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プロレス/格闘技
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8/4

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ディーン・マレンコ
Dean Malenko
1960/8/4

アメリカ合衆国の元プロレスラー、本名はディーン・サイモンDean Simon)。フロリダ州タンパ出身。引退後はWWEのロード・エージェントを担当している。

父は名門スクール "Malenko School of Wrestling" (マレンコ道場)を設立し、「チェーン・デスマッチの鬼」の異名を持つボリス・マレンコ。兄は全日本プロレスで世界ジュニア王座を獲得したジョー・マレンコ。

来歴

少年期から兄のジョーと共に父親からプロレスのトレーニングを受ける。その後、カール・ゴッチの道場でも鍛え上げられた。

1985年2月、当時顧問を務めていたゴッチの勧めでUWFに初来日を果たす。1988年には全日本プロレスにも数シリーズ参戦し、当時兄が保持していた世界ジュニア王座に挑戦した。その後、渕正信の同王座にも挑戦したが敗れている。

1992年からは新日本プロレスにも参戦し、IWGPジュニア王座にも挑戦した。また、ここでのクリス・ベノワ、エディ・ゲレロとの邂逅は、彼の後のキャリアに深く影響することとなった。

1994年、ベノワ、エディと共にECWに参戦。そのレスリング技術で高い支持を受け、同年11月には2・コールド・スコーピオを破りTV王座を獲得、翌1995年2月にはベノワとのコンビでサブゥー&タズから世界タッグ王座を奪取した。その後、エディと共にWCWに引き抜かれることになり、ECW最後の試合では、観客から "Please don't go !" (「行かないで!」)のコールが起こるほどであった。

WCWには1996年より登場し、5月にWCWクルーザー級王座を獲得。以降もクルーザー級の中心選手となり、レイ・ミステリオ・ジュニアやクリス・ジェリコとタイトルを争った。1997年3月にはエディ・ゲレロを破りUSヘビー級王座を獲得、1999年3月にはベノワとのコンビでウエスト・テキサス・レッドネックスのカート・ヘニング&バリー・ウインダムから世界タッグ王座を奪取した。

しかし、盟友のベノワと対立していたブッカーのケビン・サリバンによってWCWを解雇され、2000年1月よりWWFに移籍。同時に移籍したベノワ、エディ、ペリー・サターンと共にラディカルズを結成し、WWFのトップ選手と抗争する。その後は女たらしのキザなキャラクターに扮し、ジェームズ・ボンドを気取るなど自意識過剰なヒールを演じた。途中リタに惚れ、シャワー中の彼女を覗こうとするなどストーカーまがいのキャラにもなったが、2001年秋にプロレスラーを引退し、WWEのエージェントに就任。復活版のECWではシニア・プロデューサーを担当していた。

獲得タイトル

WCW
  • WCWクルーザー級王座 : 4回
  • WCW USヘビー級王座 : 1回
  • WCW世界タッグ王座 : 1回(w / クリス・ベノワ)
ECW
  • ECW世界タッグ王座 : 1回(w / クリス・ベノワ)
  • ECW TV王座 : 2回
WWF / WWE
  • WWFライトヘビー級王座 : 2回

 
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神崎文枝
1966/8/4

日本の元女子プロレスラー。身長156cm、体重55kg、血液型AB型。東京都江東区出身。

経歴・戦歴

1985年
  • 6/14、北海道・函館市民体育館において、対中島小百合戦でデビュー。
  • 10/26、新人王トーナメントの1回戦で岡林理恵に勝つ。
  • 11/8、新人王トーナメントの2回戦で西脇充子に敗れる。
1986年
  • 12/7、埼玉・寄居町民体育館で行われたチーム対抗公式リーグ戦での試合を最後にレスラーとしては廃業となる。
1987年
  • 1/3、全日本女子プロレスの恒例行事となっていた新年マラソン大会に出場(順位は参加27人中12位)。これが事実上、最後の仕事となった。また、翌月から約1年間全日本女子プロレスが運営するアスレチック・クラブにてインストラクターとして後進の指導に当たっていた。





佐々木健介
1966/8/4

日本のプロレスラー。本名同じ。福岡県福岡市南区出身。東福岡高校卒業。

2008年7月よりプロレスリング・ノアを主戦場とする。健介オフィス所属で同社取締役を務めるほか、タレント活動も行っている。妻は、全日本女子プロレス出身の元プロレスラーで健介オフィス代表取締役の北斗晶(佐々木久子)。

