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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
8/15

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今日は何の日?


山崎一夫
1962/8/15

元プロレスラー、整体師、タレント。通称山ちゃん。東京都港区出身。

現在のワールドプロレスリング解説者。

来歴

都立玉川高校卒業後、1981年に新日本プロレスに入る。

細身ながら、同じ頃に若手だった高田延彦や小杉俊二と名勝負を重ねる。この頃の得意技はミサイルキックで、初勝利もこの技でフォールを奪っている(相手はデビュー戦だった後藤達俊)。同じ技を得意としていた高田との試合は「青春のミサイルキック合戦」と言われ、第1試合でありながら観客の入りが良く、評価が高かった。

また、この頃に佐山サトル(初代タイガーマスク)の付き人を務めており、このことが後のプロレス人生やファイトスタイルに大きな影響を与えた。初代タイガーマスクが小林邦昭にマスク剥ぎをされた際には、替えのマスクを持った山崎がリングに上がり、タイガーに被らせる場面がテレビに写され、二度目以降のマスク剥ぎの際には、会場から「山崎(山ちゃん)、早く〜」という悲鳴が上がるようになった。

佐山引退(新日本プロレスを退団)後も新日本に残留して前座を沸かせていた(高田とのシングルマッチはTV中継された)が、佐山のザ・タイガージム開設時に退団して、ジムのインストラクターを務めていたが、1984年、佐山が第1次UWFへ参加することが決定した際、一緒に誘われて入団。前田日明、高田延彦、藤原喜明、木戸修らと活動する。

1985年、佐山の第1次UWF退団時に佐山と袂を分かち残留するも同年12月、団体崩壊に伴い、他選手たちと古巣の新日本に復帰。主にIWGPジュニアヘビー級戦線やタッグ戦線などで活躍し、藤原喜明と共にIWGPタッグ王座を獲得したこともある。

1988年、前年の顔面蹴撃事件を元に新日本を退団していた前田が第2次UWFを旗揚げすると、これに賛同し新日本を退団。高田延彦と共に同年5月の旗揚げ戦から参加。以後、主要メンバーの1人として活躍する。特に旗揚げ戦ではメインイベントで前田と対戦し、それまで特に目立った活躍が無かった山崎が、切れ味鋭いハイキックで再三ダウンを奪うなど、エースの前田と互角以上の戦いを繰り広げ、新生UWFのカラーを決定付けた試合として高い評価を受けている。

1990年12月、SWSへの選手貸し出し問題を契機にフロントと選手たちの確執が表面化し、第2次UWFは崩壊。

1991年、高田延彦らとUWFインターナショナル(Uインター)の旗揚げに参加。高田に次ぐ2番手のポジションに就いた。強豪外国人が参戦した際は高田の前に対戦し、間接的に相手の情報を与えるなど、影のフィクサーとして活躍。目玉選手がいないときは自ら高田の相手となり、「困ったときの山ちゃん頼み」と言われた。この頃の山崎は、対北尾光司戦、対ゲーリー・オブライト戦など強く印象に残る試合もあるが、自身のビッグマッチでは負け続けの印象が強く、どちらかといえば不遇の時代であった感が否めない。また当時はリーボックのタイツを履いていた。

1995年にUインターを退団し、フリー宣言。古巣・新日本への殴り込みを表明、再復帰を果たした。この参戦には、Uインター内での確執や山崎の個人的事情が影響していると言われるが、直後に起きた新日本対Uインター全面対抗戦とは関係がなく、山崎自身、「なんで俺について来るんだよ」と語っている。また、U嫌いを公言していた当時の現場監督長州力が、山崎だけは高く買っていたのも事実である(プロレス雑誌の会見等で、Uインターの交渉窓口であった安生洋二・宮戸優光らを罵倒する言葉を吐いた後、必ず「山崎はどうしてる?」「山崎は何て言ってるんだ?」と、長州は必ず雑誌記者に逆取材をかけていたことが当時の雑誌にレポートされていた)。また、山崎のUインター退団時にはリングス(当時)の前田日明も心配して山崎に連絡を取っている。当時新日本の別働隊だった平成維震軍興行における後藤達俊戦がフリー第1戦。立場上ヒールの振る舞いを見せていた山崎だったが、ファンは皆彼の「いい人」ぶりを知っており、リングに立った瞬間に大「山崎」コールを送った。

