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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
2/15



ロッキー羽田
1943/2/15 - 1991/10/27

日本の元大相撲力士、元プロレスラー。北海道厚岸郡出身。本名は羽田 光男(はた みつお)。

来歴

1965年1月、大相撲の花籠部屋に入門、四股名は「羽田」→「神龍」→「羽田」→「大厳威」。序ノ口優勝1回、最高位は幕下26枚目。1972年1月、日本プロレスに入門、同年5月、正式に大相撲を廃業する。1973年5月、日本プロレス崩壊により全日本プロレスに合流、1975年にアメリカ遠征し、オクラホマ・カンサス地区を主戦場にし活躍、その後凱旋帰国し1977年の世界オープンタッグ選手権には天龍源一郎とのフレッシュコンビで出場、1979年にはプロレス夢のオールスター戦で新日本プロレスの坂口征二と対戦。その後は目立った活躍もなく、伸び悩んだ末、内臓疾患で1987年に引退した。

1991年10月27日死去。43歳没。

テレビ出演

  • 探偵物語 第11話「鎖の街」(1979年、「ロッキー畑」名義で出演)





ミツ・ヒライ
1943/2/15 - 2003/10/28

日本の元プロレスラー。兵庫県神戸市出身。本名は平井 光明。息子の平井伸和もプロレスラー。

来歴

1958年に日本プロレスに入門、1964年にアメリカ遠征し、テネシーではトージョー・ヤマモトとのコンビでテネシー地区世界タッグを獲得している。1969年にはシンガポールに遠征しフジ・シンタロー(富士幸太郎)のリングネームで活躍した。

1970年のNWAタッグリーグ戦では、ジャイアント馬場とチームを組んで出場。日本プロレスの崩壊の後に全日本プロレスに所属し、1978/8/27に引退。

現役時代はドロップキックの名手として知られた。カール・ゴッチと対戦したこともある。

息子の平井伸和が地元神戸での全日本プロレスの興行に参戦した2001年6月、初めて息子の観戦に訪れプロレス誌にもその模様が記載された。その後2003年1月全日本プロレス大阪大会でも観戦。

2003/10/28、心不全で死去。享年60歳。


 
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ウルトラマンロビン
1965/2/15

プロレス界唯一の円谷プロダクション公認のプロレスラー。本名は尾内淳。身長152cm、体重90kg。

概要

イギリスのプロレス団体であるオールスター・プロレスリングでデビュー。フリーランスとしてFMWに参戦後、円谷プロ公認の覆面レスラー「ウルトラマンロビン」として活動を始めた。インディーズプロレス団体SGP(エス・ジー・ピィ)を設立し、エース兼代表を務め、名古屋を中心に活動している。

対戦相手はウルトラマン系の怪獣が多い。尾内淳隊員の状態で試合を行うこともあるがほぼ互角の戦いをしている。「1・2・3・ディスティニー」の掛け声で興行を締める。非常に動きが鈍く、レスラーとは思えないほどである。

チャンピオン・タイトル

  • IWA世界ミッド・ヘビー級





吉田万里子
1970/2/15

日本の女子プロレスラー。本名は盛田(旧姓:吉田)万里子。広島県尾道市(旧御調郡向島町)出身。身長163cm、体重65kg。血液型O型。

所属

  • 全日本女子プロレス(1988年 - 1997年)
  • アルシオン(1997年 - 2003年)
  • AtoZ(2003年)
  • フリー(2003年 - 2005年)
  • エスオベーション(2005年 - )

来歴

1988年、全日本女子プロレスに入団。翌年メキシコに短期遠征し、グラン・アパッチェの下でルチャリブレの技術を学んだ。帰国後、三角跳びプランチャなどの「マリポーサ殺法」と呼ばれた高度な空中技で注目され「好感度No.1」の評価を得た。

