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テリー・テイラー
Terry Taylor
1955/8/12

ポール・W・テイラー3世Paul W. Taylor III)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、ブッカー。サウスカロライナ州グリーンビル出身。

ブッカーとしての才能をビンス・マクマホンやダスティ・ローデスに認められ、現役引退後の1995年からはクリエイティブ・スタッフの立場でWWEとWCWを股にかけて活動、マンデー・ナイト・ウォーズが激化していた両団体のバックステージで辣腕を振るった。

近年はTNAにてタレント・リレーション部門の取締役を務めている。

来歴

エディ・グラハムにスカウトされ、1979年にNWAフロリダ地区のFCWにてデビュー。以降、中西部のNWAセントラル・ステーツ、アラバマのSECW、テネシーのCWA、ジョージアのGCWなどを転戦し、各地のローカル・タイトルを獲得。1981/6/7にはレス・ソントンを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座にも載冠している。

1983年頃よりビル・ワットが主宰するミッドサウス地区のMSWAに定着。金髪の二枚目ベビーフェイスとして女性の人気を集め、1984年6月にはクラッシャー・クルスチェフからミッドサウスTV王座を、1985年3月にはテッド・デビアスから北米ヘビー級王座を奪取した。1986年にMSWAが団体名をUWFと改称してからも、主力フェイスとしてデビアスやバズ・ソイヤーらと抗争。1987/2/7に行われたUWF世界タッグ王座決定トーナメントにはクリス・アダムスと組んで出場し、決勝で若手時代のスティング&リック・スタイナーを破りチャンピオン・チームとなった。UWFがNWAのジム・クロケット・プロモーションズに買収されると、1987/11/26の『スターケード』にてニキタ・コロフとUWFとNWAの両TV王座統一戦を行い、この試合に敗れたことを機にNWAを離脱。

その後、テキサス州ダラスのWCCWを経て、1988年にデビアスの仲介でWWF(現・WWE)へ移籍する。ミッドサウス時代と同様にベビーフェイスの "スケアリー" テリー・テイラー"Scary" Terry Taylor)として登場したが、同年下期よりレッド・ルースターThe Red Rooster)を名乗ってヒールに転向。ボビー・ヒーナン率いるヒーナン・ファミリーの一員となり、11/24の『サバイバー・シリーズ』ではハルク・ホーガン&ランディ・サベージのチームと対戦した。翌1989/1/7の『サタデー・ナイト・メイン・イベント』でヒーナンと仲間割れしてベビーフェイスに戻るが、ミッドカードのポジションからオーバーすることはできず、1990年の初頭にWWFを退団。

WWF離脱後の1990年7月、全日本プロレスに初来日。同年下期よりWCWに参戦し、ヒールとして女性マネージャーのアレキサンドラ・ヨーク率いるヨーク・ファウンデーションに加入する。1992/2/17にはグレッグ・バレンタインとのコンビでロン・シモンズ&ビッグ・ジョッシュからWCW USタッグ王座を奪取した。同年8月には新日本プロレスの『G1クライマックス』に来日し、NWA世界ヘビー級王座決定トーナメントに出場している。

帰国後の1992年9月、"テリフィック" テリー・テイラー"Terrific" Terry Taylor)の名でWWFに復帰。ヒールのカラー・コメンテーターも兼任したが、翌1993年8月にWCWに戻り、ベビーフェイスの中堅として1994年まで在籍。その後、シカゴのAWFを経て、1995年に現役を引退してブッカーとしてWCWに復帰。エリック・ビショフやケビン・サリバンらと共に、『マンデー・ナイトロ』のシナリオ作成を担当した。

以降、ブッカーやライターなどクリエイティブ・スタッフとしてWCWとWWFを行き来し、ライバル関係にあった両団体の番組構成(WCWの『マンデー・ナイトロ』とWWFの『ロウ・イズ・ウォー』)に横断的に携わるようになる。1998年から1999年にかけてはアティテュード路線最盛期のWWFに所属していたが、2000年よりシナリオ・ライターのビンス・ルッソーらと共にWCWに復職。2001年3月のWCW崩壊後はカナダ・オンタリオ州のBorder City Wrestlingに参画した。

2002年9月より『スマックダウン』のロード・エージェントとしてWWEに迎えられたものの、翌2003年7月に解雇。以降はTNAを中心に活動している。2004年1月にはIWAジャパンに来日した。

