タイガー戸口
1948/2/7
東京都葛飾区出身のプロレスラー。キム・ドク、タイガー・チャン・リーのリングネームでも知られる。在日韓国人2世で、本名は金徳)。通名は戸口 正徳。身長193cm、体重125kg(全盛時)。引退宣言はしていないが、現在はセミリタイア状態。
来歴
修徳高等学校ではバスケットと柔道で活躍。1967年、大木金太郎の誘いにより日本プロレスに入門。同時期に柔道界からは坂口征二も入門していたことから、この入門に柔道関係者達が激怒し、戸口を奪い返しに会場まで押しかける一幕があった。そのため、特錬(トレーニング)と称して約半年間、韓国でほとぼりを冷ましていた。帰国後の1968年、柴田勝久戦でデビュー。当時若手向けに行なわれていたカール・ゴッチのレスリング教室で猛練習を積んでいた縁で1969年、アントニオ猪木の新技(卍固め)の名前を一般公募する際の実験台となった。
1972年、日本プロレス崩壊直前にアメリカ遠征に出発し、キム・ドク(Kim
Duk)を名乗る。東洋系の大型ヒールとして各地の主要マーケットを転戦し、1973年10月にはNWAのトライステート地区でUSタッグ王座を獲得。ミッドアトランティック地区ではマスクド・スーパースターと組んで活躍した。
帰国後の1976年10月、日本プロレス時代に付き人を務めていた大木金太郎と韓国師弟タッグを結成して全日本プロレスに参戦。ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田を破り、2度インターナショナル・タッグ王座に就く。大木との師弟コンビでは国際プロレスにも参戦した。また、体格や格闘技経験が拮抗していたことから「鶴田のライバル」と目され、2度のUNヘビー級王座戦を含め、対戦成績はすべて引き分けである(1978/9/13、愛知県体育館におけるUN戦が最も名高い。60分フルタイムの後に5分の延長戦が組まれ、それでも引き分けとなった)。この鶴田との対決は全日本初期の名勝負に数えられている。
1979年、それまでのフリーから正式に全日本所属となり、馬場、鶴田に次ぐNo.3の地位を与えられる。ディック・マードックに移っていたUNヘビー級王座への挑戦や、ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座への挑戦、プリンス・トンガと両A面でテーマ曲のシングルレコードが発売されるなど、当時の馬場の扱いは天龍源一郎よりも格上であった。
1981年、IWGPへの参加を唱えて新日本プロレスへ移籍。これは両団体間の引き抜き合戦の中での一コマなのだが、後に本人は移籍の決め手として、「当時アメリカに家族がいて、全日に頼んだが飛行機のチケット代を出してくれなかった。しかし、新日は往復チケットを毎回用意するとのオファーがあったから」と述べている。また、「このまま全日にいても(全日生え抜きの)ジャンボの上に行けるわけでもないし」とも語っている。新日参戦後すぐに、IWGPアジア予選リーグ戦の名目で猪木とのシングルマッチが田園コロシアムのメインイベントとして組まれるが、この試合前に「はぐれ国際軍団」の乱入及び「こんばんは事件」(詳細はラッシャー木村の項を参照)があり、さらにはスタン・ハンセン対アンドレ・ザ・ジャイアントの歴史的名勝負も行われたなど、試合自体の印象が薄くなる不運に見舞われた。その後は日米を行き来し、1982年年末のMSGタッグリーグ戦ではキラー・カーンと組んで準優勝。
1983/3/3、セントラル・ステーツ地区でヤス藤井と組み、同地区のタッグタイトルを獲得。また同年夏にタイガー・チャン・リー(Tiger
Chung Lee)を名乗り、ミスター・フジのパートナーとしてWWFに参戦。MSG定期戦ではミル・マスカラスとのシングルマッチも組まれた。1984年1月にはフジとのタッグでハルク・ホーガン&ボブ・バックランドの新旧WWF王者コンビとも対戦している。以降もWWFにはジョバーのポジションで1987年頃まで在籍した。
その間、新日内では軍団抗争が繰り広げられており、キラー・カーンの絡みなどから維新軍団扱いを受けるが、ほとんど新日参戦がなかったため、実体はなかった。1984年のジャパンプロレス勢の新日離脱を受け、手薄となった日本人選手のヘルプの形で新日正規軍扱いとなった。しかし、親交があったとはいえ堂々とジャパンプロレス社長の大塚直樹を訪ねるなどの行動があったため、扱いは悪くなり、デビューしたてだったアノアロ・アティサノエ(小錦の兄)にシングルで敗退。そこで大塚の仕掛けでジャパンへの移籍→全日マット復帰を目論むが、馬場の反対で実現せず、しばらく日本を離れた。
