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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
8/24

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今日は何の日?


ロッキー・ジョンソン
Rocky "Soulman" Johnson
1944/8/24

カナダ・ノバスコシア州出身の元プロレスラー。本名はウェイド・ボウルズWayde Bowles)。

1960年代後半から1990年代初頭まで、アメリカ各地で長くトップスターとして活躍した。日本には2度来日している(日本では「1941年生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州出身」と紹介されることが多い)。

義父(妻の父)はピーター・メイビア、息子はプロレスラーで俳優のザ・ロック。2008年にはWWE殿堂入りを果たした。

来歴

1964年にプロレスラーとしてデビュー。バネのある身体から繰り出す華麗な空中殺法を武器に、西海岸、南部、WWF、五大湖地区などアメリカ各地の主要マーケットで、ベビーフェイスの黒人トップスターとして数々のタイトルを獲得し、長く活躍した。特にドロップキックの名手として知られる。ニックネームは"Soulman"。覆面レスラーのスイート・エボニー・ダイヤモンドSweet Ebony Diamond)としてファイトすることもあった。

1983年にニューヨークのWWFに参戦し、トニー・アトラスと黒人タッグチーム「ソウル・パトロールThe Soul Patrol)」を結成。同年11/15にワイルド・サモアンズからWWFタッグ王座を奪取している。その後も同王座を巡り、ディック・マードック&アドリアン・アドニスのノース・サウス・コネクションと抗争劇を展開した。WWF離脱後はハワイでプロモーター兼ブッカーとして活動し、1991年に現役を引退。

来日を待望され、1970年に日本プロレスのNWAタッグリーグ戦にアーニー・ラッドとの黒人強力コンビとして出場した。優勝候補の筆頭と見られていたが、チームワークに難があり、決勝進出を果たせなかった。その後もアメリカでは活躍を続け、1980年1月に新日本プロレスに10年振りの来日を果たす。しかし戦績は振るわず、北米タッグ王座挑戦を目前に控えた試合でスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットの誤爆を受け負傷し、タイトル戦を欠場した。これが最後の来日となった。

日本とも縁の深いアメリカの繁栄マーケットで活躍したにもかかわらず、売れっ子で多忙だったこともあり来日回数はわずか2回と少なく、日本では実績を残すことができなかった。

獲得タイトル

シングルタイトル
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:2回
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:2回
  • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:1回
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:1回
  • NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回
  • NWA南部ヘビー級王座(メンフィス版):1回
  • WWE Hall of Fame:2008年度(プレゼンターはザ・ロック)
タッグタイトル
  • NWA世界タッグ王座(デトロイト版):1回(w / ベン・ジャスティス)
  • NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):4回(w / パット・パターソン×3、ペッパー・ゴメス)
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ペドロ・モラレス)
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ジェリー・ブリスコ)
  • NWAカナディアン・タッグ王座:1回(w / ドン・レオ・ジョナサン)
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:2回(w / ブレット・ソイヤー、アイスマン・キング・パーソンズ)
  • AWA南部タッグ王座:2回(w / ジミー・バリアント、ソウル・トレイン・ジョーンズ)
  • CWAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ビル・ダンディー)
  • WWFタッグ王座:1回(w / トニー・アトラス)

 etc.


 
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ビンス・マクマホン
Vince McMahon
1945/8/24

アメリカ合衆国のプロレス団体WWEの代表取締役会長兼最高経営責任者(CEO)である。本名:ビンセント・ケネディ・マクマホンVincent Kennedy McMahon)。

ノースカロライナ州パインハースト生まれ。通称「悪のオーナーEvil Owner)」。

かつては名前の後に「Jr」が付いたビンス・マクマホン・ジュニアであった(このことについては後述する)。

McMahonの発音は/mɪˈkmæn/または/mɪˈkmeɪn/であり、カタカナ表記だと「ミクマン」に近い。

人物

ビンスはレスラー並の長身と年齢不相応にビルドアップされた肉体の持ち主であり、自らが選手としてリングに上がることもある。基本的にはリング上でレスラーを引き立てることを原則としており、真っ向勝負でレスラー相手に勝利することはまずない。

しかし、リング上で尻丸出しで打ち負かされる、おもちゃのピストルを向けられて失禁することもある。後述するアメフトリーグ「XFL」の失敗など、あまり触れられたくない事由も積極的に活用している。また、団体の最高権力者としてレスラーや観客を見下した演説を行い、時には「Mr. McMahon's Kiss My Ass Club(キス・マイ・アス・クラブ 日本語版の字幕では「ビンスのケツにキスする会」)」と称して、従わないレスラーに屈辱的な姿勢を強要し、観客を煽ることもある。それでも従わないレスラーには、「You're Fired!(キサマはクビだ!)」の決め台詞が待っている。

レスラー活動を盛んに行っている時期はヒールとして、コミッショナー活動のみの時期はベビーフェイスとして番組に登場することが多い。

彼の指揮のもとにWWEが急成長したため、MBA課程の会社分析において、有能な経営者の一例として議論の対象となることもある。

2009年9月に妻リンダ・マクマホンがCEO(最高経営責任者)の職を辞任したため、会長職とともにCEO職も兼務することになった。

来歴

父親はニューヨーク地区のプロモーターだったビンセント・ジェームズ・マクマホン(ビンス・マクマホン・シニア)であるが、両親が早くに離婚したため少年時代は母ヴィッキー・アスキューの下で過ごす。初めて父の名前と顔を知ったのは12歳の時だったという。

1968年に東カロライナ大学経営学部を卒業後、プロレス団体WWWF(後のWWF、現WWE)の親会社の社長だった父ビンス・シニアにレスリング・ビジネスを学び、リングアナウンサーやインタビュアー、あるいは実況担当者としてテレビ画面に登場し始める。

1982年6月、父からWWFの親会社キャピタル・レスリング・コーポレーションの株式を分割契約で買い取って社長となり、新たに興行会社タイタン・スポーツを設立。譲渡ではなく買い取りという形を取ったのは前述のような経緯から父親との仲があまり良くなかったからだといわれる。

1984年からはハルク・ホーガンとの二人三脚でWWFの全米進出を開始、WWFを世界最大のプロレス団体に育て上げる。

長年試合の実況を務めて社長としての顔を隠していたが、1998年以降のストーンコールド・スティーブ・オースチンとの抗争を機にWWEのオーナー(チェアマン)としてリングに立ってマイクパフォーマンスを見せるようになり、遂には自らが選手としてリングに上がるようになる(もともとはレスラー志望だったが、父親に反対され実現しなかった経緯がある)。このオースチンとの抗争がWWEの発展を決定付けたといっても過言ではない。

以降も自らの派閥コーポレーションをヒールのユニットとして組織するなど団体のトップヒールとなって活躍。これは当時Monday Night Warsの最中で、絶対にWCWに引き抜かれない存在が自分自身だけだったという状況から生まれた苦肉の策でもあった。1999年にはトリプルHを破りWWF王座まで獲得した。

