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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
2/8



フレッド・ブラッシー
Fred Blassie
1918/2/8 - 2003/6/2

アメリカ合衆国のプロレスラー、プロレス・マネージャー。本名はフレデリック・ブラスマンFrederick Blassman)。ミズーリ州セントルイス出身。

ニックネームはクラッシーClassy、お洒落な)。ハリウッド・ファッション・プレートThe Hollywood Fashion Plate)の異名を持ち、オシャレには非常に気を遣ったことでも知られる。近年でもザ・ロックやクリス・ジェリコらが彼のファッションの影響を受けている。日本では「銀髪鬼」と呼ばれ黎明期の日本プロレス界に衝撃を与えた。

決め台詞は自伝のタイトルにも使われた「Listen, You Pencil Neck Geeks!」(「よく聞け、この虚弱野郎ども!」といったような意味)。

夫人は日本人。

来歴

高校時代はボクシングや野球をしていたが、精肉所で働きながらトレーニングを積み1935年にプロレス入り。その後アメリカ海軍に入隊し第二次世界大戦へ出征した。戦後1947年に活動を再開し、正統派レスラー「フレッド・マクダニエル」としてNWAジュニアヘビー級王座を獲得するなど活躍していたが人気はいまひとつで、1959年に赤毛の髪を銀色に染め、ロサンゼルスを拠点として噛みつき攻撃を得意技とするヒールに転向してから大ブレイクした。

1961年ロサンゼルスに新たに設立された初代WWA認定世界ヘビー級チャンピオンとなるが、力道山に敗れタイトルを奪われた。1962年4月にタイトルを奪回すべく日本プロレスに参戦するため初来日。このとき力道山、グレート・東郷らとのタッグ戦でブラッシーの噛みつき口撃が炸裂、額から激しく血を滴らせるグレート・東郷の姿をテレビで見た老婆がショック死したこともあるが、当のブラッシーは気にかける様子もなく「アメリカでは5〜60人はショック死させた。」と言い放った。彼のヒールとしての嫌われようは半端ではなく、地元ロサンゼルスでは、幾度となくナイフを持ったファンに襲われ、硫酸をかけられたことすらあるという。投げつけられたゆで卵が眼に命中し、片方の視力はほとんど失われたともいわれる。

当時、1959/4/10の皇太子明仁親王(今上天皇)成婚の中継をきっかけにテレビのカラー放送が一部開始された時期で、人気番組のプロレス中継もカラー放送(1960/9/10開始)されていたが、カラーテレビが高価であったため、多くの一般家庭ではグレート・東郷の額から滴る黒光りするグロテスクな流血をモノクロテレビで視聴することになった。前述のように1962/4/27には、カラーテレビでブラッシーの試合を視聴した老人4名(諸説あり)が流血シーンを見てショック死する事件が起きている。

1962年7月にロサンゼルスで力道山を破りタイトルを奪回し以後タイトルを防衛した後、1972年にも全日本プロレスに参戦しジャイアント馬場と対戦した。1974年には新日本プロレスにも参戦しアントニオ猪木と対戦したが、視聴者が噛みつき口撃を見慣れたこともあって、初来日のときの迫力は失われていた。

1973年にWWF(現・WWE)で現役引退後は悪役レスラーのマネージャーとして活躍した。新人レスラーの発掘にも尽力し、ハルク・ホーガン、スタン・ハンセンらを大スターへと導いた。1994年にはそれまでの功績を称え、WWF殿堂(現・WWE殿堂)に迎えられた。

2003年4月に自伝を上梓し、5/12にWWEのRAW大会にゲスト出演したが、直後の5/24に倒れ6/2にニューヨーク郊外の病院で死去。死因は、長い間心臓と腎臓に疾患を抱えており、これが悪化したためといわれている。

ビンス・マクマホンが父親からWWEを買い取る際、父ビンス・シニアから出された条件がブラッシーとジェームス・ダッドリーの永久雇用であった。そのため彼は現場から退いた後も、生涯WWEのテレビ放送の在宅モニターを勤め、またビンスもブラッシーが亡くなる最期の日まで「ファイトマネー」を払い続けていた。

日本プロレス界における影響

フレッド・ブラッシーは黎明期の日本プロレス界において、最も衝撃を与えた悪役レスラーである。前歯は差し歯だったと言われているが、この前歯をヤスリで研ぐパフォーマンスを見せたうえで、序盤から終盤まで噛みつき口撃で対戦相手を「血まみれ」にする悪役に徹した。ヤスリは、実のところ、爪を研ぐための目の細かいヤスリで、歯を削る真似をしただけだった(しかもこのパフォーマンスは力道山の指示による日本限定の物だったらしい)。異様な目つきで銀髪の外人レスラーが、当時のヒーロー力道山をはじめ人気レスラーの額に噛みつく姿は「吸血鬼」を連想させ「噛みつき魔」とも呼ばれた。

