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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
8/30

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今日は何の日?


松永国松
1941/8/30 - 2005/8/17

全日本女子プロレス解散時の社長だった松永国松氏が、東京・品川区内のビル7階から飛び降り自殺していたことが18日、分かった。目黒区内の病院に搬送されたが、死亡が確認された。63歳だった。自殺の理由は分かっていない。
東京・目黒区生まれ。プロボクサーとして活躍後、68年に兄高司氏らとともに全日本女子プロレス旗揚げに参画する。マッチメーカー、ロードマネジャーとして現場を取り仕切りながら、ジミー加山のリングネームでレフェリーとしても活躍した。全女解散直前には団体の社長として尽力した。

 
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内藤大助
1974/8/30

日本のプロボクサー。北海道虻田郡豊浦町出身。元WBC世界フライ級王者(第36)。元日本フライ級王者(第49代)、元OPBF東洋太平洋フライ級王者(第35代)。宮田ジム所属。血液型はO型。異名は「北の剛拳」、「最短男」、「国民の期待」など





マイク・ポージー
Mike Posey
1977/8/30

アラバマ州バーミンガム出身のWWE所属のレフェリー。





SYU
1977/8/30

フリーランスの男性プロレスラー。本名:和田 秀作(わだ しゅうさく)。茨城県出身。身長173cm、体重80kg。血液型O型。キャッチフレーズは"Beautiful Rose"。

経歴

大阪プロレスに所属し、2000年2月星川尚浩戦にて本名の和田秀作でデビューした。

2001年にはリングネームをシュウと改名し、「Mr.ポルノキング」の異名をもつナルシストレスラーにギミックを変更した。目の負傷により網膜剥離に近い状態となり、失明の恐れもあったため2002年に引退した。

2005年にSYUと改名しびっくりプロレスプロモーションで復帰。以降、KAIENTAI-DOJOなどに参戦している。独自のバラをくわえた入場にナルシスト感あふれる試合が注目の選手である。

入場テーマ曲

  • 初代:「ネバーランド」(サイト・レンジャー)※「ネバーランド」に収録
  • 二代目:「Attention」(Dragon Ash)※「Viva la levolution」に収録

特記

  • 好きな食べ物はカスタードプリンである。
  • KAIENTAI-DOJO参戦時にお客さんにバラを受け取ってもらえずがっかりしたらしい。

  



キラー・コワルスキー
Killer Kowalski
1926/10/13 - 2008/8/30

ポーランド系カナダ人のプロレスラー。カナダ・オンタリオ州ウィンザー出身。本名はウラデック・コワルスキーWladek Kowalski) 、通称ウォルター・コワルスキーWalter Kowalski)。

"殺人狂"、"殺人鬼"、"死神"、"墓場の使者"、"さまよえる亡霊"、"世紀の殺し屋"、"地獄の大統領"など数々の異名を持つ大ヒールとして知られている。

来歴

1947年のデビューから1977年の引退までに、主にアメリカのプロレス団体NWA、AWA、WWWF(現・WWE)で活躍した。

顔もヒールとして迫力十分で、2メートル級の長身に加え、正統派のレスリングから反則技までこなすテクニックという、ヒールとして必要な要素すべてを兼ね備えた名選手であった。1959年、トップロープからのニー・ドロップでユーコン・エリックの左耳をそぎ落とすという事件が起こった(実際はコワルスキーのリングシューズのひもが耳に引っ掛かっての事故)。この耳そぎ事件でエリックはショックで自殺した、との伝説も語られたが、実際は、妻の不貞によって精神的に悩まされたため。エリックはコワルスキーのことを憎んではいなかったという。この事件から全米中に名前が轟くことになった。その後も、数人の選手を病院送りにしている。

日本へは日本プロレスに3回来日し、1963年の第5回ワールドリーグ戦では決勝で力道山と対戦したほか、開幕戦でジャイアント馬場の凱旋帰国第一戦の相手を務め、時間切れ引き分けの熱闘を演じた。第10回大会では馬場と決勝で対戦したほかアントニオ猪木とも対戦している。1971年にはNWAタッグリーグ戦に登場し、パイルドライバーで2人の選手を死亡させたとされていたキラー・バディ・オースチンとの「キラー・コンビ」で好成績を収めている。全日本プロレスにも2回参戦しており、1975年のチャンピオン・カーニバルにも出場。同じくチャンピオン・カーニバルに出場したジン・キニスキー、ブルーノ・サンマルチノと組んでインターナショナル・タッグ王座にも2度挑戦している(王者チームは馬場&ジャンボ鶴田)。

