本文へスキップ
 



5,000本以上の動画から
キーワード検索!

Google

WWW を検索
"極め”内検索
重要なお知らせ
2010/8月以降おまとめは休止しました。
動画検索はキーワードで!!


リンク切れ、レンタル、
お探し中などの問い合わせ

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
8/27

新着(ニュース、興行・結果、Youtube動画)
今日は何の日?


サージェント・スローター
Sgt. Slaughter / Sergeant Slaughter
1948/8/27

アメリカ合衆国のプロレスラー。コネチカット州ウィルマー出身。本名はロバート・リーマスRobert Remus)。『鬼軍曹』と呼ばれる軍人ギミックで1970年代から1990年代後期まで活躍した。

元WWF世界ヘビー級チャンピオン、WWE殿堂者。愛称は『サージ』。

来歴

大学を卒業後、1年間バージニア州の海軍に在籍。1972年にバーン・ガニアのコーチを受けAWAでデビュー。デビュー当時は "ビューティフル" ボビー・リーマスというキャラクターであった。その後、各地を転々としながらボブ・リーマス(日本での表記はレムス)、ボビー・スローター等のリングネームを名乗り、大型のヒールとして活動する。

初来日は1975年1月の国際プロレス。同年7月には全日本プロレスに登場。1978年、AWAに戻りボビー・ヒーナンをマネージャーに覆面レスラーのスーパー・デストロイヤー・マークIIに変身。これが最初のブレイクとなった(パートナーのマークIIIはネイル・グアイ)。1980年6月には、ミネソタ州ミネアポリスでジャイアント馬場のPWFヘビー級王座にも挑戦している。

同年9月、ビンス・マクマホン・シニアに招かれてニューヨークのWWF(現・WWE)に移籍、軍人としてのキャリアをもとに、以後10年以上に渡って米プロレス界で一時代を築くことになる「鬼軍曹 サージェント・スローター」に変身する。グラン・ウィザードをマネージャーに、ブルーノ・サンマルチノ、ペドロ・モラレス、パット・パターソンなどの大物選手と対戦。1981/3/16のマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期戦では、アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級対決も行われた。同年下期からはジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッド・アトランティック地区に参戦、ここでもリッキー・スティムボートやワフー・マクダニエルをはじめトップスターと抗争するなど、変わらずの活躍を見せた。

鬼軍曹としてのキャラクター設定は徹底しており、プロモーション用のインタビューでは新兵を罵倒する下士官そのままに、口汚い言葉を抗争相手のベビーフェイスとそのファン達に浴びせていた(タズは少年時代、スローターのマイクパフォーマンスを見てスラングを学んだと述懐している)。また、ミッド・アトランティック地区ではドン・カヌードルやジム・ネルソンらを二等兵ギミックの部下に仕立て「コブラ・コープス」なる小隊を指揮。彼らをパートナーにタッグ戦線にも進出したが、部下達が試合中にミスを起こすと殴りつけ、まだ試合が続いているにもかかわらず罰則としてリング上で腕立て伏せを命じるなどした。

1981年5月と1982年8月の2度に渡って新日本プロレスにも登場し、アントニオ猪木ともシングルマッチを行っている(2戦して2度共フォール負け。1981年の来日は第4回MSGシリーズへの参加で、スタン・ハンセンやタイガー・ジェット・シンとも公式戦で対戦している)。

1983年には主戦場をWWFに戻し、当時のWWF王者だったボブ・バックランドに挑戦。チキンウィング(バックランド)対コブラクラッチ(スローター)のサブミッション対決で話題を呼ぶ。翌1984年にWWFが全米侵攻サーキットを開始すると、反米ギミックのアイアン・シークとの抗争でベビーフェイスに転向し、ハルク・ホーガンに次ぐエース選手となった。その後もニコライ・ボルコフやノース・サウス・コネクション(ディック・マードック&アドリアン・アドニス)などと抗争するが、「プロレスラーの労働組合」を組織しようとしたことが原因で同年末にWWFを解雇された。

