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"ジャンピング" ジム・ブランゼル
"Jumping" Jim Brunzell
1949/8/13

ジェイムズ・ブランゼルJames Brunzell)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミネソタ州ホワイトベア・レイク出身(ミズーリ州カンザスシティ出身ともされる)。

現役選手時代は甘いマスクの正統派ベビーフェイスとして、AWAを中心にNWAやWWFでも活躍。「ジャンピング」の異名通り、跳躍力を活かした打点の高いドロップキックを得意技とした。

来歴

学生時代はハイジャンプやアメリカンフットボールなどのスポーツで活動。1972年12月、地元ミネソタのAWAにてプロレスラーとしてデビュー。その後、中西部のNWAセントラル・ステーツ地区にてマイク・ジョージとの若手コンビで売り出され、1973年10月に同地区認定のNWA世界タッグ王座を獲得した。翌1974年3月にはAWAルートで国際プロレスに初来日している。

1976年、AWAでバーン・ガニアの息子グレッグ・ガニアとハイ・フライヤーズThe High Flyers)を結成。1977/7/7にブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンからAWA世界タッグ王座を奪取し、長期政権を築くが、1978年9月にチャリティー・ソフトボール大会に参加した際の負傷により王座を剥奪された。

復帰後の1979年はノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に参戦。9/14にケン・パテラ、12/25にレイ・スティーブンスを破り、ミッドアトランティック・ヘビー級王座を2度獲得した。1980年11月には全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にニック・ボックウィンクルのパートナーとして出場している。

古巣のAWAでは1981年にグレッグ・ガニアとハイ・フライヤーズを再結成し、同年6/14にイースト・ウエスト・コネクション(ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス)を破り、AWA世界タッグ王者チームに返り咲く。以降、1983/6/26にザ・シークス(ジェリー・ブラックウェル&ケン・パテラ)に敗れるまで、2年間に渡って同王座を保持した。

その間、1982年5月にハイ・フライヤーズとして全日本プロレスに参戦。6/8の蔵前国技館大会ではリッキー・スティムボート&大仁田厚を相手にAWA世界タッグ王座を防衛している。1984年4月にもグレッグ・ガニアとのハイ・フライヤーズで全日本に再来日し、PWF世界タッグ王座の決定リーグ戦に参加した。また、同年3月にはユタ州ソルトレイクシティにおいて、日本でAWA世界ヘビー級王座を奪取し新王者としてAWAに遠征してきたジャンボ鶴田にも挑戦している。

1985年、AWAを離れてWWFと契約し、ブライアン・ブレアーとのキラー・ビーズThe Killer Bees)なるタッグチームで活動、覆面を被りマスクマンのコンビに変身することもあった。ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)やファンク・ファミリー(ホス・ファンク&ジミー・ジャック・ファンク)などのチームと抗争し、1987/11/26に行われたサバイバー・シリーズ(第1回大会)のタッグチーム・イリミネーション・マッチではヤング・スタリオンズ(ポール・ローマ&ジム・パワーズ)と共に勝ち残り、サバイバー・チームとなっている。しかしながら、タイトル獲得の機会には恵まれず、NWA、AWA、WWFの3大世界タッグ王座戴冠を果たすことはできなかった。

WWF離脱後の1989年からは、ハーブ・エイブラハムが興したカリフォルニアのUWFなどを転戦。1992年にWWFに再出場し、ジョバーを務めていたこともある。1994年にはシカゴのインディー団体AWFにスペシャル・ゲスト・レフェリーとして登場、WWF時代の盟友ティト・サンタナ対カウボーイ・ボブ・オートンの試合を裁いた。

引退後はホームタウンのミネアポリスにてファイナンシャル・プランナーに転身している。

獲得タイトル

  • NWA世界タッグ王座:2回(w / マイク・ジョージ)
  • AWA世界タッグ王座:2回(w / グレッグ・ガニア)
  • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:2回
  • UWF世界タッグ王座(ハーブ・エイブラハム派):1回(w / ブライアン・ブレアー)
  • WFWAカナディアン・ヘビー級王座:1回

 
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マット・ハイソン
Matt Hyson
1970/8/13

アメリカ合衆国のプロレスラー。ロードアイランド州プロビデンス出身。体重70kg前後と、レスラーとしては極めて軽量の部類に属する。

来歴

プロレスラーになる以前は小学校で教師を務めていたという異色の経歴を持つ。 1994年プロレスデビュー。 レスラーとしてブレイクしたのはECW所属後である。ギミック上の異母兄弟集団のダッドリー・ボーイズの『末弟』、スパイク・ダッドリーとして人気を博した。『兄』達とは対立し、時に共に行動した。

