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”重要なお知らせ”


2011/9/1よりパワーアップでページ独立!

 
 


 
 
プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/23


 
 


 
 

トニー・アトラス
Tony "Mr. USA" Atlas
1954/4/23

アメリカ合衆国のプロレスラー。バージニア州ロアノーク出身のアフリカ系アメリカ人。本名はアンソニー・ホワイトAnthony White)。

ボディビルのコンテストで3回に渡ってミスター・USAに輝き、レスラー時代はその驚異的なパワーとバネを活かした空中殺法でベビーフェイス人気を獲得。一時は黒人初のNWA世界王者の呼び声も高かった。2008年7月より、全盛期の1980年代における主戦場でもあったWWEに在籍、2009年の上期まで、ECWでマーク・ヘンリーのマネージャーとして活動した。

来歴

1974年、ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区でデビュー。1978年にケン・パテラからミッドアトランティック・ヘビー級王座を奪取して頭角を表す。その後はジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにて、アブドーラ・ザ・ブッチャーとの抗争やトミー・リッチとのタッグで活躍。ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦するなど、黒人レスラーのホープとして期待を寄せられた。

並行してニューヨークのWWF(現・WWE)にも進出、1980年には若手ヒール時代のハルク・ホーガンとも抗争を繰り広げている。1982年3月、WWFとの提携ルートで新日本プロレス「MSGシリーズ」の第5回大会に初来日。前年の第4回大会にも参加が決定していながら直前に中止になった経緯があり、待望の来日としてファンや関係者の注目を集めた。リーグ戦の戦績は振るわなかったものの、賞金1000ドルを賭けたベンチプレス・コンテスト(アトラス、マスクド・スーパースター、ドン・ムラコ、荒川真、ミスター高橋が参加)で優勝するなど数々の話題を残す。また、プロレス雑誌においてミミ萩原との対談などの企画も行われた。

1983年にはWWFでロッキー・ジョンソンと黒人タッグチーム「ソウル・パトロールThe Soul Patrol)」を結成、同年11/15にワイルド・サモアンズからWWFタッグ王座を奪取した。翌1984年、WWFがビンス・マクマホン(ジュニア)の新体制下で全米侵攻を開始すると、同王座を巡りディック・マードック&アドリアン・アドニスのノース・サウス・コネクションと各地で対戦。シングルでは、同じマッチョマン系のポール・オーンドーフと抗争を展開した。

一時AWAにも転出したが、WWFには1986年秋まで在籍。離脱後はテキサス州ダラスのWCCW(WCWA)にスーパーマンをイメージしたキャラクターで登場。1986/12/1にはクラッシャー・ユーコフ(後のバンバン・ビガロ)を破りTV王座を獲得している。1987年からはプエルトリコのWWCにも参戦(1988/7/17のブルーザー・ブロディ刺殺事件の際は、同じ控え室に居合わせた)。

その後はドラッグ問題などで一時はホームレス状態に陥っていたが、現在の妻でもあるモニカ・ホワイトの献身もあって社会復帰を果たし、1990年の末にWWFと再契約。アフリカの部族ギミックのサバ・シンバSaba Simba)に変身し、1991年のロイヤルランブルにも出場した。以降、1990年代はニューイングランドのCWAやEWAなど東部のインディー団体を転戦し、2000年代初頭にセミリタイアした。

2006年にWWE Hall of Fameを受賞。2008/7/8、WWE・ECWのマーク・ヘンリー対トミー・ドリーマー戦にスペシャルゲスト・リングアナウンサーとして登場。当初はレスラー時代と同じくベビーフェイスの立場でドリーマーとも友好ムードだったが、試合後にヒールターンしてヘンリーと結託。以降、2009年6月にヘンリーがRAWに移籍するまで、彼のマネージャーを務めた。トナカイの鼻を付けるなどコミカルな一面も見せ、時折、試合に出場することもあった。ヘンリーとのコンビ解消後は、エイブラハム・ワシントンが行なうトークショー(エイブラハム・ワシントン・ショー)の補佐を担当。ECWの番組終了後はスマックダウンに所属したが、2010/4/30、WWEを解雇された。近年もトレーニングを続け、その腕っ節は年齢を重ねても健在だった(フナキは「本当に元気な人だ」と語っていた)。

獲得タイトル

  • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAジョージア・タッグ王座:4回(w / トミー・リッチ、ミスター・レスリング2号、サンダーボルト・パターソン、ケビン・サリバン)
  • WWFタッグ王座:1回(w / ロッキー・ジョンソン)
  • WCCW TV王座:1回
  • WCWAテキサス・タッグ王座:1回(w / スキップ・ヤング)
  • WWC北米タッグ王座:1回(w / ミゲル・ペレス・ジュニア)
  • AWF北米ヘビー級王座:1回
  • CWAヘビー級王座:1回
  • EWAヘビー級王座:1回
  • WWE Hall of Fame:2006年度(プレゼンターはS・D・ジョーンズ)

 etc.


