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プロレス/格闘技
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8/16

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フリッツ・フォン・エリック
Fritz Von Erich
1929/8/16 - 1997/9/10

アメリカ合衆国テキサス州出身のプロレスラー。本名はジャック・バートン・アドキッセンJack Barton Adkisson、ハンス・アドキッセンとも)。

ギミック上の出身地はドイツ・ベルリン。アイアンクローの開祖として知られ、「鉄の爪」はそのまま彼の異名にもなった。引退後はテキサス州ダラスのWCCWテリトリーのプロモーターとして活動した。

来歴

13歳の時にアメリカに移住、父母ともにドイツ系ユダヤ人であり、ナチスの迫害を逃れたものだった(とされる)が、リング上のキャラクターとしては「ナチス親衛隊の生き残り」と称することもあった。

大学時代はフットボールの選手として活躍、スチュ・ハートのコーチを受け1954年にプロレスラーとしてデビュー。ナチ・ギミックのヒールとなって活動し、1950年代後半からは彼の「弟」という設定のワルドー・フォン・エリックとの兄弟タッグでも悪名を売った。1963/7/27にはネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得、第9代王者となった。

1966年よりテキサス州ダラスにてNWA傘下の団体NWAビッグタイム・レスリングを設立。同年12月にはメインタイトルであるNWAアメリカン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなり、以降ビッグタイム・レスリングのオーナー兼エースとして活躍。アメリカン・ヘビー級王座には1966年から1977年にかけて、ブルート・バーナード、ザ・スポイラー、バロン・フォン・ラシク、ジョニー・バレンタイン、ボリス・マレンコ、トール・タナカ、ブラックジャック・マリガン、ブルーザー・ブロディ、オックス・ベーカーらを破り、通算15回に渡って戴冠した。また、1975年からは1年間、NWAの会長職も務めている。

1980年代からは団体名をWCCWWorld Class Championship Wrestling)に改称し、1982年のキングコング・バンディ戦を最後に現役を引退。以降はプロモート業に注力し、WCCWのボスとして黄金時代を築く。自らの息子たちをエースに、最盛時には「ダラスのプロレスラーはエリックのホテルに部屋を与えられ、エリックのレストランで食事をし、エリックの銀行の小切手でファイトマネーを支払われる」と言われたほど、経済的にも成功をおさめた。一方で、長男のハンス・アドキッセン・ジュニアが幼くして不慮の事故により夭逝して以降、デビッド、ケリー、マイク、クリスとその息子たちがことごとく死去、「呪われたエリック一家」とも囁かれた(デビッドは日本で病死、一説には急性ドラッグ中毒と言われているが、エリック・ファミリーは否定している。ケリー、マイク、クリスは自殺)。健在なのは次男(プロフィール上は長男)ケビンだけとなっている(ケビンはプロレスラーを引退し、近年は母親や妻子とともにカウアイ島在住)。

1980年代後半、ジム・クロケット・ジュニアの発言力が増してNWA内部のパワーバランスが崩れ始めたことを機に、団体名をWCWAWorld Class Wrestling Association)と改称してNWAを脱退。WWFとの興行戦争に抗するべくテネシー州メンフィスのCWAと合併し、新たに発足したUSWAのダラスにおける興行を手掛けるが、最終的にはメンフィス派と袂を分かちプロレスリング・ビジネスから撤退した。その後、長年連れ添った夫人とも離婚し、1997年に癌のため死去。68歳没。

2009年、フォン・エリック一家のWWE殿堂入りが決定。授賞式にはケビンが出席した。

日本との関わり

1966年の初来日以降、日本に度々遠征し、ジャイアント馬場とはインターナショナル・ヘビー級選手権のベルトをめぐる数々の好勝負を残した。初来日時の東京での馬場とのインター戦は、日本武道館のプロレス初興行のメインイベントであった。日本プロレス時代は馬場戦以外にも、ギミック上の「弟」であるワルドー・フォン・エリックや「青銅の爪」キラー・カール・クラップを従えてのインターナショナル・タッグ選手権や、アントニオ猪木とのUNヘビー級選手権などを戦っている。

1973年、日本プロレス最後のシリーズとなった「アイアンクロー・シリーズ」に参戦。日本プロレスの崩壊後は馬場の全日本プロレスに来日するようになり、最後の来日となった1979年には馬場の弟子であるジャンボ鶴田とも戦っている。「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」の最終戦の対戦相手を務めたもので、さすがに年齢には勝てず敗れはしたが、その迫力は健在であった。リング下にいた当時若手の大仁田厚を顔面にアイアンクローをかけてそのままリング上に引きずり上げたのはこの最後の来日時である。1985年頃から日本での提携先を全日本から新日本に変更したが、新日本に来ることはなかった。

