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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
8/14

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今日は何の日?


ボブ・バックランド
Bob Backlund
1949/8/14

アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州プリンストン出身。本名はロバート・リー・バックランドRobert Lee Backlund)。日本でのニックネームは「ニューヨークの帝王」または「超新星」。

来歴

ノースダコタ州立大学在学時の1971年、NCAAのレスリング選手権で優勝。卒業後プロレスラーを目指しミネアポリスでトレーニングを積み、1973年にテキサス州アマリロに転じデビュー。そこではドリー・ファンク・ジュニアのコーチのもと、ジャンボ鶴田、スタン・ハンセンとともに練習に励んだ。その縁あって1974年7月全日本プロレスに参戦。これがバックランドの初来日であり、同時参加した外国人選手にはシューターとして知られるダニー・ホッジとボブ・ループもいた。

以降もNWAの主要テリトリーを転戦し、1975年10月にはジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにて、ジェリー・ブリスコと組んでトール・タナカ&ミスター・フジからジョージア・タッグ王座を奪取。1976/4/23にはNWAの総本山ミズーリ州セントルイスにて、ハーリー・レイスを下しミズーリ・ヘビー級王座を獲得した。

その後フロリダ地区を経て、1977年よりWWF(現・WWE)に参戦。ビンス・マクマホン・シニアは、かつてのジャック・ブリスコを髣髴とさせるアスリート・タイプのバックランドを、怪力ブルーノ・サンマルチノ時代との差別化を図る上で絶好の選手と判断し、バックランドは瞬く間にWWFのトップに駆け上がる。1978/2/20、スーパースター・ビリー・グラハムを破りWWFヘビー級王座を獲得。以降、ニューヨークの帝王として幾多のチャレンジャーを迎え撃った。

新日本プロレスにも王者として来日し、たびたび防衛戦を行っている。1979/11/30に徳島市立体育館でアントニオ猪木に敗れ一時王座を失っているが、一週間後、猪木が初防衛戦となったバックランドとのリターンマッチの内容を不満として王座を返上したため、マディソン・スクエア・ガーデンでのボビー・ダンカンとの王者決定戦を経てバックランドは再びWWFヘビー級王座に返り咲いた。

WWF王者時代には、AWA王者ニック・ボックウィンクル(1979/3/25、トロント)、NWA王者ハーリー・レイス(1980/9/22、ニューヨーク / 同年11月7日、セントルイス)、NWA王者リック・フレアー(1982/7/4、アトランタ)との王座統一戦も行っている(すべて引き分け)。

1980年5月の新日本『第3回MSGシリーズ』への特別参加では、ダスティ・ローデスを相手にWWF王座を防衛。同年の12月には猪木とのコンビで『第1回MSGタッグリーグ戦』に出場、決勝でスタン・ハンセン&ハルク・ホーガンを破り優勝を果たした。このリーグ戦にはアンドレ・ザ・ジャイアントも参加しており(パートナーはザ・ハングマン)、5月のローデス戦に続き、アメリカでは見られないベビーフェイスのトップ同士の対戦がタッグマッチながら実現している。

その後、WWFはビンス・マクマホン・ジュニアの支配下となり、各地の有力選手を次々と引き抜き全米侵攻を開始するが、派手さに欠けるバックランドは全米制覇のトップには不適格と判断され、次期王者にはハルク・ホーガンを据えることが決まり、1983/12/26、アイアン・シークに敗れ王座転落。5年10か月間に渡って君臨していた「ニューヨークの帝王」の座を降りることになった。

WWFを離れた後は、AWAのバーン・ガニアやNWAのジム・クロケット・ジュニアらが共同で立ち上げたWWFの対抗勢力 "Pro Wrestling USA" に主力選手として参加。1980年代末から1990年代初頭にかけてはセミリタイア状態となり、日本には第2次UWF、UWFインターナショナルに参戦したが、高田延彦に3連敗を喫するなどして精彩を欠いた。

1992年末、WWFに復帰。当初は王者時代と同じくベビーフェイスとして活躍し、1993年のロイヤルランブルでは60分以上も闘い抜いたが、1994年に突如ヒールに転向。敬称を冠した「ミスター・ボブ・バックランド」を正式なリングネームにして自分への敬意をファンに強要するなど、後のカート・アングルとウィリアム・リーガルを足して割ったような嫌味で口うるさい紳士ギミックへのキャラクターチェンジを果たした。荒廃したアメリカ文化の矯正を図るべく、アングルとして大統領選挙への出馬を表明したこともある。

同年11/23、ブレット・ハートを破り11年ぶりにWWF王者に返り咲く。しかし11/26のMSGにおけるハウス・ショーでディーゼルにわずか8秒で敗れ、文字通りの三日天下に終わった。

1994年には当時WWFと提携していたWARに参戦し6人タッグ王座を獲得。1995年はブレット・ハートと抗争を展開し、レッスルマニアXIではアイ・クイット・マッチを行う。同年下期から1996年にかけてはプレイング・マネージャーとしてディーン・ダグラスやザ・サルタンのセコンドも務めた。