またこの年の年末(12/30)、大阪城ホールで行われた『突然卍固め』興行において、対抗戦で武藤敬司に破れた高田延彦を元気付ける、という名目で組まれた『アントニオ猪木&高田延彦 vs. 藤原喜明&山崎一夫 60分3本勝負』の2本目に、ハイキックからの体固めで猪木よりフォール勝ちをスコアする。これは、1998年に引退した猪木の最後のフォール負けとなる。

この後新日本本体の興行にも参戦し、フリー的立場を貫いていたが、所属選手となり新日本本隊と合流。1998年のG1 CLIMAXでは、藤波辰爾、佐々木健介、蝶野正洋と過去のG1タイトルホルダーを破り決勝進出。橋本真也との優勝戦では大激闘の末破れるも、その厳しくもけれんみの無いファイトに多くのファンが惜しみない拍手を贈った。これがレスラー人生最大の晴れ舞台だったと言ってよい(実際に山崎も後年、自身のベストバウトに橋本戦を上げている)。

またそれ以降はタッグ戦線での活躍が増え、橋本、飯塚高史(第27代IWGPタッグ王座)、佐々木健介(第32代IWGPタッグ王座)、他にUWF色の強い永田裕志、木戸修とも組み、飯塚高史を加えたユニットは「山崎隊」と呼ばれていた。特にタッグにおいて名勝負が少ないと言われた新日本マットにおいて、蝶野正洋&天山広吉組と山崎&飯塚組のIWGPタッグ王座を巡る攻防は毎回名勝負となり、ファンを沸かせた。この頃のワールドプロレスリング(テレビ朝日)において実況を担当した辻よしなりは、新日本殴り込みに際して山崎が発した言葉から山崎をシェフになぞらえ、「さぁ山崎。今日のメインディッシュは何分で調理できるか、正に腕の見せ所です」といった実況がよく聞かれた。

2000/1/4の対永田裕志戦で引退。

現在は神奈川県綾瀬市で整体治療院を経営する傍ら、NHKで番組の司会を務めたり、テレビ神奈川でレスラーや関係者との対談番組「最強漬」を持つなど、芸能活動も行っている。またワールドプロレスリングレギュラー解説者としても活躍している。元プロレスラーらしからぬ、とても優しく判り易い口調で喋るのが特徴。一方で熱が入ると選手にマイク越しで発破を掛けることもある。特に2000/4/7の橋本真也 vs. 小川直也戦ではヒールホールドを極める橋本に「絞めろ絞めろ!」と発破を掛けた。

2005年10月、長州力が新日本プロレス現場監督に就任したことを受け、同社道場コーチに就任。契約期間は1年。

その他

  • Uインター時代の1991/9/26、札幌中島体育センター別館で行われた興業で、高田延彦 vs. ボブ・バックランドの消化不良の決着から観客が暴動寸前になってしまった。その際リングに上がり謝罪したのが山崎であり、これにより暴動は未然に防がれ、事なきを得た。
  • 一丸の相撲漫画・おかみさんの春日親方のモデルになっている(名は山咲一雄。現役時の四股名は山風)。その弟子として高田というやんちゃでプロレス好きな関取もレギュラーとして登場している。この高田のモデルは、外見から時津洋宏典と言われている。
  • 第2次UWFの旗揚げ2連戦(東京、札幌)において、前田は自らの最初の相手に、高田ではなく山崎を指名した。これは前田と高田が新日本時代を通して兄弟弟子としての色合いが強く、仲は良かったものの、どちらかといえば佐山聡の流れを汲む山崎のほうが、首都圏ではよりインパクトを残せると考えた末のことである(山崎はタイガー・ジムでインストラクターをしていた)。また第2戦が札幌ということもあり、こちらのほうは新日本のジュニア戦線で主役を張っていたことでより知名度の高かった高田をもってくることによって集客を狙うという意味もあった。
  • UWFの象徴アイテムとも言えるレガースを試合で初めて着用したのは、1984年7月23日・同24日の後楽園ホールに於ける「UWF無限大記念日」でのザ・タイガーと山崎。山崎は両日とも第1試合だったので23日の山崎 vs. ガジョ・タパド戦がUタイプレガース試合着用第1号となる。
  • UWF解散後も頑なにUWFメインテーマを入場曲として引退まで使用していた。