1992/7/5、後楽園ホールでのジャパン・グランプリ公式戦で、井上京子と対戦。この試合ではルチャをベースにした京子と吉田のレスリング・センスがまんべんなく発揮された、明るさ、楽しさと激しさが並び立った好試合であった。会場内で鬼ごっこしたり、トペにいこうとした京子を、リングの下を潜って反対側に行ったり、コーナーにレフェリーの村山大値と京子を追い込んで、京子にかけるつもりが京子に逃げられて、村山にバンザイ型のモンキー・フリップを敢行、すかさず京子がカウント3を入れる、といった見せ場があった。試合結果は30分フルタイムの引き分け。

1992年10月、頸椎損傷により1年10か月に及ぶ長期欠場を強いられる。この間にUWFインターナショナルの試合を観戦したのがきっかけで、空中技主体から関節技主体へファイトスタイルを変えることを決意、藤原喜明の門を叩く。

1994年8月に復帰後は、体調の問題や、自身の方向性と全女フロントの意向との板ばさみになるなどの要因から、同期の井上京子、井上貴子に比べ精彩を欠いていたが、1997年9月の全女退社、アルシオン入団を機に空中技を封印。サブミッション・レスラーに転身した。

アルシオンではアジャ・コングや浜田文子らを破ってシングルタイトル「クイーン・オブ・アルシオン」の初代王者に就き、サンビスト藤井惠との異種格闘技戦(2003/5/24)を敢行。リング外でも選手会長などの要職に就いた。

2003年7月にアルシオンが堀田祐美子率いるZ-SPIRITSに吸収されAtoZになるとそのままスライド入団するが、方向性の相違から同年12月に退団。

2004年4月、アルシオン旗揚げ時のメンバーの大向美智子や直弟子のAKINO、中西百重らとフリーランス集団M's Styleを結成。

2005年にあっては、米国カリフォルニア州を本拠地とするオール・プロレスリングという団体の主催する女子プロレスラーの選手権『チックファイト』に参戦し、最終的にチアリーダー・メリッサを破って優勝者の座に輝いた。更には翌2006年にもこの大会に参戦し、ミッキー・ナックルズを破って優勝している。

2005年の6月に初の主催興行「息吹」を開催。その際、吉田による任意団体とはせず、運営管理をチケット販売会社「株式会社エスオベーション」に委託し、同社は「息吹事務局」を発足させた。「息吹」では当初はやはりメインイベントを張ることが多かったが、2007/3/18の第13回を最後にメインを退いた。その後は中盤に出ることが多くなり、8/5の第16回では遂に第1試合に登場した。その後、2008年を最後に選手活動を一時休止し、以降は「息吹」のプロデューサーに専念する。

全女時代にはレフェリーとして試合を裁いたこともあり、息吹でもレフェリーとしてリングに上がる場合もある。

因みに、フジテレビアナウンサーの西山喜久恵とは同郷・同窓生であり、中学時代からの親友関係にある。選手名鑑での「好きな有名人」のアンケートでは、必ずと言っていいほど彼女の名前が挙がる。

人柄が良いことから、吉田を慕う後輩女子レスラーは少なくない。後輩レスラーらと一緒に練習をしており、専門誌などでは「吉田道場」と呼ばれている。

事故

1999/3/31、門恵美子との試合中に後頭部から落下した門が昏睡状態に陥り、4/9に死去した。

入場テーマ曲

  • 「FABLE」(ROBERT MILES)

Blog






藤田愛
1976/2/15

日本の元女子プロレスラー。岐阜県岐阜市出身。

経歴・戦歴

お笑い芸人を目指しNSCに入っていたがプロレスに転向、単身メキシコに渡り闘龍門などで修行を積みデビュー。日本に戻る前からプロレス誌で取り上げられる等、話題となっていた。当初はJd'での国内デビューが予定されていたが、条件等で折り合いがつかずJd'出場が中止となり、その後、アルシオン所属となった。1999/4/14日の後楽園ホール大会で、対AKINO・浜田文子組戦で国内デビュー(パートナーはキャンディー奥津)。

