本文へスキップ
 



5,000本以上の動画から
キーワード検索!

Google

WWW を検索
"極め”内検索
重要なお知らせ
2010/8月以降おまとめは休止しました。
動画検索はキーワードで!!


リンク切れ、レンタル、
お探し中などの問い合わせ

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
8/2

新着(ニュース、興行・結果、Youtube動画)
今日は何の日?





須田開代子
1938/8/2 - 1995/11/20

日本のプロボウリング選手。東京都出身。

ライセンスナンバー1の女子第1期生。日本国内初の女子プロボウラーとしても知られる。通算タイトル43勝。日本ブランズウィック社所属。ジャパンレディスボウリングクラブ(JLBC)初代代表。


 
広告


ジム " ジ・アンヴィル " ナイドハート
Jim "The Anvil" Neidhart
1956/8/2

アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州タンパ出身。本名はジェイムズ・ヘンリー・ナイドハートJames Henry Neidhart)。

1980年代半ばから1990年代にかけて、WWF(現・WWE)を主戦場に、ブレット・ハートとのタッグチーム "ハート・ファウンデーション" などで活躍した。妻はスチュ・ハートの長女エリー・ハート。WWE所属のナタリアことナッティ・ナイドハート(1982/5/27)は彼の娘である。

来歴

NFLのオークランド・レイダーズやダラス・カウボーイズに在籍した後、ハート・ファミリーの総帥スチュ・ハートのトレーニングを受け、1979年にカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングでデビュー。1982年4月には同地区との提携ルートで新日本プロレスに初来日しているが、当時は無名の存在だったため、ほとんど注目されることはなかった。

1983年からはアメリカ南部にも進出。ルイジアナのMSWAでジム・ドゥガンやテッド・デビアス、テネシーのCWAでジェリー・ローラーやオースチン・アイドルらと対戦してネームバリューを高める。NWA圏のフロリダでは1984年8月にアンジェロ・モスカから南部ヘビー級王座を奪取し、10月にはクラッシャー・クルスチェフとのコンビでUSタッグ王座を獲得した。

1985年、スタンピード・レスリングがビンス・マクマホンに買収されたことに伴いWWFと契約。テネシーCWA時代の盟友ジミー・ハートをマネージャーに、同時期にWWF入りした義弟のブレット・ハートとのヒール・ユニット "ハート・ファウンデーション" を結成。豪力派の強面ナイドハートと技巧派の二枚目ブレットという、パートナー同士が互いの個性を追求した新しいタイプのタッグチームとして頭角を現す(ナイドハートは自分達のことを「ブレットはポルシェ、俺はタンク」と表現していた)。1987/1/26にはブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)からWWF世界タッグ王座を奪取。同年10/27にストライク・フォース(ティト・サンタナ&リック・マーテル)に敗れるまで、9か月間に渡り同王座を保持した。

1988年4月、ヒールのバッドニュース・ブラウンとブレットの対立アングルが組まれたことを機に、揃ってベビーフェイスに転向。デモリッション(アックス&スマッシュ)、ブレーン・バスターズ(タリー・ブランチャード&アーン・アンダーソン)、リズム&ブルース(ホンキー・トンク・マン&グレッグ・バレンタイン)、パワー&グローリー(ハーキュリーズ&ポール・ローマ)らと抗争を展開する。1990/8/27のサマースラム1990では、リージョン・オブ・ドゥームのフォローでデモリッションを撃破、WWFタッグ王者チームに返り咲いた。

しかし、翌1991年3月24日のレッスルマニア7でナスティ・ボーイズに敗れ王座から陥落。その後チームを解散し、ブレットはシングルプレイヤーに転向。ナイドハートはブレットの実弟オーエン・ハートと新チーム "ニュー・ファウンデーション" を結成するがブレイクには至らず、1992年にWCWへ転出する。WCW在籍中の1992年8月には新日本プロレスに久々に来日し、G1クライマックスのNWA世界ヘビー級王座決定トーナメントに出場した(1回戦で佐々木健介に敗退)。同年10月のSGタッグ・リーグ戦にもトム・ジンクとのコンビで参加している。