また、テキサス州ダラス地区のプロモーター・ブッカーとして、息子たちやブルーザー・ブロディ、ジノ・ヘルナンデス、ファビュラス・フリーバーズなど数々の選手を日本に送り込んだ。

息子たちがまだ幼い頃、一緒に来日した際に広島市の広島平和記念資料館を見学させ、戦争の悲惨さを繰り返し説いていたという。

獲得タイトル

  • AWA世界ヘビー級王座:1回
  • インターナショナル・タッグ王座:1回(w / キラー・カール・クラップ)
  • NWA南部タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ワルドー・フォン・エリック)
  • NWA北米ヘビー級王座(アマリロ版):4回
  • NWA USヘビー級王座(デトロイト版):3回
  • NWA USヘビー級王座(テキサス版):3回
  • NWA世界タッグ王座(テキサス版):2回(w / キラー・カール・コックス、デューク・ケオムカ)
  • NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):1回(w / ケビン&マイク・フォン・エリック)
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:3回
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:15回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:6回(w / ワルドー・フォン・エリック、ビリー・レッド・ライオン、グリズリー・スミス、フレッド・カリー、ダン・ミラー、ディーン・ホー)
  • WWE殿堂:2009年度(フォン・エリック・ファミリーとして受賞。プレゼンターはマイケル・ヘイズ)

 etc.

エピソード

  • 生まれついて掌が大きく握力も強靭で、その握力は一説には200kgを超えていたという。「アイアンクロー」誕生の逸話としては、街で刃物をもった暴漢と遭遇、とっさにその手をつかんだところ、相手は手首を骨折、失神してしまった…などの話がある(他の有力説としては、フットボール選手の頃にボールを握りしめたところ、それを破裂させたことがある経験から考案したというもの)。相手の顔面あるいは胃袋を握りつける、という単純明快な技で、一躍スターダムにのぼりつめる。その「鉄の爪」はルー・テーズのバックドロップなどとともに、20世紀のプロレスを代表する必殺技に数えられる。
  • また、そのアイアンクローで相手選手を出血させたり、自らも試合で出血する場合があり、常に「流血」のイメージがまとわりつくようにもなった。キック力にも優れ、ジャイアント馬場も「馬の蹴りのようだ」と表現したほど。引退の直前までヒール・スター選手であり続けた。
  • 1975年7月に日大講堂で行われたジャイアント馬場との試合の際、場外で男にボールペンで刺される事故に遭うが、平然としている様子が映像に残っている。
  • 梶原一騎は、前記「刃物をもった暴漢と遭遇、とっさにその手をつかんだところ、相手は手首を骨折、失神したのがアイアン・クローの始まり」のほか数々のアイアンクロー伝説を『プロレススーパースター列伝』などで書いた。その中には、「アイアンクローを頭に食って脳波がおかしくなったレスラーは5人をこえる」というものまである。
  • エリックの経済的な成功についての前記の逸話は、『プロレススーパースター列伝』のブルーザー・ブロディ編で取り上げられた。これは1977年にプロレス雑誌で紹介された、当時若手レスラーとしてダラスに参戦していたロディ・パイパーの「エリックの車に乗り、エリックのアパートに住み、エリックのレストランで食べ、エリックのスーパーマーケットで買い、エリックの銀行からファイトマネーを受け取った」というコメントと、「ガソリンをエリックのスタンドで入れ、ファイトマネーの小切手の5%を現金化する際の手数料で払うため、収入の2/3はエリックの懐へ帰る仕組みとなっている」という悪徳マネージャーのゲーリー・ハートの言葉が引用されたものである。

 
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ディック・マードック
Dick Murdoch
1946/8/16 - 1996/6/15

ディック・マードック

リングネームで知られるリチャード・マードックHoyt Richard Murdoch)
アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ワクサハチー出身。

来歴

父のフランキー・マードックもプロレスラーだったことから、幼少期からレスリングの英才教育を受け1965年テキサス州アマリロの「ファンク道場」に入門しプロレス入り。そのほかにもウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボールの選手として活動したが、実際には大学には入学しておらず、勝手に出入りしていたらしい。また、ボクシングの心得もあったとされ、そのキャリアはアメリカ海兵隊時代に身につけたものといわれている。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクとは幼なじみである。

