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カール・ゴッチ
Karl Gotch
1924/8/3 - 2007/7/28

プロレスラー、プロレスコーチ。日本においてはプロレスの「神様」と称される。本名はカール・イスターツKarl Istaz)。1961年まではリングネームとしてカール・クラウザーKarl Krauser)と名乗っている。プロフィール上はドイツ・ハンブルク出身とされているが、実際はベルギー出身と言われている。得意技はジャーマン・スープレックス。
来歴

レスリングでは、グレコローマンおよびフリースタイルレスリングのベルギー王座を7回ずつ獲得。ロンドンオリンピック(1948年)のグレコローマンおよびフリースタイルレスリングにベルギー代表として出場。1950年"Karel Istaz"のリングネームでプロレスデビュー、ヨーロッパ各地のトーナメントへ参戦。同年、ウィーンでのトーナメントでハープ・ガーウィッグ(後のキラー・カール・コックス)に敗れ準優勝。1951年より"Snake Pit"(蛇の穴)の通称でも知られるイギリスのビリー・ライレージムでビリー・ジョイスについてランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を練習する。

1959年にカナダへ進出、モントリオールでの興行へ参戦。1960年にアメリカへ進出、プロフィール上はドイツ人となり、リングネームとしてカール・クラウザーを名乗る。オハイオ州のMidwest Wrestling Association(MWA)へ参戦すると、1961年にNWAイースタンステーツヘビー級王座を獲得。同年、リングネームをフランク・ゴッチにあやかりカール・ゴッチへ改める。1962/8/31オハイオ州コロンバスにおいて、友人であるビル・ミラーと共に、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースと控え室でトラブルを起こす。同年、ドン・レオ・ジョナサンを破り、American Wrestling Alliance(オハイオ版AWA)世界ヘビー級王座を獲得。1963年9月から1964年11月にかけて、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座に9回挑戦するが、王座は獲得できず。1967年カリフォルニア州ロサンゼルスのWWAに参戦すると、同年"アイアン"マイク・デビアスをパートナーとしてWWA世界タッグ王座を獲得。同年6/30、大木金太郎が保持していたWWA世界ヘビー級王座にデビアスが挑戦した試合へ乱入し、デビアスの王座獲得を助けたと言われている。1968年アメリカ市民権を取得。1971年WWWF(後のWWE)へ参戦すると、レネ・グレイをパートナーとしてWWWF世界タッグ王座を獲得。しかし、ルー・テーズから「私をもっとも苦しめた挑戦者」と評されながらもとうとう主要王座は獲得できず、「無冠の帝王」の異名を持つ。

日本においては、1961年4月日本プロレスの第3回ワールドリーグに出場するために、カール・クラウザー(Karl Krauser)のリングネームで初来日。吉村道明を相手にジャーマン・スープレックス・ホールドを日本初公開する(試合は引き分け)。力道山とも対戦し、引き分ける。なお、来日中、ビル・ミラー(覆面レスラーのミスター・Xとして来日)と共に控え室でグレート・アントニオへ制裁を加えたという噂がある。1966年7月に再来日、ジャイアント馬場のインターナショナル選手権に挑戦が決まっていたが怪我で断念。1968年1月日本へ移り住み、日本プロレスのコーチに就任。「ゴッチ教室」を開き、アントニオ猪木に卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授。さらに山本小鉄、星野勘太郎といった当時の若手・中堅選手を厳しく鍛えた。ヨーロッパ仕込みのテクニックから「プロレスの神様」と称される。

その後はハワイで清掃の仕事などをしていたが、1971年3月国際プロレスの吉原功社長の招きで、第3回IWAワールドシリーズに参加。ビル・ロビンソンと5回対戦し、全試合とも時間切れで引き分ける。モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)とも対戦し、ジャーマン・スープレックス・ホールドを決めるが、レフェリーがリング外でダウンしていたためフォールは認められず、ロシモフの逆襲に不意を突かれ敗れる。国際プロレスに所属していたアニマル浜口らを指導する。

1972年1月の新日本プロレス設立に選手及びブッカーとして助力。1972年3月から1974年8月にかけて、アントニオ猪木と5回対戦し、3勝2敗。1973年10月ルー・テーズをパートナーとしてアントニオ猪木&坂口征二組と3本勝負で対戦し、1-2で敗れる。その後、フロリダ州タンパの「ゴッチ道場」において、藤波辰巳、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明らプロレスラーを数多く育成する。1982/1/1後楽園ホールにおいて藤原喜明とエキシビション・マッチで対戦、同年1月8日後楽園ホールにおいて木戸修と対戦したエキシビション・マッチが、プロレスラーとして最後の試合である。

その後は、第一次および第二次UWF、藤原組の顧問に就任し、所属プロレスラーを指導。佐山聡が設立したスーパータイガージムでも指導をする。シーザー武志へはシュートボクシング創設につながるアドバイスを与える。また、船木誠勝、鈴木みのるが1993年5月に設立した団体に「パンクラス」の名を与えている。2006年7月より藤波辰爾、西村修が設立した無我ワールド・プロレスリングの名誉顧問に就任。晩年は、タンパの自宅に西村修が度々訪ね、既に夫人を亡くしていたゴッチの世話を西村が行っていた。二人で夜な夜なワインを酌み交わしながら、プロレス談義に花を咲かせていたという。

2007/7/2821時45分、アメリカ合衆国フロリダ州タンパ市にて82歳で死去した。2007/7/30発行の東京スポーツ紙の記事では『大動脈瘤破裂』が死因だったとしている。

