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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
2/5



ミスター・ポーゴ
1951/2/5

日本のプロレスラー。群馬県伊勢崎市出身。リングネームは一時期、ザ・グレート・ポーゴポーゴ大王大ポーゴ大王を名乗ったこともある。本名は、関川 哲夫(せきがわ てつお)。大相撲出身。バックボーンは柔道。

来歴

FMW参戦まで

地元名士で、群馬県議会議員を6期、議長まで務めた関川勝三郎の末子。坊ちゃん扱いされて育った。

恵まれた体躯を活かして小学3年から柔道を習い、伊勢崎工高から中央大学法学部にスポーツ推薦で進学(ジャンボ鶴田と同期)したものの、勉学と柔道部の厳しい練習に着いて行けず、更に父の急逝にショックを受け、1年で中退。

父の没後、周囲の人間の手の平を返したような態度に絶望し、「腕っ節だけで成り上がってやる」という思いを強め、亡父の後援者の仲介で大相撲・二所ノ関部屋に入門し四股名は関川で1971年7月場所初土俵、番付に載った翌9月場所では序ノ口優勝したが、ひざの故障により廃業した。最高位は、序二段24枚目。

その後プロレス志望に転じ、中学の同級生の浜田広秋(後のグラン浜田)と共に、旗揚げ間近の新日本プロレスに出向いたところ、選手のコマ不足から即時入門を許された。

1972/3/20、足立体育館の藤波辰巳戦でデビューしたものの、山本小鉄から疎まれて知らない間に解雇をされていて旗揚げの1シリーズのみで退団した。

翌1973年、ロッキー青木に憧れて単身渡米し、動きが少なく殴る蹴る中心の喧嘩風ショーマン・スタイルを習得。カルロス・コロン、ビクター・キニョネスといった興行師の知遇を得て、テキサスからプエルトリコに至る南部テリトリーをリック・フレアーらと転戦し、ザ・ファンクス、ダスティ・ローデス、ハーリー・レイスらと抗争を展開した。当時レイスの地元であったセントルイス地区でも対戦が行なわれ、ヌンチャクの一撃でフォール勝ちしたという記録がある。そのレイスとの決着戦は金網デスマッチで、満員の観客を動員した。

リングネームは、本名の一部から『ミスター・セキ』(Mr.SEKI)。のちに、日系レスラーの大先輩であるグレート・東郷にあやかり、『ミスター・トーゴー』(Mr.TOGO)に改名した。しかし実際には対戦表に『ミスター・ポーゴ』(Mr.POGO)と誤記されてしまう。プロモーターのテリー・ファンクに、これが誤記である旨抗議したが「俺がこの名に命名した」と押し切られてこのまま「ポーゴ」の名を用いるようになった。

海外での活躍を認められ、1976年国際プロレスに凱旋。国プロ崩壊後は古巣の新日にも参戦し、1986/7/25、ケンドー・ナガサキとのコンビでIWGPタッグ王座に挑戦した(王者組は藤波辰爾・木村健悟組)。国プロのリングに上がった頃はかなりの巨漢で、公称130kgであったが、新日参戦時には格段にスリムになっていた。

1988年のブルーザー・ブロディ刺殺事件以降、主戦場のプエルトリコ・マットが信用失墜から人気急落し、興行数が激減したため、帰国して地元のプラスチック成形工場で働いていた。

FMW参戦後

1990年6月、新興団体FMWを立ち上げた大仁田厚に誘われて国内復帰。WWAブラスナックル王座を巡って流血の抗争を繰り広げ、ターザン後藤と並ぶ大仁田のライバルの地位に収まるかに見えたが、ポーゴの流転癖は直っていなかった。

1991年、内紛からFMWより分裂したW★INGに移り、松永光弘らの若手を率いて過激なデスマッチ路線を推進する。オリジナルの火炎噴射を使い出したのもこの頃。しかしW★INGから1993年に単身離脱し、FMWにUターン。火炎噴射に加え、鎖鎌で相手を切り刻んだり、チェーンで首吊りにするなど、凶器を用いたヒール殺法に磨きがかかった。

W★INGの崩壊によって、松永光弘、金村ゆきひろ(現・金村キンタロー)らもFMWに参戦するようになったため、W★ING同盟並びにヒール養成機関『むじなの穴(目)』を結成。賞金マッチを巡る瑣末なストーリー展開がプロレス誌を賑わした。

