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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
8/11

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ハルク・ホーガン
Hulk Hogan
1953/8/11

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はテリー・ジーン・ボレアTerry Gene Bollea)。ジョージア州オーガスタ生まれ、フロリダ州タンパ出身。

今でもアメリカでは伝説的な存在であり、現在のWWEで活躍するプロレスラーの中にも熱狂的なファンが多数いると言われる(現在、TNAに所属)。ベビーフェイスとしてもヒールとしても頂点を極め、プロレス史上最も成功したレスラーと言われている。ニックネームは超人リアル・アメリカンハリウッドなど。

息子のニコラスもプロレスラー志望であるという。娘のブルック・ホーガン(Brooke Hogan)は、セクシー路線の歌手としてアメリカで活動している。甥のホレス・ホーガン(マイク・ボレア)もプロレスラー。

ジャック・ブリスコのようなアマチュアレスリングテクニックはないが、2m級の巨体の割にすばやく器用な動きもできることは画期的であった。観客の心を掴む演技やパフォーマンスは抜群で、彼こそスポーツ・エンターテイメントを体現しているプロレスラーであると言える。

来歴

自著によると少年時代は圧倒的な体格を生かし、リトルリーグ(野球)でホームランを打っていたが、太りすぎており足が遅く他のスポーツは苦手で女性にはもてなかった。高校時代にボディビルディングで体を鍛え、南フロリダ大学時代から「ラッカス」というロックバンドのベーシストで活躍し、配管工の父親より稼ぎが多くなる。

スーパースター・ビリー・グラハムの体格に憧れ、生の試合を見て、プロレスは格闘技ではなくWorkであることを見抜いた。このことにより、ロックバンド時代に得意だった観客とのやり取りの才覚を生かせばこの業界でスターになれることを確信したホーガンはプロレス入りを決意したがグラハムには弟子入りを断られる。短大を中退し、プロレス界に入るため、わずかな伝を頼りにヒロ・マツダに会うが、当初はレスラーになるのをあきらめさせるため、ひどいいじめやしごきを受け、足を折られたこともあったが、1977年8月に「スーパー・デストロイヤー」のリングネームでプロデビューを果たした。以後、「テリー・ブルドー」「スターリング・ゴールデン」などのリングネームを用い、アラバマ、テネシー、ジョージアなど南部を転戦。彼の派手なコスチュームや金髪のロングヘアー、ボディビルダー系の肉体は、憧れたビリー・グラハムのコピー選手だった頃の名残である。テレビドラマ『超人ハルク』主演のルー・フェリグノと同じカメラに収まる機会があり、トップ・ボディビルダーのフェリグノより巨大なホーガンの肉体が評判となる。これを機会に超人ハルクにあやかりリングネームをハルク・ホーガンとする。その後、活躍によりギャラは幾分上がっていたとはいえ、プロモーターによる搾取に辟易していたホーガンは、将来を考えプロレスをやめ、故郷に戻った。

しかし試合を見ていたジャック・ブリスコと弟ジェリー・ブリスコに熱心にスカウトされ、WWF入りのきっかけをつかむ。(梶原一騎原作の漫画『プロレススーパースター列伝』では、アントニオ猪木対モハメド・アリをテレビ観戦して打倒猪木を志し、プロレス入りを決意したとされているが、これは梶原の創作)

WWF時代 I

1979年12月にニューヨークのMSGに初進出した。デビュー以来、フレッド・ブラッシーがマネージャーを務めておりWWF(現WWE)期待の星であった。アンドレ・ザ・ジャイアントの巨体に対抗できるヒールとしてメインイベントで活躍。 怪力ぶりを発揮して、デビュー戦から20数連勝という驚異的な成績を残したことから「マディソン・スクエア・ガーデンの奇跡」と評され、ホーガンの名を知らしめた。

新日本プロレス時代 I

1980年から1983年にかけて日本では、WWFと提携していた新日本プロレスを主戦場とする。1980年5月に新日本プロレスの「第3回MSGシリーズ」に参戦するため初来日。グリーンボーイとしての参戦だったが、当時は1955年生まれと称しており、金色のマントをまとい胸と背中に黒い剛毛を生やし、(まめに染めなかったせいで)髪の付け根も黒かった。にもかかわらず、自著では天然の金髪だと称している。

