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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
8/31

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ジョー・ルダック
Jos LeDuc
1944/8/31 - 1999/5/1

ミシェル・ピジョンMichel Pigeon)は、カナダのプロレスラー。ケベック州モントリオール出身のフランス系カナダ人。ネルシャツとジーンズをコスチュームに、カナダのランバージャックをギミックとしたパワーファイターとして、カナダ各地をはじめアメリカ合衆国の主要テリトリーや日本でも活躍した。

来歴

ケベックの警察官を経て、同郷のポール・ルダックの勧めでプロレスラーに転向。1968年のデビュー後はポールの弟のジョー・ルダックを名乗り、ルダック・ブラザーズとして地元のモントリオールやカルガリーなどカナダの激戦区を転戦する。シングルでもモントリオールIWAのインターナショナル・ヘビー級王座を獲得し、マッドドッグ・バションやキラー・コワルスキーなどのビッグネームとも対戦した。1971年3月には日本プロレスの第13回ワールドリーグ戦に初来日。翌1972年3月の第14回大会にも、リングネームをカナディアン・ランバージャックCanadian Lumberjack)に変えて連続出場している。

1973年より、ポールとのコンビでアメリカ南部のフロリダ地区に参戦。ベビーフェイスの兄弟チームとして活動し、当時まだヒールだったダスティ・ローデスとディック・スレーターのコンビからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取した。

ポールとのタッグ解散後、1976年にAWAに登場。ラリー・ヘニングと組んでブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンのAWA世界タッグ王者チームに再三挑戦した。1978年はテネシー州メンフィスのCWAでジェリー・ローラーやモンゴリアン・ストンパーと抗争。この時期よりヒールに転向し、1979年は古巣のフロリダにて、同地区のヒーローとなっていたダスティ・ローデスと遺恨試合を展開した。フロリダではハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。

1979年10月には国際プロレスへの参戦で久々の来日を果たし、ラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦(このときの来日では、全日本プロレスのシリーズ開幕戦にも出場している)。翌1980年4月にも国際に再来日したが、同時参加していたマイク・ジョージの活躍に食われて精彩を欠き、目立った戦績を残すことはできなかった。

1981年はニュージーランドに遠征し、マーク・ルーインと英連邦ヘビー級王座を巡る抗争を展開。アメリカに戻るとアラバマ地区でテリー・ゴディやジャック・ルージョーら若手とサウスイースタン・ヘビー級王座を争った。1982年からはジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に進出。9月にジミー・バリアントを破りTV王座を獲得するが、不正があったとしてタイトルを剥奪された。翌1983年4月には同地区との提携ルートで全日本プロレスに来日。帰国後の4月30日、ディック・スレーターを十八番のランバージャック・デスマッチで葬り、TV王座に返り咲いた。

以降もフロリダ、アラバマ、テネシー、ジョージア(ジム・バーネットのジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)など南部エリアを転戦しつつ、地元のモントリオールにも凱旋し、リック・マーテルとのコンビでロード・ウォリアーズとも対戦。1986年にはプエルトリコのWWCに参戦してブルーザー・ブロディと流血戦を演じた。1988年下期は、ザ・ヘッドバンガーThe Headbanger)のリングネームでWWFにも登場(ハルク・ホーガンの主演映画 "No Holds Barred" にも出演)。1989年12月にはFMWに来日し、ディック・マードックとの外国人同士のチェーン・デスマッチを行った。1990年代もインディー団体へのスポット出場を続け、1992年にはジム・コルネットが主宰するSMWに登場した。

1999年5月1日、肺感染症のため死去。54歳没。生涯最後の試合は1995年6月10日、テネシー州メンフィスのUSWA(かつて主戦場としていたCWAの後継団体)で行われたイベント "Memphis Memories II" における、フィル・ヒッカーソンと組んでの旧敵ジェリー・ローラー&ジミー・バリアント戦だった。

獲得タイトル

スタンピード・レスリング(カルガリー)
  • NWAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ポール・ルダック)
GPW / IWA(モントリオール)
  • GPWタッグ王座:2回(w / ポール・ルダック)
  • IWAインターナショナル・ヘビー級王座:1回
  • IWAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / Tony Baillargeon)
CWF(フロリダ)
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ポール・ルダック)
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:3回
  • NWA南部ヘビー級王座:1回
  • NWA USタッグ王座:3回(w / ソー・ザ・ヴァイキング、パク・ソン、ドン・ムラコ)
CWA(テネシー)
  • NWA南部タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / ジャン・ルイ)
  • AWA南部タッグ王座:1回(w / ジェリー・ローラー)
  • AWA南部ヘビー級王座:2回
SECW(アラバマ)
  • NWAアラバマ・ヘビー級王座:1回
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:6回
  • NWAサウスイースタン・タッグ王座:5回(w / ボブ・アームストロング×2、ロバート・フラー×3)
その他
  • NWA TV王座(ミッドアトランティック版):2回
  • NWA英連邦ヘビー級王座(ニュージーランド版):2回
  • WWC北米ヘビー級王座:1回

 
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アニマル浜口
1947/8/31

日本の元プロレスラーでボディビル指導者。本名は濱口 平吾(はまぐち へいご)。ボディビルダー出身で国際プロレスや新日本プロレスで活躍し、闘将のニックネームで呼ばれた。武蔵野学院大学日本総合研究所客員教授。アニマル浜口トレーニングジム主宰。女子レスリング選手の浜口京子は長女。

来歴・人物

生い立ち

島根県浜田市出身。父親が事業に失敗したため、小学5年生の時(1958年)、母親と妹と一緒に親戚の住む大阪府堺市へ移る。中学卒業後は家計を助けるため、高校進学を断念。工事現場を転々とする毎日だった。

国際プロレス時代

1964年に、17歳でボディビルを始め、1969年にミスター兵庫コンテスト準優勝を受賞。その後、ボディビル界との繋がりが強かった国際プロレスに入団、プロレスラーに転向する。

浜口には格闘技の経験がなく、身長も180cm未満でレスラーとしてはけっして恵まれた体格とは言えなかった。だが国際プロレス社長で著名なレスリング選手でもあった吉原功からレスリングの直接指導を受け基礎を築き(このときの経験が後の京子への指導に生かされることになる)、効率的なトレーニングの工夫と頭脳的(ときに狡猾)なプレーで頭角をあらわす。