大仁田の引退後、新生FMWのエース格としてデスマッチ路線を牽引し、有刺鉄線ファイヤーバットで女子部の里美和を殴ったりして話題を提供したが、「大仁田以上に燃えられる相手がいない」という理由から1995年10月に突如フリー宣言。(実際はFMW所属だった。)WAR、みちのくプロレス、IWAジャパンなど各インディー団体を股にかけて活動した。

1996年、大仁田が復帰する為のストーリーラインとして膝の悪化を理由に引退を宣言。引退試合の相手は大仁田が復帰して務め、ポーゴのキャラクターを五所川原吾作に譲ったが、翌年本人がカムバックしたため、五所川原のリングネームが迷走する原因を作る。その後は大日本プロレスなどに参戦し、BJW認定デスマッチヘビー級王座の初代王者に輝いた。

2000年、経営するサウナのあった埼玉県本庄市で、地域密着型プロレスWWSを旗揚げ。

2003年、故郷の伊勢崎市議会議員選挙に立候補。リングネームでなく本名で出馬。無所属。1,059票で最下位落選した。当選の暁にはペイントして議会に出席することを公約していた。しかしポスター写真は素顔のみを掲載。

2005年、伊勢崎市で兄と焼き鳥屋『串焼きダイニングうずら』をオープン。2007/1/10、同店を飲食店『味処ぽーごちゃん』にリニューアルし、厨房・接客にも励んでいたが、同年2月、右足の痛風発作の鎮痛剤を空腹時に大量服用した事から出血性胃潰瘍を発症し、伊勢崎市民病院に緊急入院、3週間の闘病を余儀なくされた。しかし3月には飲食店の営業を再開し、試合にも5月のWWS伊勢崎大会から復帰を果たした。

2008年夏、自身の生い立ちからプロレスラーとなって後の成り行きまでを事細かに記した長大な自叙伝を、『ある極悪レスラーの懺悔』と題して電子書籍という形で刊行した。その内容をかなり削ったものを、『ある悪役レスラーの懺悔』という題で、本名を著者名として、2009年講談社より一般書籍として発売した。

2009年、選手活動を本格化させる為、飲食店を3月に閉店。その後、W★INGを「新W★ING伝説」というシリーズ名で復活させ、エースとして現役プロレスラーに完全復帰を果たした。

獲得タイトル

国内
  • FMWブラスナックル王座:2回
  • FMWブラスナックル・タッグ王座:3回(w / 大矢剛功、ザ・グラジエーター、金村ゆきひろ)
  • W★ING認定世界タッグ王座:1回(w / クラッシュ・ザ・ターミネーター)
  • BJW認定デスマッチヘビー級王座:1回(初代王者)
  • バーブドワイヤーストリートファイト世界6人タッグ王座:1回(w / 中牧昭二 & 矢口壹琅)
海外
  • NWAブラスナックル王座(アマリロ版):1回
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / ミスター・サトー)
  • スタンピード・ノースアメリカン・ヘビー級王座:1回
  • スタンピード・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / ダイナマイト・キッド)
  • NWAトライ・ステート・ヘビー級王座:2回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ジプシー・ジョー)
  • WWC世界タッグ王座:5回(w / TNT×1、ケンドー・ナガサキ×4)
  • WWCカリビアン・タッグ王座:2回(w / 佐々木健介)
  • WWC世界ジュニアヘビー級王座:1回

逸話

  • 伊勢崎市に飲食店を開業する前は、本庄市内のスポーツジム兼サウナで雇われ店長を務めていた。
  • 寿司好きで知られ、松永との抗争では『ポーゴ寿司』の開店を目論んでいた。魚を鎖鎌でさばいたり、火炎噴射で魚を焼いたり、といったパフォーマンスも行っている。
  • 好きな女性のタイプはオリビア・ニュートンジョン、ノリコ・アワヤ(淡谷のり子)とインタビューで答えていた。
  • 漫画家のあだち充とも同級生で、雑誌で対談した際、あだちのヒット作『タッチ』の登場人物・松平孝太郎はポーゴがモデルだと持ち上げられた(リップサービスの可能性大)。





石川孝志
1953/2/5

山形県東田川郡藤島町(現在の鶴岡市)出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。大相撲時代は、大ノ海の四股名で最高位は前頭4枚目。後にプロレスラーに転向し、特に石川敬士のリングネームで知られる(隆士、また本名の孝志の場合もあり)

