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ロード・アルフレッド・ヘイズ
Lord Alfred Hayes
1928/8/8 - 2005/7/21

アルフレッド・ジョージ・ジェームズ・ヘイズAlfred George James Hayes )は、イギリス・ロンドン出身のプロレスラー。

1970年代初頭にアメリカに渡り、現役引退後の1980年代からはWWF(現・WWE)でアナウンサーやインタビュアーを務めた。

来歴

1950年代に英国にてデビュー。柔道の有段者であったことから、当時はジュードー・アル・ヘイズ"Judo" Al Hayes)なるリングネームを用い、正統派のベビーフェイスとして活動していた。1964年にマイク・マリノを破り世界ミッドヘビー級王座を獲得。1968年9月には、当時ヨーロッパを外国人供給ルートとしていた国際プロレスに初来日している。

1970年代に入り、英国貴族のロード・アル・ヘイズ"Lord" Al Hayes)を名乗ってアメリカ・マット界に進出。ファンク・ファミリーが主宰するテキサスのアマリロ地区を主戦場に、キラー・カール・コックスやサイクロン・ネグロと抗争する。タッグでは英国マットで活躍した実績を持つリッキー・スターと組み、1972年8月にボビー・ダンカン&ディック・マードックからNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を奪取した。

その後ヒールに転向し、1974年より中西部のNWAセントラル・ステーツ地区に参戦。ロジャー・カービーらをパートナーに、マイク・ジョージ&ジム・ブランゼルの若手コンビとNWA世界タッグ王座を争った。1976年5月にはNWAルートで全日本プロレスに来日している。

以降はダラスやフロリダを経てAWAに定着し、クラッシャー・リソワスキーとの流血戦やビル・ロビンソンとの英国人同士の遺恨試合を展開。1979年からはトークの才能を活かしてマネージャーに転身、ボビー・ヒーナンとのマネージャー同士の抗争も行われた。1980年にはカナダのモントリオールで旧敵ビル・ロビンソンのマネージャーも担当。1981年にはノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に登場し、クリス・マルコフ&ニコライ・ボルコフのロシア系コンビをコントロールした。

現役引退後の1982年よりニューヨークのWWFにスタッフとして参加。その能弁さを見込まれ、ビンス・マクマホンの全米侵攻が始まった1984年からは、トーク番組『Tuesday Night Titans』にマクマホンの相方役でレギュラー出演。タキシード姿で格式ばったクイーンズ・イングリッシュを話す英国人キャラクターを演じた。WWFではベビーフェイスのポジションに回り、ジェシー・ベンチュラ、ジョニー・バリアント、ボビー・ヒーナンなどヒールのコメンテーターを相手に実況アナウンサーを担当することもあった。

1995年、交通事故で怪我を負いWWFを退団、フルタイムのプロレスリング・ビジネスから引退した。リタイア後はテキサスのダラスに在住していたが、事故の影響で壊疽を起こし片足を切断。2001年のカリフォルニア・アレイ・クラブのOB会には車椅子で出席した。その後は脳梗塞を患い闘病生活を送り、2005年7月21日に自宅にて死去した。76歳没。

獲得タイトル

  • 世界ミッドヘビー級王座:1回
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:2回
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / リッキー・スター、ニック・コザック)
  • NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):2回(w / ブルドッグ・ボブ・ブラウン、ロジャー・カービー)
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / ビッグ・O)
  • ESAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ミシェル・デュボア)

担当選手

  • ブリット・ビリー・ロビンソン
  • スーパー・デストロイヤー・マークII
  • スーパー・デストロイヤー・マークIII
  • マスクド・スーパースター
  • ニコライ・ボルコフ
  • クリス・マルコフ
  • ハンス・シュローダー
  • キング・ジェームズ・バリアント

 
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齋藤 彰俊
1965/8/8

日本のプロレスラー。宮城県仙台市出身。愛知県に長い間居住しているため愛知県出身を自称することがある。プロレスリング・ノア所属。

来歴

水泳が得意で中学時代に全国大会で3位の実績を残し、スカウトされて中京高校に進学。松永光弘は同級生であった。この頃には空手の鍛錬も積んでいた。中京大学進学後も水泳を続け、インターハイや全日本選手権で優勝しオリンピックの強化選手にもなった。当時から長州力のファンで、パワーホールで選手入場したこともあったという。