1972年にはディック・ザ・ブルーザーが主宰するアメリカ・インディアナポリスのWWAへ遠征、ブルーザーとの抗争を展開しヒールのトップスターとなった。

1973年の帰国後は、国際プロレスのメインイベンターのひとりとなった。しばらくタイトルには恵まれなかったが、1977年3月、グレート草津とのタッグでビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスを破りIWA世界タッグ王座を獲得。以降、末期国際プロレスの中心選手として活躍した。1979年に新日本プロレスのヤマハ・ブラザーズ(山本小鉄&星野勘太郎)に王座を奪われるが、同郷のマイティ井上とのコンビで奪回した。井上とのチームではこれ以前に全日本プロレスとの交流戦でアジアタッグ王座も獲得しており、和製ハイフライヤーズ(オリジナルのハイフライヤーズはAWAのグレッグ・ガニアとジム・ブランゼル)、浪速ブラザーズなどと呼ばれた名コンビだった。このコンビではザ・サモアンズ、上田馬之助&マサ斎藤、大木金太郎&上田、ジプシー・ジョー&キラー・ブルックス、マイク・ジョージ&ボブ・スウィータンら強豪チームを退けて王座を防衛している。

1979年のプロレス夢のオールスター戦では後の盟友長州力とコンビを結成し全日本プロレスの「極道コンビ」グレート小鹿&大熊元司と対戦した。この活躍の一方で怪我や病気に襲われることも多く、1980年春に試合中の怪我のために王座を返上。その後奪回するが、翌1981年4月には肝臓疾患のため欠場して王座を再度返上、国際プロレスが活動を停止した同年8月も欠場中のまま迎えた。

新国際軍団時代

1981/9/23、新日本プロレス田園コロシアム大会に国際プロレスのエースだったラッシャー木村とともに来場。このときメインイベント前のリング上で新日本に宣戦布告するはずのところ木村がいきなり「こんばんは」と挨拶し、しらけた雰囲気になりかけた状況を救ったのが浜口のマイクアピールであった。

その年の10月に新日本プロレスとの全軍対抗戦に出場、そのまま木村・寺西と共に「はぐれ国際軍団」を組み新日に参戦する。国際時代とは一転、ヒールとして新日ファンからの憎悪を買った。なかでもアントニオ猪木1人と旧国際軍団3人(ラッシャー木村・寺西勇・アニマル浜口)の変則マッチは今でも当時を知るプロレスファンの語り草になっている。この試合では中堅をつとめ、フォール負けを喫するが アントニオ猪木のエネルギーを消耗させ、五分で渡り合った。そして主将であるラッシャー木村の勝ち(エプロンアウトでの勝利)に貢献した。

その後、1983年には国際軍団から離脱、長州力を中心とする維新軍団に合流して新日正規軍と対戦、同軍団の副将格、そして長州の参謀として大活躍した。なおこのときに始まる長州との交流は立場を違えてからも続き、浜口の引退時、長州は陰で声を上げて泣いたという。

ジャパンプロレス時代

1984年に突如、長州力・マサ斎藤らとジャパンプロレスを結成し全日本プロレスに参戦する。浜口自体に無類の強さという感じは無かったが、タッグとして主役級の相棒(タッグパートナー)を引き立てる“助演”が上手く、ジャイアント馬場からも評価されていた。これは浜口とタッグを組んだグレート草津、マイティ井上、ラッシャー木村、寺西勇、長州力、キラー・カーン、谷津嘉章らが異口同音に浜口を評する言葉である。(なお馬場は、鶴田vs浜口シングル戦のTV解説時、最初に「全日本のエース鶴田、負ける要素は何もありません」と言った実況アナウンサーの倉持隆夫に「あなたの言うようだと浜口には勝つ要素は何もないみたいだけど、浜口はそう軽い相手じゃありませんよ」とたしなめたことがあり、試合終了後も浜口のファイトを絶賛していた。)

1987年にジャパンプロレス分裂→長州らの新日復帰に合わせ、現役を引退。浜口の引退は新日からジャパンプロレスに移籍する際に交わした、「トラブルを起こした場合は引退する」という約束を貫くため(キラー・カーンも同様)、また体調を崩しシリーズ欠場中でもギャラを支払ってくれたジャイアント馬場への恩義が影響していると思われる。引退セレモニーで「私はこの四角(リング)の中に魂があったんですよ。ありがとうプロレス。さよならプロレス」という浜口節と10カウントで締めた。

浜口道場設立後

引退後は アニマル浜口トレーニングジムを東京都浅草に開設。同ジムには、主にアマレスや柔道といった格闘技の(経験者で)基盤がある人間はもちろんであるが、特に基盤が無い人間でも将来プロレスラーとしてデビューをしたいと志す人を対象に開設した、日本有数のプロレスラー(としての)養成施設である。指導者となる傍ら、自らも一から体を作りあげて、ボディビルの大会(シニア部門)に出場し優勝した(大会に出場するにあたり、100kg以上の体重を70kgまで落としている)。

1990年、長州力が昔とは別人のような、精彩を欠いた試合を続けていた頃、浜口は引退後初めて新日の会場に現れる。長州がその日も不甲斐ない試合をしたのを見届けた浜口は、突如、その試合後のリングに乱入する。「おいっ長州、お前何やってるんだよ。こんな試合をして恥ずかしくないのか。」と、涙ながらに叫んで長州を張り倒し、馬乗りになってなおも張り手を見舞っていった。その後「昔のようなギラギラとした奴に戻ってほしい」と、長州の景気付けのつもりで、長州とのタッグマッチの対戦限定で現役復帰をし、暫くの間ビッグバン・ベイダー等と共闘し、長州と対戦する。後年にキャッチフレーズとなる「燃えろー!!」、「気合だー!!」は、このころに初めて発したものである(その後、長州とは一騎打ちを経て和解し、ジャパンプロレス時代以来のタッグを復活させたりした)。

1994年、セミリタイヤ状態を経て、WARに舞台を移して再度現役復帰。1995年には天龍源一郎、北原光騎と組んでWAR6人タッグ王座を獲得した。王座陥落後はリングからは遠ざかっているが、正式な引退表明はしていない(もっとも前述のように1987年に一度引退セレモニーは行っており、公式サイトではそれを正式引退として扱っている)。

その一方、このころからは名伯楽としてもクローズアップされ始めた。ジムからは小島聡、大谷晋二郎、大森隆男、小原道由、SUWA、本間朋晃らを送り出した。また、長女の浜口京子をレスリングの世界チャンピオンに育て上げる名コーチとして注目を集めた。

