ハルク・ホーガン
Hulk Hogan
1953/8/11
アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はテリー・ジーン・ボレア(Terry
Gene Bollea)。ジョージア州オーガスタ生まれ、フロリダ州タンパ出身。
今でもアメリカでは伝説的な存在であり、現在のWWEで活躍するプロレスラーの中にも熱狂的なファンが多数いると言われる(現在、TNAに所属)。ベビーフェイスとしてもヒールとしても頂点を極め、プロレス史上最も成功したレスラーと言われている。ニックネームは超人、リアル・アメリカン、ハリウッドなど。
息子のニコラスもプロレスラー志望であるという。娘のブルック・ホーガン(Brooke
Hogan)は、セクシー路線の歌手としてアメリカで活動している。甥のホレス・ホーガン(マイク・ボレア)もプロレスラー。
ジャック・ブリスコのようなアマチュアレスリングテクニックはないが、2m級の巨体の割にすばやく器用な動きもできることは画期的であった。観客の心を掴む演技やパフォーマンスは抜群で、彼こそスポーツ・エンターテイメントを体現しているプロレスラーであると言える。
来歴
自著によると少年時代は圧倒的な体格を生かし、リトルリーグ(野球)でホームランを打っていたが、太りすぎており足が遅く他のスポーツは苦手で女性にはもてなかった。高校時代にボディビルディングで体を鍛え、南フロリダ大学時代から「ラッカス」というロックバンドのベーシストで活躍し、配管工の父親より稼ぎが多くなる。
スーパースター・ビリー・グラハムの体格に憧れ、生の試合を見て、プロレスは格闘技ではなくWorkであることを見抜いた。このことにより、ロックバンド時代に得意だった観客とのやり取りの才覚を生かせばこの業界でスターになれることを確信したホーガンはプロレス入りを決意したがグラハムには弟子入りを断られる。短大を中退し、プロレス界に入るため、わずかな伝を頼りにヒロ・マツダに会うが、当初はレスラーになるのをあきらめさせるため、ひどいいじめやしごきを受け、足を折られたこともあったが、1977年8月に「スーパー・デストロイヤー」のリングネームでプロデビューを果たした。以後、「テリー・ブルドー」「スターリング・ゴールデン」などのリングネームを用い、アラバマ、テネシー、ジョージアなど南部を転戦。彼の派手なコスチュームや金髪のロングヘアー、ボディビルダー系の肉体は、憧れたビリー・グラハムのコピー選手だった頃の名残である。テレビドラマ『超人ハルク』主演のルー・フェリグノと同じカメラに収まる機会があり、トップ・ボディビルダーのフェリグノより巨大なホーガンの肉体が評判となる。これを機会に超人ハルクにあやかりリングネームをハルク・ホーガンとする。その後、活躍によりギャラは幾分上がっていたとはいえ、プロモーターによる搾取に辟易していたホーガンは、将来を考えプロレスをやめ、故郷に戻った。
しかし試合を見ていたジャック・ブリスコと弟ジェリー・ブリスコに熱心にスカウトされ、WWF入りのきっかけをつかむ。(梶原一騎原作の漫画『プロレススーパースター列伝』では、アントニオ猪木対モハメド・アリをテレビ観戦して打倒猪木を志し、プロレス入りを決意したとされているが、これは梶原の創作)
WWF時代 I
1979年12月にニューヨークのMSGに初進出した。デビュー以来、フレッド・ブラッシーがマネージャーを務めておりWWF(現WWE)期待の星であった。アンドレ・ザ・ジャイアントの巨体に対抗できるヒールとしてメインイベントで活躍。
怪力ぶりを発揮して、デビュー戦から20数連勝という驚異的な成績を残したことから「マディソン・スクエア・ガーデンの奇跡」と評され、ホーガンの名を知らしめた。
新日本プロレス時代 I
1980年から1983年にかけて日本では、WWFと提携していた新日本プロレスを主戦場とする。1980年5月に新日本プロレスの「第3回MSGシリーズ」に参戦するため初来日。グリーンボーイとしての参戦だったが、当時は1955年生まれと称しており、金色のマントをまとい胸と背中に黒い剛毛を生やし、(まめに染めなかったせいで)髪の付け根も黒かった。にもかかわらず、自著では天然の金髪だと称している。
