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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/26


 
 


 
 

ターザン山本
1946/4/26

日本のスポーツライター。山口県岩国市生まれ。本名は山本 隆司(やまもと たかし)。身長180cm。愛称はターザン、ター山、落武者等。

略歴

山口県立岩国高等学校卒業、立命館大学文学部中国文学専攻中退ののち、映写技師を経て、1977年に新大阪新聞社に入社。「週刊ファイト」のプロレス担当記者を務める。

1980年にはベースボール・マガジン社へ移籍。1987年、「週刊プロレス」の編集長に就任し、のちには「格闘技通信」の編集長も歴任、“活字プロレス”、“密航”などの流行語を生む。また、「週刊プロレス」の発行部数(公称40万部)を背景に、新興団体SWSに対するバッシング、四天王プロレスの評価、インディ団体FMWのプッシュ等を行い、プロレス界に大きな影響を与えた。なお、山本は後に、全日本プロレス代表・ジャイアント馬場から金銭を受領しその見返りとしてSWSをバッシングしていたこと、SWSの創設者・田中八郎から「誌上でバッシング活動を行わない」見返りとして1年間に渡って月50万円以上を受領していたこと、FMWの看板レスラー・大仁田厚から30万円の裏金をもらって週刊プロレスの表紙にしていたことなどを著書において告白している。

1996年、記事(「地方で手を抜く新日本」)をきっかけに新日本プロレスと対立、同団体から取材拒否を通告される。これを機に「週刊プロレス」の売上ならびに山本の影響力は急速に低下。その責任をとる形で山本は編集長を辞任。別部署に転封され大幅な減給の提示を受けたことを理由にベースボール・マガジン社を退社した。

以後、フリーランスのライターとして複数のプロレス・格闘技雑誌に携わり、そのキャラクターを買われてテレビ・ラジオのメディアにもいくつか出演した。ビートたけしと浅草キッドがパーソナリティを務めたラジオ番組の冗談企画でビートたかしの芸名をもらい、同名義で活動していた時期もある。2002年秋ごろより太田プロダクションに所属。2005年からターザン山本!(! を付加)と名乗る。2006年から2009年にかけて、当時のパトロンであった山崎二三代からの出資を受けて「有限会社ターザンギャルド」を設立、代表取締役となり講演活動および文章講座の運営にあたった。2009年末、「夢の懸け橋2009 〜大晦日プロレス祭り〜」に“プロデューサー的な役割”として参加。

2010年現在は競馬雑誌、ウェブ日記にて執筆している。

人物

あくの強い性格と捉える意見も多く、毀誉褒貶が激しい。プロレスに興味を失ったと公言しているものの、プロレス関連のイベント出演が仕事の多くを占めているためトークでは過去の話題に頼らざるをえず、リアルタイムで活動しているプロレス関係者と話が合わなくなってきたことが指摘されている。コラムも誤字・脱字や事実誤認、題材の使いまわしが多く、準備不足を“ターザン山本”というキャラクターで押し切っている、などの否定的評価もある。

主な著書

  • 「プロレス式最強の経営」(日本経済新聞社、1995年;山本隆司名義)
  • 「往生際。」(ぶんか社、1996年)
  • 「弾圧 近親憎悪の長州戦争」(双葉社、1998年)
  • 「ザッツ・レスラー」(Part3まで。ベースボール・マガジン社、1988 - 94年;山本隆司名義)
  • 「G・馬場二つの心」(同文書院、1999年;山本隆司名義)
  • 「ターザン山本の『天国と地獄』」(芸文社、1999年)
  • 「暴露 UWF15年目の予言」(世界文化社、1999年)
  • 「往生際日記 一揆塾の夏編」(新紀元社、2002年)
  • 「『泣き虫』に捧げる永久戦犯」(新紀元社、2004年1月) - 高田延彦の半生を描いたノンフィクション。
  • 「音楽と意図──ヒットチャート考現学!」(インフォバーン、2005年)
  • 「遺言」(ダイヤモンド社、2008年)
  • 「62歳のボクに28歳年下の彼女ができたのだ! ──バンザーイだ! 過去を捨てれば自由になれる」(ロコモーションパブリッシング、2008年)
  • 「ケーフェイ」(ナユタ出版会、プロローグとエピローグを提供)
  • 「金権編集長 ザンゲ録」(宝島社、2010年)

以前のレギュラー番組

  • 尾崎・ターザンのロボタッグ!!(1994年10月ごろ - 1998年4月5日・文化放送)
    • プロレスを中心に格闘技をテーマとしたラジオ番組。女子プロレスラーの尾崎魔弓と共にパーソナリティを務めた。ダイコク電機の一社提供。放送開始時間は毎週日曜日の、深夜1時(開始時 - )→21時(1996年10月13日 - )→21時30分(1997年4月13日 - )→深夜1時30分(1997年10月12日 - )と変遷した。
    • 東海ラジオ・ラジオ大阪との3局ネットで放送していた時期もあった。
  • 火の玉スポーツ列伝!(2001年4月 - 同年9月・テレビ東京)
    • 毎週金曜日の22時より放送されていたスポーツバラエティ番組。準レギュラーとして出演。

