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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
2/18



松崎和彦
1969/2/18

レスリングユニオン時代からの澤田の盟友だったが、再旗揚げ戦より空手軍の一員として澤田と対峙するポジションに。しかし2/10猛毒サソリデスマッチを経て和解し、現在はユニオン勢に空手を教えている。
松崎駿馬、松崎番長





横須賀享
1978/2/18

日本のプロレスラー。本名は望月 享)。神奈川県横須賀市出身。闘龍門・DRAGON GATE所属。

経歴

中学卒業後に一時みちのくプロレスに入門、新日本プロレスに入っていたこともあったが、いずれも人間関係が原因で辞めた。

1997年、闘龍門3期生としてメキシコに渡り、1998/
11/22にプロレスデビューを果たした。デビュー戦直後に闘龍門の若手選手によって行われる大会“ヤングドラゴン杯”にエントリーされるも初戦敗退(この時の優勝者は堀口元気)。

翌年の“ヤングドラゴン杯”にも参加したが、結果は準決勝敗退。しかし、この大会後をきっかけに前々から意気投合した神田裕之と共にヒール転向する。

2000/1/2、メキシコで行われたIWRGインターコンティネンタル・タッグ初代王座決定トーナメントに、神田裕之と出場。見事にトーナメントを制覇し、初代IWRGタッグ王座を獲得した。その後もタッグ戦での実力を存分に発揮し、注目されるようになる。

2000/3/5、IWRGタッグ王座戦に敗れ王座陥落するも、裁定に納得できずに神戸大会をボイコットする。その直後にメキシコに渡る。

1か月後にメキシコから帰国し、突如福岡大会に現れる。その大会で無理矢理試合に参戦することを要求。その試合後にCRAZY-MAXに襲撃されてしまうが、当時闘龍門にフリーで参戦していた望月成晃に救出される。これがきっかけになり4/25に望月成晃、神田裕之とM2Kを結成する。

また、タッグ戦線だけに留まらず英連邦ジュニアヘビー級王座やNWAウェルター級王座などのシングル王座も積極的に挑戦し、NWAウェルター級王座の獲得は成功した。

2002/2/24に不完全燃焼がユニットの銘だったM2Kに、突如リーダーの望月成晃が完全決着推進のスローガンを掲げ、意見の違いから2人の間に遺恨が生まれる。そして「闘龍門に望月は2人もいらない」という理由から、自分と同姓である望月成晃と、「モチヅキ・コントラ・モチヅキ」という互いの姓字を賭けたコントラ・マッチを行い、敗退。試合前の条件により、リングネームを出身地にちなんだ現在の横須賀享に改めた。望月成晃が負けた場合は、江東成晃(えとうまさあき)になる予定だった(望月成晃は江東区出身)。

その後、神田裕之の引退と一緒にM2Kは封印され、Do FIXERに籍を置くこととなった。神田の次はK-ness.とタッグを組むようになり、2人のタッグをファンは「クネスカ」と呼ぶようになる。

2004/6/20に悪冠一色を追放され、襲撃される望月成晃を突如助ける。そしてDo FIXERを卒業という形で離脱し、再び望月成晃とタッグを結成。同じくDo FIXERを卒業したK-ness.、無所属だった新井健一郎、土井成樹(当時:セカンド土井)とFinal M2Kを結成する。

2004/8/28、CIMAの持つオープン・ザ・ドリームゲート王座の挑戦権を賭けた試合“キーハンティング4Way戦”に出場し勝利。ドリームゲートの挑戦権を獲得する(この時の対戦相手はエル・ヌメロ・ウノ優勝者のドラゴン・キッド、当時DRAGON GATE最重量の大鷲透、大本命のミラノ・コレクションA.T.だったため、享にとっては圧倒的に不利が予想されていたが、その予想を見事に覆した)。9/17にCIMAとオープン・ザ・ドリームゲート王座戦を行うが結果は敗退。

2005年の年末に行われたキング・オブ・ゲートに出場するも、決勝戦で斎藤了に敗れ準優勝となった。

2006/4/23に斎藤了の保持するオープン・ザ・ドリームゲートに挑み、勝利。第5代王者となった。

2006/8/11、数々の功績が認められ望月成晃からFinal M2Kリーダーの座を譲り受けるも、2007年1月Final M2Kは解散。

2007/3/30、ROHに参戦し、ドラゴン・キッドと対戦。

2007/12/23、肉体改造に成功しウェイトが軽くなったため、吉野正人の持つオープン・ザ・ブレイブゲート王座に挑戦するが30分近くの熱戦の末、敗退。

2008/5/5、愛知県体育館で斎藤了と共に新井健一郎&岩佐拓(通称:新岩)の持つオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座戦に勝利し、王座を獲得。