アントニオ猪木やタイガーマスク、さらにはスタン・ハンセンやアブドーラ・ザ・ブッチャーなどの外国人レスラーとも戦っている。日本初登場時の得意技はカリフォルニア・クラッシュ(アバランシュ・ホールド)だった。当時の新日マットではハンセンの陰に隠れた感は否めなかった。1981年9月に全日本プロレスへの移籍が発表されたことがあり、実際に同年5月にボビー・ダンカン経由テリー・ファンクの仲介で契約書を交わす段階にまで至った。しかしホーガンはそれを新日本に見せ、ギャラ吊り上げの交渉に使ったためご破算となったといわれている。その行動に怒ったテリーは京王プラザホテルでホーガンを殴り倒したとされているが、テリーは自伝で否定している。
ハンセンが全日本プロレスに移籍した後の1982年には、ウエスタン・ラリアットを模したアックスボンバー(片腕を90°に曲げ、ラリアットのように肘を相手に叩きつける技)を使うようになり、大ブレイクし、外人のエース格となった。なお、当時ホーガン自身はこの技を「ホーガンハンマー」と呼んでいたが定着せず、のちに自身も「アックスボンバー」と呼んでいる。
「世界中の王者の中から最強を決める」と銘打って新日本が1983年に開催した大会「IWGP決勝リーグ戦」に参加し、リーグ戦の結果、不動のエースアントニオ猪木と同点一位となった。そして1983/6/2に東京・蔵前国技館で行われた決勝戦で、アクシデントがあったこともあり、猪木をアックスボンバーで失神KOして病院送りにした事件は、伝説としてプロレスファンの記憶に残っている。当時、世界で最も売り上げの大きいプロレス団体で頂点に上り詰めることとなった。当時、右手人差し指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズは日本で話題になり、漢字で「一番」と書かれたタンクトップやTシャツ、ハッピも発売された。現在では"ICHIBAN"はNo.1を意味する語としてアメリカでも有名な日本語の1つとなった。
AWA時代
1981年からはアメリカでの拠点をAWAに移し、本国でもAWAのテリトリーだった北部では大ブレイクを果たした。AWA世界王者ニック・ボックウィンクルを相手に何度と無く「幻の勝利」を上げるも、AWAの社長だったバーン・ガニアは他のスポーツの実績もなく、単純なパワーファイターのホーガンの商品価値を過小評価しAWA世界王座を与えなかった。同じくビリー・グラハムに憧れたジェシー・ベンチュラとの抗争でも人気を博す。
彼の知名度を更に向上させたのが、1982年公開のアメリカ映画『ロッキー3』への出演である。ホーガンはプロボクサーのロッキー(シルヴェスター・スタローン)と戦う敵役のプロレスラー「サンダー・リップス」としてプロレス界以外でも有名になる。(本人によれば、1980年のWWF離脱の理由はビンス・マクマホン・シニアがこの出演を認めなかったからだという)。
WWF時代 II
1983年12月、シニアの後継者となるビンス・マクマホンにWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わす(AWA社長のバーン・ガニアはこの突然の引き抜き事件に激怒したという)。翌1984/1/23、アイアン・シークを下しWWF王座を初戴冠。シンディー・ローパーらと共にMTVに出演するようになると、その圧倒的なカリスマ性と単純だが分かり易い試合でプロレスファン以外の層にまで人気が爆発。1985年にレッスルマニアが開始されて以降は社会現象と呼べるほどの国民的人気を獲得した。このレッスルマニアという名称自体「レッスル」とハルクファンの「ハルカマニア」を足したホーガンのための大会だった。人気絶頂期に行われたアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決(1987年3月29日、WrestleMania
