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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/24


 
 


 
 

ルー・テーズ
Lou Thesz
1916/4/24 - 2002/4/28

ハンガリー語: Tijas Lajos(ティヤシュ・ラヨシュ)、アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はアロイジャス・マーティン・ルー・テーズ(Aloysius Martin Lou Thesz)。ミシガン州バナット生まれ、ミズーリ州セントルイス出身。

日本では「鉄人」の異名をとり、多くのレスラーから20世紀最強であるといわれた、不世出のレスラーである。身長191cm、体重110kg。ジョージ・トラゴス、アド・サンテル、エド・ルイスなどにプロレスを教えられる。16歳でのデビューから、74歳での引退まで実に58年間もの現役生活を通した。
  • 1916年4月24日 - オーストリア・ハンガリー帝国のハンガリー人の靴修理工でレスリング選手であった父ティヤシュ・マルティン/マーティン・テーズ(Tijas Martin/Martin Thesz)と、ドイツ人の母との間に生まれた。姉妹は3人。両親はともにアメリカ合衆国への移民であった。2歳の時に家族と共にミズーリ州セントルイスへ移り住む。
  • 1933年9月 - 16歳でミズーリ州セントルイスのハリー・クック・アリーナでジョン・アンダーソンとプロレスデビュー戦、引き分けた。
  • 1936年 - ミズーリ州セントルイスのジムにてエド"ストラングラー"ルイス(後年専属マネージャーへ)と出会う。
  • 1937/12/29 - エベレット・マーシャルを破り、21歳でMWA世界ヘビー級王者となった(ミズーリ州セントルイス)。1938/1/25AWAの世界王者認定。
  • 1939/2/23 - ミズーリ州セントルイス(あるいはコロラド州デンバー)でエベレット・マーシャルを破り、NWA世界ヘビー級王者(旧NWA)となった。
  • 1939/6/23または7/19 - テキサス州ヒューストンでブロンコ・ナグルスキーに敗れNWA王座から陥落。
  • 1943年 - アメリカ合衆国陸軍に入隊、体育教官となった。テキサス州ヒューストン駐屯地で約4年間過ごした。
  • 1946/9/11 - カナダ・モントリオールでボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。
  • 1947/2/20 - 同地でボビー・マナゴフに敗れ王座陥落。
  • 1947/4/16 - 同地でボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。
  • 1947/11/26 - 同地でユーボン・ロバートに敗れ同王座から陥落。
  • 1947/4/25 - セントルイスでホイッパー・ビリー・ワトソンを破り、NWA世界ヘビー級王座を獲得。
  • 1947/11/21 - セントルイスでビル・ロンソンに敗れNWA世界ヘビー級王座から陥落。
  • 1948/7/20 - ビル・ロンソンを破り旧NWA世界ヘビー級第23代王者(NWA通算で第38代王者)となった。連勝記録の始まり。
  • 1949年11月 - 新NWAによる王座の正当化により、第38代王者(新NWA第2代王者)と認定された。過去獲得したものも第23、26、36代(旧NWAでは8、11、21代)として認定された。
  • 1955/5/22 - レオ・ノメリーニに反則で敗れ、テーズの連勝記録がとまる。記録は引き分けをはさんで936連勝。なお、タイトルのほうは反則負けのため王座移動はなし。
  • 1956年3月 - ホイッパー・ビリー・ワトソンに敗れ第38代NWA王座から陥落。
  • 1957年10月 - 日本プロレスに初訪日。力道山とNWA世界ヘビー級選手権で2度にわたり名勝負を繰り広げた。
  • 1957/11/14 - トロントでディック・ハットンに敗れNWA世界ヘビー級王者から陥落。
  • 1958年6月 - 世界各国を回り積極的に防衛を重ねた実績が認められ、NWA本部からインターナショナルヘビー級初代王者に認定された。
  • 1958/8/27 - 力道山に敗れてインターナショナルヘビー級王座から陥落した。
  • 1966/2/28 - 日本プロレスに特別参加で訪日し、ジャイアント馬場の持つインターナショナルヘビー級王座に挑戦。結果は馬場が2度目の防衛に成功。テーズから2ピンフォール取っての防衛は馬場の大きな勲章となった。
  • 1967年6月 - 初代TWWA世界ヘビー級王者に認定された。
  • 1968年1月 - 国際プロレス(当時はTBSプロレス)に訪日し、グレート草津のTWWA世界王座の挑戦を受けるが、1本目で実力を見破り、バックドロップで草津を失神させる。2本目は棄権、テーズが防衛に成功。草津をスターに仕立てようとするTBSの目論みは失敗に終わった。
  • 1973年10月 - 新日本プロレスに初登場、カール・ゴッチと組んでアントニオ猪木・坂口征二と「世界最強タッグ戦」を行う。なお、この年テーズ57歳、ゴッチ49歳であり、この年齢で「世界最強タッグ」の看板に説得力を持たせることが出来たあたり、当時のテーズの名声をうかがい知ることが出来る。
  • 1975年10月 - 新日本プロレスに訪日し、アントニオ猪木の持つNWF世界ヘビー級王座に挑戦する。
  • 1976/8/15 - 前年に旗揚げされたUWAから、初代UWA世界ヘビー級王者に認定された。
  • 1978年8月 - エル・カネックに敗れUWA王座陥落。
  • 1981年1月 - 国際プロレスで開催されたテーズ杯争奪戦に特別レフェリーとして来日。試合も行った。
  • 1983年4月 - 全日本プロレスに訪日し、ルー・テーズ杯決勝戦(越中詩郎 vs. 三沢光晴)のレフェリーを務めた。全日本にはこの時期数回来日し、ジャンボ鶴田にバックドロップを伝授している。
  • 1985/9/19 - 新日本プロレスに訪日し、IWGPヘビー級選手権試合:アントニオ猪木 VS 藤波辰巳戦(東京都体育館)の特別レフェリーを務めた。
  • 1986年 - 右臀部を手術する。以後レスラーとしてはセミリタイヤ状態となった。
  • 1990/12/26 - 日本での最後の試合。蝶野正洋と対戦し敗れる。この「試合の出来に納得が出来ず」、その後現役を引退。
  • 2002/3/9 - 妻チャーリーとともに訪日。U.W.F.スネークピットジャパン代表の宮戸優光の結婚式に出席。
  • 2002/4/28 - フロリダ州オーランドの病院で心臓バイパス手術を受けたが、肺炎を併発させて心臓疾患にかかり死去。86歳没。

主な獲得タイトル

  • NWA世界ヘビー級王座…第23、26、36、38、40、44代王者
    第38代王者の在位期間は7年
  • インターナショナル・ヘビー級王座…初代王者
  • WWA認定世界ヘビー…第21代王者
  • TWWA認定世界ヘビー…初代王者
  • UWA世界ヘビー…初代王者
  • NWAテキサスヘビー級