大学卒業後に準公務員になったが、朝礼で上司が食べたという、すき焼きの話を聞かされるに至って退職を決意し、天職だろうと考えていた格闘家に転向。1989年のFMWの旗揚げ戦で空手の試合を行い、剛竜馬に誘われ1990/12/20、愛知県半田市民ホールにおけるパイオニア戦志の対金村ゆきひろ戦で正式なプロレスデビュー。1991年8月にW★INGの旗揚げに参加。徳田光輝、木村浩一郎とともに「格闘3兄弟」として活躍するが、ほどなく第一次W★INGは崩壊。その後、W★INGから分裂して旗揚げを準備していたWMAの所属となるが、一度も興行を行うことなく、団体が崩壊した。

1992年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会に誠心会館の門下生と徒党を組んで乗り込み、新日プロに宣戦布告。セコンドを両者数十人が取り囲む異常な雰囲気の中1/30小林邦昭にTKO勝ち、週刊プロレスの表紙を飾った。2/8には小原道由に勝利した。小林との再戦では関節技にて敗れるも長州は小林との一戦を高く評価する。その後長州に認められ新日プロに参戦。その後、青柳、小林、越中詩郎、木村健悟と反選手会同盟(後の平成維震軍)を結成するなど活躍。その後1998年に新日プロを退団。一時リングから離れ、名古屋市にショットバー「ココナッツ・リゾート」を開店、小牧市に格闘技道場ノーティを開設した。共に現在はプロレス専念のため閉店している。PRIDEに参戦した石澤常光のセコンドについたこともあった。

2000年10月にプロレスリング・ノアから声がかかり、青柳とともに参戦。以降、フリーの立場で継続参戦する。その後秋山準に共鳴しスターネス入り。秋山の正パートナーとして2002/9/23に力皇猛&森嶋猛組を破り、第5代GHCタッグ王座を獲得した。2004年7月にスターネスを離脱。井上雅央、杉浦貴らとともにダーク・エージェントを結成した。

ノアでは長らくフリーの立場だったが、スターネス時代にはノアのジャンパーを着てセコンドに付いたり、様々なイベントにも参加するなど、ほぼ所属選手と同じ行動をしていた。2006/1/1付で正式にノア所属選手となった。

2007/6/20のZERO1-MAXに来場、7月からの火祭りに参戦した。

2009/6/13、広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ王座選手権試合で王者として試合中、挑戦者の三沢光晴に急角度バックドロップ(この時、斉藤のバックドロップのクラッチが外れ、ほぼ垂直に落ちる形となった。)をした際に、三沢が意識不明・心肺停止状態に陥って死亡するリング禍が発生。結果として三沢光晴の最後の対戦相手となった。死亡を聞かされた直後は一睡も出来ず引退も考えたが、6月14日での試合に立った後に三沢の遺影に向かって土下座し「どんな重い十字架でも背負う。リングに上がり続けることが社長への恩返し」として現役続行を決意した。また、事故後に心ないファンからの中傷を受けたが、齋藤は「自分に言うことで気持ちが晴れるなら全部受ける。逃げることはしない」 と語った。

事故の発端となったバックドロップについて「今は封印しているが、社長の心の声が聞こえる時が来たら解禁する」としたと述べて、しばらくはバックドロップを封印していたが、9/12の後楽園ホールでの森嶋猛とのシングルマッチにおいて三沢に許しを乞うように天を仰いでから3か月ぶりにバックドロップを使用、続け様のランニング・スイクル・デスで勝利した。試合後、齋藤は「みなさんすみません。バックドロップ、使ってしまいました」と涙声でファンに謝罪した。

タイトル歴

GHCタッグ王座
  • 第5代(防衛5回) - パートナーは秋山準
  • 第17代(防衛3回) - パートナーはバイソン・スミス
グローバル・タッグ・リーグ戦
  • 2008年大会 優勝 - 4勝2敗2分=勝点10 パートナーはバイソン・スミス
  • 2011年大会 優勝 - 5勝2敗=勝点10 パートナーは秋山準