2001年のECW崩壊後はWWF(現WWE)に所属。1999年からWWF所属となっていた2人の『兄』、ババ・レイ・ダッドリー、ディーボン・ダッドリーと行動を共にした。2002年には同じECW出身のタズと行動を共にし、兄達からWWF世界タッグ王座も奪取している。

2004年にスマックダウンに所属してからはクルーザー級戦線のレスラーとして行動し、兄達と距離を置いたシングルレスラーとして活動した。

2005/7/5、兄達と共にWWEを解雇された。ダッドリーズ関連の登録商標は全てWWEが持っており、以降スパイク・ダッドリーのリングネームを名乗れなくなり、本名のマット・ハイソンで活動を開始。本名をリングネームとして、主にインディ団体を中心に活動していた。2006年に入りTNAと契約。同年4/13のTNA iMPACT!にてブラザー・ラントとして登場。2人の『兄』、ブラザー・レイとブラザー・ディーボンを助ける役であった。

のちシングルに転向したがストーリーラインから外れてしまい、2007年にTNAを解雇された。

その後はCZWに参戦、それに伴いリングネームをスパイク・ダッドリーに戻した。

獲得タイトル

WWE

  • クルーザー級王座 :1回
  • 世界タッグチーム王座 :1回(w / タズ)
  • ヨーロピアン王座 : 1回

ECW

  • ECWタッグ王座:2回(w / ボールズ・マホーニー)





春一番
1966/8/13

神奈川県生まれ、岡山県浅口郡鴨方町(現:浅口市)出身のお笑いタレント。本名は春花直樹(はるはな なおき)。
アントニオ猪木の物真似(猪木自身が唯一公認している)一本で勝負するスタイルで、春自身、猪木信者でもある。『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』では毎回「プロレス字読みクイズ」に当然猪木の物真似付きで出場。散々なやられっぷりを見せた後に「今日も負けてしまいましたが…」「1・2・3・ダァーッ」のマイクアピールで締めるお約束で知名度が高まるが、過度の酒好きも絡んだ素行不良により、1994年に太田プロから解雇される。

その他

  • それまでの猪木のモノマネの定番であった「(アゴを突き出し)何だコノヤロー!」を初めてやらず(要請されれば仕方なくやる事もあるが)、純粋に 猪木のトーク(主にマイクアピール)のモノマネを行ったタレントでもある。披露した当初は若い女性の客に全くウケなかったが、裏では控えの芸人仲間やス タッフが大爆笑していたという。春の営業は「1、2、3、ダァー」のかけ声だけでギャラがとれる、最もコスト・パフォーマンスの高い営業だと水道橋博士にギャグにされている。
  • 春が行う「ダァー!」には、「1、2、3、でダァー!です」というセリフがあったり、「ダァー!」の前に「ハイ!」と合図を挟むという特徴があるが、これは猪木が1990年2月10日、リング上で初めて「ダァー!」を行った際の模様を正確に模写したものである。
  • 猪木だけでなく長州力や山本小鉄のモノマネも出来る。かつて長州は春に会うと「お!会長!」と声を掛けたと言う。
  • 近年、同じく猪木の物まねをレパートリーとするアントニオ小猪木、アントキの猪木が 登場しているが、春が猪木モノマネの第一人者であることに変わりはなく、他の芸人が猪木のモノマネをすると「春一番さんのモノマネですか?」と言われるこ とも多い。ただし小猪木の場合は試合中の猪木の動きのモノマネ、アントキのの場合はモノマネを応用したなりきりネタを主に披露しており、一方春の場合は猪 木の純粋な話し方のまねが多いという、差別化された特徴がある。また、3人で『くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン』に出演するなど、勢揃いしての仕事も何度かある。
  • 週刊オリラジ経済白書で収入の9%としてアントニオ猪木からの小遣いを挙げている。これは猪木から貰った金額が9万円と中途半端な金額の為である。また大きな収入として携帯電話の着信ボイスも挙げている。

著書

  • 「元気です!!!」(2007年2月20日出版・幻冬舎 アントニオ猪木の誕生日に出版した)

春一番オフィシャルブログ「闘魂伝笑」





リトル・フランキー
1958/2/20 - 2002/8/13

本名:岡本政信
昭和51年にデビュー。「リトル・フランキー」というリング名で、身長112センチと 体の小さい「ミゼットレスラー」として、女子プロレスの前座試合などで活躍

  