1994/6/19、キング・オブ・ザ・リング1994で行われたブレット・ハート対ディーゼルのWWF王座戦において、王者ブレットのセコンドとして突如WWFに復帰するが、試合に介入してヒールに転向。同年にヒールターンしていたオーエンと結託し、ブレットとの骨肉の争いを開始した。1996年にはフーWho)なる覆面レスラーに変身したが、一時WWFを離脱してインディー団体を転戦。その後1997年、ブレットのヒール転向により再編されたハート・ファウンデーションのメンバーとして復帰する。しかし、同年11/9のモントリオール事件を最後に、ブレットやデイビーボーイ・スミスと共にWCWへ移籍することになった。

WCWではほとんど試合に出場することなく解雇され、その後はインディー団体に参戦。2000年代に入り、WWEの下部団体OVWで若手選手のコーチを務めていたこともあった。2007/12/10には『RAW』15周年記念大会のオールドタイマーによるバトルロイヤルに出場している。

2009/11/12、TNAの『iMPACT!』に登場、ジェイ・リーサルから勝利を収めた。

獲得タイトル

スタンピード・レスリング(カルガリー)
  • インターナショナル・タッグ王座:2回(w / ヘラクレス・アヤラ、ミスター・ヒト)
MSWA(ルイジアナ)
  • ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / ブッチ・リード)
NWA(フロリダ)
  • NWA南部ヘビー級王座:1回
  • NWA USタッグ王座:1回(w / クラッシャー・クルスチェフ)
WWF
  • WWF世界タッグ王座:2回(w / ブレット・ハート)

etc.

逸話

  • 娘のナタリアによると、ナタリアの高校時代は下校時間になるとオートバイで迎えに来るほどの親バカであった(叔父のブレットも過保護でやさしかったという)。また、当初はレスラーになることは反対だったとのこと。





エル・イホ・デル・サント
El Hijo del Santo
1963/8/2

メキシコシティ出身の覆面レスラー。実のエル・サントは、メキシコの伝説的英雄で覆面レスラー。身長168cm、体重84kg。

来歴

1982年6月にデビュー。

1983年に最優秀新人王と年間最高人気選手賞を同時に獲得し、はやくもトップレスラーの仲間入りを果たした。1984/10/28にUWA世界ライト級王座、1990/4/27にはUWA世界ウェルター級王座を獲得し、UWA史上初の二階級同時制覇を達成した。この間1986年10月にWWA世界ライト級王座も獲得している。

1990年6月にユニバーサル・プロレスリングに参戦するため初来日(この時の興行で、自分の試合後初めてリングにおひねりが飛び、そのことに感激し号泣している)。後楽園ホールでフェルサ・ゲレーラを破り、WWA世界ウェルター級王座を獲得した。この他にもナショナルウェルター級王座・PNW王座も獲得し三冠王者となり、AAAの爆発的人気を支えた。

1992年5月にAAA(トリプレ・ア)の旗揚げ戦に参加し、1993/11/5にオクタゴンとのタッグチームでAAA世界タッグ王座を獲得した。

1994年11月に新日本プロレスで行われた「AAAルチャワールド」に参加したが、1995年8月にAAAを離脱した。

1996年にCMLLにてルードに転向しライバルのネグロ・カサスを坊主頭に刈ると、1998年に再びリンピオに戻り2001/1/28に全日本プロレスの東京ドーム大会にミル・マスカラスとのタッグで参加した。

2007/11/15、フィリピンのマニラで開催されたボクシング興行でルチャリブレ(メキシコ)の試合が組まれ、WBC会長のホセ・スレイマン会長が、勝利したエル・イホ・デル・サントをプロレスラーとしては初めてのWBC名誉世界王者に認定した。これは会長がメキシコ人で、ルチャリブレに対する理解があったから可能だと思われる。この試合のサントの対戦相手は、日本人プロレスラーだった。

特徴

リングネームは、「El:英語のTheに相当する語」「Hijo:息子」「del:英語のof theに相当する語」「Santo:聖なる(者)」という意味で、父の「El Santo」に倣って「聖なる者の息子(聖者二世)」という意味である。英語表記:The Son of the Saint

