本文へスキップ
 



5,000本以上の動画から
キーワード検索!

Google

WWW を検索
"極め”内検索
重要なお知らせ
2010/8月以降おまとめは休止しました。
動画検索はキーワードで!!


リンク切れ、レンタル、
お探し中などの問い合わせ

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
8/25

新着(ニュース、興行・結果、Youtube動画)
今日は何の日?


イワン・コロフ
"The Russian Bear" Ivan Koloff
1942/8/25

来歴

1965年(1962年説もあり)、アイルランド人のレッド・マクナルティRed McNulty)を名乗って地元のオンタリオにてデビュー。1967年9月にはこのリングネームで日本プロレスに初来日している(表記は「レッド・マクナッティ」)。1968年、髪を剃り上げてコサック帽とブーツを身につけたロシア人のイワン・コロフに変身。ハンス・シュミットやエドワード・カーペンティアなどの大物と対戦して実績を積み、モントリオール地区のインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。

1969年の下期よりニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーにヒール人気を高め、1971/1/18にマディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノを破り、第3代のWWWF世界ヘビー級チャンピオンとなる。翌月の2/8にペドロ・モラレスに敗れ短命王者に終わったものの、約8年間に渡ってニューヨークの帝王に君臨していたサンマルチノから王座を奪ったことで一躍トップスターの仲間入りを果たした。

その後は元WWWF王者の肩書のもと各地で活躍。同年6月にはエース級の扱いで日本プロレスに再来日し、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。ダッチ・サベージと組んでBI砲のインターナショナル・タッグ王座にも挑んだ。翌1972年にはAWAに参戦し、その提携ルートで1973年4月に国際プロレスに来日。マッドドッグ・バションとのコンビでストロング小林&グレート草津を破り、IWA世界タッグ王座を奪取している。

1975年にWWWFを再度襲撃し、チャンピオンに返り咲いていたサンマルチノに連続挑戦。同年10月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ第2弾』に後半戦特別参加で来日。グレッグ・バレンタインをパートナーに、アントニオ猪木と坂口征二の北米タッグ王座に挑戦した。以降も新日本の常連外国人となり、1976年9月にはWWWFでの盟友スーパースター・ビリー・グラハムとの怪力コンビで坂口&ストロング小林の北米タッグに再挑戦。同年末の来日では12月に猪木のNWFヘビー級王座にもチャレンジしている。

1977年6月、インディアナ州インディアナポリスでディック・ザ・ブルーザーからWWA世界ヘビー級王座を奪取。この時期よりウエイトダウンを試み、重厚なパワーファイターから機敏性のあるラフファイターへの肉体改造を行う。以降、エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ、ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング、ジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングなど南部のNWA圏を転戦しつつ、1978年にはMSGで新王者ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座にも挑戦するなど、NWAとWWFを股にかけて活躍した。

モスクワオリンピックボイコット問題で米ソの対立構造が激化した1980年から1981年にかけては、ジョージアでアレックス・スミルノフ、フロリダでニコライ・ボルコフとロシア人タッグを結成し、それぞれタッグ王座を獲得。フロリダではダスティ・ローデスを相手にロシアン・チェーン・マッチを行うなど、大ヒールとなって観客をヒートアップさせた。その後、ミッドアトランティック地区でのワフー・マクダニエルやジミー・バリアントとの抗争を経て1983年よりWWFに復帰したが、翌1984年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアの全米侵攻サーキットには参加せず、ビンス・マクマホン・シニアの引退とほぼ同時期にWWFを離脱。以降、WWEのリングには上がっていない。

1984年からはNWAのミッドアトランティック地区に定着し、ニキタ・コロフやクラッシャー・クルスチェフとのロシア人ユニット「ザ・ラシアンズ」を結成。若い彼らを指揮する「アンクル・アイバン」として、ロード・ウォリアーズと抗争を展開した。その後もパワーズ・オブ・ペイン(ザ・バーバリアン&ザ・ウォーロード)やウラジミール・ピエトロフを配下に同地区のプレイング・マネージャー的な存在となって活躍したが、WCWへの移行期でもある1989年にNWAを離れた。

1990年1月には全日本プロレスに来日し、昭和の日本プロレス4団体制覇を果たした。1992年3月には「甥」のウラジミール・コロフを帯同し、W★INGに来日している。その後もアメリカやカナダのインディー団体への出場を続け、若手時代のキッド・キャッシュのマネージャーも務めたが1994年に引退。引退後は長年の主戦場だったノースカロライナに居住、近年はチャリティ活動に尽力している。