2008/11/16、大阪府立体育会館で鷹木信悟の保持するオープン・ザ・ドリームゲートに挑むも、敗北。

Typhoonの解散後は連敗が続き、そんな横須賀の姿を見た斎藤は、再びリョウスカの結成を提案。横須賀もその提案を受け、2009/2/15の博多スターレーン大会で、REAL HAZARDのYAMATO&サイバー・コングが保持するオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦。しかし、試合中に斎藤の裏切りに遭い敗北、斎藤はREAL HAZARDに加入する。試合後もREAL HAZARDのメンバーから暴行を受けるが、そこにREAL HAZARDの前リーダーGammaが登場し、横須賀を救出し、新タッグの結成を表明。

3/1の大阪府立体育会館第2競技場大会でGammaとの新タッグでオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に再び挑戦し、これに勝利。第6代王者となった。試合後、年末から消息を絶っていたCIMAが登場し、横須賀享・Gamma・CIMA、そしてこの日REAL HAZARDを脱退したKAGETORAの4人により、新ユニットWARRIORS-5の結成を電撃発表した。

4/26の博多スターレーン大会にて、斎藤了とシングルマッチで対戦するが敗北。しかし、6/11後楽園ホールでDr.マッスルに扮して斎藤を挑発し、7/10に再戦し、勝利した。

10/25、博多スターレーン大会にて、土井成樹の持つオープン・ザ・ドリームゲート王座に挑戦し、土井のマスキュラーボムに対する返し技を使用するなどで、土井を追い詰めるものの、敗北。試合後、土井に挑戦を表明したB×Bハルクの発言に反発するが、CIMAとGammaに制止され、2人に対して不信感を抱き、ユニット内で孤立する。

11月に入り、不穏な動きが見られるようになり、同時期に登場したDr.マッスルの正体と噂されるようになる。

12/3の後楽園ホール大会でWARRIORS-5を離脱し、REAL HAZARDに加入した。(その後離脱、クネスカとしてK-ness.と活動)

タイトル

  • オープン・ザ・ドリームゲート王座…第5代
  • オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座…第11代、第13代(いずれもパートナーはCIMA、斎藤了)
  • オープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座…第3代、第6代(パートナーは斎藤了、Gamma)
  • IJタッグ王座…第13代(パートナーは斎藤了)
  • NWA世界ウェルター級王座
  • UWA世界6人タッグ王座

入場曲

  • My Big Mouth / OASIS
  • Crash / ANTHRAX
  • YOKOSUKA☆LINER(現在) ※なお、ピアノバージョンのYOKOSUKA☆LINERもある。

人物・エピソード

  • “第一試合は負けてもいい”が本人のポリシーらしい。その言葉通りタイトル戦やメイン戦などは普段見られない底力を発揮する。
  • イメージ・カラーは紫。
  • デビューから試合の時はシャツを着ながら試合をしていたが、雑誌「かっこいいカラダ」Vol.6の表紙に載るために肉体改造を始め、2007年9月22日の大田区大会から初めて上半身裸での試合をした。
  • 横須賀出身らしく、スカジャンを着て入場していた。夏季はコスチュームのまま。一時期新M2KとDo FIXERの抗争決着戦である「スカジャン・コントラ・スカジャン」に敗れ、スカジャンをファンにプレゼントしてしまったが、その時の落ち込みぶりが酷かったために、ファンがスカジャンを返しにきたことがある。
  • 小技の名手であり、そのキャリアの間に多くのベルト争いに絡んでいながら、無口で他のレスラーに比べ自己主張が足りないせいか、存在感が薄い。しかしその没個性的なキャラクターがアクの強いDRAGON GATEのレスラーの中にあって逆に個性として際立っているとも言える。
  • 団体1・2を争うほどの受身の名手でもあり、それまでピンフォール率100%だった技を跳ね返している。例として、CIMAのシュバイン、ドラゴン・キッドのドラゴン・ラナ、斎藤了のプレミアム・ブリッジ等
  • コスチューム作りが得意で、自分の分だけでなく同団体の選手のコスチュームを製作している。
  • 「足横須賀」「ジャンボの勝ち!」「高い高い」「腕吉野」など技の名前は適当に決める。
  • コスチュームに書かれている「046」という数字は、横須賀市や葉山町の電話番号の市外局番である。
  • K-ness.同様、フィギュアが好きであり、好きな仮面ライダーはライダーマン、好きな怪人は十面鬼ゴルゴス(仮面ライダーアマゾン)である(オフィシャルコラムブックより) また、2010年のKING OF GATEでは仮面ライダーWのファング・ジョーカー(白と黒のツートンカラー)を意識したショートパンツ、レガース・ブーツで試合を行った。