獲得タイトル

SECW
  • NWAサウスイースタンTV王座:1回
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回
GCW
  • NWAナショナルTV王座:1回
セントラル・ステーツ
  • NWAセントラル・ステーツTV王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ブルドッグ・ボブ・ブラウン)
CWA
  • AWA南部ヘビー級王座:3回
  • AWA南部タッグ王座:1回(w / スティーブ・カーン)
  • CWAインターナショナル・ヘビー級王座:2回
  • CWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:1回
MSWA / UWF
  • ミッドサウス北米ヘビー級王座:1回
  • ミッドサウスTV王座:2回
  • UWF世界タッグ王座:2回(w / ジム・ドゥガン、クリス・アダムス)
  • UWF世界TV王座:2回
WCCW
  • WCWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • WCWA世界タッグ王座:1回(w / アイスマン・キング・パーソンズ)
WCW
  • WCW世界6人タッグ王座:1回(w / トーマス・リッチ&リチャード・モートン)
  • WCW USタッグ王座:1回(w / グレッグ・バレンタイン)
その他
  • NWA世界ジュニアヘビー級王座:1回
  • BCWカンナム・タッグ王座:1回(w / サイラス)

 
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北尾 光司
1963/8/12

三重県津市出身で立浪部屋所属の元大相撲力士で第60代横綱・双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)、元プロレスラー、元総合格闘家、元スポーツ冒険家。現在は大相撲立浪部屋のアドバイザー、ナイフ評論家。

略歴

大相撲力士としては、いわゆる「花のサンパチ組」の一人だった。優勝制度成立後の横綱としては唯一幕内優勝経験がなく、稽古嫌いでも知られ、千代の富士のみによる長年の一人横綱状態を打破するために、不適格ながら横綱に昇進したとして「仮免横綱」とも揶揄された。1987年12月、師匠の立浪親方(関脇・安念山治)との意見の相違などから廃業。

後にスポーツ冒険家、プロレスラー、総合格闘家、実業家と転身した。大相撲現役当時、PC-9801を使うパソコン・マニアとして有名であった。ナイフのコレクターとしても現役時代から知られ、引退後、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」にコレクションを出品したことがある。当時の流行語にあやかって「新人類横綱」とも呼ばれた。

現在は部屋付きアドバイザーという形で角界に出戻りし活動している(ただし日本相撲協会所属ではない)。

人物

大相撲時代

横綱昇進時に付けられた四股名の「双羽黒」は、「双葉山」と「羽黒山」という、立浪部屋が生み出した2人の大横綱の四股名からで、当時の春日野理事長(横綱・栃錦)が名付け親である。しかしこの名前は明らかに不自然で評判が悪く、ある時は「『羽黒』は稽古が嫌いだった元大関の『若羽黒』から、『双』はその若羽黒の倍以上に稽古をしないという意味だ」と、当時やくみつるの四コママンガで揶揄されたこともあった。また後日相撲雑誌で「第二候補の四股名(緑島)が別に存在し、そちらにしておけばもっと長く活躍できたかもしれない」とも言われている。後に北尾は「『素質の北尾・努力の保志』とレッテルを貼られて、稽古嫌いと言われたことは非常に心外だった。自分は一生懸命強くなろうと努力していたのに、誰も評価してくれなかった」と述べている。

なお大関時代以前は、ずっと本名の「北尾」で相撲を取っていた。本人は四股名を付けられるのを嫌がっていたと言われるが、横綱に昇進するに当たり本名のままでは問題があると説得されたらしい。なお横綱昇進後も本名のままだった力士は、大相撲の歴史上輪島ただ一人だけだが(帰化によって本名の変わった外国出身力士を除く)、双羽黒も改名届提出が横綱推挙式の後になったため、推挙状は「北尾」名義での発行となった。

恵まれた体格と素質は誰しもが認めるもので、実際大関までの昇進は比較的スムーズだった。しかし父親が建設会社の取締役で、一人息子として甘やかされて育ったためか、稽古が少しでも厳しいと「故郷へ帰らせてもらいます」が口癖で、また師匠も本人ではなく兄弟子に厳しい稽古を注意した。ひどい時は稽古をサボって喫茶店に行ったりもしたが、師匠が注意をしないため、誰も見て見ぬふりをしていた。さらに弟弟子に対するイジメまがいの行動(付き人をエアガンで撃って遊ぶなど)で、付き人が集団脱走・廃業した等と報道されたこともある。