来歴

中学時代までは野球少年であったが、酒田南高等学校進学後に相撲に没頭、国民体育大会高校の部で優勝するなど実力、素質ともに恵まれ、この時点で相撲部屋からのスカウトもあったがこれを断り日本大学に進学。大学時代は名門日大相撲部で活躍し、全日本相撲選手権大会に優勝してアマチュア横綱となるなど数多くのタイトルを獲得、主将も務めたが四年時に糖尿病にかかり、これが後の力士廃業の理由となる。

大学卒業後は大相撲の花籠部屋へ入門、1975年3月場所に幕下付出で初土俵。巨漢ではないが取り口が巧みで、期待の技巧派力士として順調に幕内まで昇進するものの、糖尿病の再発を理由に24歳で1977年7月場所をもって廃業。なお四股名の大ノ海は、師匠であった11代花籠親方(元前4・大ノ海久光)の四股名でもあり、それだけ将来を嘱望されていた。

しかし廃業直後からプロレスへの転向を表明しており、1977年10月にはフリーの選手として全日本プロレスへ参加。当時は大相撲からプロレスへの転向(実際には引き抜き)が多く、批判の対象となることが多かった。石川の場合も、相撲廃業の理由が糖尿病であるにもかかわらずわずか3か月後にプロレス転向したことで、当初フリー選手であったのは引き抜きに対するカモフラージュであったと言われている。

その後、ジャイアント馬場の意向もあり、武者修行のため渡米。元NWA王者パット・オコーナーのトレーニングを受け、11/17にはボブ・オートン・ジュニア戦でアメリカマットでデビュー。約1年の全米サーキットを行う。凱旋帰国は1978年国際プロレスの日本リーグ争奪戦で、全日本勢と共に参戦した。1979年に全日本プロレスに正式入団。勢いのあるファイトが持ち味の中堅選手として活躍し、特にアジアタッグ戦線の常連となる。また、トレーニング理論に一家言を持っていたことから、プロレス雑誌でトレーニング方法紹介の連載を持っていたこともある。全日本プロレスでの活動後期は、同じ日大相撲部出身で、力士時代も同部屋であった輪島とタッグを組むことも多かった。

1988年12月に全日本プロレス所属選手としてプロレスラーを引退するが、1990年のSWS旗揚げに際し復帰、SWSに参加する。団体内チームによる対抗戦を特色としたSWS内では、団体のエースである天龍源一郎と同じレボリューションに所属。SWS崩壊後は天龍と行動を共にしWARに参加するが、あくまで天龍を看板としたWARに離反し、1994年9月新団体の設立を表明。1994年10月、石川、嵐(初代)、坂下博志の3名により東京プロレスとして立ち上げを表明する。

東京プロレス時代は、大仁田厚の引退試合相手への名乗り(一旦は決定するも、後に大仁田の直弟子であるハヤブサの心情を理解し対戦権を譲渡したため実現せずに終わる)、ガッツ石松との異種格闘技戦を直訴(実現せず)など、当初は話題作りが先行した感が強かったが、1995年8月に東京プロレスがTWA認定タッグ王座を創設すると、他団体もしくはフリーの大物選手との交流が増え、石川への注目度も上昇した。参戦したアブドーラ・ザ・ブッチャーへの共闘ラブコールなどは有名である。1996年12月に「インディ統一機構」発足を前提として東京プロレスが活動終了するが、石川は新団体への移行を拒否し新東京プロレスを立ち上げ、古巣であるWARに参戦する。またIWA・JAPANとの抗争時に団体名を石川一家と改称(同名の暴力団とは無関係)。同時期に石川孝志として新日本プロレスにも参戦している。

1998/1/19に引退。引退後はビルの警備及び清掃を業務とする会社を設立、運営している。母校・日大の清掃も受け持っている。

エピソード

  • 学生時代より相撲での実績は抜群であり、大相撲入門後は花籠部屋親方の現役時の四股名を継承していることから、力士としての周囲の期待度は大きかった。
  • 輪島と石川は日大相撲部から花籠部屋に進んだ先輩後輩になるが、二人は大相撲時代から仲が良かったようで、輪島の全日本プロレス入りには石川が深く関わったと言われる。それもあってか、石川の一度目の引退後に輪島も追随する形でプロレスから身を引いている。(なお、その際は引退試合もセレモニーも一切なく、団体からの発表と、TV中継でアナウンサーが当人不在で「ごくろうさまでした」とコメントしただけだった。)
  • プロレスの現役時代より、世田谷でスポーツ用品店を経営していた。