ガングロ天使」と呼ばれ、大向美智子とのコンビ「サイバージャンクス」で活躍した。打撃技、空中技、美麗なブリッジから繰り出すスープレックスには定評があった。

2001年にはボクシングに挑戦、IBF日本傘下の女子プロボクサーと引き分けた後、翌2002年に同じ選手と再戦し判定勝ちを収めた。この頃からプロレスにおいてもパンチを用いるようになる。

2003年6月にアルシオンがAtoZに吸収された後も引き続き所属していたが、同年12月に退団すると共に引退を表明。

2004/4/10、ディファ有明にて行われた「藤田愛引退興行」で、大向美智子と組んでライオネス飛鳥・アジャ・コング組と対戦し引退した。

引退後は一時期、後輩の前田美幸をマネージャーにタレント活動をしていた。

タイトル歴

  • WWWA世界スーパーライト級
  • ツインスター・オブ・アルシオン

入場テーマ曲

  • 「ANGEL NEGRITA」「ARSION MUSIC」に収録。

  



シリル・アビディ
Cyril Abidi
1976/2/15

フランスの元キックボクサー。マルセイユ出身。ニックネームは「フランスのケンカ野郎」、「マルセイユの悪童」。

概要

1999/6/5、スイスで開催されたK-1 FIGHT NIGHT '99でK-1デビューし、ピーター・マエストロビッチに判定勝ち。

1999/7/18、日本デビューとなったK-1 DREAM '99の予選トーナメントに出場。1回戦でカークウッド・ウォーカーに右ローキックでKO勝ちするも、準決勝でステファン・レコに判定負け。

2000年にピーター・アーツをKOで2度下し、ブレイクする。

2004/12/31、『K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!』ではボビー・オロゴンと対戦し、0-3の判定負け。当初ボビーの対戦予定であったマイク・ベルナルドが首の負傷により欠場し、代理出場となった。

2003/6/14、パリ大会終了後のセレモニーの最中に、雑誌のインタビューでバカにされたという理由でジェロム・レ・バンナに殴りかかるという騒ぎを起こし、グローブをつけていないバンテージを巻いた拳で顔面パンチ、ハイキックを打つがバンナはかろうじてかわした。これがきっかけで「怨恨試合」と題して2005/5/27の『K-1 WORLD GP 2005 IN PARIS』でバンナと初対戦。結果は5R終了間際、アビディのTKO負け。しかしこの試合の1週間前にバイクで転倒事故を起こし、致命傷には至らなかったものの首と左足に怪我を負っており、最悪なコンディションであった。そのため9月に、欠けた骨の破片くずを全て取り除く大掛かりな手術を受けた。

2006/3/5、ニュージーランド大会のOCEANIA GPで堀啓と再戦。2004/3/27にはアビディがKO勝利しているため、堀のリベンジマッチでもあった。しかし、試合が始まって間もなく、アビディが転倒した際、バイク事故で痛めていた左の足首をひねってしまう。それ以降は、根性で耐えながら闘っていたが、3R開始直前にセコンドからタオルが投入されTKO負け。

2007/3/4、K-1 WORLD GP 2007 IN YOKOHAMAで野田貢と対戦。2Rにスタンディングダウンを奪われ、判定負けを喫した。

ファイトスタイル

  • 真っ向勝負の喧嘩スタイルであり、ディフェンス面の甘さが見られる。
  • 気の強さと根性はK-1ファイターの中でもトップクラスと言われているが、ボブ・サップ戦など相手の猛攻に臆し対戦相手に背中を向けながらダウンしたり、心の弱さを露呈することもあり、気迫の波が激しい。