大関(北尾)時代の1986年5月場所、小錦との取組で鯖折りで小錦の右膝を負傷させたが、小錦にとってはこの故障は引退までたたった。一度は小錦に軍配が上がったものの物言いが付き、取り直しとなったあげくに膝を負傷させられたという経緯がある。

1986年7月場所後、横綱審議委員会が開催され北尾の横綱昇進が討議された。北尾は直近の5月場所は12勝3敗で準優勝、7月場所は14勝1敗で優勝同点(優勝決定戦で千代の富士に敗北)だった。横審では「優勝経験のない力士が横綱になるのはおかしい」「精神面に甘さがある」との意見が出た。稲葉修委員が最後まで反対したものの、結局横綱に推薦された。横綱推挙伝達式での口上は、「心技体の充実に心懸け、横綱の名に恥じぬよう一層稽古に精進致します」であった。なお横綱土俵入りの型は、短命のジンクスが有る「不知火型」を選択した(立浪部屋の先輩である横綱・羽黒山も不知火型だったため。指導は元横綱・琴櫻の佐渡ヶ嶽親方)。

ただ、優勝経験が一度もない北尾(双羽黒)が横綱に昇進できた背景には、当時横綱が千代の富士1人で東西に横綱が欲しいという相撲協会の事情と、同時期に保志(後の北勝海)の大関昇進が確定的で北尾を大関に据え置きにすると一横綱六大関になり非常にバランスの悪い番付構成になるという事情があったからと言える。

横綱昇進後は、合計3場所(1986年11月・1987年1月・1987年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの、3回いずれも最後は千代の富士に敗れて優勝は出来なかった。また当時の横綱陣の中で双羽黒が最高成績だったことが一度も無かったために、番付は必ず西の正横綱か東西の張出横綱に甘んじることになり、東の正横綱の座に双羽黒の名前が載ることは遂に無かった。

双羽黒が活躍した時代は千代の富士の全盛時代であったが、それでも対千代の富士戦は6勝8敗(横綱昇進後は2勝3敗)と健闘している。千代の富士自身も後年、朝日新聞のインタビューで「もし双羽黒が廃業していなかったら、自分は横綱の地位にこれだけ長く留まれていたのか、又その後の53連勝や通算1000勝も達成出来たかどうかはわからない」と、その素質と強さを認めるコメントを出している。

1987年12月27日、師匠である立浪親方とのいさかいから部屋を出奔、そのまま破門同然の廃業という事態になった。部屋の若い衆が「あんなちゃんこが食えるかと横綱(双羽黒)が言っている」と師匠にいいつけたことが発端とも言われている。立浪親方談では、双羽黒は立浪親方とちゃんこの味付けをめぐって大喧嘩、仲裁に入った後援会会長を殴るばかりか同部屋の女将にも怪我を負わせるという騒動を起こし、部屋を出ていってしまった。ただし、両者の言い分が全く食い違っていることと公的な告訴もなかったため、実際に殴ったり怪我を負わせたかどうかという信憑性については疑問の余地が全く無いわけではない。

双羽黒がマンションの一室に篭城中に立浪親方が廃業届を協会に提出、この事態を受け大晦日ぎりぎりの12/31に日本相撲協会緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業を決議した(破門・除名すべしとの意見もあったが、まだ24歳という青年の将来に配慮し、恩情的に廃業という形がとられた)。同日、双羽黒は記者会見を開き「相撲道の違いで師匠について行けない、自分を貫いた」と正式に廃業を発表した。既に発表されていた1988年1月場所の番付には、双羽黒の名が残っていたが、横綱在位数はわずか8場所(番付上では9場所)と、横綱在位場所数では琴櫻・三重ノ海と並ぶ最短記録2位タイの短命に終わった。

怪我や力の衰えで引退したのではなく、師匠と喧嘩したあげくの廃業ということもあって、世間の見方は厳しく同情論はほとんど聞かれなかったものの、著名人の中にも作家の野坂昭如などわずかではあったが双羽黒支持を表明した者たちもいた。翌年3月には東京都内のホテルで断髪式が行われたが、3月場所の直前ということもあって相撲協会関係者は一人も出席しなかった。止めばさみを入れたのは父親だった。

