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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
4/28


 
 


 
 

グレート小鹿
1942/4/28 (1940年生まれという説もある)

日本のプロレスラー。本名:小鹿 信也(こしか しんや)北海道函館市出身。大日本プロレス代表取締役社長。

経歴

17歳のとき、後を追いすがる家族を振り切り、一旗揚げたいという思いだけを持って青函連絡船に乗りこみ、一人函館を後にする。船中、体格のよさを見込んだ親方に声をかけられ、腹いっぱいご馳走された後、そのまま親方に連れられ出羽海部屋に入門することとなる。

1963年、相撲界を離れ日本プロレスに入団。5/9、マシオ駒戦でデビュー。豊登の命名による『小鹿雷三』のリングネームでファイトする。

1967年に大熊元司とともに渡米しテネシー州、ジョージア州のタッグ王座などを獲得。大熊がホームシックで帰国した後も、『カンフー・リー』などのリングネームを用い、サンフランシスコなどでシングルプレーヤーとして活躍し、姑息なヒール戦法を駆使して憎まれ役としての存在感を発揮。ミル・マスカラスを破って成し遂げたアメリカス王座戴冠の実績が光る。アメリカにおけるタイトル獲得数は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木を大きく上回る。

1973年6月、全日本プロレスに移籍。1974年1月にテキサス・アマリロへ再渡米。テリー・ファンクからウェスタン選手権を獲得。その後はジャイアント馬場のセコンドに必ず付いていたほか、大熊元司との名タッグ『極道コンビ』でアンダーカードの一時代を築く。アジアタッグ王座はこのコンビとともにあったといっても過言ではない。

また現役時代からプロモーター業を兼任して、そしてしっかり成功させていたという異色の選手であった。自らの引退興行も自分でプロデュースしている。 事業家・小鹿信也の出発点である。

引退後、地元函館で事業を始める傍ら、プロモーター業を継続。後に天龍源一郎の願いを受けWARの営業部長に就任。巡業ルートの設定などに携わる。また、タレント活動も行なっており、意外なところではミュージカルの出演経験がある(同じミュージカルには、女子プロレスを引退していたミミ萩原も出演していた)。

1994年12月、NOW崩壊の憂き目を見ていたケンドー・ナガサキ・登坂栄児(NOW社長→大日本・統括部長)らとともに、横浜市に大日本プロレスを設立し、社長に就任。

観客動員に苦戦したことから、1995年に現役復帰。『料理の鉄人』、ゴルゴ13、兵隊服などのコスプレをしてリングに上がる「コスプレ社長」として注目を浴びた。1997年1月4日には新日本プロレスの東京ドーム大会に登場。マサ斎藤と対戦した。このときの小鹿の衣装はタキシード。

若手が成長するにつれて自らがリングに上がることはなくなり、事業家としての活動が主となっている。2003年11月、宮城県仙台市に「プロレスちゃんこ小鹿」を、2006年4月には「ホルモン小鹿亭」をオープンさせた。

2006年3月から始めた小鹿自身が運営するブログ「小鹿注意報!」が大きな話題となり、同年12月にはそのブログをまとめた著書『グレート小鹿の「小鹿注意報!」-黄金のプロレス伝説、ここにあり!!』が五月書房から出版された。

2006年12月31日に行われた後楽園ホールでのインディサミット2006に大日本プロレス選手としてバトルロイヤルに出場。サポートはあったものの見事優勝。100万円を手にした。久々に彼の勇姿がファンの前に披露された。

2007年4月30日、「プロレスちゃんこ小鹿」が閉店。開店当初から地元の新聞・テレビに頻繁に取り上げられ、駐車場でプロレス大会を開催するなど一時は話題となったが、同年4月末をもって営業を終了した。それと同時に、小鹿は仙台での3年半の単身生活を終え、横浜の自宅へ戻った。続けて「ホルモン小鹿亭」も同年8月28日に営業を終了した。現在、首都圏に新店舗出店を計画中であるが、この間にも自転車販売や歌手デビュー(WAVE春日萌花とのデュエット曲も発売)と、多くの副業をしようとして、団体経営上副業を快く思わない登坂栄児統括部長から妨害工作を受けたりする。

2009年からは、大日本に参戦している佐々木貴らが立ち上げた団体「プロレスリングFREEDOMS」に参戦。後にバラモン兄弟らと結成した「小鹿軍団」のリーダーとしてリングに上がっている。