解雇後には古巣であったAWAに戻り、ミスター・サイトー、カマラ、ロード・ウォリアーズ、スタン・ハンセンらと抗争を展開した。1987年には、彼をモデルにしたG.I.ジョーが製造元ハズブロ社より発売された。彼は自身のキャラクターグッズの版権などのロイヤリティーをAWA代表のバーン・ガニアに求めたため、ガニアからは疎まれたという。

湾岸戦争が勃発した1990年、突如WWFに復帰。「フセインに魂を売った男」として再び大ヒールに転向する。セコンドにはかつての宿敵カーネル・ムスタファ(アイアン・シーク)、末期AWA時代の抗争相手でもあったジェネラル・アドナン(シーク・アドナン・アル=ケイシー)を従えていた。年が明けての1991/1/19に行われたロイヤルランブルでは、アルティメット・ウォリアーを破り、WWF世界ヘビー級王座を獲得した。しかしこの「WWF版湾岸戦争」は米国の一部メディア・国民から大きなバッシングを受け、実際の湾岸戦争が終結した直後の1991年3月24日、規模を縮小して行われたレッスルマニアVII(当初は屋外のスタジアム会場で行われる予定だった)にてハルク・ホーガンに敗退、王座陥落と共にこのストーリーも終了した。その後は再度ベビーフェイスに転向し、ジム・ドゥガンとの愛国者コンビで約1年間活躍した後、セミリタイアして裏方のロード・エージェントに転身。

D-Xが結成された当初は、「会社側の良心派」として彼らと抗争。「悪ガキに軍人精神を叩き込む」というアングルのもと、1997/12/7のPPV "D-Generation X" ではハンター・ハースト・ヘルムスリーを相手に、コンバットスタイルのハードコア・マッチであるブート・キャンプ・マッチを行っている。2000/2/29にはカート・アングルと対戦。敗れたものの、現役時代を彷彿とさせるコブラクラッチ等を披露、観客を沸かせた。2001/4/1に開催されたレッスルマニアX-Sevenのギミック・バトルロイヤルでは、旧敵アイアン・シークと決勝を争っている。

2004年、WWE殿堂入り。その後もエージェントとしてWWEをサポートする一方、年に何度かは試合にも出場し、2006/11/26に行われたサバイバー・シリーズ2006では、リック・フレアー、ダスティ・ローデス、ロン・シモンズとタッグチームを結成。スピリット・スクワッドとイリミネーション・マッチで対戦し、勝利を収めた。

2009年1月にエージェント職を解任されたが、アンバサダー(親善大使)として会社には留まっており、イベント等への出演を続けている。同年8/10にはRAWのホストを務めた。開催地がカナダであり、観客をたびたび挑発したため会場はブーイングの嵐となった。2010/11/15に "Old School edition" と銘打って放送されたスペシャル版のRAWでは久々にリングに復帰し、アルベルト・デル・リオとシングルマッチで対戦するも敗退した。

獲得タイトル

ボビー・スローター
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:3回
  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / バック・ロブレイ)
ジ・エクスキューショナー
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / パク・ソン)
サージェント・スローター
  • NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):2回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ドン・カヌードル)
  • NWAカナディアン・ヘビー級王座(トロント版):1回
  • AWA大英帝国ヘビー級王座:1回
  • AWAアメリカズ王座:1回
  • WWF世界ヘビー級王座:1回
  • WWE Hall of Fame:2004年度(プレゼンターはパット・パターソン)