現在

2004年アテネオリンピックにおける「気合だー!!」という言葉の連呼(同年流行語大賞トップテンに選出)と、場合によっては周囲の迷惑を顧みないと非難された派手な応援(とくに掲示板の得点表示ミスに関する抗議)は海外のメディアからも一定の注目を集めた。同オリンピックを国民的に盛り上げた功労者との見方もある。娘に向かって「気合だー!! オィッ!! オィッ!! オィッ!!」と叫ぶ姿でプロレスファン以外の世間にも顔を知られる存在となった。

2008年に行われた北京オリンピックではアテネ同様に家族総出で現地に応援に駆けつけ、娘の連続メダル獲得に大声で喜ぶ姿が世界各国のテレビで放映されただけでなく、地元の新聞の紙面をも飾った。ただ、浜口の言動に対し中華人民共和国の公安当局から「要注意人物」としてマークされ、自由な行動や発言は出来なかったとの報道もあった。

プロレスラー・アニマル浜口

現役時代のトレードマークはターザン風のワンショルダー、赤・青ツートンカラーのタイツ。得意技はダイビング・エルボー・ドロップ、ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ、エアプレーン・スピン。ネックブリーカーは本家のジャイアント馬場からも褒められた。エアプレーン・スピンはアンドレ・ザ・ジャイアントを回すのが現役当時の夢であった。また長州力と維新軍団としてタッグとしての試合においては、長州とのツープラトンので行うパイルドライバーが秀逸であり(長州がリング上で相手の首元を股に挟み、浜口がコーナーポストで相手の足首を持って相手を落とすが、行う前に浜口がいつも上を向き絶叫するのが得意のポーズだった)特にハイジャックパイルドライバーとも言われ相手に恐れられていた。

入場テーマは『マタドール』(曲:日野皓正)。国際プロレスおよび新日本プロレス参戦時には『フリーライド・サーファー(ZERO TO SIXTY IN FIVE)』という曲もテーマ曲にしていた。

獲得タイトル

  • NWAインターナショナル・タッグ王座(カルガリー版):1回(w / ミスター・ヒト)
  • WWC北米タッグ王座:1回(w / ゴードン・ネルソン)
  • IWA世界タッグ王座:4回(w / グレート草津×2、マイティ井上×2)
  • アジアタッグ王座:2回(w / マイティ井上、寺西勇)
  • WAR認定6人タッグ王座:1回(w / 天龍源一郎&北原光騎)

入場テーマ曲

  • ZERO TO SIXTY IN FIVE(PABLO CRUISE)
  • MATADOR(日野皓正)
  • バック・オン・トラック(マッド・スリック)

エピソード

  • 見た目は強面だが、優しく涙もろい性格である。その人柄を慕う者は多い(愛弟子・小島聡がプロレス大賞MVPを獲得した時のインタビューでは泣きながら喜んで語っていた。また、張本勲はサンデーモーニングの「週刊御意見番」でいつも褒め称えている)。
  • ジャパンプロレス時代に明石家さんまの番組に所属選手全員で出演した際、当時オールバックヘアーに口髭の強面だった為「この人は恐そう」と言われさんまを怒鳴りつけた事がある、逆に終始にこやかだった新倉史祐は「アンタは優しそうな顔やね」と言われた。
  • 熱狂的なジャイアンツファンでもある。
  • 国際プロレス時代にラッシャー木村とふたりで小料理屋に酒を飲みに行った時に、その店の娘に一目惚れし、後に結婚した。
  • 1995年5月、『リングの魂』(テレビ朝日系)の企画で、「憧れの人に会いたい」という企画で浜口の憧れの女優の沢たまきと一日デートが実現した。いつもの気合は何処へやら、終始デレデレした意外な浜口が見られた。
  • アテネオリンピックで有名になってからテレビ出演が多くなったが、その際に叫ぶ言葉は定期的に新しくなっており今では「気合だー!!」以外にも多くの種類がある。
  • 前述の全日本プロレスでの鶴田戦(1986年の日本武道館での全日本プロレス軍VSジャパンプロレス軍の7対7対抗戦)の直後、リング上で「負けたぁ〜!!」と絶叫し、その潔さを馬場をはじめとした多くの関係者から賞賛された。

著書

  • 『俺が気合いを入れてやる』ごま書房、1993年、
  • 『バカ野郎!』ごま書房、1993年、
  • 『「超」シェイプアップ法』双葉社、1996年、
  • 『プロレスラー』実業之日本社、1997年、
  • 『親父になれ!』ごま書房、1997年、
  • 『アニマル親子の「夢よ来い!」』講談社、1998年、
  • 『強い男になってみろ!』宙出版、1998年、
  • 『アニマル浜口最後は勝つ!』宝島社、2004年、
  • 『アニマル浜口の人生気合ダァ!!』大泉書店、2002年、
  • 『娘にもらった金メダル』ゴマブックス、2004年、
  • 『一瞬の喜びのために、人間は泣くんだ。』かんき出版、2004年、
  • 『気合ダァ!200連発!!』共著:アニマル浜口、宮崎俊哉、ぴあ、2005年、

出演

CM

  • 「リアルキアイダー」:2008年に、コカ・コーラが発売した飲料「リアルキアイダー」の顔になる。発売日当日には都内で記念イベントが催され、いつもの気合い注入を取材に来ていたマスコミ、イベントに参加していた人すべてに行っていた。アニマルが大きく描かれたラッピングバス(リアルキアイダー気合入魂バス)が全国を回り、アニマル自身のメッセージが更新されるブログも開設される。
  • 公共広告機構(現:ACジャパン)(2005年、九州地区限定)
  • ヱビスビール
  • P&G ボールド
  • ソフトバンクモバイル(プリモバイル)「ケータイもってないブラザーズ篇」※ガッツ石松、内藤大助、ダンテ・カーヴァーと共演(2010年 )

ほか

映画

  • 劇場版 NARUTO -ナルト- 大興奮!みかづき島のアニマル騒動だってばよ(2006年、マンモス役(声の主演))