2009年12月31日から翌元日にかけて行われた天下三分の計にも出場。5対5の「ニューリーダー軍vsナウリーダー軍」のニューリーダーとしてTAKAみちのくに勝利した。また108人参加が参加したロイヤルランブル方式のバトルロイヤルにも20番目の選手として出場。途中退場になったものの全盛期を彷彿とさせるファイトで観客を大いに沸かせた。

逸話

  • 大熊との『極道コンビ』は非常に絆が強いコンビとして知られた。頑強だが気が弱い大熊を心身にわたって支え、大熊が怪我をしてほとんど動けないときには、「とにかく立っているだけでいいから」と言って小鹿一人で試合を組み立てるほどだったという(アメリカマットにおいて怪我で試合に出られなくなるということは、そのまま干されることにつながる)。早すぎた大熊の死に、小鹿は深く悲しんだ。
  • アメリカ時代は、カリフォルニア米が非常に口に合ったらしく食事の面で困ったことは無い。
  • 函館訛りが抜けない話し方で知られる。アメリカでも函館訛りで押し通した。
  • 力道山最後の弟子ではあるが、実際彼と接したのは1年ほどであり、また押しも押されもせぬエースと新弟子、という関係だったため、彼との思い出はそれほど無いという。プロレスラーを志して力道山の元を訪ねた際「いい体しているね、頑張りなさい」(その時点で身長は180センチを越えていた)と励まされたものの、後日約束した日に再び彼の元を訪れると「君誰だっけ?」と言われたことがある。これには小鹿は背筋が凍る思いがしたと述べている。なお、力道山時代の昭和のプロレスを語れる数少ないプロレスラーの一人でもある。
  • 往年の名悪役・アブドーラ・ザ・ブッチャー来日のきっかけを作った。米国遠征中の小鹿に対し、当時は日本ではまだ無名レスラーであったブッチャーが日本マット参戦を志願。ミスター・モトに仲介したことでブッキングが実現した。全日本や大日本でも幾度となく対戦している。
  • 歌が非常にうまく、団体の宴会には必ずお呼びがかかった。
  • 1984年、映画『修羅の群れ』に出演。
  • 1日1個のゴミを拾っている。
  • 子息に陸上の長距離選手がおり、全国高校駅伝、箱根駅伝に出場するほどの実力だった。
  • 2006年8月20日1日間の、自身が運営するライブドアBlogである「小鹿注意報!」のユニークアクセス数は丁度100だったが、翌21日に日本最大級ポータルサイトYahoo! JAPAN TOPのトピックス欄に小鹿のBlogが紹介・掲載された途端、その日だけで133,084という、とんでもない数のユニークアクセス数を記録した(現在も最低でも1000アクセスはある。MBSラジオ・「ゴー傑P」にて発言)
  • 2010年12月現在、現役日本人レスラー最高齢であるが、引退期間があるため公式にはされていない。

タイトル歴

  • アメリカスヘビー級王座
  • アジアタッグ王座(日本プロレス時代の最後の王者であり、全日本プロレス時代の最初の王者でもある。)
  • 日本海認定世界6人タッグ王座(第3代。パートナーはりほとミスター6号。ケニー・オメガから王座譲渡され第3代王座に認定される。)
  • UWA世界6人タッグ(第42代。パートナーはりほとミスター6号)
  • 自由が丘広小路会認定6人タッグ王者(第6代。パートナーはりほとミスター6号)
    • DDT「両国ピーターパン2010 〜夏休み ああ夏休み 夏休み〜」にて、UWA・自由が丘広小路会認定・日本海認定の6人タッグ3冠統一戦にて勝利し6人タッグ3冠王者となる。

使用したリングネーム

  • 小鹿信也(本名)
  • 小鹿雷三
  • グレート小鹿
  • カンフー・リー
  • 怪覆面G・K

著書

  • 1999年3月 『グレート小鹿の馬鹿モン!文句あっか!!』(ベースボール・マガジン社)
  • 2006年12月 『グレート小鹿の「小鹿注意報!」-黄金のプロレス伝説、ここにあり!! 』(五月書房)

グレート小鹿ブログ

 
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渡辺 えりか
1978/4/28

本名:秋田 えりか(あきた えりか)、旧姓:渡辺)は、日本の元女子プロレスラー。北海道北見市出身。JWP女子プロレスに所属していた。本名(旧姓の方)、橋本 真弥(はしもと まや)、ならびにマスクウーマンラウンドガールとしての活動で知られる。