タイトル歴

  • アジアタッグ王座
    • 第36代:1981/6/11(パートナー:佐藤昭雄)(防衛5回、佐藤昭雄が負傷のため返上)
    • 第38代:1984/2/16(パートナー:阿修羅・原)(防衛2回)
    • 第39代:1985/4/15(パートナー:佐藤昭雄)(防衛0回、阿修羅・原が蒸発のため返上したもの)
    • 第42代:1985/10/31(パートナー:マイティ井上)(防衛2回)
    • 第44代:1987/7/30(パートナー:マイティ井上)(防衛2回)
  • TWA認定タッグ王座
  • BJW認定タッグ王座
  • プエルトリコ地区認定ノース・アメリカン・タッグ選手権王者(パートナー:園田一治)

その他

  • 東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞
    • 第5回(1978年)努力賞
    • 第8回(1981年)努力賞
    • 第16回(1989年)功労賞
  • 浅草橋ヤング洋品店・48時間どこまで行けるかマラソン2
    • 3位(膝の靭帯を痛めながらも、50時間17分で完走)

 
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ポイズン澤田JULIE
1964/2/5

本名:澤田篤男、日本のプロレスラー。東京都出身。183cm、90kg。

来歴

1981年、新日本プロレスに入門。同期には後藤達俊。初代タイガーマスクの付き人を務めたこともあるが1983年に負傷によりデビューを果たすことなく退団。

1988年渡米、マレンコ道場でトレーニングしてベトナム人キャラ「ホー・チー・ミン」としてデビュー。 1992年日本で試合をするに当たり「ホー・デス・ミン」に改名。その後PWC、IWA流山と所属を変える。IWA流山が、ユニオン・プロレスと改称したのを期に「ポイズン澤田」に改名。1994年12月にはユニオン流山大会でマミーと「ノーロープ有刺鉄線ランバージャック猛毒マムシデスマッチ」を行い、マムシに噛まれるも勝利を収める。

ユニオン・プロレスを離脱後一時「ホー・デス・ミン」として西日本プロレスにも参戦するが、団体が活動停止した事により、同じく西日本プロレスに参加していた徳田光輝と新団体『Jet's』旗揚げに動くも、資金面等で問題が発生し旗揚げ前に頓挫。その後、フリーになるが、負傷によりしばらくリングから遠ざかる。

1999年、DDTに参戦、当初は女子の元気美佐恵にすら圧倒されるキャラであったが、2000年6月にアイアンマンヘビーメタル級王座を創設、初代王者に。同年9月には蛇神が降臨して「蛇界転生」なるユニットを結成、ポイズン澤田JULIE(沢田研二に肖っての改名と思われる、「蛇界転生」も沢田研二主演映画「魔界転生」から)と改名。その後はDDTを代表するキャラクターとして活躍し、古巣新日本プロレスの日本武道館大会にもゲスト出場を果たす。また、米山香織とのミックスタッグで男子選手として初めてJWP認定タッグ王座に挑戦したこともある。

一時は宗教団体「蛇光」の教祖も名乗るが、2005年5月に血清を飲まされ真人間「ポイズン澤田」に戻るとユニオン・プロレスの再旗揚げを宣言、11/3に再旗揚げ戦を挙行する。

一方DDT本隊においても2000年からタイムマシンで連れて来られる形でポイズン澤田JULIEを復活させ、DDTではポイズン澤田JULIE、ユニオンではポイズン澤田という2つの顔を持つ。

主なリングネーム

  • ポイズン澤田JULIE(現在)
  • ポイズン澤田(ユニオンプロレス)
  • 改造蛇人間ジャカイダー(改造手術を受けて)
  • 澤田"マレンコ"篤男(ハードヒット出場時)
澤田篤男(新日本プロレス練習生時代)
ホー・チー・ミン(海外時代)
ホー・デス・ミン(日本デビュー時代)
ポイズン澤田BLACK(DDT初期)
心霊治療の先生(2002年に蛇神によって石化されて復活後、ポイズン澤田JULIEの他にもっていたリングネーム)
ポイズン澤田ジュミー(猪熊雄介がポイズン澤田JULIEのDNAから作り出したクローン人間)