 
広告


ルナ・バション
Luna Vachon
1962/1/12 - 2010/8/27 

カナダ・ケベック州モントリオール出身の女子プロレスラー、マネージャー。本名はガートルード・エリザベス・バションGertrude Elizabeth Vachon)。父親は元AWA世界タッグ王者のポール "ブッチャー" バション、叔父は元AWA世界ヘビー級王者でありWWE殿堂者のモーリス "マッドドッグ" バション、叔母は元AWA女子王者のビビアン・バションというプロレスリング・ファミリーに育った。元夫のデビッド・ヒースもプロレスラーである。
来歴叔母のビビアンとファビュラス・ムーラのトレーニングを受け、1985年にムーラの主宰する女子プロレス団体にてデビュー。同年よりNWAフロリダ地区に入り、ロックことワイノナ・リトル・ハートと「ドーターズ・オブ・ダークネスThe Daughters of Darkness)」なるタッグチームを結成。髪を半分剃り上げ、毒々しいメーキャップを施した怪奇派のヒールとして頭角を現し、ケビン・サリバン率いるアーミー・オブ・ダークネスに加入、パープル・ヘイズ、マハ・シン、フォーリン・エンジェルらと共闘した。
1986年にはジャパン女子プロレスの旗揚げ第2弾シリーズに初来日。その後、カナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングやプエルトリコのWWCなどを転戦し、デビッド・ヒースとトム・ナッシュの覆面タッグチーム、ブラック・ハーツのマネージャーを担当した。
1993年、WWFに初参戦。センセーショナル・シェリーと仲間割れしたショーン・マイケルズのセコンドとしてレッスルマニア9に登場し、以降シェリーと抗争を展開。シェリーの離脱後は1993年下期よりバンバン・ビガロ、1994年からはブル中野のマネージャーとなり、ブルと共に当時のWWF女子王者メデューサと抗争した。
WWFを離れてからはUSWAやECWに登場。ECWではスティービー・リチャーズからスチール・ケージ・マッチで勝利を収めている。バンパイア・ウォリアーことデビッド・ヒースのマネージャーも務め、1996年にはヒースがバリー・ヒューストンを新パートナーに再結成したブラックハーツに同伴してIWAジャパンに来日。
1997年にはWCWにも単発出場している。1997年の末にWWFと再契約。より変態的なキャラクターの "The Artist Formerly Known As Goldust" に変身したゴールダストの新マネージャーを担当し、マーク・メロ&セイブルと抗争を展開。1998年のレッスルマニア14では両チームによるミックスド・タッグマッチが行われた。その後はクルガン、ゴルガ、ジャイアント・シルバらの怪物軍団「ジ・オディティーズThe Oddities)」の一員となり、1998年下期からは彼らと共にベビーフェイスにも転向した。オディティーズ解散後の1999年はアイボリー(リサ・モレッティ)やジャクリーン(ジャクリーン・ムーア)を相手に女子王座戦線で活動したが、2000年初頭にバックステージでのトラブルがもとでWWFを解雇された。なお、同時期WWFにはデビッド・ヒースがギャングレルのリングネームで在籍していたが、ルナとの共闘は実現しなかった
以後、2000年代はレスラー兼マネージャーとして各地のインディー団体を転戦。オーストラリアのワールド・レスリング・オールスターズやイギリスのオールスター・レスリングなど、海外にも遠征した。
2004年、元プロレスラーのニキタ・コロフにより洗礼を受け新生キリスト教徒となる。2006年にデビッド・ヒースと離婚し、翌2007年にプロレスリング・ビジネスから引退、フロリダ州ポートリッチーにてレッカー車のオペレーターに転じた。
2010年8月27日、フロリダにある母親の自宅にて死去。48歳没。死因は鎮痛剤として用いていたオキシコドンの過剰摂取ともされている。獲得タイトル
  • USWA女子王座:1回
  • AWF女子王座:1回
  • LMLW女子王座:1回
  • GLCWレディース王座:1回
  • SWFレディース王座:1回
  • WWOW TV王座:1回
  • POWWタッグ王座:2回(w / ホット・ロッド・アンディー)





サンボ浅子
1963/8/27 - 2004/5/18

日本のプロレスラー。

本名は、浅子 文晴(あさこ ふみはる)。東京都中央区出身。身長177cm、体重130kg(全盛期)。ニックネームは、FMW第3の男。

経歴

柔道家を経て、1982年のサンボ世界選手権で活躍後、第一次UWFやジャパン女子プロレスの営業マンとして働いていたが、1989年10月に大仁田厚が旗揚げしたFMWに初期のレスラーとして参加。同年12/1、対徳田光輝戦でプロデビュー。