WWF離脱後はバトラーツや新日本プロレスに単発参戦。近年はコネチカット州で建設資材を扱う会社を経営している。2007年にはTNAに登場したが、WWEのバックステージにも時折、顔を出すことがある。

人物

  • レスリングの技術は高く、マークス(腕自慢の素人を抑え込む役)が出来ることでプロモーターから信頼されていた。
  • スタン・ハンセンによれば非常に純朴で愛すべき人物とのことで、グリーンボーイ時代にローカルベルトを奪取した際、「そのベルトを獲得した者は肌身離さず装備しなければならない」という先輩レスラーの冗談を真に受けて、ベルトを腰に巻いたままレストランで食事をしていたという。

獲得タイトル

NWA
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:3回
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:1回
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ジェリー・ブリスコ)
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / スティーブ・カーン)
WWE
  • WWFヘビー級王座:3回
  • WWFタッグ王座:1回(w / ペドロ・モラレス)
WAR
  • WAR世界6人タッグ王座:1回(w / スコット・プトスキー&ザ・ウォーロード)

WWF王者時代の主な挑戦者

王座統一戦(ダブル・タイトルマッチ)での対戦相手やWWF圏以外の他地区遠征時の挑戦者も含む。

  • スーパースター・ビリー・グラハム
  • ニック・ボックウィンクル
  • ハーリー・レイス
  • リック・フレアー
  • アントニオ猪木
  • 藤波辰巳
  • パット・パターソン
  • アーニー・ラッド
  • イワン・コロフ
  • ピーター・メイビア
  • スパイロス・アリオン
  • ブルドッグ・ブラワー
  • ジョージ・スティール
  • ケン・パテラ
  • ボビー・ダンカン
  • ダスティ・ローデス
  • ザ・シーク
  • バロン・フォン・ラシク
  • ラリー・ズビスコ
  • グレッグ・バレンタイン
  • スタン・ハンセン
  • ハルク・ホーガン
  • アンジェロ・モスカ
  • ドン・ムラコ
  • キラー・カーン
  • ジェシー・ベンチュラ
  • アドリアン・アドニス
  • ブラックジャック・マリガン
  • ジミー・スヌーカ
  • カウボーイ・ボブ・オートン
  • プレイボーイ・バディ・ローズ
  • サージェント・スローター
  • ビッグ・ジョン・スタッド
  • マスクド・スーパースター
  • レイ・スティーブンス
  • アイアン・マイク・シャープ
  • アイアン・シーク


 
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ボビー・ダンカン
"Big Bad" Bobby Duncum
1944/8/14

来歴

ウエスト・テキサス州立大学(現ウェスト・テキサスA&M大学)ではアメリカンフットボールの選手として活躍。NFLのセントルイス・カージナルスで1年間プレイ した後、ドリー・ファンク・シニアにスカウトされて1960年代後半にテキサス州アマリロ地区でデビュー。以降もテキサスを中心にジョージアやフロリダなど南部マットでキャリアを積み、フロリダでは1971/10/21にディック・マードックとのコンビで同地区認定のタッグ王座を獲得している。

1974年、ニューヨークのWWWF(現・WWE)に進出。グラン・ウィザードをマネージャーに、同年11月から翌1975年3月にかけてWWWF世界チャンピオンのブルーノ・サンマルチノに連続挑戦した。1976年からはAWAに参戦し、ボビー・ヒーナンをマネージャーにブラックジャック・ランザとカウボーイ・タッグを結成。同年7/23、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを破り第32代AWA世界タッグチャンピオンとなる。その後もAWAではランザと共に、世界王者ニック・ボックウィンクルの用心棒的なヒールとして活躍した。

1978年にはフロリダ地区で覆面レスラーのザ・スポイラー2号The Spoiler #2)に一時的に変身。同年6/27、1号のドン・ジャーディンとのコンビでジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコの兄弟チームからフロリダ・タッグ王座を奪取している。

1979年、再びニューヨークを襲撃。同年12/17には空位となっていたWWFヘビー級王座を賭けて、マディソン・スクエア・ガーデンでボブ・バックランドと王者決定戦を行った。試合には敗れたものの、以降も約1年間に渡ってWWFをサーキットし、アンドレ・ザ・ジャイアントともMSGをはじめ東部各地で対戦。1980年12/29にはMSGでアントニオ猪木のNWFヘビー級王座にも挑戦している。

同時期にはNWA圏のミッドアトランティック地区にも転戦し、1980年から1981年にかけてブラックジャック・マリガンと大型カウボーイ同士の喧嘩試合を展開、同地区認定のブラスナックル王座を争った。1982年からはAWAに復帰し、WWF時代の盟友でもあるケン・パテラとブラック&ブルー・エクスプレスThe Black & Blue Express)なるタッグチームを結成。このときもヒーナン・ファミリーの一員として悪党AWA王者ニック・ボックウィンクルをサポートし、当時AWAで大ブレイクしていたハルク・ホーガンと軍団抗争を繰り広げた。

その後は南部マット一帯を主戦場に、フロリダではダスティ・ローデスやバリー・ウインダムと抗争。テキサスのサンアントニオ地区ではベビーフェイスとしてブルーザー・ブロディとタッグを組んだこともあるが、1980年代後半に引退した。