III)では実に93,173人という観客動員数を記録している。以降、長期に渡りトップ・レスラーとして活躍してアメリカン・プロレスの象徴的な存在となると共に、プロレス自体の世界的な人気獲得に多大な貢献を果たした。その後さまざまな低予算映画に主演し俳優としても成功した。
1990年には日米レスリングサミットのため久々に来日し、ハンセンと大勝負をやる。1991年頃からは全盛期を過ぎたこととステロイド裁判もあり、ビンス・マクマホンとの間に亀裂が生じ始める。また引退して俳優への本格的な転向を計画し、撮影のため長期欠場が増え1993年には遂にWWFを退団。
新日本プロレス時代 II
1993年5月3日、8年ぶりに新日本マットに登場。福岡ドームでグレート・ムタと対戦した。この時、新日本プロレスはWCWと提携を結んでおり、現役WWFヘビー級王者であったホーガンが出るということは、考えられないことであった。またムタもIWGPヘビー級王者であったため、日米のトップ対決としても注目された。同年9/23には、横浜アリーナでムタと組み、ヘルレイザーズと対戦している。
1994年1月には藤波辰爾と対戦した。
WCW時代
連続テレビドラマを制作・主演していた1994年には、同じディズニー・ワールド内で収録していたWCWと契約した。WWF時代と同じく一貫してベビーフェイスとして活躍。しかし40歳を越えてもなお以前のような「無敵の超人」といったイメージを続けるのは難しくなり、本人も新たなキャラクターを求めた。1996年7月、ヒールに電撃転向してnWoを結成、ハリウッドを名乗る。これによってホーガンは選手としてのキャリアのリセットにも成功し、またnWoの大ヒットでWCWはWWFの人気を上回るようになっていく。ヒールサイドの主役として活躍し、WCW王座も何度となく獲得。1998年にはビル・ゴールドバーグとの歴史的超人対決で会場を沸かせた。nWo解散後は他のベテラン選手たちとともにミリオネアーズ・クラブなるユニットを結成したりもしたが、家族と過ごす時間が欲しいとの理由から2001年のWCW崩壊を前に離脱した。
嘗てのイエロー&レッドのコスチュームでジミー・ハートの旗揚げしたXWFという新団体にも上がったが、同団体もほどなく活動を停止した。
WWE復帰、リビング・レジェンド
2002年2月、ビンス・マクマホンの刺客nWoの一員としてヒールに戻りWWF(=WWE)に復帰する。WrestleMania X8で8年ぶりのレッスルマニア再登場を果たし当時の主役ザ・ロックとの頂上決戦が実現。WWE側は「悪の枢軸」nWo軍総帥ホーガンを絶対的ベビーフェース・ロックが迎え撃つというアングルを構成したものの、入場シーンからホーガンへの爆発的声援一色となり、ロックの方がブーイングを浴びる結果となった。この試合は「ICONvsICON」という試合タイトルに相応しい重厚な名勝負となり、ホーガンのハルクアップ・3パンチ・ビッグブーツ・レッグドロップというフィニッシュ・ムーヴをロックがキックアウトしたシーンは大歓声を浴びた。最後はロックがロック・ボトム2連発からピープルズ・エルボーでフォール勝ちを収めた。
ホーガンは試合後ロックに握手を求め、翌日からベビーフェイスに戻った。
同年7月4日の独立記念日には、エッジとのタッグで自身初のWWE世界タッグ王座を獲得。ブロック・レスナーとの対戦の後、一時団体を離脱するが、復帰した冬頃からSmackDown!にてビンスとの対決アングルが組まれ、WrestleMania
XIXで対決し勝利する。
2003年5月にはミスター・アメリカというマスクマンに扮するも、その後ストーリーに不満を抱き同年6月にWWEを離脱する。
2003/10/13、新日本プロレス『ULTIMATE CRUSH』にワンマッチのみ参戦、蝶野正洋とシングルマッチを行った。
2005年4月、WWE殿堂入り(プレゼンターはシルヴェスター・スタローン)。またWrestleMania 21にてWWE再登場を果たした。7月にはRAWに正式に復帰して選手登録もされ、ショーン・マイケルズと抗争を繰り広げた。両者の戦いはサマースラムで決着。