キャリア開始直後はドン・カーソンの弟と称しカーソン・ブラザースでデビュー、その後キラー・カール・コックスとタッグを組み、垂直落下式ブレーンバスターを伝授されている。

1968年2月に日本プロレスに初来日。同年10月にダスティ・ローデスとタッグチーム「テキサス・アウトローズ」を結成し、全米各地区を転戦し活躍した。また、1971/12/4には、アントニオ猪木の持つUNヘビー級王座に挑戦している。

1971年7月、「チェーン・デスマッチの鬼」グレート・ボリス・マレンコとチェーン・デスマッチを行ったことがある。この試合でマードックは豪快な勝ちを収め、怖いもの知らずのアウトロー振りを発揮した。

1973年6月、国際プロレスに参戦しストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。同年10月には全日本プロレスにも参戦した。全日本ではローデスと組んでジャイアント馬場・ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦(1975年)したほか、1980年には鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。目立たないが、オープン選手権でのパット・オコーナー戦、ホースト・ホフマン戦。コックスとのブレーンバスター対決(1976年12月)。ハーリー・レイスとのNWA世界選手権(1974年5月)。キラー・トーア・カマタ(1980年3月)との凄惨な流血戦など名勝負も多く残している。

また、覆面レスラーザ・トルネードに変身してのザ・デストロイヤー戦(1974年)覆面十番勝負などもある。1974/11/5に馬場のPWFヘビー級王座に挑戦した際には回転エビ固めで敗れている。なお、覆面が結構気に入ったのか持ち前の茶目っ気故か、新日本時代にはアンドレ・ザ・ジャイアントがジャイアント・マシーンになったのを見て「俺もマシン軍団に混ぜてくれ」と言っていたという。

1981年に新日本プロレスに移籍。以降も常連レスラーとなり、猪木や藤波辰巳らと激闘を展開した。新日本時代はタッグでの活躍が目立ち、スタン・ハンセン、アドリアン・アドニス、マスクド・スーパースターらとのチームでは日本勢を大いに苦しめた。シングルでは1986年には猪木とIWGP優勝戦を争っている。また、当時は幻とされていたローデスとのアウトローズも復活させファンの喝采を浴びている。

1984年にWWF(現・WWE)入りし、同年4/17にアドニスとのタッグでWWF世界タッグ王座を獲得した。

1989年にFMWに参戦し、以降1990年代の日本での活動はインディー団体を中心に転戦した。アメリカではWCWでディック・スレーターと「ハード・ライナーズ」を結成した。

晩年はテキサスのプロレス復興に取り組んでいたが、その矢先の1996/6/15に心臓麻痺により急死。49歳没。

獲得タイトル

シングルタイトル
  • UNヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:2回
  • NWA南部ヘビー級王座:1回
  • NWAインターナショナル・ヘビー級王座:3回(アマリロ版)
  • NWAブラスナックル王座:3回(アマリロ版)
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:3回
  • NWA北米ヘビー級王座:2回(ミッドサウス版)
  • WWCユニバーサル・ヘビー級王座:1回
  • WWC世界TV王座:2回
タッグタイトル
  • NWF世界タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)
  • IWA世界タッグ王座:2回(オーストラリア版)(w / ラーズ・アンダーソン、ダスティ・ローデス)
  • NWA世界タッグ王座:1回(デトロイト版)(w / ダスティ・ローデス)
  • NWA北米タッグ王座:3回(セントラル・ステーツ版)(w / ダスティ・ローデス、ボブ・スウィータン×2)
  • NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)
  • NWAフロリダ・タッグ王座:2回(w / ダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン)
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / ボビー・ダンカン、ブラックジャック・マリガン)
  • NWA USタッグ王座:1回(ミッドアトランティック版)(w / イワン・コロフ)
  • NWA USタッグ王座:2回(ミッドサウス版)(w / キラー・カール・コックス、テッド・デビアス)
  • MSWAタッグ王座:3回(w / ジャンクヤード・ドッグ)
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / アドリアン・アドニス)