入場テーマ曲

  • Deathtiny ~死神の宿命~

特別大会でのキャラクター

ノアで毎年恒例となっているクリスマス興行などの特別大会では、大変な弾けっぷりで試合をしたり、余興を行ったりすることで有名。クリスマスGHC(Great Happy Christmas)王者を自称している。その年の流行語や話題の人物を模写したキャラクターが多い。

2002年ハロウィン興行
2002/10/31のハロウィン興行では、ジャック・オー・ランタン風マスクを被り、「パンプキンDEATH」なる覆面レスラーに扮した。Winkの『淋しい熱帯魚』のテーマに乗り、同楽曲のダンスを完璧な振り付けで踊りながら入場し、リングコール時には、三瓶のギャグ「三瓶です」風に「パンプキンです」とコールされながら同じギャグの動きをするなどし、会場を大いに沸かせた。
2004年クリスマス興行
2004年12月24日のクリスマス興行では、ゴリエのコスプレで「齋藤ゴリエ」として出場。
2005年クリスマス興行
2005年12月24日のクリスマス興行では、入場時にはヒロシに扮し、ヒロシのネタの真似で「アキトシです」とやり、続いて「恋のマイアヒ・パラパラバージョン」を踊り、さらに猫ひろしのものまねを披露した。
2006年選手会興行
2006/6/9の第5回選手会興行では、タッグパートナー川畑輝鎮とキャラクターを入れ替えて登場。川畑を模して、太い眉毛で登場した。齋藤は「川畑彰俊」とコールを受けた。
2006年クリスマス興行
2006年12月24日のクリスマス興行では、死神キャラ繋がりで『DEATH NOTE』のリュークのコスプレで登場、更に名前が似ているという理由でデューク更家風にウォーキングまで披露。「デスリューク更家」として「DEBU NOTE」を客席に投げ入れた。
2007年クリスマス興行
2007/12/24のクリスマス興行では、IKKOのような衣装を着て登場したが、入場後に服を脱ぎ、股間の部分にサンタクロースの人形をつけ尻の部分にはモミの木を模したアップリケをつけた短い黒のショートタイツ一丁となり、小島よしおの真似で踊り、試合をした。齋藤は長いプロレス生活でこの日初めて、ロングタイツではなくショートタイツで試合をしている。難波信二リングアナウンサーは「ただの変態親父」とコールしたが、齋藤が抗議。「デスパッピー」として出場した。
2008年クリスマス興行
2008年12月23・24日のクリスマス興行では、赤いショートタイツ・膝当て・シューズを着用し登場。随所で田上明の動きや技を披露した。なお、髪型・口調は真似していなかった。名前も齋藤彰俊のままであった。2日間行われた32選手参加のトーナメントを勝ち進み、決勝で井上雅央を時間切れ末の判定で破り優勝した。
2009年クリスマス興行
2009/12/24のクリスマス興行では、『二十世紀少年』のキャラクター「ともだち」に扮して登場。「よげんのしょ」も用意していた。すると突然アフラックのCMのまねき猫ダックの歌とダンスを踊りだす。さらには漫才師のオードリー・春日俊彰へと変身。ピンクのベスト風のコスチュームで髪型は七三分けであった。彼のギャグ「トゥース!」も披露し、「春日彰俊」を名乗った。森嶋猛扮するマスクド・Mと対戦するも、春日がふざけながら試合をしている間に、わずか1分45秒で敗北した。実況の矢島学は、「よげんのしょ」の内容を随時紹介しながら実況を進めるつもりであったが、試合中に一切内容に触れることは出来なかった。試合後に内容が紹介されたが、齋藤のノアでの出来事が予言されていた。しかし、当日の敗北については予言されてない点を矢島は指摘した。
なお当日の試合では、この試合の後に志賀賢太郎が齋藤と同じく『二十世紀少年』の「ともだち」に扮して「トモダチパンチ」と名乗り試合を行った。リング上でトモダチパンチは「齋藤選手とネタが重複してしまい、大変申し訳ございません」とリング上でマイクアピールし、齋藤と観客に謝罪した。実況の平川健太郎は、ネタの示し合わせが不十分であった点を指摘。

このように、通常の興行シリーズでは殺気を前面に出したファイトを心掛け、クリスマスのような特別興行ではひたすらエンタテインメントに徹して団体を盛り上げようとする姿勢を見せている。