 
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テリー・ゴディ
Terry "Bam Bam" Gordy
1961/4/23 - 2001/7/16

アメリカ合衆国のプロレスラー。テネシー州チャタヌーガ出身。本名はテリー・レイ・ゴディ(Terry Ray Gordy)。日本では「人間魚雷」の異名を持つ。

甥のリチャード・スリンガー、息子のレイ・ゴディもプロレスラーである。パワーボムの元祖であり、この技を日本に定着させた。

来歴

生まれついての巨漢で、ほとんど訓練もしないまま年齢をごまかし14歳でプロレス入りしたとされ、1977年にテリー・メッカTerry Mecca)のリングネームでデビュー。1年後、地元テネシーで出会った2歳年上のマイケル・ヘイズ(現・WWEエージェント)と出会って意気投合し、翌1979年にテリー・ゴディと改名、タッグチーム「ファビュラス・フリーバーズ」を結成する。この名前は彼らが好きだったサザン・ロックのバンド、レーナード・スキナードのヒット曲『FREE BIRD』から取ったもので、入場曲も同曲である。なお、これがアメリカマット界で本格的に入場曲が使われるようになったきっかけといわれる。

以降、ヒールのタッグチームとしてテキサス州ダラスを中心に全米で活躍。1982年からはバディ・ロバーツを加えて3人組となり、ダラスの英雄フォン・エリック兄弟(ケビン、デビッド、ケリー)との抗争は凄まじい人気を得た。ヘイズとは1981年にジョージア地区のGCWで一時的に仲間割れし、ゴディはジミー・スヌーカを、ヘイズはテッド・デビアスを新パートナーに抗争を展開したこともある。

1983年8月に全日本プロレスに初来日。日本でのテリー・ファンク引退試合でのザ・ファンクスの対戦相手として、スタン・ハンセンのパートナーに起用された(テリー・ファンクは後に現役復帰)。翌年にはフリーバーズでの来日も実現したが、ゴディのみ全日本の常連となる。デビュー間もない頃に教えを受けたルー・テーズ直伝のパワーボムをフィニッシュ・ホールドとして頭角を現す。テリー・ゴディのパワーボムは技を決めた後に、そのままフォールの体勢に持ち込むのが特徴で、それ以降多くの日本のレスラー達が使うようになった。1988年にはスタン・ハンセンとのタッグで世界タッグ王座を獲得。また同年の世界最強タッグ決定リーグ戦を制覇した。1990年3月「殺人医師」ことスティーブ・ウィリアムスとタッグチーム「殺人魚雷」を組み、世界最強タッグ決定リーグ戦を1990年、1991年と二連覇する等活躍した。シングルでも1990/6/5にジャンボ鶴田から三冠ヘビー級王座を奪取している。意外にも外国人で三冠王者になった第一号は、ハンセンではなくゴディである。この時29歳だったが、20代の三冠王者はゴディと小橋建太の二人だけである。既に世界タッグ王者でもあったため、史上初の五冠王だった。また、全日本のリングに上がる前年の1982/3/1にジャイアント馬場のPWFヘビー級王座にジョージア州アトランタで挑戦しており、日本にもその試合が中継されている。

1984年8月にはフリーバーズとしてWWF(現・WWE)にも加入。シンディ・ローパーとのコラボレーションも実現したが、メンバー個々をシングルプレイヤーとして売り出そうとしたWWFに反発して2週間で離脱。その後、フリーバーズはダラスのWCCWを主戦場にAWAやUWF(ビル・ワット主宰)などにも参戦するが、1988年に一旦解散した。

1992年にスティーブ・ウィリアムスと共にWCW入りし、スコット・スタイナー、リック・スタイナーのスタイナー兄弟と抗争する。WCWは当時新日本プロレスと提携し、スタイナー兄弟は新日にも登場したがゴディ、ウィリアムズは全日本との契約は終了していたものの、全日本との関係を重視して登場しなかった。なお、ウィリアムスはゴディとのタッグの経験から試合展開の技術についていろいろと学ぶところがあったという。

1993年8月、全日本のシリーズを欠場。内臓疾患ということになっていたが、実際は一度、全日本参戦中に心停止したことがあり、病院に担ぎ込まれたというのが真相である(以下のエピソード含め、和田京平の著書『人生は3つ数えてちょうどいい』より。医者からは「ご家族を呼んでください」と言われたものの、突然起き上がって「帰る」などと言い出し、周囲の人間が仰天したというエピソードがある)。1年後の1994年7月、サマーアクションシリーズ中盤より全日本マットに復帰したものの全盛期の動きには程遠く、これが最後の全日本への来日となった。

その後1995年、IWA・JAPANに参戦。画鋲デスマッチ等を行った。1996年には覆面レスラーのジ・エクスキューショナーThe Executioner)としてWWFに登場。マンカインドと怪奇派のタッグチームを結成し、短期間ながらジ・アンダーテイカーと抗争した。1998年にはWARに登場。かつての三冠戦カードである天龍源一郎とのシングル戦が実現した。