2006年のサマースラムではランディ・オートンと対戦し勝利。次回の試合は2007年のWrestleMania 23でのストーン・コールド・スティーブ・オースチンとの夢の対決、あるいはアンドレ・ザ・ジャイアント戦20周年を記念したビッグ・ショーとの対戦が噂されていたが、実現しなかった。
TNAへの参戦
2007年4月、PMG Clash of Legendsに単発出場。その後は2009年10月27日、TNAと契約した。その直前にはエリック・ビショフらとともに新団体「ハルカマニア」立ち上げを発表、同年11月にオーストラリアで旗揚げ興行を開催した。
ミスターアメリカ
ハルク・ホーガンは2002年5月にWWEに復帰するが、その翌年にビンス・マクマホンによって出場停止にされてしまう。しかし、そのときにスマックダウンを救うためにひとりのマスクマンがさっそうと登場した。彼こそがミスターアメリカである。星条旗風のロングタイツ、そして中央に星をあしらったブルーのマスクが特徴的であった。
当初、ひげの生え方や見事にビルドアップされた筋肉、白いリストバンドをしていることなどから、その正体はハルク・ホーガンではないかと騒がれた。しかし、ビンス・マクマホンの手によって嘘発見器にかけられた際、「あなたはハルク・ホーガンですか?」との質問にネガティブの結果が出ていることからも、この噂は否定されている。なお、この際ビンス自ら嘘発見器にかかり、嘘発見器が故障してないことを証明している。
本人は「ハルク・ホーガンに憧れ、トレーニングをして十分なビタミンを摂取してこの身体を手に入れた」と語っている。なお、ハルク・ホーガンがWWEから離脱すると同時にミスター・アメリカも姿をくらませている。そしてビンス・マクマホンが「ミスターアメリカはハルクホーガンだったので解雇した」と番組で述べ、実際に素顔を見せている映像(テレビ放送終了後に来場したファンへのサービスとしてマスクを外していた。また、ギミックと関係なく実際にトラブルで解雇された)を流したことで、ミスターアメリカが登場するストーリーは終了している。
家族
久々に来日した2003/10/12に東京ドームホテルで記者会見が開かれ、その中で新日本とIWGPに対する熱い思いを語ったが、最近は新日本とWWEの関係が断絶されたことから、IWGPヘビー級王座への挑戦はおろか来日すらほとんどしなくなったが、2007/5/9、娘のブルック・ホーガン(インディーズレーベルから歌手デビューしている)の日本デビューのプロモートのために久々に来日。フジテレビの「魁!音楽番付」で試合以外では久し振りに日本のテレビ番組に登場した。さらには2007/5/10親子でGyaOのお昼の生放送番組に緊急生出演。5/11には笑っていいとも!にも生出演した。
2005年から2007年にかけて、人気リアリティ番組『Hogan
Knows
Best』に出演しており、ハルク本人はもちろん、妻のリンダ、娘のブルック、そして長男ニックを含めたホーガン一家の素顔が垣間見られる。左手薬指に結婚指輪のタトゥーを彫り、愛妻家として知られるホーガンだったが、2008年、娘ブルックの友人であるクリスティアーヌ・プランテがホーガンとの長年の不倫関係を告白。妻リンダとは離婚し、ブルックとクリスティアーヌの友情も崩壊した。離婚裁判により、リンダ夫人にほとんどの財産を奪われることとなる。
その他
- 20代前半から髪が薄く、当初バンダナは「ハゲ隠し」だったが、次第にそれがファッションとなっていった。
- 日本とアメリカでファイトスタイルを巧みに使い分けている。特に日本で試合をする際は意識的にグラウンドや密着技を多用し、腕ひしぎ逆十字固めなども使用し独特の入り方をみせる。これはホーガンが新日本の常連外国人だったころの名残であると思われる。この器用さが彼をトップスターにした要因の1つだと言われている。