なお、双羽黒の廃業直後から、テレビや新聞を中心とするマスコミの報道では、殆ど北尾を一方的に悪者扱いする報道が一般的であった。後年、2010年1月場所後に第68代横綱・朝青龍が度重なる素行問題やトラブルの末に現役引退に追い込まれた際にも、過去例として双羽黒のケースを引用していたが、当時マスコミが報道した立浪親方の主張に基づいた内容と、後年に明らかになってきた事実との相違について、検証などはほぼ全く行われていない。

プロレスラー・総合格闘家時代

プロレス参戦まで

大相撲廃業後からプロレス入りまでの間は、ボクシングやアメフトなどからのオファーを断り、「スポーツ冒険家」という肩書きでタレント活動を行った。テレビや週刊誌等の取材にもよく応じており、曰く「相撲はビジネスの一つ。未練は全くない」とのことであった。「週刊プレイボーイ」「ビッグコミックスピリッツ」等で人生相談のコーナーなども持ち、「大相撲をやめたからプロレスにいくんだろうとか思っているかもしれないが、そんな安易な考えはない」と語っていた。

とはいえ「やはり北尾の進むべき道はプロレスしかない」という世間の見方は根強かった。そんななか、「スポーツ冒険家」の仕事で、アメリカのプロレスラー養成所のひとつ「モンスター・ファクトリー」を訪れる。そこで同行していた東京スポーツの取材に対し「(もしプロレスを)やるなら外人と同じように1シリーズごとに契約という形だね」と、初めてプロレス転向に色気を示す発言をした。その場は進展こそなかったが、この発言以降、急速にプロレスへと傾倒していく。

新日本参戦

そして1990/2/10、新日本プロレスの東京ドーム大会でプロレスデビューすることになる。「アメリカで数か月間、みっちり修行を重ねた」という触れ込みで帰国。その際にはルー・テーズの指導も受けており、北尾は「僕の(プロレスの)師匠(と呼べるの)はルーお父さん」と語っている。リングネームは自身で考えたサンダーストーム北尾で(実際には使われなかった)、対戦相手はクラッシャー・バンバン・ビガロ。入場時のテーマ曲は『超闘王のテーマ』で、デーモン小暮閣下による作曲。黄色いタンクトップをリング上で引き裂くパフォーマンスを見せ、デビュー戦を勝利で終えた。この試合でのフィニッシュ技はギロチン・ドロップ。

試合運びやパフォーマンスは世界的人気レスラーハルク・ホーガンを意識したものだったようだが、身のこなしや技の切れはまだまだプロレスラーとしての説得力には欠けており、勝利を得たのはスター候補生としての特別待遇からだと誰の目にも明らかだった(ちなみに北尾が力士時代に付けられたアダ名は「超人ハルク」だった)。それでいて自信満々の態度で入場し、相手を挑発し、勝利に意気揚々としているなど、あまりの勘違いっぷりからプロレスファンの失笑を買い「帰れ」コールが起きた。北尾の数年前に全日本プロレスでデビューした元横綱・輪島大士にも同様の特別待遇は見られたが、輪島は当時既に30代後半と体力的なピークは過ぎたとされており、また北尾のような勘違いした行動も見せなかったため、大相撲時代のファンから同情され温かい目で見守られる余地もあった。しかし北尾は20代半ばと若く、下積みの努力をすれば本格的なレスラーとしても通用するはずだと認識されていただけに、大相撲廃業時と同様に厳しい目に晒される結果となった。

それ以降も対戦相手に恵まれて勝ちはするものの、リング外での大口叩きやふてぶてしい態度、さらにはいつまで経っても「しょっぱい」ままで成長のない試合内容からプロレスファンの目は厳しかった。ほとんどの試合でブーイングや強烈な野次を浴びせられ、果ては対戦相手の二線級の外人レスラーに応援コールが沸き起こってしまう始末だった。本来ならば日本のエース選手にもなれる素質を持っていると見られているのに、日本のファンから見放され、完全にヒール扱いになってしまっていた。北尾がそれに不満そうな態度だったことも、ますますファンの反感を買う結果となった。当時、シングルCDとして発売された『超闘王のテーマ』のキャンペーンで中日スポーツの取材に応じた北尾は「自分の試合が速く終わるので、それが不満でブーイングが起きる」などと語っている。「技を受けない」「セルを取らない」北尾に対し、対戦レスラーは露骨に不満を現し、しばしばリング上で不穏な空気が流れた。

