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グリズリー・ジェークスミス
JAKE SMITH

1932/8/6 - 2010/6/12

本名はアレリアン・スミス。2メートルを超える大型コンビ「ザ・ケンタッキアンズ」の片割れ。(パートナーはルーク・ブラウン)国際プロレス来日時はザ・ケンタッキアンズとして来日し、アントニオ猪木、ヒロ・マツダ組の保持するNWA認定世界タッグ選手権に2度に渡って挑戦しているが、いずれもストレートで敗退している。2メートル13センチの巨体で「恐竜」とよばれていたが、どちらかといえば木偶の坊だったのでは? 引退後はMSWA地区でマッチメーカーを務めた。
1967/1 国際プロレス パイオニア・シリーズ
1971/8 日本プロレス サマー・ミステリー・シリーズ
タイトル
ジョージア版世界ヘビー
南部タッグ(ジョージア版)
WWA世界タッグ(ロス版)、テキサス・ヘビー

 
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ジミー・バリアント
Jimmy Valiant
1942/8/6

アメリカ合衆国の元プロレスラー。テネシー州フランクリン出身。本名はジェームズ・ハロルド・ファニングJames Harold Fanning)。

現役選手時代はヒールの"ハンサム" ジミー・バリアント"Handsome" Jimmy Valiant)、ベビーフェイスの"ブギウギ" ジミー・バリアント"Boogie Woogie" Jimmy Valiant)として活躍した。

来歴

1964年にビッグ・ジム・ベイレン(Big Jim Vallen)のリングネームでデビュー。1970年代よりニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場し、ジョン・L・サリバンことジョニー・バリアントと金髪のヒール・タッグチーム「バリアント・ブラザーズThe Valiant Brothers)」を結成。1974年1月、インディアナポリスのWWAでブルーノ・サンマルチノ&ディック・ザ・ブルーザーからWWA世界タッグ王座を奪取
。WWWFではキャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーに、同年5/8にディーン・ホー&トニー・ガレアを破りWWWF世界タッグ王者となった
。以降もジョニーとのコンビで全米各地を転戦し、WWAではボビー・ヒーナンをマネージャーに世界タッグ王座を1977年と1978年にも獲得している。

シングルでも数々の実績を残しており、テネシー州メンフィスに本拠を置くCWAでは1977年から1981年にかけて、AWA南部ヘビー級王座を巡ってジェリー・ローラーと流血の抗争を繰り広げた。また、CWAではビル・ダンディーと組んでタッグ戦線でも活躍した。この当時、彼は『ハンサム・ジミーのバラッド(The Ballad of Handsome Jimmy)』という歌まで録音し、自分の入場曲に使用していた。ローラーの自著によると、CWAは是が非でもメンフィスにジミーをとどめておきたくて、メンフィスに彼の自宅を購入することまで提案したという。

1980年代に入るとバリアント兄弟を解散してシングルプレイヤーに専念。1980年代初頭の一時期は、NWAのミッドアトランティック地区にて英国出身のロード・アルフレッド・ヘイズをマネージャーに迎え、キング・ジェームズ・バリアントKing James Valiant)を名乗り王族ギミックのヒールを演じたこともある

1982年よりブギウギマンBoogie Woogie Man)のニックネームでベビーフェイスに転向、コミカルなショーマン派へのギミック・チェンジを行い、南部エリア一帯で人気者となる。ミッドアトランティック地区ではイワン・コロフ、スーパースター・ビリー・グラハムなどWWWF時代のヒール仲間と抗争を展開し、テネシーではジェリー・ローラーやロッキー・ジョンソンなどかつての仇敵とタッグと組んで活躍した。一時期、チャーリー・ブラウンCharlie Brown)なる覆面レスラーに変身したこともある。