ターザン山本Blog
ターザン山本Blog

 
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クラッシャー・ブラックウェル
1949/4/26 - 1995/1/22

ジェリー・ブラックウェル"Crusher" Jerry Blackwell)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョージア州ストーンマウンテン出身。

来歴

ジノ・ブリット(後のWWWF世界タッグ王者ルイス・セルダン)のコーチを受け、1974年にプロレスラーとしてデビュー。カンザスシティのセントラル・ステーツ地区でマイク・ジョージらと対戦してキャリアを積み、1976年にクラッシャー・ブラックウェルのリングネームでニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。巨漢の若手ヒールとしてバグジー・マグローなどとタッグを組んで頭角をあらわし、1978年の2度目のNYサーキットでは新WWF王者ボブ・バックランドとも対戦してネームバリューを高めた。

1979年はアラバマ地区(テネシー州ノックスビルまでをサーキット・エリアとするサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)に進出。ジ・インベーダー(ボブ・オートン・ジュニア)とディック・スレーターをパートナーに、サウスイースタン・タッグ王座を2度に渡って獲得している。その後、1980年よりAWAに登場。1981年にはイースト・ウエスト・コネクション(ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス)と悪役トリオを結成し、当時AWAで人気沸騰中だったハルク・ホーガンと抗争を展開。ホーガンの助っ人としてAWAに参戦したアンドレ・ザ・ジャイアントも巻き込み、スーパーヘビー級の肉弾戦を繰り広げた。

並行してNWA圏にも転戦し、1983/4/15、ミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムでケリー・フォン・エリックからミズーリ・ヘビー級王座を奪取。1か月後にハーリー・レイスに敗れ短命王者となったが、1984年11月16日にレイスから奪回に成功。翌年8月に再びレイスに奪還されるまで、当時のNWAの実質的なナンバー2タイトルである同王座を死守した。

その間、AWAでは悪徳マネージャーのシーク・アドナン・アル=ケイシーに感化され、アラブ人ギミックへの変身を果たした。シーク・アヤトーラ・ブラックウェルSheik Ayatollah Blackwell)を名乗り、ロレンス・オブ・アラビアことケン・パテラと偽アラブ人コンビ「ザ・シークス」を結成。1983年6月26日、ハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)を破りAWA世界タッグ王座を獲得した。同王座は翌1984/5/6にザ・クラッシャー&バロン・フォン・ラシクに奪われるが、ジェリー・ローラー&ブラックジャック・マリガンなどの強豪チームを相手に1年間近く防衛を続けた。王座転落後にパテラがWWFに移籍してからは、中東ギミックの先達アブドーラ・ザ・ブッチャーとも一時的にタッグを組んでいる。

1984年の下期、マネージャーのアドナンと仲間割れしてベビーフェイスに転向。リングネームも本名のジェリー・ブラックウェルに戻し、子供たちのヒーロー的存在となる。1985年にはWWFから移籍してきたサージェント・スローターとのコンビでロード・ウォリアーズやファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)とも抗争した。

WWF移籍の噂が何度となくあったが、その後も一貫してAWAに定着、体調を崩し1980年代後半からは試合出場を控えるようになったものの、最末期までAWAを支え続けた。1995年1月22日、肝炎のため45歳で死去。

日本での活躍

1970年代後半にWWWFに上がっていたが新日本プロレスに来ることはなく、日本には1977年の初来日以来、全日本プロレスの常連外国人として通算7回に渡って来日している。2回目の来日となる1979/10/22にはジャンボ鶴田のユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座に挑戦。1984/9/3には、ジャイアント馬場の王座返上で空位となっていたインターナショナル・タッグ王座決定戦にブルーザー・ブロディのパートナーとして出場、鶴田&天龍源一郎に敗れるが、この試合は鶴龍コンビが初載冠を飾ったメモリアルマッチとなった。最後の来日はフィル・ヒッカーソンとのコンビで参加した世界最強タッグ決定リーグ戦の1988年大会。このときは川田利明のキック攻撃に激昂し、試合後に控え室へ殴り込む一幕も見られたという。

エース級の存在ではなかったものの、そのボリューム満点の体型から繰り出す肉弾攻撃は観客を大いに沸かせ、身長と体重の公称サイズが同じ(180cm、180kg)というインパクトも手伝ってプロレスファンの認知度は高かった。また、アンコ型の巨漢ながらドロップキックをこなすなど、1980年代後半にバンバン・ビガロが登場するまではキラー・トーア・カマタと並んで「動けるデブ」の代表格だった。

獲得タイトル

  • NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):2回(w / バック・ロブレイ)
  • NWAサウスイースタン・タッグ王座:2回(w / ジ・インベーダー、ディック・スレーター)
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:2回
  • AWA世界タッグ王座:1回(w / ケン・パテラ)
  • CWAスーパーヘビー級王座:1回