アントニオ猪木やタイガーマスク、さらにはスタン・ハンセンやアブドーラ・ザ・ブッチャーなどの外国人レスラーとも戦っている。日本初登場時の得意技はカリフォルニア・クラッシュ(アバランシュ・ホールド)だった。当時の新日マットではハンセンの陰に隠れた感は否めなかった。1981年9月に全日本プロレスへの移籍が発表されたことがあり、実際に同年5月にボビー・ダンカン経由テリー・ファンクの仲介で契約書を交わす段階にまで至った。しかしホーガンはそれを新日本に見せ、ギャラ吊り上げの交渉に使ったためご破算となったといわれている。その行動に怒ったテリーは京王プラザホテルでホーガンを殴り倒したとされているが、テリーは自伝で否定している。

ハンセンが全日本プロレスに移籍した後の1982年には、ウエスタン・ラリアットを模したアックスボンバー(片腕を90°に曲げ、ラリアットのように肘を相手に叩きつける技)を使うようになり、大ブレイクし、外人のエース格となった。なお、当時ホーガン自身はこの技を「ホーガンハンマー」と呼んでいたが定着せず、のちに自身も「アックスボンバー」と呼んでいる。

「世界中の王者の中から最強を決める」と銘打って新日本が1983年に開催した大会「IWGP決勝リーグ戦」に参加し、リーグ戦の結果、不動のエースアントニオ猪木と同点一位となった。そして1983/6/2に東京・蔵前国技館で行われた決勝戦で、アクシデントがあったこともあり、猪木をアックスボンバーで失神KOして病院送りにした事件は、伝説としてプロレスファンの記憶に残っている。当時、世界で最も売り上げの大きいプロレス団体で頂点に上り詰めることとなった。当時、右手人差し指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズは日本で話題になり、漢字で「一番」と書かれたタンクトップやTシャツ、ハッピも発売された。現在では"ICHIBAN"はNo.1を意味する語としてアメリカでも有名な日本語の1つとなった。

AWA時代

1981年からはアメリカでの拠点をAWAに移し、本国でもAWAのテリトリーだった北部では大ブレイクを果たした。AWA世界王者ニック・ボックウィンクルを相手に何度と無く「幻の勝利」を上げるも、AWAの社長だったバーン・ガニアは他のスポーツの実績もなく、単純なパワーファイターのホーガンの商品価値を過小評価しAWA世界王座を与えなかった。同じくビリー・グラハムに憧れたジェシー・ベンチュラとの抗争でも人気を博す。

彼の知名度を更に向上させたのが、1982年公開のアメリカ映画『ロッキー3』への出演である。ホーガンはプロボクサーのロッキー(シルヴェスター・スタローン)と戦う敵役のプロレスラー「サンダー・リップス」としてプロレス界以外でも有名になる。(本人によれば、1980年のWWF離脱の理由はビンス・マクマホン・シニアがこの出演を認めなかったからだという)。

WWF時代 II

1983年12月、シニアの後継者となるビンス・マクマホンにWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わす(AWA社長のバーン・ガニアはこの突然の引き抜き事件に激怒したという)。翌1984/1/23、アイアン・シークを下しWWF王座を初戴冠。シンディー・ローパーらと共にMTVに出演するようになると、その圧倒的なカリスマ性と単純だが分かり易い試合でプロレスファン以外の層にまで人気が爆発。1985年にレッスルマニアが開始されて以降は社会現象と呼べるほどの国民的人気を獲得した。このレッスルマニアという名称自体「レッスル」とハルクファンの「ハルカマニア」を足したホーガンのための大会だった。人気絶頂期に行われたアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決(1987年3月29日、WrestleMania III)では実に93,173人という観客動員数を記録している。以降、長期に渡りトップ・レスラーとして活躍してアメリカン・プロレスの象徴的な存在となると共に、プロレス自体の世界的な人気獲得に多大な貢献を果たした。その後さまざまな低予算映画に主演し俳優としても成功した。