デビューは新日本プロレスだが、実際には所属レスラーではなくフリー選手扱いであり、程なくしてマッチメイカーの長州力と対立した。大相撲時代と同様に練習嫌いは直らず「今日は腰が痛い」といって練習をサボるようになり、長州に対し「この朝鮮人野郎」と民族差別発言をして、新日本プロレスから契約解除を言い渡された。ただし、北尾が辞める際には、北尾に坂口征二社長(当時)が同席しての記者会見が開かれ、表向きは円満退社のような扱いがなされた。その一方で、(「アームズ」という芸能事務所に所属してのフリーランス扱いだったとはいえ)待遇面に関しては、所属選手と同等の扱いだったことも、会見の席上で明らかにされた。長州は後にインタビュー記事で「どの団体が獲得しても、北尾は必ず同じトラブルを起こすぞ」という旨の発言をするが、これは現実のものとなる。

SWS参戦

新日本プロレスを解雇されると、大相撲の先輩である天龍源一郎を頼って創立間もないSWSへ参戦。しかし同じく元大相撲力士であるジョン・テンタ(ジ・アースクエイク 元幕下・琴天山)との試合で反則負けを宣せられたあげく、マイクでテンタに対し「この八百長野郎!八百長ばっかりやりやがって!」と発言、さらに観客に向かって「こんな八百長試合を見て面白いのか!」と叫んだ。プロレス業界で「禁句」といえる八百長発言に、会場だけではなくプロレス業界全体が騒然となる(本人は「盛り上がっただろう?」と至ってご満悦だったようである)。発言のみが一人歩きしてスキャンダラスに報じられただけでなく、当時、団体の社長となっていた天龍が「この件は私の不徳と致すところ」と田中八郎オーナーに辞表を提出し(田中オーナーは慰留)、ザ・グレート・カブキが「北尾復帰戦は俺がやる」と発言するなど、その波紋と代償は大きかった。団体側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重視、ついに北尾解雇の断を下す。このSWSの決定には、さすがに北尾も「仕方ありません」と甘んじて受け入れざるを得なかった。新日本プロレス、SWSと立て続けに解雇となったことで、大相撲だけではなくプロレス界も復帰不可能と見る関係者も多かった。

問題となったテンタとの試合では、プロレスの試合を組み立てようとするテンタに対し、まともに技の受け合いをしようとせず、あげくの果てに目潰しのポーズをとって威嚇するなど(シュートを仕掛けた)、目に余る態度だった。なおテンタとの試合での目潰しポーズは、いわゆるサミング(親指による目潰し)ではなく、人差し指と中指を立てたもの。ポーズをとっただけで、実際の攻撃はしていない。この際も客席からは北尾に対するブーイングが巻き起こっている。

復帰と引退

SWSを解雇されてから約1年半後の1992年に、「武道家の道を歩みたい」と宣言、総合格闘家としてマット界に復帰。UWFインターナショナルに登場し、山崎一夫には勝利したものの、高田延彦にハイキックKO負け。この一戦は、過去の北尾の言動を快く思っていなかったプロレスファンの溜飲を下げ、前田日明と比較して目立たなかった高田の名前を上げることになったが、北尾に対する幻想は大いにそがれることとなった。しかし、総合格闘技への復帰後は以前のような態度は影を潜め、リング四方に深々と頭を下げる謙虚さを見せ、昔を知るファンを大いに驚かせた。1994年1月には格闘技塾・北尾道場(後の武輝道場)を旗揚げし、道場生と共に天龍源一郎率いるWARを主戦場にした。この時期の北尾は、プロレスもある程度そつなくこなせ、ファンからも声援を送られるようになっており、天龍とタッグを組むことも多かった。しかし、前述のジョン・テンタとの数年ぶりの再戦がWARの興行にて行われた際は、終始いきり立って格闘色の際立つ展開となってしまい呆気ない幕切れとなった。

初期のPRIDEにも参戦しており、1996/4/5、第1回ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティングでペドロ・オタービオと対戦し、1R5分49秒、グラウンドでの肘打ちで敗北。1997/10/11、PRIDE.1において総合格闘技戦で初勝利。1998/5/1に開催の全日本プロレス・東京ドーム大会で同じ大相撲出身の田上明とのシングルマッチが組まれたが、カード発表直後にキャンセル。その後「やりたいことをやり終えた」として引退を表明。1998/10/11、PRIDE.4にて引退セレモニーを行った。武輝道場は、当時所属選手の岡村隆志が引き継いだ。