来歴についての疑問点
  • ゴッチの生年月日についてはいくつかの説が伝えられていたが、2000年代になってからは「1924年8月3日生まれ」でほぼ統一されている。「ドイツ・ハンブルク出身」とされているが、「ベルギーのアントウェルペンまたはブリュッセルの生まれで、後にハンブルクへ移住した」とも言われている。また、「父はハンガリー人、母はドイツ人」「"Gotch"というリングネームは母方の姓に由来する」とも「オランダ系でドイツ人の血は引いていない」とも言われている。このため、「ゴッチは(かつて第二次世界大戦においてアメリカと戦った『ヒール』としての)ギミックとしてドイツ人を演じているだけではないか」という意見もあるが、一方で、「ゴッチはナチスについて肯定的な発言を本気でしている」とも言われている。
  • ゴッチのアメリカ進出以前の経歴については、出典により異なった情報が伝えられている点が多い。例えば、以下のような経歴が紹介されたことがある。
    • ナチス統治下のドイツにおいて、9歳よりレスリングを始める。
    • 16歳でアマチュアレスリング全ドイツ・ヘビー級王座を獲得。
    • ヘルシンキオリンピック(1952年)のグレコローマンスタイルレスリングに出場、銀メダルを獲得。
    • 1954年より2年間、ビリー・ライレージムでランカシャーレスリングを練習する。
    • 1956年ヨーロッパでプロレスデビュー。
  • ゴッチが初来日の時に「クライザー」と名乗っていたのは、元々来日する予定であったクライザーというプロレスラーが来日できなくなり、代役として来日したためであるという「ゴッチ代役説」が伝えられている。この説では、ゴッチが「クラウザー」という類似したリングネームを使っていた事実はなかった(もしくは単なる偶然)とされる。また、代役としてゴッチを推薦したのは、ビル・ミラーとも言われている。この説とは別に、「クライザー」というプロレスラーが来日するはずが、なんらかの手違いにより「クラウザー」ことゴッチが来日してしまったという「ゴッチ人違い説」も伝えられている。元々来日する予定であったプロレスラーは、カロル・カルミコフのリングネームも使っていたカロル・クラウザー(Karol Krauser)とも言われている。
  • 1962/8/31にオハイオ州コロンバスのフェアグラウンズ・コロシアムにおいて、ジョニー・バレンドと対戦予定であったNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースが「控え室でカール・ゴッチとビル・ミラーに襲われて負傷した」と訴え、その日の試合を欠場した(公演自体は行われ、ロジャースの代役としてジャイアント馬場がバレンドと対戦したが、入場料の一部は払い戻しとなった)。ゴッチとミラーは警察署に出頭し、逮捕されたが、保釈金を支払って釈放された。ロジャースが「急に閉じられたドアに手を挟まれて負傷した」と主張したのに対し、ゴッチとミラーは「平手で一発ずつロジャースの顔を殴っただけで、負傷させるつもりはなかった」と反論した。ゴッチとミラーは「ロジャースには、次にオハイオを訪れた時にわたしたちの挑戦を受けることを要求したのに、負傷させては意味がない」「わたしたちがロジャースを負傷させるつもりであれば、手を負傷した程度で終わるはずがない」とロジャースを負傷させたことを否定したが、ロジャースは複数のプロモーター、プロレスラーから恨まれていたため、何者かがゴッチとミラーに依頼してロジャースを負傷させたという憶測が絶えなかった。なお、ロジャースはしばらくして試合に復帰したが、1963年1月24日、ルー・テーズに敗れ、NWA世界ヘビー級王座を奪われた。一方、ゴッチはこの事件の2週間後にオハイオ版AWA世界ヘビー級王座を獲得すると、その後はテーズと互いの王座を懸けて対戦するなど、アメリカにおける全盛期を迎えた。この逸話はかつては梶原一騎などによって「ロジャースは人気ばかりで実力がなかったからゴッチに控室でKOされた男として最低の恥をかかされた(『プロレススーパースター列伝』でのリック・フレアーの台詞)」などと誇張して伝えられ、ロジャースが未来日だったこともあって日本でのある時期のロジャースの印象を一部で低下させた。
プロレスラーとして
  • ゴッチはプロレスラーとしてそれほど大きな成功を収めておらず、アメリカでの知名度は低い。しかし、レスリングの技術とトレーニングに対する拘りから、日本では尊敬を集めている。インドのクシュティ、日本の柔道、ロシアのサンボを含む世界中のあらゆるレスリングに精通しており、「朝目覚めてから夜眠るまで常に『素手でいかに効率良く人を殺せるか』を考え続けている」と言われている。
    • ゴッチはレスリングを最も古く、最も難しいスポーツと考えており、キャッチアズキャッチキャンをレスリングの中で最強のスタイルとしている。打撃を含む総合格闘技に関しては一貫して否定的である。
    • ゴッチの行うトレーニング方法はインドに由来するものが多い。レジスタンストレーニングとしてはフリーウエイトを使うことは好まず、自重によるトレーニングを多用している。
    • 柔道出身のプロレスラーであった木村政彦とゴッチは友人であった。ゴッチはグレイシー柔術については「自分も知っている昔の柔道以上のものではない」と語っており、あまり評価していない。
    • ゴッチは宮本武蔵を尊敬しており、五輪書を愛読している。武蔵の心境に近づくために、プロレスラーとして試合をすることがなくなってもトレーニングを続けていた。
    • 左手の小指の大部分を欠損している。この欠損の原因は、レスリングとは関係ない事故とされている。本人の弁では船員時代折れた船の煙突が友人を下敷にしそうになったのを庇って失ったとのことである。
  • ゴッチのファイトスタイルは、レスリング技術を主体とする「正統派」で、派手さが無く、興行が盛況に至らないという理由から、一部プロモーターには煙たがられていた。見る人間によって「独り善がりでプロレスを理解していない人間」か「妥協無き真のプロレスラーでありシューター」という風に、評価が真っ二つに分かれるプロレスラーである。プロレスラー間でも、日米問わず賛否が分かれており、ルー・テーズやビル・ミラーから高い評価をされている一方、新日本プロレスの道場での稽古で再会したザ・グレート・カブキはゴッチが関節を極める際に指を眼に入れるなどの妥協なき「技術」を駆使して来るために「ずるい」と語り、ジャイアント馬場も「コーチとしての腕は認めても良いが、レスラーとしては駄目」と発言している。
  • ゴッチがルー・テーズの保持するNWA世界ヘビー級王座に6回目の挑戦をした試合(1964/5/2、ミシガン州デトロイト)において、ゴッチはテーズからバックドロップを仕掛けられた時に、自分の体重をテーズにあずけ、テーズの肋骨5本を骨折させた。テーズはダブルリストロックで試合には勝ったものの、この骨折から回復するのに7か月間かかり、特に骨折直後の2か月間は、後に人生で最悪の時間であったと語るほど苦しんだ。テーズはゴッチがこの試合でダブルクロスを試みて自分を傷付けたと信じており、そのことが2人の仲違いにつながったとも言われている。
  • ゴッチのジャーマン・スープレックス・ホールドはもっとも軌道が美しいと称えられており、ミスタージャーマンのスープレックスを投げられるレスラーは、ある意味勲章であった。
  • ゴッチのライバルは数多い。ビル・ロビンソンやドン・レオ・ジョナサンなど多くのライバルと戦って来たが、最強のライバルと言うと「鉄人」ルー・テーズを置いて他に無い。1961年から1964年までに7回戦って来たが、何れも引き分けであった。大方のパターンはジャーマン→バックドロップ→時間切れ引き分け……と言うのが大体の試合パターンであった。なおゴッチはテーズに対してライバル心と同様、ある種の憧れも抱いており、敢えてテーズと同じ様なファイティングポーズを取っていたと言う。