インリン・オブ・ジョイトイ
Yinling of Joytoy
1976/2/15

垠凌、台湾台北市出身で、現在は主に日本において活動するタレント、歌手、女優、アーティスト。歌手としてはビクターエンタテインメント所属。

プロレス活動

プロレス『ハッスル』の地上波放送で進行役を務めたことが縁で、2004年12月の『ハッスル・ハウス クリスマススペシャル』(12/24、後楽園ホール)より、悪役集団「高田モンスター軍」のナンバー2であり、同時に高田アマゾネス軍(モンスター軍の女子部門)のトップであるインリン様として登場。入場テーマ曲はモーリス・ラヴェルの『ボレロ』。

インリン様

インリン様はM字ビターン(M字開脚による洗脳)のスキルはきわめて高いものの、プロレス的意味における格闘技のスキルが無いために、「体の一部」として鞭の使用が許可されている。『ハッスル7』(2005/2/11、愛知県体育館)で、6人タッグマッチながら小川直也との異色の対決が実現、デビュー戦にして小川からM字固めでピンフォールを奪って勝利した。同年7月の『ハッスル11』(7/15、大阪府立体育会館)では川田利明ともタッグマッチで戦い、こちらはM字固めを回転エビ固めで返されピンフォールを奪われたものの、直前に投げ放った「体の一部である鞭がロープにかかっていた」として奇跡的なロープブレイク・無効試合の裁定が下っている。その後、『ハッスル・マニア2005』(11/3、横浜アリーナ)ではHGとの6人タッグマッチが組まれた。結果はHGがインリン様をHG三角絞めで失神させフォール勝ちし、「インリン様」は黄泉の国に旅立った。

それから暫く姿を消していたインリン様は、『ハッスル・ハウス クリスマススペシャル 涙のラストM字ビターン』(2005/12/25、後楽園ホール)にて「この世界で使えるM字パワーが底をついた」と引退を宣言、ロープにムチを掛けると『さよならの向こう側』に乗せて山口百恵のようにリングを去っていった。なお、この大会でインリン様が最後の力を振り絞って産み落とした卵であるイン卵様から孵化した生命体が、日本のプロレス界を根こそぎ壊滅させるだろうと高田総統は断言した。

プロレスラーとしてのインリンは「インリン様」というキャラクターを演じきり、なおかつ出場した3試合全てで大会のメインイベントを務めたかと思えば、同時にM字開脚によって「暇で(異性に)もてない」プロレスファンを洗脳するという、WWEに於けるディーヴァの役割を担っていたと言える(ちなみに彼女がリングサイドで他の試合を優雅な椅子に座り観戦する事を「インリン様がご覧になる試合」、略してイン覧試合という)。そのキャラクターの徹底ぶりや、屈強なプロレスラーを向こうに回しての大立ち回りという話題性、そして僅か一年という短い期間で電撃的な引退という印象的な活動をして、単なる色物としてではなく、れっきとしたプロレスラー「インリン様」として評価するファンも少なくない。 だが、受け身の一つも取れず、レスラーとはとても言えたものではないことも事実である。

東京スポーツ新聞社主催「2005年度プロレス大賞」にて「プロレス話題賞」受賞。

ニューリン様

その後、興行や会見で披露される度に鶏卵大~1メートル超にまで成長を続けた(通常、卵は産み落とされてから大きくなる事はない)イン卵様だが、『ハッスル16』(2006/4/20、大阪府立体育会館)のメインイベントにおいて孵化、インリンはイン卵様から生まれたニューリン様としてハッスルのリングに再登場。生後5分強?にして母の敵であるHGから勝利を奪った。またこの試合は(インリン様から通算して)自身初のシングルマッチであり、鋭いミドルキックを放ったり器用に丸め込んだりと、より戦闘的で凶暴なキャラクターに生まれ変わったという設定を表現するためにトレーニングを積んできた様子がうかがえる。