マネージャーとしてのブラッシー

ブラッシーは現役引退後もマネージャーとして活躍した。1976/6/26に行われたアントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦では、アリのマネージャーを務めた。プロレス出身でありながらボクシング陣営に加わったことで、プロレス関係者の反感を買った。また、無名だったハルク・ホーガンやスタン・ハンセンを売り出すにあたって、キャラクター作りにアドバイスを与え大スターへと導いた。一貫してヒールのマネージャーを務めており、ニコライ・ボルコフとアイアン・シークの反米軍マネージャーなどを務めた。ユーゴスラビアからの亡命者であったニコライ・ボルコフはギミック上ソ連出身の共産主義者として登場する際に、共産主義者のギミックを拒否していた。だがブラッシーの「演じることで嫌っていることを表現せよ」とのアドバイスでこのギミックを受け入れた、というエピソードもある。

主な担当選手

  • ニコライ・ボルコフ
  • アイアン・シーク
  • スタン・ハンセン
  • ハルク・ホーガン
  • キラー・カーン
  • キラー・トーア・カマタ
  • ブラックジャック・マリガン
  • ジェシー・ベンチュラ
  • アドリアン・アドニス
  • ディック・マードック
  • アレン・コージ
  • プロフェッサー・タナカ
  • ミスター・フジ
  • ミスター・サイトー
  • タイガー・チャン・リー
  • ストロング小林
  • バロン・フォン・ラシク
  • ワルドー・フォン・エリック
  • スパイロス・アリオン
  • ピーター・メイビア
  • スウェード・ハンセン
  • ジョージ・スティール
  • ザ・ハングマン
  • ビクター・リベラ
  • クラッシャー・ブラックウェル
  • ビッグ・ジョン・スタッド
  • レイ・スティーブンス
  • カマラ
  • ミッシング・リンク
  • ハーキュリーズ


人物

  • 大の親日家として知られる。2度の離婚の後、1965年、小倉駅にて当時20歳だった日本人の三耶子さんと出会い一目惚れし、1968年に結婚した。三耶子夫人はブラッシーの最期まで添い遂げた。存命中に『あの人は今!?』(日本テレビ系)の取材に夫婦で笑顔で出演し、自宅でミヤコさんがブラッシーの散髪をする姿が放映されたこともある。三耶子さんは、2003年7月のWWE横浜アリーナ大会開催時のパンフレットに手記を寄せている。
  • 1978年に藤波辰巳(現・藤波辰爾)がニューヨークでWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得した際、公私にわたり尽力した。ブラッシー死去の知らせを受けた藤波は「とても寂しい。自宅に招待され食事をご馳走になった。当時(ニューヨークでの王座獲得)があるから今の僕がある。とても感謝している」とコメントを寄せている。
  • 噛み付きギミックのせいで、肝炎になったことがある。
  • 引退後もヒールとしてのリップサービスを忘れておらず、力道山へのコメントを求められた際も「リキとは地獄で決着をつけなければならない」と答え、「力道山は天国に居ます」というインタビュアーの反論に対しても「奴は俺と同じ地獄行きだ」と切り返した。
  • プロレスラーとしてのキャリアの中で、ショック死に至らしめたプロレスファンの累計人数は90人超。本人は内心、100人の大台を目指していた。

獲得タイトル

  • NWA南部ジュニア・ヘビー級王座:1回
  • WWA世界ヘビー級王座:2回
  • WWA世界タッグ王座:2回(w / ミスター・モト、バディ・オースチン)
  • WWAインターナショナルTVタッグ王座:3回(w / ミスター・モト×2、ドン・レオ・ジョナサン)
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:4回
  • NWAアメリカス・タッグ王座:1回(w / ドン・カーソン)
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWA南部ヘビー級王座(ジョージア版):17回
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
  • NWA世界タッグ王座(フロリダ版):1回(w / ターザン・タイラー)
  • NWA北米ヘビー級王座(ハワイ版):1回
  • WWF Hall of Fame 1994 (プレゼンターはシェイン・マクマホン)

著書

  • フレッド・ブラッシー自伝(2003年、エンターブレイン刊)