入場テーマ曲

  • Texas Fight(Texas Longhorn Band) - テキサス大学オースティン校フットボール部の応援歌





ターザン後藤
1963/8/16

元大相撲力士、現プロレスラーである。本名は後藤 政二(ごとう まさじ)。静岡県島田市出身。

経歴

大相撲時代

中学校を卒業すると九重部屋に入門、後藤(ごとう)の四股名で1979年3月場所に15歳で初土俵を踏む。しかし同年11月場所限りで廃業、最高位は序二段95枚目。島田市出身者では初めての力士だったらしく、当時実家にも地元マスコミの取材が来たという。

全日本プロレス時代

大相撲廃業後は全日本プロレスに入門、1981/2/19に福島県霊山町民体育館(現在の伊達市霊山体育館)の越中詩郎戦でデビューする。1983年にプロレス大賞新人賞を受賞する。トレードマークとなるワンショルダータイツは、デビューからしばらく経ってから身に着け始めた。また、リングネームを本名から現在のものに改めたのは、さらにしばらく後のことである。

1985年に海外遠征し、ベトナム人レスラー『ホー・チー・ウィン』のリングネームで活動した。また1986年にはテネシー地区で佐藤昭雄と日本人タッグを組み、同地区のインターナショナル・タッグの初代王者となっている。当時、大相撲で昭和38年生まれの力士達(北尾・北勝海・寺尾・琴ヶ梅ら)が「花のサンパチ組」と呼ばれて活躍していたことを受け、TBSテレビが「中村敦夫の地球発22時」で、昭和38年生まれの元力士達のその後を追った番組を制作した際、番組の目玉の一人として遠征中の近況が紹介されたことがある。現地で女子プロレスラーのデスピナ・マンタガスと知り合い結婚している。しかし全日本プロレスより帰国命令がなく、そのまま現地に定着。帰国命令が無かった理由は、後藤は現地で結婚して引退しアメリカにそのまま定住した、と全日本から思われていたためとの説があり、ジャイアント馬場がトークショーを行った際、ファンから後藤の近況を聞かれた馬場が、「向こう(アメリカ)で結婚して、プロレスをしていない」旨の発言をし、これが週刊プロレスの記事として取り上げられたことがある。調理師をして生活していた時期がある。

FMW時代

遠征中の1989年に大仁田厚から誘われ、全日本プロレスを退団しFMWの旗揚げに参加。団体を興すにあたり、自分を支えてくれる選手が必要と感じた大仁田が、ひょんなことから連絡先を知り誘ったものであった。最初に大仁田から連絡が来た時に、ジャンボ鶴田から電話がかかってきたと勘違いしている。全日本プロレス退団前にはケジメとしてジャイアント馬場にFMWへ移籍する旨を伝え、正式に認められている。当初は、謎のベトナム人レスラー、ボートピープル・ジョーとしてマッチメイクされていたが、リングインすると同時にマスクを取り、「後藤だ!帰ってきたぞー!」と叫んだ。同年12月には、後楽園ホールで大仁田と組み、松永光弘・ジェリー・ブレネマン組を相手に日本初の有刺鉄線デスマッチを戦った。

1990年初頭に開催された総合格闘技オープントーナメント(総合格闘技と銘打っているが、内容はプロレス)では、準決勝で大仁田を破る金星を上げたものの、決勝で元新日本プロレスの栗栖正伸に敗れ、準優勝の成績を残す。同年8/4、汐留大会にて大仁田と史上初のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを行い、この試合がプロレス大賞年間最高試合賞を受賞。爆薬を使った視覚的インパクトの強い試合は週刊プロレス、週刊ゴング等、プロレス誌の表紙をも独占した。

1991年、インディー団体としては破格のビッグマッチである川崎球場大会のメインイベントで再び大仁田とノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチで戦い、3万人を超える大観衆を集めた。このあたりから「鬼神」というニックネームも定着し、地味ながら安定した実力を見せる後藤はFMWファンの強い信頼を受けるようになる。暮れに行われた世界最強総合格闘技タッグリーグ戦には、大仁田と組んで参加。東京ベイNKホールでの決勝戦で、柔道家のグリゴリー・ベリチェフ、コバ・クルタニーゼ組を破り、優勝。世界マーシャルアーツタッグ選手権の初代王者となった。

1992年1月、大阪でビッグ・タイトンを破り、世界マーシャルアーツ選手権を奪取。これが後藤の日本での初のタイトルとなったが、3月には元ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのレオン・スピンクスに敗れ、タイトルを失った。

1994年3月、WAR両国国技館大会にて大仁田と組み、天龍源一郎・阿修羅・原組と対戦。後藤のアシストもあり、大仁田が天龍にフォール勝ちするという番狂わせを演じた。この試合で2度目のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞。