プロレス以外でもスポーツ万能で、柔道や空手などの格闘技や水泳も得意だという。

「マスク剥ぎマッチ」では無類の強さを発揮し、約40人のマスク剥ぎに成功した。これは長い歴史を誇るルチャリブレでも最多記録である。

獲得タイトル

UWA

  • UWA世界ライト級王座 : 3回
  • UWA世界ウェルター級王座 : 2回

WWA

  • WWA世界ウェルター級王座 : 10回
  • WWA世界タッグチーム王座 : 2回(w / ペロ・アグアヨ・ジュニア)

CMLL

  • CMLL世界タッグチーム王座 : 2回(w / ネグロ・カサス)
  • 第2回レジェンダ・デ・プラタ(1999年)
  • メキシコナショナルウェルター級王座
  • メキシコナショナルミドル級王座
  • メキシコトリオ王座(w / スペル・ムネコ、アンヘル・アステカ)

AAA

  • AAA/IWC/PNW世界タッグチーム王座(w / オクタゴン)

その他

  • WBC名誉世界チャンピオン





飯塚高史
1966/8/2

日本のプロレスラー。本名は飯塚 孝之(いいづか たかゆき)。北海道室蘭市出身。新日本プロレス所属。

来歴

若手時代の1989年、馳浩と共にロシアでコマンドサンボ修行を行っており、グラウンドレスリングの技術力が非常に高く、道場でコーチを務めていた時期もあった。またその技術を買われて、パンクラスのリングでは鈴木みのると「キャッチレスリング」(打撃無しルール)で対戦している。

スリーパーホールドを得意としており、過去に何度もこの技で勝利をあげている。

本人曰く「裏投げとフィッシャーマンズ・スープレックスを併せた」というブリザードを得意としており、技の名前は出身地が北海道であることから、リングアナウンサーの田中秀和が命名したものである。

海外遠征からの帰国時、闘魂三銃士、馳浩、佐々木健介の5人にシングル戦を要求するマイクパフォーマンスをリング上で行い、エル・サムライおよび野上彰との3人で「新世代闘魂トリオ」という形で売り出されたが、希望は即座に通らずに売り出し失敗。併せて本人の性格の地味さもあって、トップグループに割って入ることができなかった。なお健介は後にプロレス雑誌の飯塚との対談で、このシングル戦要求に答えなかった理由を、「同い年の同年デビューなのに、短期サンボ修行、長州力と組んでのIWGPタッグ王座戴冠、ドラゴンボンバーズ、お膳立ての整った海外武者修行という、エリートコースに乗った流れが気に食わなかったから」と述べていた。

この後も、野上彰との「J・J・JACKS」、山崎一夫・永田裕志・木戸修との「山崎隊」など、ユニットの形でチャンスを与えられるが、生かすことは出来ず、「隠れた実力派」と称される中堅選手の位置に甘んじていた。

1999年1月4日、小川直也対橋本真也戦における場外乱闘で、小川のセコンドについていた村上和成に対し、一時昏睡状態に陥るほどのダメージを負わせた張本人とされる(これが原因で、村上は一時執拗に飯塚の首を狙っていた)。

2000年1月4日、橋本とのタッグで小川・村上組と対決。橋本を馬乗りパンチで攻める小川をドロップキックで駆逐するなど大活躍し、最後はスリーパーホールドで村上をKOした。この一戦がきっかけで一躍大ブレイクし、決め技となったスリーパーは前述のように彼の代名詞となった。4/7にはシングルでも村上からスリーパーで勝利すると、7/20に健介の持つIWGPヘビー級王座に挑戦。試合には敗れるものの、その後のG1 CLIMAXで永田裕志と大会中ベストバウトと呼ばれる試合を展開。G1タッグリーグ戦では永田と組んで初優勝と、飯塚にとって2000年は非常に実りの多い年であった。

しかし2001年、長井満也との試合で首を負傷し、長期欠場を余儀なくされる。

その後、トップ戦線との関わりは無く光が当たる事はなかったが2008年、復帰したがG・B・H勢に袋だたきに遭った天山広吉を助け、タッグ共闘を持ちかけた。最初は冷たくあしらわれていたが、G・B・Hのイス攻撃から身を挺して天山を守る等の捨て身の救助を行い、気持ちが通じて“友情タッグ”が誕生した。4/27のIWGPタッグ挑戦の際突如天山を裏切ってG・B・Hとグルになって袋叩きし、長いキャリアで初のヒール転向宣言。これに伴い、頭を坊主にし眉毛も落とし、無口で鋭い眼光の別人の風貌に変わった。