エピソード

  • 1978年3月の新日本プロレスへの4回目の来日時は、「敵前逃亡事件」を起こしたエル・カネックの代打としてダブルヘッダーで藤波辰巳と対戦。ドラゴン・スープレックスで敗れている。新日本にはこれが最後の来日となった。
  • WWEの歴史を語る上で欠かせない重要なレジェンドであるにも関わらず、ブルーノ・サンマルチノ派閥だったこともあり、WWE殿堂には迎えられていない。1984年以来ビンス・マクマホンとは絶縁状態が続いているが、1993年のアンドレ・ザ・ジャイアントの葬儀には共に参列している。

獲得タイトル

WWWF
  • WWWF世界ヘビー級王座:1回
WWA
  • WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):1回
IWE
  • IWA世界タッグ王座(国際プロレス版):1回(w / マッドドッグ・バション)
WWC
  • WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:1回
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:5回(w / パット・パターソン×1、ミスター・サイトー×3、ニコライ・ボルコフ×1)
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAジョージア・タッグ王座:7回(w / オレイ・アンダーソン×5、アレックス・スミルノフ×2)
ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:4回
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / ドン・カヌードル)
  • NWAミッドアトランティックTV王座:2回
  • NWAミッドアトランティックTV王座:2回
  • NWAカナディアン・ヘビー級王座(トロント版):1回
  • NWA USタッグ王座:2回(w / クラッシャー・クルスチェフ×1、ディック・マードック×1)
  • NWA世界タッグ王座:4回(w / ニキタ・コロフ×2、レイ・スティーブンス×1、ドン・カヌードル×1)
  • NWA世界6人タッグ王座:2回(w / ニキタ・コロフ&ドン・カヌードル〜ニキタ・コロフ&クラッシャー・クルスチェフ〜ニキタ・コロフ&バロン・フォン・ラシク×1、ザ・バーバリアン&ザ・ウォーロード×1)
その他
  • IWAインターナショナル・ヘビー級王座(モントリオール版):1回
  • ACWタッグ王座:1回(w / ウラジミール・コロフ)

 
広告


クラッシュ・ホーリー
Crash Holly
1971/8/25 - 2003/11/6

マイク・ロックウッドMichael "John" Lockwood)は、かつて()等のリングネームで活動したプロレスラー。

来歴

1996年プロレスデビュー。カリフォルニア地区のインディ団体活動後、1999年2月にWWFと契約し、その後は下部組織でトレーニングを続けた。8月にハードコア・ホーリーの従兄弟というギミックでデビュー。小柄であるが自らをスーパーヘビー級と称し、入場時には体重計を担ぎ歩き、「400ポンド(約180kg)以上でなきゃ戦わない」と大口を叩くエゴ系キャラクターであった。10月にはハードコア・ホーリーとのタッグでザ・ロック&マンカインドから世界タッグ王座を奪取している。また、ハードコア王者を獲得した際に、「24時間365日、いつでもどこでも誰でも相手になってやる」と発言した事がきっかけとなり24時間ルールがWWEに採用され、空港やショッピングセンター、コインランドリーなど場所を問わず四六時中挑戦者に追い回されることとなる。

2000年10月にはモーリー・ホーリーと行動を共にし、テスト、アルバート、トリッシュ・ストラタスのユニット"T&A"と抗争。12月にはモーリー・ホーリーの援護もありウィリアム・リーガルからヨーロピアン王座を奪取するが、その2日後にリーガルに奪われている。以降はハードコア・ホーリーと共にタッグ戦線やハードコア戦線で活動した。

2002年のブランド分割により、RAWの所属となるが後にSmackDown!へと活動の場を移す。SmackDown!では主にクルーザー級層専門での活動となった。マット・ハーディがカリスマギミックに転身すると、シャノン・ムーアと共にエムエファー(マット信者)となり、マットの試合には必ずといっていいほどシャノンと共にセコンドに付き、レフェリーの四角で小細工や介入をするヒールを演じた。

2003年6月にWWEとの契約が切れ退団。退団後はTNAやインディー団体に参戦していた。同年11/6、スティーブン・リチャーズ宅で行われたホームパーティーで嘔吐物を喉に詰まらせ死去した。リング上でのキャラクター同様、憎めない人柄から多くのレスラーに悲しまれ、レイヴェンは追悼として体に"CRASH"とマイクのリングネームのペイントを施して試合に出場した。

獲得タイトル

WWE

  • WWFライトヘビー級王座:1回
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / ハードコア・ホーリー)
  • WWFハードコア王座:22回
  • WWFヨーロピアン王座 :1回





中丸 徹
1975/8/25

『ワールドプロレスリング』の実況




  





 












  ↑ トップへヤフーオークション
 


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system