ミュージック・ビデオ

  • 島谷ひとみ「Neva Eva」 浜口部長役

アニマル浜口ジム
アニマル浜口ジム

主な出身プロレスラー

※五十音順に記載(公式サイトに記載されていない者は除外。カッコ内は最終所属団体、2010年現在)
  • 安沢明也(新日本プロレス)引退-1981/1/9
  • 磯崎ともか(救世忍者乱丸)(1998年デビュー)
  • 井上亘(新日本プロレス)-1973/8/27
  • 植田使徒(ZERO1)-1982/7/30
  • 越後雪之丞(大日本プロレス)
  • 大谷晋二郎(ZERO1、第3号レスラー)-1972/7/21
  • 大森隆男(フリー)-1969/10/16
  • 岡本衛(フリー)
  • 小原道由(引退、第1号レスラー)-1967/11/15
  • 鹿糠智樹(パレストラ岩手)
  • ガルーダ(WMF)-1978/9/26
  • 河野真幸(全日本プロレス)-1980/4/12
  • 神田菜々子(Jd')
  • K-ness.(DRAGON GATE)-1974/4/16
  • 小島聡(フリー、第2号レスラー)-1970/9/14
  • 小島弘之(フリー)
  • KAI(全日本プロレス)-1983/5/20
  • 坂田亘(EVOLUTION、ハッスル)-1973/3/11
  • 佐々木義人(大日本プロレス)1982/3/12
  • 駿河一(全日本プロレス)引退-1982/11/15
  • シュウ(フリー)-1977/8/30
  • SUWA(フリー)引退-1975/8/31
  • 関直喜(フリー)
  • 瀬野優(大阪プロレス)引退-1977/1/13
  • 鷹木信悟(DRAGON GATE)-11982/11/2
  • 高橋奈苗(スターダム)-1978/12/23
  • 高橋裕美(フリー)
  • TAJIRI(SMASH)-1970/9/29
  • 田中純二(九州プロレス)
  • T28(全日本プロレス)-1983/4/5
  • ドン・フジイ(DRAGON GATE)-1970/7/6
  • 内藤哲也(新日本プロレス)-1982/6/22
  • 中之上靖文(全日本プロレス)-1986/6/14
  • 滑川康仁(Team M.A.D)-1974/10/27
  • 夏樹☆たいよう(スターダム)-1984/5/7
  • 橋本和樹(大日本プロレス)-1990/5/25
  • 日高郁人(ZERO1)-1972/8/5
  • 富豪富豪夢路(フリー)-1969/6/21
  • 藤田峰雄(ドラディション)-1979/11/28
  • FUNAKI(フリー)-1968/8/24
  • 本間朋晃(新日本プロレス)-1976/11/18
  • マグナムTOKYO(DRAGON GATE)引退→ハッスルより復帰-1973/1/9
  • 宮川順也(パンクラス)
  • ミラノコレクションA.T.(新日本プロレス)引退-1976/8/27
  • 矢口壹琅(フリー)-9/20
  • 山崎直彦(FMW)引退
  • YOSHIYA(KAIENTAI-DOJO)-1976/12/21
  • 吉江豊(フリー)-1974/1/5
  • 吉橋伸雄(新日本プロレス)-1982/5/25
  • 横山佳和(ZERO1)-1988/3/22
  • 和田城功(リキプロ)引退-1978/3/15





SUWA
1975/8/31

諏訪高広は、日本の元プロレスラー。鹿児島県川辺郡川辺町(現南九州市)出身。鹿児島県立薩南工業高等学校卒業。そのプロレスラーとしてのキャリアにおいて、リングネームSUWAとして最も知られる。

受身の名手で、硬派な風貌を持ち、怒ると誰にも止められない危険なファイトスタイルで人気を博した。

引退後は世界各地を旅しており、その模様をブログで公開している。

来歴

高校卒業後東京の建設会社に就職し、アニマル浜口ジムに通い体作りをしてリングスの入団テストを受けるが不合格。その後ウルティモ・ドラゴンが設立したプロレス学校・闘龍門の募集に合格し、同期生の黒木克昌(マグナムTOKYO)、大島伸彦(現CIMA)、藤井達樹(ドン・フジイ)と先発隊としてメキシコへ渡り、大島・藤井の2人とルード(悪役)ユニットC-MAXを結成(後にTARUとなる多留嘉一が加入)。

1997年に正式デビュー。1999年日 本に逆上陸後、大暴れぶりで団体の「強さの象徴」と言われたが、怪我に悩まされた。普段はコミカルな試合が多いフジイと衝突したことがあり、一時ユニット は空中分解、SUWAも会社を無断欠勤するという事件が起きている。その後復帰したものの、処罰として第1試合での試合を義務付けられた。フジイとは後に 和解し、ユニットも元通りとなった。闘龍門での晴れ舞台は2004/2/6、博多スターレーン大会でマグナムTOKYOを破ってのUDG3代目王者となった時であった。この時は怖いマグナム(「川崎モード」と言われている)を引き出している。新団体DRAGON GATEには1シリーズだけ参戦し同年8/22、退団した。

その後はフリーランスとしてプロレスリング・ノアに参戦。参戦早々、丸藤正道&KENTAが持つGHCジュニアヘビー級タッグ王座にリッキー・マルビンと組み挑戦。以後もシリーズにはフル参戦しており、闘龍門〜DG時代と変わらぬ暴れぶりと無鉄砲さで強烈な印象を残す。一方、時折ノアの試合中継においては解説も行い、リング上での暴れっぷりとは対照的に冷静・的確な解説を行った。

ノアからは給与形態を除けば実質は所属選手に準ずる扱いを受けていたと見られる。通常、ほぼ純血で行われるノアの選手会興行(2005年以降。会社 の備品を無断で使用したり、差し入れを勝手に食べたりするなどしたため、ペナルティとして強引に参加させられた、ということになっている)や、プロレスリング・セムにも参加している。また、2006年8月には通常ノア所属の若手・中堅選手が派遣されるヨーロッパへ潮崎豪と共に遠征している。

2006年3月に永源遙が引退したことを受けて「これからの第1試合はボクが引き継ぎます」と宣言。永源のイメージカラーであったピンクを基調としたコスチュームで登場したり、コミカルなムーブも取り入れた試合も行うようになる。前後して、かつての盟友TARUが主戦場とする全日本プロレスへの進出を仄めかす発言を残していたが、11月には逆にVOODOO-MURDERSの面々をセムのマットへ呼び込み、その勢いのまま本家ノアの12/10日本武道館大会にてVOODOO-MURDERSのメンバーと組み田上明組と対戦した。しかし、同カードでの敗北後、マイクアピールにてノアに「思い出作りありがとう御座いました」という感謝の言葉を述べ、続けて2007年春にレスラーを引退することを発表した。