1990年には日米レスリングサミットのため久々に来日し、ハンセンと大勝負をやる。1991年頃からは全盛期を過ぎたこととステロイド裁判もあり、ビンス・マクマホンとの間に亀裂が生じ始める。また引退して俳優への本格的な転向を計画し、撮影のため長期欠場が増え1993年には遂にWWFを退団。

新日本プロレス時代 II

1993年5月3日、8年ぶりに新日本マットに登場。福岡ドームでグレート・ムタと対戦した。この時、新日本プロレスはWCWと提携を結んでおり、現役WWFヘビー級王者であったホーガンが出るということは、考えられないことであった。またムタもIWGPヘビー級王者であったため、日米のトップ対決としても注目された。同年9/23には、横浜アリーナでムタと組み、ヘルレイザーズと対戦している。 1994年1月には藤波辰爾と対戦した。

WCW時代

連続テレビドラマを制作・主演していた1994年には、同じディズニー・ワールド内で収録していたWCWと契約した。WWF時代と同じく一貫してベビーフェイスとして活躍。しかし40歳を越えてもなお以前のような「無敵の超人」といったイメージを続けるのは難しくなり、本人も新たなキャラクターを求めた。1996年7月、ヒールに電撃転向してnWoを結成、ハリウッドを名乗る。これによってホーガンは選手としてのキャリアのリセットにも成功し、またnWoの大ヒットでWCWはWWFの人気を上回るようになっていく。ヒールサイドの主役として活躍し、WCW王座も何度となく獲得。1998年にはビル・ゴールドバーグとの歴史的超人対決で会場を沸かせた。nWo解散後は他のベテラン選手たちとともにミリオネアーズ・クラブなるユニットを結成したりもしたが、家族と過ごす時間が欲しいとの理由から2001年のWCW崩壊を前に離脱した。

嘗てのイエロー&レッドのコスチュームでジミー・ハートの旗揚げしたXWFという新団体にも上がったが、同団体もほどなく活動を停止した。

WWE復帰、リビング・レジェンド

2002年2月、ビンス・マクマホンの刺客nWoの一員としてヒールに戻りWWF(=WWE)に復帰する。WrestleMania X8で8年ぶりのレッスルマニア再登場を果たし当時の主役ザ・ロックとの頂上決戦が実現。WWE側は「悪の枢軸」nWo軍総帥ホーガンを絶対的ベビーフェース・ロックが迎え撃つというアングルを構成したものの、入場シーンからホーガンへの爆発的声援一色となり、ロックの方がブーイングを浴びる結果となった。この試合は「ICONvsICON」という試合タイトルに相応しい重厚な名勝負となり、ホーガンのハルクアップ・3パンチ・ビッグブーツ・レッグドロップというフィニッシュ・ムーヴをロックがキックアウトしたシーンは大歓声を浴びた。最後はロックがロック・ボトム2連発からピープルズ・エルボーでフォール勝ちを収めた。

ホーガンは試合後ロックに握手を求め、翌日からベビーフェイスに戻った。

同年7月4日の独立記念日には、エッジとのタッグで自身初のWWE世界タッグ王座を獲得。ブロック・レスナーとの対戦の後、一時団体を離脱するが、復帰した冬頃からSmackDown!にてビンスとの対決アングルが組まれ、WrestleMania XIXで対決し勝利する。

2003年5月にはミスター・アメリカというマスクマンに扮するも、その後ストーリーに不満を抱き同年6月にWWEを離脱する。

2003/10/13、新日本プロレス『ULTIMATE CRUSH』にワンマッチのみ参戦、蝶野正洋とシングルマッチを行った。

2005年4月、WWE殿堂入り(プレゼンターはシルヴェスター・スタローン)。またWrestleMania 21にてWWE再登場を果たした。7月にはRAWに正式に復帰して選手登録もされ、ショーン・マイケルズと抗争を繰り広げた。両者の戦いはサマースラムで決着。

2006年のサマースラムではランディ・オートンと対戦し勝利。次回の試合は2007年のWrestleMania 23でのストーン・コールド・スティーブ・オースチンとの夢の対決、あるいはアンドレ・ザ・ジャイアント戦20周年を記念したビッグ・ショーとの対戦が噂されていたが、実現しなかった。