石川雄規
1967/2/8

日本のプロレスラー。格闘探偵団バトラーツの社長を務める。現在は、炭火串焼き石川屋も営む。本名は石川 豊彦。神奈川県小田原市出身。日本大学卒業。

外国人選手からは本名の豊彦(TOYOHIKO)が発音し辛いため、頭の部分をとってTOY(トーイ)と呼ばれる。

来歴

アントニオ猪木に憧れ、高校時代は柔道、大学時代はレスリング、シューティング(現:修斗)を行っていた。大学卒業後、カール・ゴッチの元を訪れ、マレンコ道場で修行する。

藤原組に入団後1992/4/19の高橋和生戦でプロレスデビュー。1993/1/31、正道会館主催のグローブ空手大会「第2回トーワ杯」に出場し、3回戦(1回戦シード)で佐竹雅昭と対戦し左ハイキックでKO負けするも、大会特別賞を受賞した。同年、パンクラス設立による選手大量離脱時は藤原喜明の弟子では唯一団体に残留し、その後は藤原とともに各団体に登場した。

1996年に藤原喜明以外の藤原組選手を引き連れて格闘探偵団バトラーツを設立。

総合格闘技にも進出し、他団体やPRIDEのリングで試合を行ったこともある。

2008年頃、ZERO1-MAX(現在のZERO1)参戦時、男女混成チームのタッグマッチにおいてhikaruや前村早紀をボディスラムでうつ伏せにし、ニヤニヤしながら襲い掛かるムーブを見せた。

映画「餓狼伝」では、主人公のライバル役プロレスラー「梶原年男」役を演じる。

出演者として石川の名前が出ないが、よく「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」(日本テレビ)のプロレスが絡む企画の際のプロレスラー役で登場する。(特に番組企画の「利き○○シリーズ」で回答者が答えを間違えた時にバックヤードから出てきてその人間をシバく役が多い)

タイトル歴

  • NWAインターコンチネンタルタッグ

総合格闘技
PRIDE.17
2001/11/3
クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン

2002/12/8
DEEP2001 7th IMPACT in DIFFER ARIAKE
滑川康仁

 
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シェリー・マーテル
"Sensational" Sherri Martel
1958/2/8 - 2007/6/15

アメリカ合衆国の女子プロレスラーおよびマネージャー。ルイジアナ州ニューオーリンズ出身。本名はシェリー・ラッセルSherri Russell)。選手としては1980年代にAWAやWWF(現・WWE)の女子王座を獲得。マネージャーでは主にヒールのポジションに回り、WWFではランディ・サベージやショーン・マイケルズ、WCWではリック・フレアーやブッカー・Tなどのトップスターを担当した。現在のWWEで活躍するディーヴァの礎を築いた人物である。

来歴

初期 / AWA

少女時代はサーカスのピエロになろうと家出をしたこともあるが、ビル・ワットらが運営していた地元ミッドサウス・エリア(ルイジアナ、ミシシッピ、オクラホマ)のプロレスを見てプロレスラーになることを決意。ナイトクラブで働きながらプロレスラーのブッチ・ムーアのトレーニングを受け、1979年にはファビュラス・ムーラのプロレスリング・スクールに入門、翌1980年にデビューする。ジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーが主宰するメンフィスのCWAなどでキャリアを積み、1982年1月には全日本女子プロレスに初来日している。

1985/9/28よりバーン・ガニアのAWAに登場し、デビュー戦でキャンディ・ディバインを破りAWA女子王座を獲得した。1986年からは男性ヒールのマネージャーも兼任し、バディ・ローズとダグ・サマーズの金髪コンビと結託、ミッドナイト・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)を相手にAWA世界タッグ王座を巡る抗争を繰り広げた。女子王者としての活動も並行させ、1987/5/2にはメデューサ・ミセリーを相手に女子王座を防衛している。なお、同時期にスーパー・ニンジャのリングネームでAWAに遠征していた高野拳磁とは同じアパートに住んでいたという。

WWF

1987年下期より、ジェシー・ベンチュラの仲介でWWFに移籍。当初はベビーフェイスとして登場し、7/24のデビュー戦で師でもあるファビュラス・ムーラからWWF女子王座を奪取、以降1988/10/7にロッキン・ロビン(ジェイク・ロバーツの妹)に敗れるまで、1年以上に渡って同王座を保持した。

その間にヒールに転向し、1988年初頭にホンキー・トンク・マンの恋人役、ペギー・スーPeggy Sue)に変身。このネーミングはホンキーのギミックに合わせ1950年代のロックンロールの曲名から付けられたもので、コスチュームもフィフティーズ調だった。