2001年、ライバル団体であったWCWとECWを買収して自身の長年の夢でもあった全米マット界の制圧を成し遂げる。また同年のWrestleMania X-Sevenでは実の息子であるシェインと対戦した。

2003年からはかつての盟友ハルク・ホーガンとの現実と虚構の境目を越えた抗争を展開、WrestleMania XIXで行われた2人の対戦は非常に大きな注目を集めた。

一時期、番組に出演しなくなっていたが、2006年に息子のシェイン・マクマホンと組み、ヒール親子として活動を再開。すでに60歳を越えているにもかかわらず、20代から続けているというボディビルで鍛えられた肉体は全く衰えておらず、素人とは思えない過酷な流血戦を戦った。

2007年には、WrestleMania 23において、ビンスと同じく「You're fired!」を口癖にするドナルド・トランプとお互いの髪の毛を賭けた「バトル・オブ・ザ・ビリオネアーズ」を実施。ビンスの代理レスラー、ウマガが負けたため、その場で髪を刈られた上に、大量のシェービングクリームを頭に盛られてツルッパゲにされてしまった。刈られた髪はインターネットオークションに出され、日本円にして約10万円で落札された。

4月には、息子シェインとウマガの手助けによってECW世界王座を獲得している。

その後、自分が何者かにリムジンを爆破され死亡するというアングルを行い、犯人探しのストーリーが始まるはずであったが、クリス・ベノワの死により中止となった。その後しばらく姿を現さなかったが、8月、ビンスに隠し子がいるという新たなストーリーが始まり、番組に復帰している。

WWE以外では、1992年にボディビル団体WBF、2001年にはNBCと共同でアメリカンフットボールリーグXFLを設立したが、いずれも経営不振によって一年で閉鎖された。

以前、WWFとして日本マット界を傘下に治めようと奮闘していたとき、ジャイアント馬場はNWA第一副会長として一喝したことがある。後に馬場は「マディソン・スクエア・ガーデンで世界王座に挑戦したときにほんの子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と自著「王道十六文」で述懐している。馬場にとってビンス・マクマホンといえば、自分をアメリカのトップレスラーにのし上げてくれたシニアであった。

日本マットとの関係では、アントニオ猪木VSモハメド・アリ戦で父親の密命を受けて目付役についていたという話がある。WWF社長就任後、父親の代から友好関係にあった新日本プロレスとは1985年に契約解消となる(巨額の契約金が一因といわれる)。

1990年、全日本プロレス・新日本プロレス合同の日米レスリングサミットや、SWSとの合同興行などを経て、念願の単独興行である「マニアツアー」を行うが、興行的に大失敗となり、日本への参入は途絶えることとなる。その後はWCWが新日本と提携していた関係から全日本と、外国人選手をトレードする程度の薄い協力関係を結んでいた(ベイダーやマイク・バートンはWWF経由で全日本に移籍してきた)。ジャイアント馬場の死の直前の1998年年末には、カナダに馬場を招待しており、馬場自身もWWFの視察を予定していたため、馬場の入院・急死がなければ一層の関係強化が予定されていたという説もあるが幻に終わった。2002年になり、再度の日本単独進出を果たした。

2010年には、WrestleMania XXVIにおいて、ノー・ホールズ・バード・マッチをモントリオール事件の因縁の相手である、ブレット・ハートと事件の精算の意味合いを兼ねて行ったが、ハート一族が総出で登場し、ビンスは一方的にタコ殴りにされるハメになった。

マクマホン・ファミリー

1968年にリンダ・エドワーズと結婚。1男2女をもうける。長男シェイン、長女ステファニーをもうける。シェインは元WWEタレントのマリッサ・マズゥーラと、ステファニーはWWE所属のレスラートリプルHと結婚した。複雑な家庭環境に育ったためか、TVショーでのパフォーマンスとビジネスに対するシビアな態度とは裏腹に、家族を非常に大切にする人柄が伝えられている。シェインに2人、ステファニーに3人、それぞれ子供が生まれている。

トリプルHによると、オフィスにいるときは夜11時近くまで仕事し、それからジムでトレーニングを行ない、翌朝9時にはきちんと出勤しているほど大変元気であると述べている。

シェインやステファニーが入社した時、自分の息子、娘だからと言って決して特別扱いはせず、下働きから経験を積ませた逸話がある(シェインはチケットの捥ぎりスタッフ。ステファニーは受付嬢からのスタートだった)。

獲得タイトル

  • WWF王座:1回
  • ECW世界ヘビー級王座:1回
  • 1999年ロイヤルランブル優勝

入場テーマ

  • No Chance in Hell

決め台詞

  • You're Fired!(貴様はクビだ!)

その他

前述したように、かつては自身の名前の最後にジュニアと付いていたが、父の死と時を同じくしてこの部分を削除している。彼はこの「ジュニア」という呼称が非常に嫌いであるらしく、WWEと契約した選手のリングネームからはことごとく「ジュニア」が削除されており、古くはボブ・オートン・ジュニア(カウボーイ・ボブ・オートン)、マイク・シャープ・ジュニア(アイアン・マイク・シャープ)、ドリー・ファンク・ジュニア(ホス・ファンク)、最近ではチャボ・ゲレロ・ジュニアやレイ・ミステリオ・ジュニアがその代表例である。

また下部組織ではジミー・スヌーカの息子ジミー・スヌーカ・ジュニアがデュース・シェイド(後にデュースとしてスマックダウンにデビュー)に変更している。その後2008年にジミー・スヌーカの息子であることを明かしてからもリングネームはシム・スヌーカとし、ジュニアはつけられていない。

団体内で頂点に立った黒人レスラーが非常に少ないことからインターネット上では「黒人に冷たい」と噂されていたが、ザ・ロック(サモア系だが父ロッキー・ジョンソンは黒人)やボビー・ラシュリーを熱心にプッシュして育て上げたため説得力に欠けている。

近年は徐々に息子のシェイン、娘のステファニーに業務をシフトしている。しかし、バックステージでの現場責任者としての存在は変わらず、特に実況陣に対してはヘッドホン越しに罵声に近い口調で指示を与えていることが知られている。2008年8月までコメンテーターを務めたミック・フォーリーはTNA移籍の際、これに嫌気がさしたとも述べている。






FUNAKI
1968/8/24

船木 勝一(ふなき しょういち)は、日本のプロレスラー。東京都葛飾区出身。

経歴

アニマル浜口トレーニングジム出身で、同ジムインストラクターの経験もある。低身長のため日本のメジャーなプロレス団体には入ることはできなかったが、1993年、日本のプロレス団体、プロフェッショナルレスリング藤原組にてプロレスラーデビューを飾る。