エピソード

  • リングを降りると大変礼儀正しい好人物として知られる。
  • プロレス活動の一方で、タレント活動としてテレビドラマに出演もしている。主に活動拠点である中京地区のテレビ局製作ものが中心。
  • 水泳経験者のためか肺活量は非常に高く、その数値は実に8000ccにも及ぶ。
  • 死神を自称しているため、入場時に死神が描かれたカードやタロットの大アルカナ13番カードを一枚、観客に手渡してから入場する。齋藤曰く、このタロットは魔除けの効果があり、貰えた観客はラッキーとのこと。
  • 意外にもバイオリンの演奏が得意である。子供のころに習っていたためだが、当時本人は「男の子がバイオリンを習っている」ことを人に知られるのが嫌だったようだ。
  • 趣味はお酒とグルメ。

齋藤彰俊ブログ





エリック・アングル
Eric Angle
1967/8/8

アメリカの元プロレスラー。カート・アングルの兄にあたる。2000年にサバイバーシリーズで登場、2002年にOVWで活動し、2003年3月および5月に、スマックダウンに登場している。その後IWCで活動したあとに引退した。





上林美穂
1975/8/8

愛知県出身の元女子レスリング選手である。1994年女子世界選手権47kg級金メダリスト。桜丘高等学校・東洋大学卒業。

来歴

小学校からレスリングと柔道に熱中し、柔道では田村(現・谷)亮子と対戦した経験がある。

中学に進むと、レスリングで1989年全日本女子選手権に44kg級で初出場。決勝でこの年の世界チャンピオンである吉村祥子に敗れはしたが2ポイントを奪う大健闘を見せた。翌年の全日本女子オープンではその吉村から勝利を奪い初タイトルを獲得。

高校進学後はレスリングに絞り、1991年には1階級上の47kg級で全日本選手権出場。決勝では山本美憂から5ポイント奪う善戦を見せ、翌1992年には初優勝。同年の世界選手権に初出場を果たし、1回戦で敗れたが、前回チャンピオンの鐘秀娥を降し銅メダルを獲得した。

1993年の世界ジュニア選手権で優勝。国内大会では後にプロレスラーとなる永島千佳世に2戦連続フォール勝ち。大学進学後の1994年には世界選手権で初の金メダルを獲得した。1996年は全日本チャンピオンと世界選手権銅メダル獲得。その間結婚により足立姓に変わっている。

1997年は51kg級に上げ、この階級でも全日本チャンピオンと世界選手権銅メダルを獲得した。国内大会では後に総合格闘技で活躍する辻結花にも連勝している。

大学卒業とともに一度引退するが、1999年のジャパンクイーンズカップで1大会限りの現役復帰を果たした。2回戦は勝利したものの、3回戦では前年の世界チャンピオン篠村敦子に1ポイントも取れず敗れ去った。

2008年に東京で開かれた世界選手権で歴代世界チャンピオンのひとりとして特別表彰された。



WINDY 智美
1983/8/8

日本の総合格闘家、キックボクサー。本名は砂庭 智美(すなば ともみ)。青森県三戸郡出身。パンクラスismおよびAJジム所属。かつては風智美ウィンディ智美のリングネームだったこともある。

来歴

小学6年の時に空手を始め、中学・高校時代は陸上部に所属。

日本女子体育短期大学時代に、極真会館や正道会館の全国大会で上位入賞を果たした。

1999/4/29、Jd'で行われた高橋洋子とのキックボクシングマッチでプロデビュー。

2002/5/6、総合格闘技初挑戦となったスマックガールで金子真理と対戦し、判定勝ち。

2003/2/28、オランダで開催された「RISING SUN」でキムと対戦し、1-2の判定負け。

2004/4/18、CROSS SECTION第1回大会で吉田正子と対戦し、腕ひしぎ三角固めで一本負け。

2005/6/5、初参戦となったパンクラスでバッカス羽鳥と対戦し、タオル投入によるTKO勝ち。

2006/10/7、全日本キックボクシング連盟でイム・スジョンと対戦し、判定勝ち。

2007/2/17、コスタリカで開催されたBodogFightでロジー・セクストンと対戦し、2R途中に右足首を骨折し、ドクターストップ負け。首都サンホセの病院に搬送され、その日のうちに手術を行った。その後、日本でも入退院を繰り返し、計4か月間の入院生活を送った。同年10月頃に練習を再開した。