以降は本格的に男性レスラーのマネージャーを務めるようになり、1989年のレッスルマニアV以降はエリザベスとの決別でヒールターンした"マッチョマン" ランディ・サベージと合体。センセーショナル・シェリーSensational Sherri)の名前で毒々しいメーキャップを施し、ハルク・ホーガン&エリザベスとの熾烈な抗争を展開する。1989年にサベージがジム・ドゥガンを破りマッチョ・キングを名乗るようになってからは、自身もクイーン・シェリーSensational Queen Sherri)と改名し、サベージとの "キング&クイーン" として悪名を轟かせた。

1990年4月13日には東京ドームで行われた日米レスリングサミットに来日。サベージ対天龍源一郎戦のセコンドに付き、サベージを援護射撃して試合を盛り上げた。試合中、彼女の騒々しさに業を煮やしたゲスト・アナウンサーの徳光和夫と一触即発の状態にもなっている。

1991年3月24日のレッスルマニアVIIでサベージがアルティメット・ウォリアーとの敗者引退マッチに敗れると、サベージを見限って"ミリオンダラー・マン" テッド・デビアスと合体。100万ドルに目がくらんだ悪女となり、ロディ・パイパーやバージルとの抗争に介入した。

1992年からはAWA時代からの盟友でもあるショーン・マイケルズのヒールターンに伴い、若いツバメの姐さん的な存在となって年下のマイケルズと合体。マーティ・ジャネッティとのロッカーズを解散し、"ボーイ・トーイ" の新キャラクターでシングル転向を果たしたマイケルズの売り出しにおいて重要な役割を担う(マイケルズのテーマ曲『Sexy Boy』の1stバージョンはシェリーがボーカルを担当していた)。同年夏には"ザ・モデル" リック・マーテルとの浮気アングルもあったが、インターコンチネンタル王座を巡るマイケルズとブレット・ハートの初期抗争にも関わり、彼のヒール人気を醸成させた。

1993年、マイケルズが前パートナーのマーティ・ジャネッティに急襲された際にシェリーを盾に使ったことで、彼との関係に亀裂が生じベビーフェイスに転向。ジャネッティやタタンカなど、マイケルズの抗争相手のセコンド役を買って出ることもあった。同年はWWFの提携団体だったジェリー・ローラーのUSWAにも転戦し、レスラーとしてミス・テキサスと対戦している。また、USWAではローラー対ランディ・サベージの抗争にも介入し、サベージとのコンビを一時的に復活させた。その後、WWFではルナ・バションと抗争するが、ドラッグテストに引っ掛かり1993年夏にWWFを解雇される。

WCW

WWF解雇後はジム・コルネットのSMWやポール・ヘイマンのECWを経て(この間、タミー・リン・シッチやマリア・ホサカと抗争)、1994年にセンシュアス・シェリーSensuous Sherri)の名前でWCWに登場。リック・フレアーのマネージャーとなり、同時期にWCWに移籍してきたハルク・ホーガンやスティングとの抗争をサポートした。

その後、シスター・シェリーSister Sherri)と名乗り黒人タッグチームのハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカー・T)を担当、彼らをWCW世界タッグ王者に導いた。1995年下期にはハーレム・ヒートのライバルチームだったディック・スレーター&バンクハウス・バックのマネージャー、カーネル・ロバート・パーカーとの恋愛アングルが組まれ結婚式も執り行われるが、メデューサの乱入で式はぶち壊しになり、以降はレスラーとしてメデューサとの抗争を展開した。

1996年からは再びハーレム・ヒートと合体し、nWoのジ・アウトサイダーズ(ケビン・ナッシュ&スコット・ホール)とのタッグ抗争にも介入。1997年にはフォー・ホースメンのマネージャーだったデブラ(2000年にストーン・コールド・スティーブ・オースチンと結婚し、後に離婚したデブラ・マーシャル)とのキャットファイトも行うが、同年夏、エリック・ビショフとの軋轢がもとでWCWを離脱する。

なお、1995年初頭には貴族ギミックのブルー・ブラッズ(ロード・スティーブン・リーガル&ジャン=ポール・レベック)のマネージャーになるというストーリーも企画されたが、レベックのWWF移籍により実現しなかった。

晩年

1990年代後半からはインディー団体を中心に活動し、1999/7/17にミネソタ州のAWAスーパースターズ・オブ・レスリングで新設のAWA女子王者に認定された。2000年には短期間WCWに復帰し、メデューサと試合を行っている。

