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プロレス/格闘技
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8/5

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"スウィート" スタン・レーン
"Sweet" Stan Lane
1953/8/5

アメリカ合衆国の元プロレスラー。本名はブレック・スタンフィールド・レーンBreck Stansfield Lane)。ノースカロライナ州グリーンズボロ出身。

主にタッグ・プレイヤーとしての実績で知られ、スティーブ・カーンとのファビュラス・ワンズ、ボビー・イートンとのミッドナイト・エクスプレス、トム・プリチャードとのヘブンリー・ボディーズなど、様々なタッグチームで活躍した。

来歴

初期

1974年、リック・フレアーの仲介により地元ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)にてデビュー。フレアーにあやかり、デビュー当時はスタン・フレアーStan Flair)なるリングネームを名乗っていた。

1979年より "ネイチャーボーイ" スタンリー・レーン"Nature Boy" Stanley Lane)の名義でNWAフロリダ地区に参戦。若手のヒールとして頭角を現し、ブライアン・セント・ジョンとのコンビでエディ・グラハム&レイ・スティーブンスなどのチームを破りフロリダ・タッグ王座を再三獲得した。1980年9月にはジム・バーネットの運営するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに遠征し、ジョージア版のNWAジュニアヘビー級王座をケビン・サリバンから奪取している。

1981年7月には、当時フロリダ地区との提携ルートを持っていた新日本プロレスに初来日。キック攻撃を主体としたイキのいいラフファイトを披露し、藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に札幌中島スポーツセンターと蔵前国技館において連続挑戦した。

ファビュラス・ワンズ

帰国後はテネシー州メンフィスのCWAに主戦場を移し、1982年よりベビーフェイスに転向。リングネームをスタン・レーンStan Lane)に改め、フロリダでのライバルだったスティーブ・カーンとファビュラス・ワンズThe Fabulous Ones)を結成する。当時のプロレス界では目新しかったMTVスタイルのミュージック・ビデオも製作され(音楽はZZトップが担当)、女性や子供を中心に大きな人気を獲得、後のロックンロール・エクスプレスなどのアイドル系タッグチームの先駆的存在となった。

1984年はAWAに参戦してロード・ウォリアーズと抗争。その間、CWAはトミー・リッチとエディ・ギルバートに新ファビュラス・ワンズを名乗らせるなど、一時はCWAとの間に軋轢も生じたが、同年の下期よりメンフィスに復帰。翌1985年にかけて、ファースト・ファミリー(リック・ルード&キングコング・バンディ)やニュー・シープハーダーズ(ジョナサン・ボイド&リップ・モーガン)などを相手に南部タッグ王座を巡る激闘を展開した。

1986年は古巣のフロリダに戻り、オリジナル版のシープハーダーズ(ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムス)とUSタッグ王座を争った。同年8月には新日本プロレスから遠征してきた藤波辰巳と木村健悟のチームと防衛戦を行っており、この試合はテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』でも放送された。

ミッドナイト・エクスプレス

1987年にファビュラス・ワンズを解散し、自身のキャリアの出発点であるジム・クロケット・プロモーションズに復帰。再度のヒールターンを行い、同プロを離脱したデニス・コンドリーに代わるボビー・イートンの新パートナーとして、ミッドナイト・エクスプレスThe Midnight Express)に加入する。1988/9/10にはフォー・ホースメンのタリー・ブランチャード&アーン・アンダーソンを破り、ミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を獲得した。

クロケット・プロがテッド・ターナーに買収された1988年11月以降も新会社のWCWに継続参戦し、コンドリーとランディ・ローズのオリジナル・ミッドナイト・エクスプレスやスタイナー・ブラザーズ(リック&スコット・スタイナー)と抗争を展開していたが、1990/10/27のPPV "Halloween Havoc" を最後に、マネージャーのジム・コルネットと共にWCWを離脱した。

ヘブンリー・ボディーズ

WCW脱退後はメンフィスに戻り、CWAの後継団体であるUSWAにて、コルネットをマネージャーにスティーブ・カーンとのファビュラス・ワンズをヒール・バージョンで一時的に再結成。1991年初頭に、ジェリー・ローラー&ジェフ・ジャレットとUSWA世界タッグ王座を争っている。

同年10月、コルネットがノックスビルにて設立したSMW(スモーキー・マウンテン・レスリング)に参画。ドクター・トム・プリチャードをパートナーに、ヘブンリー・ボディーズThe Heavenly Bodies)なる新チームを結成する。1992年からはロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)やファンタスティックス(ボビー&ジャッキー・フルトン)など、ファビュラス・ワンズの影響下にあったチームと抗争を繰り広げた。

引退後

1993年、ジミー・デル・レイ(ジミー・バックランド)をヘブンリー・ボディーズの後任にして現役を離れ、同年よりSMWとの業務提携を開始したWWFにカラー・コメンテーターとして登場。ビンス・マクマホン、ゴリラ・モンスーン、テッド・デビアスらと共に『WWFスーパースターズ』や『WWFレスリング・チャレンジ』などの番組のホストを1995年まで担当した。