ニューリン様は母であるインリン様と比較して粗暴なキャラクターという設定であり、より攻撃的なファイトスタイルや下品な言葉遣いが特徴。コスチュームもピンヒールから動きやすいブーツに、また卵生であるが故、鳥類の羽をモチーフにした意匠が伺える。しかし粗暴なキャラは対外アピール向きではないとの判断からか、記者会見やイベント等には母であるインリン様が登場する場合が多い。

なおニューリン様はイン卵様の中に居た頃に、外部から何らかの衝撃を受けた影響で額に傷を負っており、その傷を隠すために顔半分を覆うマスクを着用している。その傷はモンスター軍が勝利する度に癒えていくという設定である。

『ハッスル18』(7/9、パシフィコ横浜 国立大ホール)のメインイベントで高田総統に反旗を翻しモンスター軍を離脱。その原因は、額の傷が高田総統によるものだと知ったためである。その後『ハッスル・ハウス17』(7月11日、後楽園ホール)でHGの呼び掛けに応えてハッスル軍に入団、ハッスルポーズとM字開脚を披露した。

『ハッスル・マニア2006』(11/23、横浜アリーナ)では、6人タッグマッチでカイヤを撃破するも、高田総統の化身ザ・エスペランサーのレーザービターンを受け右胸が爆発、意識不明の重体のうえ乳輪を失ってしまった。

再びインリン様

2007/2/16に都内で行われたハッスルの記者会見において、突如インリン様が復活。この直前に高田総統がハッスルを買収したことから、インリン様は「総統がハッスルを支配する以上、私がお手伝いするのは当然」と語り、3月に行われる『ハッスル・ハウス22』(3/15、後楽園ホール)及び『ハッスル21』(3/18、愛知県体育館)への参戦を発表した。なお、この際ニューリン様について「現在あるところに監禁されており、心変わりするまで外には出さない」とも語られた。

新たなイン卵様・プロレス引退

2007/6/17、『ハッスル・エイド2007』(さいたまスーパーアリーナ)においてグレート・ムタとの初対決が実現(インリン様&TAJIRI vs ムタ&RG)。魔界の住人相手に果敢に攻め込むも、M字固めを切り返された直後にM字パワーの源である股間へ毒霧を噴射され、ショックで失神KO。担架で運ばれる緊急事態となる(試合そのものはTAJIRIが3カウントを奪われて決着)。

その後7/11の『ハッスル・ハウス26』に来場、深刻なダメージは無い事をアピールしM字ビターンを披露しようとしたが、リング上で突然つわりに襲われ病院へ直行。検査の結果「ご懐卵」である事が判明する。前回のニューリン様が遺伝子上の父親を持たない、いわばインリン様の完全なクローンであったのに対し、今回の新・イン卵様は稀代の大ヒール、グレート・ムタの遺伝子をも引き継いでいるという形でいわゆる「カブキ一族」としては初の女性形となるものと予想されていたが、8/18の『ハッスル25』で生まれたのは曙に酷似したモンスター・ボノであり、インリンの化身ではなかった。

2008/5/24、ハッスルを引退し、同時にプロレス活動休止。タレント・芸能活動に専念することになった。

2009年2月、ギャラの未払い分の支払いを求めてハッスルを提訴。このインリンの提訴がきっかけとなって、ハッスルの資金難が表面化することとなった。






吉村道明
1926/9/19 - 2003/2/15

日本のプロレスラー。日本プロレス界の黎明期を支えた一人。火の玉小僧と呼ばれた。
現役引退後は、近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたった。岐阜県岐阜市出身。

来歴

プロレス界での活躍

14歳で大日本帝国海軍の志願兵となり、海軍通信学校高等科練習生を5番の成績で卒業。太平洋戦争に出兵。シンガポール駐留中に海軍相撲で活躍、終戦後に近畿大学へ入学し、相撲部に入部。学生横綱(1949年、史上2人目となる大学1年での優勝)、国民体育大会個人優勝など輝かしい実績を残す。