WCWへの移行期にNWAを離れ、1990年にメンフィスのUSWAでローラーとの抗争を再現。USWAユニファイド世界ヘビー級王座を2回に渡って獲得している
。1993年にはカロライナ地区のインディー団体NWAにも参戦した。WWFとは1979年を最後に関係を絶っていたが、1996年にジョニーとのバリアント・ブラザーズとしてWWE殿堂に迎えられている(プレゼンターはブリティッシュ・ブルドッグとオーエン・ハート)。以降もインディー団体への単発出場を続け、2005年に引退した。

近年はバージニア州ショーズビルに居住し、プロレスリング・スクールの "Boogie's Wrestling Camp" を主宰、後進の指導・育成にあたっている
。また、"The Boogie Woogie Referee" と称し、各地のインディー団体にスペシャル・ゲスト・レフェリーとして登場することもある

日本には1972年6月に日本プロレスに初来日。1976年にはバリアント・ブラザーズで全日本プロレスに来日し、6/2にジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦。6/17にはグレート小鹿&大熊元司のアジア・タッグ王座にも挑戦している。1985年1月にはローラーとのコンビで全日本に9年ぶりの来日を果たしたが、長州力らジャパンプロレス勢の参戦で日本人同士のハイスパート・レスリングが主流化していた当時の全日マットでは、彼のショーマン・スタイルが受け入れられることはなく、これが最後の来日となった。

獲得タイトル

シングルタイトル
  • WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):1回
  • AWA南部ヘビー級王座:5回
  • NWA TV王座(ミッドアトランティック版):2回
  • USWAユニファイド世界ヘビー級王座:2回
タッグタイトル
  • WWA世界タッグ王座(インディアナポリス版):3回(w / ジョニー・バリアント)
  • NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):1回(w / ジョニー・バリアント)
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / ジョニー・バリアント)
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ジョニー・バリアント)
  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / ジョニー・バリアント)
  • AWA南部タッグ王座:1回(w / ロッキー・ジョンソン)
  • WWF Hall of Fame:1996年度(ジョニーとのバリアント・ブラザーズで殿堂入り)

 etc.






ディノ・ブラボー
Dino Bravo
1949/8/6 - 1993/3/11

来歴

幼少時に家族と共にカナダ・ケベック州のモントリオールに移住。学生時代にレスリングとボディビルで体を鍛え、1970年にジノ・ブリットのコーチを受けてプロレスラーとしてデビュー。モントリオールを中心に正統派のパワーファイターとしてキャリアを積み、アメリカ本土では1974年よりロサンゼルスのNWAハリウッド・レスリングで活動した。

1976年より、ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に参戦、ミスター・レスリングことティム・ウッズとタッグを組み、5月5日にジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取した。ウッズとのコンビでは、同年11/3のトーナメント決勝でミシェル・デュボア&レネ・グレイを下しミッドアトランティック・タッグ王座にも戴冠している。シングルではブラックジャック・マリガンやマスクド・スーパースターと抗争を展開した。

並行してニューヨークのWWWFにも進出し、ドミニク・デヌーチとイタリア人同士のタッグチームを結成。1978/3/14にプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジからWWWF世界タッグ王座を奪取している。同年12月にはカナダのトロントでジン・キニスキーを破りNWAカナディアン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなり、カナダの伝説的レスラー、ホイッパー・ビリー・ワトソンよりベルトを授与された。1980年からはAWAをサーキットし、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。

1981年10月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ』に初来日。開幕戦における長州力と組んでのスタン・ハンセン&ハルク・ホーガンとのタッグマッチ、そして最終戦でのアブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチでは、共に相手がヒールサイドの外国人選手だったこともあって、ベビーフェイスとしての持ち味をフルに発揮した好ファイトを展開。ホーガンやブッチャーの巨体を抱え上げアトミック・ドロップを放つなどの怪力ぶりも喝采を浴び、将来の外国人エース候補と期待された。しかし、再来日となる翌1982年11月の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』ではヒールのアドリアン・アドニスと組まされたため、本領を発揮することができなかった。1983年5月には北米代表としてIWGPリーグ戦の第1回大会に来日したが、家族の不幸のため試合を行うことなく緊急帰国している。