来歴

ジャパンプロレス - 新日本時代

福岡市立花畑中学校時代から柔道を始める。東福岡高等学校卒業後、長州力に憧れ1985年6月にジャパンプロレスに入門、1986年2月に笹崎伸司戦でデビュー。長州が新日本プロレスに出戻るとそれに付き従い、1987年6月に移籍。前座戦線で鈴木みのると幾度となく対戦。これが後のライバル関係の発端となった。

1991年秋に、馳浩とのタッグチームで当時新日本プロレスが業務提携を結んでいたWCWへ長期遠征することになっていたが、出発直前の試合で足を骨折(全治6か月と診断)、そのまま長期欠場を余儀なくされ、結局遠征そのものが取りやめとなってしまうというアクシデントに見舞われた。1992年に復帰。11月からは別キャラクター『パワーウォリアー』に変身。ホーク・ウォリアーとヘルレイザーズを結成しタッグ戦線で活躍する(詳しくは別項)。

1994年12月からは再び素顔の佐々木健介としての活動がメインとなり、1997年には第30代IWGPタッグ王座を奪取(パートナーは長州力)。また、8月にはG1クライマックス初優勝、第32代IWGPタッグ王座奪取(パートナーは山崎一夫)、さらに橋本真也を倒し第20代IWGPヘビー級王座に就き、史上初の新日本プロレスタイトル3冠制覇を達成した。2000年には1月4日の東京ドーム大会で2度目となるIWGPヘビー級王座を天龍源一郎から奪取、また同年のG1クライマックスにも2度目の優勝を果たしたが、これは1995年大会の武藤敬司以来2人目となる、IWGPヘビー級王者としてのG1制覇であった。同年10月には全日本プロレス代表として乗り込んできた川田利明と新日本プロレスの代表として対戦するも敗北し、IWGP王座を返上した。翌2001年年1月4日の東京ドーム大会では前年に佐々木自身が返上し空位となっていたIWGPヘビー級王座の新王者決定トーナメントが開催され、決勝戦で川田と対戦して勝利し、前年10月の雪辱を果たすとともに3度目のIWGPヘビー級王座獲得を果たした。

コスチュームは1990年代初期よりスパッツタイプを使用。しかし1997年、長州の引退発表直後のG1クライマックスから黒いショートタイツに黒いリングシューズのみのストロングスタイルに変身する。

迷走期

長州政権下で本隊のエースとして君臨、闘魂三銃士と肩を並べる存在として絶頂にあった佐々木であったが、長州が実権を失いつつあった2000年後半頃より迷走を始める。

中でも2001年は佐々木にとっては悪夢とも言える年となった。3月スコット・ノートンに敗れてIWGPヘビー級王座を失った際、藤田和之へ「正直スマンかった」と発言。4月の大阪ドーム大会で藤田とタイトルを賭けてシングルが組まれる予定であったが、この発言に激怒した猪木の介入により対戦が取消になる。4月のドーム大会では代わりに橋本真也と対戦するも、健介は橋本の顔面への重爆キック一撃で失神KO。橋本戦敗北後は新日本隊のエースでありながら巡業を欠場して失踪する。後に総合格闘技の修行を行うため渡米していたと判明。現地のMMAの大会で勝利を上げる等の実績を重ねたとして、10月の東京ドーム大会で藤田和之との対戦が組まれたものの6分余りで完敗した。なお、この頃よりリングコスチュームを再びスパッツタイプに戻して現在に至っている。

2002年1月、小川直也とシングル戦で対戦するが両者セコンドの乱入等もあって無効試合に終わる。6月に鈴木健想、棚橋弘至、ブルー・ウルフと新ユニット「SWING-LOWS」を結成するも、当時の新日2大勢力であった本隊およびTEAM 2000の陰に埋没し、佐々木自身のWJ移籍(後述)もあり暫くの後に雲散霧消した。