島本 和彦 
1961/4/26

本名:手塚 秀彦(てづか ひでひこ)、日本の漫画家。B型。漫画プロダクション「ビッグバンプロジェクト」代表。北海道札幌市在住。
  • 燃える!! 女子プロレス(当時全日本女子プロレスに所属していた豊田真奈美を主人公にした漫画)

燃える!! 女子プロレス





ケイン
Kane
1967/4/26

グレン・ジェイコブズGlen Thomas Jacobs)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。スペイン・トレホン・デ・アルドス生まれ、テネシー州ナッシュビル育ち。WWEのSmackDown!所属。

入場の際は、両腕を振り下ろす動作と共に、4方のコーナーポストから真っ赤な火柱が上がる。また火柱の発生をコントロールできる、というギミックを有する。「赤い処刑マシーン」(Big Red Machine)、「赤い怪物」(Big Red Monster)、「悪魔が信頼を寄せる怪物」(The Devil's Favorite Demon)の異名を持つ。

来歴

ボリス・マレンコに師事し、1992年にデビュー。日本へはマレンコ道場と関係の深かった藤原組に本名で数度来日している(表記はグラン・ジェイコブス)。地元のテネシー地区を主戦場に、メンフィスのUSWA(ジェリー・ジャレット&ジェリー・ローラー主宰)、ノックスビルのSMW(ジム・コルネット主宰)などを転戦。SMWではウナボムUnabomb)をリングネームに、アル・スノーとのコンビでタッグ王座を保持していた。

1993年、覆面レスラーのBlack KnightとしてWWFのサバイバー・シリーズに出場(正体はジェイコブズではなくジェフ・ゲイロードともされている)。その後、歯科医師ギミックのアイザック・ヤンカムDDSIsaac Yankem, DDS)として登場、1995年のサマースラムでブレット・ハートとも対戦するがすぐにフェードアウト。続いて退団したケビン・ナッシュのギミックを継ぎ2代目ディーゼルDiesel)に変身するがファンの不評を買い、またもフェードアウト。1997年に現在のリングネームであるケインとなった。

ケインはジ・アンダーテイカーの異父弟(父はテイカーのマネージャー、ポール・ベアラーという設定)として登場し、また兄テイカーの母親がベアラーと浮気をしたことでケインが産まれたことに激怒したテイカーが自宅を放火したことにより、テイカーとケインの母は死亡し、ケインも全身に大火傷(次第に顔だけ火傷に変更、マスクを外した現在は火傷は無かったことになっている)を負わされたことへの復讐をする、というアングルが組まれ、火傷を隠すためのマスクがトレードマークなった。1997年10月5日に開催されたバッド・ブラッドでのジ・アンダーテイカー対ショーン・マイケルズのヘル・イン・ア・セル戦で、テイカーが勝利する目前でケインが鍵のかかった金網のドアを破壊して乱入し、テイカーにツームストーン・パイルドライバーを浴びせて敗退させ、WWFデビューした。その後はケインに火傷を負わせたことに負い目を感じて反撃しないテイカーをケインが徹底的に追い詰める展開が続くが、テイカーの必死の説得により、一度は和解したかに見えた。しかし、ロイヤルランブルのショーン・マイケルズ対アンダーテイカーの棺桶マッチのWWF王座戦で、D-ジェネレーションXの集団攻撃を受けるテイカーを助け出したかに見えたが、その直後に自らの手でテイカーにツームストンを浴びせて棺桶に閉じ込めてテイカーを敗退させる。さらにテイカーが閉じ込められた棺桶にベアラーが用意したガソリンをまいて炎をつける暴挙に出た。しかし、スタッフによって消火されて棺桶の蓋を開けるとそこにテイカーの姿は無かった。そして魔力によって炎を回避して復活したアンダーテイカーが遂にケインとの対戦を受諾。1998年3月29日、WrestleMania XIVでジ・アンダーテイカー対ケインが実現し、激闘の末にテイカーの必殺技ツームストーン・パイルドライバーを3連発で浴びて遂に敗れる。イン・ユア・ハウスにて史上初のインフェルノ・マッチ(リング四方に設置されたガス管から上がる炎で相手を燃やした方が勝ちという形式)で再戦するがここでも敗れる。

兄ジ・アンダーテイカーとの抗争、共闘などを通じてWWFのトップレスラーに上り詰め、他のトップレスラーたちと抗争を繰り広げていく。また、当初はテイカーに負わされた火傷によって喋ることが出来ないという設定だったが、ケインのマスクに付けられている拡声器によって小さいながらも不気味な声で喋るようになった(ベビーターン後にこの設定は無かったことにされた)。1998年のキング・オブ・ザ・リングではストーン・コールド・スティーブ・オースチンとのファースト・ブラッド・マッチに勝利しWWFヘビー級王座を獲得するも、その翌日のRAWで再び取り返され一日天下に終わっている。しかし、覆面レスラーがWWFヘビー級王座のベルトを腰に巻いたのは長きに渡るWWE史上、彼が初めてであるため、1日とはいえ偉業である。ちなみに世界ヘビー級王座を覆面レスラーで初めて獲得したのはレイ・ミステリオであり、WWEで頂点に立ったことのある覆面レスラーは現時点でもこの2人だけである。