1990年代末より再びリングに立つようになり、2004年にはROHにてイートンやコンドリーとミッドナイト・エクスプレスを再結成。2005年8月に開催されたオールドタイマーによるリユニオン・イベント "WrestleReunion" では、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ミック・フォーリーとの6人タッグマッチが行われた。近年も各地のインディー団体に、レジェンドとしてゲスト参戦している。

獲得タイトル

ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAジョージア・ジュニアヘビー級王座:1回
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
  • NWAフロリダ・タッグ王座:3回(w / ブライアン・セント・ジョン)
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):2回(w / スティーブ・カーン)
コンチネンタル・レスリング・アソシエーション / USWA
  • AWA南部タッグ王座:16回(w / スウィート・ブラウン・シュガー、ロン・バス、スティーブ・カーン×14)
  • USWA世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・カーン)
サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング
  • SCW世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・カーン)
ジム・クロケット・プロモーションズ / WCW
  • NWA USタッグ王座:3回(w / ボビー・イートン)
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ボビー・イートン)
スモーキー・マウンテン・レスリング
  • SMWタッグ王座:5回(w / トム・プリチャード)

 
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パット・タナカ
Patrick "Pat" Tanaka
1963/8/5

アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州タンパ出身の日系アメリカ人。出身地はハワイ州ホノルルとされる場合もある。

来歴

1950年代から1960年代にかけて活躍した日系人プロレスラーであり、NWAフロリダ地区のブッカーでもあったデューク・ケオムカの三男。1983年末に留学生として新日本プロレスに入門し、1984/4/7の佐野直喜戦でデビュー。アメリカに帰国後は、NWAミッドアトランティック地区などでジョバーとしてキャリアを積んだ。

1986年よりテネシー州メンフィスのCWAを主戦場に、ポール・ダイヤモンドとのバッド・カンパニーBadd Company)で活躍。同地区認定のタッグタイトルを再三獲得した。1988年からはダイヤモンドと共にAWAに参戦。マネージャーにはダイヤモンド・ダラス・ペイジが就き、ミッドナイト・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)とAWA世界タッグ王座を争った。

1989年8月には外国人サイドで新日本プロレスに再来日、オーエン・ハートと組んでIWGPタッグ王座決定リーグ戦に参加している。同年にWWFと契約し、ミスター・フジをマネージャーにサトーこと佐藤昭雄とオリエント・エクスプレスThe Orient Express)を結成。佐藤がフロント入りした1990年の末からは、旧友ダイヤモンドが覆面レスラーのカトーを名乗って新加入、1991年には揃ってSWSにも来日した。

1992年の初頭にWWFを離れ、メキシコなどを転戦後、8月に日本のユニバーサル・プロレスリングに参戦。1993年からはダイヤモンドとバッド・カンパニーを再結成してECWやUSWAを転戦した。1996年にはWCWでエル・ガトーEl Gato)なるタイガーマスクの偽物風の覆面レスラーに変身し、6/16のグレート・アメリカン・バッシュにてコナンのUSヘビー級王座に挑戦している。

2001年10月、GOKU-DOのリングネームで12年ぶりに新日本プロレスに登場、TEAM 2000のメンバーとなって活動した。以降はセミリタイアし、2005年より各地のインディー団体へのスポット出場を続けている。

獲得タイトル

  • CWAインターナショナル・タッグ王座:5回(w / ジェフ・ジャレット、ポール・ダイヤモンド×4)
  • AWA南部タッグ王座:2回(w / ジェフ・ジャレット、ポール・ダイヤモンド)
  • AWA世界タッグ王座:1回(w / ポール・ダイヤモンド)
  • UWA&UWFインターコンチネンタル・タッグ王座:1回(w / ブルドッグ "パニッシュ" KT)





石澤 常光/ケンドー・カシン
1968/8/5

日本のプロレスラー、総合格闘家。

新日本プロレスでプロレスデビュー後、海外遠征を経てケンドー・カシンとして覆面レスラーに転向。2000年以降は本名で総合格闘技にも参戦する。リング内外での破天荒なパフォーマンスとは裏腹に、レスリングに裏打ちされた確かなレスリング技術を持ち、ウィットに富んだ言動で多くのプロレスファンから注目を集める「問題児」。

入場テーマ曲:『Skywalk』

来歴

デビュー以前

青森県南津軽郡常盤村(2005年3月の市町村合併により現在は藤崎町)出身。父は合併時まで同村の村長を務めた石澤善成である。4人兄弟の三男。レスリングの強豪校である光星学院高校を経て、早稲田大学人間科学部卒業。

レスリングで全日本学生選手権3連覇、全日本選手権優勝を果たし、新日本プロレスのアマチュアレスリング部門、闘魂クラブ(後に廃止)に入団する。根っからのプロレスファンで、学生時代にはしばしば練習を休んでプロレス観戦に興じていたという。その後、1992年4月に正式に新日本プロレスに正式入団し、同年9月、石沢常光("ざわ"は新字体)の名で、金本浩二戦でプロデビューした。