1988年に公開されたアーノルド・シュワルツェネッガー主演映画『レッドブル』に出演。冒頭でシュワルツェネッガーのパンチを喰らいサウナの外に吹っ飛ばされるロシアギャングの一員を演じた。
その後は、栗栖正伸とピラニア軍団を名乗ってキム・ドクとして新日本へ、プエルトリコ軍団としてW★INGプロモーションへ、青鬼なるマスクマンとしてWARへ参戦(パートナーの「赤鬼」はWWF時代の盟友ドン・ムラコ)。さらに石川孝志率いる新東京プロレスにも登場。この間、1993年にメキシコのUWAで覆面レスラーのヤマト(Yamato)に変身、同年8月にドス・カラスに敗れマスクを剥がされるが、翌1994年3月にはエル・カネックを破りUWA世界ヘビー級王座を奪取した。
1999年の馬場の死に際しては、全日本所属でないプロレスラーとしては一番早く弔問に訪れた。その縁あってか、2001年に前年選手の大量離脱に見舞われた全日本へ復帰するも長くは続かず、ミスター・ポーゴの興したWWSへの参戦を最後にセミリタイアし、以降はNPO団体に勤務している。
2009/10/12の『蝶野正洋25周年特別興行 ARISTTRIST in 両国国技館』の時間差バトルロイヤルに参戦、全14選手が参加した乱戦であったがラスト4人まで勝ち残り往年の雄姿を見せた。
2010/3/14よりDDTで「タイガー戸口チャレンジ」と題した定期参戦が決定、若手選手に胸を貸している。
エピソード
- FMW参戦の噂が流れたことがあるが、大仁田厚が「馬場さんを裏切った人だから(使わない)」と否定した。しかし、団体立ち上げ当時にケンドー・ナガサキ(ドラゴン・マスター)やディック・マードックはリングに上げている。
- 新日でトニー・ホームと試合をした際、ホームが受け身をとることができなかったため、戸口がホームのパンチでふらふらに→戸口がボディスラムでホームを投げる→ぐったりしたホームがパンチ…という繰り返しになりコントのようになってしまった。
- プロレス専門誌の名鑑等で、全日離脱後もずっと、ライバル欄には必ず「ジャンボ鶴田」と記載していた。
- 3つのリングネームを名乗りながら、どの名前においても印象的な活躍をしているのは特筆される。当初の区分けでは大木とタッグを組む際は「キム・ドク」、シングルプレーヤーとしては「タイガー戸口」とされていたが、後年になってからはどの状況でも「キム・ドク」を名乗ることが多くなった。
- 松永光弘がメキシコに遠征中、体調を崩し、言葉が通じないので病院にも行けず、現地のプロモーターから試合出場を強要され、困り果てていた時、偶然現地で戸口と出会い、状況を説明すると、医者の手配からプロモーターとの交渉までしてくれ、そのことについて本当に感謝したそうである。
- アメリカ合衆国への永住権を保持している。
- 日本語、韓国語、英語、スペイン語と4カ国語を話すことが出来る。特に英語は若手の頃から堪能で、日プロで外人係を務めていたジョー樋口が負傷等でシリーズ帯同できなくなった際には臨時に外人係を勤めていた。
- 若手時代、試合前のトレーニング中に馬場から「いまいくつ(何歳)だ?」と聞かれ、戸口が22歳、一緒にトレーニングをしていたサムソン・クツワダが23歳と答えたところ、「そうか、俺は君らの歳にはニューヨークにいたぞ」と言われて強い衝撃を受け、一層トレーニングに励み、試合後には記者やカメラマンに自分のファイトがどうだったか聞きに回るようになった。
- 父親は、竜錦の四股名で十両まで務めていた(戸口が4歳の時に引退)。その縁で小学校4年生の時に父親と一緒に力道山に会ったことがある。
- 東京都葛飾区出身ということもあり、『男はつらいよ』の大ファンであった。「タイガー戸口を日本語に訳すと、戸口寅次郎だよ」と雑誌のインタビューで語っていたこともある。
獲得タイトル
- インターナショナル・タッグ王座:2回(w / 大木金太郎)
- NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / スタン・コワルスキー)
- NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ヤス藤井)
- WWCカリビアン・ヘビー級王座:2回
- UWA世界ヘビー級王座:1回
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