1999年には、Xパックによってそれまで心を持たない破壊マシーンだったケインが人間性を取り戻すという友情ストーリーが展開されてフェイスターンしてXパックと共にWWF世界タッグチーム王座を獲得したが、ケインの初恋相手トーリをXパックが略奪し裏切るという愛憎劇に発展した。


WWEのブランド分割後はRAW所属となり、ベビーフェイスとして兄アンダーテイカーとのタッグチーム、ブラザーズ・オブ・デストラクションThe Brothers of Destruction、破壊兄弟)を結成してWWF・WCW統一世界タッグチーム王座を獲得。その後もザ・ハリケーンやロブ・ヴァン・ダムとタッグを結成し世界タッグ王座を獲得している。また、ハルク・ホーガンとザ・ロックと共にタッグを組んだ際には、試合前にホーガンとロックの決め台詞を物真似して気合いを入れるなど、コミカルなギャグをかますようにもなっていた。

2003年6月に、「負けたらマスクを外す」という条件でトリプルHの世界ヘビー級王座に挑戦するが、エボリューションの乱入をくらって敗れ、試合後も集団暴行されてマスクを外されそうになったところをタッグパートナーのロブ・ヴァン・ダムが救出するが、ケイン自らマスクを外すと同時に恐ろしい形相でロブ・ヴァン・ダムにチョーク・スラムを浴びせてタッグを解消するとともにヒール・ターン。以後、素顔で活動している。

その後は典型的な狂人ヒール、怪物ヒールとして暴虐の限りを尽くし、ジム・ロスのインタビューを受けると逆上して暴行してガソリンをまいて火をつけたり、説得してきた元相棒のロブ・ヴァン・ダムにも勝利、リンダ・マクマホンにもツームストン・パイルドライバーを浴びせ、それに激怒した息子シェイン・マクマホンとの抗争にも勝利した。

2003年のサバイバー・シリーズでは、シェインとの抗争に決着を着けた後、ビンス・マクマホン対ジ・アンダーテイカーのベリード・アライブ・マッチに乱入し、ビンスの勝利をアシストした(この試合後休暇に入っていたジ・アンダーテイカーが2004年のWrestleMania XXにて復帰した際、ケインとの試合が組まれた)。

2004年に入り、ショーン・マイケルズとの抗争の後、ディーヴァのリタとのストーリーが中心に組まれた。リタを巡ってのマット・ハーディーとの抗争、リタとの結婚、妊娠、ジーン・スニツキーの攻撃による流産、その後の抗争、という一連のアングルが組まれた(当初は流産はストーリーにはなかったが、ケインがスニツキーの攻撃を受けた際に、受け止めきれずに勢いあまってリタに覆いかぶさるように倒れてしまったために急遽追加したもので、これにより妊娠ストーリーは予定より早く終了した)。フジテレビのWWE放送にて「悩める怪物」という呼び名が付いていたのはこの頃である。2005年に入り、リタがエッジと浮気するストーリが展開し、ギミック上の結婚を解消、エッジと抗争に入った。エッジとの抗争のメインがマット・ハーディーに移ると休暇期間に突入した。同年10月にRAWに復帰。PPVタブー・チューズデイにてビッグ・ショーとタッグを組み、巨漢レスラー2人によるダブルチョークスラムがフィニッシュムーブとして世界タッグ王座を長期に渡って防衛した。2005年のサバイバー・シリーズでのスマックダウンとの対抗戦に向けたストーリーでは、ダブルチョークスラムよりバティスタに筋断裂の重傷を負わせている。

2006年4月3日のRAWで世界タッグ王座から陥落。その後ケインは「5月19日(メイ・ナインティーン)」という言葉を聞くと状況に構わず逆上してみせるようになり、これをアングル化してビッグ・ショーとタッグ解消し、かつてのケインのマスクとコスチュームを着た偽ケインと抗争した。その後はD-ジェネレーションXがケインをたきつけたことでウマガと抗争、RAW ファミリー・リユニオンにおいてウマガとの敗者RAW追放マッチに敗れ、スマックダウンに移籍した。移籍後はMVPとの抗争を開始し、アンダーテイカーの抗争相手だったMr.ケネディがMVPを援護したこともあって、久々に破壊兄弟を再結成して勝利。アルマゲドンではインフェルノ戦ではMVPの背中に炎で火傷を負わせて勝利した。

2007年に入ってからはグリート・カリと抗争、秋頃からはECWに乗り込みビッグ・ダディVと抗争。

2007年から2008年に掛けては何かと負けの多い(ビッグネームにしては珍しくジョバー的)待遇を受けていたが、2008年のWrestleMania XXIVのダーク・マッチでチャボ・ゲレロの持つECW王座への挑戦権を賭けた「24人バトルロイヤル」において優勝。 WrestleMania XXIVでの対チャボ(ECW王座)戦では、チョークスラムでチャボを瞬殺。試合が始まってわずか8秒でピンフォール勝ちを収めECW王座を獲得した。この結果によってECWへと移籍となった。 ジャッジメント・デイではチャボ・ゲレロ相手に防衛も果たした。