TNAへの参戦

2007年4月、PMG Clash of Legendsに単発出場。その後は2009年10月27日、TNAと契約した。その直前にはエリック・ビショフらとともに新団体「ハルカマニア」立ち上げを発表、同年11月にオーストラリアで旗揚げ興行を開催した。

ミスターアメリカ

ハルク・ホーガンは2002年5月にWWEに復帰するが、その翌年にビンス・マクマホンによって出場停止にされてしまう。しかし、そのときにスマックダウンを救うためにひとりのマスクマンがさっそうと登場した。彼こそがミスターアメリカである。星条旗風のロングタイツ、そして中央に星をあしらったブルーのマスクが特徴的であった。

当初、ひげの生え方や見事にビルドアップされた筋肉、白いリストバンドをしていることなどから、その正体はハルク・ホーガンではないかと騒がれた。しかし、ビンス・マクマホンの手によって嘘発見器にかけられた際、「あなたはハルク・ホーガンですか?」との質問にネガティブの結果が出ていることからも、この噂は否定されている。なお、この際ビンス自ら嘘発見器にかかり、嘘発見器が故障してないことを証明している。

本人は「ハルク・ホーガンに憧れ、トレーニングをして十分なビタミンを摂取してこの身体を手に入れた」と語っている。なお、ハルク・ホーガンがWWEから離脱すると同時にミスター・アメリカも姿をくらませている。そしてビンス・マクマホンが「ミスターアメリカはハルクホーガンだったので解雇した」と番組で述べ、実際に素顔を見せている映像(テレビ放送終了後に来場したファンへのサービスとしてマスクを外していた。また、ギミックと関係なく実際にトラブルで解雇された)を流したことで、ミスターアメリカが登場するストーリーは終了している。

家族

久々に来日した2003/10/12に東京ドームホテルで記者会見が開かれ、その中で新日本とIWGPに対する熱い思いを語ったが、最近は新日本とWWEの関係が断絶されたことから、IWGPヘビー級王座への挑戦はおろか来日すらほとんどしなくなったが、2007/5/9、娘のブルック・ホーガン(インディーズレーベルから歌手デビューしている)の日本デビューのプロモートのために久々に来日。フジテレビの「魁!音楽番付」で試合以外では久し振りに日本のテレビ番組に登場した。さらには2007/5/10親子でGyaOのお昼の生放送番組に緊急生出演。5/11には笑っていいとも!にも生出演した。

2005年から2007年にかけて、人気リアリティ番組『Hogan Knows Best』に出演しており、ハルク本人はもちろん、妻のリンダ、娘のブルック、そして長男ニックを含めたホーガン一家の素顔が垣間見られる。左手薬指に結婚指輪のタトゥーを彫り、愛妻家として知られるホーガンだったが、2008年、娘ブルックの友人であるクリスティアーヌ・プランテがホーガンとの長年の不倫関係を告白。妻リンダとは離婚し、ブルックとクリスティアーヌの友情も崩壊した。離婚裁判により、リンダ夫人にほとんどの財産を奪われることとなる。

