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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
8/29

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今日は何の日?


山口 敏夫
1940/8/29

日本の元政治家、元労働官僚。父は元衆議院議員の山口六郎次。

衆議院議員(10期)、労働大臣(第48代)、新自由クラブ幹事長(第3代)を務めた。

小柄な体躯、精悍な顔立ち、歯切れのいい弁舌に、権謀術数に長けた機を見るに敏な処世術、政界遊泳術で国民にもよく知られた存在だった。ニックネームは「政界の牛若丸」「珍念」。
第二代全日本女子プロレスリング協会(WWWA)のコミッショナー

 
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スタン・ハンセン
Stan Hansen
1949/8/29

テキサス州ノックスシティ出身のデンマーク系アメリカ人。本名はジョン・スタンリー・ハンセンII世John Stanley Hansen II)。

日本で最も成功したと言われる外国人レスラーの1人。第32代AWA世界ヘビー級王者。第2代PWF会長。なお、現夫人は日本人である。リングイン時および試合後の「ウィー!!」という雄叫びが挨拶代わりのようになっている。

首折り事件の真相

ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを主戦場とするWWWF(現WWE)の帝王サンマルチノが、自分が対戦するメインイベントの相手として、中堅時代のハンセンをとある人物から薦められた。プロモーターはビンス・マクマホンだが、推薦人物は先にサンマルチノにコンタクトをとるようにハンセンに忠告した。ハンセンはその忠告を守り、先にサンマルチノと会談した。サンマルチノによると、マクマホンと自分は円滑な関係ではなく、最も大事なタイトル挑戦者選びはマクマホンが取り仕切っていたというが、「君なら間違いないと思う。全力でブツかってきてくれ」とハンセンを挑戦者として承諾した。ハンセンは続いてマクマホンとコンタクトをとったが、「ブルーノが連れて来たんだ。細かい話はブルーノとしてくれ」と投げ遣りな言葉を返された。頭に来たハンセンだが、せっかくのメインイベンターとしてのチャンスをふいにはできないので、我慢することにした。

結果として、急角度で落下させたボディスラムでサンマルチノの首を負傷させ、しかもラリアットの連発を浴びせたため、サンマルチノは入院、2か月の長期欠場となった。「チャンピオンを怪我させて、どう責任とってくれるんだ!」とマクマホン側の批判は厳しく、ハンセンも顔面蒼白となったが、あらかじめ根回ししていたサンマルチノは、「ハンセンを責めないでくれ。1日も早く回復してみせるから」と擁護したという。結果、WWWFはサンマルチノの穴埋めとしてハンセンを使い続けることになり、事情を知らない観客からは「俺達の英雄を怪我させたハンセンを許すな!」と非難を一身に浴びることとなった。サンマルチノが復帰しハンセンの契約が切れる頃、マクマホンから「契約を延長してやってもいい、その気があるならサインしろ。応じられないなら新日本プロレス行きを考えてやる」と言われ、時間をもらいサンマルチノに相談した。サンマルチノは「現状を考えると新日本行きが一番ベター(良い選択)だろう。マクマホンは君に興行収入の何パーセントの還元も約束してくれてないのだろう?」と新日本行きをハンセンに提案した。事情を知らないマスコミは2人には遺恨があると誤解し、「ハンセンはWWWFから追放された」などと報じた。

ハンセンから視た全日本、新日本、アメリカプロレス界

日本での最初の主戦場は新日本プロレスとなったが、待遇やギャラの面では最終的に満足していると語っている。日本人であるアントニオ猪木が不動のエースであることもヒールを自認していたハンセンにとっては受け入れ易いものであった。それでもなおハンセンが移籍へ到ったのは、新日本に対してプロモート業を新間寿に委託している猪木はリング上の対戦相手でしかなく、ビジネスの話ができなかったからだという。その新間の営業戦争企画でアブドーラ・ザ・ブッチャーを全日本から引き抜いたのだが、当時 新日本の外人エースであるハンセンには事前まで何も知らされず当惑させられた。