2007/1/21、日本武道館で行われたノアでのラストマッチではSUWA・高山善廣・鈴木みのる組VS丸藤正道・力皇猛・KENTA組の豪華6人タッグが組まれたが、味方の高山善廣・鈴木みのるに対してブルーボックスで攻撃するなど暴走ファイトを展開し、最後は味方からも含めフィニッシュ・ホールド5連発(丸藤の不知火、力皇の無双、高山のニーリフト、みのるの裸絞め、KENTAのgo 2 sleep)を喰らいマットに沈んだ。2/9ウルティモ・ドラゴンと初タッグを組んでTAJIRIと対戦。2007/2/17の全日本プロレス両国大会にも出場(同団体へ初、かつ最後の参戦)し、佐々木健介らと対戦した。

3/11に行われた日本での引退興行(後楽園ホール)では、第1試合でCIMAとの再会マッチ(5分1本)を行い時間切れ引き分け、そしてメーンの引退試合では近藤修司とシングルマッチ(無制限1本)を行い、敗れた(16分0秒、ラリアット→片エビ固め)。この興行には、SUWAが尊敬する3人の師匠(アニマル浜口、ウルティモ・ドラゴン、永源遙)も来場した。また、試合後には秋山準やKENTAらノアの選手たちから胴上げされ、引退の花道を飾った。

5/14にSUWAとしてのラストマッチが、レスラーとしての出発点であるメキシコのアレナ・メヒコにて行われた。入場時にマッハ隼人のマスクを被って登場、試合は師匠ウルティモ・ドラゴンのASAI DDTで敗北しレスラー人生を終えた。

リングネーム

諏訪が用いたことがあるリングネーム

  • 諏訪高広
  • ジュードー・スワ
  • SUWA

エピソード

  • 会社の命じた現場がジムのある浅草から遠い新百合ヶ丘だったので、さすがにきつくなり1年だけ会社で働いて辞めた。
  • 社員寮の風呂場にある大鏡の前では、先輩や上司がいようがお構いなく、ポージングは欠かさず行っていた。
  • メキシコ時代、黒木と住んでいたアパートに悪さをする子供を捕まえ、座禅をさせて説教していたら誘拐容疑で二人仲良く留置場行きと相なった。
  • 腕立て伏せに使うプッシュアッパーで相手選手を殴っていた。ちなみによく殴られていたのはドラゴン・キッド。そのせいかキッドと試合する度に怪我をしていたジンクスがある。
  • 敵意はC-MAXのメンバーにも向けられ、一時期方向性の違いからドンフジイと大喧嘩してユニットを離脱していた(後に和解する)。
  • 上記の喧嘩の後暫く会社を無断欠勤し続け、その処罰として第1試合での試合をさせられ続けた。
  • 脱退時代、丸坊主に金の辮髪というヘアスタイルだった。
  • 趣味はファッション。古着を集めるのが好きだそうだ。建設会社時代は、サイズの小さめのTシャツを集めていた。また室内でも、セコンドについている際もサンバイザーを装着している。
  • NOAH初参戦後「俺はここで初めてプロレスラーになれた」と発言している。闘龍門の栄光の時代をこの瞬間捨ててみせた。
  • 基本的にヒールなので場外に出れば椅子等で攻撃するが、元来の礼儀正しい性格のためか客の椅子を取る時はヒールなのに「ちょっとすいません」と優しくお願いしている。
  • NOAHでKENTAと試合をした際、G+の ロゴ入り(多分G+の備品を拝借したと思われる)小型ジェラルミンケースを片手に入場し、それを利用して反則負けとなった。リマッチの時も同じようにジェ ラルミンケースを持ってはいたが、今度のは「G+」のロゴが全面に貼りつけられているものであった。多分気を使っていると思われる。
  • そのリマッチである2005/9/18に行われた試合では、同じように反則を行いGHCタイトルマッチ認定証を引き裂くなど、GHCタイトル管 理委員会のジョー樋口を挑発する行為を行い大ブーイングが巻き起こる試合を展開したが、試合後に「NOAHから『もう来なくていいよ』と言われる覚悟で やった」とその胸の内を明かした。
  • その後には「地上デジタル 2011年アナログ放送停波」のロゴを貼り付けた物を持ってきている。さらに試合開始前、コーナートップからカメラに向けて、そのロゴを指差し、2011年アナログ放送終了を視聴者に知らせた。
  • 2006年11月には「レッツ!地デジ」のロゴ、大量のG+のロゴ、そして正面になんだろうを付けた、まるで日テレの 宣伝のようなタイツを使用した。その際「2011年アナログ放送停波だからな!分かってんのかこの野郎!」とヒール口調でアナログ放送終了をアピール。 バックステージでは「おい日テレ!お前らのために作ったんだよ。これ、いくらすると思ってんだよ。しっかり請求させてもらうからな」という一方的なアプ ローチをかけた。
    • SUWAが2006年1月でノアを脱退、春に引退することを発表したことを日テレも考慮し、SUWAにとってのノア最終シリーズとなる1月シリー ズでは、マットにも通常G+のロゴが貼られている箇所に大々的に「レッツ!地デジ」のロゴ、そして通常日テレのノア中継公式サイトが掲載されている箇所に は「2011年、アナログ放送は全て終了します」というメッセージが載せられた。
  • ジュラルミンケースを菊地毅に止められた際「ケースを完全に渡し、自分は殴られたふりをして倒れる」というフロリダ・ブラザーズ並みの演技を見せている。
  • 2005/12/24にほぼ純血(フリーは齋藤彰俊とリッキー・マルビンだけなので、実質純血興行)で行われたNOAHのクリスマス大会にも出場している。わざわざ坊主であったのに髪を生やした上に金髪に染め上げ、欠場中の橋誠の姿を真似た「ハスワマコト」として出場した。試合でも橋のムーブを取り入れ、尻まで出した。諏訪のプロ根性とユニークさを感じ取れるエピソードである。
  • 翌年2006/12/24のクリスマス興行では、当初「はすまこと」として参戦予定だった。しかし、実際に出てきたのは水色と白の全身タイツに身を包んだ日テレ仮面・地デジマンであった。マスクを脱がされるというアクシデントは合ったものの、ここでも地デジへの移行とG+の宣伝を大いに行った(なお、この衣装は「のあのあくじ」の目玉景品として一般のファンの手に渡っている)。
  • 入場曲「so what」(KING-SHOWの作曲)はリングネームをもじったもので歌詞の部分が「スーーーーワーーーー」と空耳で聴こえるようになっている。偶然だろうが、so whatは英口語で「それがどうした?」という意味。まさに諏訪のファイトスタイルを象徴している。
  • DRAGON GATE退団の理由が、「自らのレスラー人生は30歳までで、30歳を過ぎたら引退するつもり。あと少ししか時間が無い(当時29歳目前)ので、それまで にもっと違う世界で自分の実力を試したい」といったものだった。その後引退の気配はまったくなかったが、2006/12/10の日本武道館大会第5試合 終了後のマイクパフォーマンスにて突如「来年(2007年)春までに引退する」と示唆した。
  • ヨーロッパ遠征中のある日、ロンドン観光の帰り道に見ず知らずの男性から金を貸して欲しいとせがまれ、快く金を貸したことを同行した潮崎豪の口か ら明かされた。SUWA本人は「騙されてるのかもしれないけど無視してそのまま行ったら後悔するかと思ったから」と話したという。
  • これまで(半ば勝手に)SUWAが宣伝してきた、地デジや日テレ、G+であったが、3月11日に行われた引退興行には、三沢光晴ノア社長、小橋建太、ノア選手会、武藤敬司全日本社長、健介office、エルドラドの選手会などプロレス関係のほか、地上デジタル放送推進協会、日本テレビ・久保伸太郎社長、日テレG+からも花が贈られており、一定の成果があったようだ。
  • 引退興行後、SUWAは「今度は橋誠の引退試合をプロデュースする!」と宣言している。