藤原組在籍時、石川雄規とタッグを組み新日本プロレスが主催したジュニア・タッグリーグ戦に参戦するが、メジャー団体の選手達の厳しい洗礼により、試合終了後の控室にて口から泡を吹き失神すると云うアクシデントに遭遇する。その後格闘探偵団バトラーツに参戦後、みちのくプロレスにも参戦し、TAKAみちのく・ディック東郷・MEN'Sテイオー・獅龍(現:カズ・ハヤシ)が結成した海援隊★DXに参加、ヒールとして暴れ回る。

1997年にWWE参戦(当時のリングネームは『ショー・フナキ』、当時の団体名はWWF)。獅龍(WCWと契約)を除く4名と共に「KAIENTAI」(当時の海援隊★DX)として活動していたが、1999年に東郷とテイオーが帰国。その後はTAKAとのタッグチームとして活動するが、2002年の日本公演を最後にTAKAもWWEを離脱したため、フナキ一人だけがWWEに残留していた。そのWWEでは"スマックダウン・ナンバーワン・アナウンサー"としてのキャラクターを確立。前座・中堅どころの要(かなめ)で、基本がしっかりしている上に大技まで使いこなせるので、レスラー達からはもちろんのこと、フロント・上層部から「確実に仕事の出来る職人レスラー」として絶大な信頼を得ていた(エッジはブランクが空いた際の対戦相手としてよく指名したという)。また、新人に対するレスリング指導に対してもフロントから高い評価を受けていた。また、これらのことの延長として、番組初登場レスラー相手のジョバーも多く務めた。

こうしたことからWWE在籍期間は13年となり、出入りの激しい同団体において異例の長さとなってた(実際、スマックダウン内ではジ・アンダーテイカーに次ぐ古株であった)。2005/2/5のさいたま大会前にはWWE・クルーザー級王座を獲得、チャンピオンとして母国への凱旋を果たし、チャボ・ゲレロ相手に防衛も果たした。

現在

2008年に入ってからは、SmackDown!のテレビテーピングのダーク・マッチでジョバーとして活躍している。

2008年2月のハウス・ショーで鼻骨骨折するが翌月に復帰。

2008年4月、東京・原宿で行なわれたレッスルマニア24パブリックビューイング・パーティにトリー・ウィルソンと共に登場。

2008/6/6のSmackDown!のTVショーではバティスタとタッグを組み(8人タッグマッチ)、久々にメインイベントにも登場した。

2008年10月、Rトゥルースの一言がきっかけとなり、リングネームを「カン・フー・ナキ」に変更し、SmackDown!のTVショーにて空手衣を着たギミックで登場中。

2009年3月、右手に痺れと違和感があり、診察の結果、首の椎間板損傷と判明。4月に手術を受ける。その後リハビリを経て、同年8月からFCWで調整を行ない、9/15のSmackDown!ダーク・マッチで復帰。

2010/4/23、WWEからの退団が発表された。

「This Week in WWE」では日本語ナビゲータを2 - 4か月に1回務めることがある。

2010/5/5のZERO1「WRESTLER'S 11 〜GW Special」東京・後楽園ホール大会に、「FUNAKI」のリングネームで参戦(日高郁人と組んだタッグマッチ)、13年振りに日本マットへ復帰した。

2010年8月、WWEと再契約しアジア・太平洋地区のタレント・スカウト・コンサルタントとロードエージェントに就任する。レスラーとしての契約では無いので国内外の試合出場は可能。

2010年11月にはサンアントニオのインディー団体RCW(River City Wrestling)の配下でレスリングスクール『FU Dojo』の設立が発表され、2011年1月より本格始動する。

2011/3/31、SMASH初参戦。華名にスクールボーイで勝利。

6/9、SMASH王座決定トーナメントに参戦し、同じアニマル浜口門下で元WWEのTAJIRIと1回戦で対戦。しかし、右ハイキックからの片エビ固めで敗戦。

人物

  • 「KAIENTAI」時代に口パクのマイクパフォーマンスに英語の吹き替えが当てられるギミックが与えられたが、フナキの台詞は「Indeed!!(さよう)」のみであった。
  • ジョン・シナと公私で仲が良い。ジョン・シナのフィギュアが発売される際に、ジョン・シナがメーカーに頼んでフナキのフィギュアの発売を依頼したこともある。また、エッジとは同期(ややフナキが先)でこちらも大変仲が良く、エッジの復帰戦にエッジ自ら対戦相手として指名するほど絶大な信頼を受けている。
  • 時々、WWEの許可を得てみちのくプロレスやKAIENTAI-DOJOに顔を出すが、権利の関係で放送できない。
  • 現在はショーン・マイケルズらも住んでいるテキサス州サンアントニオに住居を構えている。住居をそこに構えた理由としては、「昔から大ファンのショーン・マイケルズの近所に住みたいと思っていたから。」と週刊プロレスのインタビューで語っている。また、近所ということもありショーン・マイケルズの40歳の誕生日パーティに招待され、牧場を貸し切ったスケールの大きさに驚いたという。
  • 日本で活動していた頃には度々試合で使用していた技「ショーン・キャプチャー」を渡米後には封印しており、試合の流れで使ったとしても技名は「レッグ・ロック」と極めてポピュラーなものにしている。理由は「元々『勝一』の名前を格好良く捩って『ショーン』と名付けたんだけど、アメリカじゃショーンと言ったらショーン・マイケルズだから。」と、マイケルズに敬意を表す意味で使用していないとのこと。
  • 大物しか招かれないと言われたトリプルHの結婚披露宴に招かれている。
  • 「趣味は日焼け」と公言するほど肌をよく焼いている。元は黄色人種的な肌色だったが現在は褐色のボディーとなっている。
  • スターバックスコーヒーの大ファンである。WWEのツアー中、行く先々で店に立ち寄りお気に入りのラテを飲むと発言している。とくに「パンプキンスパイスラテ」が好きとのこと。
  • ボイラー技師の免許を取得している。FUNAKI曰く「だから俺は食いっぱぐれないよ」親方パンチの現場日誌(パンチ田原ブログ)

入場曲

  • KAIENTAI
  • Kung Fu San

タイトル歴

WWE
  • WWE・クルーザー級王座 : 1回
  • WWE・ハードコア王座 : 1回(保持期間わずか30秒)
UWA
  • UWA世界ミドル級王座 : 1回
TWA
  • TWAヘビー級王座 : 1回





ダン・ヘンダーソン
Dan Henderson
1970/8/24

アメリカ合衆国の総合格闘家。カリフォルニア州リバーサイド郡出身。チーム・クエスト所属。現Strikeforce世界ライトヘビー級王者。元PRIDEウェルター級王者。元PRIDEミドル級王者。