逆に全日本プロレスはジャイアント馬場が試合のプロモートからギャラの支払いまでを管理していたので、すべて相談できて安心だったという。しかし、不満がないわけではなかった。まず、外人選手であるザ・ファンクスが全日本のエースに長く君臨することには疑問を抱いており、馬場の次のエースはジャンボ鶴田でなければならないと強く思っていた。 また、ヒールとしての高いプロ意識も葛藤を生んだ。当時の全日本では選手が皆同じバスで移動していたが、他選手と和やかにしている姿をファンに見られたくないハンセンにとって、このシステムは抵抗が強かったという。 また、日本のファンはヒールながら凶器に頼らないハンセンの姿勢を敬愛したため、ブーイングを当然と考えていたハンセンは戸惑いを感じていた。そうしたファンへは感謝もしていたが、現役時代はこれを素直に表現できず、苦痛だったという。

アメリカでは移動、宿舎の手配まで自身で行わなければならず(一部の団体除く)、いくらギャラが高くても安心できない面があることや一時の人気でトップに上ってもすぐに捨てられる可能性があることをハンセンはこれまでの経験で痛感しており、「一時、新日本は全日本に比べて事務的だと思ったがアメリカの団体と比べれば新日本に対して失礼だ」とも思ったという。長い期間と広い視野でプランを立てる日本プロレス界をハンセンは強く支持していた。

ブルーザー・ブロディとの関係

ハンセンが大学のクラブ(アメリカンフットボール)の寮を見学した際、案内してくれた人物のルームメイトが偶然ブロディだった。これが3つ年上のブロディとの初めての出会いで、案内人側の空間はゴミ一つなくきっちり整理されていたのに対し、ブロディ側は新聞紙やビールの空き缶などが散乱していたという。ブロディは本来授業を受けている筈の午後2時に部屋で寝ており、一旦目覚めて「ハーイ!」と陽気に挨拶してきた後、再び高いびきで寝てしまった。案内人はハンセンへ「見せた部屋が不味かったね。他はこんなんじゃないよ」とバツが悪そうに言った。後年この時のことを話す度に、ブロディはいつも顔を紅潮させ恥ずかしがったという(その後ブロディは問題を起こし、大学を退学)。

デビュー後に再会した際、プロモーターがブロディのことを「彼は真面目で何でも私に相談する、好青年だよ」と話しているのを聞き、ハンセンは「フランク(ブロディの本名)め、猫被っているな」と吹き出しそうになったという。ハンセンはブロディから「俺の学生時代の愚行はプロモーターには内緒にしてくれよ」と頼まれた。

両者はオクラホマやルイジアナなどミッドサウスのトライステート地区でタッグチームとして売り出されたため、グリーンボーイ時代は苦楽を共にしていた。プロモーターや先輩レスラーと衝突することが多かったブロディをハンセンはたしなめていたというが、ハンセン曰く「もし私とブロディが同じ性格なら、こんなに長く一緒に居ることは出来なかっただろう」と語っている。

全日本プロレスへのハンセンの移籍報告をハンセン本人から聞かされたブロディは「スタン、それは喜ぶべきニュースだが、俺が居るのになぜこれ以上全日にタレントが必要なのだ? 俺だけでは不足なのか?」と不服そうに語ったが、オーナーであるジャイアント馬場の意向をブロディに聞かせ納得させた。ハンセンが全日本登場直前にブロディは「スタン、この時点で馬場は俺達に君のことを何も報告していないんだぜ? 俺やスヌーカ(この時のパートナー)はそんなに信用できないのか?」と不審を募らせた。このような事柄を繰り返してきたため、ブロディのプロモーター不信は蓄積され、後の悲劇を招いたとハンセンは痛感することになる。

ブロディは1985年に新日本へ移籍することになるが、実際に新日本にいたハンセンは、ブロディが移籍したとしても新日本との軋轢は避けられないと確信していた。ブロディはギャラに煩いと思われがちだがハンセンによると金銭よりメインイベンターとしてのプライドの方が強かったという。これらに拍車がかかりプエルトリコの惨劇が起こったとハンセンは断定しており、傍に居ながら止めてやれなかったことを嘆いている。ブロディ死亡後、ハンセンは一時ヒールの仮面を脱ぎ棄ててリング上で追悼のスピーチを行った。

アメリカマットでの活躍

リングネーム全盛期にあって本名でリングに上がり続けたが、アメリカでの正式なリングネームは「"Bad Boy" Stan Hansen」または「Stan "The Lariat" Hansen」である。