2008年6月のドラフトでECW王座を保持したままRAWへの移籍が決定する。同年7月に行われたナイト・オブ・チャンピオンズではマーク・ヘンリー、ビッグ・ショーを相手にトリプルスレット形式でECW王座の防衛戦に臨んだが、ビッグ・ショーを倒した隙にマーク・ヘンリーにスプラッシュを喰らい、そのままフォールされタイトルを失った。タイトルを失ったあとはヒールターンし、レイ・ミステリオとマスクを巡る抗争を展開する。

2009年のドラフトでスマックダウンへ移籍する。移籍後しばらくテレビに登場していなかったが6月28日のザ・バッシュでのグレート・カリとドルフ・ジグラーのノーDQ戦に乱入しカリを襲撃する。以降カリと抗争を開始する。しかし、カリの負傷後は、ヒールとの対立が目立ち、ついにテイカーと組んで完全にベビー・ターンした。

2010年2月21日のエリミネーション・チェンバーではドリュー・マッキンタイアの持つインターコンチネンタル王座に挑むが獲得とはならなかった。2月26日のSmackDown!ではマネー・イン・ザ・バンクの予選試合でマッキンタイアに勝利し、マッキンタイアの無敗記録をストップさせた。

2010年5月28日のSmackDown!でアンダーテイカーが眼窩底骨折の重傷を負い、長期離脱したことをうけてストーリー上では「テイカーが何者かに襲撃されて植物状態になった」とされ、弟ケインによる犯人探しのストーリーが展開される。ケインはSmackDown!所属レスラーを無差別に襲撃し、フェイタル・4ウェイの世界ヘビー級王座戦に出場するジャック・スワガー、ビッグ・ショー、CMパンク、レイ・ミステリオの中に犯人がいると決め付けて出場者全員にチョークスラムを浴びせる。、フェイタル・4ウェイの当日には、「背後からの襲撃とはいえ、たった一人の人間が強大な力を持つテイカーを植物状態にまで追い込めるはずがない。犯人は複数いるはずだ」との理由で、ストレート・エッジ・ソサエティのリーダーであるCMパンクを犯人と決め付けて襲撃。6月25日のSmackDown!でCMパンクと対戦し、ストレート・エッジ・ソサエティのメンバーを蹴散らして勝利し、CMパンクは会場外に逃亡したものの腕に怪我を負わせる。しかし、7月2日のSmackDown!にて、テイカーが襲撃された当日にストレート・エッジ・ソサエティ(禁欲主義)のメンバーであるセリーナがバーで飲酒しているところにCMパンク含めた他のメンバーがセリーナに激怒している映像をセリーナが自分の追放を覚悟してケインに公開したことで、パンク達が犯人ではないと納得して抗争は終了。その後はジャック・スワガーを犯人と決め付けて襲撃。スワガーもテイカーが襲撃された当日は父親と一緒にいたとする写真を公開するが、ケインは納得せず、逃げ遅れたスワガーの父親にチョークスラムとツームストンを浴びせた。

7月18日、マネー・イン・ザ・バンクでSmackDown!のマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチで優勝し王座挑戦権を獲得。同日に行われたレイ・ミステリオ対ジャック・スワガーの世界ヘビー級王座戦ではミステリオが勝ったが、試合後もスワガーがミステリオに対して暴行を始めるとケインが乱入してスワガーを追い払ったが、直後にケインが王座挑戦権を行使してミステリオに勝利、初の世界ヘビー級王座を獲得した。

その後は王座挑戦権を獲得したミステリオと抗争。抗争の途中で意識は不明ながらも回復の兆しをみせたテイカーがうわ言でミステリオの名を口にした事から、ケインはテイカー襲撃犯をミステリオと断定する。8月15日のサマースラムでミステリオに勝利した後、さらにツームストンを3連発で浴びせ、ケイン自らが用意した棺桶にミステリオを葬ろうとするが、蓋を開けると無人のはずの棺桶の中からテイカーが復活、テイカー襲撃犯がケインであったことが判明する。以後テイカーと抗争を繰り広げ、9月19日にナイト・オブ・チャンピオンズでノー・ホールズ・バード・マッチで勝利。その後、ポール・ベアラーが復活してテイカーと結託したことでテイカーの力が復活し、劣勢となるが、10月3日のヘル・イン・ア・セルでのヘル・イン・ア・セル・マッチでベアラーがテイカーを裏切って勝利する。遂には10月24日、ブラッギング・ライツでのベリード・アライブ・マッチでもネクサスの援護もあり勝利、テイカーを生き埋めにした。

テイカーとの抗争終了後はエッジと抗争。エッジに父ポール・ベアラーを誘拐されてしまい翻弄される。11月のサバイバー・シリーズではダブルフォールにより王座は守ったが、その後のスマックダウンでエッジがベアラーの口を塞いで車椅子に縛り付けて暴行したり、ケインが追いかけてきたところでベアラーに似せたダミー人形を乗せた車椅子を階段から落とす等を何度も繰り返したことで翻弄され、最後はエッジがフロアの上階でベアラー本人を乗せた車椅子を高い壇上にセットし、またダミー人形だと思い込んで苛立ったケインが壇を押し倒したことでベアラーは下の階に落下して死亡(ストーリー上)。12月のTLCではエッジ、レイ・ミステリオ、アルベルト・デル・リオとの4ウェイ形式でのTLC戦でエッジに敗北、王座から陥落した。