大仁田厚、ターザン後藤に次ぐFMW第3の男と呼ばれ、憎まれない人柄とサンボ仕込みのファイトスタイルでファンに親しまれ大仁田軍団の一員として活躍していたが、持病の糖尿病で体調を崩し1995/1/5に行われた後楽園ホール大会の大仁田厚戦で現役を引退した。

1997年2月に現役復帰して、その後下記著作を上梓。レスラー活動を再開したかに思われたが病状は悪化しており、2002年11月、糖尿病による壊疽で右足を切断。緑内障で右目の視力をほとんど失い車椅子生活を余儀なくされながらも、仲間レスラー達が闘病中の病室へ激励に駆けつけて勇気付け、リハビリに励んでいた。

2003/5/25には、ディファ有明で「がんばれ、サンボ浅子」と題した大仁田厚自主興行(旧FMWのメンバーやWMFも協力)が開催された。その興行に先立って同じく車椅子生活でリハビリを続けるハヤブサらと共に記者会見に出席し感謝とエールを述べていたが、翌2004年5月18日に東京都内の病院で死去。享年40。

その他

テレビゲーム

  • 大仁田厚 FMW(スーパーファミコン)
    ※ゲーム中にレスラーとして本人が登場する。

映画

  • ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌
    柔道家時代に高校の柔道選手として出演。

著作

  • プロレス界の愉快な仲間たち―サンボ浅子復帰記念(1997年12月、リム出版新社刊)





鳴海剛
1965/8/27

本名渡邉正剛は、新潟県出身の俳優、モデル、タレント。事務所はゴーイング。 20歳の頃にモデルとしてデビューし、25歳のときメガネスーパーが母体のプロレス団体、SWSプロレスのリングアナウンサーのオーディションに合格し、旗揚げから務める。趣味は乗馬、ラケットボール、トレーニング。

身長185cm、血液型はAB型。





グレート・カリ/ジャイアント・シン
1972/8/27

ダリップ・シンDalip Singh)は、インド人プロレスラーである。インド・ヒマーチャル・プラデーシュ州出身。

来歴

プロレスを始める前は、ボディビルダーとして活躍。ミスター・インドを取るにまで至った。その後、アメリカ西海岸にあるプロレス団体APWでトレーニングを始める。

2001/8/12の新日本プロレス両国国技館大会で、蝶野正洋がTEAM 2000の新メンバーとして紹介。ジャイアント・シンと名乗り、同じく身長2mを超えるジャイアント・シルバと組み、かつて例のない超大型タッグが結成された。しかし、2002年に行われたIWGPタッグ王座決定トーナメント中に2人は仲間割れ。同年3月には一騎打ちをし、ド迫力な試合となった。その後はメキシコのCMLL(EMLL)のマットにも参戦している。

WWEデビュー

2006/1/2にWWEと契約。同年4/7のスマックダウンで、リングネームグレート・カリでデビュー。マネージャーにデバリを従え、ジ・アンダーテイカーを中心に抗争する。初登場でテイカーを気絶させた。それが原因でジャッジメント・デイで対決。テイカー相手に勝利する。グレート・アメリカン・バッシュでの再戦ではテイカーとパンジャーブ・プリズン・マッチ(WWEでは初めての形式。竹でできた牢獄の中で戦う方式である)で戦う予定であったが、盲腸の異常のため突如欠場が表明された。(代理にビッグ・ショーが出場しテイカー対ビッグ・ショーのECW王座戦に変更された。試合は変更されたが、試合形式は変更されないまま行われた。)

その後テイカーと試合を行わなかったことでストーリーに変化が生じたため、ECWに移りトミー・ドリーマーらと戦うが、その後すぐにRAWに移籍。ジョン・シナに照準を絞り、虎視眈々とWWE王座を狙っていた。しかし結局シナから王座を奪還することはできなかった。