謎のFMW離脱

1995年、大仁田の引退試合の対戦相手に決まっていたが、その直前になり、突然退団を発表。ミスター雁之助、オーニタ・ジュニア(市原昭仁)を率いてFMWを離脱する。大仁田との引退試合を放棄し、それをメインイベントとしていた大会一週間前に団体を退団するというあまりの異常事態によりファン、マスコミ、FMWも大混乱に陥る。この時開かれた退団する3人による記者会見では、記者からも事情を説明するよう強く問い糾されたが、後藤らは「大仁田引退試合を放棄し、その数日前という直前に退団を決意するだけの『何か(「裏切り行為」とも)』があった」ことや「FMWが嫌いになったわけではない」と語るだけに留まり、この時舞台の裏側で何があったのかは、関係者がいずれも口を固く閉ざし、今もはっきりした原因は明かされていない。大仁田の引退試合の相手はハヤブサに変更された。

FMW離脱後の後藤らは真FMWを名乗り、IWA・JAPANの後楽園大会に乱入。FMWで自らデビュー戦の相手を務めた中牧昭二らとの抗争に突入する。同年8月、川崎球場においてダン・スバーンのNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、好勝負を展開するも敗れる。

この頃、アルティメット・ファイティング(UFC)で日本人格闘家が敗退し続けていたために、自分がUFCに出ると宣言していたものの、UFCから「デスマッチ等の危険な試合が多いから」という理由で拒否されるが、実際の拒否理由は不明。このことで、漫画家の花くまゆうさくは紙のプロレスに執筆している自身のコラムで、「初めてアルティメットの呪縛から逃れたレスラー」と、後藤のことを評している。

1996年、第一回メモリアル力道山興行に登場した際には、メジャー団体の象徴とも言える長州力が、インディー団体を批判した一方で、後藤に対しては評価する発言を行う。同年、インディー統一機構を名乗るFFFに冬木軍、折原昌夫らとともに参加するも同団体は旗揚げ戦前に倒産。

1997年には、WARマットを中心に暴れまわり、同団体の武井正智社長がプロレスデビューした6月の後楽園ホール大会でも対戦相手を務めた。7月の両国国技館大会では、天龍のデビュー20周年試合としてメインイベントで一騎打ち。多くのファンは両者の真っ向からの激突に期待したものの、後藤は天龍のリングシューズを脱がしにかかるなど反則攻撃に終始した。

ターザン後藤一派

この数年間に渡って自らが座長を務める真FMWも、R2W、革真浪士団、ターザン後藤一派と衣替えを繰り返した。この頃、冬木弘道の発案でFMWへの出場が計画されたが、所属選手達の猛反対と、後藤本人も拒否し、後藤のFMW再登場は幻となっている。

2001年には全日本プロレスに約16年ぶりに参戦した。2002年、埼玉県春日部市に道場兼プロレス会場の春日部インディーズアリーナを設立。同年10月の全日本プロレス日本武道館大会では、本間朋晃とタッグを結成し、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャーと戦う。

2005年には四冠王者(当時)の小島聡までもがターザン後藤一派の清水大会に参戦し、後藤とタッグマッチで対戦。2006年には、春日部からの移転で東京・浅草に浅草インディーズアリーナを再興。この会場は「浅草ファイト倶楽部」という店としても営業し、プロレスを見ながら飲んだり食べたりできる店として、インディーファンを楽しませ、特にちゃんこ鍋を注文すると、自ら調理をするという念の入れ様であったが、現在は浅草のインディーズアリーナ及びファイト倶楽部は閉鎖されている。

自らの団体での活動と並行して、全日本プロレスから分派した新団体キングスロードの旗揚げ戦に参戦するも、後楽園ホールでの旗揚げ戦では怪我のためか、影武者に試合をさせ、自らは場外乱闘に終始した。

FMW復活

2009/11/6、12/24自らのデビュー30周年興行をFMW再旗揚げ興行としFMWの活動再開を表明した。2010年からターザン後藤一派を母体とした「スーパーFMW」として団体化。

コーチとしての実績

全日本在籍時から後輩のコーチを請負うようになり、若手時代の小川良成が教えを受けている。さらにFMWに移ると大仁田から選手育成を任され、新弟子指導を一手に引き受けるようになる。ハヤブサ、ミスター雁之助、田中将斗らが、後藤から基礎を叩き込まれた。