来歴

アマチュアレスリング

カリフォルニア州アップルバレーで生まれ、5歳のときからレスリングを始める。ビクターバレー高校に進学した後、カリフォルニア州レスリング選手権で2度メダルを獲得した。その後、カリフォルニア州立大学フラトン校やアリゾナ州立大学でレスリングを学び、1993年には全米大学体育協会 (NCAA) 主催の大学レスリング選手権に出場した。またグレコローマン・レスリング選手として2度のオリンピック出場を果たし、1992年のバルセロナオリンピックでは82kg級10位、1996年のアトランタオリンピックでは同級12位という成績を残す。しかし、実生活では電気代が払えないほど貧窮し、賞金稼ぎのために総合格闘技との二束の草鞋を履く(その後、総合格闘技に専念)。2000年に開催されたシドニーオリンピックには85kg級での出場を目指していたが、適わなかった。ロシアには旧ソ連時代から、大会参加や練習のために渡っていた。本人によれば17-18回ほど行ったことがあり、17歳のときに初めて渡ったという。自身初の総合格闘技のタイトルは、1997年にブラジルで開催された「ブラジル・オープン・ファイト」というライト級での4人制トーナメントでの優勝だった。

総合格闘技

1997年10月11日、アメリカ合衆国アイオワ州で開催された「The Contenders」(組み技限定の格闘技イベント)でフランク・シャムロックと対戦。開始56秒、アンクルホールドで一本負け。

1998年5月15日、UFC 17で行われたUFCミドル級(現ライトヘビー級)トーナメントにおいて、アラン・ゴエス、カーロス・ニュートンに判定勝ちし優勝を果たした。

1999年10月28日、リングスKOKトーナメントに参戦。予選Aブロックで、ゴキテゼ・バクーリ、金原弘光に勝利。

翌2000年2月26日、リングスKOKトーナメント決勝ラウンドで、ギルバート・アイブル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、レナート・ババルとすべて判定勝ちし、優勝を果たした。

2000年12月23日、PRIDE初参戦となったPRIDE.12でヴァンダレイ・シウバと対戦、シウバをKO寸前まで追い詰めるも、判定負け。

その後、PRIDEにおいてヘンゾ・グレイシー、ムリーロ・ニンジャなどに勝利する。

2003年11月9日、『PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦』のミドル級GPリザーブマッチでムリーロ・ブスタマンチに、パウンドによるTKO勝ち。

2005年4月23日、『PRIDE GRANDPRIX 2005 開幕戦』のミドル級GP1回戦でアントニオ・ホジェリオ・ノゲイラに一本負け。

その後、本来の階級であるウェルター級(83kg級)に転向。2005年9月25日、ウェルター級GPに参加。1回戦で長南亮にKO勝ち、続いて行われた準決勝でも郷野聡寛をKOで破り、ウェルター級GP決勝に進出、2005年12月31日のPRIDE 男祭り 2005でムリーロ・ブスタマンチを判定で破り優勝した。その後、2006年3月31日に正式な認定を得て、初代PRIDEウェルター級王者となる。

2006年に行われた『PRIDE ウェルター級GP 2006』では、8月26日、シード参戦で挑んだ2回戦で三崎和雄に判定負け。

2007年2月24日、PRIDE.33にてヴァンダレイ・シウバをKOで破りミドル級タイトルを獲得、PRIDE史上初の2階級王者となる。

2007年5月26日のUFC 71に来場。新ライトヘビー級王者クイントン・"ランペイジ"・ジャクソンの持つ王座への挑戦を表明し、ジャクソンもこれを快諾。2007年9月8日、UFC 75でのライトヘビー級王座戦では3-0の判定負けを喫し、王座には届かなかった。また、この試合でUFC・PRIDEのライトヘビー級王座が統一され、PRIDEミドル級王座は消滅した。

従来のライトヘビー級からミドル級へ階級を下げ、2008年3月1日のUFC 82でアンデウソン・シウバとUFC世界ミドル級・PRIDEウェルター級王座統一戦で対戦。チョークスリーパーで敗れ、PRIDEウェルター級王座を失った。この試合はファイト・オブ・ザ・ナイトとなった。

2008年9月6日、UFC 88でホジマール・パリャーレスに判定勝ち。UFC 17以来、10年3か月ぶりのUFCでの勝利であった。

2009年、リアリティ番組「The Ultimate Fighter」シーズン9にてチームUSのコーチを務め、7月11日のUFC 100ではチームUKのコーチであったマイケル・ビスピンと対戦。右フックでダウンを奪った直後の飛び込みながらのパウンドでKO勝ちを収め、ノックアウト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

その後、UFCとの契約交渉がまとまらず、2009年12月に競合団体Strikeforceと契約した。

2010年4月17日、Strikeforce: Nashvilleにおいてジェイク・シールズの持つ世界ミドル級王座に挑戦。1Rにはパンチでダウンを奪ったが2R以降は優位なポジションを取られ続け、判定負けにより王座獲得には至らなかった。

2010年12月4日、Strikeforce: Henderson vs. Babalu 2でレナート・ババルと対戦し、パウンドによるKO勝ちを収めた。

2011年3月5日、Strikeforce: Feijao vs. Hendersonで行なわれたStrikeforce世界ライトヘビー級タイトルマッチでハファエル・フェイジャオと対戦し、TKO勝ち。

2011年7月30日、Strikeforce: Fedor vs. Hendersonのメインイベントでエメリヤーエンコ・ヒョードルとヘビー級契約で対戦し、TKO勝ち。ヘビー級契約ながら前日軽量では94kgほどでヒョードルとは約7kg差あった。

獲得タイトル

  • UFC 17ミドル級(現ライトヘビー級)トーナメント 優勝(1998年)
  • リングスKOKトーナメント 優勝(1999年)
  • PRIDEウェルター級GP 2005 優勝(2005年)
  • 初代PRIDEウェルター級王座(2006年)
  • 第2代PRIDEミドル級王座(2007年)
  • 第6代Strikeforce世界ライトヘビー級王座(2011年)

  



DASH・チサコ
1988/8/24

本名:十文字 知佐子は、日本の女子プロレスラー。

宮城県仙台市出身。身長151cm、体重55kg。血液型B型。センダイガールズプロレスリング所属。

同じく仙女に所属する妹の仙台幸子と共に「十文字姉妹」と呼ばれている。

デビュー時の名前は金成 知佐子(かなり ちさこ)。

所属

  • センダイガールズプロレスリング(2005年 - )
    • JWP(2011年3月下旬より当分の間、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う一時的な措置)

来歴・戦歴

2006年
  • 7/9、宮城・仙台サンプラザホールにおいて、対ダイナマイト・関西戦でデビュー。右ハイキックでTKO負け。
  • 9/29、宮城・Zepp Sendaiにおいて、カルロス天野と対戦。ダイビング・ラリアットで敗れる。
  • 11/11、宮城・Zepp Sendaiにおいて、永島千佳世と対戦。ウラカン・ラナを切り返されて敗れる。
  • 12/3、宮城・Zepp Sendaiにおいて、吉田万里子と対戦。クモ絡みでレフェリーストップで敗れる。
2007年
  • 9/8、リングネームをDASH・チサコに改名する。
2011年
  • 3月、東日本大震災に伴う一時的な措置としてJWPに特別参戦を開始。