ケインとの対決

2007年、WrestleMania 23に出場を果たした。対戦相手は同じく怪物キャラクターのケイン。ケインはSee No Evil(邦題『シー・ノー・イーヴル 肉鉤のいけにえ』)と言う映画に主演した直後であり、劇中で自らが演じた怪物の持つ凶器チェーンフックを試合に持ち込んだ。この試合で、ケインはカリをボディスラムでマットの上にたたき付けた。しかし試合は結局カリの勝利で終わった。ケインが持ち込んだチェーンフックは結局一度も使用されなかった。しかし、カリは試合終了後にこのチェーンフックを利用してケインの首を締め失神させてしまう。

スマックダウン移籍

2007年6月に行われたドラフトにてスマックダウンに移籍。7/22には、20人バトルロイヤルを勝ち抜き、世界ヘビー級王座を獲得した。これが自身初(インド人初でもある)のタイトルとなる。その後のPPV、グレート・アメリカン・バッシュでケイン、バティスタとのトリプルスレットマッチで王座防衛に成功している。しかし9月に行われたアンフォーギヴェンでバティスタにタイトルを奪われた(試合形式は、レイ・ミステリオを含めたトリプルスレットマッチ)。

2008年に入るとフィンレー、ホーンスワグルと抗争していたが、その後は一転してこの2人とタッグを結成。

絶対的な強さと破壊力を持つ選手だが、他選手との体格差がありすぎることが災いして、負けブックが使いづらいキャラクターとなっている。そのため扱いがWWEで最も難しいレスラーとされており、対戦相手を選ぶにも選べない難しい状態が続いていた。そのためかスマックダウンでのデビュー直後すぐにECWに移籍、そのまた直後すぐにRAWに移籍。その後再びスマックダウンに戻っている。

しかし、以降はカリズ・キス・カムという、選ばれた女性観客とキスをするというコーナーを担当し、徐々にベビーフェイスとなり、コミカルなキャラクターで人気を得るようになる。 2009年5月頃からドルフ・ジグラーと抗争を開始し、6/28のザ・バッシュでノーDQ戦で対戦するが試合途中にケインが乱入し、ケインにイスでめった打ちにされたため、ジグラーに敗れる。それがきっかけとなり以降ケインとの抗争を開始する。このケインとの抗争中にカリの通訳をしているランジン・シンがカリの弟だと発覚した(もちろんアングル上。それまでは友人という設定であった)。その後膝の手術のため欠場していたが12月14日のRAWで抗争相手だったケインとタッグを組み復帰した。

2010年に入ってからはマット・ハーディーと組みタッグ戦線で活動していた。4月のスマックダウンでジグラーとの試合後にインドに帰り休養すると宣言したがその後何事もなかったかのようにRAWに登場し、4月末の追加ドラフトにより通訳兼マネージャーのランジン・シンと共にRAWへ移籍。サマースラムではチームWWEの一員としてネクサスとの試合に臨む予定だったが、ネクサスに襲われメンバーを辞退した。

WrestleMania XXVIIではダーク・マッチの22人バトルロイヤルで優勝した。

4月末に行われた追加ドラフトでスマックダウンに移籍した。

獲得タイトル

WWE
  • 世界ヘビー級王座 : 1回

入場曲

  • Danger
  • Land Of Five Rivers - 現在使用中

エピソード・備考

  • 過去にアイアンマンマガジンのインタビューに答えたことによると(英語でインタビューを受けているようなので英語も十分に話せるようである)7人兄弟の3番目として生まれたらしく、22歳からボディビルを始め、ミスター・インドを2年連続で受賞。また両親は175cmほどで身長は普通であるらしい。インドにプロレススクールを持っているとも答えている。
  • 腕周り68cm 胸周り137cm(上記インタビュー時)
  • 韓国のプロレス団体に参戦していた頃、外国人選手の視察に来ていたノア旗揚げ直後の三沢光晴に素質を見込まれ握手を交わしている。
  • TEAM2000時に、蝶野・天山と一緒に「さんまのまんま」に出演し、明石家さんまを驚かせっぱなしであった。また番組の最後には入り口の一番高い所にサインを書いている。
  • 吉江豊と戦ったときに、裏拳で顎を骨折。その後に控えていたジャイアント・シルバ戦が延期になっている。
  • ロンゲスト・ヤードの映画に出演したことがある(ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、ボブ・サップも出演している)。
  • かつてはWWEの観客から「YOU CAN'T WRESTLE!!!」チャントが起こっていた。「プロレスができない」「へたくそなプロレス」という意味である。
  • 2008年公開の映画『ゲット スマート』に、大男ダリープ役で出演している。