日本での実績

初来日は1969年に開催された日本プロレスの第11回ワールドリーグ戦だが、キャリア不足もあって戦績は振るわなかった。当時はカウボーイ・スタイルではなく、アメリカンフットボールのヘルメットを被っていた。1972年の再来日ではボボ・ブラジルのパートナーとなってジャイアント馬場と坂口征二の「東京タワーズ」のインターナショナル・タッグ王座にも挑戦している。

ブルーノ・サンマルチノに挑戦するなどしてトップスターとなってからは全日本プロレスに参戦。通算四度目の来日を果たした1975年にはウエスト・テキサス大学の後輩でもあるスタン・ハンセンが1シリーズを置いて全日本に初来日しているが、当時はダンカンの方が圧倒的に格上だった。

1980年代からはWWFとの提携ラインで新日本プロレスの常連外国人となる。新日本初参加となる1981年の新春黄金シリーズ最終戦では、前年にMSGで対戦した猪木と後楽園ホールでシングルマッチを行った。同年にはMSGシリーズの第4回大会にも出場。公式戦で対戦したスタン・ハンセンとはシリーズ中にタッグも組んでいる。当時の実況アナウンサーだった古舘伊知郎は、野性的なブルファイターのハンセンに対し、ダンカンを都会的な雰囲気を持つ「アーバン・カウボーイ」と表現していた。

当時の日本マットは新日本と全日本のレスリング・ウォーが激化し、団体間での選手の引き抜きが横行していた。ダンカンは旧知の間柄であるテリー・ファンクの要請でハルク・ホーガンの全日本移籍を画策していたが、新日本が大幅なギャラアップを提示してホーガンを慰留したため実現しなかったとされている(好待遇での自分自身の移籍を仲介の条件としたダンカンに馬場が難色を示し、この話は幻になったという説もある)。

こうした背景もあってしばらく新日本への来日は途絶えていたが、1983年末、MSGタッグ・リーグ戦の第4回大会にカート・ヘニングと組んで参戦。翌1984年のビッグ・ファイト・シリーズへの参加が最後の来日となった。

エピソード

  • 酒豪として知られ、ミスター高橋は新日本プロレスに参加した外国人選手の中では10傑に入ると自著で評価している。
  • しかしながら、それがレスラーとしてのマイナス要因であったとする向きもあり、ニック・ボックウィンクルもダンカンの生活態度を好ましくないと指摘していた。『週刊ファイト』の初代編集長だった井上義啓は、ダンカンを「アルコール漬け」と評した。
  • 1970年代のスタン・ハンセンのビジュアル・イメージは先輩であるダンカンの影響下にあった。両者は1979年、AWAでも短期間ながらタッグを組んでいる(当時のAWA世界タッグ王者チームのバーン・ガニア&マッドドッグ・バションに挑戦し、同年8/15にカナダのマニトバ州ウィニペグにおいてタイトルを奪取したともされている)。後年、息子のボビー・ダンカン・ジュニアも全日本プロレスでハンセンのタッグパートナーを務めた。
  • ボビー・ダンカン・ジュニア(ボビーD)はWCWではカート・ヘニング率いるウエスト・テキサス・レッドネックスの一員として活躍したが、父ダンカンは若手時代にカート・ヘニングの父ラリー・ヘニングに鍛えられ、カートは新日本のMSGタッグ・リーグ戦に初来日した際にダンカンのリードを受けていた。ヘニング親子とダンカン親子は、それぞれ2代に渡ってお互いの面倒を見ていたことになる。

獲得タイトル

  • AWA世界タッグ王座:1回(w / ブラックジャック・ランザ)
  • NWAテキサス タッグ王座:1回(w / クリス・コルト)
  • NWAフロリダ タッグ王座:3回(w / ディック・マードック、キラー・カール・コックス、ザ・スポイラー1号)
  • NWAフロリダ グローバル・タッグ王座:1回(w / アンジェロ・モスカ)
  • NWAフロリダ TV王座:1回
  • NWA南部ヘビー級王座:1回
  • NWAブラスナックル王座:2回
  • NWA USタッグ王座:1回(w / キラー・カール・コックス)

 etc.






ゴージャス" ジノ・ヘルナンデス
Gorgeous" Gino Hernandez

1957/8/14 - 1986/1/30

チャールズ・ウォルフCharles Wolfe、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ハイランドパーク出身。1973年に日本で客死したプロレスラー、ルイス・ヘルナンデス継父にあたる。

地元のテキサスを主戦場に、サンアントニオとダラスの2大プロモーションを股にかけて活躍。プロレス界でも屈指のハンサム・ガイでありながら、持ち前の向こうっ気の強さを活かし、不良系のヒールとして名を馳せた。イタリア系とヒスパニック系のハーフであり、ハンサム・ハーフ・ブリードThe Handsome Half-Breed)の異名を持つ。そのキャラクターは、弟弟子ショーン・マイケルズのハートブレイク・キッドにも通底している。