その他

  • 20代前半から髪が薄く、当初バンダナは「ハゲ隠し」だったが、次第にそれがファッションとなっていった。
  • 日本とアメリカでファイトスタイルを巧みに使い分けている。特に日本で試合をする際は意識的にグラウンドや密着技を多用し、腕ひしぎ逆十字固めなども使用し独特の入り方をみせる。これはホーガンが新日本の常連外国人だったころの名残であると思われる。この器用さが彼をトップスターにした要因の1つだと言われている。
  • 行動を共にしていたレスラーのブルータス・ビーフケーキはホーガンの弟とされていたが実際は血縁関係はなく、少年時代からの幼馴染である(ルーキー時代に兄弟タッグとして活動していたため、この誤解が生じたと考えられる。また、ビーフケーキが「エド・レスリー」の名で新日本プロレスに初来日した際には、会場売りのパンフレットに掲載されたプロフィールにも「ハルク・ホーガンの弟」という記載があった)。
  • 現役のプロレスラーの多くがホーガンのファンであるらしいが、レスリングの技術をセールスポイントにするプロレスラーの中には、ジレンマを感じる者も少なくないらしい。特に全盛期のライバル、ランディ・サベージとポール・オーンドーフのホーガン嫌いは有名である。
  • 1986年、WWFで日本からの輸入の形で活躍していたマシーン軍団(ジャイアント・マシーン=アンドレ・ザ・ジャイアント、スーパー・マシーン=マスクド・スーパースター、ビッグ・マシーン=ブラックジャック・マリガン、パイパー・マシーン=ロディ・パイパー、クラッシャー・マシーン=クラッシャー・リソワスキー)に加入し、ハルク・マシーンとしてMSG定期戦に出場したことがある。なお、名前段階から正体はバレバレだが、入場の際、被ってきたマスクの上に「ハルカマニア」の赤いバンダナを巻いてきたり、ハルクアップを披露するなど、バカバカしさを追求しており、後のミスター・アメリカ・ギミックの際、「あの時と一緒」と見たマニアも存在した。
  • 1990年末〜1992年にかけては日立のエアコン「白くまくん」のCMに「ホソナガおじさん」として登場した。
  • 「キン肉マン」の登場人物ネプチューンマンのモデルの一人である。
  • 1980年代の『コミックボンボン』(講談社)にてホーガンをモデルにしたギャグ漫画、『やっぱ!アホーガンよ』(作・画:柴山みのる)が連載されていた。
  • エレクトリックベースのテクニックもなかなかの物だという。
  • アラン・ファンクがハルクの容姿・ファイトスタイルを真似たオマージュレスラーだが、ハルクと比べかなり小柄である。
  • ステロイド剤の使用を認めている。

入場曲

  • Real American / Rick Derringer
  • Voodoo Child (slight return) / Jimi Hendrix
    エアギターをしながら入場する
  • AMERICAN MADE / HULK HOGAN and The Wrestling Boot Band
  • Eye of The Tiger / Surviver
  • Ravishing / Bonnie Tyler
  • Theme From "Battlestar Galactica" / Maynard Ferguson
    新日本プロレス参戦時代に使用。

  • 一番 (ミニ・アルバム(12インチLP))(1983年)

CharのバンドPINK CLOUDによる演奏と自身の歌とBass演奏(共演)

テレビドラマ

  • 特攻野郎Aチーム 必殺! 最後の大血戦(1985年、アメリカ) - 本人役で出演。このエピソードの中ではミーン・ジーン・オーカランドがインタビュアーとして出演していたり、WWF(当時)のロゴが出てくるなど完全な本人役である。ただしベトナム戦争に参加した過去があるという設定はフィクションであると思われる。

映画

  • ロッキー3(1982年、アメリカ) - サンダー・リップス役
  • ゴールデンボンバー(1989年、アメリカ)
  • グレムリン2 新・種・誕・生(1990年、アメリカ)
  • マイホーム・コマンドー(1991年、アメリカ)
  • Mr.ベビーシッター(1993年、アメリカ)
  • スパイ・ハード(1996年、アメリカ)
  • クロオビ・キッズ メガ・マウンテン奪回作戦(1998年、アメリカ)
  • デストロイヤー(1998年、アメリカ)
  • トレジャー・ミッション 破壊島(1998年、アメリカ)
  • ゴンゾ宇宙に帰る(1999年、アメリカ)

 
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保永 昇男
1955/8/11

日本の元プロレスラー。東京都足立区出身。拓殖大学北海道短期大学卒業。現在はリキプロ所属のレフェリー。えり足を伸ばし、刈り込みの入った金髪のパンチパーマがトレードマーク。現役時代は終始スポットライトの当たる選手では無かったが、独自のプロレス感と対戦相手を引き立てる技術で試合を作り上げる職人レスラーであった。

経歴

デビュー - ジャパンプロレス時代

拓殖大学北海道短期大学卒業後、東京へ戻り全日本プロレスの入門テストを受けるも不合格となる。植木屋に勤めながらボディビルで体を鍛え、1979年4月に新日本プロレスへ入門。1980/4/25に後楽園ホールの斎藤弘幸戦でプロデビュー。