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ジェフ・ハーディー
Jeff Hardy
1977/8/31

アメリカ合衆国のプロレスラー。ノースカロライナ州キャメロン出身。本名ジェフリー・ネロ・ハーディー (Jeffrey Nero Hardy)。兄のマット・ハーディーもプロレスラーである。体の至る所にタトゥーを入れている。

来歴

レスラーとしてのキャリア初期は兄と共に歩んでいる。ドリー・ファンク・ジュニアの元でプロレスラーとしての基礎トレーニングを積んだ後、1993年ECWFにて兄との兄弟対決で共にプロレスデビュー。兄弟はタッグとして歩み、WWF(後のWWE)とは、1994年、1996年に契約のチャンスがあったものの契約に至らなかった(何度かジョバーとして試合を行なっている)。その間、兄マットがプロデュースする、オメガ・レスリングなどのインディー系プロレス団体で活動を行っていた。オメガ・レスリングには、後のリタ、シャノン・ムーア、グレゴリー・ヘルムズ、クリストファー・ダニエルズなども所属していた。彼らはプライベートでも仲が良く、現在でも「The Hardy Show」という番組制作をいっしょに手掛けている。また、1998年には格闘探偵団バトラーツに覆面レスラーのウィローとして来日している。

小柄ながらヘビー級戦線で活躍。端正なルックスと捨て身のレスリングで高い人気を得ているが、遅刻や薬物など問題行動が多く、団体からのプッシュ中に謹慎を受けるなどチャンスを自ら棒に振ることが少なくない。

WWF / WWE

1999年に兄弟ともにWWFと契約。初期はジンクス・ブラザーズという覆面レスラーのタッグチームで出場していたがまったく成功せずフェードアウト。以降ハーディー・ボーイズとしてタッグ戦線で活躍する。2001/4/10のSmackDown!にて、トリプルHを破り、当時の最年少記録でIC王座を獲得している。しかし、翌週トリプルHに敗れ、わずか一週間で王座から陥落してしまった。最年少での王座獲得や、相手がトップヒールのトリプルHだったこともあり、本人もこの勝利には思い入れが強い。ちなみに、この王座はハーディー・ボーイズ初のシングル王座である。兄弟でのタッグチーム活動は2002年まで続くことになる。

2002年、ハーディー・ボーイズはRAWデビュー直後のブロック・レスナーの最初の抗争相手を務めたが、レスナーをプッシュするためのジョバーとも言うような役回りであった。ジェフは4/21に行われたBacklash 2002でレスナーのTVマッチデビュー戦の相手をし、敗退した。レスナーとの抗争が終わると、ハーディー・ボーイズは前年からの遺恨が残るジ・アンダーテイカーに絡むようになる。7月1日のRAWで行なわれたジ・アンダーテイカーとのラダー・マッチ形式のWWE王座戦は、ジェフのキャリアにおいて、自他共に認めるベストバウトと言う程の高評価を得た。この試合をきっかけにジェフはシングルでの試合が多くなり、2002/7/8ウィリアム・リーガルからWWE欧州王座を奪うなど活躍した。ジェフが活躍が増えるにつれマットの活躍が少なくなり、それに嫉妬したマットがジェフを裏切りSmackDown!へ移籍、ハーディー・ボーイズは解散した。

2003年、シングルでトリッシュ・ストラタスとのストーリーが展開中であったが、4/22にWWEを解雇された。解雇の原因は、表向きはバンド活動に専念したいとWWEに訴えが、却下され対立したとの発表があったが、実際は、精神的に追い詰められ、ドラッグに手を出し、リハビリも断ったために解雇されたのが真相である。

TNA

WWE解雇後はROHへ所属した後、2004年7月から自身のバンドPeroxwhy?genの宣伝の一貫としてTNAに所属する。TNAでは、Xディヴィジョン戦線のレスラーとして活動していたが、ジェフ・ジャレットとのヘビー級王座をめぐる抗争ではラダーマッチや、アビスとの抗争では画鋲の上に落とされたりとかなり激しいハードコアマッチもこなした。TNA内でのジェフの人気は高く、彼のグッズの売上はTNA所属レスラーの中でも常に上位にあった。

ちなみに、ROH参戦当初は相変わらず治らない遅刻癖と、レスリングよりバンドを選ぼうとしてWWEを解雇されたことから非常に嫌われており、「We want Matt!(マットを出せ!)」と激しいブーイングを受けていた。一方でマットはWWE在籍時ジェフを妨害する形でヒールターンしていたため、「We want Jeff!(ジェフを出せ!)」とヤジられていた。