経歴・戦歴

1998/1/23、神奈川・川崎市体育館において、対春山香代子戦でデビュー。2/14、「橋本真也に顔が似ている」という理由だけで「橋本真弥」に改名。当時から大食いとして知られ、1999年4月のTBS「金曜テレビの星!」の大食い選手権で見事優勝する。8月の「マスクウーマン・フェスティバル」では「ラウンドガール」として登場。しかし同年11/29、頭部負傷を理由に引退してしまう。

引退・結婚後しばらくして2001年にレフェリーとして再びリングに上がり、11月28日にフリーとして現役復帰。2002/6/16に再びJWP所属となった。以後、渡辺えりかならびにラウンドガールとして活動。また、ラウンドガールの特異なキャラクターを活かし、休憩後のインフォメーション「えりりんの部屋」でも活躍した。

2005/5/15の後楽園ホール大会で松尾永遠を破り、念願のJWPジュニア王者となったが、同年12/3の江本敦子戦後に心臓の病気を理由に引退を表明。2006/1/7にラウンドガール、1/22に渡辺えりかでそれぞれ引退試合を行った。

タイトル歴

  • JWP認定ジュニア王座

入場テーマ曲

  • 「For the Heroes」(春畑道哉)
  • 「ライク・ア・ヴァージン」(マドンナ)<ラウンドガール>





アレックス・ライリー
Alex Riley
1981/4/28

ケビン・カイリーKevin Kiley, Jr.)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。

来歴

2007年、WWEとディペロップメント契約。10月に傘下団体のFCWにてデビュー。2008年、リングネームをカーソン・オークリーCarson Oakley)に変更。スコッティー・ゴールドマンとタッグを組んでFCWフロリダタッグチーム王座に数度挑戦するも奪取とはいかなかった。タッグ解消後シングルに転向、リングネームをアレックス・ライリーAlex Riley)に変更し、人気者の大学生というギミックになった。2009年、FCWフロリダヘビー級王座に挑戦するなどトップに成長。同時にWWEに昇格し、ダークマッチとハウスショーに出場するが、番組に登場することができず降格となった。

2010年、3月にジャスティン・エンジェルとウェイド・バレットとの3ウェイ形式のタイトルマッチにエンジェルからフォールを奪い、FCWフロリダヘビー級王座を奪取した。

6月、NXTのシーズン2にルーキーとして参加。ザ・ミズをプロに迎え、第3位という結果に終わる。NXTシーズン2が終了してからはミズと個人契約し、RAWにて行動を共にすることとなった。また、並行してFCWにも出場し7月にメイソン・ライアンから王座を奪取された。RAWでは主にミズのアシスト役となっている。

2011年のロイヤル・ランブルを機に、正式ロスターとしてHPに載った。だが、WrestleMania XXVII直前でのミズとシナの抗争の最中に自らがシナとの金網戦に破れ、ミズの元を去ってしまう。しかし数週間後にミズ対グレート・カリの試合に乱入してミズを援護、再雇用されてミズの元に戻った。WrestleMania XXVIIではミズのセコンドとして出場した。

獲得タイトル

  • FCWフロリダヘビー級王座 : 1回

入場曲

  • Fullout
  • Going Postal
  • Black Fury
  • Fierce Days





ルー・テーズ
Lou Thesz
1916/4/24 - 2002/4/28

ハンガリー語: Tijas Lajos(ティヤシュ・ラヨシュ)、アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はアロイジャス・マーティン・ルー・テーズ(Aloysius Martin Lou Thesz)。ミシガン州バナット生まれ、ミズーリ州セントルイス出身。

