人となると、1982年にレスリーもホーガンの弟として新日本に初来日。新日本プロレスはレスリーをホーガンとの「兄弟タッグ」で売り出そうとしたが、レスリーがタッグ結成を拒否し、ホーガンとのマッチメイクを希望したためお蔵入りとなる(拒否の理由は、『自分は兄ホーガンを倒すためにレスラーになったから』というものだった。実際、新日本では一度もタッグを組んでいない)。

翌年ホーガンがWWF(現WWE)と契約したことから、ホーガンの仲介でレスリーもWWF入りを果たす。WWFでは顔の一部を整形してブルータス・ビーフケーキを名乗り、モデルからプロレス入りした唯一の男をギミックに、ジョニー・バリアントをマネージャーに付けてキザなヒールとして活躍。1985年にはグレッグ・バレンタインとのタッグ "ザ・ドリーム・チーム" を結成し、同年8月24日にバリー・ウインダム&マイク・ロトンドのUSエクスプレスを破りWWF世界タッグ王座を奪取した(翌1986年4月7日のレッスルマニア2でブリティッシュ・ブルドッグスに敗れ王座から転落)。

1987年にバレンタイン&バリアントと仲間割れを起こし、ベビーフェイスに転向。アドリアン・アドニスとも抗争を開始し、レッスルマニアIIIで行われたロディ・パイパー対アドニスの髪切りマッチにおいて、パイパーに加担して敗者アドニスの髪を切ったことからザ・バーバー(散髪屋)のニックネームが付けられる。これをきっかけに、園芸用の大バサミを持っての入場パフォーマンスを展開。「ザ・バーバーショップ」なるインタビューコーナーも担当し、理髪店を模したセットを舞台に、主にヒールサイドのレスラーを相手に舌戦を展開した。もともとレスラーとしての技能よりもトークの上手さなどのタレント性が評価されていたこともあり、このフェイスターンは成功を収めた。

しかし1990年、パラセーリング中のアクシデントで顔面を強打し長期欠場を余儀なくされる。翌年にフェイスマスクを付けて復帰するが、レギュラー出場は見送られスポット的にリングに上がっていた。1993年に映画出演などで一時引退していたホーガンがWWFに復帰すると、タッグチーム "メガ・マニアックス" を結成。1990年代前半にはホーガンの新日本プロレス参戦の条件としてビーフケーキも同行するという決まりがあったため、新日本でも何度か試合を行っている。

1994年にホーガンがWCWへ移籍すると自身もWCWと契約。当初はケビン・サリバン率いるダンジョン・オブ・ドゥームのメンバーとしてホーガンと敵対していたが、nWoではホーガンの「信者」として共闘した。WCW時代はザ・ブッチャーゾディアックディサイプルなどリングネームを数多く変えているが、どれも活躍はできなかった。その後、WWF時代に起こしたパラセーリング事故の後遺症によって、しばらく試合を行っていない。

2000年代に入ってからはインディ団体に単発的にゲスト参戦しており、2007年8月にはJCWにてかつての名パートナー、グレッグ・バレンタインとのタッグを再結成している。

2009年11月にはハルク・ホーガンがオーストラリアにて主宰したハルカマニアツアーに参加し、ジョン・ハイデンライクらと対戦した。

獲得タイトル

  • NWAサウスイースタン・タッグ王座:3回(w / ケン・ルーカス×2、ロバート・フラー×1)
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / グレッグ・バレンタイン)


WWE レッスルマニア・
アンソロジーBOX1
I-VII
WWE レッスルマニア・アンソロジーBOX



レッスルマニア27
レッスルマニア27



ロイヤルランブル
アンソロジーBOX 1988-2007
ロイヤル・ランブルDVD-BOX







ワイルド・アンガス
Wild Angus
1934/10/19 - 2005/4/21

フランシス・パトリック・オイFrances "Frank" Patrick Hoy)は、イギリス・北アイルランドのエニスキレン出身のプロレスラー。 英国マットを本拠地に、アメリカやカナダにも参戦。ヨーロッパ流の本格テクニックを持ちながら、ザンバラ髪に髭面という悪相と巨体を武器に、異能派のラフ&パワーファイターとして活躍した。

来歴

初期はアンガス・キャンベルAngus Campbell)を名乗り、スコットランド出身のイアン・キャンベルとの大型タッグで売り出す。1968年8月、当時ヨーロッパとの提携ルートを持っていた国際プロレスにワイルド・アンガスWild Angus)名義で初来日。翌1969年9月にも再来日し、フランス出身のスパルタカスとのコンビで豊登&ストロング小林のIWA世界タッグ王座に挑戦している。

1970年代からは北米マットにも進出。1971年にはカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリング(スチュ・ハート主宰)にて8月にレス・ソントン、11月にビッグ・ジョン・クインを破り、同団体の看板タイトルである北米ヘビー級王座を2回に渡って獲得した。1972年にはアメリカ中西部のカンザス州とミズーリ州をサーキット・エリアとするNWAセントラル・ステーツ地区に転戦。オックス・ベーカー、ザ・ストンパー、ルーファス・ジョーンズ、ボブ・スウィータンらとタイトルを争い、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。