WJ時代

2002年11月、鈴木みのる戦を巡る交渉の過程で会社への不信感を理由に新日プロを退団(10月の東京ドーム大会寸前に退団を発表したため、「妨害行為」として藤波辰爾社長や永田裕志ら選手から激しい批判を浴びた)。移籍先は長州力を中心に設立されたプロレス団体WJプロレスであった。長州らによる放漫な団体運営や観客動員数の低迷による給料未払い、有力選手の離脱など困難の中、2003年7月WMG(ワールド・マグマ・ザ・グレーテスト、WJのシングルベルト)初代王者決定戦トーナメントに優勝、9月には『X-1』へ参戦する等奮闘するが、その甲斐も無くWJプロレスは崩壊、12月に退団した。

結婚式では仲人を務めて貰い、一時は二代目長州力を襲名する話が持ち上がるほど良好だった師弟関係は、長州の「会社に貸した金だよな。オレ、返さないから」という借金踏み倒し宣言をきっかけに疎遠となった。 これは、興行に必要な会場代や外国人選手を呼ぶギャラ等の経費として健介から借りた500万円の借金を踏み倒す際に堂々と宣言したものであった。 この当時の佐々木家は息子のミルクを薄めて飲ますような経済状態で、自分や子供の保険などを解約して工面した500万円を借用書無しで貸していた。 一方、長州は娘2人をイギリス留学させておりその際の生活費に月100万ほど掛けていたとされる。 2005年のWRESTLE-1トーナメント1回戦にて長州と対戦するも、無気力ファイトを展開され消化不良のまま健介の勝利に終わる。 試合後に健介は「気持ちがわかりあえると思ったけど…」と埋まらない溝を改めて痛感、鬼嫁・北斗晶が「二度とやることはない」と絶縁宣言するに至る。

この頃から健介は、プロレスラーとしてのパフォーマンスを技術として観客に魅せるものへと徐々に変化の兆しを見せ始めていた。折しもこの時期に次男が誕生している。だが、籍を置いたWJという団体の低迷も災いして、造詣の深いプロレスファン以外に佐々木のリング上での変化は知られることも無かった。 団体に恵まれなかったといえばそこまでであるが、その後の活躍への布石を微かに見せながらも、まさにプロレス界のどん底を這い回る状態であった。

健介オフィス設立 - 全日本、NOAH参戦

フリーランス宣言して2004年を迎えたが、しばらく仕事がほとんど無い状態が続いた。糊口を凌ぐためにインディーズ団体への1日2試合出場などもこなしたが、経済的には窮地へと追い込まれてゆく。そんな折、全日本プロレス社長の武藤敬司から参戦オファーを受ける。埼玉県吉川市の自宅に直接かかって来たこの電話に、健介と北斗は二人で涙したと語っている。

その後自宅に健介オフィスを設立。新日本や全日本などのメジャーからDDT(健介そっくりのキャラクターで戦う健心(藤沢一生)とタッグを結成している)のようなインディーまで幅広い団体に出場する。妻の北斗晶をマネージャー兼プロデューサーの「鬼嫁」として、「息子」こと中嶋勝彦を交えた「健介ファミリー」ではカカア天下キャラを押し出すパフォーマンス手法を確立して、観客アピールの幅を大きく広げる。健介自身のファイトスタイルも大型レスラー相手に名勝負を展開できるまでに進化し、かつて新日本時代に散々苦しめられた『しょっぱい』というレッテルを完全に払拭することに成功した。

2004年度にはプロレス大賞MVPを受賞。この年藤田和之からIWGPヘビー級王座を奪取したのが決め手となった。 しかしこの試合では、技(チョークスリーパー)をかけつつ自ら後方に倒れこんだ藤田に対して3カウントを取るという不可解なレフェリングに疑問の声が挙がり、健介自身もリング上にベルトとトロフィーを置いたまま引き上げることで抗議の意思を示している。 この裁定に健介の妻・北斗晶は激怒。子供を抱えたままリングサイドにいた新日本プロレスのフロント陣を蹴りつけ、そのままインタビュールームに乗り込み、涙を流しながら「これが新日本のやり方か!? フリーだからと舐めるな!!」と叫ぶ。健介もトロフィーを廊下に投げつけて破壊し、ファミリーは早々に会場から引き上げた。これらの言動を当時世話になっていた天龍源一郎から「子供に悪影響を与えたらどうするんだ」と諌められた。その後、天山広吉に敗れて王座から陥落。以降新日本には参戦してない。