2011年に入ってからは、あまり目立った抗争などはなく、ロイヤルランブルでは世界ヘビー級王座には挑戦せずにロイヤルランブル・マッチにてラスト40番目に登場する。しかし、レイ・ミステリオに34番目で落とされる。次のPPV エリミネーション・チェンバーでの世界ヘビー級王座をかけたチェンバー戦に出場すべく、スマックダウンでの予選試合でチャボ・ゲレロを余裕で倒し出場権を獲得する。2月20日のエリミネーション・チェンバーで、4番目に登場しビッグ・ショー、ドリュー・マッキンタイアと次々脱落させていくもレイ・ミステリオを担いだ状態でエッジのスピアーを喰らい4番目に退場となる。

3月4日のスマックダウンで、コアにアンダーテイカーを生き埋めにするのを手伝った代わりにビッグ・ショーを叩きのめす手伝いをしてくれと頼まれる。その日のビッグ・ショーとのシングル戦で途中コアが乱入、椅子をケインに渡しビッグ・ショーを殴れと命令する。ケインは殴るも、その後袋だたきの際にビッグ・ショーに押されたジャスティン・ガブリエルがケインにぶつかった為なのか、怒ってガブリエルの背中に椅子をフルスイングで叩き付ける。翌週の11日でビッグ・ショーと再試合するもコアがまたもや乱入、コアのバレット&スレーターとのタッグ戦をやることになるが、試合途中でコアに袋だたきにあい、さらには助けたと思われたビッグ・ショーにも先週のお返しかの如く椅子で殴られた。現在ベビーターン?の兆しが伺える。

その他

  • 上述のようにWWEの所属期間は、入れ替わりの激しい団体の中でも極めて長く、現在の"ケイン"というギミックになってから既に10年を越えている。その間、常にトップレスラーとして活躍するも、そのキャラクター性からか王座に絡むことはあっても、頂点に立ったのは僅かに2回(WWFヘビー級王座、世界ヘビー級王座)だけである。しかし現在までの怪奇派としてのギミックは一貫して変わっておらず、そういった観点からジ・アンダーテイカーの次に成功した怪奇派レスラーという意見もあり、こういった存在は非常に貴重といえる。また、テイカー同様にヒールを演じていても歓声を浴びる存在となっている。
  • ジ・アンダーテイカーとは抗争、共闘の愛憎劇を繰り広げてきたが、中でも最も人気が高いものとして、共闘した際にアナウンスされる "ブラザーズ・オブ・デストラクション(The Brothers of Destruction、破壊兄弟)" が挙げられる。今まで数回登場し、その存在感の絶対性から団体やファンからも一目置かれており、現在でもたまにであるが試合が組まれると注目の対戦カードとしてファンを沸かせている。不定期に再結成した際の試合はタッグ王者とのノンタイトル戦になることが多い。
  • ニックネームの一つにビッグ・レッド・マシーン(Big Red Machine / 日本では「赤い処刑マシーン」と意訳されている)がある。1970年代のシンシナティ・レッズのニックネームと同じであることから、当時の所属選手で元メジャーリーグ選手のピート・ローズとの間に遺恨が生じ、レッスルマニアでピートがケインの試合に乱入してはツームストーン・パイルドライバーを受ける光景は一時期名物化した。後にこのケインとのムーブによって、ピート・ローズは2004年にWWE殿堂入りすることとなった。その際に、ケインが盾を授与するプレゼンターを務めた。
  • 2006年にはケインが主演のホラー映画『See No Evil(邦題『シー・ノー・イーヴル 肉鉤のいけにえ』)』が全米で公開された。日本でも一部の地域で上映され、DVDも発売されている。彼の役柄=主人公の名は「ジェイコブス・グッドナイト(Jacobs Goodnight)」と、自身の姓を名前にしている。
  • プライベートでは国語教師の資格を持ち、趣味は読書、途上国の児童の支援を行っているなど真面目な性格で知られ、非常にギミックとの差がある人物でもある。また常にノートパソコンを持ち歩いており、機械類に対しても強い。
  • 右目に白いカラーコンタクトを使用している。
  • WWEでも数少ないグランドスラム (WWE)を達成した一人である。

獲得タイトル

WWE

  • WWF世界ヘビー級王座 : 1回
  • 世界ヘビー級王座 1回
  • ECW世界ヘビー級王座:1回
  • インターコンチネンタル王座 : 2回
  • WWE世界タッグ王座 : 9回(w / マンカインド×2、ジ・アンダーテイカー×2、Xパック×2、ロブ・ヴァン・ダム、ザ・ハリケーン、ビッグ・ショー)
  • WWE・ハードコア王座 : 1回
  • グランドスラム達成(2001年)

WCW

  • WCW世界タッグ王座 : 1回(w / ジ・アンダーテイカー)