大学卒業後の1954年4月、大阪を本拠地として活動していた全日本プロレス協会(山口利夫が設立。ジャイアント馬場の全日本プロレスとは無関係)へ入団。1956年に全日本プロレス協会は崩壊するが、力道山にスカウトされて1957年5月に日本プロレスへ移籍する。移籍前の57/4/8、初代選手権者の駿河海を下して日本ジュニアヘビー級王座を獲得した。(日本プロレス移籍の経過については、門茂男「力道山の真実」角川文庫が詳しい。)

日本プロレスへ移籍後は、力道山の脇役であったが、軽快な身のこなしからの回転エビ固め等の得意技で人気者となる。また、若手レスラーの壁として立ちはだかり、デビュー間もないアントニオ猪木(当時は猪木寛至)との対戦成績は19連勝を記録している。1961年にヘビー級へ転向し、力道山のパートナーとしてタッグチームを組む機会も多くなり、大柄の外国人レスラーに血だるまで立ち向かう姿から「火の玉小僧」と呼ばれ活躍した。一人で相手の攻撃を受けまくる姿は、結果的に力道山をはじめとするタッグ・パートナーを引き立たせる効果もあげていた。また日本プロレス屈指の技巧派としても有名で、カール・ゴッチ、キラー・カール・コックスの初来日に際して第一戦の相手として起用されたのも吉村である。必然的にそれぞれの必殺技であるジャーマン・スープレックスとブレーンバスターを日本で最初に食ったのも吉村となった。なお、ゴッチは吉村を力道山より上だと評価しており、初来日の36年に13回、2度目の41年に1回対戦した。戦績は吉村の1勝3敗9引分1ノーゲームで、ゴッチから2フォール勝ちを奪った唯一の日本人である。

しかし、1963/12/15に力道山が不慮の事故で急逝。窮地に立たされた日本プロレスは、吉村、豊登、芳の里、遠藤幸吉を4幹部として再起を図るが、社長に就任した豊登の横領・放漫経営などで経営が悪化、1965年末に豊登を事実上追放し、ジャイアント馬場、アントニオ猪木をエースとする体制に移行する。新社長となった芳の里と遠藤は現役を引退して経営に専念したが、吉村は重役を兼務しながら現役を続行、アジアタッグ王座を長く保持し、馬場、猪木、大木金太郎と共に日プロ四天王と呼ばれ、中心レスラーとして活躍した。しかし、日本プロレスは1971年末に猪木が、翌年に馬場が相次いで離脱し新団体を設立したことにより崩壊。馬場の全日本プロレスにしばらく参戦した後の1973/3/3に母校の近畿大学記念館大会で引退している。(なお、猪木が離脱前後に「ダラ幹」として当時の幹部を批判した際、一番名指しされたのは彼である。)

団体のゴタゴタにもかかわらず、力道山の死後も吉村は選手としては、持ち前のテクニックを生かし、馬場、猪木、大木、坂口征二ら後輩レスラー達のパートナーとしてタッグタイトルを保持、46歳の引退まで奮闘した。選手晩年は火の玉小僧に変わり「闘将」と呼ばれた。

意外と知られてないのは、彼の人柄である。日本プロレス時代には縁の下の力持ちで現場監督の他、興行の業務処理などを担当していた。人格者であったので多くの後輩から慕われてきた。

プロレス引退後

プロレス引退後の吉村は、母校の近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたりながら事業にも取り組み、プロレス界からは完全に身を引き長く絶縁状態を貫いた(例外は、1974年10月の猪木vs大木戦で「遺恨をマットに持ち込むなら試合を止めろ」とメッセージを両名に送った事)。だが90年代に入りレスラーのOB会会長に就任してからは、会場に姿を見せる機会がわずかながら見られるようになった。