2005年7月18日、NOAH東京ドームで行われた対小橋建太戦では、常識を超えた逆水平の打ち合いを繰り広げ、この年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれた。小橋との試合後、興奮が冷めないことと、小橋が試合後もトレーニングに励むと聞いたことから健介も控え室でチューブトレーニングなどを行った。翌日は試合はなく、ある雑誌の取材を受けていたが、小橋が「健介は今日も試合があると思ってトレーニングをしていた」という発言をしたと聞き、帰ってすぐトレーニングに励んだ。11/5、NOAH日本武道館大会に参戦して、小橋とタッグで対戦。翌年1月になっても胸の傷は治らなかった程の逆水平チョップの打ち合いを繰り広げた。

2005年12月14日に健介オフィスの株式会社化を発表、2006/2/11にデビュー20周年の節目に初の自主興行を全日本プロレス、NOAHの協力の下後楽園ホールにて開催し、メインで小橋と組み中嶋勝彦と天龍源一郎とタッグマッチに出場した。7月16日、NOAH日本武道館大会で腎腫瘍摘出手術により欠場することになった小橋の代役として、左眼窩底骨折を隠してリングに上がり、この日に復帰戦を行った高山善廣とのタッグを結成した。これらの経緯もあって小橋と親交を深めることになり、NOAHに参戦するようになる。

2007/8/26、三冠ヘビー級選手権試合で王者である鈴木みのると対戦。この試合のために新技「キングバスター」「ストラングルホールドZ」を開発した。42分の激闘の末にラリアットで下し、3度目の正直で、三冠王座初戴冠を果たした。王座陥落後は主戦場をNOAHに移した。2008/9/6、NOAHで森嶋猛からGHCヘビー級王座を奪取し、史上初めて日本国内3大メジャー団体(新日本・全日本・NOAH)のヘビー級シングルタイトルを奪取した。

人柄・エピソード

プロレス、プライベート

  • 健介はデビュー当初、全く勝つことができず初勝利まで203連敗という記録を喫していた。対照的に妻の北斗は当時デビューからの連勝記録を保持していた。
  • 新日本プロレスが全日本女子プロレスと合同で平壌興行を行った際、当時全日本女子プロレス所属であった北斗晶に一目惚れ(しかし、後に当初健介は豊田真奈美を狙っていた事が発覚した。)し、帰国後に結婚を申し込む。北斗もこれを快諾し、異例の早さでの結婚となった。現在は北斗との間に二人の息子をもうけている。なお、パブリックな場では妻を「北斗」と呼んでいるが、プライベートでは「チャコ」と呼んでいる。現在のフィニッシュムーヴであるノーザンライトボムは、もともとは北斗が考案しフィニッシュムーヴとしていたもので、結婚前後から健介もこれをフィニッシュムーヴとして使用するようになった。一方、北斗は現役時代に健介のオリジナルホールドであるストラングルホールドγを使用している。
  • 小橋建太とは、2005年のドームからの付き合い。ファイトスタイルや体つきが似ていることなどでかなり共通点が多い二人だが、小橋が腎臓癌で入院した際、健介は左眼窩底骨折を患い、同じ時期に入退院をしたり、同じ時期に買った携帯がたまたま全く同じ機種だったり、偶然の所でも通じ合うものがあるという。
  • 長男は将来両親と同じプロレスラーになりたいと言っている。
  • 健介は自宅を純和風にしたかったが、北斗は洋風が良いと譲らず、最終的には庭に松の木を一本植えさせてもらうことしかできなかったという。

バラエティ番組での活躍

バラエティ番組では笑顔を見せることが多くプロレスラーとしての活躍の一方、TBS『どうぶつ奇想天外』やテレビ東京系の旅行番組などのバラエティ番組にも夫妻や一家で時折出演している。多くは夫人の北斗の鬼嫁キャラを活かして、自らは「カカア天下の尻に敷かれる亭主」という恐妻家の役回りであるが、旅行番組などでは一家で仲睦まじいところを見せている。

テレビ朝日のバラエティ番組『いきなり!黄金伝説。』の人気コーナー「夫婦2人1週間5千円節約バトル」に夫婦で出場し、王者(防衛1回)になった。

また、ココリコの遠藤章造がナビゲーターを担当するBRAVO!では嫁の北斗晶とガチンコでトレーニングする様子が紹介された。

2008年大晦日の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!山崎VSモリマンスペシャル』には佐々木は偽ダイナマイト四国として、北斗はお助けキャラとして夫婦揃って出演し、佐々木は相手役の武藤敬司と実戦さながらの白熱した戦いを見せた。