ブライアン・アダムス
Brian Adams
1963/4/14 - 2007/8/13

アメリカ合衆国のプロレスラー。ハワイ州カイルア・コナ出身。新日本プロレスの練習生を経て、WWE、WCWで活躍した。

来歴

アメリカ空軍の隊員として日本の横田基地に配属されていた際、新日本プロレスの試合を見てプロレスラー転向を決意。除隊後の1986年、かねてからの希望通りに練習生として新日本への入門を果たすが、ビザの関係で日本でのデビュー戦を行うことはできなかった。この練習生時代に武藤敬司主演の映画 『光る女』(相米慎二監督)に敵役で出演している。

帰国後、オレゴン州のPacific Northwest Wrestling(PNW)にて1987年にデビュー。日本でトレーニングを積んでいたことから、ジ・アメリカン・ニンジャなるニックネームが与えられる。新日本に来日経験のあるザ・グラップラーとのタッグチーム "レッキング・クルー" で活躍し、1989年にパシフィック・ノースウエスト(PN)タッグ王座を奪取。シングルでもPNヘビー級王座を獲得した。

この間、1988年にマスクマンのミッドナイト・ソルジャーとして新日マットに逆上陸している。元練習生であったアダムスの実質日本デビューであるにもかかわらず、素顔ではなくマスクマンとしてリングに上げたことに一部で批判もあった。1989年には素顔で全日本プロレスに参戦。目立った活躍はなかったがTVマッチに出た際、解説のジャイアント馬場が「この選手は基礎がしっかり出来ていますね」などとべた褒めしており、新日練習生だった片鱗を見せた。

WWF

1990年4月、体調不良でセミリタイアすることになったデモリッションのチームリーダー、アックス(マスクド・スーパースター、ビリー・クラッシャー)の交代要員として、デモリッション3人目のメンバー、クラッシュを名乗りWWF(現・WWE)に登場。タイトルをアックスから譲り受け、スマッシュ(クラッシャー・クルスチェフ、リポマン)とのコンビでWWFタッグ王座にも載冠している。同年夏にリージョン・オブ・ドゥーム(LOD)がWWFに移籍してくると、アルティメット・ウォリアーも巻き込んで派手な軍団抗争を展開した。1991年のレッスルマニア7では、天龍源一郎、北尾光司組と対戦している。

デモリッション解散後の1991年下期には、WWF時代と同じリングネーム、コスチューム、キャラクターで古巣のPNWに転戦。PNヘビー級王座を再度獲得している。1992年からはベビーフェイスのシングルプレーヤーとしてWWFと再契約。ニックネームをコナ・クラッシュに、ハワイのサーファーをキャラクターとした爽やか路線で売り出した。その後、ヒールに転向してランディ・サベージらと抗争を展開したものの、1995年3月、ステロイド剤の購入とスタンガンの不法所持で逮捕投獄され、それがもとでWWFを解雇されてしまう。

しかし1996年、弁護士を名乗るクラレンス・メイスンをマネージャーに「執行猶予処分」という設定のもと、実生活上のトラブルをギミックに取り入れた形でWWFに復帰。ストリートギャング風のキャラクターに変身し、ファルークが結成した黒人至上主義団体・ネーション・オブ・ドミネーション(NOD)(モデルはマルコムXの影響下にあったブラックパンサー党)に加入。白人でありながらファルークのボディーガードとして悪名を轟かせ、同時期にWWFと再契約したLODやアーメッド・ジョンソンらと抗争を繰り広げた。

ファルークと仲間割れした1997年には、ディサイプルズ・オブ・アポカリプス(DOA)というバイカー系のユニットを結成。PNW時代の抗争相手でもあったスカル&8ボール(ブルーズ・ブラザーズ)、チェインズ(ブライアン・リー)をメンバーに、リーダーとして活躍した。

WCW〜WWE復帰

WWF離脱後はWCWに移籍。リングネームを本名に戻し、nWoハリウッドのメンバーに加入、ハルク・ホーガンのパートナーになったこともある。また、1998年にはnWoジャパンのメンバーとして来日した。

その後はキッスとのコラボレーションで生まれたザ・デーモンへの一時的な変身を経て、2000年にブライアン・クラークとクロニック(KroniK)を結成。WCW世界タッグ王座を2度獲得したが、ダーク・カーニバル(グレート・ムタ&バンピーロ)にタイトルを奪われてからは王座に返り咲くことはなかった。以降はナチュラル・ボーン・スリラーズとの抗争などが組まれるも、負けブックが多くなっていた。途中クラークが負傷したためシングルで戦っていたが、自身も虫垂炎を患い、以後クロニックがWCWに登場することはなかった。