当初は全く喋らないキャラで逆にその不気味さを際立たせていたが、徐々に喋るようになった。のちのインタビューでは「善良だったころの飯塚高史の魂は等々力のほこらに封印した」と語った。

2008/10/13に天山、2009/4/5に永田とチェーン・デスマッチで対戦し勝利したが、2009年5月3日に永田とドッグカラー・チェーンデスマッチで、7月20日に天山とチェーン・デスマッチで再戦し敗北。同年のG1 CLIMAXに9年振りの出場を果たすも永田裕志、同ユニットの中邑真輔以外は全てアイアンフィンガー・フロム・ヘルをはめての地獄突きによる反則負けだった。

9月シリーズでは真壁刀義にピンフォール勝ちを3度も取られるという屈辱を味わい、9/27のメインイベント終了後に真壁を襲撃し両者に因縁が芽生える。さらに11/1の全試合終了後、菅林直樹社長の接待という事で車に乗り込んだ真壁に対して、持参したバットでテロを起こした。

11/8にチェーン・デスマッチとして試合が組まれK.O.負けとなったが、その後も襲撃を繰り返し12月5日、再度チェーン・デスマッチで激突するが今度はレフェリーストップを食らいデスマッチ4連敗を喫した。

2009年8月、G1クライマックスに出場、初参戦のNOAHのレスラー杉浦貴とも対戦した。

2010年1月4日の東京ドーム大会のスペシャルタッグマッチでテリー・ファンクス・長州力・蝶野正洋・中西学組と対戦(タッグパートナーはアブドーラ・ザ・ブッチャー・矢野通・石井智宏)。試合中にブッチャーの地獄突きの誤爆に遭った事でブッチャーを攻撃してしまった為、テリーの手引きで自身のアイアンフィンガーフロムヘルを装着したブッチャーに反撃の地獄突きを食らってしまい、直後に中西のアルゼンチンバックブリーカーでギブアップ負けをする。

8月、G1クライマックスのスペシャルタッグマッチで永田裕志・TAJIRI組と対戦(タッグパートナーは高橋裕二郎)。入場中に観客席の中を暴れまわり、実況席にいたテレビ朝日実況アナウンサーの野上慎平を襲撃(後述「野上アナとの抗争の始まり)。野上の衣服を破り、引きずり回した。試合はTAJIRIのグリーンミスト攻撃を受けたことによる反則勝利となるも、直後に永田に捕まった状態でTAJIRIにアイアンフィンガーフロムヘルを食らう屈辱を受けた。

12月に首の負傷で長期欠場状態だった天山広吉の復帰戦で、試合終了直後にリング上でマイクコメントしていた天山をスリーパーホールドで襲撃、失神させるという暴挙に出て裏切り以来の因縁抗争を再燃させた。

2011年1月4日の東京ドームで、DEEP SREEP TO LOSEルールで天山と対戦。リング入場中に野上アナを襲撃するも試合は解説席にいた井上亘の介入によって天山のアナコンダクロスで失神KO負けを喫する。

3月のNJCに出場。第1試合に天山と対戦するも再びアナコンダクロスで敗退する。

6月、SMASHの「初代SMASH王座決定トーナメント」に参加。1回戦でAKIRAと対戦。「J・J・JACKS」の元相棒と以外な所で再会した。(試合は、飯塚のレフェリー暴行による反則負け)

テレビ朝日・野上アナとの抗争

2010年の8/8のG1クライマックスのスペシャルタッグマッチにて実況席にいたテレビ朝日の実況アナウンサー野上慎平を襲撃したことから始まった。2010年度のG1終了後も、度々飯塚は野上を襲撃しその度に野上が半裸でネクタイが残っているという姿が一部のお約束事になってしまっている。因みに2011月1月以降では野上は青義軍のメンバーから貰った青いTシャツを着て実況を行うようになるも、その態度が気に入らないのか、飯塚はそのTシャツまでも破りにかかっている。