相撲界復帰後

2003年9月、日本相撲協会所属ではないフリーランスの立場ながら、代替わりした立浪部屋のアドバイザーに就任。現役時代に使用した化粧回しを日本相撲協会に寄贈した。

この時、それまで縁の無かった現立浪親方(小結・旭豊勝照)と北尾を間で取り持ったのは、双羽黒が暴行したために集団脱走騒動を起こしたと先代立浪親方(関脇・安念山治)が主張していた双羽黒の元付き人の1人(幕下6・立田仲憲二、現在の世話人・羽黒海憲司)であると言われている。また、先代立浪には後年発生した現立浪親方とのトラブルの他にも、「横綱・大関昇進の際の祝儀金は大半を先代立浪親方に先取りされてしまい、自分の手元にはほとんど残らなかった」という北尾の指摘や、旭國・黒姫山など他の弟子が昇進の際に得た祝儀金にまつわる同様の疑惑、さらには相撲協会から支給される部屋所属の幕下以下の力士への手当金やちゃんこ代を着服していたのではないかという疑惑など、金銭に関する不始末ともいえる複数の問題が囁かれている。

この様なこともあり、北尾のアドバイザー就任と共に、双羽黒の力士廃業の件にまつわる先代立浪によって説明された経緯やその主張の信憑性については、あらためて大きな疑問を抱かれる様になった。また、双羽黒の騒動を報道した大晦日のニュースでは、当時の春日野理事長が先代立浪についてかなり突き放したコメントを残しており、現在ではこのこともこれらの裏付けとして世間では見られている。

双羽黒廃業の実際の原因についても、先代立浪が主張している様な双羽黒の粗暴行為ではなく、実際には先代立浪が引き起こした金銭トラブルなどなんらかの不祥事に、双羽黒は本人の意思とは無関係に巻き込まれ、このことで先代立浪に横綱としての権威と体面を維持することができなくなる様な事態を引き起こされ(たとえば暴力団の関与など)、これにより相撲界から離れざるを得なくなったのではないか、という見方も現れている。また、先代立浪が主張していた粗暴行為などの問題行動という、双羽黒に責任の大半が帰する理由で彼が相撲界から自ら飛び出したのであれば、きわめて保守的な体質で知られる相撲協会が、いくら外部の立場とはいえ北尾(双羽黒)の相撲部屋・角界への関与を容認するとは考えにくいという見方も根強く、これも先代立浪に対する疑義の根拠の1つとなっている。

先代立浪が定年退職するまでは、双羽黒廃業の一件は角界や相撲関連マスコミでも少なからずタブーとされてきた出来事であった。だが退職後の現立浪親方とのトラブルの表面化や訴訟沙汰などの経緯を経て、相撲部屋の運営能力やさらには親方・指導者としての資質・人間性そのものについて、先代立浪への疑念が囁かれる様になった結果、先代立浪にまつわる諸問題に関する情報も少なからず聞かれる様になった。この様なこともあり、現在では、先代立浪が繰り広げた主張・説明のみをただ鵜呑みにして、北尾だけを一方的に悪者視する見方は少なくなっている。

そういった面からも、北尾は度重なるトラブルに反省し人間的に成長したとの見方も出てきている。現立浪部屋のアドバイザーとなっていること、近年になって横綱会に参加していることなどはスポーツ新聞などでも報じられている。

略歴

  • 1979年3月:立浪部屋に入門、初土俵。四股名は本名の北尾光司
  • 1984年1月:新十両。
  • 1984年9月:新入幕。
  • 1984年11月:初の金星(北の湖)獲得。
  • 1985年1月:新小結、初の三賞(技能賞)獲得。
  • 1985年5月:新関脇。
  • 1986年1月:大関昇進。
  • 1986年9月:横綱昇進、双羽黒光司と改名。
  • 1987年12月:廃業。
  • 1990年2月10日:新日本プロレス東京ドーム大会、対バンバン・ビガロ戦にてプロレスデビュー、同年SWSに移籍。
  • 1991年4月:SWS神戸大会にて「八百長発言」、同団体を解雇される。
  • 1992/10/23:武道家に転身、UWFインターナショナルにおいて、高田延彦と対戦。KO負け。
  • 1993年:格闘技塾・北尾(武輝)道場設立。
  • 1994/1/21:東京・後楽園ホールにて北尾道場旗揚げ戦。
  • 1996年:クエスト(The Quest)キシュウヤマ(力士)役でハリウッド・デビュー。
  • 1997年:リングネームを北尾光覇(-みつはる)に改名。
  • 1997/10/11:PRIDE.1のネイサン・ジョーンズ戦にて、総合格闘技戦初勝利。
  • 1998/7/1:現役引退を表明。
  • 1998/10/11:PRIDE.4にて引退セレモニー。
  • 2003年9月:立浪部屋のアドバイザーに就任。