WWE

2006年

2006年8月にWWEと再契約し、SummerSlam 2006翌日のRAWに登場している。RAW登場後は、ジョニー・ナイトロとのIC王座を巡る抗争を展開する。そして10/2のRAWで自身2度目となるIC王座を獲得した。その後11月5日に行われたCyber Sunday 2006では、カリートの挑戦を受け、王座を防衛している。 そしてその後、ナイトロとの抗争が再び本格化し、11月6日に行われたIC王座戦で一度はメリーナの介入による反則で勝利するものの、エリック・ビショフが登場しNO DQで試合を強制再開させ、ナイトロにベルトで殴られ王座から転落する。 その翌週のRAWでもIC王座戦が行われ、ナイトロの一瞬の隙をつきジェフが勝利し3度目の王座に返り咲いた。

2007年

その後、2007年の1/29にはザ・グレート・カリとのIC王座戦に臨んだが、カリの長身と怪力には全く歯が立たず、カリの凄まじいチョップを浴び、リング外に転落し10カウントで敗れる。しかしカウントアウトでは王座は移動しないというルールに救われ防衛を果たした。 2月19日のRAWで、WWE会長のビンス・マクマホンがウマガにIC王座に挑むチャンスを与えた。これは、ビンスが当時抗争していたドナルド・トランプへの見せしめに組まれた試合であり、実際に試合が始まるとウマガはサモアンスパイクでジェフを圧倒、IC王座はウマガの物となってしまった。

その後、WrestleMania 23のマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに出場。その試合には破れたが、大会翌日のRAWで行われた10チームバトルロイヤル戦で兄マット・ハーディーと世界タッグ王座を獲得。4/29のBacklash 2007では、ランス・ケイド&トレバー・マードック組の挑戦を受け、勝利し防衛する。6月3日のWWE One Night Stand 2007では、ワールド・グレイテスト・タッグチーム(WGTT)とラダー・マッチによる王座戦を行い王座を防衛するが、翌日のRAWでビンス・マクマホンにより王座戦を組まれ、前日の試合でのダメージも影響し、ランス・ケイド&トレバー・マードックに奪取される。

その後再びIC王座戦線に復帰し、7/22のThe Great American Bash 2007でウマガの持つIC王座に挑戦するも敗れる。この試合を皮切りに、ウマガとのIC王座抗争が繰り広げられる予定であったが、7/23のRAWで行われたMr.ケネディとの試合で首と背中を痛め、それが原因でジェフが試合を無断で休んでしまったため(本人は許可を得たと主張している)、WWEから1か月の謹慎処分を言い渡され実現には至らなかった。その後、8/27のRAWでMr.ケネディとの試合で復帰した。ジェフの復帰に伴い本格的にウマガとの抗争が始まると思われたが、今度はウマガが薬物違反での謹慎処分を受けたために、完全に頓挫してしまった。それに伴い、9/2のRAWでウマガからIC王座を奪う。

12/16に行われたArmageddon 2007でトリプルHとの勝者WWE王座挑戦権獲得マッチに勝利し、ロイヤルランブルでランディ・オートンの持つWWE王座に挑戦する権利を得る。これは、ジェフにとって2度目の王座挑戦となる。

2008年

1/27のRoyal Rumble 2008にてWWE王座戦に臨んだが、ランディ・オートンに敗れ、王座獲得とはならなかった。翌日のRAWではGMのウイリアム・リーガルがNo Way Out 2008にて、WWE王座挑戦権争奪エリミネーション・チェンバー・マッチを行うと発表。ジェフもその出場者に名を連ねることになる。そして、2月17日のNO WAY OUT 2008のエリミネーション・チェンバー・マッチでは、最後の二人まで残るがトリプルHに敗れ、WWE王座挑戦権獲得とはならなかった。その翌日のRAWで、ジーン・スニツキーとのマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチ予選試合に勝利し、出場権を獲得した。

3/10のRAWでクリス・ジェリコにIC王座を奪われる。これは、その直前に薬物違反が発覚し、60日間の謹慎処分(謹慎期間は3月11日から5月11日まで)を受けたための処置であり、WrestleMania24のマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチの出場権も剥奪され、欠場することになった。今回のジェフの薬物違反は通算で二度目。WWEは三回の薬物違反で解雇するという規定があるため、再度薬物違反が発覚した場合、WWEから強制解雇になる可能性がある(7月のインタビューで、薬物違反について「自分はファンを裏切ってしまったことを、本当に申し訳ないと思っている」とコメントした。また、週に2、3回ほど採尿検査を受けているとのこと)。

この謹慎中の3月15日に自宅のトレーラーハウスが全焼し、愛犬ジャックが死んでしまうという事故が起きる。ジェフは愛犬がいなくなった時は、WWEの番組収録をサボってまで探しに行くほど溺愛していたため心労で体調を崩した。

5/12のRAWで無事に復帰を果たし、ファンから大声援を受ける。ファンに復帰の報告している最中にGMでキングのウィリアム・リーガルにウマガとの対戦を命じられるが自らの復帰戦を勝利で飾る。6/23、RAW3時間特番のドラフトにてSmackDown!へ移籍。WWE王座を巡ってUnforgiven、No Mercy、Cyber Sundayにて同じくドラフトでSmackDown!へと移籍したトリプルHに挑むもいずれも敗北。12/14のアルマゲドンで行われたエッジ、トリプルHとのトリプルスレットマッチに勝利し、WWE王座を奪取する。

2009年

Royal Rumble前にノースカロライナ州で当て逃げ事故に遭う。その数週間後、「カッティング・エッジ」に出演する際、入場時の花火がジェフに向かって暴発し、また事故に遭う。(いずれもアングル上の出来事)そして、そのRoyal Rumbleでマットの裏切りに遭い王座から陥落する。2月のノー・ウェイ・アウトでのエリミネーション・チェンバー・マッチで王座を取り戻そうとするも失敗に終わる。ロイヤルランブル以降もマットの妨害や挑発は続き、マネー・インザ・バンク戦出場をかけた試合でもマットの乱入により敗北する。その翌週のスマックダウンではリング上でジェフに起きた一連の事故の犯人は自分だとマットが語ったことに激怒し、本格的に抗争を開始する。そして4月5日のWrestleMania 25で対戦、敗れるが4/26のBacklash 2009で"アイ・クイット"マッチでマットに勝利し雪辱を果たした。その後世界ヘビー級王座の第一挑戦者となったジェフがJudgment Day 2009でエッジをあと一歩のところまで追い詰めたところでまたもやマットの乱入に遭い王座奪取とはならなかった。6/7のエクストリーム・ルールズでのラダーマッチでエッジに勝利し世界ヘビー級王座を獲得するが、試合後現れマネー・イン・ザ・バンクの権利を行使したCMパンクに敗れ戴冠後すぐに王座を失った。ここからCMパンクとの抗争が開始され、7/26のNight Of Cnampions 2009でパンクに勝利し世界ヘビー級王者に返り咲く。その後マットが復帰、ジェフに謝罪したためハーディー・ボーイズが再結成され、ジョン・モリソンと共にパンク、ハート・ダイナスティと闘い、全盛期のように見事な連携を見せた(マットがパンクにツイスト・オブ・フェイトを決め勝利)。続く8/23のSummerSlam 2009でパンクとの再戦がTLC形式で行われるが、これに敗れ再び王座から転落する。さらにサマースラム直後のスマックダウンにおいてパンクとの間で敗者はWWEから追放となるスティール・ケージ・マッチが行われ、これにも敗れたジェフはWWEから姿を消すこととなった。(実際はジェフの自身の活動に専念したいという希望による離脱) 離脱した翌日、薬物所持の違反で逮捕された。ジェフはこの容疑を否認している。