名言

「ポカやった、ポカやりすぎた…」
1995年10月、UWFインターナショナルとの全面対抗戦での垣原戦後のインタビューにて。
「正直スマンカッタ」
2001年3月、IWGPタイトルマッチを約束しながら、直前の試合でスコット・ノートンにタイトルを奪われ、約束を果たせなかったことに対する藤田和之への謝罪。
「納得いかない、ヴァー」
2002年1月、セコンドの乱入により無効試合となった小川直也戦後の発言。一部のスポーツ紙が「ヴァー」と表記したため話題に。

獲得タイトル

全日本プロレス
  • 三冠ヘビー級王座…第36代王者。
  • アジアタッグ王座
    • 第80代…パートナーは中嶋勝彦。
  • チャンピオン・カーニバル…2005年大会優勝。
  • BAPE STA!! PRO-WRESTLING a・k・aトーナメント…優勝(マスクド・ボルケーノとして)。
新日本プロレス
  • IWGPヘビー級王座…第20, 26, 27, 36, 39代王者。
  • IWGPタッグ王座…7度獲得。
    • 第13, 15代…パートナーは馳浩。
    • 第21, 23代…パワー・ウォリアーとして、パートナーはホーク・ウォリアー。『ヘルレイザーズ』として、第21代時には4度の防衛と40連勝という大記録を樹立した。
    • 第30代…パートナーは長州力。
    • 第32代…パートナーは山崎一夫。
    • 第37代…パートナーは越中詩郎。
  • G1 CLIMAX…第7回、第10回優勝。
プロレスリング・ノア
  • GHCヘビー級王座…第13代王者。
  • GHCタッグ王座…第18代王者。
    • 第18代…パートナーは森嶋猛。
みちのくプロレス
  • 東北タッグ王座…第2代王者
    • 第2代…パートナーは中嶋勝彦。
WJプロレス
  • WMG(ワールド・マグマ・ザ・グレーテスト)シングル王座
海外
  • WCW・USヘビー級王座
  • HCWヘビー級王座、タッグ王座
  • UWA世界タッグチーム王座

佐々木健介の別キャラクター

健介は素顔でのファイトのほか、さまざまなキャラクターでリングに上がっている。その代表が『パワー・ウォリアー』である。

1992年、アメリカ遠征中だった健介は、ロード・ウォリアーズのホーク・ウォリアーからの呼びかけでタッグチームを結成、『パワー・ウォリアー』と名乗った。同年11/9、ミネアポリスでの小興行がデビュー戦で、日本には11月23日の新日本プロレスの両国国技館大会で初上陸(相手は長州力&馳浩組)。程なくスコット・ノートン&トニー・ホーム組を破りIWGPタッグ王座を奪取。1993年8月に奪取されるまで40連勝という、プロレス界の最高連勝記録を打ち立てた。このホークとのタッグはファン公募により『ヘルレイザーズ』と命名され、1990年代の新日を代表する名タッグチームとなった。

パワー・ウォリアー単独としては、1997年と2000年にグレート・ムタと対戦。ムタの十八番である毒霧を吹いたこともある。

フリーとなった後はレスラーとしての幅が広がり、ハワイ遠征時は将軍キャラ『KENSUKE』、闘龍門ジャパン / DRAGON GATE限定で、フロリダ・ブラザーズの一員の「博多生まれのアメリカ人」『ケンスキー佐々木』、みちのくプロレス限定の覆面レスラー『マスクド・ボルケーノ』など普段のファイトスタイルとは全く違った一面をリング上で発揮するようにもなっている。

2007/9/1、エルドラドの近藤修司&"brother"YASSHIと対戦するために、封印していたパワー・ウォリアーを復活。ロード・ウォリアー・アニマルと共に「ヘル・ウォリアーズ」として戦った。また"brother"YASSHIもウォリアーのメイクで登場し、ウォリアー対決が実現した。