2011年に入ってからは飯塚のタッグパートナーである矢野通が野上を捕まえる、飯塚に服を破かれている最中の野上に水を掛けるなどして便乗するようになった。また、野上アナが飯塚に襲撃されているのを救出しようと、青義軍の井上亘や飯塚との遺恨が絶えていない天山広吉、挙句の果てには解説席の山崎一夫が介入するなどより一層の激しさを増している。

因みに、この一連の飯塚の行動を見た解説の金澤克彦は、飯塚は野上が飯塚の「J・J・JACKS」時代のパートナーの野上彰の亡霊に見えているからなのではないかと推測を立てており、大阪尼崎大会では飯塚が実況席に向かうも、実況者が野上でないと知るや否やすぐさまリングに向かった為、「飯塚は見境なく実況アナを狙っているんでなく野上慎平を狙っているんだ」と実況していた。

また、野上アナと同じ席で解説を行っている東京スポーツの記者柴田惣一が、蝶野正洋と対談した際、柴田が「飯塚の野上アナ襲撃」について質問したところ、蝶野は自身が新日本所属時代に辻アナウンサーを襲撃した過去を基に分析し、「飯塚にとって野上君の実況はただの雑音にしか聞こえておらず、しかもその実況に不満を持っているからだと思う」と述べた。

略歴

  • 1986/11/2、野上彰(現:AKIRA)戦でデビュー。
  • 1993年9月、野上彰とタッグチーム「J・J・JACKS」を結成する。1996年3月に解散。
  • 2005年から2007年まで選手会長を務めた。

入場テーマ曲

  • TERRIBLE AIR
  • against rules(G・B・H加入時から使用)

タイトル歴

  • IWGPタッグ王座:2回
    第10代パートナーは長州力、第27代パートナーは山崎一夫
  • G1 TAG LEAGUE 優勝(2000年)
    パートナーは永田裕志

  



山本元気
1977/8/2

日本のキックボクサー。京都府出身。DTS GYM(旧DEION GYM)所属。

来歴

2000/1/28、プロデビュー。

2000年4月27日、全日本フェザー級3Rトーナメント準決勝で前田尚紀と対戦し、判定勝ちを収めた。同年6月18日の決勝で嵐田茂と対戦予定であったが、負傷により欠場となった。

2003年9月27日、全日本フェザー級挑戦者決定戦で石川直生と対戦し、ローキックで3ダウンを奪いKO勝ち。タイトル挑戦権を獲得した。

2003年12月7日、王者前田尚紀に挑戦し、右フックでKO勝ち。全日本フェザー級王者となった。

2004年9月25日、ルンピニー・スタジアムでチャカポップ・シットジョームトライと対戦し、KO勝ち。8連勝(7連続KO勝ち)を記録した。

2004年12月5日、全日本フェザー級タイトルマッチで山本真弘と対戦し、5Rドロー。初防衛を果たすも、連勝記録は8で途切れた。

2005年7月26日、ゲーオ・フェアテックスと対戦し、判定負け。2001年7月以来の敗戦となった。

2006年1月4日、全日本フェザー級タイトルマッチで山本真弘と対戦し、判定負け。王座から陥落した。

2006年6月11日、ワンロップ・ウィラサクレックと対戦し、右眉尻をカットさせられるなどしたが、5Rドロー。この試合は2006年最高試合賞を獲得した。

2007年8月、階級をフェザー級からスーパーフェザー級に転向。

2007年9月8日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスで行われたWBCムエタイ世界スーパーフェザー級タイトルマッチでゲーオ・フェアテックスと対戦し、判定負け。王座獲得に失敗した。

2008年4月26日、石川直生と対戦し、頭部カットによるTKO負けを喫した。試合後のインタビューで「年齢も考えると辞めてもいいのかな」と引退を示唆した。

2008年11月8日、K-1ルールの大会「Krush!」のメインイベントで桜井洋平と対戦。1Rに2回、2Rに1回ダウンを奪うと、3Rにもダウンを奪いKO勝ちを収めた。

2009年3月14日、K-1ルールの大会「Krush.2」で梶原龍児と対戦し、判定勝ちを収めた。

2009年8月14日、Krushライト級グランプリ2009に出場。1回戦で尾崎圭司、準々決勝で前田尚紀にそれぞれ判定勝ちを収め、ベスト4進出を決めた。11月2日、準決勝で山本真弘と対戦し、判定負け。