獲得タイトル

  • ヨーロッパ認定世界ヘビー級王座
  • NWAイースタンステーツヘビー級王座
    • 1961年獲得。
    • 1961/12/29、オハイオ州コロンバスにおいてドン・カーティスに奪われる。
  • AWA世界ヘビー級王座(オハイオ版)
    • 1962/9/14、オハイオ州コロンバスにおいてドン・レオ・ジョナサンより獲得。
    • 1964年9月7日、オハイオ州コロンバスにおいてルー・テーズに奪われ、NWA世界ヘビー級王座へ吸収。
  • IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版)
    • 1965/8/18、メルボルンにおいてスパイロス・アリオンより獲得。
    • 1965/8/25、メルボルンにおいてスパイロス・アリオンに奪われる。
    • この頃のオーストラリアでは、ゴッチはリングネームをカール・クラウザーに戻している。
  • WWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版)
    • パートナーは "アイアン" マイク・デビアス。
    • 1967年、ミスター・モト&大木金太郎組より獲得。
    • 1967年、ペドロ・モラレス&ビクター・リベラ組に奪われる。
  • WWWF世界タッグ王座
    • パートナーはレネ・グレイ。
    • 1971/12/6、ニューヨーク州ニューヨークにおいてルーク・グラハム&ターザン・タイラー組より獲得。
    • 1972/2/1、ペンシルベニア州フィラデルフィアにおいてマイケル・シクルナ&キング・カーティス組に奪われる。
    • 新日本プロレスの設立に協力するために、短期間で王座を譲り、WWWFから離脱する。
  • 世界ヘビー級(認定団体不明)
    • フランク・ゴッチゆかりのベルトと言われていたが、上記のオハイオ版AWAベルトを流用したものと思われる。
コーチとして
  • コーチとしてのゴッチは、豊富な知識から様々な練習方法を提案し、やる気を出させる教え方が上手なため、慕っているプロレスラーが多い(ただし、スパーリングは非常に厳しいらしい)。ゴッチの教えは「ゴッチイズム」と呼ばれ、ゴッチの指導を受けたアントニオ猪木が新日本プロレスで「ストロングスタイル」を確立したため、特に新日本プロレス出身のプロレスラーの間では畏敬の念を抱かれている。もっとも、これはアングルの一種でもあり、弟子たちの多くはゴッチを利用して有名になるとゴッチの下を訪れなくなったため、ゴッチがインタビューでかつての弟子たちに苦言を呈したこともある。なお、全日本プロレスの渕正信がゴッチの下を訪れた際にもゴッチは熱心に指導しており、指導するプロレスラーの所属団体についての拘りはないようである。
    • 長州力がデビュー戦から使用し続けているサソリ固め(スコーピオン・デスロック)は、ゴッチが伝授したと言われている。
    • 藤波辰爾の得意技だったドラゴンスクリュー、ドラゴン・スープレックス(フルネルソン・スープレックス)は、ゴッチが元祖である。
    • ゴッチは「12種類のスープレックス」を新日本プロレス期待の若手であった当時の前田日明に伝授している。
    • ゴッチは小沢正志のためにモンゴル人のギミックを考案し、「テムジン・モンゴル」と命名したが、小沢がアメリカへ進出する際に「キラー・カーン」と改名したために破門している。その後、ゴッチと小沢が和解したかどうかは不明である。
  • 第2次UWFブーム当時、ゴッチは週刊ゴングのインタビューで「日本には私のファイトスタイルを忠実に再現しているレスラーが1人だけいる」と発言し、記者から「それは誰ですか?やはり前田(日明)さんですか?」と尋ねられたのに対して、「木戸修だよ」と答えている。この発言からも分かるように、蹴りを多用する前田日明、高田延彦には、「彼らはキック・ボーイになってしまった」とやや冷水を浴びせるところがあった。ただし、ゴッチは来日時に山本小鉄へ見事なソバットを決めたこともあり、キックを嫌う傾向はあるが、必ずしも否定はしていないという見方もある。また、鈴木みのるがUWF時代にこだわりを持って使用したドロップキックやストンピングを批判していないところから、繋ぎ技、裏技、奇襲として足の裏で蹴ることは否定していないのではないかと思われる。