  



井上亘
1973/8/27

日本のプロレスラー。東京都江東区出身。新日本プロレス所属。

経歴

幼少時代はアトピー性皮膚炎を患うなど虚弱体質で克服のためスポーツに打ち込んだ。高校までは水泳、野球、陸上競技を行っていた。格闘技のバックグラウンドはないが、東京電機大学在学中にアニマル浜口ジムに通い始めてトレーニングを積み、1998年3月に新日本プロレスに入団した。大学卒業から入団まで数年の空白があるが、その間何をしていたのかは本人いわく「秘密」とのこと。

入団後1年以上のトレーニングを経て、1999/7/21の札幌中島体育センター興行での「スーパージュニア・バトルロイヤル」でプロレスデビュー。ただしこのバトルロイヤル登場は仮デビューと位置づけられ、正式なデビュー戦は同年10/10後楽園ホール興行での対柴田勝頼戦である。

2001年よりジュニアヘビー級戦線を活動の中心に据えている。同年11月にはタッグ戦ではあるが獣神サンダー・ライガーから勝利を奪うなど活躍した。

2002年の2月にはプロレスリング・ノアへも登場している。同年10月から目の治療のために長期離脱。2003年の7月に戦列復帰した。一時期、目の保護も兼ねてベイダーマスクのような変わったマスクをしていたが、ファンから不評だったこともあり使用をやめている。復帰後は他団体へも積極的に参戦し、翌2004年1月のプロレスリング・ノアでGHCジュニアタッグ王座に挑戦、2月には大阪プロレスなどへ登場した。

2005年の3月には金本浩二と組み、邪道、外道が所持するIWGPジュニアタッグ王座に挑戦し奪取するも5月に同王座を奪われる。2006年と2007年のBEST OF THE SUPER Jr.では2年連続でブロック1位通過を果たすも、優勝にはならず。

7月の大会直前、道場に置手紙を残し音信不通状態となるも、10月に試合を終えた金本浩二が「メキシコで試合や練習をやっている」とコメント。11月に復帰戦を行い、パートナーとは一度もタッチを交わすことなく当時IWGPジュニア王者だった田口隆祐を7分足らずでタップを奪った。試合後もリング上で王座挑戦を表明。12月になると田口と25分以上の激闘を繰り広げた末、IWGPジュニアヘビー級王座に初載冠。

2008年3月の試合で邪道に徹底したラフ攻撃で大流血に晒され、これに激怒。4月に邪道とシングルマッチを決行し普段見せないラフ戦法を織り交ぜ勝利を挙げた。

BEST OF THE SUPER Jr.ではAブロック2位で通過。タイガーマスクを下し、決勝で金本浩二と師弟対決が実現。変型トライアングルランサーで金本からギブアップを勝ち取り悲願の初制覇。同時にジュニア2冠王となった。後日に一夜明け会見が行なわれ、今まで3度の防衛に成功してきたIWGPジュニアヘビー級王座返上とヘビー級転向を発表。さらに、結婚されていたことが明らかになった。

8月にG1 CLIMAXへの初出場を果たし中西学、ジャイアント・バーナードのスーパーヘビー級相手に金星をあげ2勝4敗の結果に終わる。12月にはG・B・H所属の石井智宏と抗争劇を繰り広げた。以降、数回のシングルマッチが組まれ、2009年5月にフォールズカウント・エニウェアマッチで激突。場外に敷き詰められた椅子の山にオラシオンフレイムを叩きつける荒技を敢行。これにピンフォール勝ちを収め、抗争にピリオドを打つ。