戦歴

  • KODシングルの王者に何度もなるなど、実力はそこそこ
  • 後藤達俊・長井満也のタッグ相手に、高木三四郎・ポイズン澤田JULIEのタッグで見事に勝利

ポイズンの仲間

  • 蛇影(黒影)
  • 蛇イアント(石川修司)
  • 多咬刺(佐々木貴)
  • クマーチャリー(猪熊雄介)
  • 後藤蛇つ俊(後藤達俊)
  • 蛇が井満也(長井満也)
  • 赤レンジャーズ(佐々木貴・GENTARO)
  • 米山蛇織(米山香織)
  • JARASHIMA (HARASHIMA)





相島勇人
1966/2/5

本名:相島 俊介は福岡県大牟田市出身の日本のプロレスラー。

概要

西日本プロレスを皮切りに、地元九州のインディー団体で活躍後、全日本プロレス参戦。その後、キングスロード所属となる。現在はフリーとして、プロレスリング・ノア、九州プロレスを中心に活動。

プロレスリング・ノアの西日本中心に行われる興行には定期的に参戦。2009年には小橋建太の持つグローバル・ハードコア・クラウン無差別級王座に挑戦も敗退。

地元九州では、プロレスリング華☆激にレギュラー参戦し、ディアブロ、黒影との悪のユニット、ブラックジャスティスを結成し活動していたが、ディアブロ&黒影の華☆激退団と共に消滅。ディアブロは九州プロレスへ入団しベビーターン、人気レスラー「博多ぶらぶら」として活躍していたが、相島もそれを追うように、2009年12月、華☆激から撤退し、突如、九州プロレスに乱入、筑前りょう太を急襲。2010年5〜7月、「博多ぶらぶら」ことディアブロを改心させ、タッグ再結成。さらに黒影も合流し、九州プロレスのリングでブラックジャスティスを復活させた。

西日本プロレス所属時代には、KBCのドォーモで取り上げられたことがある。

ニックネームが"鋼鉄"で、ラリアットの名手でもある。

タイトル

  • 博多タッグ王座
    初代:パートナー(久保希望)
    3代:パートナー(久保希望)




長州小力
1972/2/5

本名:久保田 和輝、日本のお笑いタレント、俳優、西口プロレス所属のプロレスラー。

東京都杉並区出身。身長160cm、体重85kg。血液型はA型。杉並区立和田中学校卒業。

  



沖野小百合
1976年/2月/5

日本の女子プロレスラー。LLPW所属。

身長161cm、体重61kg、血液型はO型。愛媛県喜多郡五十崎町(現内子町)出身

所属

  • LLPW(1995年 - )

経歴・戦歴

LLPW入団後、1996/1/4の川越市民体育館興行での対大向美智子戦でプロレスデビュー。

ヒール軍団G-MAXのメンバー。アイガーとタッグチームサキュバス(夢魔)を結成。

しかし、リングを降りると礼儀正しく気配りのきく女性として知られている。






エル・サント
El Santo
1917/9/23 - 1984/2/5

メキシコのプロレスラー、俳優。メキシコの国民的英雄である。本名ロドルフォ・グスマン・ウエルタRodolfo Guzmán Huerta)。 白銀のマスクマンEl Enmascarado de Plata)というニックネームでも知られる。

エル・サントはおそらくラテンアメリカで最も著名なルチャドール(プロレスラー)であり、メキシコでは伝説的存在として語り継がれている。彼のプロレス界におけるキャリアは40年近くにもわたり、その存在はルチャ・リブレ(メキシコのプロレス)の枠を飛び越え、人々のヒーロー・正義のシンボルにまでなった。コミックや映画の主人公でヒーローを演じ、特に後者は彼の人気と神話の形成においてルチャリブレ以上の貢献を果たした。

生い立ち

1917/9/23、ロドルフォ・グスマン・ウエルタはイダルゴ州トゥランシンゴにおいて、ヘスス・グスマン・カンプサーノとホセフィーナ・ウエルタ・デ・グスマンとの間に七人兄弟の五番目として生まれた。1920年代にメキシコシティのテピート地区に移住した。野球とアメリカンフットボールに親しんだのちルチャリブレに興味を持ち、柔術とグレコローマンレスリングを学んだ。