著書

  • 『やまちゃんがいっちゃった!』(メディアワークス)
  • 『山崎一夫流 自分で出来る整体術』(大泉書店)

 
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本田多聞
1963/8/15

日本の男性プロレスラーで元レスリング選手、元陸上自衛官。神奈川県横浜市出身。フリーランス。土浦日本大学高等学校、日本大学卒業。プロレスでの愛称は「燃える赤鬼」、「原人」、「五輪の星」。

来歴

現在カヌー講師で東京オリンピックへの出場歴があるカヌー選手であった本田大三郎の子として生まれる。プロサッカー選手の本田圭佑は、いとこの子にあたる。父から「レスリングで優勝できなければ大相撲」へ入門させると脅され、必死にレスリングの練習に励んだ。中学時代から自衛隊の練習に参加するなど、早くからレスリングの素質を見出され、日大在学時にロサンゼルスオリンピックレスリング・フリースタイル100kg級で5位入賞し(高校・大学の同窓に小林孝至がいる)、自衛隊体育学校へ進んだ。当時から異色な人物像で知られており、杉浦貴が後年述べるところによると「兵隊やくざ」と呼ばれていた。3度のオリンピック出場や全日本選手権8度優勝など日本レスリング史上、最高の実績を持つ。当時を知る関係者が「多聞さんが普通に練習をしていたら、オリンピックでメダルぐらい楽に取れていた」というほどで、ある種天才肌である。その技術力の高さから「アマレスの神様」と呼ばれた。

1993年全日本プロレス入団、同年10/8、大分県立荷揚町体育館大会でテッド・デビアス相手にデビュー。プロレス転向後「プロレスの技術を習得するために」とレスリングの技術を封印しヘッドバットを多用するスタイルを身につけた。本田自身が述べるところでは、「同じラケットを使う競技でも、テニスとバドミントンみたいに違う」ものだと言う。試合中、ボディスラムで倒した相手に対し、側転から倒れ込み式ヘッドバットを入れるという、彼にしては珍しいアクロバティックな技を披露したことがあるが、これを見たタッグパートナーの三沢光晴は笑いを堪える程受けていた。後にテレビ番組で三沢は「僕も体操やっていたからわかるんですけど、アレまるっきり(側転をする)意味が無いんですよ」と語った。しかし、稀にレスリング技術を披露し、U系レスラーをレスリング技術で寄せ付けなかったこともある。デビューした当時の新入団選手紹介の時はスポーツ刈りだったが、後に長髪を振り乱したヘアスタイルとなった。その姿を福澤朗が「原人」と表したことからニックネームとして定着した。だがプロレスラーでは珍しく、インタビューにおける一人称に「私」を用いることや、プロレスノア中継での解説などで垣間見えるように、素性はインテリである。現在は長髪を後でくくるヘアスタイルがトレードマークである。

井上雅央とコンビを組み、タッグで活躍する。プロレスリング・ノア移籍後、GHCタッグチャンピオン秋山準・齋藤彰俊組に挑んだが惜しくも敗れ、それをきっかけに長年組んできたタッグを解散する。

度重なる故障で膝の皿が無く、従って膝に爆弾を抱えていることから満足な練習も出来ないが、「残りのレスラー人生をシングルにかける」と宣言し、当時のGHCヘビー級チャンピオン小橋建太に挑戦を表明する。この頃からレスリングの技術の封印を解き、回転地獄五輪シリーズを開発する。何度かの査定試合、挑戦者決定戦の末、挑戦権を得た。

結果として敗れはしたが、小橋に熱い気持ちが伝わり、その後、小橋とタッグを組み、GHCタッグ王座を獲得するなどの活躍をする。リングイン・アウトの時、お互いにロープを開け合うなど信頼・絆の深さを見せる。2007年12月の小橋の復帰戦で解説を務めた際には、試合中にもかかわらず涙を流した。