抗争後は低迷が続き、ついには2009年度G1 CLIMAXにも選出されず。その悔しい思いから9月シリーズに同年度G1に参戦した選手達とシングルでの連戦が組まれた。「俺の『G1』」と称し意気込んではいたものの、やはり結果は残せず。そして9月に永田裕志と組んで矢野通から不甲斐なくフォール負けを喫し、バックステージで永田、スーパ・ストロング・マシン、平澤光秀らと青義軍を結成。10/10、デビュー10周年を迎えるも中邑真輔にフォール負け、さらに11月にも中邑にフォールを奪われ2連敗を喫す。

2010年4月、CHAOSとNO LIMITの暴徒に我慢できず青義軍メンバーと共に乱入し宣戦布告。5/3、IWGPタッグ王座を賭けて、王者組のNO LIMIT、ジャイアント・バーナード、カール・アンダーソン組の強豪チームに永田裕志をパートナーに抜擢し初挑戦。アンダーソンをスピアー・オブ・ジャスティスから押さえ込むとピンフォールを奪い、同王座に君臨を果たした。しかし、その試合終了直後にNO LIMITが再戦を直訴した為、6/19に同様の面子で対戦。バーナードをジャーマンスープレックスで投げる等、健闘するも最期は自身のファイトスタイルを利用したアンダーソンのガン・スタンに敗れ、初防衛に失敗する。 8月のG1クライマックスに出場。また、永田とタッグを組んでG1タッグリーグに出場しG1タッグ優勝を果たす。その後、G1タッグ優勝の特権でIWGPタッグ王座に再び挑戦するも敗退する。

2011年1月4日の東京ドーム大会では、天山広吉と飯塚高史のDEEP SREEP TO LOSE戦の解説席に座り、飯塚に襲撃を受けるようになった野上アナの護衛に着く。また、試合中に飯塚がアイアンフィンガーフロムヘルを装着した直後にリングに上り、アイアンフィンガーを奪い飯塚にエルボーを食らわせ、天山をアシストし勝利に導いた。 2/20の仙台大会を契機に天山と青義軍が共闘、天山とタッグを組むようになる。 3月、NJCに出場、1回戦にアンダーソンと対決するも予選敗退となる。

タイトル歴

新日本プロレス
  • IWGPタッグ王座 : 1回(第56代)(&永田裕志)
  • IWGPジュニアタッグ王座 : 1回(第14代)(&金本浩二)
  • IWGPジュニアヘビー級王座 : 1回(第53代)
  • BEST OF THE SUPER Jr. (2008年) 優勝
  • G1 TAG LEAGUE (2010年) 優勝(&永田裕志)

入場テーマ曲

  • countdown ignition




 
ボリス・マレンコ
Boris "The Great" Malenko
1933/6/28 - 1994/8/27

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はローレンス・J・サイモンLawrence J. Simon)、通称ラリー・サイモンLarry Simon)。

現役選手時代はチェーン・デスマッチの名手として活躍し、引退後はヒールのマネージャーとなって悪名を轟かせた。また、名トレーナーとしても知られ、日本人レスラーを含め多くの選手を育成した。息子のジョー・マレンコとディーン・マレンコも元プロレスラーである。

来歴

デビュー当時はテキサス地区で活動。1961年7月にはフロリダにてバディ・ロジャースのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。その後、ナチス・ギミックのオットー・フォン・クラップOtto Von Krupp)に変身し、ボブ・ガイゲルと組んで1961年11月にAWA世界タッグ王座を獲得した。

1965年1月、グレート・マレンコGreat Malenko)のリングネームで日本プロレスに初来日。1960年代後半からはフロリダ地区を主戦場に、ロシア人ギミックのヒールとして活動。1967年5月にはワフー・マクダニエルからフロリダ・ヘビー級王座を、1968年8月にはジョニー・バレンタインとのコンビでホセ・ロザリオ&ジョー・スカルパから南部タッグ王座を奪取している。以降1972年にかけて、エディ・グラハム、ディック・マードック、ボビー・ダンカンらとブラスナックル王座を巡る流血の抗争を展開。同王座を通算8回獲得し、ラフファイターとしての名声を高めた。