入場テーマ曲

  • TAKE THE DREAM ∞ + THE WORLD
WJ退団後(2004年以降)から現在までの入場曲。「TAKE THE DREAM ∞」 の冒頭部分から「THE WORLD」に移行する。
  • THE WORLD (演奏:BLOOD STAIN CHILD)
2001年10月8日の東京ドーム大会から使用。
  • TAKE THE DREAM ∞
2000年1月4日の東京ドーム大会から翌年4月9日の大阪ドーム大会まで使用。英語のボーカル入り。
  • テイク・ザ・ドリーム 〜閃光〜 (演奏:BLUE STEALER)
1990年代後半に使用。ボーカル入りのバージョンも存在し、主に試合に勝った際に流れていた。
  • Hellraiser (オジー・オズボーン)
ヘルレイザーズ結成時に使用。
  • POWER (作曲&編曲:鈴木修)
1990年代前半に使用。現在は弟子の中嶋勝彦が使用中。

テレビ

ドラマ

  • 佐々木夫妻の仁義なき戦い(2008年、TBS)
  • こちら葛飾区亀有公園前派出所(2009年、TBS) - 六西会の担ぎ手役

CM

  • 大日本除虫菊「金鳥・ティンクル」
  • 資生堂「UNO」
  • DMJえがお生活「ノニ濃縮ソフト」
  • トヨタ自動車「残価設定型プラン」
  • 吉野家「サラリーマン編」
  • 尾長屋
  • マンチェス 大きいサイズ専門のファッションメーカー


加藤茂郎
1967/8/4

身長/体重:174センチ/82キロ 得意技:足四の字固め 垂直落下式ブレーンバスターテーマ曲『COOL STAFF』(オリジナル) デビュー:平成9年4/29群馬県新田市 対ターザン後藤&三宅陵戦(パートナーは死神)
タイトル歴:初代レッスルブレインJrヘビー級 レッスルブレインカップ アイアンマンヘビーメタル級
所属:レッスル夢ファクトリー~プロレスリングナイトメアー~フリー


山本美憂
1974/8/4

日本の元女子レスリング選手で、現在はスポーツキャスター。神奈川県出身。血液型はA型。スポーツビズ所属。

来歴

ミュンヘンオリンピックレスリング代表だった父親・日本体育大学教授山本郁榮により小学生のころから弟の山本"KID"徳郁、妹の山本聖子とともに、レスリングの英才教育を施される。13歳で第1回全日本女子選手権に優勝。その後全日本4連覇を達成したが、世界選手権へは年齢制限により出場が認められなかった。1991年、17歳で初めて出場した世界選手権を史上最年少で優勝。

その後、1994年と1995年に世界選手権を連覇。1994年には全日本女子プロレス東京ドーム大会に浜口京子とともに参戦。1995年にJリーグ・浦和レッズ(当時)の池田伸康と結婚し現役を引退。その後、第一子となる男児を出産。1999年4月、離婚。

1999年には一時的に現役復帰し、クイーンズカップ決勝進出、アジア選手権大会優勝、全日本女子レスリング選手権優勝という結果を残すも、2000年7月、格闘家のエンセン井上と再婚し、再び現役を引退。

2004年のアテネオリンピックで 女子レスリングが初めて正式種目になることを機に現役に復帰。アテネオリンピック出場を目指したが、2004年2月の「ジャパンクイーンズカップ」(アテ ネオリンピック代表選手選考試合)で3位に終わり、オリンピック出場は果たせなかった。同年4月、現役を引退。同年8月、エンセン井上と離婚。

2006年4月、トリノオリンピック男子アルペンスキー代表の佐々木明と結婚(3度目の結婚)。同年8月挙式、同年12月に第二子となる男児を出産。2008年11月、第三子となる女児を出産。

現在は、スポーツキャスターとしての活動の他、NPO法人日本スポーツネットワーク(JSN)でキッズレスリングの指導者も務めている。

その他

  • 「美憂」という名前は、父がオリンピック代表として出場したミュンヘンに因んで命名された。
  • 長男も祖父の山本郁榮からレスリングを習っており、2008年の全国少年大会66kg級で優勝。2016年夏季オリンピックでの金メダル獲得を目指している。
  • 家族環境が似ていることに加え、スポーツキャスターとしての仕事柄アニマル浜口(浜口平吾)・京子親子と親しい。