来歴

亡父ルイス・ヘルナンデスの従兄弟でもあるメキシコ系アメリカ人のスター、ホセ・ロザリオのトレーニングを受け、サンアントニオのSCW(Southwest Championship Wrestling)にて1975年にデビュー。その後、ベビーフェイスの新鋭としてザ・シークが牛耳るデトロイト地区で修業を積み、1977年1月にはブルドッグ・ドン・ケントを破りNWA USヘビー級王座を獲得した。

同年の下期よりテキサスに戻り、フリッツ・フォン・エリックが主宰するダラスのNWAビッグ・タイム・レスリング(後のWCCW)を主戦場とする。翌1978年3月、全日本プロレス『エキサイト・シリーズ』に初来日。同シリーズ後半戦にはリック・フレアーが特別参加しており、後のキャラクター形成に大きな影響を受けることとなる。以降は"ゴージャス・ジノ" を名乗り、フレアー・タイプの色悪系ヒールに転向。デビッド・フォン・エリックとNWAテキサス・ヘビー級王座を巡る抗争を開始し、師匠のホセ・ロザリオとも遺恨試合を展開した。また、タッグ戦線ではジミー・スヌーカやブルーザー・ブロディのパートナーに起用され、NWAテキサス・タッグ王座を計3回獲得している。

ダラスには1980年まで定着し、1981年からは古巣のサンアントニオSCWに復帰。2/27にはヒューストンでチャボ・ゲレロからNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を奪取している。同年8月、全日本プロレスの『スーパー・アイドル・シリーズ』に再来日。同シリーズではジプシー・ジョーの相棒となり、マスカラス兄弟(ミル・マスカラス&ドス・カラス)やリッキー・スティムボートらアイドル勢を相手にイキのいいラフファイトを披露、ヒールとしての持ち味を日本でも遺憾なく発揮し、次回の来日が期待された。

この時期、ジム・バーネットが主宰するNWAジョージア地区にも登場。ロディ・パイパーのインタビュー・コーナーに出演し、女優ファラ・フォーセットのバースデイ・パーティーに招待されたことを鼻にかけ、彼女をモノにしたと嘯くなど色悪ぶりをアピール、同地区のトップ・ベビーフェイスとして女性ファンの支持を集めていたトミー・リッチを挑発した。

本拠地のSCWではニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座にも挑戦。タッグでは、団体のプロモーターであるジョー・ブランチャードの息子タリー・ブランチャードとダイナミック・デュオThe Dynamic Duo)を結成。1981年から1983年にかけて、SCWサウスウエスト・タッグ王座を5回に渡って獲得、ワフー・マクダニエル&テリー・ファンクなどの強豪チームを相手に激闘を繰り広げた。

1984年、ブランチャードのNWAミッドアトランティック地区移籍に伴い、チームを解散して再びダラス地区に参戦。同年6/23、手本としていたリック・フレアーをトーナメントの決勝で撃破しテキサス・ヘビー級王座に返り咲く。1985年からは"ジェントルマン" クリス・アダムスを新パートナーにダイナミック・デュオを再編。NWAアメリカン・タッグ王座を巡るフォン・エリック兄弟(ケビン&ケリー・フォン・エリック)との抗争劇は、同地区のドル箱カードとなった。

1986年、当時ダラス地区と提携を結んでいた新日本プロレスへの来日が決定。アダムスとのコンビで2月28日開幕のシリーズへの参加が発表されたが、来日を目前に控えた2月4日、ハイランドパークの自宅で死亡しているところを発見される。検死の結果、死亡日は1/30、死因はコカインの過剰摂取と判明した。28歳没。あまりにも突然の死のため自殺説や他殺説も囁かれたが、いずれも推測の域を出ていない。

獲得タイトル

SCW(サンアントニオ地区)
  • SCWサウスウエスト・タッグ王座:5回(w / タリー・ブランチャード)
  • SCW世界タッグ王座:2回(w / タリー・ブランチャード)
WCCW(ダラス地区)
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:3回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:5回(w / エル・グラン・マルクス×2、ゲーリー・ヤング、クリス・アダムス×2)
  • NWAテキサス・ブラスナックル王座:1回
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:6回
  • NWAテキサス・タッグ王座:3回(w / ジミー・スヌーカ、パク・ソン、ブルーザー・ブロディ)
  • NWA世界6人タッグ王座:1回(w / クリス・アダムス&ジェイク・ロバーツ)
その他
  • NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座:1回
  • NWA USヘビー級王座(デトロイト版):1回





"ビューティフル" ボビー・イートン
"Beautiful" Bobby Eaton
1958/8/14

アメリカ合衆国の元プロレスラー。本名はロバート・リー・イートンRobert Lee Eaton)。アラバマ州ハンツビル出身。

1980年代に一世を風靡した悪役タッグチーム、ミッドナイト・エクスプレスThe Midnight Express)での活躍で知られる。

来歴

初期

1976年、日系アメリカ人レスラーのトージョー・ヤマモトのトレーニングを受け、地元のアラバマとテネシーをサーキット・エリアとしていたニック・グラス主宰のNWAミッドアメリカ地区にてデビュー。ベビーフェイスの新鋭としてキャリアを積み、1979年2月にはランディ・サベージを破りミッドアメリカ・ヘビー級王座を獲得。タッグでは同月、メキシカン・エンジェルとのコンビでファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)から同タッグ王座を奪取している。