プロレスラー、総合格闘家時代のデータ

タイトル歴

  • WAR認定世界6人タッグ王座

著書

  • 『しゃべるぞ!』 徳間書店 1988年3月
  • 『北尾光司の相撲界言い捨て御免』 大陸書房 1989年2月

武輝 / 北尾光司 ビデオ紹介





ドクトル・ワグナー・ジュニア
Dr. Wagner, Jr.
1965/8/12

本名:ホアン・マヌエル・ゴンザレス・バロン (Juan Manuel Gonzalez Barron)は、メキシコの覆面レスラー。コアウイラ州トレオン出身。

実父のドクトル・ワグナーは、「殺人医師」の異名を持つルチャリブレの伝説的な覆面レスラー(ルード)で、実弟のシルバー・キングも著名なプロレスラー、元妻もロッシー・モレノで女子プロレスラー。また実子もイホ・デル・ドクトル・ワグナーのリングネームで2010/1/29デビューした。

経歴

1986年4月12日、20歳の時にメキシコのコアウイラ州トレオンのUWAでデビュー。1988年5月、新日本プロレスに参戦するため初来日(なお、1987年全日本プロレスに同名の選手が来日しているが、これはメキシコで既に素顔でファイトしていた弟のシルバー・キングがマスクを被って来日したものである)。

1993年の3月、4月と連続して初代CMLL世界タッグ王座・CMLL世界ライトヘビー級王座を獲得した。

1997年に再び新日本プロレスに参戦し、タッグマッチがメインだったが初参戦の頃よりもスケールの大きな試合をするようになり、選手達や日本のファン、マスコミの評価は一気に高まった。

1998年にベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで準優勝、1999年1月4日にはIWGPジュニアタッグ王座を獲得するなど活躍。2001年1月には弟のシルバー・キングと共に参戦した。

特徴

幼少の頃から、弟のシルバー・キングと共に父のドクトル・ワグナーによってルチャの英才教育を施される。このためプロレスに限らず、スポーツ全般を得意としている。

外見上は父のドクトル・ワグナーの白のマスクを継承して「殺人医師2世」を名乗っているが、日本ではルードというより実力派の覆面レスラーとして知られる。近年は多色の黒や赤のマスクやコスチュームを使用する場合も多い。

軽快な身のこなしで空中殺法を得意とする弟に対して、ジュニアヘビー級選手の割には投げ技などのパワー殺法を得意とする。あまりにパワフルなため、プロフィールの体重98kgというのは嘘で、100kgを軽く超えている(ヘビー級)のではないかという噂が出る程である。 2001年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアにおいて対戦したAKIRAが、リングに体重計を持ち込み体重超過で失格にさせようとしたこともある(なお、ワグナーは当時98kgのAKIRAよりも一回り体が大きかった)。その体重計はAKIRAを殴打するために使われ、結局計量は行われなかった。

驚異的なスタミナを誇り、受け身の技術も高く多様なファイトスタイルに対応できる。難度の高い技の応酬も見事にこなすことから、ジュニアヘビー級の選手層の厚い新日本プロレスにおいても非常に高い評価を受けている。

獲得タイトル

  • 北メキシコヘビー級王座
  • AAA世界ヘビー級王座
  • UWA世界ヘビー級王座
  • UWA世界ジュニアライト王座
  • IWGPジュニアタッグ王座(&ケンドー・カシン)
  • CMLL世界タッグチーム王座 : 3回(&カネック &シルバー・キング &エミリオ・チャレス・ジュニア &ウルティモ・ゲレーロ)
  • CMLL世界ライトヘビー級王座
  • CMLL世界トリオ王座 : 3回(&グラン・マルカス・ジュニア、エル・イホ・デ・グラディアドール &ブルー・パンテル、ブラック・ウォリアー &フエルザ・ゲレーロ、ブルー・パンテル)
  • WWCハードコア王座
  • WWA世界ジュニア級王座