マスクマンへの変身

1996年3月の第7回ヤングライオン杯にて優勝を果たした。この際、優勝賞金としてセレモニーで手渡された小切手型のボードを半分に折り、決勝で破った永田裕志に渡して健闘を称えるという、後のカシンの姿からは想像もできない振る舞いを見せている。

同年7月に欧州遠征へ出発。その際、現地のプロモーターだったオットー・ワンツの要請を受け、マスクマン「ケンドー・カ・シン」となる(後に"カシン"に改名)。なお、リングネームの由来は不明。

奇行の始まり

1997/10/16の新日本四日市興行の試合後、「オレは別にいつ辞めたっていいしね。全然プロレス界に必要な人間じゃないし。潰すか潰されるか、それだけだ」とインタビューで発言。

1999年

1999年は新日ジュニアにおける各タイトルの獲得が相次いだ年となった。

年頭の1月4日の東京ドーム大会では、ドクトル・ワグナー・ジュニアと組んで、当時初代IWGPジュニアタッグ王者であった、大谷晋二郎・高岩竜一組とのタイトルマッチに勝利して第2代IWGPジュニアタッグ王者となり、同年4月10日の東京ドーム大会で獣神サンダーライガー・ザ・グレート・サスケ組に敗れて王座転落となるまで2度の防衛を果たした。

6月8日には決勝で当時第33代IWGPジュニア王者であった金本浩二を破ってベスト・オブ・ザ・スーパージュニア6に優勝。賞金として500万円を獲得したが、小切手ボードを実況レポーターの真鍋由アナに投げつけ、「お前これ、換金して寄付しとけ、ネコババするなよ!」と発言。「どこにですか!」と叫ぶ真鍋に「(当時紛争状態にあった)コソボだよ、コソボ!」と答えた。そして後日、単なるパフォーマンスではなく、本当に賞金の一部の100万円をコソボに寄付した。

8/28には2月前のスーパージュニア決勝戦の雪辱を果たすべく試合に臨んでいた金本とのタイトルマッチに勝利し第34代IWGPジュニア王者となった。しかし同王座のベルトがあるにもかかわらず、その後の試合ではなぜか自作の"ケンドー・カシンベルト"を巻いて入場し、本物のIWGPベルトはリング上で足蹴にするなど、その権威をことさらに冒涜してみせる。他にも選手権試合の認定状を破り捨てる、勝利後に授与されるトロフィーをその場で破壊するなどのパフォーマンスを披露。同年10/11の東京ドーム大会でライガーに敗れて王座から転落した。

総合格闘技への進出

2000年8月、PRIDEのエグゼクティブ・プロデューサーを務めていたアントニオ猪木の命により、本名で「PRIDE.10」へ出場しハイアン・グレイシーと対戦するが、パンチの連打を浴びてKO負けを喫した。ハイアンとは翌年7月の「PRIDE.15」で再戦し、今度は逆にKOで勝利して雪辱を果たした。

2000年12月31日、INOKI BOM-BA-YEにおいて桜庭和志とプロレスルールで対決。プロレスでは極めて珍しいコーナーポスト上での腕固めで敗れた。試合後のインタビューで「この試合を振り返って如何ですか?」との問いに対し「お前が振り返れ」と答えた。両者は1995年の新日本対UWFインターナショナル全面対抗戦において、タッグマッチ、シングル戦でそれぞれ1回ずつ対戦しており、ともにカシン(当時は"石沢")が勝利している。

2001年10月8日、東京ドーム大会での成瀬昌由とのIWGPジュニアヘビー級タイトルマッチにおいて、成瀬が『カシンではなく、石澤常光として来い』との再三の挑発どおり、カシンとしてコールされるも、素顔の石澤でオープンフィンガーグローブをつけて花道に登場し、場内を騒然とさせる。試合は開始直後の成瀬のラッシュの後、成瀬はボディスラムをかけようとしたが、その腕に飛びつき逆十字を決め、わずか26秒でタップアウト勝ちを収め、第41代王者となった。試合後にはマスクを被りベルトを持ってインタビューを受け、「このベルトは石澤からもらった」と発言した。同王座は翌年まで保持したが、新日本退団時に返上扱い(事実上の剥奪)となった。

2001年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2001で正道会館の子安慎悟を相手に総合格闘技の試合を行う。この対戦は両者とも積極的な攻めが見られないまま引き分けに終わった。

全日本プロレス時代

2002年2月、武藤敬司、小島聡らと共に新日本プロレスを退団し全日本プロレスに移籍する。入団会見ではスーツに身を包み、「過去を反省して生まれ変わります。もう認定証を破ったりとかはしませんので、パウチったりするのはやめてください」と発言。

全日本ではカズ・ハヤシらとともにジュニア戦線の主力選手として活躍する一方で、ZERO-ONEやみちのくプロレスなど、他団体にも頻繁に参戦。しかし、世界タッグ王座の封印を宣言したり、試合への無断欠場を繰り返したことなどを理由として、2004/7/1付で解雇処分を受ける。