1982年11月にメキシコ武者修行に旅立ち、ヒロ斎藤、平田淳二らと行動を共にする。

1984年3月に帰国。しかしメキシコで体調を崩し、さらには高田ら後輩の台頭もあり、低迷。

1984年9月、ジャパンプロレスへ合流して長州力らと全日本プロレスに参戦。

1985年当時アジアタッグ王座を保有していたアニマル浜口が負傷欠場したため、寺西勇が代理パートナーとして保永を指名しアジアタッグ王者となる。10/14、石川敬士&渕正信組を破り初防衛に成功したが、10/31、石川敬士&マイティ井上組に敗れ王座転落。

ジャパンプロレス崩壊後

ジャパンプロレス崩壊後は新日本プロレスに出戻り、頭髪を金色に染めてヒロ斎藤・後藤達俊と共にブロンド・アウトローズを結成。後にスーパー・ストロング・マシーンを加えレイジング・スタッフと名を改める。保永自身はジュニアヘビー級のヒール選手としてライバルの獣神サンダー・ライガーらと激闘を繰り広げ、1991年にベスト・オブ・ザ・スーパージュニアの前身であるトップ・オブ・ザ・スーパージュニアでライガーを破り優勝。IWGPジュニアヘビー級王座決定戦を兼ねており同王座に初戴冠。5/25、ペガサス・キッドを相手に初防衛に成功。5/31、ライガーを相手に2度目の防衛に成功するも、6/12のリターン・マッチに敗れ王座転落。11/5、野上彰を破り、IWGPジュニアヘビー級王座に返り咲く。

1992/2/8、ライガーに敗れ王座転落。

1994/9/27、ワイルド・ペガサスを破り、3度目の王座獲得。6度の防衛を重ねる長期政権を築き、さらに11/18エル・イホ・デル・サントを破りUWA世界ウェルター級王座を獲得するなど、ライガーの負傷欠場や金本浩二、大谷晋二郎ら若手の台頭までの空白期の穴を埋めた。12/13大谷に敗れUWA世界ウェルター級王座から転落。

1995/2/19、金本に敗れIWGPジュニアヘビー級王座からも転落、さらに9/22、試合中に右足のアキレス腱を断裂し長期欠場。

1996/5/23、小山ゆうえんち大会で復帰。この頃から金髪も黒髪に戻し、かつてのライバルであるライガーやエル・サムライらと共闘し、金本、大谷、高岩ら若手の壁となって試合を行うことが増える。ライガー&サムライ&保永組vs金本&大谷&高岩組の6人タッグマッチにおいて、主に金本から執拗に攻撃を受けたサムライが激昂し、場外でも金本を追いかけ回すなど、試合が成立しなくなったことがあったがその際もヒートアップするサムライ、金本、大谷、高岩とそれを自身も激昂しながら止めようとするライガーを尻目に、保永は「止めろサムライ、止めろ」と一人冷静であったりと、ヒールともベビーフェイスともとれない立場となっていく。

1998/4/30、後楽園ホール大会で引退試合を行う。ライガーと対戦し敗れるも、ライガー戦直後に番外試合として6人タッグマッチを行い高岩竜一から勝利を飾る。

引退後

引退後はレフェリーへ転向。レフェリーとしてのデビューは1998/5/16、松戸市運動公園体育館で行われた中西学&小島聡組vs平田淳嗣&安田忠夫組戦。(過去にパキスタンなどの海外遠征時には現役選手でありながら、レフェリーを勤めた経験もある。)当初はぎこちないレフェリングで観客から声が上がったり、元レスラーであるにもかかわらず、試合中レスラーと衝突しただけでしばらく倒れているなどの場面が見受けられたが、元レスラーであることを活かし、相手選手がロープブレイクをしているのに、腕ひしぎ逆十字固めを放そうとしないケンドー・カ・シンに対しストンピングを連発して“保永コール”を巻き起こすなど、レフェリー保永昇男としてのエピソードを残す。

以降はジュニア戦線を中心にレフェリングを行い、2003年、WJプロレスに移籍。WJの惨状を見かねて、佐々木健介に助言し、佐々木のWJ離脱、フリー転出にも関与したとされる。