近畿大学相撲部では、後に大関となる長岡末弘(朝潮、現高砂親方)を指導し、2年連続してアマチュア横綱に導くなど手腕を発揮した。

晩年は入退院を繰り返すようになり、20032/15に呼吸不全のため神戸市内の病院で死去。享年76。葬儀・告別式は身内だけで営まれ、関係者に訃報が届いたのは2日後の17日だった。

獲得タイトル

  • 日本ジュニア・ヘビー級王座
  • インターナショナル・タッグ王座
  • アジアタッグ王座





愚乱・浪花
1977/2/15 - 2010/10/6

本名・木村吉公,「浪花」というリングネーム、蟹をモチーフとした覆面に、入場コスチュームを阪神タイガース応援ハッピ、入場曲を「かにの網元」(かに道楽CMソング)とするなど、大阪色を前面に押し出した覆面レスラーだが、出身は栃木県下都賀郡である。
  • 1992年、ユニバーサル・プロレスリングに入団。練習生のままみちのくプロレスへ移籍。
  • 1993/3/16、本名でバトルロイヤルに参戦。プレデビュー。
    • 3/17、本名でデビュー。みちのくプロレス新人レスラー第1号にしてスペル・デルフィンの一番弟子。
    • 6/2、スペル・デルフィンの個人事務所「ワキタ・プロダクション」主催の大阪大会から、「道頓堀の橋の下にいたところをデルフィンにスカウトされた」という触れ込みのマスクマン愚乱・浪花となり、阪神応援ハッピ姿、くいだおれ人形風のオーバーマスクを着用し、「かにの網元」(かに道楽CMソング)の入場曲で登場するようになる。以後、スペル・デルフィン、新崎人生と「デルフィン軍団」を結成。
  • 1994年、TAKAみちのくの軍団入りに抗議、TAKAとの抗争が勃発。後に和解。
  • 1995年8月、第1回ふく面ワールドリーグ戦出場。ザ・グレート・サスケを破る金星。
    • 12月、スーパーJカップ初出場。
  • 1997年、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに出場。高岩竜一から勝利をとる。
  • 1998/6/5、全日本プロレスに初参戦。
  • 1999年1月、デルフィンたちとみちプロを離脱を発表するが、みちのく預かりとなる。
    • 8月、第2回ふく面ワールドリーグ戦出場。熱戦の末、サスケから勝利するも骨折し欠場してしまう。
  • 2000年8月、正式にフリーへ転向。
    • 広島大会限定で「もみじ饅頭郎」に扮する。
  • 2001年、全日本プロレスに参戦し主戦場とする。
  • 2003年、みちのくプロレス参戦。
    • 5/20、左腕を骨折し長期欠場。以降、リングから姿を消す。
  • 2005/12/31、インディーサミットにて突如乱入 数年ぶりにファンに姿を見せた。
  • 2007年、キングスロードを主戦場に、レッスルランドなどに参戦。
  • 以降、出場していた2団体が消滅し、イベント系の興行に参加する程度の活躍となる。
  • 2010/10/6、心筋梗塞により死去。享年33歳。

リングネーム

これまでデルフィンが名付けたリングネーム。

  • 愚乱・浪花
  • もみじ饅頭郎
YouTube動画おまとめ
サスケ&テリーボーイ&紫龍組vsヨネ原人&新崎人生&愚乱・浪花 /2/2
熱狂!!プロレス物語 3
1996/10/10 両国国技館 正規軍vs海援隊☆DX10人タッグマッチ / みちのくプロレス
グラン浜田/スペルデルフィン/タイガーマスク/愚乱浪花/薬師寺正人vs
ディック東郷・MEN,Sテイオー・獅龍・TAKAみちのく・船木勝一

愚乱・浪花 入場
2002/8/25 みちプロ LoveⅡ
ザ・グレート・サスケ/獣神サンダー・ライガー/TAKAみちのくvs新崎人生/愚乱・浪花/KAZUYA YUASA








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