1980年下期からは、ジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーが興したCWA(翌年にグラスのプロモーションを吸収)に主戦場を移し、10月にオースチン・アイドルからの不戦勝でCWA世界ヘビー級王座を獲得。以降はビル・ロビンソンと同王座を争った。なお、同年には同じくテネシーを主戦場としていたジプシー・ジョーの仲介で国際プロレスへの来日が予定されていたが、急遽中止になっている。

CWAではヒールに転向し、ダッチ・マンテル、スウィート・ブラウン・シュガー、ビル・ダンディー、ジャック・ルージョー・ジュニアらを相手に、グラス派から管理権が移行したミッドアメリカ・ヘビー級王座を争った。同王座は1983年にかけて、通算12回獲得している。

ミッドナイト・エクスプレス

1984年、デニス・コンドリーやマネージャーのジム・コルネットと共に、団体間のトレードによってビル・ワットのMSWAに移籍。コンドリーが1981年にランディ・ローズやノーベル・オースチンと結成していたミッドナイト・エクスプレスThe Midnight Express)を再編し、同じくCWAから移籍してきたロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)と抗争を繰り広げた。

その後はフリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWを経て、1985年よりノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)に参戦。ロックンロール・エクスプレスとのドル箱カードを同地区でも再現し、ロード・ウォリアーズとも抗争を開始するなど、1980年代を代表するタッグチームの一員として名を馳せた。

1987年にコンドリーがNWAを離脱するとスタン・レーンを新しいパートナーに起用。1988/9/10にはレーンとの新コンビでフォー・ホースメンのタリー・ブランチャード&アーン・アンダーソンを破り、ミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を獲得している。一方、コンドリーはAWAにおいてポール・E・デンジャラスリーをマネージャーに、初代メンバーのランディ・ローズとオリジナル版のミッドナイト・エクスプレスを再結成していた。1988年末に彼らがNWAに移籍してくると、イートン&レーンはベビーフェイスのポジションに回り、コンドリー&ローズとの骨肉の争いを展開。この遺恨試合は、コルネットとデンジャラスリーのマネージャー間の抗争にまで発展した。

同時期、テッド・ターナーのクロケット・プロ買収によりNWAは新会社WCWへの移行期にあったが、ジム・ハード副社長との対立でコルネットとレーンは1990年11月にWCWを退団。ミッドナイト・エクスプレスも終焉を迎えることとなった。

WCW

ミッドナイト・エクスプレス解散後はヒールに戻り、ポール・E・デンジャラスリー率いるデンジャラス・アライアンスDangerous Alliance)に加入。ラリー・ズビスコ、リック・ルード、"スタニング" スティーブ・オースチンらと共闘する。1992/1/16にはアーン・アンダーソンとのコンビでリッキー・スティムボート&ダスティン・ローデスからWCW世界タッグ王座を奪取した。

1992年下期、当時の新副社長ビル・ワットによってWCWを解雇され、コルネットが旗揚げしたSMW(スモーキー・マウンテン・レスリング)に参戦していたが、ワットの失脚に伴い翌1993年よりWCWに復帰。同年5月、WCWとの提携ルートで新日本プロレスに初来日し、トニー・ホームと組んでヘルレイザーズ(ホーク&パワー・ウォリアー)のIWGPタッグ王座に挑戦した。

その後はスタン・レーンのファビュラス・ワンズ時代の相棒だったスティーブ・カーンとバッド・アティテュードBad Attitude)なるタッグチームを組んだが、成功には至らなかった。

1995年、ロード・スティーブン・リーガルに紳士となるための英才教育を受けたという設定のもと、アメリカ南部出身でありながら英国貴族ギミックのキャラクターに変身。リングネームも格調高く "アール" ロバート・イートン"Earl" Robert Eaton)と改め、リーガルのパートナーとなって新チームのブルー・ブラッズThe Blue Bloods)を結成する。再びタイトル戦線に浮上し、ナスティ・ボーイズやハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカー・T)とWCW世界タッグ王座を巡る抗争を展開。リーガルの負傷中は、新メンバーの "スクワイア" デビッド・テイラーと組んで活動した。

1996年にブルー・ブラッズを離れ、リングネームを "ビューティフル" ボビー・イートンに戻してディック・スレーターとコンビを組んでいたが、1990年代後半はセミリタイア状態となり、ポール・オーンドーフがヘッド・インストラクターを務めていたWCWパワープラントにて若手選手の指導に携わった。

2001年のWCW崩壊後は、2003年8月にTNAに出場してキッド・キャッシュと対戦。近年も各地のインディー団体へのスポット参戦を続けており、デニス・コンドリーやスタン・レーンとミッドナイト・エクスプレスを再結成することもある。