ベストレスラー25人

  • テーズが史上最強と考える5人のレスラー
    1. エド・ルイス
    2. ジョー・ステッカー
    3. フランク・ゴッチ
    4. ジム・ブラウニング
    5. ジョージ・ハッケンシュミット
    • 上記はいずれも第二次世界大戦前に活躍したレスラーである。テーズの考えでは、戦争によるレスラー不足をテレビ向けの動きしかできないレスラーで補ったことが原因で、一部の例外を除いて戦後のレスラーは戦前より劣るということである。
    • 上記レスラーのうち、テーズはエド・ルイスを特に尊敬しており、「20世紀最強のレスラーは私ではなく、ルイス」と述べていた。テーズは若手時代にルイスとスパーリングをする機会があったが、全く歯が立たなかったという。また、チャンピオン時代にはルイスを自らの専属マネージャーに招聘していた。
  • テーズが現役時代のライバルとして挙げる5人のレスラー
    • ジョージ・ゴーディエンコ
    • カール・ゴッチ
    • ダニー・ホッジ
    • ディック・ハットン
    • ルター・レンジ
    • 上記に加えて、力道山を挙げることもあった。
  • 上記以外で、テーズがベスト25人に挙げるレスラー
    • バート・アズラティ
    • ジャック・ブリスコ
    • マーティン・バーンズ
    • アール・キャドック
    • バーン・ガニア
    • グレート・ガマ
    • ボビー・マナゴフ
    • レオ・ノメリーニ
    • ビル・ロビンソン
    • アド・サンテル
    • ダラ・シン
    • レイ・スチール
    • ジョージ・トラゴス
    • スタニスラウス・ズビスコ

エピソード、その他

  • テーズのプロレス観の基本はレスリング技術を要する、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンであるため度々ショー的になったプロレスに対し苦言を呈している。ドロップキックなどのリアルでない技もあまり好まないが時流に乗るために仕方なく使用していたと言う。大技中心の攻防が主となってきた日本のプロレス界については「タフマンコンテストになりつつある」、近年のWWEに関しては「あれはカトゥーン(漫画)だ」と批判をしていた。
  • テーズはセントルイスのプロモーター、サム・マソニックと関係が深く、マソニックがNWAを設立すると、テーズは正統なレスリングのチャンピオンと認定された。その後もマソニックは常にテーズをレスリングの権威の象徴として扱い、一方、テーズも数多くのタイトルマッチを行って、NWAの勢力拡大に貢献した。
  • アメリカにおいては、テーズは1930年代から1990年代に及ぶ現役生活と6度の世界王座獲得により、別格のチャンピオンと認知されている。ただし、人気の面ではゴージャス・ジョージ、バディ・ロジャース、アントニオ・ロッカといった各時代の人気レスラーには及ばなかった(逆にこの三人は多忙だったため全盛時代の来日は無く、日本での認知度はテーズより低い)。
  • 日本においては、テーズは力道山との2度にわたるNWA世界ヘビー級選手権試合で注目され、外国人プロレスラーの多くが悪役であった時代に、正統派レスラーとして戦うことで強い印象を残した。また、日本では、936連勝という記録でも知られている(アメリカでは、この記録について語られることはほとんどない)。しかし、力道山の死後にグレート東郷と組んで日本のプロレスを乗っ取ろうと試みたり(テーズは「力道山の死後、困難な状況にあった日本のプロレスを助けたいと考えていたところ、その想いを東郷に悪用された」と釈明している)、新日本プロレスの長州力をグレーテスト18クラブ王者に認定する一方で、UWFインターナショナルの高田延彦をプロレスリング世界ヘビー級王者に認定して新日本プロレスを激怒させておきながら(その後も「日本におけるプロレスの発展を願うがための行動」として弟子である新日本プロレスの蝶野正洋と高田を戦わせよう画策した)、UWFインターナショナルの経営が傾くと早々に縁を切るなど(テーズによると「レスリングのできない大男でしかないベイダーを重用した時点で、UWFインターナショナルに失望していた」とのこと)、日本のプロレスファンの心情を逆撫でするような行動もあった。
  • アントニオ猪木対モハメド・アリに際し猪木にレフェリーを要請されていたがアリ陣営側から却下された。自身もボクサーとの対戦経験があるのでプロレスラーVSプロボクサーには非常に興味があったと言う。
  • 1981/1/31、国際プロレスの招きで来日していたテーズは、東急町田店スポーツ館の1日館長を務めた。その際のファン・インタビューで、「猪木、馬場、ラッシャー木村で誰が一番強いか?」という質問に対し、「相撲とレスリングをマスターしている木村だ」と、自分に対してお金を積んでいる人達に対して率直に高評価を下した。
  • 1991年には、『第15回アメリカ横断ウルトラクイズ』での罰ゲームで敗者2人の相手をしている。この時テーズ自身は75歳であったが、2人を圧倒してしまった。
  • テレビアニメ『タイガーマスク』には「ルー・ケーズ」というテーズをモデルにしたレスラーが登場する。どちらかというと「日本人レスラーの敵=悪役」というイメージであり、テーズスペシャルスマッシュ(拳によるパンチ)を多用している。ちなみに、ルー・ケーズ(Lou Kesz)というリングネームのプロレスラーが、かつて実在した。
  • よく、強さではカール・ゴッチと並び称されるが、ゴッチがひたすらに強さのみを求め、プロレス界から干されようともその考えを曲げなかったのに対し、テーズは自分の強さをアピールしつつ、あえて対戦相手に花を持たせるバランス感覚も持っていた。アントニオ猪木は「ゴッチは厳格な師匠、テーズは親しみが持てる親父さん」と評している。
  • テーズはカール・ゴッチをレスラーとして高く評価し、また、ゴッチがテーズと同じくハンガリー人とドイツ人の血を引いていることから、一時はゴッチとテーズはテーズの両親も含めて非常に親しい関係であった。しかし、テーズはレスラーとしてのゴッチは生涯高く評価し続けたが、後年にはゴッチと個人的な付き合いをすることはなくなった。テーズの伝記の著者、キット・バウマンによると、生前のテーズはゴッチについては語りたがらず、ゴッチと疎遠になった理由も明言しなかったが、不和の原因はレスリングの能力に対するテーズとゴッチのプライドから生じたとされる。また、テーズの未亡人チャーリーは、テーズはゴッチに自分と同じ才能を感じ、プロレスの将来のためにゴッチをチャンピオンにしようとしたが、プロレス観の違いからゴッチに拒絶されたため、テーズはゴッチに失望したのではないかと語っている。

著作

  • Hooker: An Authentic Wrestler's Adventures Inside the Bizarre World of Professional Wrestling
    • Lou Thesz(著)、Kit Bauman(ライター)
    • The Wrestling Channel Press
    • 1995年に自費出版された自伝の改訂版。
    • "hooker"はカーニバル・レスリングに由来する言葉であり、普通のレスラーには防御できない強力な技(hook)を習得したレスラーを意味する。
  • 鉄人ルー・テーズ自伝
    • ルー・テーズ(著)、流智美(訳)
    • ベースボール・マガジン社
    • "Hooker"より先に出版された。
    • "Hooker"を基に書かれたと思われるが、内容が異なる部分も多い。
    • 200点の写真や流智美によるコラムも収められている。

DVD

  • 『世界のプロレス レトロ編#2 ルー・テ-ズ最後の勇姿』
  • 『世界のプロレス レトロ編#3 鉄人ルー・テーズ 完結編』 ASIN B00074C4R6
  • 『ルー・テーズ対力道山 世界選手権争奪戦 』東映 ASIN B00061QW5U

ルー・テーズDVD集

 
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ブルー・デモン
Blue Demon
1922/4/24 - 2000/12/16