ニューヨークのWWWF / WWF(現・WWE)にはブルーノ・サンマルチノの首折り事件を起こした1976年と、新日本プロレスの主力外人となってからの1981年の2度に渡って参戦している(マネージャーはいずれもフレッド・ブラッシー)。1976年の参戦時は7月よりブルーザー・ブロディもサンマルチノの挑戦者としてローテーションに加わり、両者は共に東部一帯をサーキットした。1981年には前述の通り、MSG定期戦においてボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦、最終的にはスチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われている(DVD『WWE Bloodbath - The Most Incredible Cage Matches』に収録)。MSGでの金網決着戦までバックランドとの抗争アングルが組まれることは当時のWWFにおける「売れっ子ヒール」の証でもあり、ハンセン以前にはピーター・メイビア(1978年)とパット・パターソン(1979年)、以後にはジミー・スヌーカ(1982年)らがいる。また、1981年には前年にカムバックしたサンマルチノとの遺恨マッチも再現された。

アメリカ本土においてもヒールに徹しており、WWFや南部のNWA圏などメジャーテリトリーでの実績を有していたことから、1980年代前半のアメリカの専門誌や業界誌の不人気レイティング(すなわち悪党人気)では上位にランクされていた。

しかし、主戦場としていたジョージア地区(ジム・バーネットが主宰していたGCW)では、1979年以降はベビーフェイスのポジションに回る場合が多く、トミー・リッチやワフー・マクダニエルら人気選手のパートナーを務め、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・カール・コックス、マスクド・スーパースターなどのヒール勢と対戦している。1983年のクリスマスには、GCWの本拠地アトランタのオムニ・コロシアムにおいて、バグジー・マグロー(1984年3月に全日本マットでハンセンのPWFヘビー級王座に挑戦)と組んでロード・ウォリアーズとも対戦した。なお、GCWの看板タイトルであるNWAジョージア・ヘビー級王座には、1977年11月にディック・スレーター、1978年2月にミスター・レスリング2号を破り、2回戴冠している。

1983年は、9月よりテネシー州メンフィスのCWAにもスポット参戦し、ジミー・ハートをマネージャーにジェリー・ローラーやオースチン・アイドルと対戦した。9/12にはアイドルからCWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している。ジョージアでの盟友であり、後にテッド・デビアスに代わるPWF世界タッグ王座のパートナーに起用したアイドルとは、テキサス・ブルロープ・マッチやバンクハウス・マッチによる抗争アングルが組まれるなど、後のハードコア・レスリングにも通じるメンフィス・スタイルの喧嘩試合にも対応してみせた。また、ジェシー・ベンチュラとタッグを組み、ローラー&アイドルとの "Grudge Tag Team Match Of The Year" と銘打たれたタッグ対決も行われている。

日本を主戦場としていたためアメリカでは評価は高くないと思われがちだが、関係者やレスラーからは大変尊敬されている。ハンセンと同じくテキサス出身でフットボール選手でもあったジョン・レイフィールドもその一人で、ジャスティン・ブラッドショー時代のカウボーイ・ギミックやラリアットなどハンセンのスタイルに倣ったものが多い。

全日本に移籍してからも前述のAWA王座奪取の他、1980年代半ばまではジョージア地区を本拠地とし、1990年代初頭には親交があったオレイ・アンダーソンの仲介によりWCWへ短期間参戦しレックス・ルガーからUS王座を奪取するなど、アメリカマット界でも活躍していた。しかしそれ以降はアメリカのプロレス事情の変化(WWFとWCWの2大メジャーの寡占化)などもあり、ほぼ全日本参戦に専念することとなった。

なお、AWAには1979年にも、ウエスト・テキサス大学の先輩であるボビー・ダンカンのパートナーとして短期間サーキットしたことがある(当時のAWA世界タッグ王者チームのバーン・ガニア&マッドドッグ・バションに挑戦し、同年8/15にカナダのマニトバ州ウィニペグにおいてタイトルを奪取したともされている)。また、1984年に行われた全日本主力勢のAWA遠征にも同行し、ヒーナン・ファミリーに加入してニック・ボックウィンクルのパートナーを務めた。