全日本プロレス退団から失踪まで

全日本退団後はリキプロなどにスポット参戦したのち渡米。新日本ロス道場でコーチとして後進の指導に当たりながら、アメリカのインディー団体、ROHに「ドラゴン・ソルジャーB(Bは「バカ」の意)」なるリングネームで参戦。アメリカのファンに通じるはずもない「ホーッ!」などの中西学の真似を披露。同団体ではジュニアヘビー級のトーナメントで優勝している。この時期、海外では他にヨーロッパのプロレス団体にもスポット参戦している。

2005年4月、長年に渡って犬猿の仲だった中西学と電撃和解を果たし、永田裕志と藤田和之も加えて「チーム・ジャパン(TJ)」を結成。さらにTJ内で中西とお揃いの迷彩コスチュームのタッグチーム「ワイルド・ソルジャーズ」も結成。これを機にヘビー級戦線にも本格参戦するようになり、同年夏のG1 CLIMAXに初出場を果たした。決勝トーナメント進出はならなかったが、予選リーグで川田利明に勝利を収めた。

2006/3/15、総合格闘技大会「HERO'S」に急遽参戦。秋山成勲を相手に、約4年3か月ぶりに総合格闘技の試合を行うもギブアップ負け。同年10/9に再度HERO'Sへ出場し、カーロス・ニュートンと対戦したが22秒でKO負け。ただし、石澤は「試合を止めるのが早い」と抗議した。さらに同年12月31日のK-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!では金泰泳と対戦するがハイキックでKO負けを喫した。この試合以降、石澤としてもカシンとしても試合をせず、ほぼ完全に消息を絶ったため、引退の声も強く囁かれた。事実、東京スポーツのコラムにおいて、「石澤はもう歳だろう」などと述べ、総合からの撤退を示唆している。

大学院進学とIGF参戦

2007/12/20、IGF有明コロシアム大会にて、直前に欠場となったブッカー・Tの代役として、カート・アングルを相手に、カシンとしての復帰を果たした。プロレスの試合としては実に2年2か月ぶりだが、まったくブランクを感じさせないファイトを見せた。この試合について、田中秀和は自身のブログで、カシンへのオファーがあったのは試合前日だったとする裏話を明かしている。しかし、東京スポーツの「INOKI日記」による記述では、数日前からオファーはしていた様子である。

2008年1月、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科(社会人大学院修士1年制)に合格。現役レスラーでの大学院進学はジャンボ鶴田以来2人目。カシンは「ビッグ・サカやドラゴン、ムトチャン、サイモン・ケリーら偉大な経営者に倣って、プロレス界のためにスポーツマネジメントを学びたい」と東京スポーツ紙上で抱負を語った。早大では平田竹男教授の指導を受けた。

DREAMへの参戦

2009/10/25、DREAM初参戦となったDREAM.12で新日本プロレス時代の後輩柴田勝頼と対戦し、パウンドでTKO負けを喫した。

タイトル歴

新日本プロレス
  • IWGPジュニアヘビー級王座(第34代、41代)
  • IWGPジュニアタッグ王座(第2代、パートナーはドクトル・ワグナー・ジュニア)
全日本プロレス
  • 世界ジュニアヘビー級王座(第20代)
  • 世界タッグ王座(第50代、パートナーは永田裕志)
その他
  • CWA世界ジュニア
  • EWP インターコンチネンタル

人物

  • PRIDE.15でハイアンに勝利した直後、コメントを求めて控え室に詰め掛けたテレビクルーに対し、マスクを被った上で「石澤はもう帰ったからオレが代わりに来た。」と述べるなど、「石澤」と「カシン」の使い分けを厳密に行っている。
  • 出身地の旧常盤村は津軽地方にあるが、高校は南部地方の八戸市にある光星学院高校に進んだ。同県内だが距離的には離れており、また両地方間には藩政時代から続く軋轢が今も残っているが、レスリングに打ち込むために、同校への進学を強く志願した。
  • ブログなどを開設して自身の試合スケジュールやメッセージを自己発信するレスラーも多い時代にあって、メディアへの露出を極限まで避けている。石澤としてのプライベートは本名、生年月日、出身地など以外は一切公表していない。カシンとして自身の情報をアナウンスするのは、東京スポーツ誌上の人生相談コラム(不定期)のみである。
  • 自身のマスクのバリエーションも非常に豊富で、近年では試合の度にマスクを変える。それらマスクおよびコスチュームはカシンと昵懇であるOJISANスポーツが製作している。また、マスクに対戦相手への皮肉や揶揄のメッセージを織り込むこともある(藤波辰爾に対して「コンニャク」など)。
  • 実家は現在も藤崎町で養鶏場(トキワ養鶏)を営んでいる。2008年10月には安田忠夫が同養鶏場への就職を志願し採用されたことが話題となった。

