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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
2/10



マンモス鈴木
1941/2/10 -1991/5/24





アポロ菅原
1954/2/10

日本のプロレスラー。本名は菅原 伸義。秋田県男鹿市出身。

経歴

高校時代は秋田工高に属してレスリングを始める。1971年の第26回黒潮国体(和歌山県)でレスリング少年の部優勝(フリースタイル81kg級)。またインターハイでは75kg以上級において準優勝の成績を残した。

国際プロレス所属として1979/9/17、福岡大会でのvs高杉正彦戦にてデビューするが、国際プロレスの倒産により1981年に全日本プロレス所属となる。だが、当時の全日本プロレスが選手の飽和状態だったため、1986年3月に人員整理により剛竜馬・高杉正彦と共に解雇される。

1988年に剛竜馬・高杉正彦と共にパイオニア戦志を旗揚げするものの、元横綱双羽黒の北尾光司がプロレス入りした際にコーチ役を務めていた縁から、1990年に新日本プロレスの所属となったが、同年に旗揚げされたSWSに移籍し、『道場・檄』に所属。鈴木みのるとのシングルマッチを行うが、不可解な試合放棄をして問題となる。

その後、SWSが崩壊したため、当時の『道場・檄』『パライストラ』のメンバーと共に1992年に旗揚げされたNOW所属となるが、NOWの活動停止に伴い 1993年にフリーランスになる。

1994年に活動を再開した新生NOWの所属となるが、新生NOWが再び活動を停止したことに伴い、同年中に新東京プロレス所属となる。

その後、東京プロレスが活動を停止したことにより、1996年に再びフリーランスになり、現在はインディー団体を中心に活動している。

たけしプロレス軍団のコーチ役も務めたことがある。


 
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浦井百合
1984/2/10

日本の元女子プロレスラー。身長166cm、体重59kg、血液型O型。神奈川県川崎市出身。

経歴

帝京大学時代は女子では珍しい学生プロレスの紅一点「新百合ヶ丘超特Q」として活躍。ガッツワールドに入門後2006/3/11の新木場1stRING大会で救世忍者乱丸相手にデビュー。デビュー後わずか1ヵ月で格闘美の「LEAGUE PRINCESS」に出場し注目を集めた浦井は、恵まれた体格とルックス、褐色(地黒)の肌の「ゴツカワ系女子プロレスラー」として、ホームのガッツワールド、レギュラー参戦の格闘美を始め、NEO女子プロレスや息吹などにも参戦。

同年12/2に先輩優菜の引退試合でシングル初勝利。翌2007/1/20には一宮章一、ダイスケと組んで「GWC認定6人タッグ王座」を獲得。4月からは第2回「LEAGUE PRINCESS」にただ1人2大会連続で出場、6/17の優勝決定巴戦に駒を進めたが中島安里紗に敗れ優勝を逃した(もう一人は松本浩代)。しかし、実質的な主戦場だった格闘美が7/16で活動停止。各女子団体や男子団体、キャットファイトに参戦するなどしたが、2008/10/19、ガッツワールド新宿FACE大会を以て引退した






デビッド・フォン・エリック
David Von Erich
1958/7/22 - 1984/2/10

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はデビッド・アレン・アドキッセンDavid Allen Adkisson)。「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックの息子(三男、レスラーのエリック兄弟としては次男)であり、兄弟の中では一番の長身だった。

来歴

高校ではバスケットボールのスター選手であり、アメリカンフットボールの選手でもあった。ノーステキサス州立大学に進学するも、レスラーになるために退学。1977年にデビューした。1979年5月に全日本プロレスに初来日。1981年5月の再来日では兄ケビンとのタッグでグレート小鹿&大熊元司からアジアタッグ王座を奪取したが、シリーズ中に石川隆士&佐藤昭雄に破れ短命王者に終わった。

次期NWA世界ヘビー級王者の最有力候補とされ、ハーリー・レイスやリック・フレアーに何度となく挑戦。1983/9/16にはセントルイスのキール・オーディトリアムでフレアーを破り、NWA世界王座への登竜門であるミズーリ・ヘビー級王座を獲得した。地元ダラスのWCCW(World Class Championship Wrestling)ではエース格として活躍し、看板タイトルのテキサス・ヘビー級王座には、ブルーザー・ブロディ、ジノ・ヘルナンデス、マーク・ルーインらを下し通算8回に渡って載冠している。