日本では「鉄人」の異名をとり、多くのレスラーから20世紀最強であるといわれた、不世出のレスラーである。身長191cm、体重110kg。ジョージ・トラゴス、アド・サンテル、エド・ルイスなどにプロレスを教えられる。16歳でのデビューから、74歳での引退まで実に58年間もの現役生活を通した。
  • 1916年4月24日 - オーストリア・ハンガリー帝国のハンガリー人の靴修理工でレスリング選手であった父ティヤシュ・マルティン/マーティン・テーズ(Tijas Martin/Martin Thesz)と、ドイツ人の母との間に生まれた。姉妹は3人。両親はともにアメリカ合衆国への移民であった。2歳の時に家族と共にミズーリ州セントルイスへ移り住む。
  • 1933年9月 - 16歳でミズーリ州セントルイスのハリー・クック・アリーナでジョン・アンダーソンとプロレスデビュー戦、引き分けた。
  • 1936年 - ミズーリ州セントルイスのジムにてエド"ストラングラー"ルイス(後年専属マネージャーへ)と出会う。
  • 1937/12/29 - エベレット・マーシャルを破り、21歳でMWA世界ヘビー級王者となった(ミズーリ州セントルイス)。1938/1/25AWAの世界王者認定。
  • 1939/2/23 - ミズーリ州セントルイス(あるいはコロラド州デンバー)でエベレット・マーシャルを破り、NWA世界ヘビー級王者(旧NWA)となった。
  • 1939/6/23または7/19 - テキサス州ヒューストンでブロンコ・ナグルスキーに敗れNWA王座から陥落。
  • 1943年 - アメリカ合衆国陸軍に入隊、体育教官となった。テキサス州ヒューストン駐屯地で約4年間過ごした。
  • 1946/9/11 - カナダ・モントリオールでボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。
  • 1947/2/20 - 同地でボビー・マナゴフに敗れ王座陥落。
  • 1947/4/16 - 同地でボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。
  • 1947/11/26 - 同地でユーボン・ロバートに敗れ同王座から陥落。
  • 1947/4/25 - セントルイスでホイッパー・ビリー・ワトソンを破り、NWA世界ヘビー級王座を獲得。
  • 1947/11/21 - セントルイスでビル・ロンソンに敗れNWA世界ヘビー級王座から陥落。
  • 1948/7/20 - ビル・ロンソンを破り旧NWA世界ヘビー級第23代王者(NWA通算で第38代王者)となった。連勝記録の始まり。
  • 1949年11月 - 新NWAによる王座の正当化により、第38代王者(新NWA第2代王者)と認定された。過去獲得したものも第23、26、36代(旧NWAでは8、11、21代)として認定された。
  • 1955/5/22 - レオ・ノメリーニに反則で敗れ、テーズの連勝記録がとまる。記録は引き分けをはさんで936連勝。なお、タイトルのほうは反則負けのため王座移動はなし。
  • 1956年3月 - ホイッパー・ビリー・ワトソンに敗れ第38代NWA王座から陥落。
  • 1957年10月 - 日本プロレスに初訪日。力道山とNWA世界ヘビー級選手権で2度にわたり名勝負を繰り広げた。
  • 1957/11/14 - トロントでディック・ハットンに敗れNWA世界ヘビー級王者から陥落。
  • 1958年6月 - 世界各国を回り積極的に防衛を重ねた実績が認められ、NWA本部からインターナショナルヘビー級初代王者に認定された。
  • 1958/8/27 - 力道山に敗れてインターナショナルヘビー級王座から陥落した。
  • 1966/2/28 - 日本プロレスに特別参加で訪日し、ジャイアント馬場の持つインターナショナルヘビー級王座に挑戦。結果は馬場が2度目の防衛に成功。テーズから2ピンフォール取っての防衛は馬場の大きな勲章となった。
  • 1967年6月 - 初代TWWA世界ヘビー級王者に認定された。
  • 1968年1月 - 国際プロレス(当時はTBSプロレス)に訪日し、グレート草津のTWWA世界王座の挑戦を受けるが、1本目で実力を見破り、バックドロップで草津を失神させる。2本目は棄権、テーズが防衛に成功。草津をスターに仕立てようとするTBSの目論みは失敗に終わった。
  • 1973年10月 - 新日本プロレスに初登場、カール・ゴッチと組んでアントニオ猪木・坂口征二と「世界最強タッグ戦」を行う。なお、この年テーズ57歳、ゴッチ49歳であり、この年齢で「世界最強タッグ」の看板に説得力を持たせることが出来たあたり、当時のテーズの名声をうかがい知ることが出来る。
  • 1975年10月 - 新日本プロレスに訪日し、アントニオ猪木の持つNWF世界ヘビー級王座に挑戦する。
  • 1976/8/15 - 前年に旗揚げされたUWAから、初代UWA世界ヘビー級王者に認定された。
  • 1978年8月 - エル・カネックに敗れUWA王座陥落。
  • 1981年1月 - 国際プロレスで開催されたテーズ杯争奪戦に特別レフェリーとして来日。試合も行った。
  • 1983年4月 - 全日本プロレスに訪日し、ルー・テーズ杯決勝戦(越中詩郎 vs. 三沢光晴)のレフェリーを務めた。全日本にはこの時期数回来日し、ジャンボ鶴田にバックドロップを伝授している。
  • 1985/9/19 - 新日本プロレスに訪日し、IWGPヘビー級選手権試合:アントニオ猪木 VS 藤波辰巳戦(東京都体育館)の特別レフェリーを務めた。
  • 1986年 - 右臀部を手術する。以後レスラーとしてはセミリタイヤ状態となった。
  • 1990/12/26 - 日本での最後の試合。蝶野正洋と対戦し敗れる。この「試合の出来に納得が出来ず」、その後現役を引退。
  • 2002/3/9 - 妻チャーリーとともに訪日。U.W.F.スネークピットジャパン代表の宮戸優光の結婚式に出席。
  • 2002/4/28 - フロリダ州オーランドの病院で心臓バイパス手術を受けたが、肺炎を併発させて心臓疾患にかかり死去。86歳没。