    • なお、木戸修に対するゴッチの思い入れは若手時代からであり、新日本旗揚げシリーズ前の道場での公開練習では、ゴッチは当時22歳であった木戸を専属パートナーとして指名している。
  • ゴッチはレスリングをするために筋肉増強剤は有害であると考えており、ケン・シャムロックが筋肉増強剤を使用していると批判している。パンクラスがゴッチの批判を無視してケン・シャムロックを重用したため、ゴッチはパンクラスと決別したと言われている。
  • ゴッチは1999年からしばらくの間マット・フューリーを指導したことがあり、2000年にトニー・チチーニーがフューリーを批判した時にはチチーニーを非難したが、その後はフューリーを厳しく批判している。かつての弟子とのトラブルについて、ゴッチは「魂だけは教えることができないものであり、本人が生まれながらに持っているものである」と述べている。
  • グレコ特有のロックアップしてからの展開を基本としていたため、自ら飛び込んでの片足タックルを全く教えなかった。ゴッチの技術体系では現在の総合格闘技に対応できないことは明らかであり、パンクラスがゴッチから訣別した一因ともなっている。
  • 前田日明によればゴッチはUWFの選手にタックルの有効性を訴えていたが、選手たちは理解せず見栄えのよいキックばかり練習していたと言う。
エピソード
  • 1986年「INOKI 闘魂 LIVE」前田日明vsドン・中矢・ニールセン戦のセコンドとしてUWFサイドの招きで来日した際、「これまで何度も飛行機で日本に来ているが、ファーストクラスを用意してくれたのは初めてだ。ありがとう。」とコメントした。これをUWFサイドは、「プロレスの神様と持ち上げておきながら、これまで関わった団体はその程度の扱いしかしなかった!」と、雑誌等で喧伝した。しかし、後にゴッチが第2次UWFの顧問から外れた際、実は新日も日本に呼ぶ際はファーストクラス料金を送金していたのに、ゴッチ自らが下のクラスの座席を取って来日していた事が明かされた。
  • 第一次UWF崩壊後も、来日の度に団体が用意したホテルではなく第一次UWFの社長であった浦田昇の家に宿泊していた。これは、1996年5月に浦田が修斗コミッショナーに就任した後に受けたインタビューで述べている。
  • 日本プロレスに来日した際、歯が痛くなったゴッチは「歯があるから痛くなる」と言い張って、歯医者に無理矢理痛くない歯も含めて全部の歯を抜かせたという。当然ながら抜いた直後は体調が悪化して練習を休みにせざるを得なくなり、猛特訓に辟易していたレスラー連中を大喜びさせたという。
  • 渕正信が雑誌「Gスピリッツ」(週刊ゴングの後継誌の一つ)に語ったところによると、渕がゴッチの元で修業していた1982年に「新日本とは何の契約もないので全日本が呼んでくれるのなら行ってもいい」とゴッチが言い出し、ちょうど米国遠征中だった馬場も興味を示したという。このゴッチ全日本登場は、「新日本の象徴であるゴッチを全日本が引き抜いてどう使うかが非常に難しい」ということなどから幻に終わった。渕によるとゴッチは馬場のことを「あの身体の大きさであれだけ動けて身体も柔らかいのは素晴らしい」と語っていたという。
  • ルー・テーズはゴッチについて晩年に「彼の動きはロボットを連想させる」と述べたことがある。
  • 死去する直前、テレビの取材で坂口征二とともに自宅に訪れた俳優の坂口憲二に「ゴッチ式トレーニング」を直接指導した。当初坂口は、10分程度の練習のつもりだったが、ゴッチの指導に熱が入り1時間以上練習するハメに。
  • アントニオ猪木が自他共に認めるゴッチの弟子としてレスラーとして尊敬していたこと、新日本プロレス旗揚げの際にNWAから締め出されていた新日に実力あるレスラーをブッキングしたことは有名だが、猪木自伝によれば「新日旗揚げ時のブッカー料は業界抹殺のリスクに見合う巨額を請求してきた」「ギャラの札の枚数を目の前で数えられた」として、金銭にシビアな面に猪木が幻滅した描写がある。

ゴッチが指導した主なプロレスラー

  • ヒロ・マツダ
  • アントニオ猪木
  • 坂口征二
  • キラー・カーン
  • アニマル浜口
  • 藤原喜明
  • 木戸修
  • 長州力
  • 藤波辰巳
  • 佐山聡
  • 渕正信
  • 前田日明
  • 高田延彦
  • 石川雄規
  • 鈴木みのる
  • 船木誠勝
  • 西村修
  • ジャック・ブリスコ
  • ボブ・バックランド
  • エル・カネック
  • ジョー・マレンコ
  • ディーン・マレンコ
  • ジョシュ・バーネット