十文字姉妹としての戦歴

  • 2007/12/31 後楽園ホールJWP「第5回ジュニア・オールスター戦」、vs紫雷姉妹(紫雷美央・イオ)戦で勝利。同大会敢闘賞を受賞。
  • 2008/12/21 仙台大会、デビル雅美引退記念1dayタッグトーナメント準優勝。

入場テーマ曲

  • 「情熱たましい」(B-DASH)





キラー・カール・クラップ
Killer Karl Krupp
1934/5/13 - 1995/8/24

カナダ・ニューブランズウィック州(出生地はオランダ、ギミック上はドイツ・ハノーファー)出身のプロレスラー。

本名はジョージ・モンバーグGeorge Momberg)。ナチ・ギミックの悪役レスラーとして知られ、1960年代後半から1980年代前半にかけてアメリカ合衆国やカナダで活躍した。

ナチ・ギミックの先達であるフリッツ・フォン・エリック同様にクロー攻撃を得意とし、ブロンズ・クロー青銅の爪と称された。総合的な評価としては一流半のB級悪役レスラーというところであるが、来日時期のめぐり合わせもあり日本マットでは数々の実績を残した。

来歴

1957年、西ドイツ(当時)にてダッチ・モンバーグDutch Momberg)のリングネームでデビュー。1970年にカナダに渡り、マッドドッグ・モンバーグMad Dog Momberg)と改名しヒールとして活動した後、1972年よりナチ・ギミックのキラー・カール・クラップに変身する。

1973年2月に最末期の日本プロレスに初来日、ジョニー・バレンタインと組み大木金太郎&坂口征二からインターナショナル・タッグ王座を奪取した。3月に大木金太郎&上田馬之助に奪回されたが、同年4月にはフリッツ・フォン・エリックと組んで再度獲得している。同王座はインターナショナル・ヘビー級王座と並ぶ日本プロレスの至宝であり、限られた一流レスラーしかそのベルトを巻いていない。末期の混乱に乗じてとはいえ、日プロマット上でインタータッグ王座を二度戴冠した実績は特筆される。インタータッグを複数回戴冠した外国人側のレスラーはクラップ以外ではドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク(ザ・ファンクスとして2回獲得)がいるだけである。

1974年4月には新日本プロレスの第1回ワールドリーグ戦に参加、予選リーグおよび決勝リーグでアントニオ猪木にフォール勝ちした。翌年の第2回大会にも参加し、公式戦で猪木にリングアウト勝ちしている。両年とも決勝戦では猪木に敗退した。新日の絶対的エースとして君臨した猪木が完敗を喫することは少なく、この後MSGシリーズ、IWGPリーグ戦と名を変え1987年まで続く新日の春のシングル・リーグ戦公式戦において、有名な第1回IWGP(1983年)優勝戦のハルク・ホーガン戦での場外失神KO負けを除けば、猪木がフォールまたはギブアップ負けしたのはこのクラップ戦の2度以外にない。初期新日の外人招聘ルートの弱さに起因するとはいえ、まさに並ぶものなき実績と評価できる。1970年代後半になってNWA加盟やWWWF(現在のWWE)との提携などで外人招聘ルートが改善してからも、ブルート・バーナードとのコンビで北米タッグ王座に挑戦するなど、それなりの待遇を受けている。これは猪木が団体創設初期のクラップの働きを評価していたからといえる。

性格的に粗暴で無愛想な一面があり、新日本プロレス参戦時の出来事として、巡業先の旅館で出された料理を「豚のエサ」と言って御膳を蹴り飛ばしたり、仲間のレスラー達との軋轢も多く、外人レスラーの巡業担当だったミスター高橋が自著でそのエピソードを綴っている(クラップの参戦当時はまだホテルが少なく交通が不便で中小都市での巡業も多かったので、外国人レスラーを旅館に泊めるという事態もあったようである)。それとは逆に1980年の国際プロレス参戦時は、娘の写真を見せて親バカぶりを発揮する等、それまでの無頼漢なイメージを覆すエピソードも残している。国際プロレスではラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。

1981年、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にバロン・フォン・ラシクと組んで出場したのが最後の来日となったが、ジャイアント馬場に言わせると「同じように峠を過ぎていたラシクよりもだいぶ落ちた。他団体では態度が大きかったと聞くが、全日本に来たときは(ザ・ファンクス、ハーリー・レイス、ブルーザー・ブロディなど)メンバーがいいせいもあって小さくなっていた」ということである。

カナダを主戦場としたクラップはNWA、AWA、WWFなどアメリカ本土におけるメジャーテリトリーでの実績は多くはないが、1970年代はテキサス地区でフリッツ・フォン・エリックやキラー・カール・コックスと抗争し、インディアナポリスのWWAではバロン・フォン・クラップBaron Von Krupp)のリングネームでディック・ザ・ブルーザーやアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦している。1975年にはフロリダでダスティ・ローデスやマイク・ジョージと南部ヘビー級王座を争い、1978年はテキサスでテリー・ファンクとブラスナックル王座を巡る抗争を展開した。

1980年には国際プロレスに共に参戦したジプシー・ジョーの斡旋でテネシー州メンフィスのCWAに進出し、ジミー・ハートをマネージャーにジェリー・ローラーやビル・ロビンソンと対戦。エル・モンゴルと組んでAWA南部タッグ王座も獲得した。1982年には当時のNWAの総本山であるセントルイスのキール・オーディトリアムでジミー・スヌーカと試合を行ったこともある。1984年初頭にはジョージアのGCWに短期間参戦、ポール・エラリング率いるヒール軍団リージョン・オブ・ドゥームに加入し、ロード・ウォリアーズと共闘した。キャリア末期となる1980年代半ばからはカナダに定着し、オンタリオ地区でアンジェロ・モスカらと抗争した。

1995年、カナダ・ニューブランズウィック州モンクトンにて心臓麻痺により死去。61歳没。

獲得タイトル

  • IW北米ヘビー級王座:3回
  • インターナショナル・タッグ王座:2回(w / ジョニー・バレンタイン、フリッツ・フォン・エリック)
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:1回(w / クルト・フォン・スタイガー)
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):2回
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):2回
  • NWA英連邦ヘビー級王座(ニュージーランド版):1回
  • NWAオーストラジアン・タッグ王座:1回(w / キング・カマタ)
  • AWA南部タッグ王座:1回(w / エル・モンゴル)
  • WWC北米ヘビー級王座:1回
  • AGPWインターナショナル・ヘビー級王座:1回
  • AGPW北米タッグ王座:1回(w / ハンス・ハーマン)

 etc.