 
  • 現役時代はテンガロンハットにドクロマークを縫い込んだベストとチャップス、ウエスタンブーツをモチーフにしたリングシューズ、手にはブルロープ(後年はカウベル付のものを使用)というカウボーイスタイルのコスチュームで、入場時には手にしたブルロープで近くの観客を手当たり次第に殴りつけ、「怖いガイジン」のイメージを通し続けたが、右手で牛の角の形を作り(テキサス・ロングホーン)「ウィー!!」という雄叫びで会場人気を集め、ブルロープで殴られることを求めてハンセンに近づくファンもいた。近づきすぎて軽いけがをしてしまうファンもいたが、ハンセンは試合後そのファンを控え室へ呼び、侘びの言葉とともにサインをくれたという逸話もある。テンガロンハットは新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍前や全日本移籍直後の馬場とのシングル戦、1982、1983、1988年の最強タッグ最終戦や現役最後の試合などで観客席に投げ込んだことがある。
  • ブルロープ所持のアイデアは新日本プロレス時代のタイガー・ジェット・シンのサーベルにヒントを得たとされる。タイガー・ジェット・シンとは、新日本・全日本を合わせ10年以上もツアーを同行したことになる。その間の両者の絡みは多くはなかったが、決して不仲というわけではなく、ハンセンはシンを来日常連レスラーの先輩と見て接していた。大暴れしながら入場するスタイルなど、シンからはヒールとしてのギミックをいろいろ盗み、手本にしたという。
  • 極度の近視のため、リング外では厚いレンズのメガネをかけている。リング上で手当たりしだいに暴れまわっていたのは、目の前がよく見えなかったためだと複数のレスラーが述懐している。ある試合でロープを振り回しながら入場していた所、高齢の女性にロープが直撃してしまった。後にその事へ気付いたハンセンが、小声でひたすら「ソーリー」と謝っていたという。入退場を含め常に動き回る本当の理由は、アメリカ本土において狂人的なファンから銃器や刃物で生命を狙われた経験が元で、自分を守るための苦肉の策だったという。
  • 入場の際乱入したファンへ怒り、それを止めに入った若手選手へ花道でパワーボムを見舞ったこともある。
  • 防戦一方となるシーンを滅多に見せなかった。つまり、攻め込まれてどんなにダメージを負っていても、そのままリングに倒れ込むことなく、必ず立ち上がって反撃した。馬場はこのファイトスタイルを「むちゃくちゃなリズムで読めない」と評しながらも、絶賛していた。本人もブロディと共に「俺達の体格でこれほど動けて、ガス(スタミナ)を持っているレスラーは稀だ」と語っている。
  • 1980年代頃までは、試合後の暴れっぷりも凄まじかった。特に、引き分け裁定や負け試合の時には対戦相手に八つ当たりの乱闘を起こすのが常だった。それは乱闘を止めに入った中堅若手のセコンドにも矛先が向かうのも常道で、それは若手時代の三沢光晴や川田利明にも及ぶことがあった(要領の良かった冬木弘道は受難頻度が一番少なかったといわれる)。セコンドにウエスタン・ラリアットの洗礼を浴びせてグロッギーにしてしまうことも多々あり、受けたセコンドとすればたまったものではない半面、結果的にウエスタン・ラリアット見たさに足を運んだファンを満足させることにもなった。新日本時代には決まってラリアットを受けていた前田日明は、現役時代一番痛かったのはハンセンのラリアットだったと語る(2007年10/4放送のアメトーーク!にて)。
  • ジャンボ鶴田は無名時代ともにトレーニングを積み、トミーの愛称で呼ぶほどの親友で、馬場元子夫人が日本から送ったインスタントラーメンを2人で分けて食べたという。また、その味にいたく感激し、送られてきたインスタントラーメンを一人で食べてしまったこともあるらしい。新日本時代に対戦した同期のボブ・バックランドにも同じことが言える。2000年の鶴田の死に際してはショックを隠し切れず、ハンセンが引退したのはその死から間もないことだった。鶴田が引退後にアメリカ在住を考えた際、その相談にも乗ったという。