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ヘイスタック・カルホーン
Haystacks Calhoun
1934/8/3 - 1989/12/7

ウィリアム・ディー・カルホーンWilliam Dee Calhoun)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。アーカンソー州モーガンズ・コーナー出身。

元WWWF世界タッグ王者(第6代)。1960年代を代表する巨漢レスラーであり、日本では「人間空母」「お化けカボチャ」などの異名で呼ばれた。

来歴

1957年にデビュー。オーバーオールを着用し、家畜の蹄鉄を鎖で首にぶら下げた農夫ギミックの超巨漢ベビーフェイスとして売り出され、カンザスシティやヒューストンなど各地を転戦。1960年代初頭はハッピー・ハンフリーとの巨漢対決で注目を浴びた。1962年10月にはロサンゼルスのWWAにて、エイブ・ジェイコブズ(アベ・ヤコブ)とのコンビでWWAインターナショナルTVタッグ王座を獲得している。

1963年3月、日本プロレスの『第5回ワールド大リーグ戦』に初来日。羽田空港から都心のホテルまで小型トラックの荷台で運ばれるなどの演出で話題を呼び、4/17には沖縄で力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。若手時代のアントニオ猪木や大木金太郎を相手にした5人掛けの変則試合なども行われた。

1960年代後半はカナダのバンクーバー地区を主戦場に、1966年7月にはドン・レオ・ジョナサンと組んでジョン・トロス&トニー・ボーンからNWAカナディアン・タッグ王座を奪取。1968年6月にもジョナサンとのコンビでジ・アサシンズを破り、再び同王座を獲得した。この間、1966年12月には地元のアーカンソーをサーキット・エリアとするミッドサウスのトライステート地区にて、ジャック・ブリスコと組んでNWA USタッグ王座にも戴冠。1968年8月にはマンマウンテン・カノンとの巨漢コンビで日本プロレスに再来日している。

1970年代よりニューヨークのWWWFに登場。1973/5/30、トニー・ガレアをパートナーにプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジからWWWF世界タッグ王座を奪取した。9/11にタナカ&フジにタイトルを奪回されるが、以降もベビーフェイスの中堅としてWWWF(WWF)に定着。ゴリラ・モンスーン、チーフ・ジェイ・ストロンボー、イワン・プトスキーらと共に、マディソン・スクエア・ガーデンのミッドカードに欠かせない人気者となる。ブルーノ・サンマルチノやペドロ・モラレスともタッグを組み、1977/6/6にはスーパースター・ビリー・グラハムのWWWF世界ヘビー級王座にも挑戦した。

1978年6月にはWWFとの提携ルートで新日本プロレスの『サマー・ファイト・シリーズ』に参戦、10年ぶりの来日を果たしたが、日プロ参戦時と比べ体重は大幅に落ちていた。同シリーズではピーター・メイビアと組んで坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座に挑戦、アントニオ猪木とのシングルマッチも行われている。なお、このシリーズには当時WWFでメイビアのマネージャーを務めていたフレッド・ブラッシーも来日しており、WWFではベビーフェイスのカルホーンも仇敵ブラッシーをマネージャー役にしてヒールを演じた。翌1979年6月には新日本のブッキングでアンドレ・ザ・ジャイアントと共に国際プロレスに特別参加している。

その後、健康状態が悪化して1980年代初頭に引退。1986年に糖尿病のため左足を失い、1989年12月7日に死去。55歳没。

エピソード

  • 初来日時は当時としては桁外れの体のサイズゆえ大きな話題を集め、子供向けの印刷媒体には「朝食には茹でたジャガイモをバケツ1杯、ベーコン900グラム、卵10個を食べ、ミルク半ガロン(約2リットル)を飲む」などと紹介された。プロレスラーになったきっかけも、巨体を武器にして手っ取り早く大金を稼ぎ、その食欲を満たすためだったなどとされている。東京スポーツ新聞社の桜井康雄が彼の食いっぷりを確かめるべくレストランに誘ったところ、800グラムのステーキを3枚、エビフライを4人前、フルーツを4皿たいらげたという。
  • 1962年公開の映画 "Requiem for a Heavyweight" (ロッド・サーリング脚本、アンソニー・クイン主演)に本人役で出演している。

獲得タイトル

  • WWAインターナショナルTVタッグ王座(ロサンゼルス版):1回(w / エイブ・ジェイコブズ)
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):2回(w / ドン・レオ・ジョナサン)
  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ジャック・ブリスコ)
  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / トニー・ガレア)





ローラン・ボック
Roland Bock
1944/8/3

西ドイツ・ガイスリンゲン出身のプロレスラー。「欧州の帝王」「地獄の墓掘人」の異名を持つ。

ローランド・ボックと表記されていたこともあるが正しい読みはローラント・ボック。また、アントニオ猪木との西ドイツでの初対戦を報じた雑誌では、明らかな間違いであるがローラン・ブルック(もしくはルボック)と紹介されたこともある。

なお、 "Roland" のカタカナ表記は「ローラント」がドイツ式の原音に近いが、本人はプロレス専門紙『週刊ファイト』でのインタビューにおいて「ローラントは間違いなので、ローラン・ボックと表記して欲しい」と語っていた。これはヨーロッパにおいては知らぬ者がいないフランスの叙事詩 "La Chanson de Roland(ローランの歌)" の主人公に自らを重ねていたことに由来する(シュトゥットガルトでの猪木戦で、ボックを応援する観客が大合唱したのがローランの歌である)。つまり、リングネームとしてはローラン・ボックとフランス語風に発音することを本人は希望していた。