その間、本国ではモントリオール地区の "Lutte Internationale" (インターナショナル・レスリング)を主戦場に、プロモーター兼任のエース選手として活動。メインタイトルのカナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座をビル・ロビンソン、リック・マーテル、ミシェル・デュボア、セーラー・ホワイト、キング・トンガらと争い、1985年まで計6回に渡って同王座を獲得した。1985年にはモントリオール地区への進出を図っていたWWFより、WWFカナディアン・チャンピオンに認定される。1986年、WWFのプロモートによりモントリオールでのハルク・ホーガンとのシングルマッチが予定されていたが、同地におけるブラボーの人気にホーガンがヒール扱いされてしまうことを危惧したWWF側の判断で、直前にマッチメイクが変更されるという事態も起こった。

1987年、WWFと再契約。ブルータス・ビーフケーキと仲間割れしたグレッグ・バレンタインの新パートナーとなり、イタリア人でありながら髪をブロンドに染め、フレンチ・カナディアンとしてのアイデンティティを強調したヒールに変身する。1988年にはカナディアン・ストロンゲスト・マンを名乗り、フレンチ・マーチンをマネージャーにジム・ドゥガンとアメリカ対カナダの抗争を開始。1989年からはジミー・ハートを新マネージャーに迎え、アースクエイクとのカナディアン・コンビでハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアー、ビッグ・ボスマン、タグボートらと抗争した。

1992年にWWFを離れて引退。その後は若手レスラーの指導にも携わっていたが、1993年3月11日、違法タバコの密輸に絡むトラブルのため、モントリオールの自宅で犯罪組織に射殺されて死去。43歳没。

獲得タイトル

Lutte Internationale
  • カナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座:6回
  • カナディアン・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / トニー・パリシ)
NWAハリウッド・レスリング
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:1回
  • NWAアメリカス・タッグ王座:1回(w / ビクター・リベラ)
ジム・クロケット・プロモーションズ
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座:2回(w / ミスター・レスリング、タイガー・コンウェイ・ジュニア)
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ミスター・レスリング)
メープル・リーフ・レスリング
  • NWAカナディアン・ヘビー級王座:2回
WWWF / WWF
  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / ドミニク・デヌーチ)
  • WWFカナディアン王座:1回

 etc.






曹駿
1990/8/6

そう しゅんは日本のプロレスラーである。本名は曹駿(ツァオ ジュン)。中国上海市出身。全日本プロレス所属。全日本、新日本、ノアのいわゆるメジャー3団体の中では初の中国人レスラーとなる。

経歴

父親が横浜中華街で仕事をしていた関係で、2001年に来日。中学、高校で6年間柔道部に所属し、初段を取得。神奈川・武相高等学校3年時には団体戦で県大会3位の成績を残した。中学時代にプロレスを観戦し武藤敬司に憧れを抱く。

2009年6月に武藤率いる全日本プロレス入団。武藤からは「体も大きいし日本語も堪能。しっかり教えて『中国の力道山』のようなレスラーに育てたい」と大きな期待を寄せ、トレーナーのカズ・ハヤシからは「体の割にシャープに動ける。身体能力はあるので、努力次第では1年以内のデビューも可能だと思う」と評価されていた。

2010/4/19、約10ヵ月の練習生期間を経て横浜赤レンガ倉庫1号館にて、同じく大型レスラーの河野真幸を相手にデビュー戦を行った。(結果は逆エビ固めで敗北)

5/16、同年にデビューした先輩の中之上靖文とシングルで対戦。結果デビュー1ヶ月弱で初勝利をもぎ取った。しかし、5/21熊本大会の試合前、右橈骨骨折で全治六ヶ月と診断されてしまい、長期欠場を余儀なくされる。

2011/7/9、埼玉久喜大会で、およそ1年2ヶ月ぶりに復帰予定。

人物

  • 先輩の真田聖也と仲が良いようで真田のブログにたまに取り上げられる。また彼からは「ニーハオ」と呼ばれている。
  • 腕に入れ墨を入れている。

入場曲

  • sousyun

  





 















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