SMW

  • SMWタッグ王座 : 1回(w / アル・スノー)

USWA

  • USWAヘビー級王座 : 1回
  • USWA南部ヘビー級王座 : 1回

入場曲

  • Burned 1997–2000
  • Out Of The Fire 2000–2002
  • Slow Chemical (Finger Eleven) 2002–2008
  • Into the Fire 2008 -

ライフ・オブ・ケイン
ライフ・オブ・ケイン


  



藤井 惠
1974/4/26

日本の総合格闘家。岡山県井原市出身。AACC所属。愛称は「フジメグ」「Mega Megu」。

女性総合格闘家屈指のグラップラーで、総合格闘技ではデビュー以来22戦22勝無敗であったが2010年10月に初黒星を喫した。多くの勝ち星を開始1分以内で決めており、「秒殺女王」の異名を持つ。

2010年10月にゾイラ・フラウストに敗れるまでは、MMAライジングのランキングにおいてパウンド・フォー・パウンド世界第1位の女性総合格闘家に、同メディアおよびファイターガールズのランキングにおいて世界最高のフライ級女性総合格闘家に指名されている。

来歴

父親の影響で柔道を3歳から始め、夙川学院高校、国士舘大学でも柔道を続け、全日本学生選手権52kg級3年連続ベスト8などの実績を残したが、大学卒業を機に柔道から引退(柔道参段)。23歳から始めたサンボでは全日本大会1998年から2005年まで8連覇を果たした。またブラジリアン柔術の黒帯でもあり、2002、2003年全日本優勝や2004、2006年パン・アメリカン大会優勝という実績を持つ。

2003/5/24、女子プロレス団体アルシオン「ARTIST-1」のメインイベントで吉田万里子と3分5Rの異種格闘技戦を行い、名勝負を繰り広げるも、3R3分30秒エビ固めで敗れた。

2004/8/5、松本裕美戦で総合格闘技デビュー、1R40秒チョークスリーパーで勝利。

2005年5月、アブダビコンバット女子60kg未満級の準決勝でキーラ・グレイシーに腕ひしぎ三角固めで一本負けするも、3位決定戦でギャジー・パーマンにトゥホールドで一本勝ちし、3位入賞を果たした。

2005/6/5、吉田万里子プロデュース興行「息吹」第1回大会で、吉田とタッグを組んで、木村響子&栗原あゆみと時間無制限3本勝負で対戦(吉田・藤井組は3本、木村・栗原組は1本で勝ちという特別ルール)。1本目は木村を三角絞め、2本目は栗原を腕ひしぎ十字固めで藤井が取り、3本目は吉田が木村から片エビ固めで勝利となった。2006/3/19の息吹第6回大会にも出場した。

2005/7/29、新宿FACEのこけら落とし興行「W-FACE」で近藤有希と5分1Rの柔術スペシャルエキシビションで対戦。

2007年5月、アブダビコンバット女子60kg未満級の準決勝でフェリシア・オーに一本負けするも、3位決定戦でビアンカ・バレットに勝利し、2大会連続の3位入賞を果たした(この時の優勝者は同門の塩田さやか)。

2008/9/12、立ち技格闘技初挑戦となるシュートボクシングに参戦し、富田美里に判定負け。

2008/11/16、JEWELS 旗揚げ戦で森居知子と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

2009/2/22、ADCC世界大会アジア予選女子60kg未満級に出場。決勝で塩田さやかに判定勝ちし、日本代表となった。

2009/7/11、JEWELS 4th RINGで石岡沙織と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

2009/8/11、シュートボクシング「Girls S-cup 2009」のスペシャルエキシビションマッチ(1R JEWELSルール、2R シュートボクシングルール)で渡辺久江と対戦した。

2009/9/26、アブダビコンバット2009・女子60kg未満級1回戦でヒラリー・ウイリアムスと対戦し、チョークスリーパーで一本負け。

2009/11/23、修斗で行われた修斗 vs. パンクラスの対抗戦でWINDY智美と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

2009/12/20、「ジュエルス1周年記念パーティ&表彰式」が開催され、年間最高試合賞(JEWELS 4th RING、vs. 石岡沙織)、功労賞を受賞した。

Bellator FC

2010/6/10、初参戦のBellator FCでサラ・シュナイダーと対戦し、マウントパンチの連打でTKO勝ちを収め、プロ20戦目にして自身初のKO勝ちを挙げた。

同年、女子115ポンド級トーナメントに出場。8/12のBellator 24で行われた1回戦ではカーラ・エスパルザに腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。9/30の準決勝でリサ・ワードに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。10/28の決勝でゾイラ・フラウストに1-2の判定負け。優勝を逃すとともに初黒星となりデビュー以来の連勝記録が22で途切れた。

2010/12/30、戦極 Soul of Fightで藤野恵実と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

タイトル歴

  • 第6回 アブダビコンバット 女子60kg未満級 3位(2005年)
  • 第7回 アブダビコンバット 女子55kg未満級 3位(2007年)
  • スマックガール GRAPPRING QUEEN TOURNAMENT 2006 ライト(-52kg)級 優勝
  • スマックガール GRAPPRING QUEEN TOURNAMENT 2007 ライト(-52kg)級 優勝