アンディ・フグ
Andy Hug
1964/9/7 - 2000/8/24

スイス・ボーレン出身の空手家、キックボクサー。本名はアンドレーアス・フーク(Andreas Hug〔アンドレェアス:andréːas〕〔フゥク:húːk〕 ドイツ語辞書による)。

概要

得意技は踵落とし、下段後ろ回し蹴り(フグトルネード)、左フック。入場時にはゴットハードの『Fight for Your Life』(邦題:闘え!アンディ・フグ)やクイーンの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」をテーマ曲に使用していた。

家族は、妻・イローナと息子・セイヤ(空手の掛け声から命名)の2人。

勝ちも負けもKO決着が多い、倒すか倒されるかの選手であった。ピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、マイク・ベルナルドと共に創成期のK-1四天王として君臨し、K-1ファイターの中では決して大きくない体で、負けても負けても立ち上がる不屈の戦いぶりとリベンジマッチでの強さ、彼が得意としていた踵落とし等の華麗な技、そしてCMやテレビ番組で見せるユーモア溢れる人柄も併せ、K-1の人気を押し上げることに大きく貢献した。

さらにアンディの母国スイスでK-1の大会が開催されると必ず凱旋試合を戦い、全戦全勝を収めている。しかも相手はいわゆる噛ませ犬などではなく、ピーター・アーツ、マイク・ベルナルド、ミルコ・クロコップ、ステファン・レコといった世界トップクラスの強豪と戦って勝利している。また、K-1スイス大会でのアンディの試合のスイス国営テレビの平均視聴率は必ず50%を超えており、アンディが日本とスイスの両国で英雄であったことが分かる。

彼の得意技である踵落としについてはテコンドーのネリチャギとの類似性が見られるが、本人の生前のインタビューでは、空手の蹴り技の一つ「内回し蹴り」を応用した技だと語り、ネリチャギ自体は踵落としを使うようになった後で知ったとのことである。増田章は「踵落しよりも下段回し蹴りが強烈だった。アンディの素晴らしい所は踵落しで攻撃を散らし、決め技の下段回し蹴りに繋げて相手を倒していた」と述べている。実際、第4回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では桑島靖寛、アデミール・ダ・コスタをその流れで一本勝ちを奪っていた。

しかし、急性前骨髄球性白血病(APL)により35歳の若さで死去し、多くの格闘技ファン・関係者に衝撃を与えた(詳しくは後述)。

来歴

幼少期のアンディはサッカー少年であったが、ブルース・リーに憧れて10歳より極真空手を始める(乱暴者であまりにも素行が悪かったために祖母が空手をやらせたという話もある)。そして若くして頭角を現し、ヨーロッパ最強の男ミッシェル・ウェーデル、松井章圭、増田章のライバルとして争い続けた。

1985年に極真ヨーロッパ選手権で優勝。1987年の第4回世界大会では、決勝戦で松井章圭に敗れ準優勝。1989年に極真ヨーロッパ選手権で同大会2度目の優勝。1991年の極真ヨーロッパ選手権にて、決勝戦で黒豹の異名を持つマイケル・トンプソンに敗れ準優勝(後にラスタとんねるず'94の最終回企画「ジャイアント将棋インテグラル」で、対決はなかったものの再会している)。同年11月の第5回世界大会の4回戦では、フランシスコ・フィリォに一本負け(止めがかかってからの上段回しによる失神。大山倍達総裁の「止めがかかったとはいえ、その不意をつかれる者は勝者ではない」という判断により一本負けとなった)。

その後、極真会館を退会。アンディはプロに新天地を求めて正道会館に移籍。グローブ空手を経て1993年からK-1に参戦する。K-1旗揚げ戦から参戦していたが、1993年の一年間はK-1ルールでは戦わず、ワンマッチにてスピリットカラテルールで戦っていた。同ルールで村上竜司と対戦し、踵落としで勝利した姿は、空手ファンだけでなくキックボクシングファンにフグの名前が広まるきっかけとなった。

1993/11/15、ANDY'S GLOVEのメインイベントで村上竜司と対戦し、1ラウンドに3度のダウンを奪いTKO勝ちを収めた。大会タイトル通り、初めてグローブを着用し、K-1グランプリルール初挑戦となった。

1994/3/4、グローブマッチ3戦目となったK-1 CHALLENGEで前年度K-1GP王者ブランコ・シカティックと対戦。フグはダウンを奪われながらも、不屈の闘志で凄まじい猛反撃を繰り返し、3-0の判定勝利を収める番狂わせを起こした。

優勝候補として臨んだ同年4/30のK-1GPトーナメントでは1回戦でUFC出身の喧嘩ファイターパトリック・スミスに1R19秒でKO負け。同年9/18にスミスとリベンジマッチを行い、1R56秒KO勝ちでリベンジに成功する。

1995年のK-1GPではまたも1回戦で当時無名のマイク・ベルナルドにダウンを奪いながらも逆転KO負けを喫してしまい、さらに6か月後のリベンジマッチでも返り討ちに遭ってしまう。

しかし、1996年のK-1GPでは3/10のGP開幕戦でバート・ベイルに1RKO勝ちして1回戦を突破すると、5/6のK-1GP決勝大会では、準々決勝でバンダー・マーブに1RKO勝ち、準決勝でアーネスト・ホーストと再延長戦までもつれる激闘を勝利、そして決勝戦では宿敵マイク・ベルナルドにフグトルネードで2RKO勝利し、悲願のK-1GP初優勝(バックグラウンドが空手の選手として初優勝)。見事、彼は1994年、1995年の借り全てを返した。

1997/7/20のワンマッチでは、極真時代のライバルにして、K-1初参戦の因縁の相手フランシスコ・フィリォを迎え撃つ形となったが、王者アンディはフィリォに右フック一発で1R失神KO負けを喫した。

その後、1997年のK-1GPトーナメントではピーター・アーツらに勝利して決勝まで勝ち進むも、アーネスト・ホーストに判定負けで準優勝。

1998年のK-1GP決勝トーナメントも同様に決勝まで勝ち進んだが、当時圧倒的な強さでトーナメントを勝ち上がってきたピーター・アーツにKO負け。敗れはしたものの、3年連続でファイナリストとなった記録は、2007年にセーム・シュルトがグランプリ3連覇を果たすまでは破られていなかった(MAXではブアカーオ・ポー.プラムックがタイ記録を持っている)。

最期

2000/10/9のK-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKAでのトーナメントに出場する予定だったが、大会の2か月前の8/24午後2時に正道会館で記者会見を行なわれ、アンディが急性前骨髄球性白血病(APL)によって危篤状態であることが発表された。病気のことは周囲に心配を掛けることを嫌い、家族にすら内緒にしていたという。