戦績

  • 1987年全日本女子選手権 44kg級 優勝
  • 1988年全日本女子選手権 44kg級 優勝
  • 1989年全日本女子オープン 44kg級 優勝
  • 1989年全日本女子選手権 47kg級 優勝
  • 1990年全日本女子オープン 47kg級 優勝
  • 1990年全日本女子選手権 47kg級 優勝
  • 1990年全日本女子オープン 47kg級 優勝
  • 1991年全日本女子選手権 47kg級 優勝
  • 1991年世界女子選手権 47kg級 優勝
  • 1993年全日本女子オープン 50kg級 準優勝
  • 1994年全日本女子選手権 50kg級 優勝
  • 1994年世界女子選手権 50kg級 優勝
  • 1995年全日本女子選手権 47kg級 優勝
  • 1995年世界女子選手権 47kg級 優勝
  • 1998年全日本女子選手権 46kg級 3位
  • 1998年世界女子選手権 46kg級 準優勝
  • 1999年ジャパンクイーンズカップ 46kg級 準優勝
  • 1999年全日本選手権 46kg級 優勝
  • 2003年ジャパンクイーンズカップ 48kg級 準優勝
  • 2004年ジャパンクイーンズカップ 48kg級 3位

山本美憂・山本聖子オフィシャルブログ





ドゥエイン・ラドウィック
Duane Ludwig
1978/8/4

アメリカ合衆国のキックボクサー、総合格闘家。コロラド州デンバー出身。グラッジ・トレーニング・センター所属。

K-1などの打撃系格闘技と、総合格闘技のどちらもこなすオールマイティーな選手。

来歴

2002/5/11、K-1 WORLD MAX 2002 〜世界一決定戦〜の1回戦で魔裟斗と対戦し、0-3の判定負け。

2003/4/25、UFC初参戦となったUFC 42で須藤元気と対戦し、3-0の判定勝ち。

2003/7/5、K-1 WORLD MAX 2003 〜世界一決定トーナメント〜に出場。1回戦で武田幸三に2R左フックでKO勝ちするも、準決勝でアルバート・クラウスに3R左フックでKO負け。

2004/4/7、K-1 WORLD MAX 2004 〜世界一決定トーナメント開幕戦〜の1回戦でジョン・ウェイン・パーと対戦し、0-3の判定負け。

2004/5/22、K-1 ROMANEXでBJペンと対戦し、肩固めで一本負け。

2005/7/20、K-1 WORLD MAX 2005 〜世界一決定トーナメント決勝戦〜のスーパーファイトでラモン・デッカーと対戦。1Rに1度ずつダウンを奪われ、0-3の判定負け。

2006/1/16、Ultimate Fight Night 3でジョナサン・グレと対戦し、TKO負け。

2008/3/5、戦極旗揚げ戦戦極 〜第一陣〜で五味隆典と対戦。1Rに左フックでダウンを奪われ、顔面からの出血によるドクターストップでTKO負け。

2010/1/2、4年ぶりのUFC参戦となったUFC 108でジム・ミラーと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本負け。3/21のUFC on Versus: Vera vs. Jonesではダレン・エルキンスと対戦したが、1ラウンド開始間もなく左足首を大きく捻って骨折したため、TKO負けとなった。

2010/11/13、UFC 122でニック・オシピチェックと対戦し、1Rにパンチでダウンを奪われるも2-1の判定勝ちを収めた。


  



鹿又智成
1989/8/4

日本の総合格闘家。東京都昭島市出身。パラエストラ八王子所属。

来歴

2002/9/29、第9回全日本アマチュア修斗選手権ウェルター級に出場、決勝で甘利芳紀を破り優勝を果たした。

2002/11/15、帯谷信弘戦でプロ修斗デビュー。東日本アマチュア選手権で敗れて以来の再戦だったが、判定0-0で引き分けに終わった。

2003年は新人王トーナメントに出場する。1/24の1回戦では甘利芳紀に、準決勝は滝田J太郎に共に腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めるも、決勝での帯谷との再戦は開始直後に右フックダウンを奪われTKO負けを喫する。また3/30にはアブダビコンバット日本予選-76.9kgに出場、雷暗暴、小谷宏明、川尻達也に勝利し決勝に進出するも、決勝では石田光洋にポイント0-2で敗れ、本大会出場を逃す。