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上山 知暁
1974/4/26

日本の総合格闘家、元プロボクサー。東京都町田市出身。U-FILE CAMP町田所属。

総合格闘家上山龍紀は実弟。

人物

好きな有名人にフェルナンド・トーレスをあげており、入場時には彼のレプリカユニフォームを着用している。

来歴

高校時代はレスリング部の主将を務めた。

1995/6/23、プロボクシングデビュー。プロボクサー時代は、相模原ヨネクラボクシングジムに所属。

2002/3/19、吉田幸治と対戦し、引き分け。

2003/6/16の試合を最後にブランクを作った。2007/2/3に3年7か月ぶりの復帰戦を行なうも、5/15の試合を最後にボクシングを引退。

2008/4/5、U-FILE CAMP町田所属として総合格闘技デビューとなったCAGE FORCE 06で根津優太と対戦し、左耳カットによるドクターストップ負け。

2008/6/22、CAGE FORCE 07に連続参戦し、遠藤大翼と対戦するも、スリーパーホールドで一本負け。

2008/7/21、DEMOLITIONに参戦し、KRAZY BEEの長谷川雅彬と対戦するも、判定負け。

2009/4/29、DEEP M-1 CHALLENGE 3rd EDITION in JAPANのオープニングファイトで細川祐と対戦し、バックマウントパンチでTKO勝ち。総合格闘技4戦目での初勝利となった。

2009年11月7日、戦極初参戦となった戦極 〜第十一陣〜でBULLと対戦し、チョークスリーパーを極め、レフェリーストップ勝ちとなった。この試合はオープニングファイト扱いのFIGHT OF THE SOULとして休憩中に行われた。






大山 倍達
1923/7/27 - 1994/4/26

武道家・空手家であり、国際空手道連盟総裁・極真会館館長。極真空手十段。韓国名は崔 永宜

1970年代に週刊少年マガジンに連載された劇画『空手バカ一代』でも、主人公として取り上げられた。

生涯

全羅北道 金堤郡(現:金堤市) 龍池面 臥龍里にて、父・崔承玄(チェ・スンヒョン、최승현)と母・金芙蓉(キム・ブヨン、김부용)との間の6男 1女の第4子として生まれた。他にも崔猛虎(チェ・メンホ、최맹호)・大山猛虎・大山虎雄・崔倍達(チェ・ペダル、최배달)などを名乗っていたこともある。1964年(昭和39年)に日本国籍に帰化した後の日本名が大山倍達。大山の姓は、書生として住み込んでいた大山家(大山茂、大山泰彦の実家)の恩義から名乗ったとする説があり、日本名にも使った「倍達」とは、檀君神話に登場する伝説上の古代王朝、倍達国から。朝鮮民族は「倍達の民」「倍達民族」を美称として使うことがある。

日本国籍と外国籍をしている二重国籍者である。

幼少期は満州と朝鮮半島で育ち、16歳で山梨県の山梨航空機関学校(現日本航空高等学校)に入学、石原莞爾の東亜連盟に参加、軍人を志すが、卒業する前に終戦となった。その後、卒業。拓殖大学司政科卒業。早稲田大学高等師範部体育科(のちの早稲田大学教育学部体育専修)中退。

1938年(昭和13年)9月に空手道を松濤館流の船越義珍に師事、その後松濤館流と剛柔流を主に学ぶ。終戦後は千葉を中心に民族運動に参加したとする説もある。また、「山篭り」で空手修行に励んだともいう。短期間ではあるが、1956年(昭和31年)に大東流合気柔術の吉田幸太郎から合気柔術とステッキ術も学んだ。その他、講道館柔道を曾根幸蔵九段に、・ボクシングをピストン堀口にそれぞれ師事。

1946年(昭和21年)6月に俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子と結婚。このときの媒酌人は田中清玄。3人の女の子(留壹琴・恵喜・喜久子)をもうける。


1947年(昭和22年)に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝、1952年(昭和27年)にプロ柔道の遠藤幸吉四段と渡米、1年間ほど滞在して全米各地で在米のプロレスラーグレート東郷の兄弟という設定(Mas. Togoのリングネーム)で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラーやプロボクサーと対決したとされる。ビール瓶の首から上の部分を手刀打ちで切り落とした時、観客は驚嘆し、「Hand of God」「Miracle Hand」などと形容された]

帰国後、牛を倒し(合計47頭、うち4頭は即死)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年(昭和29年)として公開された。

多くの武道家と交流し、また世界各国を巡りさまざまな格闘技を研究、空手の指導を行い、直接打撃制の空手(極真空手-フルコンタクト空手)を作り出した。

目白の自宅の野天道場、池袋のバレエスタジオ跡の大山道場を経て、1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。

豪快で情に厚い人物であったという。

1994年(平成6年)4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。70歳没。

大山の危急時遺言で、韓国にも戸籍上の妻と三人の息子がいることが判明した。


牛を一撃で倒した男
大山倍達
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