2002/7/12にはWWEの下部団体OVWに出場、ロブ・コンウェイのマネージャー役を務め、ビクトリアと争う。2005/3/24の『スマックダウン』では、レッスルマニア21に向けてのショーン・マイケルズ対カート・アングルのプロモーションにおいて久々にWWEへ登場、リング上でカートとスキットを演じた。翌2006年4月、WWE殿堂に迎えられている。同年9月にはTNAにも登場した。

2007/6/15、過失による過量投薬のためアラバマ州バーミングハムの母親の自宅で死去。49歳没。晩年は腰痛に悩まされ、オキシコドンによる薬物治療を行っていた(前年、腰痛の悪化によりROHからの出演オファーを断っている)。葬儀にはブッカー・Tとシャーメル、ショーン・マイケルズ、マーティ・ジャネッティ、メデューサ、ジェイク・ロバーツなど、かつての仲間たちが参列した。

獲得タイトル

  • AWA女子王座:3回
  • WWF女子王座:1回
  • AWA女子王座(AWAスーパースターズ・オブ・レスリング版):1回
  • WWE Hall of Fame:2006年度(プレゼンターはテッド・デビアス)

担当選手

  • バディ・ローズ
  • ダグ・サマーズ
  • ケビン・ケリー
  • ホンキー・トンク・マン
  • ランディ・サベージ
  • テッド・デビアス
  • ショーン・マイケルズ
  • タタンカ
  • テリー・ファンク
  • シェーン・ダグラス
  • ケビン・サリバン
  • ジェイク・ロバーツ
  • リック・フレアー
  • ハーレム・ヒートスティービー・レイ & ブッカー・T
  • ロブ・コンウェイ

etc.






ビッグ・ショー/ザ・ジャイアント
Big Show/The Giant
1972/2/8 

ポール・ワイトPaul Wight )は、アメリカ合衆国サウスカロライナ州アイケン出身のプロレスラー。)のリングネームで知られる。

その体の大きさで有名なレスラーで、身長213cm、体重200kgの巨体を誇る。現在はWWEに所属。

来歴

WCW

大学まではバスケットボールの選手として活躍。ハルク・ホーガンにスカウトされ、ラリー・シャープのプロレスラー養成所「モンスター・ファクトリー」で7か月間に渡ってトレーニングを積む。その後、WCWのトレーニング機関であるWCWパワープラントでの再トレーニングを経て、1995年にプロレスデビューを果たす。

WCWでの公式デビュー戦(10/29)でいきなりホーガンからWCW王座を奪取する快挙を見せた。WCW時代のリングネームはザ・ジャイアントで、アンドレ・ザ・ジャイアントの息子と称していた。翌年4月にはリック・フレアーを破り二度目の王座を獲得したが、同年7月よりWCWでnWoが結成されるとホーガンに王座を奪われた。自身もnWoに加入、程なくして脱退後は正規軍側の主力として活躍を見せる。

提携先の新日本プロレスにも招聘され、巨体ながらコーナーポストからのミサイルキックを放つなど、運動能力の高さを見せていた。

WWF/WWE

1999年2月にWWF(現在のWWE)に移籍。当時ヒールとしてストーンコールド・スティーブ・オースチンと抗争中であったビンス・マクマホンの刺客として、突如リングの下からマットを破って表れるという衝撃のデビューであった。WWFに移籍後、リングネームを"ビッグ・ショー"ポール・ワイトに変更。このニックネームが後に正式なリングネームとなり、現在も用いている。このころにはホーガンのパロディを演じるなど、コミカルなキャラクターの一面を見せていたことがある。

10月にはトリプルH、ザ・ロックとの試合を制し WWF世界王座を奪取。ジ・アンダーテイカーとのタッグやビッグ・ボスマンとの抗争後、2000年に体重オーバーを理由に一時OVW行きを宣告された。

2002年の番組分割時にRAWにドラフト6位で指名されるが、同年秋に当時GMのエリック・ビショフとの衝突によりSmackDown!へ移籍する。ポール・ヘイマンと組んでブロック・レスナーを破りWWE王座を奪取。

2005/2/5のテレビショーさいたまスーパーアリーナ大会「ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOUR」において、観戦していた曙を、「日本のビッグ・ショー」と公言して意気投合。同年4/3のレッスルマニアにおいて曙とスモー・マッチを実現。7月のハウス・ショーさいたま大会ではタッグも組んでいる。

2005年のドラフトにてにRAWに移籍。タブー・チューズデイではケインと組み、世界タッグ王座を獲得した。

2006年、スピリット応援団に世界タッグ王座を奪われるとケインと仲間割れ、その頃ケインは「5/19(メイ・ナインティーン)」という言葉を聞くと状況に構わず逆上してみせるようになり、これをアングル化してケインと抗争。その後WWE vs ECWの抗争が始まると、WWEを裏切りECWの仲間入りを果たした。