2004年WJ崩壊と共にリキプロへと移籍。レフェリーのほか、「あの人ほど怒らせたら怖い人はいなかった。喧嘩をしたくない相手だよね。」、「普段は良き相談役だがプロレスに対する目は非常に厳しい。よくしょっぱい試合をした若手が試合後に殴られていたよ。」と、かつての盟友、後藤達俊が自身のブログで語っているように、現在でも若手選手のコーチや相談役としてその手腕をいかんなく発揮している。

タイトル歴

全日本プロレス
  • アジアタッグ王座(&寺西勇)(第41代)
新日本プロレス
  • IWGPジュニアヘビー級王座(第14代・17代・22代)
  • UWA世界ウェルター級王座(第23代)
  • 第2回トップ・オブ・ザ・スーパージュニア優勝

入場テーマ曲

  • 竜人戦線 - レイジング・スタッフ時代に使用
  • God Bird Change(Al Di Meola)





コンドル斉藤
1967/8/11

日本の元・女子プロレスラー、イラストレーター、実業家。大阪府守口市出身。本名は斉藤 真知子

経歴

1984年
  • 全日本女子プロレス入門。
  • 7/21、デビュー戦が行われ永堀一恵に勝つ。
1985年
  • ダンプ松本率いる極悪同盟の一員となる。
  • 6/29、リングネームを本名の斉藤真知子からコンドル斉藤に改名。
  • 9/8、永堀一恵との同期タッグでの試合が組まれ一年先輩の小倉由美・小松美加組から勝利。
1986年
  • 1/4、王座決定戦で永堀一恵を破り全日本ジュニア王座奪取。
  • 1/5、長与千種の負傷欠場により急遽WWWA世界タッグ王座決定戦が行われブル中野と組み山崎五紀・立野記代組と対戦するも王座奪取ならず。
  • 2/15、全日本タッグ初代王座決定リーグ戦を全勝で決勝戦に進出するも小倉由美・永堀一恵組に破れ王座奪取ならず。
  • 3/20、全日本ジュニアの初防衛戦で宇野久子に破れ王座転落。
  • 8/4、永堀一恵との同期タッグで山崎五紀・立野記代組と対戦するも敗れる。
  • 8/21、小松美加・永友香奈子組の保持する全日本タッグ王座に石黒泰子と組み挑戦するも引き分けで王座奪取ならず。
  • 12/6、極悪同盟の一員として出場していたチーム対抗戦の決勝が行われニューヨーカーズを破り優勝。
1987年
  • 1/9、永堀一恵との同期タッグで宇野久子・堀田祐美子組と対戦。結果は引き分け。
  • 8/5、若手だけの興行、未来闘争 IN 後楽園 〜プレリュード〜が開催され永堀一恵との同期タッグでメインを張るも堀田祐美子・鈴木美香組に敗れる。
  • 10/11、タッグリーグ・ザ・ベスト'87でクラッシュギャルズとの同点決勝に進出するも破れ準優勝(パートナーはブル中野)。
  • 10/20、小倉由美・永堀一恵組の保持するWWWA世界タッグ王座に挑戦しブル中野とのコンビで王座を奪取し第85代WWWA世界タッグ王座に就く。
  • 12/14、1987年度全日本女子プロレス大賞授与式が行われ技能賞を獲得。
1988年
  • 1/5、WWWA世界タッグ王座の初防衛戦が行われ堀田祐美子・西脇充子組と対戦し両軍入り乱れてのノーコンテストとなり王座はコミッショナー預りとなる。
  • 2/28、ダンプ松本の引退試合でブル中野と組み変則マッチで対戦する。
  • 4月、前年暮れからの肩の怪我で負傷欠場が多くなりドクターストップがかかり引退を決意。
  • 5/15、同期の永堀一恵とともに引退セレモニーが行われる。
2005年
  • 8/26、後楽園ホールで行われたLLPWの「立野記代25周年記念バトルロイヤル」にOGとして参加。
2009年
  • 8/3、ネットラジオ番組「宇津雄一の宇宙一ラジオ」(オンエアーステーション)にゲスト出演した。
  • 8/27、新宿にショットバー「C#」をオープンさせた。
2010年
  • コンドルが代表取締役のイラスト・デザイン会社で、株式会社プリンテックランドを設立する。
2011年
  • 2/8、「C#」を閉店して、中野区に野球居酒屋『野球塾』をオープンさせた。