中西学との因縁

  • 同期の中西学とはある時は「犬猿の仲」、ある時は「親友」と言って憚らない。新日本時代、試合での中西との絡みの有無に関係なく、インタビューで訊かれてもいない中西の話をし始め、ひたすらネタとして弄り倒すこともしばしばだった。中西が「P4メッセージ」なるものを発信すると、自らも「Problem360°」(当時の中西の入場曲「No Problem」に由来、360度どこからでもかかってこいという意味)というメッセージを発信、自身の入場曲の出だしに「Problem」というフレーズを挿入し、現在に至るまで使用している。
  • 新日本離脱後も総合格闘技での「決着戦」をマスコミを通じて申し入れたり、中西が受諾もしていないのに「カシン対中西」戦をイラストでうたったTシャツを自作し、プロレスと総合の試合で入場時に着用するなど、「中西弄り」は約10年余に及んだ。
  • 中西と仲が良いとされた成瀬昌由も「被害」を受け、成瀬が長い巡業から自宅に帰ると、留守電がカシンからのメッセージ(ほとんどが中西への悪口)で埋め尽くされていたという。
  • 中西本人が新日本プロレスへの入門当時を述懐したインタビューによると、「雑用をしなければいけない日に遅刻(中西はレスリングオリンピック出場者として特待生扱いを受けており、寮生活ではなかった)し、生真面目な石澤が激怒した」ことから、以後の因縁が生じたとのこと。

世界タッグベルト返還訴訟

2005/8/2、全日本プロレスが同団体の所有する世界タッグ王座のベルトの返還に応じないとして、前月に解雇したカシンに対し、ベルトの返還を求める民事訴訟を東京地裁に起こした。

タッグパートナーの永田は王座剥奪時に全日本側の要請に応じてベルトを返還しているため、提訴の対象となっていない。剥奪後、全日本は王座決定戦を行い、太陽ケア、ジャマール組を正式な王者として認め、永田が返還した2本のベルトのみで王座戦を行っていた。

カシンは「王者になればベルトはもらえると思っていた。すべてはベルトを欲しがった永田君が原因。私は踏み台男の踏み台にされました」などといつものカシン節で応酬した。

さらに、同じTJ内に一緒にベルトを獲った永田がいるにもかかわらず、「王座は永田から中西に譲渡された」と一方的に宣言し、中西をパートナーとして2005/10/8の新日本・東京ドーム大会でのチャーリー・ハース、マーク・ジンドラック組との試合を、「世界タッグ王座の初防衛戦」として強行する構えも見せたが、結局はカシンが2本のベルトを肩にかけて入場するに留まった。同試合の入場では「被告人、ケンドー・カシン」とのコールを受け、両手に手錠をはめて花道を歩くというパフォーマンスを行った。

初公判は同年10/5に行われ、全日本側は早期和解を求めたが、カシン側は「ベルト獲得後に全日本に試合を組んでもらえなかったことが原因」とし、あくまでもリング上での決着を求めたため物別れに終わった。この日の公判において、全日本とカシンとの間にもともと選手契約自体が結ばれていなかったことなどが明らかとなり、全日本の選手管理の杜撰さを露呈する結果ともなった。その後しばらくの間、石澤ないしはカシンとして試合をする際には「武藤久恵対ケンドー・カシン裁判Tシャツ」を着用していた。なお、武藤久恵とは武藤敬司夫人で、全日本を取り仕切っていると言われる。

前代未聞の「ベルト裁判」の行方に世間の注目が集まったが、「ケンドー・カシンとして訴えられたのだから、マスク着用が認められない限り、(石澤の姿では)法廷に出ない」などと強弁するカシンの言動に弁護人が呆れ、弁護を辞したことで事態は一変。2006年4月末、2本のベルトが全日本の事務所に送料着払いで送付されたことで一応の解決をみたようである。その後、全日本はカシンが占有していたベルトを加え、従前通り4本のベルトでの選手権試合を行っているが、現在に至るまで、この事件については一切のコメントをしていない。






矢樹広弓
1971/8/5

日本の元女子プロレスラー。本名は柳沼 広美(やぎぬま ひろみ)。福島県福島市出身。血液型O型。結婚し平島姓を名乗っていたが現在は離婚。

経歴・戦歴

高校時代は柔道の東北大会で優勝するなど活躍、実業団柔道を経て1993年にJWP女子プロレスに入門。1994/1/9の後楽園ホール大会において、対福岡晶戦でデビュー。キャンディー奥津とJWPジュニア王座を巡りライバル闘争を展開する一方で、福岡・奥津とユニット「ひーちゃん's」を結成。また、天野理恵子と共に、当時草創期だった女子サンボに参戦するなど多岐に渡り活躍したが、1997/3/9、結婚のため後楽園ホール大会での対久住智子戦で引退する。

だが1998/7/5、フリーとして吉本女子プロレスJd'・後楽園ホール大会にて復帰。その後はJd'や古巣JWP、アルシオン、みちのくプロレスなどで活躍。アルシオンでは復活したライバル奥津が変身した「タイガードリーム」の向こうを張って「女虎ハンター」として登場するが、その抗争も奥津の体調不良で長続きせず。