1973年5月にはアブドーラ・ザ・ブッチャーらと共に全日本プロレス、1974年10月にはザ・シークやアーニー・ラッドと共に新日本プロレスに参戦。以降はセミリタイアし、1976年よりNWAミッドアトランティック地区でマネージャーに転向。タキシード、ステッキ、葉巻をトレードマークに悪の紳士をイメージしたキャラクターとなり、マスクド・スーパースターやキム・ドクらヒール勢をコントロールした。

1978年3月にはスーパースターに帯同して新日本プロレスに再来日。火のついた葉巻をアントニオ猪木の目に押し付け、激怒した猪木が制裁目的のシングルマッチを行うなどのアングルも組まれた。新日本には1979年1月にも、フロリダ地区でのタッグ・パートナーでもあったボブ・ループのマネージャーとして登場している。

1980年代後半からはホームタウンのフロリダ州タンパでプロレスリング・ジムを運営。彼のジム "Malenko School of Wrestling" は日本では「マレンコ道場」と呼ばれ、同じくフロリダ在住のカール・ゴッチの仲介により、第二次UWFに数々の門下生が来日した。

1994年8月27日、血液癌のため死去。61歳没。

獲得タイトル

American Wrestling Association (ミネソタ)
  • AWA世界タッグ王座:1回(w / ボブ・ガイゲル)
Championship Wrestling from Florida (フロリダ)
  • NWAブラスナックル王座(フロリダ版):8回
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:2回(w / ボブ・ループ、ジョニー・ウォーカー)
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回(w / ジョニー・バレンタイン)
Southeastern Championship Wrestling (アラバマ)
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(北部版):1回
  • NWAサウスイースタンTV王座:1回
NWA Big Time Wrestling (ダラス)
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / キラー・カール・コックス)

育成選手

  • ジョー・マレンコ
  • ディーン・マレンコ
  • バディ・ランデル
  • バリー・ホロウィッツ
  • ポール・ダイヤモンド
  • ノーマン・スマイリー
  • デビッド・ヒース
  • ショーン・ウォルトマン
  • グレン・ジェイコブズ
  • ヴァン・ハマー
  • ジョニー“ジャンボ”バレット
  • マック・ローシュ
  • ウェリントン・ウィルキンスJr.
  • デビー・マレンコ
  • 石川雄規
  • 島田裕二
  • 内藤恒仁
  • 竜司ウォルター

 etc.






トニー・オズボーン
Anthony "Tony" Osborne
1926/7/13 - 2010/8/27

トニー・ボーン、”Tough" Tony Borneの名前で活躍したアメリカのレスラー。
本名はアンソニー・ウエイン・オズボーン。ゴリラ男といわれたブル・ファイターでマット・ボーンの父。サンフランシスコでロニー・メインとのコンビで長く活躍した。体が非常に頑丈で大流血試合でも試合後にはほとんどダメージが残らなかったという。何度も来日の噂がありハワイを主戦場にしていた時期もあったが、来日はなし。
タイトル
パシフィックノースウエウト・タッグ
テキサス・タッグ
パシフィックノースウエウト・ヘビー
NWA世界タッグ(テキサス版、シスコ版、バンクーバー版)
カナディアン・タッグ(バンクーバー版)





アントン・ヘーシンク
Anthonius Geesink
1934/4/6 - 2010/8/27 

オランダ・ユトレヒト出身の柔道家、プロレスラーである。身長198cm。 

1973年から5年間、プロレスラーとして全日本プロレスで活動している。
日本でも知名度の高い柔道金メダリストということもあって、ザ・ファンクスの指導を受け、
ジャイアント馬場とタッグを組んでブルーノ・サンマルチノと戦うという華々しいデビュー戦
(1973/11/24・蔵前国技館)を飾り、その後もゴリラ・モンスーンと柔道ジャケットマッチを行うなど、
スター選手として特別扱いをされていたが、ファンからの反響は乏しいものだった。
馬場は当時のアントンについて「プロレスに適応しようとしなかった」
「柔道着を着て押さえ込まれたらこれほど強い男はいないが、裸になるとこれほど弱い男もいない」
と評している




 ↑ トップへヤフーオークション
 


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system