ゴディは非常に強い痛み止めの薬を飲んでいたが、元来の酒豪であり(主にジャックダニエルを愛飲)、それとチャンポンしていたという。現在で言うステロイド剤の副作用もあり、精神的にも異常な行動が見えたことからそれが原因で全日本には呼ばれなくなったというのが真相である。IWA・JAPANに参戦時には、控え室で尿を垂れ流していたなどの行動も見られたという。持病の心臓病が悪化し、2001年7月16日にテネシー州チャタヌガの自宅で心不全で急死。40歳没。

最後の来日は同年2/4のIWA横浜文化体育館大会。死の直前に、プロレスリング・ノアを発足させた三沢光晴と旧交を温める様子がプロレスマスコミに流れたが、本人がノアに上がることはなく、一時息子のレイ・ゴディがノアに参戦するにとどまった。ジャンボ鶴田が苦手意識を持った数少ないトップレスラーで、1990年代前半にはプロレス四天王の大きな壁として立ちふさがった名レスラーであったことから、体調管理の甘さが悔やまれる。

獲得タイトル

全日本プロレス
  • 三冠ヘビー級王座:2回
  • 世界タッグ王座:7回(w / スタン・ハンセン×2、スティーブ・ウィリアムス×5)
ミッドアメリカ(テネシー)
  • NWAミッドアメリカ・タッグ王座:2回(w / マイケル・ヘイズ)
MSWA / UWF
  • ミッドサウス・タッグ王座:2回(w / マイケル・ヘイズ×1、バディ・ロバーツ×1)
  • ミッドサウス・ルイジアナ・ヘビー級王座:1回
  • ミッドサウス・ミシシッピ・ヘビー級王座:1回
  • UWF世界ヘビー級王座:1回
GCW(ジョージア)
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / マイケル・ヘイズ)
  • NWAナショナル・タッグ王座:4回(w / マイケル・ヘイズ×3、ジミー・スヌーカ×1)
SECW(アラバマ)
  • NWAアラバマ・ヘビー級王座:1回
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回
WCCW / WCWA(ダラス)
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / マイケル・ヘイズ)
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):1回
  • NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):5回(w / マイケル・ヘイズ&バディ・ロバーツ)
  • WCWA世界6人タッグ王座:1回(w / バディ・ロバーツ&アイスマン・パーソンズ)
WCW
  • NWA世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・ウィリアムス)
  • WCW世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・ウィリアムス)
その他
  • GWFタッグ王座:1回(w / ジミー・ガービン)
  • SMWヘビー級王座:1回





紅夜叉
1970/4/23

日本の元女子プロレスラー。本名:安田留美(やすだ るみ)、身長162cm、体重65kg、福井県小浜市出身。最終所属はLLPW。

経歴

  • 1989年 ジャパン女子プロレス後楽園ホールでの対北村真美戦でデビュー。同期にキャロル美鳥、GAMI、コマンド・ボリショイ、福岡晶らがいる。
  • 1991年 退団、引退。1992年のLLPW旗揚げに参加して現役復帰を果たす。
  • 1993年 木刀を片手に赤い特攻服を着て、レディース(女性暴走族)のギミックで人気が出る。これ以後LLPWならびに女子プロレス界に地味なレスラーをウケ狙いのおちゃらけ、コスプレキャラがブームとなる。
週刊プロレスが前身誌「プロレス&ボクシング」から通算1000号達成時には、表紙を飾った。
  • 1999年 結婚を機に引退。引退試合の対戦相手は神取忍。
引退後、2児の母となり、現在は静岡県三島市の三島駅南口近くにある居酒屋「なごみ亭」の女将として働いている。2006/12/18に放送されたテレビ朝日『快感MAP』の取材で初めて素顔を公開した。

獲得タイトル

  • オールパシフィック王座
  • 全日本タッグ王座(半田美希とのタッグ)





スター・バック
1973/4/23 

北欧フィンランドのプロレス団体FCF(Fight Club Finland)の創設者にしてプロモーター兼、選手。フィンランド系カナダ人。カナダのカルガリーでプロレスを学び、90年代後半にフィンランドに渡る。その後、欧州マットを転戦し、2006年にフィンランドでFCFを創設。2010年2月にFCFでTAJIRIとシングルで対戦。その後、SMASHに所属選手を送り込み、自らも2010年7月のSMASH5&6に初来日。名前に反してコーヒーが飲めない。

  



宮澤 元樹
1985/4/23

日本の総合格闘家。東京都渋谷区出身。和術慧舟會東京本部所属。明治大学政治経済学部卒業。

来歴

中学時から柔道を始め、高校2年時に和術慧舟會に入門。

2005/7/3、パンクラス主催「第3回プロ・アマオープン・キャッチレスリングトーナメント」100kg未満級(4人エントリー)に出場し、優勝を果たした。

2005/8/28、DEMOLITIONでプロデビュー。

2008/6/22、プロ4戦目となったCAGE FORCE 07で元修斗世界ライトヘビー級王者山下志功と対戦し、判定勝ち。プロ4連勝となった。

2008/7/21、DREAM初参戦となったDREAM.5で弘中邦佳と対戦し、左瞼カットによりTKO負け。プロ初黒星となった。

2010/8/22、SRC初参戦となったSRC14のSRCウェルター級グランプリのリザーブマッチで佐藤拓也と対戦し、0-3の判定負けを喫した。

















 
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