獲得タイトル

NWAミッドアメリカ / CWA
  • NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:12回
  • NWAミッドアメリカ・タッグ王座:7回(w / ラニー・ポッフォ、ジョージ・グラス×3、メキシカン・エンジェル、グレート・トーゴー)
  • NWAミッドアメリカTV王座:1回
  • NWA世界6人タッグ王座(ミッドアメリカ版):4回(w / ジョージ・グラス &ジェリー・バーバー、ジョージ・グラス&アーヴィル・ハット、ジョージ・グラス&メキシカン・エンジェル、シークレット・ウェポン&トージョー・ヤマモト)
  • AWA南部タッグ王座:4回(w / スウィート・ブラウン・シュガー×2、デューク・マイヤース×2)
  • CWA世界ヘビー級王座:1回
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAジョージアTV王座:1回
ミッドサウス・レスリング・アソシエーション
  • ミッドサウス・タッグ王座:2回(w / デニス・コンドリー)
ワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / デニス・コンドリー)
ジム・クロケット・プロモーションズ / WCW
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):2回(w / デニス・コンドリー、スタン・レーン)
  • NWA USタッグ王座(ミッドアトランティック版):3回(w / スタン・レーン)
  • WCW世界タッグ王座:1回(w / アーン・アンダーソン)
  • WCW世界TV王座:1回
スモーキー・マウンテン・レスリング
  • SMWビート・ザ・チャンプTV王座:1回
その他
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座(インディー版):1回(w / リッキー・ネルソン)
  • NWAブルーグラス・タッグ王座:1回(w / デニス・コンドリー)
  • NWAロッキートップ・タッグ王座:1回(w / デニス・コンドリー)
  • IWCタッグ王座:1回(w / デニス・コンドリー)

  



"ホット・スタッフ" エディ・ギルバート
"Hot Stuff" Eddie Gilbert
1961/8/14 - 1995/2/18

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はトーマス・エドワード・ギルバート・ジュニアThomas Edward Gilbert, Jr. )。テネシー州レキシントン出身。

業界紙『レスリング・オブザーバー』の "Wrestling Observer Newsletter awards" において1988年度の "Best Booker" に選出されるなど、ブッカーとしても活躍した。父親のトミー・ギルバート、弟のダグ・ギルバートもプロレスラーである。

来歴

初期

父トミー・ギルバートのトレーニングのもと、1979年に地元テネシー州メンフィスのCWAにてデビュー。ベビーフェイスの新鋭としてトミーやリッキー・モートンとのタッグチームで活動し、モートンとのコンビではアメリカ武者修行中の大仁田厚(ミスター・オーニタ)&渕正信(マサ・フチ)とも南部タッグ王座を争った。

1982年の下期からは約1年間、ビンス・マクマホン・シニアが主宰していたニューヨークのWWFをサーキット。サージェント・スローターやマスクド・スーパースターなど、当時のWWFヘビー級王者ボブ・バックランドの挑戦者となるヒール勢のジョバーを務め、カート・ヘニングとの若手コンビでも活動した。1982/11/25には、フィラデルフィアにてタイガーマスクのWWFジュニアヘビー級王座にも挑戦。WWFルートで1983年10月に新日本プロレスに初来日したが、負傷により途中帰国している。

1984年より古巣のCWAに復帰し、AWAに移籍したファビュラス・ワンズ(スティーブ・カーン&スタン・レーン)の後任として、トミー・リッチとニュー・ファビュラス・ワンズを結成する。ココ・ウェアとノーベル・オースチンのプリティ・ヤング・シングスなどと抗争したが、CWAを離脱したカーン&レーンへのあてつけとして組まされたクローン・チームだけに成功には至らず、リッチとの仲間割れアングルのもとギルバートはヒールに転向。以後はリッチやジェリー・ローラーと抗争を繰り広げ、1985年2月にはローラーから南部ヘビー級王座を奪取した。

ホット・スタッフ

CWAでのヒールターンは彼のマイクパフォーマンスの才能を開花させ、1985年下期からはホット・スタッフHot Stuff)をニックネームに、ビル・ワットのMSWAにプレイング・マネージャーとして移籍。1986年に同団体がUWFと改称してからは若手ヒール時代のスティングとリック・スタイナーを配下に、ハリウッド・ジョン・テータムとジャック・ビクトリーのマネージャーだったミッシー・ハイアットと共闘して、H&HインターナショナルHot Stuff & Hyatt International)なるユニットを結成した。

1987年にワットがNWAのジム・クロケット・ジュニアにUWFを売却した後は一時アラバマ地区に転出したが、1988年よりWCWへの移行期にあった末期のジム・クロケット・プロモーションズに移籍。ベビーフェイスのポジションに回り、リッキー・スティムボートのNWA復帰のパートナーとなってリック・フレアー&バリー・ウインダムと抗争した。UWF時代の盟友リック・スタイナーとも再合体し、1989年2月にバーシティ・クラブのスティーブ・ウィリアムス&ケビン・サリバンからUSタッグ王座を奪取している。また、WCWではフレアーやサリバン、ジム・コルネットらと共にブッキング・コミッティの一員となり、フレアー&スティング対テリー・ファンク&グレート・ムタの抗争アングルなどを手掛けた。

1990年、ジム・ハード副社長による新体制への以降に伴いWCWを脱退してメンフィスに戻り、CWAの後継団体であるUSWAに登場。再びヒールターンし、ジェリー・ローラーとのユニファイド世界ヘビー級王座を巡る抗争劇を展開した。1991年9月には、当時USWAと接点のあったW★INGプロモーションに参戦し、久々の来日を果たしている。