プロレス界の同期は志賀賢太郎。年齢は一回りほど違い、リング上では志賀にGHCタッグ王座の挑戦権争いに負けた際、「今日ほどプロレスをやめたいと思ったことはない」と言うほどのライバルであるが、お互いの信頼は非常に強い。これは志賀が欠場中、親身になって見舞っていたことで「兄者(あにじゃ)」と慕われたことや、2005年には、志賀の復帰戦の対戦相手を務めたことで分かる。「復帰試合は本田さんにやってもらいたい」と志賀が直訴したほど。本田自身も「志賀が帰ってきてくれたことが我がことの様に嬉しい」とコメントしている。また、志賀のオリジナルホールド「志賀絞め」は本田と志賀の共同開発で、本田も使用することがある。

ノアでは若手選手のコーチ役もしていた。小川良成と二人で、道場で若手の育成に励んでいた。日本テレビのスポーツニュースで育成場面が放送されたが、高いテイクダウン力とグラウンド力をみせていた。

2009年12月末日付で「年間報酬保障フリー選手契約が満了」となりノアを退団、フリーランスとなった。

オリンピックでの成績

  • 1984年ロサンゼルスオリンピック フリースタイル100kg級 5位入賞
  • 1988年ソウルオリンピック フリースタイル100kg級 2回戦敗退
  • 1992年バルセロナオリンピック フリースタイル130kg級 2回戦失格

タイトル歴

全日本プロレス

アジアタッグ王座
第64代(防衛1回) - パートナーは泉田純
第68代(防衛3回) - パートナーは井上雅央
あすなろ杯争奪リーグ戦優勝
第3回大会 - 決勝で大森隆男をダイビング・ヘッドバットで破る

プロレスリング・ノア

GHCタッグ王座
第6代(防衛2回) - パートナーは小橋建太
第12代(防衛0回) - パートナーは小橋建太

WEW

WEWタッグ王座
防衛1回 - パートナーは丸藤正道(タイトルは他団体のものであるが、ノア所属選手として取得)

エピソード

  • ロックなどの音楽が好きで、特にパンクに詳しい。パンクバンド「ラモーンズ」のファンであり、特にボーカルのジョーイ・ラモーンに憧れている。その熱意は高く、自らアマチュア・バンド「タモーンズ」を結成してボーカルのジョーイ・タモーンを名乗るほどである。また入場曲にはUKハードコアパンクバンド「G.B.H.」の「NO SURVIVERS」を用いている。タモーンズでは、実弟が率いていたアマチュアバンド・超絶トリックスターの協力のもと、インディーズでCDをリリースしたこともある。
  • 妻はピアニスト(ピアノ講師)。
  • 料理が得意。また酒豪でもある。全日本プロレス時代にはバラエティ番組で大食いレスラーとして紹介されたこともある。
  • 「三度の飯より釣りが好き」と公言するほどの釣りキチで、田上明が結成した「ノア・サーフクラブ」の一員でもある。また月間釣り情報誌「磯・投げ情報」(海悠出版/主婦と生活社)で“本田多聞のラブ&ピース釣行日誌 多聞の日々是釣日和”という連載を持っている。
  • 大の『ケロロ軍曹』ファンとしても知られている。『ケロロ軍曹』を見て感動し涙を流したこともある。
  • 十数年前、トークショーに於いて「似ているといわれる芸能人は」との問いに「豊川悦司」と答えた。
  • 中学時代はブラスバンド部に所属していた。
  • 3年N組 三八先生やディファ有明戦隊ノアレンジャーでは泉田純至や川畑輝鎮と共に女子学生役を演じている。その際、三八先生では「クラスの魔女軍団」、ノアレンジャーでは「ブサイクちゃん」と呼ばれている