来歴

1968年、レスリングのグレコローマンスタイルでメキシコシティオリンピックに出場(ヘビー級)。また、レスリング超強豪国であったソビエト連邦でも活躍するなど、レスラーとしての実力は谷津嘉章からも高く評価されていた(『週刊ファイト』での対談による)。

1972年のミュンヘンオリンピックにも出場予定だったが、興奮剤の使用を巡り西ドイツの体育協会とトラブルを起こし、出場を断念。その後1973年にプロレスラーに転向。1975年にはメキシコから遠征してきたミル・マスカラスを破り、1979年12月にはアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦している(4R無効試合)。

西ドイツではプロモーター業も行い、1978年のアントニオ猪木の欧州遠征シリーズでは選手として自ら猪木と戦いつつ、興行そのものを取り仕切っていた(オットー・ワンツやウィレム・ルスカも参加。アントン・ヘーシンクの出場も予定されていた)。このシリーズでは、ボックは猪木と3回戦い、1勝(判定勝ち)1敗(反則負け)1分であったが、日本で放送されたのは前述のシュトゥットガルトにおける判定勝ちの試合であり、この際のボックの痛めつけ方が尋常ではなかったことから「シュトゥットガルトの惨劇」とも称された(実際、この試合を含むシリーズで猪木の負ったダメージは非常に大きかったと言われ、「猪木のレスラー生命を数年は縮めた」との評価も少なくなかった。

その後、交通事故や心臓発作に襲われ、かつてのようなコンディションは望むべくもない状態に陥った。

日本へは1981年と1982年、猪木の団体である新日本プロレスに通算3回来日している。1981年夏の初来日では木村健吾や長州力をダブルアーム・スープレックスで短時間で料理し、センセーショナルな日本マット登場を果たしたが、腹周りには贅肉がダブつき、長時間の試合も望めないコンディションだった。一説によれば、ビジネスを兼ねての来日であったという(マスクド・スーパースター談)。

逸話

  • レスリングの技能に加え、アントニオ猪木をして「とてつもなく力が強い」と言わしめた怪力を活かして活躍したが、「プロレスの暗黙の了解をしばしば無視し、時には平気で相手を負傷させる」といった悪評も付いて回った(「アンドレ・ザ・ジャイアントとの試合後、ボックの戦い方に怒ったアンドレがシャワールームに殴り込んだ」「自らも同様の悪評と無縁とは言えなかったカール・ゴッチが、『あんなルール破りの男と戦うのは危険だ』と猪木に忠告した」などの逸話が伝えられるほどであった)。
  • このため、「ショーマンシップのかけらもないが、実力(この場合は「真剣勝負をした場合」という意味と思われる)では世界の3本の指に入る」と『週刊ファイト』で賞賛されるなど、「強いプロレスラー」の代表の如く評価されるケースが多かったものの、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを本格的に学んだと伝えられていないことなども考え合わせると、ボックのシューターとしての真の実力を疑問視する向きもある。
  • 得意技はダブルアーム式を始めとする各種スープレックス。また、その怪力を生かし、プロレス技としては「つなぎ技」でしかないボディスラムを必殺技に近いレベルで用いていた。欧州遠征した猪木は、ダブルアーム・スープレックスで肩を負傷(脱臼という説も)したとされる。
  • ボックは「腕さえ回れば象でも投げられる」と常々豪語していたと言われ、実際に「大巨人」アンドレを投げようとしたという逸話も残っている(ただし、実際にアンドレを投げることができたのかについては諸説あって不明である)。

獲得タイトル

  • WWU世界ヘビー級王座(1978年)
  • VDB世界ヘビー級王座(1979年)


エリック・スコット "バタービーン" エッシュ
Eric Scott "Butterbean" Esch
1966/8/3

アメリカ合衆国のプロボクサー、総合格闘家、キックボクサー。ミシガン州ベイシティ出身。チーム・バタービーン所属。

アメリカでプロボクサーとして活躍し、その後日本のK-1に参戦。キックボクシングや総合格闘技の試合にも出場している。

およそプロの格闘家とは思えない太った体型をしているが、ボクサー時代は一度もKO負けを喫したことがないという。そのポッチャリとした体型と分かりやすいファイトスタイルから、アメリカでは非常に人気がある。

こなしたボクシングの試合の大半が4回戦であることから、「史上最強の4回戦ボーイ」(King of 4 rounders)という異名を持つ。なお、彼が獲得したボクシングのタイトルは、全てマイナー団体と呼ばれる系統の団体の王座であり、タイトルとしての 認知度や価値は低い。

来歴

ボクサー時代

1994年にプロボクシングに転向するまでは、タフマンコンテストというミシガン州のローカルなアマチュアボクシングの大会に出場していた。この大会が認定する世界ヘビー級王座に5度ついた。

プロデビュー後は対戦相手のほとんどが弱小選手ばかりだったこともあり、連勝を続けランクを上げると、1997/4/12にIBA世界スーパーヘビー級王者決定戦(3分4R)に出場。エド・ホワイトを2RTKOで下し、王座を獲得した。なお、このエド・ホワイトとは2006/9/23に再戦しており、この時もバタービーンが1RTKOで勝利している。

プロレス団体WWF(後のWWE)の主催するPPV『In Your House 19』で、アマチュアボクシングのゴールデングローブで優勝経験のあるプロレスラー、マーク・メロとショースタイルのボクシング試合を行った。また、2年後の1999年3月28日には『Wrestlemania XV』では、バート・ガンとのボクシング試合(ブロウル・フォー・オール・マッチ)を行い、1R0:30KO勝ちを収めた。