2004年あたりから徐々にフェードアウト、現在はセミリタイヤ状態。

タイトル歴

  • JWP認定ジュニア王座
  • ツインスター・オブ・アルシオン(パートナーは玉田凛映)
  • 女子サンボ・プレオープン48kg級1位

入場テーマ曲

  • 「DASH!!」<JWP時代>
  • 「Caught Somewhere in Time」(IRON MAIDEN)
  • 「PRIME」(T-SQUARE)

  



保坂秀樹
1971/8/5

日本のプロレスラー。新潟県糸魚川市出身。身長180cm、体重110kg。

1991/8/7にデビューした。WEWハードコアタッグ王座初代王者である。

経歴

高校卒業後、1990年5月、SAW(サブミッション・アーツ・レスリング)入門。SAWでは木村浩一郎の後輩にあたる。1年間に渡り修行を積み、同道場から派遣される形で1991/8/7、W★ING(旧W★ING)後楽園ホール大会での格闘技マッチでプロデビューする。

旧W★ING崩壊後、所属していた選手達の殆どがW★INGプロモーションに移籍する中、W★INGプロモーションと別れたWMAに所属するものの、WMAは一試合も行うこと無く活動停止してしまう。

その後、PWCに移籍し、『弁慶』のリングネームで試合を行うものの、同団体の経営難から離脱し、一時リングスにも出場するなどしたが、1994年にFMWに活動の場を移し、翌1995年2月にリッキー・フジを破り第3代インディペンデント・ワールド・ジュニアヘビー級王座を獲得。2000年4月には佐々木嘉則をパートナーにWEWハードコアタッグ初代王者になり、その後、同タッグ王座には合計3度就くことになる。

FMW所属時から全日本プロレスに登場していたが、2002/3/23に正式に全日本プロレスに入団。中堅どころとして活動していたが2003年に当時、対抗戦を行なっていたZERO-ONEに参戦した際に「ZERO-ONE最高」といった旨の発言を行い全日本と敵対。全日本に籍を残しながらほぼZERO-ONE所属となった。しかしZERO-ONE崩壊後は全日本、ZERO1-MAXどちらにも所属していない。5月に右膝を骨折し、長期欠場する(時期は不明だがいつの間にか解雇されていた)

長い欠場の後、2006/9/24の維新力30周年記念大会で復帰。当初は天龍源一郎の付き人として来ただけだったが天龍の一言で復帰することになった。現在はWMFでヒールとして継続参戦を続けている。

タイトル歴

  • インディペンデント・ワールド・ジュニアヘビー級王座 : 1回
  • WEWハードコアタッグ王座 : 3回

入場テーマ曲

  • 初代:「BALLS TO THE WALL」(ACCEPT)
  • 二代目:「WILDER」
  • 三代目:「WALK」
  • 四代目:「BUILDINGBOMB」





日高郁人
1972/8/5

日本のプロレスラー。島根県益田市出身。ZERO1所属。血液型B型。

プロレスラーとしては小柄でジュニアの体躯ではあるが、卓越した試合センスを持つ。格闘系のバトラーツ出身ながらも純粋なプロレスを貫き通し、その評判も高いことから「名勝負製造機」として賞される。入場時に着用しているオリジナルマスクは「flame」と称され、彼のトレードマークでもあり、マスクが作られる前から着用のタイツの右腿部分に大きくあしらわれていて、グッズ化も成されている。

とにかく動きや技が極めて速く、ZERO1-MAX中継実況の塩野潤二からは、“音速のブレードランナー”、“疾風の天才児”と形容される。

来歴

一度は大阪で就職するも、プロレスラーへの夢を諦めきれずアルバイトをしながら体を鍛え、1996/4/1に格闘探偵団バトラーツに入門、1997/1/21に船木勝一(元WWE所属のFUNAKI)を相手にデビューする。その後、ECWでの海外修行を経て2001/12/3にバトラーツを退団、みちのくプロレス(ディック東郷や石井智宏らとFEC{ファーイーストコネクション}を結成)、大日本プロレス、ZERO-ONEと様々なリングを転戦し、2005年6月にZERO1-MAX所属となり現在に至る。その道中では、共に「親友」と呼び合うパンクラスの伊藤崇文とDEEPでバーリトゥード対決を行っている(伊藤とはデビュー前に所属していた栗栖正伸トレーニングジム時代からの親友)。

1998年3月29日、みちのくプロレスにて「藤田ミノル」と初めて組んで以来、合間合間で長いブランクはあれども現在までにタッグを組み続け、その相性の良さからお互いに「相方」と呼び合い2005年のプロレス大賞にてベストタッグ賞を受賞するに至った。また、デビュー戦の相手である船木を「師匠」と言って慕っており、彼の決め技である「ショーン・キャプチャー」も彼から使用許可を得て使っているものである。彼のオリジナルブランド「flamex」では有名な「I LOVE NY」Tシャツのパロディ「I LOVE SC(ショーンキャプチャー)」Tシャツを自らのプロデュースにて販売。豊富なカラーバージョンが存在するが、少量限定生産。