キャリア末期にはニューヨークで覆面レスラーのジ・エクスキューショナー1号The Executioner #1)を名乗り、2号のビッグ・ジョン・スタッドとのタッグチーム「ジ・エクスキューショナーズ」として1976/5/11にWWWF世界タッグ王座を獲得している。

引退後はマサチューセッツ州セイラムにレスリング・スクールを開校し、2003年9月に年齢的な問題もあり閉鎖するまで、トレーナーとして活動した。主なスクール輩出選手は、トリプルH、チャイナ、ペリー・サターン、クリス・ノウィンスキー、ジャイアント・バーナード、ケニー・ダイクストラ、ジョナサン・カーティスらである。

2008年8月30日、心不全のため81歳で死去。

獲得タイトル

  • AWAインターナショナル・ヘビー級王座(モントリオール版)
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ブルドッグ・オースチン)
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
  • NWA USヘビー級王座(ハワイ版):1回
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):1回
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:1回
  • NWAアメリカス・タッグ王座:1回(w / キンジ・シブヤ)
  • NWAカナディアン・ヘビー級王座(カルガリー版):2回
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(カルガリー版):2回(w / ジム・ライト)
  • NWAパシフィック・コースト・タッグ王座(バンクーバー版):2回(w / オックス・アンダーソン、ジン・キニスキー)
  • IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):5回
  • IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):4回(w / スカル・マーフィー×2、ビル・ミラー、マーク・ルーイン)
  • WWWF USタッグ王座:1回(w / ゴリラ・モンスーン)
  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / ジ・エクスキューショナー2号) ※ジ・エクスキューショナーズとして
  • WWF Hall of Fame (1996年度) ※プレゼンターはトリプルH

エピソード

  • ブルーザー・ブロディが尊敬したレスラーとしても知られており、彼のキングコング・ニー・ドロップはコワルスキーから影響を受けた技である。ちなみに両者は1976年にWWWFを共にサーキットしており、マディソン・スクエア・ガーデンにてアンドレ・ザ・ジャイアントと6人タッグマッチで対戦したこともある(1976/10/25、エクスキューショナーズ&ブロディvsアンドレ&チーフ・ジェイ・ストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフ)。
  • 耳そぎ事件でユーコン・エリックのちぎれた耳を見たトラウマから肉が食べられなくなり、以後徹底した菜食主義者になったというエピソードが語られていた時期がある。これは梶原一騎が創作したものであり、実際には耳そぎ事件以前から菜食主義だった。本人はただ健康のためだと語っている。引退後、この話の真偽について尋ねられたコワルスキーは「何だいその話は? 最高に面白いな」と爆笑していたという。なお梶原は『ジャイアント台風』『プロレススーパースター列伝』などの作品で虚実取り混ぜた筆致で鬼気迫る大ヒールとしてのコワルスキーを描いている。
  • アントニオ猪木がキラー・コワルスキーの筋肉に憧れていたことを、村松友視との対談で語っていたことがある。
  • 全米でも指折りのヒールとして活躍していたが、普段は人一倍他人に気を遣う繊細な人柄だったと伝えられている。耳そぎ事件の直後、事故とはいえユーコン・エリックに重傷を負わせてしまったショックから「俺は取り返しがつかないことをしてしまった」とひどく落ち込んでいた。それを知ったユーコン本人から「あれはアクシデントだ。俺は気にしちゃいない。だからお前も気にするな」と誰よりも先に慰めの声をかけられ、ショックから立ち直ることができたという。
  • レスラー生活晩年は髪が薄くなってカツラを着用していた。ヘッドロックは御法度であり、同じくカツラ着用のブルーノ・サンマルチノとの試合は両者まったくヘッドロックを使わずに行われたという。
  • またある時、「カツラが取れると困る」とマスクを被り、リングネームはそのままで覆面レスラーとして試合をしたことがある(弟子格のビッグ・ジョン・スタッドもリングネームはそのままで覆面を被ったことがある)。梶原一騎はこの事実を『プロレススーパースター列伝』のリック・フレアー編で、フリッツ・フォン・エリックがコワルスキーを覆面の刺客としてフレアーと戦わせるエピソードに取り入れている。