2010年5月9日、NJKFで羅紗陀と対戦し、3R終了間際にTKO負け。

2010年12月30日、戦極 Soul of Fightでカノンスック・ウィラサクレックと戦極ムエタイルールで対戦し、0-3の判定負けを喫した。

獲得タイトル

  • 第21代全日本キックボクシング連盟フェザー級王座





エメリヤーエンコ・アレキサンダー
Emelianenko Alexander
1981/8/2

ロシア連邦共和国、ベルゴロド州出身の総合格闘家。フリーランス。ウクライナ出身の両親の元に生まれ、国籍はロシアだが、民族的にはロシア人ではなく、ウクライナ人である。

エメリヤーエンコ・ヒョードルの実弟。兄(182cm)を大きく上回る巨体(198cm)に、高いボクシングテクニックと身体能力を併せ持つ。序盤からアグレッシブに攻め込むファイトスタイルで、KO率も高い。ヒョードルも「近い将来、サーシャ(アレキサンダーの愛称)が一番の脅威となるであろう」と話す。

来歴

2003年、コンバットサンボ世界選手権アブソリュート級優勝、アマチュア・サンボ公式戦戦績10勝無敗の堂々の戦績があるが、それ以前の経歴に関しては、刑務所に収監されていたため、公式上は白紙である。

2003年10月5日、総合格闘技初参戦となったPRIDE 武士道のアスエリオ・シウバ戦では、苦戦したものの終始試合をコントロールし僅差の判定で勝利。デビュー戦を白星で飾る。

2004/8/15、総合4戦目ではミルコ・クロコップの左ハイキックで KO負け。「この敗戦は怒りを覚えるほど悔しかった」と本人が話すようにこの敗戦を機に、練習態度(そのほか諸々の意識など)を改め、ヒョードルに従いト レーニング内容も高度なものをこなすようになった。結果、以前よりも身体が絞り込まれ、スパーリングパートナーも驚くほどに、立ち技が上達したと言う。

2004/10/9、M-1でのカーロス・バヘット戦では判定勝利。その後ジェームス・トンプソン、ヒカルド・モラエス、レネ・ローゼといった巨漢との試合が続くも、すべての試合を30秒かからずKO勝利した。

2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005」では、オリンピック柔道金メダリストのパウエル・ナツラをチョークスリーパーで破る。

2006年5月5日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦のGP1回戦でジョシュ・バーネットと対戦。序盤は打撃で優勢に立つも、2Rにスタミナ切れを起こし、V1アームロックで一本負け。

2006年9月10日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 決勝戦のリザーブマッチで、かつてのチームメイトセルゲイ・ハリトーノフと対戦し、右ストレートでダウンを奪いグラウンドでの打撃でTKO勝ち。

2006/11/12、オランダで開催された『2H2H(トゥー・ホット・トゥー・ハンドル)』にてファブリシオ・ヴェウドゥムと対戦、1R早々にテイクダウンされ、そのまま肩固めで一本負け。

2007/4/14、BodogFightに参戦、エリック・ペレに1RKO勝ち。

2007/10/19、カナダで行われたHCFに参戦。ダン・ボビッシュと対戦し、フロントチョークで一本勝ち。

2008/7/19に行われたAffliction: Bannedにてポール・ブエンテロと対戦予定であったが、大会前の血液検査の結果により出場停止となった。兄ヒョードルは「血液検査の結果により出場停止となったことは確かだが、詳細は分からない」とインタビューで答えている。

2009年、所属していたレッドデビルを離脱し、フリーランスとなった。3/29のProFCではかつての同門イブラヒム・マゴメドフと対戦し、カットによるTKO勝ちを収めた。

人物

  • 非武装の強盗を働いた罪でロシアの刑務所で5年間服役する。
  • 刑務所内で彫ったといわれる刺青(死神が赤ん坊を抱いている図柄)から"刺青雷帝"と呼ばれる。
  • 2004年に結婚。2007年には子供も一人誕生している。