ECW移籍

その後、ECW世界ヘビー級王者のロブ・ヴァン・ダムに挑戦。ロブ・ヴァン・ダムのマネージャーについていたポール・ヘイマンの裏切りを受けて、同王座を獲得。WCW、WWE、ECW全ての世界王座を獲得した唯一の選手となった。ECW入りしてからは、ECW本来の環境に親しみ、流血戦とも真っ向から向き合うようになった。

マクマホン親子の用心棒としてD-Xとも抗争。12月3日の新生ECW初の単独開催PPVECW ディセンバー・トゥ・ディスメンバーの6人参加凶器エリミネーション・チェンバー・マッチでボビー・ラシュリーに敗れ王座を失い、直後の12/7のECWでのラシュリーとの再戦に敗れリングから姿を消す。この裏には以前から苦しんでいた背中の痛みの問題があった。

WWE復帰

2007年2月末にWWEとの契約が満了し、その後、2007/4/27に米テネシー州メンフィスで行われたハルク・ホーガンの自主興行で復帰するも、レッグドロップからの3カウントで敗北。

2008年2月に行われたノー・ウェイ・アウトにてWWEへ復帰。そのリング上でプロボクサーのメイウェザーに顔面を殴られ鼻を骨折させられた このことからメイウェザーとの抗争に入り、レッスルマニア24で対戦したがメリケンサックで顎を殴られ敗北した。9月のアンフォーギヴェンでヴィッキー・ゲレロを葬ろうとしたジ・アンダーテイカーを殴打してテイカーを失神させた。それによりテイカーとの抗争を開始し、10月ノー・マーシーでも、テイカーに勝利し、トリプルHの持つWWE王座への挑戦権を得るが、王座戦でテイカーの乱入により王座奪取に失敗する。サイバー・サンデーではファンの投票によりラストマン・スタンディング・マッチでテイカーと勝負が決定するが敗れる。その後のスマックダウンで金網戦でテイカーに敗れ抗争は終了する。

2009年のドラフトでRAWへ移籍し、この少し前から対立状態にあったジョン・シナと本格的に抗争を開始する。この抗争はエクストリーム・ルールズで決着がつき、以降はUS王者のコフィ・キングストンに狙いを定める。

7月のナイト・オブ・チャンピオンズでは6パック・チャレンジ形式のUS王座戦への参加が決定していたが当日の第一試合の統一タッグ王座戦のクリス・ジェリコのパートナーと発表され、ジェリコと共にレガシーから王座を防衛する(6パック・チャレンジ形式のUS王座戦には代わりにプリモが出場)。翌日のRAWではゲストホストを務めたシャキール・オニールと険悪な関係になり、統一タッグ王者組とクライム・タイムのメイン戦(ビッグ・ショーの反則負け)後に特別審判員を務めていたシャックと掴み合いになるが、リング外に突き飛ばされた。

10月にはジェリコを破り、ブラッギング・ライツの番組対抗戦のチームRAWの一員となる。対するチームスマックダウンの主将がジェリコであったため、一時的に両者の関係が微妙なものとなった。しかしPPV当日、試合終盤で突如チームメイトであるコフィ・キングストン、トリプルHを立て続けに襲撃し、結果的にジェリコ率いるチームスマックダウンを勝利に導いてしまう。翌日のRAWでは、スマックダウンの勝利をアシストしたためにジ・アンダーテイカーの世界ヘビー級王座戦第一挑戦者となったことを明かした。11月のSurvivor Seriesでトリプルスレット形式の王座戦に挑んだが王座獲得とはならなかった。7月の統一タッグ王座獲得以来様々なタッグを相手に王座を防衛してきたが12月のTLC:Tables, Ladders and ChairsでのTLC戦でD-ジェネレーションXに敗れ王座を失った。

2010年の2月にはザ・ミズとタッグを組み再び統一タッグ王者となる。しかし4月26日のRAWでハート・ダイナスティに敗れ王座を失う。そして同日行われたドラフトでスマックダウンに移籍するとともにベビーターンする。

移籍後はCMパンクが丸坊主を隠すために被っていたマスクを剥ぎ取ったことをきっかけに、ストレート・エッジ・ソサエティ(CMパンク & ルーク・ギャローズ & セリーナ & ジョーイ・マーキュリー)と抗争を開始する。8/15のサマースラムでパンク & ギャローズ & マーキュリーとの1対3のハンディキャップ・マッチに臨み、勝利した。その後もパンクらを圧倒して抗争は終了した。