2004/7/4、修斗で天突頑丈と対戦し、0-0の判定ドロー。

2005/2/6、「修斗 下北沢修斗劇場 第10弾 -本物は誰だ!-」のメインイベントで松下直輝との対戦が予定されていたが腰痛のため欠場。8月、全日本ブラジリアン柔術選手権紫帯レーヴィ級(-73kg)決勝でタクミを破り優勝を果たした。1か月後の9/23には10か月振りに修斗に復帰、美木航に判定勝利を収めた。

2006年にはD.O.G.に出場、2連勝を遂げた後、CAGE FORCEが中心となり発足したワールドワイド・ケージネットワーク(WWCN)に加盟するCage Warriorsに派遣され、ライト級王者アレッシャンドリ・イジドロへの挑戦権を賭けたトーナメントに出場する。1回戦、準決勝を勝ち上がると、決勝ではフィンランドのヤルッコ・ラートマキを三角絞めで下し優勝を果たした。

2007年は4月のCage Warriorsのタイトルマッチが延期となり、CAGE FORCEのライト級トーナメントに出場。3月17日の1回戦では"ダイソナー"・ジェームス・シディックに開始直後にダウンを奪いTKO勝利、2回戦では高橋渉に判定勝利を収めた。準決勝のアルトゥール・ウマハノフ戦はCAGE FORCE 04で行われる予定であったがウマハノフが7月にHERO'SでTKO負けしたため休養期間を取り欠場、鹿又も負傷のため欠場しCAGE FORCE EX -eastern bound-に延期となった。11月11日に行われた準決勝では2Rにウマハノフの頭部が鹿又の鼻にバッティングし負傷、試合続行不能となり怪我をしていないウマハノフが勝者となった。

2008/4/5のCAGE FORCE 06では、ウマハノフの王座返上により空位となったライト級王座を賭け廣田瑞人と対戦するも、1RにパウンドでTKO負けし、王座獲得に失敗した。その後10月25日にロシアの頭突き有りの大会「World Absolute Fighting Championship」で復帰し、ジャマル・クルバノフに判定勝利。12/6にはCAGE FORCE 09でエリヤに一本勝ちを収めた。

2009/2/28、CAGE FORCE EX -eastern bound-で児山佳宏に0-3の判定負け。

2009/8/8、初参戦となったパンクラスで赤井太志朗と対戦し、0-1の判定ドローとなった。

2010年3月7日、SRC初参戦となったSRC12でマルロン・サンドロと対戦し、1R開始9秒右アッパーでKO負け。

2010/11/3、パンクラスで大澤茂樹に0-0の判定ドロー。12/5、パンクラス第6回ism主催興行でアライケンジの引退試合の相手を務め、開始24秒チョークスリーパーで絞め落としレフェリーストップによるTKO勝ちを収めた。

獲得タイトル

  • 第9回全日本アマチュア修斗選手権ウェルター級 優勝(2002年)
  • アブダビコンバット日本予選-76.9kg 準優勝(2003年)
  • 修斗新人王トーナメント ウェルター級 準決勝(2003年)
  • 第6回全日本ブラジリアン柔術選手権 紫帯レーヴィ級 優勝(2005年)
  • Cage Warriorsライト級トーナメント優勝(2006年)





征矢匠
1987/8/4

日本のプロレスラーである。 長野県上伊那郡出身。全日本プロレス所属。兄は同じく全日本プロレス所属の征矢学。

経歴

高校時代は柔道、大学時代は総合格闘技の道場で空手をベースにした格闘技を経験。兄が所属している全日本プロレスの武藤塾番外編新人オーディションで合格。(柔道初段、空手初段)オーディション時にまだ学生だった為、大学卒業後の2010年4月に全日本プロレスに正式入団。

2011/1/2、アジアタッグ王者であり、実兄である学とのデビュー戦が決定。兄同様上背はあまり高くないが、新人とは思えないビルドアップされた肉体を披露。アジアタッグ王者の兄を相手に物怖じせず立ち向かい、空手仕込みのローリングソバットを繰り出し観客を沸かせる。結果破れはしたもののファン、関係者共に高い評価を得た。試合後のインタビューでは目標の選手にかつての全日四天王の一人、川田利明を掲げ「ああいうバチバチやり合える選手になりたい」と語った。

3/8の銚子大会でアゴを骨折し、9日から欠場に入った。

人物

  • なぜか業界入り前に兄と共に西村修と食事をした事がある。

 















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