デビッド・ハート・スミス
DHスミス
1986/8/2

ハリー・スミスHarry Smith)は、カナダのプロレスラー。アルバータ州カルガリー出身。WWEのRAW所属。

リングネームは「デビッド」がハリーの父デイビーボーイ・スミスの本名から取っており、「ハート」は母方の旧姓でありレスリング一家であったハート・ファミリーから取ったものである。

経歴

父のデイビーボーイ・スミス、伯父のブルース・ハートからトレーニングを受け、カルガリーを拠点とするスタンピード・レスリングで活動する。 2005年には新日本プロレスにも参戦、蝶野正洋率いるブラック・ニュー・ジャパンと共闘している(新日本参戦時のリングネームは、ハーリー・スミスおよびハーリー・ザ・ブルドッグ・スミス)。

2006年にWWEとディベロップメント契約を交わし、DSWへ送られ、そこでTJ・ウィルソン(現タイソン・キッド)と共に活動する。 その後WWEとDSWの関係解消により、FCWへと移る。そこで21人バトルロイヤルに勝利し、FCW南部ヘビー級王座初代王者となった。

2007年10月にDH・スミスデビッド・ハート・スミス)としてRAWに登場し、父親の得意技ランニング・パワースラムでカリートに勝利する。11月に薬物違反により、1か月の謹慎処分となった。

2008年の追加ドラフトによりSmackDown!へ移籍するが、その後FCWへ送り返される。

2009年の追加ドラフトにより、ECWへ移籍する。5月のタイソン・キッド対フィンレー戦に乱入し、ヒールとしてECWデビューする。以降はナタリヤ、タイソン・キッドと共にハート・ダイナスティ(the Hart Dynasty)として活動する。6月のトレードでキッド、ナタリヤと共にスマックダウンへ移籍する。移籍後はクライム・タイムと抗争。その後もヒールとして活動していたが2010年3月28日に開催されたレッスルマニア26でのブレット・ハートとビンス・マクマホンの一戦をきっかけにベビーターンする。4/25のエクストリーム・ルールズで統一タッグ王者のビッグ・ショー & ザ・ミズ組に勝利し、統一タッグ王座への第一挑戦者となり、翌日のRAWで王者組に勝利し、統一タッグ王者となる(なお、8/16のRAWのブレットからの発表をもってWWEタッグ王座となる)。その後追加ドラフトによりナタリヤ、タイソン・キッドと共にRAWへ移籍する。

オーバー・ザ・リミットではクリス・ジェリコ & ザ・ミズ組、フェイタル・4ウェイ、マネー・イン・ザ・バンクではウーソズから王座を防衛してきたが、9/19のナイト・オブ・チャンピオンズのタッグチーム・ターモイル形式の王座戦でウーソズに敗れて王座から陥落する(試合の結果、コーディ・ローデス & ドリュー・マッキンタイア組が王者となる)。その後もタッグ王座戦線に絡むが負け続け、チームは不和となってしまう。11/15のジャスティン・ガブリエル & ヒース・スレイター組との試合ではキッドに交代を拒否されて、さらに頭にキックを叩き込まれた。これでハート・ダイナスティは解散となり、キッドはヒールターンした。

タイトル履歴

WWE
  • WWE・統一タッグチーム王座 : 1回 (w / タイソン・キッド)
FCW
  • FCW南部ヘビー級王座:1回
  • 北米ヘビー級王座:1回

入場曲

  • Butt Klub
  • Turtle Poke
  • One Last Breath
  • New Foundation
  • Attitude - 現在使用中





赤城はるな
8/2

日本の女子プロレスラー。群馬県伊香保町(現・渋川市)出身。身長150cm、体重52kg、血液型B型。

所属

  • アイスリボン(2008年 - )

経歴・戦歴

2008年
  • 7/5 東京・市ヶ谷アイスボックスにおいて、対しもうま和美戦でデビュー。

人物

  • 年齢は非公開。
  • OL兼業レスラーであり、英語が堪能であるため海外遠征のマネージャーも務める。
  • 市ヶ谷プロレス教室の同期であるしもうま和美・星ハム子と「雑草ガールズ」を結成している。
  • 現在は実質休業中だが、団体のビッグマッチにはスタッフとして参加している。

 









 
   ↑ トップへヤフーオークション  


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system