そしてFMWが男女混合団体だったことから女子の指導も行い、教えを受けたシャーク土屋らが他団体に進出した結果、それまで全女流の作法がほとんどだった女子プロレスのリングに、後藤の作法、さらに言うなら後藤の師匠であるジャイアント馬場の作法がもたらされることにもなった。長与千種がこの件に触れて「腕のとり方一つとっても違うので面白い」と語っている。

現在も選手育成に熱心で、自前の若手選手を送り出し続けている。

2008/12/25のニューハーフプロレス団体「ダイナマイトバンプ」旗揚げにも一役買っている。

タイトル歴

  • WFDA世界マーシャルアーツ
  • WFDA世界マーシャルアーツタッグ
  • IWA世界ヘビー(IWA・JAPAN版)
  • IWA世界タッグ(IWA・JAPAN版)
  • NWA世界タッグ : 防衛1回(&ミスター雁之助)
  • フロリダPWFヘビー
  • レッスルブレインタッグ
  • CWA世界タッグ

リングネーム

後藤が名乗ったことがあるリングネーム

  1. 後藤政二
  2. ホー・チー・ウィン(アメリカ遠征中に使用したが、大仁田の化身『グレート・ニタ』のタッグパートナーを務める際にも使用したことがある)
  3. ターザン後藤(現在も使用中)





橋本友彦
1977/8/16

日本のプロレスラー、総合格闘家である。奈良県奈良市出身。格闘技歴は柔道15年(三段)。アパッチプロレス軍所属

来歴

1998年、プロレスラーの木村浩一郎率いるJPWA(日本プロ・レスリング協会)でプロデビュー(後楽園ホール)。

2000/6/11、キングダムエルガイツ「No name HERO」のメインイベントで入江秀忠と対戦。

2002年、DDTプロレスリング入団。

2002/5/11、初参戦となったパンクラスで謙吾と対戦し、パウンドでTKO負け。

2002/7/20、PRIDEの登竜門的大会THE BEST Vol.2でジャイアント落合と対戦し、右フックでKO負け。この試合で拳を負傷した。

2003/12/31、INOKI BOM-BA-YE 2003でアリスター・オーフレイムと対戦し、左膝蹴りでTKO負け。

2005/9/3、DEEP 20th IMPACTで行われた石井淳引退試合(ロイヤルランブル方式のエキシビションマッチ)に参加した。

2006/1/29、後楽園ホールの試合を最後にDDTを退団。以後、自主興行「MAKEHEN」を中心に活動。同時にフリーランス集団「TEAM MAKEHEN」を発足。

2009/8/16、ミナミ興行にてMAKEHEN活動を一時休止し代表を辞任する(後日、代表復帰)。

2009年10月、MAKEHEN活動再開興行を発表するが中止となる。12月、大阪・世界館にて「MAKEHEN FINAL」を開催し解散、フリーとなる。

2010年10月、金村キンタローにより「アパッチプロレス軍」復帰および所属したことを発表。

主要タイトル

  • KO-Dタッグ

入場テーマ曲

  • 「Do or Die」 GUzzle

  



パット・オコーナー
Pat O'Conner
1927/8/22 - 1990/8/16

ニュージーランドの男性プロレスラー。ニュージーランドウェリントン出身。ニックネームは「魔術師」。身長185cm、体重112kg。

来歴

学生時代はニュージーランドでフットボールとレスリングでならした。1950年イギリスで行われた大英帝国競技会に参加し金賞を獲得。この試合を米国のプロモーターに認められスカウトされ同年米国に於いてプロレスデビュー。

1959/1/9、セントルイスでディック・ハットンを破り第42代NWA世界ヘビー級王者となる、また同時期に初代AWA世界ヘビー級王者に認定される。AWA王座は1960年8月に剥奪され、NWA王座は2年5か月間にわたって王座に君臨するも、1961年6月にバディ・ロジャースに破れ転落。1963年初来日。力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している。セントルイス・レスリング・クラブでマッチメイカーとして長年活躍した。

1990/8/16に肝臓癌により死去。62歳没。

ジャイアント馬場との親交も深く、馬場のランニング・ネックブリーカー・ドロップのアイデアはオコーナーから示唆されたという。馬場の全日本プロレス旗揚げにも選手として協力し、また大相撲横綱・輪島大士がプロレス入りした際、馬場から託されて彼のトレーニングを引き受けた。馬場が全日本旗揚げ直後に行った「世界ヘビー級争覇戦」(初代PWFヘビー級王座の決定戦となった)の対戦相手8人にも(当時すでに40代半ばであったにもかかわらず)起用されている。