主な獲得タイトル

  • NWA世界ヘビー級王座…第23、26、36、38、40、44代王者
    第38代王者の在位期間は7年
  • インターナショナル・ヘビー級王座…初代王者
  • WWA認定世界ヘビー…第21代王者
  • TWWA認定世界ヘビー…初代王者
  • UWA世界ヘビー…初代王者
  • NWAテキサスヘビー級

ベストレスラー25人

  • テーズが史上最強と考える5人のレスラー
    1. エド・ルイス
    2. ジョー・ステッカー
    3. フランク・ゴッチ
    4. ジム・ブラウニング
    5. ジョージ・ハッケンシュミット
    • 上記はいずれも第二次世界大戦前に活躍したレスラーである。テーズの考えでは、戦争によるレスラー不足をテレビ向けの動きしかできないレスラーで補ったことが原因で、一部の例外を除いて戦後のレスラーは戦前より劣るということである。
    • 上記レスラーのうち、テーズはエド・ルイスを特に尊敬しており、「20世紀最強のレスラーは私ではなく、ルイス」と述べていた。テーズは若手時代にルイスとスパーリングをする機会があったが、全く歯が立たなかったという。また、チャンピオン時代にはルイスを自らの専属マネージャーに招聘していた。
  • テーズが現役時代のライバルとして挙げる5人のレスラー
    • ジョージ・ゴーディエンコ
    • カール・ゴッチ
    • ダニー・ホッジ
    • ディック・ハットン
    • ルター・レンジ
    • 上記に加えて、力道山を挙げることもあった。
  • 上記以外で、テーズがベスト25人に挙げるレスラー
    • バート・アズラティ
    • ジャック・ブリスコ
    • マーティン・バーンズ
    • アール・キャドック
    • バーン・ガニア
    • グレート・ガマ
    • ボビー・マナゴフ
    • レオ・ノメリーニ
    • ビル・ロビンソン
    • アド・サンテル
    • ダラ・シン
    • レイ・スチール
    • ジョージ・トラゴス
    • スタニスラウス・ズビスコ