1984年2月、UNヘビー級王座を携え来日。天龍源一郎の挑戦を受ける予定であったが、2/10に急死。死因には諸説ある(全日本プロレスの公式発表では「内臓疾患」)。

2009/4/4、フォン・エリック・ファミリーとして父や兄弟たちと共にWWE殿堂入り。プレゼンターは1980年代前半にダラスで抗争を繰り広げたフリーバーズのマイケル・ヘイズが務めた。

幻のNWA世界ヘビー級王者

デビッドは1984年1月に次のNWA世界ヘビー級王者に推挙され、4月にベルトを巻くことが決定していたが、実際に王座を獲得する前に死去した。リック・フレアーは自著『To Be The Man』の中で、デビッドがチャンピオンとなっていれば長期政権を築くことができたであろうと記述している。

1984/5/6、デビッドの弟ケリー・フォン・エリックはテキサス・スタジアムでフレアーを破りNWA世界王座を獲得した。これは、存命であればフレアーを破りNWA世界王者となるはずであったデビッドに捧げられたものであると考えられている。ケリーはその18日後、フレアーに王座を明け渡している。

獲得タイトル

NWA
  • NWA北米タッグ王座(フロリダ版):1回(w / ドリー・ファンク・ジュニア)
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
  • NWAフロリダTV王座:1回
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:1回
WCCW
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:8回
  • NWAテキサス・タッグ王座:2回(w / ケビン・フォン・エリック)
  • NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / ケビン・フォン・エリック)
  • NWA世界タッグ王座(テキサス版):1回(w / ケビン・フォン・エリック)
  • NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):2回(w / ケビン&ケリー・フォン・エリック)
全日本プロレス
  • アジアタッグ王座:1回(w / ケビン・フォン・エリック)
  • UNヘビー級王座:1回





カート・ヘニング
Curtis Michael Hennig
1958/3/28 - 2003/2/10

アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州ロビンズデール出身。なお、姓のスペリングにおいてHenningは誤り(読みも「ヘニグ」が原音に近い)。

第34代AWA世界ヘビー級王者。WWEではミスター・パーフェクトMr. Perfect)のリングネームでも活躍した。父はAWAなどで活躍した名レスラー、ラリー・ヘニング。息子のジョー・ヘニングもプロレスラーである。

来歴

父ラリーとバーン・ガニアのコーチを受け、1980年1月にデビュー(兄ランディはレスラー志望ではなかった)。ルーキー時代は太平洋岸北西部(オレゴン州、ワシントン州)に拠点を置くNWAパシフィック・ノースウエスト・レスリング(PNW)に所属。

1984年、父が主戦場としていたAWAに参戦。当時はWWF(現WWE)によるハルク・ホーガンを始めとするスター選手の大量引き抜き直後だったこともあり、早くから頭角を現して1986/1/18、スコット・ホールとのコンビでAWA世界タッグ王座を獲得。AWAの次代の主役候補と期待され、1987/5/2にはニック・ボックウィンクルを破ってAWA世界ヘビー級王者となる。しかし翌1988/5/9、ジェリー・ローラーにタイトルを奪われると自身もAWAを退団し、WWFに移籍した。

デビュー以来ベビーフェイスのポジションにいたが、WWFでは「何をやっても完璧な男」というギミックが与えられ、ミスター・パーフェクトの名でヒールとして登場。初期はザ・ジニアス(ランディ・サベージの実弟ラニー・ポッフォ)、後にボビー・ヒーナンをマネージャーにヒールサイドのトップグループに迎えられ、1990年8月には王座決定トーナメントの決勝でティト・サンタナを下しインターコンチネンタル王座を獲得。タイトルは一度テキサス・トルネードに奪われるが奪回し、サマースラム'91ではブレット・ハートを相手に防衛戦を行った。試合には敗れたものの、この試合はWWE史・プロレス史に残る名勝負として名高い。