  • アメリカマットでの活動を控え全日本を主戦場とするようになってからは、オフのときはアメリカの自宅でコンディションを整え、万全の状態で全日本に上がることだけを考えていたという。ほとんど毎シリーズ、全戦参戦していたというのも特筆すべきことである。また、全日本プロレスとは当初2年契約を交わしていたが、それが切れてからも互いの確かな信頼関係を基に、馬場はファーストクラスの往復航空券を送り、ハンセンもリングに上がり続けた。
  • 全日本では外国人選手のリーダーとしての顔も持っていた。来日間もない頃のジョニー・エースやテリー・ゴディには、日本のプロレスの特徴から居酒屋での食事の仕方まで指導していた。そのためか、箸の使い方が大変上手である。
  • 1983年には、PARCOのCMに起用される。「狩人か、旅人か」というキャッチコピーだったこのCMは好評で、電通作成の「広告景気年表」でも、この年の代表作の一つとして取り上げられている。
  • 1990/4/13、WWF・新日・全日三団体共催東京ドーム大会のメインでハルク・ホーガンと対決し敗れる(当初、ホーガンの相手はテリー・ゴディが予定されていた)。プライベートでの両者は親友同士で、同年上映されたホーガン主演の映画『ゴールデンボンバー』にはハンセンも出演している。
  • 2000/11/19、馬場元子社長(当時)からハンセンの引退が発表され、そのまま引退試合は行わなかった。理由は「日本のファンに、強いスタン・ハンセンのイメージを持ってもらったまま引退したかった」という理由で、長年酷使してきたボロボロの肉体を、日本のファンに見せたくなかったからだという。
  • ミル・マスカラスにシュートを仕掛けられて反応できなかったとされている(マスカラスとは1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦で対戦し映像も残されている。ただしシュートを仕掛けたとする場面こそないがハンセンが仕掛けた技にマスカラスがバンプを取らず即座に反撃している様子が確認できる)。
  • 馬場の色が無くなった全日本に今でも協力しているのはなぜかという質問に対し「ババにはいろいろとよくしてもらい感謝している。そのババが作ったオールジャパンがどんな形だろうとある限り私は協力する」と答えた。全日本に対して「ここは、私の勤めた会社だ」とも語っている。
  • 食えないグリーンボーイ時代にブルーザー・ブロディと無銭飲食まがいの行為をしたこともある。他に他人の畑のトウモロコシを無断で拝借したこともあるという。現在においては「非常に恥ずべき行為だ」と自身を非難している(自著『魂のラリアット』より)。
  • 良い意味で世渡り上手であり、大義をなすならプライド、金銭は二の次な日本人に近いものがあり、それが彼が日本で成功した最大の要因であろう。全日本プロレスで他の選手がWWFなどの他団体に大量に引き抜かれた時期も彼はジャイアント馬場を支持し最後まで着いて行くと決めていたため、馬場の死は深い悲しみだったという。相棒、ブルーザー・ブロディが逆に世渡り下手だったため、歯止めを行ったというが結局それは叶わなかった。ブロディの新日本プロレス移籍にも反対であったが、できるだけの知識を授けた。ジャンボ鶴田死去後も現役でありながら彼を語るのは自分の義務としてインタビューに応えた。
  • プロレスの勝ち負けに対するシナリオの有無を遠まわしに自伝で語っており、「善人でないとヒールは務まらない」、ジャンボ鶴田に対しても「ここは彼の国なので彼が天下を取るのは当然だ」と自身の分をわきまえていたが、「馬場がなぜザ・ファンクスにあれほど気を使うか理解できない」という点ではブロディと同意見だった。
  • 他にもザ・ファンクスには自分をプロレスラーにしてくれた恩人と思う反面、グリーンボーイ時代に身の安全やギャランティの上でアメリカ本土での希望ルートを聞き入れて貰えなかったことを遺憾に思っていたのは確かだったと言う。特にテリー・ファンクとの接点が多く、テリーはハンセンにとって学生時代から「近所の兄貴」と言う印象が強かったが、レスラー時代には不遇な扱いをされた印象も度々あったと言う。しかし、現役の晩年にテリーとタッグを組む機会があり、「お前も歳を取ったな」と言うテリーの言葉がハンセンに引退を決断させる一つの原因になったと言う。
  • 『プロレススーパースター列伝』で自身の生立ちを誇張されていたのに対しては「あれはあれで、ドラマチックに描いてくれた作者(梶原一騎)に感謝している」と満更ではない模様。