その後はテキサス州ダラスのGWFを経て、1993年は初期のECW(イースタン・チャンピオンシップ・レスリング)でヘッド・ブッカーを担当した。選手としても、ダーク・パトリオットこと実弟ダグ・ギルバートと組んでECWタッグ王座を獲得したが、ポール・ヘイマンのプロデューサー就任により同年秋にチャンピオンのままECWを離脱している。

ECW脱退後の1993年11月、ゴムマスクを被って覆面レスラーのブギーマンに変身し、W★INGプロモーションの『モースト・デンジャラス・タッグ・ウォーズ』にレザーフェイス(リック・パターソン)のパートナーとして出場。当時、W★INGにはダグ・ギルバートがフレディ・クルーガーに扮して活躍しており、両者はリーグ戦で対戦したが、10秒程度で試合を終わらせた後、それぞれマスクを脱ぎ捨て自分たちの素顔を曝して兄弟であることを明かし、マイクで同団体への批判を公言した上で全日本プロレスへの移籍を表明するという前代未聞の事件を起こした。ギャランティやマッチメークへの不満など行動におよんだ原因には諸説あるが、彼はアメリカでも各団体でトラブルを起こしており、全日本移籍も結局は実現しなかった。

1994年からはUSWAに復帰し、ジェリー・ローラーとの抗争を再開。ジム・コルネットが運営していたケンタッキー州ルイビルのSMWやプエルトリコのWWCなどにもブッカーとして関わった。

1995/2/18、プエルトリコにて心臓発作により死去。33歳没。彼は1983年に交通事故に遭って以来ペインキラーを常用しており、それが心臓に負担を与えていたとされている。1996年にはニュージャージーにてトリビュート・イベントが開催され、トミー&ダグ・ギルバート、ジェリー・ローラー、トミー・リッチ、アル・スノー、キングコング・バンディ、マーティ・ジャネッティ、ダン・スバーン、2コールド・スコーピオ、シッド・ビシャス、ジョージ・スティール、ドリー・ファンク・ジュニアらが参加した。

なお、UWFでH&Hインターナショナルを結成していたミッシー・ハイアットとはNWA(WCW)移籍後の1988年に結婚したが、後に離婚している。1991年にはデブラ・ミセリーと再婚するも、こちらも約4カ月間で破局を迎えた。

獲得タイトル

セントラル・ステーツ・レスリング
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / リッキー・ロメロ)
CWA / USWA
  • AWA南部ヘビー級王座:1回
  • AWA南部タッグ王座:4回(w / トミー・ギルバート×2、トミー・リッチ、リッキー・モートン)
  • CWAインターナショナル・ヘビー級王座:2回
  • USWAヘビー級王座:1回
  • USWA南部ヘビー級王座:1回
  • USWAタッグ王座:1回(w / ブライアン・クリストファー)
  • USWAユニファイド世界ヘビー級王座:4回
NWAトライステート / MSWA / UWF
  • NWAトライステート・タッグ王座:3回(w / トミー・ギルバート、リッキー・モートン×2)
  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / トミー・ギルバート)
  • ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / ザ・ナイトメアー)
  • UWF世界タッグ王座:2回(w / スティング)
  • UWF世界TV王座:1回
ジム・クロケット・プロモーションズ
  • NWA USタッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / リック・スタイナー)
イースタン・チャンピオンシップ・レスリング
  • ECWタッグ王座:1回(w / ダーク・パトリオット)
グローバル・レスリング・フェデレーション
  • GWF北米ヘビー級王座:1回
  • GWF TV王座:2回
ワールド・レスリング・カウンシル
  • WWC北米タッグ王座:1回(w / トミー・ギルバート)




 
ハイアン・グレイシー
Ryan Gracie
1974/8/14 - 2007/12/15

ブラジルリオデジャネイロ州出身の男性ブラジリアン柔術家、総合格闘家。ブラジリアン柔術創始者カーロス・グレイシーの次男カーロス・ホブソン・グレイシーの四男。兄弟には、同じく総合格闘家の次男ヘンゾ・グレイシーや三男ハウフ・グレイシーがいる。ヒクソン、ホイス、ホイラー・グレイシー兄弟の「従弟」と紹介されることがあるが、実際には「ヒクソン等の従兄弟の子供」である。
2007年12月14日
車の強盗事件で逮捕され、収監される。翌12月15日、サンパウロ市西部にある91分署の拘置所内にて死去。死因は不明
【特集】ハイアン・グレイシー死亡 窃盗で拘留中、死因不明

戦績
7試合5勝2敗
開催年月日 対戦相手 試合結果 勝敗
2004/12/31
PRIDE 男祭り 2004
-SADAME-
安生洋二 1R 8:33 腕ひしぎ十字固め
2004/5/23
PRIDE 武士道
-其の参-
美濃輪育久 2R(10分/5分)終了 判定2-1
2003/10/5
PRIDE 武士道
浜中和宏 1R 7:37 TKO
(右膝負傷→サッカーボールキック)
2002/9/29
PRIDE.22
大山峻護 1R 1:37 腕ひしぎ十字固め
2001/7/29
PRIDE.15
石澤常光 1R 4:51 KO(膝蹴り) ×
2000/12/23
PRIDE.12
桜庭和志 10分1R終了 判定0-3 ×
2000/8/27
PRIDE.10
石澤常光 1R 2:16 TKO(パンチ)