メキシコのプロレスラー、俳優。本名アレハンドロ・ムーニョス・モレーノAlejandro Munoz Moreno)。ライバルであるエル・サント とは幾度にもわたって伝説的な試合を繰り広げ、サント同様多数の映画に出演した。ニックネームは「青い悪魔」。養子はブルー・デーモン・ジュニア。

プロフィール

1922年、アレハンドロ・ムーニョス・モレーノはヌエボ・レオン州において、農家の十二人兄弟の五番目として生まれた。モンテレイで長らく鉄道関係の仕事に就いていたが、たまたま出合ったローランド・ベラの影響でルチャリブレに興味を持つようになる。ベラはムーニョスにルチャの技術を授ける一方で、のちに彼のトレードマークとなる青いマスク(ただし当初は無地)と「ブルーデモン」のリングネームの産みの親ともなった。

アレハンドロ・ムーニョスは1948/3/31アメリカテキサス州ラレドでデビューした。そして同年6月、青地に銀の線を入れたマスクを身につけ、ブルー・デモンとして登場する。その後EMLLの代表サルバドーレ・ゴンザレスにスカウトされ8月にアレナ・メヒコに登場。ブラック・シャドーの弟と称してコンビ「ロス・エルマーノス・シャドー」を結成し、当初はルードとして戦っていた。

終生のライバル、エル・サントとの接触はこのタッグ活動に起因する。1952年アレーナ・メヒコにて行われたマスカラ・コントラ・マスカラ(双方のマスクをかける試合)形式の試合で、サントはブラック・シャドーを破る。その後サントと対戦したブルー・デモンはこれに勝利し、敵討ちを果たすと同時に1953年にはNWAウェルター級王座を獲得する。ここにルチャリブレ史上最大のライバル関係が始まると同時に、サントと双璧をなすカリスマ的ルチャドールが誕生することとなった。

その後テクニコに転向。

1988年にモンテレー・アリーナで引退。2000年に心筋梗塞で死去。

獲得タイトル

  • NWA世界ウェルター級王座
  • ウェルター級王座

ブルー・デーモン VS 侵略者 女エイリアンの襲来

ルチャ・リブレ名鑑





永田 裕志
1968/4/24

日本のプロレスラー。千葉県東金市出身。千葉県立成東高校、日本体育大学卒業。

父は高校の校長兼野球部監督、妹(永田貴子)はネイルアーティストで米国で開催されるネイルトレードショーのWINBAで1999年入賞、2000年優勝の実績を持ち、兄の裕志、弟の克彦のコスチュームデザインも行う。実弟はシドニーオリンピックレスリング銀メダリストの永田克彦。新日本プロレスの試合でレスリングルールによる対戦もしている。ケンドー・カシンとはチームJAPANでユニットを組む等、特に仲がよい。カシンが大学院に合格した際には「東金デストロイヤー」なる覆面レスラーとして「祝福」に訪れた。

来歴

デビュー以前 ]

1987年、千葉県立成東高等学校卒業後、日本体育大学に入学しレスリング部に所属。全日本学生選手権(1988年)および全日本大学グレコローマン選手権(1989年)で優勝を果たした。

1992年、全日本選手権優勝後、新日本プロレスに入門。同期には中西学、石澤常光(ケンドー・カシン)、大谷晋二郎らがいる。新日本に入門したのは馳浩の紹介。1992年9月14日山本広吉(現:天山広吉)戦でデビューを果たした。

初タイトル獲得まで

1995年、新日本プロレスとUWFインターナショナルとの対抗戦に出場。グレコローマンの下地を生かしたファイトで桜庭和志らと激闘を繰り広げた。

1997年から海外武者修行としてWCWに遠征。1998年に帰国。同年8/28、神宮球場で中西と組んで、後藤達俊&小原道由を破り、自身初のタイトルとなるIWGPタッグ王座を獲得した。

G1 CLIMAX優勝

2000年に中西、吉江豊、福田雅一と共にG-EGGSを結成、翌年まで活動。2000/3/2にはZERO-ONE旗揚げ戦へスポット参戦した。

2001年、「G1 CLIMAX」決勝戦で武藤敬司を破り「G1」初優勝。同年10月8日には秋山準(プロレスリング・ノア)とタッグを組み武藤敬司&馳浩組に勝利した。また、この試合をきっかけに新日本内でのスターダムを駆け上がっていくことになる。この年の12月31日、総合格闘技初参戦となったINOKI BOM-BA-YE 2001でミルコ・クロコップと対戦。1R21秒左ハイキックを受け、レフェリーストップによるTKO負け。

2002年1月4日の新日本東京ドーム大会で、前年10月にタッグを組んだノア・秋山の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗れた。

IWGPヘビー級王座連続防衛記録樹立

2002/4/5安田忠夫を破りIWGPヘビー級王座を奪取。以降、2003/5/2に高山善廣に敗退するまで、橋本真也の持っていた防衛回数9を更新する10度の防衛を果たした。

2003/11/30、ノア・北海道立総合体育センター(きたえーる)で棚橋と組んで、本田多聞&小橋建太を倒し、GHCタッグ王座奪取。12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2003」でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、1分2秒左フックでTKO負け。

2004/6/12、全日本・愛知県体育館で、ケンドー・カシンと組んで、小島聡&カズ・ハヤシを倒し、世界タッグ奪取。3大メジャーのタッグを制覇したのはベイダー、高山善廣に続き3人目。

ヒール転向

2005年1月、マッチメイクに異を唱え、新日本離脱を示唆する発言をする。3月、フロントとの確執の末ヒール転向を宣言。BNJに合流せず、1人で戦うことになった。その後、中西学、ケンドー・カシン、藤田和之らとレスリング軍団「チームジャパン」を結成した。同年4/26、前田日明がヒョードル戦の内容に苦言を呈したのに対し「ニールセン戦が悪いんじゃないが、ヒョードル戦とはジャンルが違うだろ。胸に手を当てて考えろ。」と発言。

2005年10月、長州力が現場監督として新日本に復帰した際、蝶野正洋を中心とした反長州派が不満をぶつけるなか、中立を宣言する。長州に好意的な選手が少な過ぎるため、棚橋弘至と共に長州とタッグを組まされ、半ばうやむやな形で中西とともに本隊に戻っている。12/11、当時IWGPヘビー王者のブロック・レスナーと対戦し、敗北。

コミカル路線

2006年に入り、スポーツ新聞の取材時にバレンタインチョコをかじる、徳島での試合を控えて阿波踊りで挑発する、誕生日ケーキを食べながら指をしゃぶるといったコミカルなパフォーマンスを行なっていた。4月にはワールドプロレスリングで試合が放送される際、白目をむいて鬼気迫る表情をする姿に「鬼神」「キラー永田」とテロップが入った。5月の第2回NEW JAPAN CUPでは、決勝でジャイアント・バーナードに敗れ準優勝。中西がZERO1-MAXの大森隆男とタッグを組み、IWGPタッグに挑戦する話が出た際に、王者チームに返上させて自身と山本のタッグや他のタッグを加えてトーナメントを開催することを提案した。

2006年5月、個人事務所「ナガタロック」を設立し、8/4にリラクゼーションサロン「enishing」を開店した。6月には内外タイムスでコラム『永田裕志のセカンドバッグ』の連載を始める。9月、三冠王者になった鈴木みのるを見て「鈴木にベルトを獲られたんだから全日本のレスラーはB級レスラー」と発言したが、当の鈴木のブログで「B級と言っていいのは俺だけだ。永田はC級」とやりかえされる。