病状を直前まで知らされていなかった角田信朗が慌てて病院に駆けつけた時には、既にアンディは声をかけても反応できない状態にあり、やがて心肺停止状態に陥った。しかし角田が「何してんねん!」「アンディ、ファイト!」「ハンズ・アップ!(「構えろ!」)」「試合はまだ終わっていないぞ!」と声をかけると、アンディの心肺機能が一時復活した。アンディは角田の呼びかけに3度応えたが、4回目には応えず、心肺は停止した。その時、側にいた主治医は「角田さん、アンディは3度立ち上がった。ドクターストップです。もう休ませてあげましょう。」と言ったという。また、死の床でアンディは、日本での活躍の場、K-1での活躍の場を提供するきっかけを作った正道会館の石井和義館長(当時)に、「I Love You. 館長。」と語りかけ、石井は「I Know. わかっているよ。」と答えたという。2000/8/24午後6時21分死去。葬儀は本人の希望により日本式の仏式葬儀で行うことになり、2000/8/27の告別式はテレビで生中継された。

最初の報道ではアンディが急病(病名は明らかにされていた)で緊急入院した事だけが発表され、自身による復帰を約束するメッセージが伝えられたものの、その時には既に抜き差しならない病状に追い込まれていたと思われる。さして間もなく、彼が実は危篤状態にあるとの情報が世間に伝えられ、翌日にはその死が国民の知る所となった。結果的に、彼の闘病生活の存在自体が死の直前まで伏せられていた形となった。

獲得タイトル

  • 極真空手
    • 第3回ヨーロッパ選手権(1985年)優勝
    • 第4回全世界空手道選手権大会(1987年)準優勝
    • 第5回ヨーロッパ選手権(1989年)優勝
  • 正道空手
    • カラテワールドカップ'92 優勝
    • カラテワールドカップ'93 準優勝
  • キックボクシング
    • WKAムエタイヨーロッパスーパーヘビー級王座
    • UKF世界スーパーヘビー級王座
    • WMTC世界スーパーヘビー級王座
    • WKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座
    • K-1 GRAND PRIX '96 優勝
    • K-1 GRAND PRIX '97 準優勝
    • K-1 GRAND PRIX '98 準優勝

コマーシャル

生前

  • インスタントカップラーメン「強麺」(日清食品)
岡持ちを持って両手がふさがった状態のアンディが、踵落としでドアをノックして蹴破るというもの。CMの中で彼が発する台詞「ごーめんなさいよ」は当時の流行語となった。他にも、エレベーターのボタンを踵落としで蹴ってエレベーターを故障させてしまうバージョンや、立ち往生したバスをアンディがロープで引っ張ったらバスの顔だけ取れて乗客を置き去りにしてしまったバージョンなどもあった。さらに、「タマタマ、カツ玉、タマタマ、カツ玉」と言って走ってくるピーター・アーツとすれ違って、「この出会いはバーニング、バーニング」という音楽に合わせて二人で腰を振って踊ったり、「モリモリー、牛盛りー、モリモリー、牛盛りー」と言って走ってくるアーネスト・ホーストとすれ違って、「♪この出会いはショッキング、ショッキング」(歌・宮内タカユキ)というCMソングで二人で踊るパターンもあった。
  • インスタントカップラーメン「スタミナカップヌードル」(日清食品)
  • 農耕用トラクター「キングウェル」シリーズ(クボタ)
前期型のみ。
  • 育毛トニック「Incent」(ツムラ)
  • パーソナルコンピュータ「Aptiva(アプティバ)」(日本アイ・ビー・エム)
香取慎吾と共演。

没後

  • 「骨髄バンクキャンペーン」公共広告機構(現:ACジャパン)・2001年
テレビのみならず、ラジオ、新聞、雑誌、ポスター、リーフレットにも起用。このCMは、アンディの遺族とK-1の承諾を得て製作された。

テレビ番組

  • 探偵!ナイトスクープ
1999年3月5日放送「世界最強!?徳田流格闘術」の回に出演。自己流の格闘技を身につけたという依頼者とその弟からの「徳田流格闘術を披露したい。本気を出せば格闘技経験者にも勝てると思っている。」との依頼だったが、本人には本式の格闘技の経験がなく、蹴り技を一つ放つにしても後頭部を床に打ちそうになったりで、探偵リポーターや会場からは失笑が漏れていた。アンディは番組後半に依頼者とその弟のスパーリング相手として登場。アンディの軽い足払いで依頼者は一回転近く体を回され転がされるなど、当然手も足も出ず、最後はボディに後ろ回し蹴りを受けうずくまってしまい続行不能という結果に。もちろんアンディは100%の力は出してはいなかったが、スパーリング中の目は真剣そのものだった。スパーリング後、アンディは依頼者の少年の目をしっかりと見つめ、「自己流で格闘技を行い『自分は強い』と言う君を世間の人は笑うかもしれない。しかし私は決して君のことを笑わない。なぜなら私も少年の頃『空手の世界チャンピオンになる』と言って皆に笑われた。しかし私はK-1のチャンピオンになった。誰でもチャンピオンになれる可能性がある。だから私は手を抜かず真剣に君のスパーリングパートナーを務めた。私は君を笑わない。」と話した。ちなみに、その時のレフェリーは角田信朗だった。なお、この回はアンディが死去した直後に多くの視聴者から再放送の要望があり、追悼の意を込めて後日再放送された。
  • とんねるずのハンマープライス
「アンディ・フグと3分間1本勝負を戦う権利」がオークションに出され、落札者と実際に勝負を行った。踵落としでアンディが勝利。
  • ろみひー

映画

  • ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影
  • 最強への道 WELCOME TO THE K zone

テレビドラマ

  • 「フードファイト」 - 1話で本人役として友情出演

漫画

月刊コロコロコミックに連載された坂井孝行の作品『K-1ダイナマイト』の登場人物の一人となった。しかし連載中に彼本人が急逝したため、途中からは登場しなくなり、代わりに別冊コロコロコミックの番外編「アンディからの果たし状」が掲載された。