エピソード、その他

  • テーズのプロレス観の基本はレスリング技術を要する、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンであるため度々ショー的になったプロレスに対し苦言を呈している。ドロップキックなどのリアルでない技もあまり好まないが時流に乗るために仕方なく使用していたと言う。大技中心の攻防が主となってきた日本のプロレス界については「タフマンコンテストになりつつある」、近年のWWEに関しては「あれはカトゥーン(漫画)だ」と批判をしていた。
  • テーズはセントルイスのプロモーター、サム・マソニックと関係が深く、マソニックがNWAを設立すると、テーズは正統なレスリングのチャンピオンと認定された。その後もマソニックは常にテーズをレスリングの権威の象徴として扱い、一方、テーズも数多くのタイトルマッチを行って、NWAの勢力拡大に貢献した。
  • アメリカにおいては、テーズは1930年代から1990年代に及ぶ現役生活と6度の世界王座獲得により、別格のチャンピオンと認知されている。ただし、人気の面ではゴージャス・ジョージ、バディ・ロジャース、アントニオ・ロッカといった各時代の人気レスラーには及ばなかった(逆にこの三人は多忙だったため全盛時代の来日は無く、日本での認知度はテーズより低い)。
  • 日本においては、テーズは力道山との2度にわたるNWA世界ヘビー級選手権試合で注目され、外国人プロレスラーの多くが悪役であった時代に、正統派レスラーとして戦うことで強い印象を残した。また、日本では、936連勝という記録でも知られている(アメリカでは、この記録について語られることはほとんどない)。しかし、力道山の死後にグレート東郷と組んで日本のプロレスを乗っ取ろうと試みたり(テーズは「力道山の死後、困難な状況にあった日本のプロレスを助けたいと考えていたところ、その想いを東郷に悪用された」と釈明している)、新日本プロレスの長州力をグレーテスト18クラブ王者に認定する一方で、UWFインターナショナルの高田延彦をプロレスリング世界ヘビー級王者に認定して新日本プロレスを激怒させておきながら(その後も「日本におけるプロレスの発展を願うがための行動」として弟子である新日本プロレスの蝶野正洋と高田を戦わせよう画策した)、UWFインターナショナルの経営が傾くと早々に縁を切るなど(テーズによると「レスリングのできない大男でしかないベイダーを重用した時点で、UWFインターナショナルに失望していた」とのこと)、日本のプロレスファンの心情を逆撫でするような行動もあった。
  • アントニオ猪木対モハメド・アリに際し猪木にレフェリーを要請されていたがアリ陣営側から却下された。自身もボクサーとの対戦経験があるのでプロレスラーVSプロボクサーには非常に興味があったと言う。
  • 1981/1/31、国際プロレスの招きで来日していたテーズは、東急町田店スポーツ館の1日館長を務めた。その際のファン・インタビューで、「猪木、馬場、ラッシャー木村で誰が一番強いか?」という質問に対し、「相撲とレスリングをマスターしている木村だ」と、自分に対してお金を積んでいる人達に対して率直に高評価を下した。
  • 1991年には、『第15回アメリカ横断ウルトラクイズ』での罰ゲームで敗者2人の相手をしている。この時テーズ自身は75歳であったが、2人を圧倒してしまった。
  • テレビアニメ『タイガーマスク』には「ルー・ケーズ」というテーズをモデルにしたレスラーが登場する。どちらかというと「日本人レスラーの敵=悪役」というイメージであり、テーズスペシャルスマッシュ(拳によるパンチ)を多用している。ちなみに、ルー・ケーズ(Lou Kesz)というリングネームのプロレスラーが、かつて実在した。
  • よく、強さではカール・ゴッチと並び称されるが、ゴッチがひたすらに強さのみを求め、プロレス界から干されようともその考えを曲げなかったのに対し、テーズは自分の強さをアピールしつつ、あえて対戦相手に花を持たせるバランス感覚も持っていた。アントニオ猪木は「ゴッチは厳格な師匠、テーズは親しみが持てる親父さん」と評している。
  • テーズはカール・ゴッチをレスラーとして高く評価し、また、ゴッチがテーズと同じくハンガリー人とドイツ人の血を引いていることから、一時はゴッチとテーズはテーズの両親も含めて非常に親しい関係であった。しかし、テーズはレスラーとしてのゴッチは生涯高く評価し続けたが、後年にはゴッチと個人的な付き合いをすることはなくなった。テーズの伝記の著者、キット・バウマンによると、生前のテーズはゴッチについては語りたがらず、ゴッチと疎遠になった理由も明言しなかったが、不和の原因はレスリングの能力に対するテーズとゴッチのプライドから生じたとされる。また、テーズの未亡人チャーリーは、テーズはゴッチに自分と同じ才能を感じ、プロレスの将来のためにゴッチをチャンピオンにしようとしたが、プロレス観の違いからゴッチに拒絶されたため、テーズはゴッチに失望したのではないかと語っている。

著作

  • Hooker: An Authentic Wrestler's Adventures Inside the Bizarre World of Professional Wrestling
    • Lou Thesz(著)、Kit Bauman(ライター)
    • The Wrestling Channel Press
    • 1995年に自費出版された自伝の改訂版。
    • "hooker"はカーニバル・レスリングに由来する言葉であり、普通のレスラーには防御できない強力な技(hook)を習得したレスラーを意味する。
  • 鉄人ルー・テーズ自伝
    • ルー・テーズ(著)、流智美(訳)
    • ベースボール・マガジン社
    • "Hooker"より先に出版された。
    • "Hooker"を基に書かれたと思われるが、内容が異なる部分も多い。
    • 200点の写真や流智美によるコラムも収められている。

DVD

  • 『世界のプロレス レトロ編#2 ルー・テ-ズ最後の勇姿』
  • 『世界のプロレス レトロ編#3 鉄人ルー・テーズ 完結編』 ASIN B00074C4R6
  • 『ルー・テーズ対力道山 世界選手権争奪戦 』東映 ASIN B00061QW5U

ルー・テーズDVD集

  



クリス・キャンディード
Chris Candido
1972/3/21 -2005/4/28

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名クリストファー・ラウル・キャンディートChristopher Raul Candito)。ニュージャージー州カルテレット出身。