2006年4月のZERO1-MAXのS-ARENA大会に於いて、男女混成出身地別都市対抗戦が行われ、島根県益田市出身同士というよしみで豊田真奈美とのタッグを結成した。

ZERO1-MAXの夏の恒例である「火祭り2007」において、当初は日高はノミネートされていない(日高はジュニアヘビー級であるため、「火祭り」の直後に行われるジュニア版火祭りとも言える「天下一Jr.」への参加に照準を合わせている)。しかし、火祭りの参加選手であった村上一成が、開幕戦の大谷晋二郎とのリーグ戦で、大谷の過度な椅子攻撃により頭部損傷で絶対安静ということで、村上の枠が空白になったのに伴い、参加全選手10人の中の当初4枠をファン投票で選出していた中の5番手であった日高が村上の代役でAブロックより出場となった(村上の開幕戦の大谷戦は両者リングアウトの為1点獲得し、日高にその得点が引き継がれた)。以後日高は、体重差が2倍の巨漢である吉江豊に軽快な身のこなしから20カウント手前でリングインしリングアウト勝ちで2点、同門の崔領二には敗れたが、プロレスリング・ノアから参戦の齋藤彰俊にはこれも狡猾な両者リングアウトにより1点をもぎとり、4点でリーグ戦終了する大健闘を見せた。なお、Aリーグは日高を含め何と5人が各4点で横一線という結果でリーグ戦を終え、8月2日の後楽園ホールでの決勝戦の当日に5WAYマッチで決勝戦進出者を決定するということになり、崔領二が勝ち、Bリーグトップの田中将斗と決勝戦を行い(2006年と同じ決勝戦カード)田中が火祭り2連覇を果たした。

9月からの「天下一Jr.」では、トーナメント準決勝戦でDRAGON GATEの望月成晃に敗北。

10/26、後楽園ホール大会でディック東郷を破りインターナショナルジュニアヘビー級王者に返り咲くも、2008年1月23日後楽園ホール大会にて「天下一Jr.」のリベンジを賭けた防衛戦で望月成晃に再び敗れ、王座を失う。 新日本との対抗戦でも金本浩二、田口隆祐とのシングルマッチで敗北を喫するなど深刻なスランプに陥るが、5/27の後楽園ホール大会でタッグマッチながら望月から初のピンフォールを奪う。

2009年11月には、プリンス・デヴィットを破りついに「天下一Jr.」を初制覇。また同試合にかけられていたインターナショナルジュニアヘビー級王座を奪取し、3度目となる同ベルトを巻く。

2010年9月には「天下一Jr.」において史上初の連覇を達成。その直後の10月には歌手のあびこめぐみと結婚した事をブログにて発表した。

タイトル歴

ZERO1(旧ZERO1-MAX)
  • インターナショナルジュニアヘビー級王座 : 3回(第5代・第7代・第9代)
  • 天下一Jr. : 2回(2009年・2010年)
AWA
  • AWA世界ジュニアヘビー級王座 : 2回(第2代・第5代)
PWF
  • PWFユニバーサルタッグ王座 : 1回(第11代 &藤田ミノル)
NWA
  • NWAインターナショナルライトタッグ王座 : 2回(初代・第5代 &ディック東郷→藤田ミノル)
プロレスリング・ノア
  • GHCジュニアヘビー級タッグ王座 : 1回(第3代 &藤田ミノル)
その他
  • 4団体認定インターナショナルジュニアヘビー級王座 : 1回(第6代)

 




竹内出
1974/8/5

日本のコマンドサンビスト、総合格闘家。岡山県岡山市出身。ニックネームは「巌窟王」。SKアブソリュート所属。元ミドル級キング・オブ・パンクラシスト。

サンボ初段、柔道三段、レスリング三段。「地獄の15分間」と呼ばれる粘りのある組み技主体の試合運びをする。「グラウンド底なし沼」とも呼ばれる。

修斗、パンクラス等のプロの試合は上を取っての判定勝ちが多い。それに反してアマチュア競技であるサンボ、コンバットレスリングでは驚異的な強さを誇る。特にコンバットレスリングは一本勝ちが多く、未だに敵無しの状態である。

リングへの入場は派手で、「イズルガールズ」というレースクイーンの先導つき。以前は坂口征二の「燃えよ荒鷲」を入場テーマ曲に使っていた。

来歴

アマチュア格闘家として活躍したのち、1998/7/18に修斗でプロデビュー。

2000年1月、アブダビコンバット日本予選88kg未満級で優勝。

2002/10/1付けで和田拓也と共に、SHOOTO GYM K'z FACTORYからSKアブソリュートに移籍。10月4日に修斗プロライセンス返上を修斗コミッションに通達し、10月7日付けで受理された。10月29日、初参戦となったパンクラスでネイサン・マーコートと対戦し、判定勝ち。