2010年

1/4TNAのスティールアサイラムマッチ終了後、観客席からホミサイドを襲撃して電撃復帰した。

10月、PPV Bound For Gloryメインイベントの3WAY世界王座戦で乱入したハルク・ホーガンの持ち込んだ松葉杖を使って ミスター・アンダーソンを殴り、電撃的なヒールターンを果たすと同時にTNA世界ヘビー級王座を奪取。

2011年

新日本プロレス1.4東京ドーム大会で内藤哲也とTNA世界ヘビー級王座戦を行い見事勝利し防衛を果たす。しかしGenesisにおいてミスター・アンダーソンに敗北、世界ヘビー級王座を失った。その後Against All Oddsで行われたラダー・マッチにおいてアンダーソンに勝利、再び世界ヘビー級王座を獲得した。

場曲

  • Loaded (Zack Tempest)
    元々はハーディーボーイズのテーマ曲。それぞれシングルプレイヤーに
    移行後はジェフのテーマ曲となっていた。
  • Modest(Peroxwhy?gen)
    2010年までのTNA所属時に使用。
  • No More Words (EndeverafteR)
  • Another Me(Jeff Hardy and Dale Oliver)

タイトル歴  

WWF / WWE
  • WWE王座 : 1回
  • 世界ヘビー級王座 : 2回
  • インターコンチネンタル王座 : 4回
  • ヨーロピアン王座 : 1回
  • ハードコア王座 : 3回
  • WWF・ライトヘビー級王座 : 1回
  • WWE世界タッグ王座 : 6回(w / マット・ハーディー)
  • WCWタッグ王座 : 1回(w / マット・ハーディー)
  • グランドスラム達成(2008年)
OMEGA Pro Wrestling
  • OMEGA Pro Wrestlingタッグ王座 : 1回(w / マット・ハーディー)
TNA
  • TNA世界ヘビー級王座 : 2回
その他
  • NWA 2000タッグ王座 : 1回(w / マット・ハーディー)

  



ミッキー・レイリー・ジェームス
Mickie Laree James
1979/8/31

アメリカ合衆国バージニア州出身の女子プロレスラー。

来歴

プロレス好きであった父の影響でミッキー自身もプロレスのファンとなり、養成施設でトレーニングを開始する。1999年にインディ団体でプロレスデビューし、アレクシス・レイリーの名で活動する。その後ROHで活動する傍らTNAにも参加するようになる。

2004年にWWEと契約し、OVWでトレーニングを開始する。2005年10月のRAWに当時女子王者だったトリッシュの大ファンというギミックでデビューする。以降トリッシュと共に活動し、ビクトリアやキャンディス・ミシェルらと抗争する。その後、トリッシュへの憧れは大きくなり、トリッシュに近づく者を排除し、服装などを真似てトリッシュそのものになろうとするサイコキャラとなる。このころから徐々にヒール化していく。しかし自分のことを理解してくれないトリッシュを次第に憎むようになり抗争を始める。そして2006年のレッスルマニア22ではトリッシュから女子王座を奪取する。

王座奪取後はミッキーに恨みを持つ旧友というギミックでデビューしたベス・フェニックスと抗争を開始するがベスが怪我により戦線離脱したため抗争は立ち消えとなる。8月にリタに王座を奪われ、リタとの抗争でフェイスターンし、11月のサバイバー・シリーズでリタに勝利し、再び女子王者となる。その後はメリーナやビクトリアと抗争を繰り広げる。

2007年7月からは怪我から復帰したベス・フェニックスと再び抗争を開始する。その後女子王者となったベスに幾度と挑み敗れていたが、2008年4月にベスを下し、女子王座を奪取する。新王者となってからもベスとの抗争は続き、8月のサマースラムで当時IC王者だったコフィ・キングストンと組み、ベス・フェニックス、サンティーノ・マレラ組とダブルタイトルマッチを行うが、ベス&マレラ組に敗れコフィと共に王座を失う。その後もベスと王座を巡り争う。

2009年に入ってからは王座戦線から離れていたが4月のドラフトでRAWに移籍してきたマリースの持つディーヴァズ王座に狙いを定め、ディーヴァズ王座の第一挑戦者となり、7/26のナイト・オブ・チャンピオンズでマリースから王座を勝ち取る。以降防衛を続けていたが10/12のRAWでジリアンとの王座戦で敗れ王座を失った。またディーバ・トレードにより、スマックダウンへ移籍することとなった。スマックダウン移籍後は女子王者のミシェル・マクールやレイラから執拗な攻撃を受ける。12月のTLCではミシェルの王座は奪えなかったが、2010/1/31のロイヤルランブルで王座を奪取する。しかし2/26のSmackDown!でマクールに敗れ王座を失い、4/22にWWEから解雇された。

2010/7/24のSMASHで、同じく元WWEのユージン、スカリーIIホッティとともに来日して試合を行う予定だったが、練習中の負傷のため欠場。

9月にTNAと契約。TNA Xplosionで一試合調整してから10/7のTNA iMPACT!の放送においてデビュー。また2011年7月にはメキシコのAAAにも参戦した。

獲得タイトル

WWE
  WWE・女子王座 : 5回
  WWE・ディーヴァズ王座 : 1回
TNA
   TNA女子ノックアウト王座 : 1回

入場曲

  • Obsession
  • Ice Breaker




 












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