ジョナサン・コーチマン
Jonathan Coachman
1973/8/12

アメリカ合衆国のプロレス実況アナウンサー、プロレスラー(ただし試合はストーリーに応じて行う程度)。ミズーリ州カンザスシティ出身。コーチのニックネームで知られる。

来歴

2000年にWWF入り。最初はインタビュアーであったが徐々に仕事を増やしていった。インタビュアーとしては、ザ・ロックとのコミカルなやり取り(と言うよりは一方的にロックにいじられるだけのキャラ)が好評を博した。2003年以降エリック・ビショフと組んでヒールになってからは、ロウの中心ストーリーにも頻繁に絡むようになる。

プロレス実況者としては、ロウの前座収録番組であるヒートの実況を務めていた。また、ロウの実況担当のジム・ロスやカラー・コメンテーターのジェリー・ローラーと度々抗争を行った。2004年にはタジリとも抗争している。2005年10月、ジム・ロスが腸の手術のためにロウを一時離脱するにあたり、ジム・ロス解任ストーリーが組まれる。ジム・ロス離脱に伴い、コーチマンがロウの実況に登場。ジム・ロスを復帰させようとするストーン・コールド・スティーブ・オースチンとPPVタブー・チューズデイにて試合を行う予定であった。しかしこのストーリーは直前にオースチンが怪我でWWEを離脱したことにより終了。PPVではベイダー、ゴールダストを伴いバティスタと試合を行った。

2006年には、ビンス・マクマホンの補佐役に回り、ビンスが離脱中はカードなどの発表はコーチが行っている。2007年8月、RAWのジェネラルマネージャーにウィリアム・リーガルが就任し、嫌々ながらリーガルの補佐として活動した。

2008年にはスマックダウンの実況担当となったが程なくしてWWEを離脱、その後はESPNのSports CenterやESP Newsなどの番組でアナウンサーを務めている。

2009年5月、WWEとNBAのデンバー・ナゲッツが会場のダブルブッキングした際にはインタビュアーとしてビンス・マクマホンにインタビューを行なっている。

入場曲

  • Hard Hittin' (Homebwoi)

その他

  • かつてコーチマンのフィギュアが3000体限定で販売されたことがある。
  • 2007年8月に、MSGネットワーク社のスポーツとエンターテイメントの番組で、ホスト兼リポーターとして採用された。
  • 白人家庭の養子だったため、大学では他のアフリカ系アメリカ人の生徒よりも礼儀正しく生徒会や学校の行事にも積極的であったなど、彼の行動は白人の真面目な生徒に近かったのであだ名は「ミスター・クリーン」だった。
  • 大学の4年間はバスケットチームに所属し、4年生の時には、大学の演劇公演にも参加した。

 
  



齋藤 裕俊
1984/8/12

日本の総合格闘家。茨城県猿島郡出身。和術慧舟會GODS所属。

笑みを浮かべながら剛腕を振り回すファイトスタイルから、マヌーフと呼ばれている。

来歴

境町立境第二中学校、茨城県立境高等学校では、6年間、野球一筋。日本体育大学に進学。

2004年、日本体育大学在学中に、星野勇二が代表の和術慧舟會GODSに入門。

2005年、JTC2005西関東大会で優勝し、JTC2005全国大会に出場。67kg未満級で優勝。決勝の相手は、同門の井上誠午。

2006年2月19日、パンクラスネオブラッドトーナメント2006のライト級に出場。予選1回戦で奥山健太に勝利するも、準決勝で荒牧拓に敗れた。

2007/11/25、第9回アマチュアパンクラスオープントーナメントの70kg未満級に出場。3試合を勝ち抜き、決勝に進むが敗れ、準優勝。

2008/3/23、パンクラスネオブラッドトーナメント2008のフェザー級に出場。予選3試合を勝ち抜き本戦出場を決めた。4/27、本戦準決勝で清水隼人に勝利。8/27に決勝で田中康友に勝利し、優勝。

2008/12/7、パンクラスで赤井太志朗と対戦し、判定ドロー。

2009/4/5、パンクラスで赤井太志朗と再戦し、2ラウンドTKO負けを喫した。

2009/5/2、戦極初出場となった「戦極 〜第八陣〜」のオープニングファイトで阿部剛卓に一本勝ちを収めた。

獲得タイトル

  • JTC2005全国大会 67kg未満級 優勝
  • パンクラスネオブラッドトーナメント2008 フェザー級 優勝




 












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