2003/3/8、ミドル級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチでマーコートと再戦するも、KO負け。

2005/5/1、ミドル級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチでマーコートと3度目の対戦となったが、チョークスリーパーで一本負け。

2005/7/6、HERO'Sに初参戦し、オープニングファイトで三浦広光にTKO勝ち。

2006/6/11、D.O.G VIで岡見勇信と対戦し、TKO負け。

2006/12/2、マーコートが返上して空位となっていたミドル級タイトルを賭け中西裕一と対戦し、判定負け。

2007/11/28、タイトルマッチで中西裕一と再戦し、判定勝ち。4度目の挑戦にしてミドル級タイトルを獲得した。

2008/3/26、パンクラスで金原弘光と対戦し、判定勝ち。

2008/11/1、戦極初参戦となった戦極 〜第六陣〜でジョー・ドークセンと対戦し、マウントパンチでTKO負けを喫した。

2009/8/8、パンクラスのミドル級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで佐藤豪則と対戦。判定ドローとなり、初防衛に成功した。

2009/12/6、パンクラスのミドル級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで金井一朗と対戦。判定負けで王座から陥落した。

2010/7/1、故郷・岡山県岡山市に自身の格闘技ジム「アブソリュート岡山」をオープンした。

主な獲得タイトル

総合格闘技

  • 第7代ミドル級キング・オブ・パンクラシスト

グラップリング

  • 第4回、第7回、第8回、第9回 全日本コンバットレスリング選手権 優勝
  • アブダビコンバット日本予選88kg未満級 優勝(2000年)
  • 日本コマンドサンボ選手権 優勝(1995年、1997年)
  • 全日本サンボ選手権 100kg級 優勝(2000年、2002年)
  • 世界コンバットサンボ選手権 82kg級 3位(2005年)





ピーター・グラハム
Peter Graham
1975/8/5

オーストラリアのキックボクサー。シドニー出身。タイガーズ・デン所属。日本ではA・E FACTORYに所属。

バックボーンは空手。得意技はローリングサンダー(胴回し回転蹴り)で、試合でバダ・ハリの顎を骨折させたことがある。「爆裂カラテ野郎」「爆裂ローリングサンダー」の異名をもつ。

来歴

2006年3月5日のK-1 WORLD GP 2006 in AUCKLANDの前日記者会見で対戦相手のバダ・ハリに頬にキスをされ挑発された際、「○○野郎(音声を消され、テロップにモザイクが掛けられていたため、何と言っているかは不明)」と言い返し、結果殴り掛かられ乱闘騒ぎが起きている(フルスイングのパンチをかわし、逆にテイクダウンし上になったところで周りに止められた)。試合では、ローリングサンダーでハリのアゴを骨折させ、失神KO勝ち。

2007年8月5日、K-1 WORLD GP 2007 IN HONG KONGでバダ・ハリと再戦し、3Rに右ボディストレートでダウンを奪われ判定負け、リベンジを許した。試合後にはリング上で抱き合い健闘を称えあった。

2007年12月31日の「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」の前日記者会見で「藤田和之が試合をキャンセルした。腰抜け野郎」と挑発を行った。

2008年3月5日、戦極旗揚げ戦戦極 〜第一陣〜における藤田和之との試合で総合格闘技デビュー。藤田のタックルを2度に渡り防ぐも、3度目のタックルでテイクダウンを許し、スピニングチョークを極められタップアウト負け。前日記者会見では藤田を挑発し乱闘寸前の騒ぎを起こしたが、試合後は両者共にお互いを称え合った。

2008年8月22日、ブラジル人女性との婚姻届が港区役所に受理された(提出は6月25日)。右腕に夫人の名前とハートをかたどった刺青をプロポーズする前に入れた。

2008年8月24日、戦極 〜第四陣〜でモイス・リンボンと対戦し、チョークスリーパーで一本負け。

人物

  • 乱闘騒ぎを起こすなどの問題を起こすが、実際は谷川貞治曰く紳士で、たとえ敗れた試合でも対戦相手に一礼したりするなどまんざらでもない。本人曰く「相手を敬い、自分を敬い、規律を守る」ことを空手で学んだと言う。空手を始めた理由は「子供の頃、ラグビーや水泳など色々やってみたが何も身につかず、このままでは何もない人間になってしまうと思った」から。
  • 2007年現在、ニコラス・ペタスのチームメイトである。
  • 2007年からチーム・クエストで、総合格闘技の練習をこなしている。
  • TEAM VOODOO U.S.AのTOKYO HIROや、パンク・バンドNO USE FOR A NAMEと親交が深い。
  • 背中に南十字星の刺青を入れている。
  • 普段はとても明るい性格で人気者である。

主な獲得タイトル

  • W.B.K.F.アマチュアヘビー級チャンピオン
  • K-1 WORLD GP 2001 オセアニア地区予選トーナメント 準優勝
  • K-1 WORLD GP 2003 in MELBOURNE 優勝










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