JCベイリー
JC Bailey
1983/8/23 - 2010/8/30

主に2000年代に活動したアメリカ合衆国出身のハードコアレスラー。身長約183cm、体重約86kg。本名をジョセフ・カール・ベイリー・ジュニア(Joseph Carl Bailey, Jr.)といい、コンバット・ゾーン・レスリング(CZW)やIWAミッドサウスなどと言ったハードコア系のプロレス団体で行われるデスマッチトーナメントの常連で、軽量級ながら我が身を省みない自虐的な攻撃でファンから人気を得てきた。
来歴
ケンタッキー州のルイビル出身で、トレイシー・スマザーズというプロレスラーからの訓練を受けたうえで2001年にプロレスラーとしてのデビューを行った。
2003/6/14―イアン・ロッテンとコーポラル・ロビンソンとともに、IWAミッドサウスの代表としてCZWへの殴り込みを敢行。これが自身のCZWへの初登場であった。 そしてこの年にそのCZWのトーナメント・オブ・デス(TOD)に初出場してからというもの、2004年〜2005年〜2006年とこの大会に欠かさず参戦し続けた。更には2007年の9月に開かれた『ファスト・フォワード』という名の番外のTODにも参戦した

TODに参戦し始めた2003年にあっては、同時にIWAミッドサウスのキング・オブ・ザ・デスマッチ(KOTDM)にも参戦し始めた。初参戦となった2003年の大会にあっては、まず蛍光灯と有刺鉄線テーブルとを用いたデスマッチで2・タフ・トニーを下し、次に蛍光灯棺桶デスマッチでネクロ・ブッチャーを下し、更には観客持参凶器デスマッチでイアン・ロッテンを下して決勝へ。やがて決勝戦でマッドマン・ポンドと有刺鉄線金網デスマッチを戦い、敗退。
その翌2004年にもKOTDMに参戦したものの、観客持参凶器デスマッチでまたもポンドに破れ、1回戦目で敗退。続けて2005年にも参戦し、ネクロ・ブッチャーとともに決勝戦まで勝ち進むも、やがてトビー・クラインに敗れ去る。自身4度目の参戦となった2006年の大会にあっては、裸足画鋲デスマッチでドレイク・ヤンガーを下すも、次の有刺鉄線/ロブスタープールデスマッチでミッチ・ペイジに下されたことで、そのまま敗退という結果に終わった。
2004年の12月に開かれたCZWの『ケージ・オブ・デス6』にあっては、クリス・キャッシュ∽ネイト・ウェッブ∽セクシー・エディーとともに『チーム・キャッシュ』という軍団を結成し、CZWのタッグ王座を獲得。更には2005年に創設されたCZWウルトラバイオレントアンダーグラウンド王座の初代獲得者へ。すぐさまイアン・ロッテンからの挑戦を退けたのちに、ジョン・ザンディグ〜ネクロ・ブッチャーの手へと渡ったこの王座を同年内に取り返した。
2006年の8月にレッスルエキスポ2006を通して日本へ。この大会では5名対5名のバトルロイヤルを行い、マッドマン・ポンドを下し、2・タフ・トニーに敗れた。それから間もなくしてIWAイーストコーストのデスマッチ選手権―マスターズ・オブ・ペインに参戦し、2・タフ・トニーとコーポラル・ロビンソンを破って勝ち進んだものの、決勝戦で葛西純を相手に敗れ去った。
2007年に地元のウォルマートの店舗からテレビを盗んで逮捕された。この犯行と違法薬物所持に係る複数の余罪とにより、この年から刑務所に収監され、それからしばらくの間にわたって活動を休止。その刑期については10年に及ぶものであるとの裁判記録の情報が寄せられてはいたものの、2010年の前半期にありCZWを舞台として復帰を果たした。
そしてこの年のちょうど半ばという頃に例年のKOTDMが開幕すると、2006年の出場以来4年ぶりとなったこの大会への参戦を行い、イアン・ロッテン〜ニック・ゲージ〜ボールズ・マホニーという順に有刺鉄線や蛍光灯を用いたデスマッチを勝ち抜き、そして決勝戦の有刺鉄線/通電蛍光灯デスマッチにてデボン・ムーアを制圧。かくして自身5度目の出場にして遂にこの大会の覇者の座を獲得したのであった。同年の8月30日の早朝、自宅で死亡している姿が父親によって発見された。享年27歳。死因は公表されていない。













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