ハットンを破って世界王者となった試合は、ゴング誌に連載された原康史筆「世界のプロレス史」によれば、一本目ハットン(コブラツイスト)、二本目オコーナー(ドロップキックからフォール)、三本目オコーナー(ドロップキックから逆エビ固め)とされるが、オコーナーがストレートで勝った、最後はエビ固めという説もある。

アントニオ・ロッカ、ペドロ・モラレスと共にドロップキック三人男の一人と言われ、またルー・テーズによればプロレス最高のドロップキックの使い手とされる。

1990/12/16に、「パット・オコーナー・メモリアル・インターナショナル・タッグ・トーナメント」が行われ、国別代表タッグ8チームが一日で競い合った。決勝でアメリカ代表のスタイナーブラザーズと、日本代表のグレート・ムタ、マサ斎藤組が戦い、スタイナーブラザーズが優勝した。

獲得タイトル

NWA
  • NWA世界ヘビー級王座 : 1回
AWA
  • AWA世界ヘビー級王座 : 1回

ミネアポリス派初代AWA王者に認定するが、1960年5月に90日以内にバーン・ガニアの挑戦を受けないとAWA王座を剥奪するとAWAから発表され、ガニアとの対戦を拒否したため同年8月に剥奪される。





 
プラム麻里子
1967/11/1 - 1997/8/16

日本の女子プロレスラーである。本名は梅田 麻里子(うめだ まりこ)。東京都大田区出身。

日本プロレス史上で初めて試合中にリング上で発生した事故が原因で死去した。

来歴

1986年にジャパン女子プロレスの第一期生として入門。同年8/17、後楽園ホールのユウ山崎戦でデビュー。その後1992年における同団体の分裂に伴い、JWP女子プロレスの旗揚げに参加した。

ジャパン女子時代には第6代JWP認定ジュニアチャンピオン、第4代UWA世界女子チャンピオンとなった。

またキューティー鈴木とのタッグチーム、ファイティング・ドールズではアイドル的な人気も獲得していた。JWPに入団して以降は度重なる負傷によって欠場が多くなり、前座で若手を相手に試合をすることも多かった。

1997/8/15に広島市広島県立総合体育館で行われたタッグマッチ(パートナーコマンド・ボリショイ、対戦相手尾崎魔弓・天野理恵子)で尾崎魔弓のライガーボムを受けてピンフォール負けした直後に意識不明の重体となり、救急車で病院に搬送された。開頭手術には成功したものの、翌日に容態が急変して急性硬膜下出血並びに脳挫傷により死去。29歳であった。

ファイトスタイル

入門前から新宿スポーツ会館に通ってサンボの練習をしていたため、デビュー当時からグラウンドレスリングの技術があった。その経歴とサブミッションを駆使する独特のファイトスタイルから、「サンボ姫」「サブミッション・クイーン」の異名を持つ。

エピソード

  • リングネームのプラムは、本名である梅田の「梅」(Asian Plum)から採られたものである。
    • 旗揚げ当時にジャパン女子をプロデュースしていた秋元康は当初リングネームとして「コマ梅田」と命名していたが、デビュー前に改名された。
  • プラムの技術を高く評価していた長与千種は、1993/11/18のJWPでの本格復帰戦(タッグマッチでプラム・デビル雅美組と対戦、パートナーはキューティー鈴木)にあたってプラムを対戦相手に直接指名した。このとき長与は指名の理由として、「彼女に対する扱いが不当に悪い。これだけの技術を持っているのだから、もっと日の当たる所に出してやらなければ」という趣旨の発言をしている。また、1994年2月11日にシングルでプラムと対戦した直後にも、「お前はJWPのチャンピオンになれる実力があるんだよ。毎日、一生懸命で行け」とコメントしている。
  • ジャパン女子プロレス時代に同僚となった山崎五紀を尊敬しており、彼女が引退後に夫婦で経営しているニューヨークの日本食レストランを訪れた際の記念写真を本名名義でプロレス専門誌に投稿したことがある。
  • 負傷欠場中にWOWOWで放送されたJWP特番において、「怪我が多いために同期のダイナマイト・関西、尾崎魔弓、キューティー鈴木と比べて出遅れている。できるだけ早く復帰して試合をしたい」といった内容の発言をしている。
  • 事故から2ヶ月が経過した10/30と一周忌直前の1998/8/13に「プラム追悼興行」がJWPを始め当時存在したすべての女子プロレス団体の共催で開かれた。
  • 後に尾崎魔弓が立ち上げたOZアカデミーが2006年10月に団体化して以降、毎年8月の命日前後に開催されるOZの後楽園ホール大会では「プラムの花咲くOZの国」と銘打ち哀悼の意を捧げると共に、OZのビッグマッチと位置付けている。