IWGPヘビー級王者への復帰

2007年3月、「NEW JAPAN CUP 2007」で優勝。4月13日、大阪・大阪府立体育会館で行われたIWGPヘビー級選手権試合で王者棚橋弘至をバックドロップホールドで破り第46代IWGPヘビー級王者に返り咲いた。7月1日にはDRAGON GATEに参戦神戸ワールド記念ホールにてタケちゃんマンのコスチュームで入場しストーカー市川と対戦。9月9日、地元の千葉・東金アリーナで初の主催興業を行う。10/8、両国国技館で行われたIWGPヘビー級選手権試合で棚橋弘至の挑戦を受け、31分5秒ハイフライフローから片エビ固めで敗北、棚橋がIWGPヘビー級王者に返り咲いた。

2008年1月4日、「IWGP3rdベルト」を賭けてカート・アングルと対戦するもアンクルロックにより敗退。

ZERO1世界ヘビー級王座載冠

2008/2/17、両国国技館で行われる予定の後藤洋央紀戦であったが、永田がウォーミングアップ中にめまいと左半身のしびれを訴え、リングドクターは脳梗塞の疑いがある判断。病院に搬送され試合は中止となった。精密検査の結果脳および頸椎に異常はなく、2008/2/27会見を行い、病名は「高血圧から来る出血か、海綿状血管腫ではないか」と説明した。

5月からシリーズに復帰。10/13、田中将斗を破り、ZERO1世界ヘビー級王座を奪取。2009/2/27の大谷晋二郎に敗れるまで3度の防衛を果たした。

青義軍、結成 ]

2009/2/15、昨年脳内出血による体調不良で緊急欠場し実現できなかった後藤洋央紀と両国国技館で1年越しの対決。最後はバックドロップ・ホールドで後藤を沈めた。4/5には飯塚高史とチェーンデスマッチで対戦するがレフェリーストップで敗北。5/3、飯塚とドッグカラー・チェーンデスマッチで再戦し飯塚をK.O.勝ちに収めた。

8月に行われたG1 CLIMAXでは毎試合、ご当地の球団のユニフォームで入場した。また、最終日にはイチローが着ていたワールド・ベースボール・クラシックのユニフォームを着て、会場を盛り上げた。後に本人のブログでは本物だったと書き記されていた。

同年9月、平澤光秀、井上亘、スーパー・ストロング・マシンとともに青義軍を結成。12/5には中邑真輔の持つIWGPヘビー級王座に挑戦するもボマイェで敗北を喫した。

TAJIRIとの抗争・和解

2010年1月4日の東京ドームで行われたレッスルキングダムⅣで元横綱・曙と「ブルーマウテンズ」としてタッグを組み、TAJIRI・田中将斗組と対戦するも、曙もろともTAJIRIのグリーンミストを受け、最後は永田はTAJIRIのバズソーキックでピンフォール負けを喫してしまい、戦前の公約どおり地元の東金市で自ら銅像になる罰ゲームを受けることになった。
翌1/30に後楽園ホールでは高橋裕二郎・内藤哲也のコンビ「NO LIMIT」とタッグを組み、TAJIRIとバットインテンションズのジャイアント・バーナード・カール・アンダーソン組による6人タッグマッチを行うも、裕次郎のチャンピオンベルトによる攻撃に激怒したことで試合中にチーム内で亀裂が発生、いがみ合いの末にNO LIMITは試合放棄し、直後にTAJIRIからグリーンミストを受けて反則勝ちになる。
翌日31日のディファ有明で青義軍の井上亘と共にTAJIRI・飯塚高史と対決、TAJIRIのグリーンミストに対抗して毒霧「ブルーミスト」をTAJIRIに使い、反則負けになるも屈辱を晴らす。しかし、その後はTAJIRIのいないチームとの対決でも惜しみなくブルーミストを使うようになる。そして、2/14にブルーミストを封印し、自らのストロングスタイルでTAJIRIとシングルマッチで対決、序盤と終盤で2度TAJIRIにグリーンミストを受けるも目の位置を変えることでこれを耐え抜き、腕折り以外で初めて白眼を向き仁王立ちをする「緑の大魔神」に変身。強烈な膝蹴りと投げっぱなしのバックドロップをお見舞いし、腕折りでギブアップ勝ちするも、セコンドの制止が入るまでの間、白目を向きながらゴングとレフェリーの制止を無視して腕折りを仕掛け続けていた。
その後はTAJIRIとの戦いが無く、8/8のG1 CLIMAX XXのスペシャルタッグマッチで矢野通の椅子攻撃で右膝を負傷していたTAJIRIとタッグを組み、CHAOSの飯塚高史とCHAOS入りしたNO LIMIT高橋裕二郎のタッグと対戦。始めは2ヶ月近くの抗争を根に持っていたため、TAJIRIに対して冷たい態度を示していたが試合中の飯塚と裕次郎による執拗な右膝攻撃を受けているTAJIRIを見かねて手をさしのばすようになる。
結局、試合はTAJIRIが飯塚に捨て身のグリーンミスト攻撃で反則負けするも、TAJIRIは飯塚からアイアンフィンガーフロムヘルを奪い、序盤での猛攻撃に対し一矢報いようとするも裕次郎に妨害されてしまう。しかし、直後に永田が裕次郎をブルーミストで撃沈させたことでグリーンミストとブルーミストの奇跡の競演を果たし、飯塚を羽交い絞めにしてTAJIRIのアイアンフィンガーフロムヘルによる飯塚への地獄突きに成功する。その後、2人で敬礼ポーズをとり、固く握手をして和解する。

獲得タイトル

新日本プロレス

  • IWGPヘビー級王座:2回(第31代、46代)
    • 第31代王者に就いた際には当時最多防衛記録所持者橋本真也の9回を上回る10度の防衛に成功し、2010年11月現在誰にも破られたことはない。
  • IWGPタッグ王座(第39代、56代)
    • パートナーは中西学、井上亘

全日本プロレス

  • 世界タッグ王座(第50代)
    • パートナーはケンドー・カシン。

プロレスリング・ノア

  • GHCタッグ王座(第7代)
    • パートナーは棚橋弘至。

ZERO1-MAX

  • ZERO1 世界ヘビー級王座(第2代)

入場テーマ曲

  • MISSION BLOW (かつてはリミックスバージョンもあった。)

敬礼ポーズ

敬礼ポーズは2000年頃から使われ始め、永田の代名詞と言ってもよい。今でこそ敬礼と言われているが、元々はナガタロックに入る時に会場の隅々まで見渡してやるという思いから使用しだした(ザ・プレイステーションインタビューより)。実際に、敬礼をする際には「会場の一番隅を見ている」と語っている(百識王より)。敬礼する時の掛け声は本人曰く「ゼァッ!」。ちなみに、アントニオ猪木はこのポーズを嫌っているらしい。

著書

  • 『王者の挑戦―プロレス新時代のエースは俺だ』講談社、2003年。。
  • 『永田さんのかんがえたこと』エンターブレイン、2009年。金沢克彦との共著。

その他

  • 熱く激しい戦いを非常に好んでおり、これまで数々の名勝負を作り上げている。また、相手が伸び盛りの若手レスラーになると、徹底的に叩き潰す試合を展開することでも有名である。年齢も40代になってが、この姿勢は全く変わっておらず、業界でも貴重な存在と言われている。
  • 上記の理由から、新日本プロレスでの人気は非常に高く、どの会場でも必ず観客から大きな歓声で迎えられる。
  • 嶋大輔が会長を務める永田会という後援会が存在する。