斎藤了
1979/8/15

所属団体はDRAGON GATE。山形県山形市出身。

来歴

闘龍門に第4期生として加入後メキシコに渡り、1999/5/15メキシコのアレナ・ナウカルパンで神田裕之戦でデビュー。同期にはレフェリーの玉岡金太がいる。

自転車に乗りながら入場するというメッセンジャーのギミックで日本逆上陸後、自転車を盗まれたことから始まったドン・フジイとの抗争で好青年かつ天然キャラを確立し人気を博す。1年近く抗争は続き、自転車を奪還するとフジイにラブコールをしてタッグ結成を呼びかけた。フジイはしばらく渋っていたものの熱意に折れ、自転車兄弟としてタッグを組み、二人乗り自転車で入場するようになった。その後はアンソニー・W・森にもラブコールを送ってタッグを組んだりと、正規軍にいながらユニットを越えた動きを見せていた。しかし望月成晃との抗争から正規軍を離脱。その後Do FIXER入りするために自身のトレードマークである自転車をパイプ椅子で殴打した後、マグナムTOKYOにDo FIXER入りを認められた。

2005年からはマグナムTOKYOによりメンバーでは最年少ながら最も積極的なプレーを認められ、2代目リーダーに指名されている。この頃から肉体改造に成功しており、昔に比べて体が一回り大きくなっている。この年行われた第1回KING OF GATEで優勝を果たし、余勢を駆って翌2006年にマグニチュード岸和田を下しオープン・ザ・ドリームゲート王座を戴冠し、第4代王者となる。

2005年のKING OF GATE決勝で対戦し、ドリーム・ゲート王座防衛戦で敗れた横須賀享とのライバルストーリーが展開され、共に次代のエースとして期待を寄せられている。

2007年に入り堀口元気と仲間割れするも、後に和解。しかし、2/4の博多大会で裏切られ、堀口はマッスル・アウトローズに加入し、Do FIXERは解散。その後、CIMA、享に救出され、ドラゴン・キッドとともにTyphoonに加入。

Typhoon加入後は横須賀享とのタッグ「リョウスカ」でさまざまな合体技やコンビネーションを見せるようになり、7/1には邪道&外道を破り、IJタッグ王座を獲得し、第13代王者となる。後に、土井成樹&吉野正人の「土井吉」や新井健一郎&岩佐拓の「新岩」らと数々の名勝負を繰り広げるようになり、タッグ戦線が激化していくようになった。

7/10のオープン・ザ・ドリームゲート王座・次期挑戦者決定ワンナイト・トーナメント1回戦でB×Bハルクと激突し、敗北するもののハルクが顎を負傷したため、敗者復活戦が行われる。以降、ハルクとの遺恨が発生する。

12/28後楽園ホールでのサイバー・コングとのシングルマッチにてサイバーのコスチュームを真似たサイバー・リョウとして登場。パイナップルではなくキュウリを割ったり、動作もサイバーの真似をし若干サイバーをあきれさせたがパワーを見せつけメッセンジャーで勝利した。

2008/2/7、吉野正人の持つオープン・ザ・ブレイブゲート王座に挑戦するが敗北。その後、CIMAが挑戦表明するものの、CIMAがブレイブゲートを侮辱するような発言をしたため、仲間割れする。

4月27日、CIMAの持つドリームゲートに挑戦するが、敗北したものの試合を通じてCIMAとも和解。

5/5、リョウスカとして、新井健一郎&岩佐拓の持つオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦し王座獲得、第3代王者となる。

2009/2/15の博多スターレーン大会において、Typhoon解散後に共闘を呼びかけた横須賀享とオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦したが、試合中にパートナーの横須賀享を裏切り、REAL HAZARD入りした。

3/22、堀口元気をパートナーにGamma&横須賀享組 の持つツインゲートに挑戦するが、反則負けになる。試合後、王者組が「2度とあいつらの挑戦は受けない。」発言する。しかし、同じタッグで4/18、 4/19に行われたオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座・次期挑戦者チーム決定トーナメントに優勝し、発言を逆手に取る形で挑発し、同門である新井健 一郎&神田裕之組も加えた3Wayマッチを要求し、5/5の愛知県体育館大会では実質的に4対2の3Wayマッチで王者組から勝利を奪い、自身2度目のオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座を獲得。

2009/6/7の名古屋国際会議場大会のオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座の防衛戦で、挑戦者の鷹木信悟の腕をコーナーにガムテープで縛りつけ、その間にドラゴン・キッドからダブルクロスで3カウントを取り初防衛を果たしている。