祖父は元WWWFの前座レスラー、チャック・リチャーズ。妻はマネージャーとして活躍したサニーことタミー・リン・シッチ(1972/12/7)。弟のジョニー・キャンディードもプロレスラー。

来歴

ラリー・シャープ主宰のモンスター・ファクトリーでトレーニング後、1986年に14歳でデビュー。シャープの運営するインディー団体WWAでキャリアを積む。この当時、高校時代の同級生で後に妻になるタミー・リン・シッチと再会する。

1992年1月、ブロンド・ボンバーThe Blonde Bomber)のリングネームでFMWに初来日。その後、クリス・キャンディードの名義でECWに登場。1993年4月にはジョニー・ホット・ボディとのコンビでECWタッグ王座を獲得、後にクリス・マイケルズを加えたユニットを結成し、防衛戦には3人のうちのどの組み合わせで出場しても認められるという通称「フリーバード・ルール」を採用してタイトルを3者共有のものとした。

その後、タミーを連れてジム・コルネットの主宰するSMWに参戦。1994年9月には全日本プロレスに来日した。帰国後の11/9、SMWにて行われた復活版のNWA世界ヘビー級王座次期王者決定トーナメントに出場し、アル・スノー、ダーティー・ホワイト・ボーイ、トレーシー・スマザーズらを退け王座獲得。1995/2/24にダン・スバーンに敗れるまでタイトルを保持した。

1995年11月、サニーと改名したタミーと共にWWFへ進出。スキップSkip)のリングネームを名乗り、フィットネスのインストラクターをギミックとしたサニーとの男女デュオ、ザ・ボディードナーズThe Bodydonnas)で活動。後にジップをタッグパートナーに迎え、1996/3/31の『レッスルマニア12』にてWWF世界タッグ王座を獲得した。しかし、当時クリックのリーダーとしてバックステージでの発言力を増大させていたショーン・マイケルズと諍いを起こし、マイケルズによってタイトルを取り上げられ、5/19のマディソン・スクエア・ガーデン大会にてヘンリーとフィニアスのザ・ゴッドウィンズに王座を明け渡している。

1996年10月、当時WWFと提携していたECWに再登場し、ランス・ストームと抗争を展開。後にストームとコンビを組み、1997/12/6、ダグ・ファーナス&フィル・ラフォンとアクセル・ロッテン&ボールズ・マホーニーとの3ウェイ・ダンスを征し、世界タイトルとなったECWタッグ王座を再び獲得、1998/6/27にサブゥー&ロブ・ヴァン・ダムに敗れるまで保持した。同年下期からは、シェーン・ダグラスやバンバン・ビガロとのヒール・ユニット、トリプル・スレットTriple Threat)の一員となって活動した。

2000年にWCWに移籍し、3月にWCWクルーザー級王座を奪取。その間にXPWにも参戦、XPW世界ヘビー級王座を獲得した。2001年5月には新日本プロレスに来日し『ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアVIII』に出場している。

WCW崩壊後はインディー団体を転戦し、2005年1月よりTNAに登場。しかし、4/24のPPV『ロックダウン』に出場した際に足首を骨折。翌日に手術を行い、経過は良好のように見えたが、手術の結果できた血栓が原因で4月28日に死去。享年33歳。

獲得タイトル

  • ECW
    • ECWタッグ王座 / ECW世界タッグ王座:3回(w / ジョニー・ホット・ボディ&クリス・マイケルズ×2、ランス・ストーム×1)
  • LWE
    • LWE世界ヘビー級王座:1回
  • MAW
    • MAWヘビー級王座:1回
  • NWA
    • NWAニュージャージー州ヘビー級王座:1回
    • NWA世界ヘビー級王座(復活版):1回
  • NWAミッドウェスト
    • NWAミッドウェスト・ヘビー級王座:1回
  • SMW
    • SMWビート・ザ・チャンプ・テレビジョン王座:2回
    • SMWヘビー級王座:1回
    • SMWタッグ王座:2回(w / ブライアン・リー×2)
    • SMW USジュニアヘビー級王座:3回
  • USWE
    • USWE USヘビー級王座:3回
  • USAプロレスリング
    • USAプロレスリングUS王座:1回
  • WCW
    • WCWクルーザー級王座:1回
  • WWC
    • WWC世界テレビジョン王座:1回
  • WWF
    • WWF世界タッグ王座:1回(w / ジップ×1)
  • XPW
    • XPW世界ヘビー級王座:1回