気仙 沼二郎
1972/4/24

宮城県気仙沼市出身。宮城県気仙沼高等学校卒。みちのくプロレス所属、レスラー兼取締役営業部長。過去に名乗ったヨネ原人のリングネームでも知られている。

来歴

みちのくプロレスの旗揚げメンバーのひとりで、1992年のみちのくプロレスプレ旗揚げ戦で、「米河 彰大(よねかわ あきひろ)」のリングネームでデビュー。その後リングネームをヨネ原人としてからブレイクした。

「クワッパ!」の雄叫びとビーフ・ウェリントンとの試合は名物となり、L字台車に乗せられ引き回されたあげく壁に激突させられ、そのまま両者リングアウト(回数は3桁を超える)というのがお決まりの展開だった。宮古市での試合後行方不明となり、そのまま太平洋を泳いでメキシコにたどり着いたこともある(当然だが実際は単なるメキシコ遠征)。なお、「メキシコに滞在したことでスペイン語を少し修得した」という設定がつけられ、それまで行っていなかったインタビュー等もスペイン語で答えるようになる。さらには「日本語も少し修得」し、西和辞典を片手に日本語とスペイン語を混ぜてコメントするようになる。その際は身をスーツにまとった「スーパーヨネ現代人」となる。

頭部の負傷により1度引退した後、カムバックしつぼ原人との原人コントラ原人(最後はジャンケン勝負)で敗れ再び姿を消したが、ギミックを変え、デビュー曲「海の魂」をひっさげて演歌歌手として、現在のリングネーム「気仙 沼二郎」でカムバックした。

カムバック後は「みちのくプロレス若草杯」優勝をはじめ、ザ・グレート・サスケ、新崎人生とのトリオで出場した「みちのくトリオリーグ」の優勝など徐々に実力を発揮。その後、南野たけし、マンゴー福田、パイナップル華井と「気仙沼二郎とロス・サルセロス・ハポネセス」というユニットを結成。連戦連勝を続ける。

2005/7/9の青森産業会館興行で、気仙沼二郎と同じく入場時に歌を歌う佐藤秀、佐藤恵の「セーラーボーイズ」との、負けた方が入場時に歌を歌うのを禁止される「歌コントラ歌」というコントラ・マッチを行い勝利。歌を歌いながらの入場を維持している。

2005年12月9日に行われた、インディー7団体が参加した週刊ゴング主催のインディーサミットでは、スペル・デルフィン、新崎人生、TAKAみちのく対関本大介、柿本大地、火野裕士組の試合に、ヨネ原人のギミックを一夜限り復活させて愚乱・浪花とともに登場。1994年以来約11年ぶりのデルフィン軍団集結を演出した。

2006/12/31のインディーサミットでは、佐々木貴、アブドーラ小林と組み、葛西純、"黒天使"沼澤邪鬼、シャドウWXとの蛍光灯6人タッグデスマッチにエントリー。血まみれ姿になりながらも、途中からはコスチュームを脱いでふんどし姿になって奮闘。試合には敗れてしまったものの、最後は「海の魂」を血まみれのまま熱唱して締めた。

リングネーム

米川が現在、過去に名乗ったことがあるリングネーム

  1. 米河彰大
  2. トイレの花子さん
  3. プールのカッパ
  4. ヨネ原人
  5. スーパーヨネ現代人
  6. 気仙 沼二郎(現在も使用中)

その他

  • リング外では、入団時から一貫して営業の仕事をしており、現在も営業部所属。地元のラジオ番組等でみちプロのスポークスマンを務めることも多い。
  • 2004年4月から岩手めんこいテレビで(毎週金曜日深夜26:05 - )放送中のガチャダラポンTVに気仙沼二郎名義で出演中。ガチャダラポンTVはWeb放送局としても番組が見られる。
  • 2006年から、新潟県の風俗情報誌「新潟ナイトナビ」でコラム『新潟沼二郎ナビ』を連載中。
  • 2007年には、テレビ朝日の金曜ナイトドラマ「スシ王子!」に審査員役として気仙沼二郎名義で出演。

気仙沼二郎ブログ

  



マーシオ・"ペジパーノ"・クルーズ
Marcio "Pe de Pano" Cruz
1978/4/24

ブラジルのブラジリアン柔術家、総合格闘家。リオデジャネイロ州出身。グレイシー・フュージョン所属。

「ペジパーノ」というニックネームは、アニメに登場するポニーのキャラクターに似ていることに由来している。

来歴

2001年4月、第4回アブダビコンバット99kg以上級に参戦。1回戦でマイク・ヴァン・アースデールにレッグロックで一本勝ちするものの、2回戦でショーン・アルバレスに敗北。その後怪我のアルバレスに代わって3位決定戦に登場し、リコ・ロドリゲスを破って3位入賞。無差別級では1回戦でホベルト・トラヴェンにポイント勝ちするものの、2回戦では師カーロス・グレイシーの甥にあたるジアン・マチャドに勝利を譲り開始5秒で一本負けした。

2003年5月、第5回アブダビコンバット99kg以上級の決勝でファブリシオ・ヴェウドゥムに一本勝ち、優勝を果たした。また無差別級にも出場するが、3位決定戦でヴェウドゥムに今度は敗れ、4位に終わった。

同年7月、ムンジアルではアブソルート級に出場。同門のホジャー・グレイシーを破り、同階級の連覇を達成した。

2005年5月、第6回アブダビコンバット99kg以上級に出場。1回戦でミオドラグ・ペトコビッチにスリーパーホールドで一本勝ち、2回戦でダニエル・グレイシーに判定勝ち、準決勝でガブリエル・ゴンザーガにアンクルホールドで一本負け、3位決定戦でファブリシオ・ヴェウドゥムに判定負け、第4位となった。

2005/10/7、総合格闘技初挑戦およびUFCデビューとなるUFC 55で国原継悟と対戦し、ギロチンチョークで一本勝ち。

2006/4/15、UFC 59でジェフ・モンソンと対戦し、判定負け。続いて参戦した12/30のUFC 66ではアンドレイ・アルロフスキーにTKOで敗れ、UFCからリリースされた。

2006/5/26、グラップリング大会LA SUB Xでジェフ・モンソンと再戦し、引き分け。

2007年5月、アブダビコンバット99kg以上級に出場。準決勝でホーレス・グレイシーに負け、3位決定戦でダレン・アンディに勝ち、第3位となった。

2008年6月8日、戦極初参戦となった戦極 〜第三陣〜でチェ・ムベと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

獲得タイトル

  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)茶帯スペルペサード級優勝、アブソルート級優勝(2000年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯ペサディシモ級3位、アブソルート級3位(2001年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯ペサディシモ級優勝、アブソルート級優勝(2002年)
  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル)黒帯アブソルート級優勝(2003年)
  • ブラジリアン柔術ブラジル選手権(ブラジレイロ)黒帯スペルペサード級優勝、アブソルート級優勝(2000年)
  • ブラジリアン柔術ブラジル選手権(ブラジレイロ)黒帯ペサディシモ級優勝、アブソルート級2位(2001年)
  • 第4回 アブダビコンバット 99kg以上級 3位(2001年)
  • 第5回 アブダビコンバット 99kg以上級 優勝(2003年)
  • 第7回 アブダビコンバット 99kg以上級 3位(2007年)