そのグリゴリー・ラスプーチンを思わせる特異な風貌から、1974年にはラスプーチンRasputin)のリングネームで太平洋岸北西部のPNWに出現。8月にジミー・スヌーカからパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を奪取した。1976年9月には国際プロレスに久々に来日し、シングルではラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に、タッグではギル・ヘイズと組んでグレート草津&マイティ井上のIWA世界タッグ王座に挑戦。翌1977年5月にも、木村の首を狙って国際を襲撃した。

1978年6月には本拠地の英国でヨーロピアン・ヘビー級王座を獲得。同年12月、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にビル・ロビンソンの異色のパートナーとしてヨーロッパ代表で出場。前年の世界オープンタッグ選手権ではホースト・ホフマンとの技巧派コンビで参加したロビンソンが、対アブドーラ・ザ・ブッチャー用の秘密兵器として、ラフに強いアンガスを新しい相棒に選んだという触れ込みだった。ザ・ファンクスを相手に45分時間切れ引き分けに持ち込むなど健闘もしたが、すでに全盛期を過ぎていたために戦績は振るわず、これが最後の来日となった。

1982年の引退後はスコットランドに在住し、森林警備隊員に転身した。2005年4月21日、スコットランドのストランラーにて死去。70歳没。

息子のスティーブ・ケーシー(Steve Casey、1963年 - )も元プロレスラーで、1987年と1988年に新日本プロレスに通算3回来日している。父親のアンガスとは対照的な正統派テクニシャンのハンサム・ガイだったが、レスラーとして大成することはできなかった。

獲得タイトル

  • カルガリー・スタンピード北米ヘビー級王座:2回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツTV王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ北米タッグ王座:1回(w / ロジャー・カービー)
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:1回
  • ヨーロピアン・ヘビー級王座:1回

  



ミスター・ヒト
Mr. Hito

1942/4/25 - 2010/4/21

大阪府大阪市天王寺区出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士、日本及びアメリカ合衆国やカナダで活動した元プロレスラー、トレーナー、マネージャー。本名は安達 勝治。力士時代の最高位は幕下17枚目。元阪神タイガースの安達智次郎は甥に当たる。

来歴

出羽海部屋の力士として活躍し、浪速海の四股名で幕下17枚目まで進んだが1967年に廃業し、日本プロレスへ入門。同じく大相撲からプロレスに転身した永源遙とのタッグで人気を得る。1973年に渡米。以降は海外を中心に活躍する。日本では、国際プロレスと全日本プロレスに登場。

カナダのカルガリーで活躍していたトーキョー・ジョーが交通事故に遭ったため、その代役としてプロモーターのスチュ・ハートに呼ばれたことが契機で同地を主戦場とするようになる。カルガリー時代は、ブッカー・トレーナーとしても才能を発揮。ダイナマイト・キッドを筆頭に、ブレット・ハート、馳浩、獣神サンダー・ライガー、橋本真也、リッキー・フジなどのトレーナーを担当。当初、日本から来た選手の多くは新日本プロレス所属だったが、ギャラの支払いを巡って新日本との関係が悪化してからは、全日本との関係が深まった。

リングネームは昭和天皇の名である裕仁(ひろひと)の後ろ二文字を借用したというのが通説だが、本人の口から真相が語られたことはなかった。ちなみに、作家の中島らもとの対談では、カナダに渡ったときは当初「ミスター・ヒロヒト」とされており「いくらなんでも畏れ多い」と、慌てて後ろ二文字に直してもらったと話している。

引退後は大阪・玉造にて姉の経営していたお好み焼き屋を引き継いだが、閉店。関西地区の各団体興行で試合を観戦する姿が目撃されていた。2005年カナダへ移住。2006/8/27、馳浩引退試合に来日しセレモニーへ参加した。

2010/4/21午前6時38分、大阪市内の病院にて死去。享年67歳。数年前から糖尿病を患い、入退院を繰り返していた[]

逸話

  • 現役時は豪放磊落な振る舞いで、プロレス界の先輩、永源に対しても呼び捨てだった(相撲ではヒトのほうが先輩に当たるため。引退後も永源とは仲がいい)。また口八丁振りではミスター珍に負けない程だった。だが年を重ね選手を育てる側に回ってからは非常に面倒見のいい人物としても知られている。特に橋本真也はヒトのことを慕っており、武者修行から帰国する際に「僕にはお父さんがいない(幼少時に蒸発)ので、ヒトさんをお父さんのように思っています」と手紙を残したり、ZERO-ONEでは自身のマネージャーとして招いたりした。ヒトも橋本が死去した時には非常にさみしそうな表情を見せていた。
  • お好み焼き屋のメニューには、にら入りのメニュー『ニラー・カーン』というものがある。
  • アントニオ猪木、ジャイアント馬場両名の金銭感覚を問われた際「猪木さんは、金の使い方を知らない人。馬場さんは、金の使い方を忘れた人」と答えていた。

獲得タイトル

  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ミスター・サクラダ)
  • NWAアメリカン・タッグ王座:3回(w / ミスター・サクラダ)
  • NWAカナディアン・オープン・タッグ王座(トロント版):1回(w / ミスター・モト)
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(カルガリー版):8回(w / ビッグ・ジョン・クイン×1、ギル・ヘイズ×2、ヒゴ・ハマグチ×1、マイク・マーテル×1、ミスター・サクラダ×2、ジム・ナイドハート×1)
  • スタンピード北米ヘビー級王座:2回
















 
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