デューイ・ロバートソン/ミッシング・リンク
Dewey Robertson/The Missing Link
1939/2/28 - 2007/8/16

カナダ・オンタリオ州キッチナー出身のプロレスラー。本名はバイロン・ジェイムズ・ジョン・ロバートソンByron James John Robertson)。
デューイ・ロバートソン名義で正統派のパワーファイターとして活動後、

来歴

1960年代に地元オンタリオのトロント地区にて、デューイ・ロバートソンのリングネームでデビュー。同郷の伝説的レスラーであるホイッパー・ビリー・ワトソンに見込まれ、彼のバックアップのもと、ベビーフェイスのハンサムガイとして人気を博した。

1974年、ザ・デストロイヤーの義兄であるビリー・レッド・ライオンと共に、白覆面のタッグチーム「ザ・クルセイダーズ」を結成。覆面レスラーのマスクド・クルセイダー2号The Masked Crusader #2)を名乗り、1977年1月にはクルセイダーズとして全日本プロレスに初来日した。

その後は素顔に戻り、トロントのメイプル・リーフ・レスリングおよび同団体と提携するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区で活動。1979年9月にはトーナメントの決勝でグレッグ・バレンタインを破り、NWAカナディアン・ヘビー級王座を獲得した。また、1981年にはジョニー・ウィーバーをパートナーに、当時ミッドアトランティック地区に遠征していた天龍源一郎とミスター・フジの日系コンビとタッグタイトルを争っている。同年下期よりアメリカ中西部のセントラル・ステーツ地区に参戦。翌1982年からはヒールに転向しマイク・ジョージやマニー・フェルナンデスと抗争するが、1983年6月にハーリー・レイスに敗れNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を失ったことを機に、同地区を離れた。

同年下期、ビル・ワットが主宰するMSWAにて、顔面に緑色のペイントを施し、前頭部と後頭部の一部分のみを残して髪を剃り上げた怪奇派ヒール、ミッシング・リンクへのギミック・チェンジを決行。二枚目の正統派レスラーとして知られたこともあり、44歳になってからの大胆な変身は関係者を驚かせたが、ロード・ウォリアーズらに代表される当時のペイントレスラー・ブームを追い風に、アメリカ南部を中心に異色のヒール人気を獲得。MSWAではジム・ドゥガンと抗争し、アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。テキサス州ダラスのWCCWではスカンドル・アクバをマネージャーにキラー・カーンとタッグチームを結成し、フォン・エリック兄弟(ケビン、ケリー)やファビュラス・フリーバーズと激闘を展開。フロリダのCWFではパーシー・プリングル3世がマネージャーを務め、バグジー・マグローやワフー・マクダニエルと抗争した。

1985年5月からは短期間ながらWWFに参戦。ボビー・ヒーナンをマネージャーに迎え、ニューヨークのMSGでS・D・ジョーンズやトニー・ガレアなどのジョバーを一蹴。メインイベンターではポール・オーンドーフ、ブルーノ・サンマルチノ、ティト・サンタナ、トニー・アトラス、イワン・プトスキー、ジョージ・スティール、マッドドッグ・バションらと対戦している。

同年10月にWWFを離脱してWCCWに復帰。1986年はUWF(旧MSWA)にも登場し、6/14にルイジアナ・スーパードームでカマラとの怪奇派対決を行った。その後はドラッグ問題に直面したが克服、1993年には長期間に及ぶ大麻の常用により機能不全となった腎臓の摘出手術を受けた。1995年3月にはWARに来日。1977年1月の初来日以来18年ぶりの、そしてミッシング・リンクに変身後は初めてとなる日本マット参戦を果たし、ミッドアトランティック時代から因縁のある天龍と再び相まみえた(なお、両者は1980年代のプロレス漫画『プロレス・スターウォーズ』の作品中でも対戦している)。

1997年に現役を引退。以降はインディー団体にスポット出場し、ファンフェスタなどのイベントにも出演していた。20078/16、癌のため死去。享年68歳。











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