同年6月26日、マイク・タイソンやマイク・ベルナルドなどと試合経験があるピーター・マクニーリーと対戦し、1RTKOで下した。2002/7/27には、元IBF&WBC世界ヘビー級王者のラリー・ホームズの引退試合の対戦相手を務める。10Rにホームズをダウン(ただしスリップ気味)させる健闘を見せたが、大差で判定負けした。

2005年10月15日、NABC世界スーパーヘビー級王者決定戦に出場。ジョージ・リンバーガーに4R判定1-2で負け、王座獲得はならなかった。

K-1出場

2003/6/29、『K-1 BEAST II 2003』で、藤本祐介と対戦。左フックでKO勝ちしデビュー戦を飾った。しかし、続く同年9/21のマイク・ベルナルド戦ではローキックで脚を徹底的に狙われ、脚に意識が集中したところで右ハイキックをもらい、2RKO負けした。

2004年3月14日の天田ヒロミ戦、同年6月26日のモンターニャ・シウバ戦ともに0-3の判定負けし、翌2005年7月29日のマーカス"XL"ロイスター戦で判定勝ちすると、以降キックボクシングの試合には上がっていない。

2008年8月9日、K-1 WORLD GP 2008 IN HAWAIIの1回戦でウェズリー"キャベージ"コレイラと対戦し、2RKO負け。

総合格闘技

2003年12月31日に、K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!で須藤元気と初挑戦となる総合格闘技ルールで対戦し、2ラウンドにヒールホールドで一本負け。この試合を境にアメリカのローカルな総合格闘技の試合に出場し始め、6連勝した。

2006年8月26日、PRIDE 武士道 -其の十二-でPRIDE初参戦。美濃輪育久と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本負け。10月21日のPRIDE.32ではショーン・オヘアにKO勝ち。

2006年12月9日、Cage Rage 19でイギリスの格闘技イベントCage Rageに初参戦。ロブ・ブロートンのパウンドによりタップアウト負けを喫した。2007年2月10日、Cage Rage 20ではジェームス・トンプソンに43秒でKO勝ち。

2007年4月8日、PRIDE.34でズールと対戦し、V1アームロックで一本勝ち。7月14日、Cage Rage 22のメインイベントでテンギズ・テドラゼと対戦するも、TKOで敗れた。

2010年9月18日、KSW 14のメインイベントでマリウス・プッツナウスキーと対戦し、パウンドによるギブアップ負けを喫した。

戦績

  • アマチュアボクシング: 61戦 56勝 36KO 5敗
  • プロボクシング: 89戦 77勝 8敗 58KO 4分
  • 総合格闘技:21戦12勝8負1分

獲得タイトル

  • プロボクシング
    • IBA世界スーパーヘビー級王座(5度防衛)
    • WAA世界ヘビー級王座(0度防衛)





杉内 由紀
1980/8/3

旧姓:古舘は、日本の元総合格闘家、現在はブラジリアン柔術家。ポゴナ・クラブジム所属。東京都町田市出身。夫は総合格闘家の杉内勇。

来歴

今成正和を擁するTeam ROKENの紅一点として2004/5/6のスマックガールFに参戦、「SGG 1Dayトーナメント2004 ライト級」に出場し1回戦で吉田正子を腕ひしぎ十字固めで下すも、準決勝で茂木康子に判定で敗れる。

総合デビューは同年11月26日のG-SHOOTO・Zepp Tokyo大会で柴田郁美相手に腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。2006/2/5にはDEEPに初参戦するもMIKUにチョークスリーパーで一本負け。この試合を最後にROKENを離脱するが、翌2007/3/18、プロレス団体「ガッツワールド」の興行で「ガッツワールド正規軍vsTeam ROKENイリミネーションマッチ」にROKENの一員として出場する。

ROKENの同僚だった杉内勇と結婚後はポゴナ・クラブジムに所属し、ブラジリアン柔術やグラップリングの試合に出場。2009/10/24にはVALKYRIE 03に参戦、「金網グラップリング」という形式で試合を行い田中由紀を腕ひしぎ十字固めで下した。


  



アルバート・クラウス
Albert Kraus
1980/8/3

オランダ出身のキックボクサー。北ブラバント州オス市出身。K-1 WORLD MAXの初代王者。チーム・スーパープロ所属。試合入場時のガウン、パンツなどは独特のものがある(パンツの前面に漢字で「一番」の文字を縫っている)。入場曲はサバイバーのアイ・オブ・ザ・タイガー。

来歴

2002年5月11日、K-1 WORLD MAX 2002のトーナメント準々決勝ではシェイン・チャップマンに判定勝ち、準決勝では魔裟斗に判定勝ち、決勝ではガオラン・カウイチットを右フックでKO勝ち、K-1 WORLD MAX初代王者となった。当初はリンホージムの兄弟子アンディ・サワーが出場予定であったが、怪我によりクラウスが出場し優勝を果たした。