獣神サンダー・ライガー
1989/4/24

日本の覆面レスラー。新日本プロレス所属。本名は非公開。永井豪宅出身、もしくは広島県広島市。血液型AB型。

上記のプロフィールはライガーとしてのもの

正体について

正体については、新日本プロレスに所属していた山田 恵一(やまだ けいいち、1964/11/30 - )だと言われており、当時の週刊プロレスでも山田→ライガーの特集記事が組まれたこともあった。しかしギミック上はあくまで正体不明であり、ライガー自身も「山田は死んだ。リヴァプールの風になった」と発言している。

一方でTV中継では、初めて登場した際をはじめ、その後も実況の辻よしなりがしばしば山田の名を出し、1991年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニア決勝では、「正体が山田なのは周知の事実」とまで言ってしまっている。試合中にマスクを剥がされて、素顔がむき出しになったこともある。

またバラエティ番組や対談等における出演の際には、紹介されたプロフィールや、自身の経歴として語った若手時代の内容が、山田のものだったこともあり、ギミック上ほど正体を隠さない姿勢が見られる。

来歴

ここではライガーと関係が深いとされる山田恵一の経歴も記載する。

山田恵一

広島県広島市中区出身。広島電機大学付属高等学校(現・広島国際学院高等学校)在学時からレスリングで頭角を現し、国体にも出場した。

高校卒業後、新日本プロレスの入門テストを受験。体力テスト等は合格基準を満たしたが、身長が低かったために不合格にされる。(公称として身長を170cmとされているが、実際は160cm台である)その後単身でメキシコに渡り、そこで出会ったグラン浜田を通じて山本小鉄を紹介してもらい、社員として新日本プロレスに入社し、その後も個人的に練習を続け入門が認められ、1984/3/3、小杉俊二戦でデビュー。

1985年に光文社『ジャストコミック』(廃刊)で連載された『スープレックス山田くん』(監修・古舘伊知郎、作画・国友やすゆき)の主人公のモデルになっている。

第1回ヤングライオン杯において決勝戦で小杉俊二に敗れ、優勝を逃す。しかしこの頃から、若手らしからぬテクニックを魅せ、ジャーマン・スープレックスで同じく若手であった橋本真也にフォール勝ちし、海外遠征から凱旋帰国した後藤達俊にもエビ固めで勝利する。さらに異種格闘技戦も経験。ドン・中矢・ニールセンとも対戦し、善戦するもKOで敗れる。第2回ヤングライオン杯で優勝を果たしてから海外修業も経験する。遠征中は「フジ・ヤマダ」のリングネームを名乗りローラーボール・マーク・ロコ(初代ブラック・タイガーの正体)から欧州レスリング連盟ミドルヘビー級王座を獲得するなど活躍した。

この時期の新日本ジュニア戦線は、越中詩郎、ザ・コブラ、小林邦昭、ヒロ斎藤、保永昇男、UWFから高田伸彦(現:高田延彦)、山崎一夫、ジャパンプロレスの馳浩、海外からはオーエン・ハートなど錚々たるメンバーが揃う第2期黄金期であり、山田もその一翼を担っていた。その影で山田は、藤原喜明の通称「藤原教室」でカール・ゴッチ源流の関節技を、また同時期に若手の船木優治(現:船木誠勝)と共に、当時まだあまり知られていなかった新進の格闘術「骨法」をいち早く学んでいる。

身長のハンデがあったため新日本プロレスでもトップクラスの練習量を誇り、通常の興業が行われる場合に若手は雑務に追われることが多い中、会場設営・アントニオ猪木のスパーリングパートナー・藤原教室・グッズ販売・自身の試合・先輩レスラーのセコンド、更にわずかな空き時間を見つけては階段ダッシュと7時間以上動きっぱなしということも日常茶飯事だった。

1989年1月のイギリス遠征中に消息不明になったとされている。入場テーマ曲には映画『ロッキー』のテーマを使用していた。

獣神サンダー・ライガー

1989/4/24、東京ドームにて小林邦昭戦で全身をコスチュームで覆った獣神ライガーとしてデビュー。ライガースープレックス(獣神原爆固め)で勝利を収めると、翌月の5/25には馳浩を破り、IWGPジュニアヘビー級王座を獲得し第9代王者となった。

ギミックのモチーフとなったのは永井豪原作の漫画『獣神ライガー』で、当時放映されていたアニメにシンクロして獣神ライガーファイヤーライガー獣神サンダー・ライガーへと変化している。

1990年代前半はIWGPジュニアヘビー級王座を巡り保永昇男、佐野直喜(現:佐野巧真)、ペガサス・キッド、エル・サムライ、2代目ブラック・タイガー、野上彰(現:AKIRA)らと激闘を展開。これ以降、日本ジュニア界の中心人物とて活躍していくことになる。

また他団体との交流戦・対抗戦が盛んになると、積極的に動いて他団体選手の新日本参戦に尽力し、ザ・グレート・サスケ、ウルティモ・ドラゴン等と団体の垣根を越えて協力し、ついに1994年にスーパーJカップを開催、成功を収めた。しかし、同年愛知にて行われたメインイベント、ライガー&長州力組対ワイルド・ペガサス&武藤敬司組の試合で、足を骨折する。

その一方で新日本内部のジュニア活性化も行い、1990年代中頃からエル・サムライ、ケンドー・カシンらと組み、一世代下の金本浩二、大谷晋二郎、高岩竜一らと戦い会場を沸かせていた(もっともカシンは一世代下であるが、カシンが偏屈な性格であることと覆面レスラーという共通点もあり、ライガー側となっていた)。特にディーン・マレンコ、ワイルド・ペガサス(ペガサス・キッドから改名)、2代目ブラック・タイガーの4名は「ジュニア・フォーフォースメン」(当時WCWで一斉を風靡していたユニット「フォー・ホースメン」にちなむ)と呼ばれ、1990年中-後半のジュニアを牽引する。またWCWにも遠征し、ベルトも獲得。その出で立ちと実力から人気を博した。

2004年、大阪プロレスへ参戦し、当初はサムライ・金本・井上亘らと出場すると思われていたが、邪道、外道、竹村豪氏らと出場する。これ以降、ジュニアヘビー級のヒールチーム「C.T.U(コントロール・テロ・ユニット)」を結成。一時、蝶野正洋率いるBNJ(ブラックニュージャパン)というヘビー級の新軍団と合流したが、2006年半ばにBNJが事実上解散状態になったため、再び独立ユニットとなり、2007年夏ごろ、邪道・外道の離反によりC.T.Uも解散となる(2007年春頃にプロレス雑誌で解散するとの発言もあった)。2007年よりDRAGON GATEに参戦、3/26にドン・フジイを破り、オープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取した。しかし、7/1にCIMAに破れ、ベルトを手放している。C.T.U解散に伴い、長州・蝶野らとともに「レジェンド」を立ち上げ、コスチュームも以前のような赤いマスクを付けたベビーフェイスに戻した。

2007年のWRESTLE LAND博多大会にて、にわか面を付け福岡ソフトバンクホークスの応援歌である『いざゆけ若鷹軍団』を入場曲とするハラキリ・ハカタ二号として登場。ハラキリ・ハカタの別リングネームを持つアステカと友人関係であることや、ライガー自身が福岡在住であることなどが、このキャラクターに結び付いている。