スタイル

ストーリーに応じてヒール、ベビーフェイスとどちらの役割も演じている。ハルク・ホーガンのモノマネを得意とし、ベビー時には「ショースター」なるパロディキャラに変身したこともある。

スマックダウンでは、その巨体のため、ブロック・レスナーやジョン・シナとの抗争の中彼らに投げられることが試合の見所となっていた。中でも、2003年6月・フロリダ州オーランド大会での対レスナー戦において雪崩式ブレーンバスターで投げられた直後、リングが崩壊したシーンは今もなお語り草となっている。後にプロレス上の演出であると言う事をWWEのシェイン・マクマホンが説明しているとはいえ、この事態は世界プロレス史上初の出来事である(リングに穴が開くことはよくある)。

WWE退団後は体の負担を和らげるため減量に励み体重を約100lb(約30kg)落とすことに成功、シャープな体系へと変貌していた。しかしメイウェザー戦を控え計量したところ既に20kg増量していた。

かつてインタビューで「自分も(アンドレら過去の巨人レスラー同様)長生きはできないことを悟っている」と述べた。

入場曲

  • Crank It Up(Brand New Sin) - 現在使用中
  • Big

エピソード

  • そのキャリアにおいて二度リングを破壊している。
  • 一時期スーツを着用していたがその巨体ゆえおそらく特注だと思われる。
スーツ自体はエディ・ゲレロによるバキュームカー事件により着られなくなってしまった。
  • 既婚者である。
  • 運動神経とレスニングテクニックが優れており、若い頃はドロップキックやムーンサルトプレスを披露しており現在もできるとのこと。しかしバスケットボール対決ではJBLに敗北している
  • 尊敬する人物としてアンドレ・ザ・ジャイアントとリック・フレアーを挙げている。リック・フレアーの引退セレモニーではバックステージで涙を流しながらフレアーに感謝の言葉を述べた。
  • 俳優業もこなしドラマ、映画にも出演している。イメージとして「大きくて見た目は強そうだが、どこか間抜けで憎めない」としてコメディを担当していることが多い。

タイトル履歴

WCW
  • WCW王座 : 2回
  • WCWタッグ王座: 3回(w / スコット・ホール、スティング、レックス・ルガー)
WWE
  • WWE王座 : 2回
  • ECW世界ヘビー級王座 : 1回
  • US王座 : 1回
  • WWE・ハードコア王座 : 3回
  • WWE世界タッグ王座 : 3回(w / ジ・アンダーテイカー×2、w / ケイン×1)
  • WWE・統一タッグチーム王座 : 2回 (w/ クリス・ジェリコ、ザ・ミズ)





秀吉
1977/2/8

日本のプロレスラー。大阪プロレス所属。豊臣秀吉をモチーフとした覆面レスラーであり、マスクやコスチュームも鎧兜をモチーフとしている。正体および本名は不明とされているが、望月成晃、ドン・フジイ、ビリーケン・キッドが九州で秀吉と戦ったことがあると話していること、体格や技が酷似していることなどから、その正体はかつてプロレスリング華☆激などに所属していた川内 大裕であるといわれている。

来歴

ここでは正体とされる川内大裕についても記す。

川内大裕

1977/2/8、福岡県福岡市に生まれる。プロレスリング華☆激に入門し、1998/10/25、福岡県矢部村村民体育館における婆沙羅戦でデビュー。華☆激にとっては初の地元出身&生え抜き選手であり、ファンの人気も高かった。その後、2001年に華☆激を退団、フリーとなり、レッスル夢ファクトリー、プロレスリング・ナイトメアなどにも参戦。また、このころに華☆激のリングで、後にタッグパートナーとなる政宗(当時のリング名はMASAMUNE)とタッグを組み勝利したり、2004年にはアステカとのタッグで佐々木健介と対戦するなど活躍する。しかし、2005年以降リングでの活動が途絶える。

秀吉として大阪プロレス参戦〜その後

2005年4月に秀吉として政宗とのタッグチーム「戦国」で大阪プロレスに参戦。大鷲透率いるヒールユニット「武侍漢」のメンバーとして活動。7月には政宗とのタッグで大阪プロレスタッグ王座を獲得。