対戦相手 試合結果 -
K-1 SPIRITS 2000
2000/7/7
ノブ・ハヤシ
1R 2:05 KO(左ストレート)
K-1 FIGHT NIGHT 2000
2000/6/3
ミルコ・クロコップ
5R終了 判定2-0
K-1 THE MILLENNIUM
2000/4/23
グラウベ・フェイトーザ
5R終了 判定2-0
K-1 BURNING 2000
【WKA世界ムエタイ
スーパーヘビー級タイトルマッチ】
2000/3/19
武蔵
5R終了 判定2-0
K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦
【準々決勝】
1999/12/5
アーネスト・ホースト
3R終了 判定0-3
×
K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦
【1回戦】
1999/10/3
天田ヒロミ
1R 1:51 TKO(3ノックダウン:右上段後ろ回し蹴り)
K-1 SPIRITS '99 〜魂の戦い〜
1999/8/22
モーリス・スミス
3分5R終了 判定3-0
K-1 FIGHT NIGHT '99
【WKA世界ムエタイ
スーパーヘビー級タイトルマッチ】
1999/6/5
ステファン・レコ
5R終了 判定3-0
K-1 REVENGE '99
1999/4/25
レイ・セフォー
4R終了時 TKO(タオル投入)
K-1 RISING SUN '99
1999/2/3
中迫剛
2R 0:22 KO(上段右後ろ回し蹴り)
K-1 GRAND PRIX '98 決勝戦
【決勝】
1998/12/13
ピーター・アーツ
1R 1:10 KO(左ハイキック)
×
K-1 GRAND PRIX '98 決勝戦
【準決勝】
1998/12/13
サム・グレコ
3R終了 判定2-0
K-1 GRAND PRIX '98 決勝戦
【準々決勝】
1998/12/13
レイ・セフォー
2R 2:28 KO(2ノックダウン:右ストレート)
K-1 GRAND PRIX '98 開幕戦
【1回戦】
1998/9/27
マーク・ラッセル
2R 3:07 KO(左ローキック)
K-1 THE NEW FIGHTING SPIRIT '98
1998/8/7
マイク・ラブリー
1R 2:13 TKO(右ローキック)
K-1 FIGHT NIGHT '98
【WKA世界ムエタイ
スーパーヘビー級タイトルマッチ】
1998/6/6
ピーター・アーツ
5R終了 判定3-0
K-1 KINGS '98
1998/4/9
カーティス・シュースター
5R終了 判定3-0
K-1 GRAND PRIX '97
【決勝】
1997/11/9
アーネスト・ホースト
3R終了 判定0-2
×
K-1 GRAND PRIX '97 決勝戦
【準決勝】
1997/11/9
ピーター・アーツ
5R終了 判定3-0
K-1 GRAND PRIX '97 決勝戦
【準々決勝】
1997/11/9
佐竹雅昭
1R 0:15 KO(左ハイキック)
K-1 GRAND PRIX '97 開幕戦
【1回戦】
1997/9/7
ピア・ゲネット
1R 1:49 TKO(3ノックダウン:右フック)
K-1 DREAM '97
1997/7/20
フランシスコ・フィリォ
1R 2:37 KO(右フック)
×
K-1 FIGHT NIGHT '97 〜THE DECISION〜
【WKA世界ムエタイ
スーパーヘビー級タイトルマッチ】
1997/6/7
マイク・ベルナルド
3分5R終了 判定
K-1 BRAVES '97
1997/4/29
サム・グレコ
5R終了 判定1-1
K-1 KINGS '97
1997/3/16
ピーター・アーツ
1R 1:55 TKO(左膝蹴り)
×
K-1 HERCULES '96
1996/12/8
武蔵
5R終了 判定3-0
K-1 STAR WARS '96
1996/10/18
佐竹雅昭
5R終了 判定3-0
K-1 REVENGE '96
【WMTC世界
スーパーヘビー級タイトルマッチ】
1996/9/1
スタン・ザ・マン
2R 2:00 KO(左ストレート)
K-1 FIGHT NIGHT II
【UKF世界スーパーヘビー級
タイトルマッチ】
1996/6/2
サダウ・ゲッソンリット
2R 3:02 KO(左フック)
K-1 GRAND PRIX '96 決勝戦
【決勝】
1996/5/6
マイク・ベルナルド
2R 1:18 KO(フグトルネード)
K-1 GRAND PRIX '96
【準決勝】
1996/5/6
アーネスト・ホースト
延長2R終了 判定2-1
K-1 GRAND PRIX '96
【準々決勝】
1996/5/6
バンダー・マーブ
1R 0:40 KO(左フック)
K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦
【1回戦】
1996/3/10
バート・ベイル
1R 2:24 TKO(3ノックダウン:パンチラッシュ)
K-1 HERCULES
1995/12/9
ジェロム・レ・バンナ
5R終了 判定3-0
K-1 REVENGE II
1995/9/3
マイク・ベルナルド
2R 2:43 TKO(右ストレート)
×
K-1 LEGEND 〜翔〜
1995/7/16
アーネスト・ホースト
3R終了 判定0-2
×
K-1 FIGHT NIGHT
1995/6/10
デニス・レーン
2R終了時 TKO(戦意喪失)
K-1 GRAND PRIX '95 決勝戦
【スペシャルワンマッチ】
1995/5/4
ピーター・クレイマー
1R 0:45 KO(左フック)
K-1 GRAND PRIX '95 開幕戦
【1回戦】
1995/3/3
マイク・ベルナルド
3R 2:39 TKO(タオル投入)
×
K-1 LEGEND 〜乱〜
【UKF世界スーパーヘビー級
王座決定戦】
1994/12/10
ロブ・ファン・アスドンク
4R 0:55 KO(左フック)
カラテワールドカップ '94
【スピリットカラテルール】
1994/10/2
ジェフ"デューク"ルーファス
2R 1:52 KO(左ミドルキック)
K-1 REVENGE
1994/9/18
パトリック・スミス
1R 0:56 KO(左膝蹴り)
K-1 GRAND PRIX '94
【1回戦】
1994/4/30
パトリック・スミス
1R 0:19 KO(2ノックダウン:右アッパー)
×
K-1 CHALLENGE
1994/3/4
ブランコ・シカティック
5R終了 判定3-0

カラテワールドカップ '95
【スピリットカラテルール】
1995/10/8
マイケル・トンプソン
3分3R終了 判定5-0
K-2 GRAND PRIX '93 風林火山 "山の章"
【スペシャルマッチ】
1993/12/19
エリック・アルバート
2R 2:08 KO(左フック)
ANDY'S GLOVE
1993/11/5
村上竜司
1R 3:10 TKO(パンチラッシュ)
カラテワールドカップ '93 風林火山 "火の章"
【決勝】
1993/10/3
佐竹雅昭
試し割り判定8-9
×
カラテワールドカップ '93 風林火山 "火の章"
【準決勝】
1993/10/3
後川聡之
延長R終了 判定4-0
カラテワールドカップ '93 風林火山 "火の章"
【準々決勝】
1993/10/3
チャンプア・ゲッソンリット
本戦終了 判定5-0
カラテワールドカップ '93 風林火山 "火の章"
【1回戦】
1993/10/3
荒田吉則
本戦 2:09 左上段回し蹴り
K-1 ILLUSION 風林火山 "林の章"
【スピリットカラテルール】
1993/9/4
村上竜司
1R 0:39 左踵落とし
聖戦 〜SANCTUARY III〜 風林火山
"風の章"
【スピリットカラテルール】
1993/6/25 
藤田実
3R終了 判定2-0
K-1 GRAND PRIX '93
【スピリットカラテルール】
1993/4/30
角田信朗
2R 1:26 右膝蹴り

アンディ ラストファイト
K-1 SPIRITS 2000
2000/7/7
アンディ・フグvsノブ・ハヤシ



アンディ メモリーズ











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