2008/2/17の両国大会で、AKIRAと共にIWGPジュニアタッグ王座を勝ち取り7/21の陥落まで所持していた。

2009/1/4ではデビュー20周年記念試合を行いかつて幾度も死闘を繰り広げた佐野巧真とタッグを結成し金本浩二、井上亘組と対戦。最後は雪崩式垂直落下式ブレーンバスターで金本からピンフォールを奪った。2/15には4年ぶりとなるIWGPジュニア王座に挑戦。普段見せないムーンサルトプレスやライガーボムなどを解禁し挑んだが最後はタイガーのデストロイ・スープレックス・ホールドで敗北。5/6、新日本の試合を終えた後、金本と共にプロレスリング・ノア主催の日本武道館大会に参戦。ライガーを超神カイザー、金本を仲本工事と名前をわざと間違える挑発をしてきた平柳玄藩が金丸とタッグを組んで対戦。勿論2人は平柳を集中攻撃し金本がアンクルホールドで捕獲するとギブアップを奪った。

2010/4/4に約1年ぶりに丸藤正道が持つIWGPジュニア王座に挑戦したが、タイガーフロウジョンを前に敗れた。

人物

  • 「ジュニアの象徴」と呼ばれ、2007年現在、新日本プロレスのジュニアの現場監督である。
  • マスコミ批判・レスラー批判など時に遠慮のない歯に衣を着せぬ発言もするが、個人的感情というよりもプロレスそのものに対する誇りから放たれている。それ故レスラーの戦い方やスタイルにしても、しっかりとした1個性として作りあげられているものならば、メジャー・インディを問わずたとえ敵対関係にあっても寛容な姿勢を見せ、他団体との交流や新日本参戦に自ら積極的に行動して橋渡し役になる場合が多い。他団体のリングに乗り込む際は率先してヒールを演じ、相手側ファンの罵声を浴びて会場の熱気を盛り上げる。ただし、2006年にDRAGON GATEに参戦した際には、ヒールユニットのマッスル・アウトローズの土井成樹とDo FIXERのドラゴン・キッドの抗争の流れからの参戦ということもあり、以前の赤いマスクを付けたベビーフェイスとして登場している(この時新日本ではC.T.Uとして活動していたので黒マスクを着用していた)。自分の源流である新日本プロレスには強い愛着を見せており、近年多く出版されるようになったプロレス暴露本などで、新日本プロレスの凋落を批判するOBに対し、本隊から離れている時にあっても「選手は一生懸命やっている。観客が来なくなるような発言は控えてほしい」と述べている。
  • 器械体操をやっていた経験からシューティングスタープレスなどの難易度の高い空中殺法を開発したり、小柄な体格にもかかわらず垂直落下式ブレーンバスターを必殺技として定着させたりと、流行技の発信源になっている。
  • 長年新日本のジュニアを支えあってきたエル・サムライとタッグを組むことが多く、IWGPタッグやジュニアタッグリーグで優勝している。
  • 少年時代はミル・マスカラスの大ファンであった。後にタッグながら対戦している。
  • マスクはマイナーチェンジを含めて、たくさんの種類がある。また、毎年1月4日に行われる新日本プロレスの東京ドーム興行では毎年のように違う配色のコスチュームで登場する。マスクは口元だけが破けやすく、その状態で試合を行うこともある。ファンからプレゼントされた手作りマスクを被って雑誌の表紙を飾ったこともある(このファンは後にノブナガにマスクコレクターとして出演し、エピソードを披露している)。
    プライベートではゴジラグッズ、フィギュア収集、食虫植物の栽培などを趣味とするインドア派。ただし、釣りも趣味としており、遠征中にしていることもある。
  • 入場テーマ曲はデビュー時から一貫して『怒りの獣神』(弘妃由美、アニメ『獣神ライガー』前期OP)を使用している(ライガー自身は「プロレスラーの入場曲で、唯一歌える曲だから」と語ったことがある)。
  • 井上や柴田らがデビューしたころから、タイトル戦にあまり絡まなくなり、スーパージュニアなどの大舞台で若手に勝ちを譲る場面もある。
  • 覆面レスラーであることに強い誇りを持っており、練習中も簡易マスクを着用している。また、結婚した時も素顔・本名での披露宴とは別に、マスコミ向けに覆面・獣神サンダー・ライガー名義で披露宴を行っている。

有名な試合

  • 1994年2月に橋本真也と対戦した際は、通称バトルライガーと呼ばれるツノを取り去った“対ヘビー級戦闘仕様モデル”のマスクと上半身裸のスタイルで戦った。試合は負けたが、橋本相手に勝利に近付く場面もあった。この時見せたビルドアップされた肉体は、身長170cm未満の選手で100kgに満たないジュニアヘビー級クラスの選手の中で、ヘビー級のパワーを持つ『唯一』の選手とも絶賛されている。
  • グレート・ムタと戦ったときに、ムタに覆面を破られたが、覆面の下には素顔ではなく、白いペイントが施されていた。さらにライガーが自ら上半身のコスチュームを破ると、胸部にもペイントがされていた。奇声を上げ、毒霧を吐き、凶器を使う通常と違うファイトスタイルから一部雑誌では「狂神ライガー」と呼ばれた。この名前はプロレスゲーム『闘魂烈伝』などでも用いられていたが、新日本プロレスの公式ウェブサイトでは「鬼神ライガーと後に呼ばれる様になった」とギミックに若干の修正が行われている。なお、この時は白銀のコスチュームを使用しており、ライガー曰く「あの時だけ」の一度きりの配色である。また、直前の試合でトラブルがあり、このマスクを被って試合をしたこともある(体は普段の赤白のコスチューム)。2006年に非道とのシングルで復活させているが、最初から「鬼神ライガー」というネームでマスクを被らずに登場した。海外では邪神ライガーと表記されていることもある。
  • 青柳政司戦にてマスクを破られ、素顔で最後まで試合を行い、その際に実況のアナウンサーから「山田恵一」と呼ばれた。この試合でマスクを破られ、逆上したライガーの責めはえげつなく、「ナイフを抜いた」と形容された。
  • 試合前にマスクの盗難に遭い、エル・サムライのマスクを被って試合をしたことがある。その際の雑誌掲載時の見出しは「獣神サンダーサムライガー!?」。
  • 2000年1月4日の東京ドーム大会にて金本浩二と対戦。かねてから新日本ジュニアの過剰な安定化に苦言を呈していたライガーが遂に実際の行動に移す。奇襲に近い試合の組み立てで、僅か3分56秒で金本を一方的にノックアウトした。この後、ライガーの行動に反感を抱いた他のジュニア戦士達に集中攻撃を受ける事になる。
  • 2001年の大阪ドーム大会にてバトルライガーとして村上一成と対戦した際にマスクを剥がされるも、長州を始めとするセコンド達により頭に掛けられたタオルを払い除け、堂々と「素顔」を曝け出したまま小川直也とやりあった(この時辻よしなりは、実況で山田恵一の名前を連呼していた)。
  • 2002/11/30にパンクラスに参戦。パンクラスルールで鈴木みのると対戦した。この時は飾りの少ないマスク姿、タイツもより動きやすいようトランクスタイプで登場した。ゴングの瞬間に突進し、浴びせ蹴りを見舞うというプロレス魂を見せ付けた。結果は敗れたものの、鈴木を再びプロレスに開眼させ、それ以降鈴木は総合格闘技からプロレスに戻った。