WCW崩壊後はWWEの契約選手には入れず、プロゴルファーへの転身も噂されたものの、2001年9月にスティーブン・リチャーズの用心棒としてクラークと共にWWEに復帰。ジ・アンダーテイカーのバイクを攻撃して喧嘩を売り、同月に行われたアンフォーギヴェンでアンダーテイカー&ケインのWCWタッグ王座に挑戦した。しかし、これが大凡戦となり、WWEからディベロップメント契約(下部団体での再調整)への条件変更を要請される。クラークはその条件に不満を持ち退団。アダムスは下部組織のHAWで活動することになったが、すぐに解雇された。

日本での活動〜引退

解雇後は、2002年7月に全日本プロレスに登場。武藤敬司&太陽ケアが持つ世界タッグ王座にいきなり挑戦し、なんと奪取にまで成功する。この試合はクロニックの生涯のベストバウトとも言われる好試合であった。その後全日の外人エースの主導を奪うため、マイク・バートン、ジム・スティールと対戦するなどするが、クロニックは精彩を欠いた。その後アダムスはプロボクサーに転向(結局、実現せず)のためにクロニックは解散することになった。

2003年1月、WRESTLE-1にクロニックとして一夜限りの復活参戦。しかしこの試合も酷評され、その後アダムスは背中と肩の怪我のため引退することになった。引退後は、ラッパーとしても活動しているランディ・サベージのボディーガードを務めた。

死去

2007年8月13日、自宅のベッドで意識がなく倒れているところを妻が発見し、救急隊員が駆けつけるも死去していた。44歳没。

獲得タイトル

PNW
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:2回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:2回(w / ザ・グラップラー、スティーブ・ドール)
WWE
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / アックス&スマッシュ)
WCW
  • WCW世界タッグ王座:2回(w / ブライアン・クラーク)
全日本プロレス
  • 世界タッグ王座:1回(w / ブライアン・クラーク)





ランス・ケイド
Lance Cade
1980/3/2 - 2010/8/13

本名:ランス・カーティス・マクノートLance Kurtis McNaught
アメリカ合衆国のプロレスラー。ネブラスカ州オマハ出身。
来歴
1999年、ショーン・マイケルズが作ったサンアントニオにあるTWA(テキサス・レスリング・アカデミー)にてトレーニングを始める。FMW横浜アリーナ大会(1999/11/23)にレフェリーとして来日したショーン・マイケルズに伴われて初めて来日。1週間後に開幕のFMW12月シリーズにアメリカン・ドラゴンとのタッグで参加。翌2000年2月シリーズには単独で来日した。
2001年にWWEと契約。下部組織MCWやHAWで活動した後に、OVWへと居場所を移す。OVWではレネ・デュプリーとタッグ王座を獲得した。その後デュプリーがWWEへ昇格したため、マーク・ジンドラックとタッグを組むことになり、その活躍が認められ、ケイド自身も2003年にWWE昇格を果たした。
WWEではギャリソン・ケイドと名前を改め、同じく昇格したジンドラックとのコンビでロウを舞台に活動する。アルマゲドンやレッスルマニアで、世界タッグ王座争いをするまでの成長をみせるが、一度も獲得はできなかった。その後、ドラフトにてパートナーのジンドラックがスマックダウンに移籍したためタッグは解消。それからはジョナサン・コーチマンの護衛にあたり、TAJIRIやライノと抗争するも、目立った活躍はできずOVWに戻されることになった。
再びOVWにて活動した後、2005年8月にトレバー・マードックをパートナーにケイド&マードックとしてWWEに再昇格。同年に行われたアンフォーギヴェンでは念願の世界タッグチーム王座を獲得。その後はWWEのタッグ部門の扱いからか、主に前座番組HEATでの登場が多くなる。それからビンス・マクマホンとエッジと共にDXと対戦し、徐々にWWE幹部からも好評価を得ていく。2007年5月には再び世界タッグ王座を奪取した。
2008年、マードックとのタッグを解散した後はクリス・ジェリコのパートナーとなり、ヒールとしてジェリコと共にショーン・マイケルズと抗争したが、10月にWWEを解雇された。
2009/2/22、カウボーイ・ランス・ケイドのリングネームで、ハッスルに参戦。以降もハッスルやベイダータイムで活動後、同年10月にWWEと再契約してFCWにてトレーニングを続けていたが、翌2010年4月、1軍のリングに一度も上がること無く再び解雇された。
以後、5月からは全日本プロレスに登場し、VOODOO-MURDERSの一員として活躍していた。
2010/8/13、心不全にて急死。30歳没。訃報はWWE公式ホームページでもアナウンスされた。













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