バディ・ローズ
"Playboy" Buddy Rose
1952/11/5 - 2009/4/28

アメリカ合衆国のプロレスラー。ワシントン州バンクーバー出身。本名はポール・パースマンPaul Perschmann)。

来歴

AWAのバーン・ガニアとビル・ロビンソンのトレーニングを受け、1973年にボブ・リーマス(後のサージェント・スローター)を相手にプロレスラーとしてデビュー。1975年11月には本名のポール・パースマン名義で全日本プロレスに初来日している。

1970年代後半より、地元のワシントン州およびオレゴン州やカナダのブリティッシュコロンビア州など太平洋岸北西部をサーキット・エリアとするPNW(Pacific Northwest Wrestling)に定着し、"プレイボーイ" バディ・ローズをリングネームに金髪のヒールとして活躍。ロディ・パイパー、ジミー・スヌーカ、リック・マーテル、ジェイ・ヤングブラッドらと抗争を繰り広げ、同地区の看板タイトルであるパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を1984年まで通算8回に渡って獲得。ジェシー・ベンチュラやスタン・ステイジャックをパートナーに、同タッグ王座にも12回載冠している。並行してハワイやサンフランシスコにも遠征し、各地のローカル・タイトルを奪取した。

1982年からはニューヨークのWWFに進出。グラン・ウィザードをマネージャーにペドロ・モラレスらと抗争し、8/30のMSG定期戦ではボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した。同年4月にはWWFとの提携ルートで新日本プロレスに来日しており、ハルク・ホーガンのパートナーにも起用されている。以降も新日本の常連外国人の一人となり、1984年1月の来日時は彼が手本としていたダスティ・ローデスともタッグを組んだ。

その後もPNWとWWFを主戦場に、1985/3/31に行われたレッスルマニアの第1回大会では、覆面レスラーのジ・エクスキューショナーThe Executioner)として第1試合でティト・サンタナと対戦。敗れはしたものの、歴史的イベントのオープニング・マッチを飾った。その後はボビー・ヒーナンがマネージャーとなって素顔に戻るが短期間で離脱してフロリダ地区に転戦。ケビン・サリバンと共闘し、ブラックジャック・マリガンやワフー・マクダニエルと対戦した。

1986年は古巣のAWAに参戦し、シェリー・マーテルをマネジャーに "プリティボーイ" ダグ・サマーズと金髪タッグを結成。同年5/17、スコット・ホール&カート・ヘニングからAWA世界タッグ王座を奪取する。その後は翌1987年にかけてミッドナイト・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)と抗争を展開した。

1990年にジョバーとしてWWFに再登場するが、90年代前半にセミリタイアし本拠地のPNWでローズ・ガーデンThe Rose Garden)なるインタビュー・コーナーを担当。その後はポートランドでラジオ番組のホストなどをしていた。2005/1/29にはフロリダ州タンパで行われたオールドタイマーによるイベント"Wrestle Reunion" に出場。カーネル・デビアーズ&カウボーイ・ボブ・オートンとヒール・トリオを結成し、ロディ・パイパー、ジミー・スヌーカ、ジミー・バリアント組と6人タッグマッチを行っている(マネージャー役はAWA時代と同様、シェリー・マーテルが務めた)。

2009年4月28日、ワシントン州バンクーバーの自宅で急死。56歳没。晩年は180kg近くまで体重が増加し、糖尿病を患っていたという。

エピソード

  • マイクパフォーマンスの達者さはトップクラスで、"プレイボーイ" を名乗るにもかかわらず太り気味であったことをキャラクターに活かし、選手紹介の際リングアナウンサーが彼の体重をコールすると、マイクを奪ってそれを訂正していた。
  • 1990年代初頭にWWFに復帰した頃はすでに144kgもの巨漢と化しており、ダイエットを図ろうとして失敗する中年男のギミックを与えられ、"Blow Away Diet" なる架空のインフォマーシャルも制作された。

獲得タイトル

  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:8回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:12回(w / ジェシー・ベンチュラ、リップ・オリバー、スタン・ステイジャック、カート・ヘニング、etc)
  • NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):2回
  • NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):1回(w / エド・ウィスコスキー)
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:1回
  • NWAハワイ・タッグ王座:1回(w / ビッグ・ジョン・スタッド)
  • NWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座(バンクーバー版):1回
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):2回(w / クリス・コルト、リップ・オリバー)
  • AWA世界タッグ王座:1回(w / ダグ・サマーズ)













 
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