タイトル歴

IWGPジュニアヘビー級王座を11回獲得しており、BEST OF THE SUPER Jr.の優勝3回(「TOP OF THE SUPER Jr.」含む)と共に同タイトルの最多記録である(2005年6月現在)。また、「BEST OF THE SUPER Jr. VIII」では、大会史上初の全勝優勝を達成する。1994年4月にはジュニア・オールスター戦「SUPER J-CUP」を実現させ、第2回、3回と自身も優勝。第4回もザ・グレート・サスケらと組み出場している(本戦は若手中心のトーナメント)。

新日本プロレス

  • IWGPジュニアヘビー級王座 : 11回 (第9代、11代、13代、15代、18代、21代、26代、29代、32代、35代、37代)
  • IWGPジュニアタッグ王座 : 5回 (第3代、6代、8代、10代、20代)
    • パートナーはザ・グレート・サスケ→エル・サムライ→田中稔→金本浩二→AKIRA
  • トップ・オブ・ザ・スーパージュニア優勝 : 1回(1992年)
  • ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア優勝 : 2回(1994年・2001年)

プロレスリング・ノア

  • GHCジュニアヘビー級王座 : 1回(第8代)

DRAGON GATE

  • オープン・ザ・ドリームゲート王座 : 1回(第7代)

大阪プロレス

  • 大阪プロレス・タッグ

ジュニア8冠王座:IWGPジュニアと以下7つのタイトル。後にWARインターナショナルジュニアヘビーの単独防衛戦で敗れたため、7冠となる): 1回(第3代)

  • WWF世界ライトヘビー
  • WWA世界ジュニアライトヘビー
  • UWA世界ジュニアライトヘビー
  • 英連邦ジュニアヘビー
  • NWA世界ウェルター
  • NWAジュニアヘビー
  • WARインターナショナルジュニアヘビー
  • WARインターナショナルジュニアタッグ

WCW

  • WCW世界ライトヘビー級王座 : 1回

CMLL

  • CMLL世界ミドル級王座
  • 第2回カンペオン・ウニベルサル優勝

スーパーJカップ優勝 : 2回(2nd.STAGE・3rd.STAGE)

JAPW

  • JAPWライトヘビー級王座

ライバル

ライガーは自身のライバルとして以下の二人を挙げている。

  • 佐野直喜
    • 新日本プロレス同期入門で、1990年代初頭にIWGPジュニア王座を巡って抗争を繰り広げた。二人の激しい試合を見た先輩レスラーが「お前らそのうちどっちかが死ぬぞ」と言ったエピソードも残っている。
    • その後、佐野はUインターへ移籍し新日とUインターの対抗戦ではライガーの希望で両者のシングルが組まれ名勝負の再現として注目を集めた。試合でも佐野がU系のレスラーとしては異例のトペ・スイシーダやタイガー・スープレックスを出し、勝利した。
    • 2009年のライガーデビュー20周年記念試合ではタッグを結成した。
  • クリス・ベノワ
    • 新日に練習生として留学した後に覆面レスラーペガサス・キッドとして来日。ライガーからIWGPジュニア王座を奪取した。1991年にはマスカラ・コントラ・マスカラで対決し、ライガーが勝利してペガサスがマスクを脱いだ。
    • その後もIWGPジュニア戦やベスト・オブ・ザ・スーパージュニアでの激闘、ジュニア・フォー・ホースメンの結成などで時には味方、時には敵としてライバルストーリーを紡いでいったがクリスのWWE移籍で疎遠となった。
    • そして2007年クリスは死去し、二人の再戦は実現できなくなった。それ以降ライガーはインタビューなどでクリスとの思い出を聞かれても「自分の中で大切に取って置きたい」との考えから一切語らないようにしている。

プロレス以外の活動

カレーマンの入場時に一緒にカレーダンスを踊ったり、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』ではマスクしてるのにもかかわらず五木ひろしのエアーものまねをしてみたり、「全身タイツ隊」のメンバーとしても出演し、メンバーと同じ奇妙な動きを見せるなど、芸達者な一面もある。

また、上記のようなテレビ出演やファミ通で人生相談コーナーを持っていたりしたこともあるなど、リングの外での活躍も多い。『象印クイズ ヒントでピント』などのクイズ番組や『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演したこともある。2006年10月から2007年3月にかけてはパチスロ番組『ゴールデンスロット』に準レギュラー出演していた(ただし、番組内でボーナス絵柄の目押しに苦戦する様子などが放送されていることから、ライガー自身はパチスロは素人である模様)。

2006/5/20、千葉マリンスタジアムでの千葉ロッテマリーンズ対中日ドラゴンズ戦の始球式を務めた。

2007年2月24日放送の『めちゃ×2イケてるッ!』に出演した。そこで、「僕、閉所恐怖症なんです。」と自分の短所を告白した。

2007年7月16日放送の『くりぃむナントカ』芸能界ビンカン選手権では、仕掛け人として素の姿(バックショットのみ)で出演した。

2009年6月9日放送の『アタシんちの男子』に同じ新日本プロレス所属の後藤洋央紀、棚橋弘至、岡田かずちかと共に出演。

2010年11月10日に放送された『シルシルミシル』で、県境を日本一多くまたぐ道路「高野龍神スカイライン」をリングネームと語呂が似てると言うことでレポートした。

その他

  • 新日本のレスラーは抗争や因縁アングルを進める時は「潰す」や「殺(や)っちゃう」という語彙を多用するが、ライガーが10年以上使い続けているのは「ぶち殺す」という表現である。
  • 大の特撮マニアである。AKIRAが仮面ライダークウガに出演した際、控え室で野上にいきなりグロンギ語(作品内の架空言語)で話しかけ困惑させたことがある。
  • プロレスはリング上で繰り広げられる「芸術」であると述べたことがある。
  • フジテレビのドラマ『世にも奇妙な物語』の『覆面』というエピソードに出演(声は吹替)。
  • 小学校の頃、将来は動物園の飼育員になりたかったらしい。
  • ヤングライオン時代のあだ名は「ハチ」。
  • 非常に悪戯好きである。後輩の天山広吉がトイレに入ったところへロケット花火を打ち込むなどエピソードは枚挙に暇が無いが、井上亘には悪戯を見破られて大変悔しそうにしていたというエピソードも。
  • 夫人はスペル・デルフィンのファンで、飼い犬に「デルフィン」という名前をつけるほど。
  • ライガーは当初武藤敬司にやらせる予定だったが、武藤が難色を示したため変更となった、という話がある。
  • 新人育成のために船木誠勝と共に少々過激なことをしていたと告白している。一例として熱湯(50-60℃位らしい)を満たした湯船に新人を放り込み、フタをした上にライガーが乗って「熱ければ自分で出てこい!」というもの。ライガーはこれを「どれだけ必死になれるかを試している」として、「ここで出てこれたヤツは大丈夫。しかし、出てこられないとふたを開け、『おまえはもう田舎に帰れ。プロレスラーには向いていない。』と諭した」と、週刊プロレスの取材で語った。
  • 藤波辰爾を尊敬しており、藤波が作ったドラゴンボンバーズのメンバーだった。
  • デビュー当初から、地毛を出した独特のマスクであったが、2010年後半より、マスクに毛を張り付けた物に変更された。













 
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