12/13の試合中にアキレス腱断裂を起こし、長期欠場に陥る。

4/25博多スターレーンにて復帰、堀口元気がWARRIORSに加入させようとするも「やり残したことがあるような気がしたんで、ごめんなさい」と拒否。「やり残したこと」とは横須賀享との再タッグ結成だったが、享に断られてしまう。その後「訳がわからないからWARRIORSでやっていきましょう」とWARRIORSに加入した。

長期欠場の影響で復帰当初はTyphoon時代のコスチュームにDoFIXER時代のTシャツを着用したり、ドラゴン・キッドのことが思い出せないなど(ギミック上)記憶喪失状態に陥っていたが、後にキッドの一撃がきっかけで記憶を取り戻した。

タイトル

  • オープン・ザ・ドリームゲート王座…第4代
  • オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座…第2代、第4代、第7代(パートナーはドラゴン・キッド、堀口元気)、第11代、第13代(パートナーはCIMA、横須賀享)
  • オープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座…第3代(パートナーは横須賀享)、第7代(パートナーは堀口元気)
  • IJタッグ王座…第13代(パートナーは横須賀享)
  • KING OF GATE 2005優勝

エピソード

  • Do FIXERに加入する際の条件として、マグナムのダンスをマスターすることを言い渡されたが、マグナムダンスに加え自分用のダンスまで習得してきた。トップ戦線に踊り出てからはコミカルな部分を封印しているせいか、ダンスをしなくなっている。
  • アンソニーと菅原拓也のカベジェラ・コントラ・カベジェラにおいて、敗れたアンソニーの身代わりに丸坊主になったことがあるが、2009年3/22に行われたサイバー・コングとアンソニーのマスカラ・コントラ・カベジュラマッチではサイバーをアシストし、アンソニーを丸坊主にさせた。
  • 堀口元気とは同ユニットに所属すると仲違いを起こすものの、気付けば再び同じユニットに所属する。付かず離れずの関係である。(正規軍で仲間割れ、DoFIXERで仲間割れしたが、再び同じユニットに現在は所属している)
  • 横須賀享とタッグを組んだ後に作成したコスチュームに書かれている「023」という数字は、出身地である山形市の市外局番である。
  • 入門当初、先輩のドラゴン・キッドに無視されたことを未だに根に持っている。
  • 阪神ファン。
  • イメージカラーは橙だったがREAL HAZARDに加入してからはユニットのカラーに合わせているため封印している。
  • 鳥が苦手。





イ・グァンヒ
Kwang Hee Lee
1986/8/15

韓国出身の総合格闘家。Tuhon Jeongsim Gym 所属。Spirit MCウェルター級王者。

来歴

2007/8/19、クォン・アソルとSpirit MCウェルター級王座を賭け対戦。TKO勝ちしウェルター級王者となった。

2008/5/18、戦極初参戦となった戦極 〜第二陣〜で光岡映二と対戦し、チョークスリーパーで一本負け。


  



田鶴浜弘
1905 - 1991/8/15

日本のスポーツライター、プロレス評論家。日本ボディビル協会の副会長も務めた。

来歴・人物

早稲田大学卒業。スポーツ記者として広く活躍し、とりわけプロレスでは「プロレス評論家の草分け的存在」と称される。日本初のプロレス専門誌『月刊プロレス』の創刊にも携わった。

1972年の全日本プロレス創立から1985年頃まで、日本テレビの『全日本プロレス中継』で解説者を務める(メインの解説者は山田隆で田鶴浜は二番手のポジションだった)。1975年に全日本で行われたオープン選手権では準備委員会の委員を務めた。

子供向け入門書を含め著書を多数発表。

弟子に流智美がおり、流によると「そのレスラーの前に出た時に見せられないようなものは書いてはいかん」と教えを受けたという。

漫画『キン肉マン』に登場する解説者のタザハマは田鶴浜がモデルである。

書籍

著書

  • 『プロレス血風録 ―世界を制覇する怒濤の男たち』(1968年)
  • 『格闘技スーパー・スター』(1980年)
  • 『プロレス大研究』(講談社、1981年)
  • 『プロレス総覧』
  • 『プロレス・オール強豪名鑑 日本編』(1986年)

監修

  • 『あなたの”健康と美”をつくるウエイト・トレーニング』(川口ボディビルセンター/1969年)




 












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