PRIDE DVD紹介





コフィ・キングストン
Kofi Kingston
1981/8/14

コフィ・サーコーディエ=メンサーKofi Sarkodie-Mensah)は、ガーナ出身のプロレスラー。

WWEでは初のジャマイカ人レスラーの触れ込みで活動していたが、現在はガーナ出身であることを公表している。

来歴

2006年にWWEとディベロップメント契約を交わし下部組織であるDSWに所属。以降OVW、FCWに所属し、数多くのマイナーイベントやダーク・マッチなどにも出場していた。

2007年12月にはWWEのブランドの一つECWに登場。2008/1/6に正式なデビューを果たした。WWEでは初のジャマイカ人選手として注目を浴び、デビュー戦ではジョバー選手相手に勝利を収めている。その後も連勝を続けていたが、同じくECWに所属していたシェルトン・ベンジャミンに敗れ連勝がストップ。その後はベンジャミンとの抗争を展開した。

2008年

6月に行われた追加ドラフトの結果、RAWに移籍。同月に行われたナイト・オブ・チャンピオンズではクリス・ジェリコの保持するIC王座の挑戦者に抜擢され、ショーン・マイケルズの乱入もあり王座を獲得した。8月のサマースラムでミッキー・ジェームスと組み、サンティーノ・マレラ&ベス・フェニックスと対戦するも敗退、ミッキーと共に王座を失った。

10月のサイバー・サンデー翌日のRAWにてCMパンクと組みコーディ・ローデス&テッド・デビアス・ジュニアの保持する世界タッグ王座に挑戦し、奪取に成功。その後12月のハウス・ショーでジョン・モリソン&ザ・ミズに王座を奪われた。

2009年 - 2011年

2009年にはノー・ウェイ・アウトで行われるエリミネーション・チェンバー・マッチ形式での世界ヘビー級王座戦への挑戦権を得るが、PPVの第1試合のWWE王座戦でWWE王座を失ったエッジに入場中に襲撃され、出場枠を奪われた。

6/1のRAWでMVPの保持するUS王座に挑戦し奪取に成功。その後はトリプルスレットマッチや6パック形式の王者に不利な王座戦を多く組まれるも、そのたびに防衛に成功している。しかし10/5のRAWでの王座戦にてザ・ミズに敗れ、王座陥落。その後ブラッギング・ライツでのランディ・オートン対ジョン・シナのWWE王座戦に乱入したことや、レガシーのテッド・デビアスとコーディ・ローデスからプレゼントされた車を壊されたことがきっかけとなり、オートンと抗争を開始した。11月のサバイバー・シリーズではエリミネーション戦で自らチームを率いてオートン軍と闘い勝利したが、12月のTLCのシングル戦で敗北し抗争は終了した。

2010/4/26のRAWで行われたドラフトによりスマックダウンへ移籍。

NXTシーズン2ではマイケル・マクギリカティを指導するプロとして登場していた。

スマックダウンでは空位だったIC王座のトーナメントを勝ち抜き新王者になるはずだったが、前王者のドリュー・マッキンタイアに返上することになり、抗争を展開。5/23のオーバー・ザ・リミットでマッキンタイアに勝利してIC王座を獲得したが、8/2にドルフ・ジグラーに敗れ、王座を失った。その後からジグラーと抗争し何度も王座戦に挑むがヴィッキー・ゲレロに邪魔をされて奪還することはできなかった。

11月に二年ぶりに開催されたキング・オブ・ザ・リングトーナメントでは予選でジャック・スワガーを破るが、1回戦でシェイマスに敗れた。

2011/1/7のスマックダウンで行われたジグラーとのIC王座戦に勝利し、王座を奪還した。

4月末に行われた追加ドラフトでRAWに移籍した

獲得タイトル

  • WWEインターコンチネンタル王座 : 2回
  • WWEユナイテッドステイツ王座 : 2回
  • WWE世界タッグ王座 : 1回(w / CMパンク)

入場曲

  • Confrontation (Damian Marley)
  • This Is Why I'm Hot -Remix- (Baby Cham and Junior Reid)
  • S.O.S. (Collie Buddz) -

備考

  • WWE初のジャマイカ人レスラーと言うことで注目を浴びたが、プロレス専門情報によるコフィの実母へのインタビューで「コフィはジャマイカ人では無い。ガーナ生まれのガーナ系アメリカ人である」と答えている。このインタビュー以降コフィは彼の家族への無断なインタビューと、彼の家族の受け答えも一切禁止していたが、2009年10月以降はWWEも「ガーナ生まれのジャマイカ育ち」とギミックを修正している。
  • ガーナ生まれであるが、人生の大半は米国で過ごしており英語のネイティブスピーカーである。
  • 2010/9/11、長年つき合っていたジャマイカ出身の女性と結婚した。










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