- 行動を共にしていたレスラーのブルータス・ビーフケーキはホーガンの弟とされていたが実際は血縁関係はなく、少年時代からの幼馴染である(ルーキー時代に兄弟タッグとして活動していたため、この誤解が生じたと考えられる。また、ビーフケーキが「エド・レスリー」の名で新日本プロレスに初来日した際には、会場売りのパンフレットに掲載されたプロフィールにも「ハルク・ホーガンの弟」という記載があった)。
- 現役のプロレスラーの多くがホーガンのファンであるらしいが、レスリングの技術をセールスポイントにするプロレスラーの中には、ジレンマを感じる者も少なくないらしい。特に全盛期のライバル、ランディ・サベージとポール・オーンドーフのホーガン嫌いは有名である。
- 1986年、WWFで日本からの輸入の形で活躍していたマシーン軍団(ジャイアント・マシーン=アンドレ・ザ・ジャイアント、スーパー・マシーン=マスクド・スーパースター、ビッグ・マシーン=ブラックジャック・マリガン、パイパー・マシーン=ロディ・パイパー、クラッシャー・マシーン=クラッシャー・リソワスキー)に加入し、ハルク・マシーンとしてMSG定期戦に出場したことがある。なお、名前段階から正体はバレバレだが、入場の際、被ってきたマスクの上に「ハルカマニア」の赤いバンダナを巻いてきたり、ハルクアップを披露するなど、バカバカしさを追求しており、後のミスター・アメリカ・ギミックの際、「あの時と一緒」と見たマニアも存在した。
- 1990年末〜1992年にかけては日立のエアコン「白くまくん」のCMに「ホソナガおじさん」として登場した。
- 「キン肉マン」の登場人物ネプチューンマンのモデルの一人である。
- 1980年代の『コミックボンボン』(講談社)にてホーガンをモデルにしたギャグ漫画、『やっぱ!アホーガンよ』(作・画:柴山みのる)が連載されていた。
- エレクトリックベースのテクニックもなかなかの物だという。
- アラン・ファンクがハルクの容姿・ファイトスタイルを真似たオマージュレスラーだが、ハルクと比べかなり小柄である。
- ステロイド剤の使用を認めている。
入場曲
- Real American / Rick Derringer
- Voodoo Child (slight return) / Jimi Hendrix
エアギターをしながら入場する
- AMERICAN MADE / HULK HOGAN and The Wrestling Boot Band
- Eye of The Tiger / Surviver
- Ravishing / Bonnie Tyler
- Theme From "Battlestar Galactica" / Maynard Ferguson
新日本プロレス参戦時代に使用。
歌
- 一番 (ミニ・アルバム(12インチLP))(1983年)
CharのバンドPINK CLOUDによる演奏と自身の歌とBass演奏(共演)
テレビドラマ
- 特攻野郎Aチーム 必殺! 最後の大血戦(1985年、アメリカ) - 本人役で出演。このエピソードの中ではミーン・ジーン・オーカランドがインタビュアーとして出演していたり、WWF(当時)のロゴが出てくるなど完全な本人役である。ただしベトナム戦争に参加した過去があるという設定はフィクションであると思われる。
映画
- ロッキー3(1982年、アメリカ) - サンダー・リップス役
- ゴールデンボンバー(1989年、アメリカ)
- グレムリン2 新・種・誕・生(1990年、アメリカ)
- マイホーム・コマンドー(1991年、アメリカ)
- Mr.ベビーシッター(1993年、アメリカ)
- スパイ・ハード(1996年、アメリカ)
- クロオビ・キッズ メガ・マウンテン奪回作戦(1998年、アメリカ)
- デストロイヤー(1998年、アメリカ)
- トレジャー・ミッション 破壊島(1998年、アメリカ)
- ゴンゾ宇宙に帰る(1999年、アメリカ)
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