  • 元阪神タイガースのランディ・バースとは近所に住んでたこともあり親交が深い。日本で彼の野球の試合を観戦したこともある。
  • アニメ『Dr.スランプ アラレちゃん』でハンセンを模した「マスクドメロン」(ハンセンにメロンのマスクを被せたもの)が登場する。また、週刊少年ジャンプ連載初期には、コスチュームのアラレとロングホーンをするハンセンを扉絵に描いている。
  • グリーンボーイ時代の若いうちに結婚し子供までいたので仕送りをしていた。ザ・ファンクスのテリトリーでは教師時代よりは収入が良かったが仕送りのために生活は苦しかったという。中堅時代はアメリカと日本を往復する生活を繰り返していたが治安の良さで外食に出ても安心な日本の方が良かったことも語っている。最終的に家族を十分養えるギャランティを払ってくれた全日本と馬場には強く感謝しており、現役の晩年は全日本一本に絞っても十分だったため、スケジュール調整も楽だった。因みに子供は前妻に2人、後妻(日本人)に2人の計4人で全てハンセンが親権を獲得している。
  • なぜ「ウィー!」と叫ぶのかと質問された際、当時を回想して「私が新日本に上がっていた頃は猪木も坂口も同じ外国人のタイガー(ジェット・シン)も自分より年上で、全日本に来てからも馬場も年上だった。そんな彼らに「俺はお前らより若いんだ。ニュー・ジェネレーション・パワーを見せつけてやる!」という思いが強くそれで「ユース!」と叫んでいた」という。それが日本人の耳には「ウィー!」と聞こえたというのが真相らしい(2006年『週刊プロレス』インタビューより)。
  • ヒールレスラーだった反面、社交的で友人(戦友)を大事にする性格であり、試合などでは決して遺恨を残さない。現役時代でもブルーノ・サンマルチノと談笑したり、2008年にはIGFにウィットネスとして共に来日したドリー・ファンク・ジュニアとの再会を喜び、同様に自分を呼んでくれたアントニオ猪木にも感謝した。なお、ハンセンは全日本所属時代に猪木の現役20周年記念に駆け付けているが、同日ジャイアント馬場の20周年記念試合にも出場しており、両者の顔を立てることも忘れていない。
タイトル
トライステート
  • NWA北米ヘビー級王座:1回
  • NWA USタッグ王座:1回(w / フランク・グーディッシュ)
ダラス
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / キラー・ブルックス)
GCW
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:2回
  • NWAジョージア・タッグ王座:3回(w / トミー・リッチ×2、オレイ・アンダーソン)
ミッドアトランティック
  • NWA世界タッグ王座:1回(w / オレイ・アンダーソン)
CWA
  • CWAインターナショナル・ヘビー級王座:1回
AWA
  • AWA世界ヘビー級王座:1回
WCW
  • WCW USヘビー級王座:1回
新日本プロレス
  • NWFヘビー級王座:1回
全日本プロレス
  • インターナショナル・ヘビー級王座:1回
  • インターナショナル・タッグ王座:1回(w / ロン・バス)
  • PWFヘビー級王座:4回
  • PWF世界タッグ王座:4回(w / ブルーザー・ブロディ、テッド・デビアス×2、オースチン・アイドル)
  • UNヘビー級王座:1回
  • 三冠ヘビー級王座:4回
  • 世界タッグ王座:8回(w / テリー・ゴディ×2、天龍源一郎×3、ダニー・スパイビー、テッド・デビアス、ゲーリー・オブライト)
著書
  • リチャード田中訳 『不沈艦スタン・ハンセンの必殺!ラリアート一直線』(講談社、1983年)
  • 『君にも必殺ラリアート』(東京スポーツ新聞社、1983年)
  • 『魂のラリアット』(双葉社、2000年)





オスマン・ユセフ
Osman Yusuf
1920/5/23 - 1982/8/29

別名ユセフ・オスマンJohnny・ユゼフ)は、日本で活躍したオスマン帝国出身の俳優。兄弟に、元プロレスラーで同じく俳優のユセフ・トルコ(キラー・ユセフ)がいる。




  





 












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