悪同盟のメイクを担当していた経歴を活かし、引退後はイラストレーターとして各媒体で活躍中(全女在籍中時も漫画の連載を行なっていたほどだった)。

現在もイラストレーター、居酒屋の仕事と並行してダンプ松本のプロレス試合時にはダンプの片腕として極悪同盟のセコンド、メイク等を担当している。

タイトル歴

  • 全日本ジュニア王座





ヘッドハンターA
ヘッドハンターB
1968/8/11

本名 マヌエル・サンチアゴ Manuel Santiagoと本名 ヴィクトル・サンチアゴ Victor Santiago)の双子の黒人プロレスラーで構成される。両者ともプエルトリコ出身で、全盛時の体格は180センチ、150キロ。日本やプエルトリコで活動した。両者とも似たコスチュームを着用し、ファイトスタイルも似ているため、見分けるのが難しい。

巨体の割に身軽な動きもできたため人気を集め、複数の団体でタイトルを獲得している。

来歴

1987年デビュー。1992年W★INGプロモーション参戦で初来日。早速W★ING認定世界タッグ王座を獲得し第一線に躍り出る。同団体の崩壊まで活動。1993年にはECWにも参戦し、同団体のタッグ王座も獲得した。

1995年にはビクター・キニョネスが創設したIWA・JAPANに転戦。同団体のデスマッチ戦線で大きな活躍を遂げた。世界初のガラスデスマッチで中牧昭二・小野浩志組と戦ったのもヘッドハンターズである。IWA世界タッグ王座も獲得した。

1996年にはFMWに移り、ここでも世界ブラスナックルタッグ王座、世界ストリートファイト6人タッグ王座を獲得した。

このようにインディーズの世界ではタッグ試合のエキスパートとして活躍したものの、WWE(1996年ロイヤルランブル、1997年)、全日本プロレス(1998年世界最強タッグ決定リーグ戦出場)といったメジャー団体では特筆すべき成績を挙げていない。

2000年代には両者ともコンディションを崩したため(松永光弘によれば糖尿病とのこと)、メキシコやアメリカのインディー団体への散発的な参戦に留まっているが、2007年にはハッスルに参戦した。


  



飯田覚士
1969/8/11

日本の元プロボクサー。愛知県名古屋市出身。緑ボクシングジム所属。元WBA世界スーパーフライ級(旧ジュニアバンタム級)王者。

人物

愛知県立大府東高等学校、岐阜経済大学経済学部卒。

大学在学中の1990年にバラエティ番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の企画「ボクシング予備校」に参加し渡辺二郎・渡嘉敷勝男の指導受けた。甘いマスクで人気を博す。

こうした経緯から人気先行ボクサーと目され、整った顔立ちで「アイドルボクサー」の風評に悩まされるが、熱心な練習と科学的トレーニングにより世界 王者にまで登りつめた。緑ジム関係者は当時の飯田について「パワー、スピード、テクニックに目を見張るものはなかったが、とにかく頭のいいボクサーだっ た」と語っている。

現役引退後は、子供向けボクシング教室を開設して底辺拡大に励みつつ、舞台で活躍する等、芸能活動にも勤しんでいる。

JNN系列・CBCのボクシング中継で、解説者として出演することもある。また、ボクシング専門誌『ボクシング・ビート』では、旧名の『ボクシング・ワールド』時代から毎月、内藤大助、ファイティング原田などの新旧有名ボクサーをはじめ、漫画家の森川ジョージ、俳優の速水もこみちなどのボクシングファンとも積極的に対談を行っている。

2006年11月、元世界王者の輪島功一、渡嘉敷、玉熊幸人、戸高秀樹らとともに、元ボクサー・袴田巌が起こしたとされている袴田事件の再審を求める要請書を最高裁判所に提出。袴田の無罪獲得・冤罪認定のため活動を続けている。






窪田幸生
1977/8/11

坂口道場。小学校(柔道)→中学(柔道)→高校(柔道・3年時、71kg以下級県大会3位)→パンクラス(1996年12月~)→パンクラス横浜道場
→パンクラスism→和術慧舟會 GODS→フリー













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