しかし、この頃から首などの怪我に悩まされ始め、WCWから移籍してきたリック・フレアーのマネージャーやテレビ放送のコメンテーターなどを主に務めるようになる。その後も生涯ケガによる長期欠場と復帰を繰り返した。ケガが多くなってからはコーチとしても活動。ブロック・レスナー、ドン・フライ、ブライアン・ジョンストンらが教えを受けている。また、一時期は貴族ギミック時代のトリプルH(ハンター・ハースト・ヘルムスリー)のマネージャーも担当していた。

1997年、ライバル団体WCWに移籍。USヘビー級王座の獲得、nWoやフォー・ホースメンへの加入、バリー・ウインダムらとのカウボーイ系ユニット「ウエスト・テキサス・レッドネックス」(世界タッグ王座も奪取)などで活躍した後、2000年夏に退団。

2002年、ロイヤルランブル2002でWWEに復帰。同大会のロイヤルランブル・マッチでは最後の3人まで残るなど大活躍したが、わずか3か月後に退団。その後は当時旗揚げされたばかりのTNAに参戦した。

2003/2/9、試合出場のため訪れていたフロリダ州タンパのホテルで急死。怪我による鎮痛剤の過剰な服用が死因とされる。

2007年4月にはWWE殿堂入りを果たした。同年には息子のジョー・ヘニングがハーリー・レイス指導の下、WLWでプロレスラーとしてデビュー。その後WWEと契約し、現在は下部団体のFCWで修行中である。

日本には、1983年11月に新日本プロレスに初来日。MSGタッグリーグ戦にてボビー・ダンカンのパートナーを務めた。1985年にはニック・ボックウィンクルのパートナーとして全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニア、スタン・ハンセンら大物に混じって新鮮なファイトが高く評価された(奇しくもボックウィンクルとは同じ年にWWE殿堂入りをしている)。以降も全日本に度々参戦し、1987年1月には新日復帰直前の長州力のPWFヘビー級王座に挑戦。1988年1月にはAWA世界ヘビー級王者として来日し、二代目タイガーマスクの挑戦を受けて防衛に成功している。WWF移籍後の1990年には日米レスリングサミットでリック・マーテルと元AWA世界王者コンビを結成、ジャンボ鶴田(こちらも元AWA世界王者)とタッグマッチで戦っている。

試合スタイル

投げ技・大技はほとんど使用せず、基本的な打撃技と関節技だけで試合を構成してしまうプロレス史上屈指の試合巧者。また受身の技術も高く評価され、ミスター・パーフェクトの名は伊達ではなかった。そのためプロレスの手本的存在として高くリスペクトを受け、ヘニングの試合を観戦してプロレスを勉強する若手選手も多かった。試合スタイルと同様、入場時に常に右手に持っていた白タオルは、バディ・ロジャースからニック・ボックウィンクル、そしてヘニングへと受け継がれたものである。

死後もなお多くの選手から賞賛を受けており、WWEの若手選手からも憧れの存在として名を挙げられることも珍しくない。ジェフ・ジャレットもインタビューで「史上最高の選手」を問われ彼の名を挙げている。

獲得タイトル

PNW
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:1回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:3回(w / ラリー・ヘニング、バディ・ローズ、スコット・マギー)
AWA
  • AWA世界ヘビー級王座:1回
  • AWA世界タッグ王座:1回(w / スコット・ホール)
WWF / WWE
  • WWFインターコンチネンタル王座:1回
  • WWE Hall of Fame(2007年)
WCW
  • WCW USヘビー級王座:1回
  • WCW世界タッグ王座:1回(w / バリー・ウインダム)
その他
  • WWCユニバーサル・ヘビー級王座:1回
  • FOWヘビー級王座:1回
  • MECWヘビー級王座:1回
  • i-ジェネレーション・ヘビー級王座:1回

逸話

WWE初登場時にはテレビでプロモーションビデオが流された(選手用に作られたのはこれが初めて)。内容はヘニングが野球、バスケットボール、ゴルフ、ダーツ、ボウリングなどで次々とスーパープレイを披露し、最後に「I'm Perfect.」と呟くものだったが、これは合成映像などではなく、すべて撮影時に実際にヘニングが(しかもほぼ1回で)決めてみせたものだ、というエピソードが残っている。


  

















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