2006年1月からはベンダバルのメンバーとして活動。8月にはビリーケン・キッドとのタッグで2度目のタッグ王座を獲得。

2007年2月には政宗とのタッグで3度目のタッグ王座獲得。4月には政宗と共にベンダバルを裏切りバッドフォースに加入。

2008年にバッドフォースが発展的解散してからは政宗と共にタイガースマスクの誘いを受けて正規軍に加入。7月26日、タイガースを破り、初の大阪プロレス王座戴冠を果たした。10/26、政宗を相手に大阪プロレス王座を防衛。試合後、政宗がルード軍に加入を表明するも、秀吉は正規軍に残ることを選択。「戦国」は一時解散となる。その後の天王山では準決勝進出を果たすも、ブラックバファローに敗れ決勝進出はならなかった。

2009/2/15、大阪ハリケーン2009で前年天王山を制したビリーケン・キッド相手に大阪プロレス王座防衛戦に臨むも、ビリーケン・キッドに敗れ大阪プロレス王座を失う。その後、ルード軍を離脱した政宗と共に「戦国」を復活させる。大阪タッグフェスティバル2009に政宗とのタッグで参戦し、6/28、ヲロチ、タダスケ組との優勝決定戦を制し、タッグフェスティバル優勝。7/18、政宗とのタッグで4度目のタッグ王座獲得。10/18、松下IMPホールでディック東郷の大阪プロレス王座に挑戦。ジャックハマー、刀狩で王者を追いつめるが、LOVのセコンドの妨害もあり、奪取することはできなかった。

獲得タイトル

  • 大阪プロレス王座(第14代。防衛2回)
  • 大阪プロレスタッグ王座(第11、14、16、23代。パートナーは14代ビリーケン・キッド、11、16、23代政宗)

  



朱里
1989年/2/8

日本の女子プロレスラー、格闘家。本名、近藤朱里。神奈川県海老名市出身。血液型A型。

経歴

日本人の父親とフィリピン人の母親の間にハーフとして生まれる。

神奈川県立深沢高等学校卒業。空手初段。

ハッスルオーディションを経て、2008/10/16のハッスル後楽園大会で、レイザーラモン行きつけの喫茶店「ともだち」のアルバイトとして初登場(マスターはほんこん)。2008/10/26のハッスル栃木大会(宇都宮市清原体育館)でプロレスデビュー。リングネーム「KG」(「Karate Girl」の略)はレイザーラモンRGにより命名。

2009/12/11、JEWELS初参戦となったJEWELS 6th RINGでシュートボクシングルールの試合に出場、キャッチポイントを2度奪うなど終始攻め続け、3-0で判定勝ち。

2009/12/20、「ジュエルス1周年記念パーティ&表彰式」が開催され、新人賞を受賞した。

2010/2/13、シュートボクシング興行で風香の格闘技引退試合の相手を務め、2-0で判定勝ち。

その後ハッスルの大量離脱騒動によりSMASHに移籍し、リングネームを朱里に改名。3/26、SMASH旗揚げ戦で里村明衣子と対戦し、スリーパーホールドで敗北した。

2010/5/29、SMASH.3新宿FACE大会にて、観戦していた華名と乱闘になり遺恨が発生。

2010/6/25、SMASH.4新宿FACE大会のメインイベントにて華名と対戦して勝利し、話題を呼ぶ。

2010/7/24、SMASH.5新宿FACE大会にて華名と再戦し、短時間で敗れる。

2010/10/30、SMASH.9新宿FACE大会で試合後にアイスリボンのさくらえみとの対戦を希望し、さくらの入場曲でダンスを踊って対戦をアピールするという前代未聞のパフォーマンスを行った。

2010/11/5、19時女子プロレスにゲストMCとして出演し、ここでもさくらのSMASH.10JCBホール大会への出場を直訴し、再びリング上でダンスを披露する。このダンスに感激したさくらは出場を受諾。同日夜に朱里&華名組対さくらえみ&米山香織(JWP女子プロレス)組が決定した。

2010/11/22、SMASH.10JCBホール大会にて行われたさくらえみ&米山香織組とのタッグマッチでは、ローンバトルを強いられる苦戦の末、右のハイキックでさくらから直接フォールを奪い勝利する。試合後には米山から、もし防衛し続けていたらJWP認定無差別級王座をかけたシングルマッチで闘おうと約束をされ、朱里もこれに応じた。また、華名からは改めて敵対関係に戻ることを告げられる。

2010/12/24、SMASHのスピンオフ興行「ハプニングEve'」新宿FACE大会にて、メインイベントで米山香織の持つJWP無差別級選手権に初挑戦したものの、敗れる。

入場テーマ曲

  • Theme of Sakura -SFIVArrange- (ストリートファイターIV オリジナル・サウンドトラック)

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