優勝したことでクラウスが天狗になり、リンホージムのジョン・デ・リン会長との関係が悪化。最終的には、同ジムを離脱しブリーズジムに移籍した。

2002年10月11日、K-1 WORLD MAX 2002 〜世界王者対抗戦〜で魔裟斗と再戦するも5Rドロー。

2003年3月1日、K-1 WORLD MAX 2003 〜日本代表決定トーナメント〜のスーパーファイトでマイク・ザンビディスと対戦し、右フック一発でKO負け。

2003年7月5日、K-1 WORLD MAX 2003のトーナメント準々決勝ではアンディ・サワーにダメージによる棄権でTKO勝ち、準決勝ではドゥエイン・ラドウィックに左フックでKO勝ち、決勝では魔裟斗に左フックでKO負けし、準優勝に終わった。同年9月27日に、スーパーリーグの興行で、フランスのモウッサ・コナテに2R終了時TKO勝ちし、復帰戦を飾った。

2004年4月7日、K-1 WORLD MAX 2004のトーナメント1回戦でジャダンバ・ナラントンガラグに延長判定勝ち。7月7日の準々決勝ではシャミール・ガイダルベコフに判定勝ちしたものの、準決勝で王者魔裟斗に判定負け。ベスト4に終わった。

2004年9月19日、シュートボクシング「S-cup 2004」に出場。1回戦でチャンプアック・チョーセパサートに延長の末判定勝ちを収めるも、右背部筋挫傷および肋骨亀裂骨折により準決勝を棄権した。

2005年5月4日、K-1 WORLD MAX 2005のトーナメント1回戦でヴァージル・カラコダに判定勝ち。7月20日の準々決勝ではジョン・ウェイン・パーに判定勝ちしたものの、準決勝でブアカーオ・ポー.プラムックに判定負け。2年連続でベスト4で終わった。

2005年12月18日、オランダの北ブラバント州にあるクラウスの地元オスで行われたIKBAムエタイ世界ウェルター級タイトルマッチで、メノー・ダイクストラを5R判定で下し世界王者になった。

2006年4月5日、K-1 WORLD MAX 2006のトーナメント1回戦でアリ・グンヤーに判定勝ち。6月30日の準々決勝でドラゴに 1R右膝蹴りでダウンを奪われ判定負け。ベスト8に終わった。その年の終わりの、12月17日に、オランダの地元オスで開催された「WORLD TITLE DEFENSE」で自身の持つIKBO世界王座防衛戦を行った。“キング”ジェームス・マルティネス(アメリカ)を2RTKOで下し、防衛に成功した。本 来はザック・デイ(アメリカ)と防衛戦を行う予定だったが、デイが怪我のため出場できなかった。

2007年4月4日、K-1 WORLD MAX 2007 〜世界最終選抜〜でTATSUJIと対戦し、判定負け。しかし判定負けに納得のできないクラウスは試合後にカメラを殴るなど怒りをあらわにした。試合は手数ではTATSUJI、クリーンヒットではクラウスと非常に微妙なものであった。

2007年6月28日、K-1 WORLD MAX 2007のトーナメント1回戦でヴァージル・カラコダに判定勝ち。10月3日の準々決勝では佐藤嘉洋に判定勝ちしたものの、準決勝でアンディ・サワーに判定負け。

2007年10月28日、SHOOT BOXING BATTLE SUMMIT GROUND ZERO TOKYO 2007で緒形健一と対戦予定であったが、K-1 MAXでの負傷を理由に欠場となった。

2008年1月26日、Beast of the Eastにてファディル・シャバリと対戦し、判定負け。

2008年4月9日、K-1 WORLD MAX 2008 FINAL16のトーナメント1回戦でブアカーオ・ポー.プラムックと再戦し、延長判定負け。

2008年7月7日、K-1 WORLD MAX 2008 FINAL8のトーナメント敗者復活戦でマイク・ザンビディスと対戦し、3R終了時、左目カットによるTKO勝ち。FINALでのリザーブファイト出場権を手にした。

2008年10月1日、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメントリザーブファイトで城戸康裕と対戦。1R終了間際に膝蹴りで城戸の眉間付近をカットさせる。2Rに再度膝蹴りをヒットさせ、城戸をドクターストップに。クラウスの2RTKO勝ち。

2009年2月23日、K-1 WORLD MAX 2009でイ・スファンと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

2009年4月21日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL16のトーナメント1回戦で長島☆自演乙☆雄一郎と対戦。1Rに2度のダウンを奪い、KO勝ちを収めた。

2009年7月13日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL8の準々決勝でジョルジオ・ペトロシアンと対戦し、0-3の判定負けを喫した。

2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 FINALで武田幸三の引退試合の相手を務め、TKO勝ちを収めた。

2010年7月5日、K-1 WORLD MAX 2010 FINAL16で中島弘貴と対戦し、1Rに右ハイキックでダウンを奪った上で3-0の判定勝ちを収めた。

2010年11月8日、K-1 WORLD MAX 2010 FINALの準々決勝にてジョルジオ・ペトロシアンと対戦し、0-3の判定負けを喫した。

ファイトスタイル

元々のバックボーンはボクシング。K-1ではそのボクシングで鍛えたパンチを武器に活躍している。2002 - 2003年あたりまで、パンチに偏ったスタイルだったが、後にキックを猛練習。バランスのよいファイターになった。しかしアゴへのパンチや跳び膝蹴りに非常に弱く、悪い特徴として調子の波が激しすぎることがあげられる。

獲得タイトル

  • WPKCベネルクス王座
  • FIMACオランダ王座
  • IKBFヨーロッパ王座
  • IKBO世界王座(1度防衛)
  • IKBAムエタイ世界ウェルター級王座(0度防衛)
  • WKA ムエタイ世界スーパーミドル級王座
  • K-1 WORLD GP 2002 世界地区予選 オランダ大会 優勝
  • K-1 WORLD MAX 2002 世界一決定トーナメント 優勝
  • K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメント 準優勝




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