2008/1/30、11か月ぶりの復帰戦となったパンクラスで富松恵美と対戦し、2R終了時に富松が棄権しTKO勝ち。復帰戦で白星を収めた。

2008/11/8、VALKYRIE旗揚げ戦VALKYRIE 01 CAGE FORCE-EXで藤野恵実と対戦し、判定勝ち。

2009/4/25、VALKYRIE 02の女子フェザー級次期挑戦者決定トーナメント準決勝で高林恭子と対戦し、チョークスリーパーで一本負け。

2009/11/23、修斗で行われた修斗 vs. パンクラスの対抗戦で藤井惠と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本負け。

2010/2/11、VALKYRIE 04で吉田正子と5年10か月ぶりに再戦し、3-0の判定勝ち。リベンジに成功した。

2010/5/9、イタリアで開催されたXC-1でマリア・エリザベート・タバレスと対戦し、ハイキックでKO勝ちを収めた。

2010/9/5、パンクラスでモニカ・ロバートと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。この試合は試合時間が1ラウンド3分から5分、パウンド解禁となるなどの変更が加えられた新アテナルールで初めて行なわれた。


  



ジャイアント落合
1973/5/8 - 2003/8/8

日本のプロレスラー、総合格闘家。本名は岡田 貴幸(おかだ たかゆき)。秋田県男鹿市出身。秋田工業高等専門学校卒業。プロ野球中日ドラゴンズ監督である落合博満の甥。

来歴

秋田工業高等専門学校時代は、柔道部に所属。全国高等専門学校体育大会・柔道競技4連覇の実績を持ち、卒業後には正道会館の柔術教室師範の平直行が率いる東京ボンバイエに所属。本名の岡田貴幸として、1998年の東京ドームでのK-1グランプリ決勝戦で柔術フリースタイルルールの試合を行った。また、アマチュア修斗でも、1998年8月、第5回全日本アマチュア修斗選手権ヘビー級で準優勝。翌1999年も準優勝している。

その後は、空手家の佐竹雅昭が代表を務める「怪獣王国」に所属し、2000/6/13に佐山サトルのアルティメットボクシングの旗揚げ戦の総合格闘技ルールでジャイアント落合として総合格闘技のプロデビューした。この模様はフジテレビの格闘技番組『SRS』で放送され、特異なキャラクターが注目され、2か月後の8/27にPRIDEでも試合を行った、同年にプロレスラーとしてもデビューし、格闘探偵団バトラーツのリングに散発的に上がるようになった。しかし本人はPRIDEでの試合にこだわり、2002年7月から始まったPRIDEへの登龍門イベントの「THE BEST」には毎回登場して3連勝。試合後のマイクやインタビューではPRIDE出場を訴え続けたが、PRIDEへの昇格は叶わず、2003/7/28本格的なプロレスデビューを目指して、出稽古をしていたWJプロレスの道場でロープワークの練習中に倒れて意識不明の重体になり、昭和大学病院に緊急入院。開頭手術を受けるも、8月8日午後4時30分、急性硬膜下血腫により死去。30歳没。死の2日後、「PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦」開会直後に黙祷が捧げられた。

人物

  • 身長185cm、体重130kgの巨体にアフロヘアーとサングラスがトレードマーク。初登場時にはアフロのカツラを脱いだら、地毛もアフロというパフォーマンスを見せた。格闘家とは思えない風貌とキャラクターでファンの支持を得た。
  • 落合博満は母親方の叔父であり姓は異なるものの血縁関係にあるが、本名が岡田であるジャイアント落合はリングネームに「落合」を使用するに際し、落合博満に許諾を取ったという。
  • 佐竹雅昭が代表を務める「怪獣王国」に所属した唯一の選手。落合は佐竹のことを「国王」と呼んでいた。
  • 上京後から、プロレスデビューしても暫くの間は世田谷区三軒茶屋のレンタルビデオ店でアルバイトをして生計を立てていた。自他共に認める映画好きとのこと。
  • 恵まれた体格を活かして総合格闘家としての将来が期待されたが、「怪獣王国」は選手が2人しかいない団体で、他団体や道場とも交流が少なく(佐山サトルの元で打撃を習っていたことがある)、スパーリングパートナーもいない孤独な練習環境だったようである。




 












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