ルチャドールとしてデビューした日付については、いまだ正確には定まっていない。1934/6/28アレナ・パラルビージョ・コスメルでの試合(本名使用)がそうだと主張する者もいれば、1935年メキシコシティのデポルティーボ・イスラスにおいてであるとする説もある。ともかく1930年にはすでにレスラーとしての位置を確立しており、ルディ・グスマン、エル・オンブレ・ロホ、エル・エンマスカラード、エル・デモニオ・ネグロ、エル・ムルシエラゴ・セグンドといったリングネームを使用していた。最後のリングネームは当時有名だったレスラー、ムルシエラゴ(「蝙蝠」の意)からの借用であり、ムルシエラゴ本人の異議申し立てにより、メキシコボクシング・ルチャ委員会はグスマンが「ムルシエラゴ」のリングネームを使用することを禁じた。

スターへの道

1940年代はじめに、グスマンはマリア・デ・ロス・アンヘレス・ロドリゲス・モンターニョと結婚し、その後10人の子をもうける。そのうちの一人が、のちに父と同じくルチャリブレの道において輝かしい成功を収めることになるエル・イホ・デル・サントである。 1942年、トレーナーであったヘスス・ロメリ(Jesús Lomelí)が新団体を設立するにあたって、彼に参加を呼びかける。ヘススは彼に三つのリングネーム候補を挙げた。エル・サント(聖人)、エル・ディアブロ(悪魔)、エル・アンヘル(天使)の三つの中からロドルフォが選択したのは、最初の候補だった。こうして同年6/26、アレナ・メヒコにおいて、「エル・サント」が誕生することとなった。デビュー当初は悪役(ルード)側で戦っていたが、のちに善玉(テクニコ)側へと転身した。新しいリングネームのもと彼は自分自身のスタイル、敏捷さ、技のバラエティに磨きをかけ、その名声を高めていった。

偶像への道

1950年代になると、ホセ・グアダルーペ・クルスという芸術家兼編集者が、サントの漫画を出版するようになる。サントはその中でメキシコの歴史における最高のルチャドールとされ、彼に比肩しうるのは伝説の人物、カリマンだけであった。 50年代後半、プロレスラー兼俳優フェルナンド・オセスの誘いによって、サントは映画界へと足を踏み入れることになる。とはいえルチャドールとしての活動を打ち切ることのない、二足の草蛙状態での俳優活動であった。 こうして、映画俳優サントのデビュー作『サント対悪の頭脳』(Santo contra el Cerebro del Mal)、『サント対地獄人間』(Santo contra los Hombres Infernales)が完成した。双方とも1958年公開、脚本はフェルナンド・オセスとエンリケ・サンブラーノ、監督はホセリート・ロドリゲスである。ちなみにこれら二作の撮影はキューバで行われ、撮影が終了したのは、フィデル・カストロがハバナ入りし、キューバ革命の勝利を宣言した前日のことであった。

獲得タイトル

Comisión de Box y Lucha Libre de México, D.F.

NWA世界ウェルター級王座
  1. 1943/2/21、対シクロン・ベロス(Ciclón Veloz)戦にて

(註:1993年10月、WWAによるものではあるがエル・イホ・デル・サントも同名のタイトルを奪取)

NWAミドル級世界王座
  1. 1943/3/19、対ヘスス・"ムルシエラゴ(蝙蝠)"ベラスケス (Jesús "Murciélago" Velásquez)戦にて
  2. 1946/5/31、対タフィ・トゥルースデル(Tuffy Truesdel)戦にて
  3. 1956/9/14
  4. 1963/6/28

(註:サントの兄であるブラック・グスマンも、同タイトルを1941年に獲得。エル・イホ・デル・サントもやはり、1996年に同タイトルを獲得している)

UWAライト級世界王座

サントはライト級であったことはなく、この王座を獲得することはなかった。息子であるエル・イホ・デル・サントが、クアトロ・カミーノス闘牛場におけるネグロ・カサス戦において同タイトルを獲得することとなる。

Asociación Nacional de Lucha

ウェルター級王座
  1. 1946/5/13、対ペテ・パンコ(Pete Panco)戦にて
世界ミドル級チャンピオン
  1. 1954/1/1

(註:兄ブラック・グスマンも、1941年12月に同タイトルを獲得)














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