 
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美月凛音
1981/2/18

日本のプロレスラー。九州出身。血液型A型。みずがめ座。DDTプロレスリング所属。新宿歌舞伎町のホストクラブRomanceでホストとしても働いている。

人物・来歴

2007/6/8、RING7にてプロレスデビュー。2009年は主にDDTとKAIENTAI-DOJO、アキバプロレスに参戦。 2010/1/13の契約更改にて、条件付きではあるが正式にDDT所属となった。得意技は美月サルトプレス(ムーンサルトプレス)。得意なスポーツは空手、野球。

明治大学卒業後、舞台等に出演し俳優として活動していた。特撮ヒーロー番組のファンであった為、ヒーローになるべくレスラーを目指すが俳優兼レスラーではキャラクターが弱いと感じ、丁度スカウトされたホストとなりホストというキャラクターを得た。

新宿歌舞伎町のホストクラブDiamond Romanceで主任を務める。その為デビュー戦のRING7、2007/9/2日DDT『Who's Gonna Top? 2007』に参戦した際にはホストキャラを活かしたシャンパンタワーのパフォーマンスを行った。また、宅建を取得しており家業である不動産業のサポートも行っている。

特撮ファンである関係で鈴木美潮が主宰するイベントに参加しTシャツの販売等行うこともある。

一星名義で歌手活動もしており、CDも出している。

CD

  • 今宵こがれ (2006/2/8 JAN:4948722208112 一星名義)





ケリー・フォン・エリック
Kerry Von Erich

1960/2/3 - 1993/2/18

ケリー・アドキッセンKerry Gene Adkisson、、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身。鉄の爪フリッツ・フォン・エリックの四男。WWF(現・WWE)ではテキサス・トルネードTexas Tornado)のニックネームでも活躍した。日本では「虎の爪」の異名を持つ。

来歴

血筋を背負い1979年にプロレスラーとしてデビュー。父が主宰する地元ダラスのWCCW(World Class Championship Wrestling)を主戦場に、ベテランのアーニー・ラッド、マーク・ルーイン、ザ・グレート・カブキらに揉まれてキャリアを積み、同世代のジノ・ヘルナンデス、キングコング・バンディ、ファビュラス・フリーバーズらとの抗争を通し次代のスター候補として期待を寄せられる。

1983/1/23にはミズーリ州セントルイスでハーリー・レイスを破り、NWA世界王者への登竜門とされたミズーリ・ヘビー級王座を獲得。同年3月に全日本プロレスに初来日している。

1984/5/7、テキサス・スタジアムでの兄デビッド・フォン・エリックの追悼興行においてリック・フレアーを撃破、第67代NWA世界ヘビー級王者となる。同年5月、王者として全日本プロレスに来日し、5/22に東京でジャンボ鶴田の挑戦を退けるが、5/24の横須賀で前王者フレアーに敗れて王座転落。

1985年10月からは新日本プロレスに来日するようになり、兄ケビンと組んで藤波辰巳&木村健吾のWWFインターナショナル・タッグ王座に挑戦している。翌年には前田日明とのシングルマッチも行われた。

1986年6月、オートバイ事故を起こし右足を切断する重傷を負う。一時は再起不能とされたが、義足を付けて1987年に奇跡的にカムバックを果たした(しかし、この事故によりペインキラー依存症となる)。

カムバック後の1988年には本拠地のWCCWにて、NWAアメリカン・ヘビー級王座の後継タイトルであるWCWA世界ヘビー級王座を獲得。以降、当時のAWA世界ヘビー級王座ジェリー・ローラーと、王座統一を賭けた「テキサス対テネシー」の抗争を繰り広げた。タイトルは勝者ローラーによって統一され、1989年よりUSWAユニファイト世界ヘビー級王座と改称。WCCWもローラーとジェリー・ジャレットが主宰していたテネシーCWAとの合併でUSWAとして再出発するが、1990年9月に興行収益を巡るトラブルでテネシー派と袂を分かつ。

ケリーもUSWAを離れ、1990年夏よりWWFに参戦。8/27のサマースラムではミスター・パーフェクトからインターコンチネンタル王座を奪取した。WCCWでの盟友でもあったアルティメット・ウォリアーともタッグを組み、同年11月のサバイバー・シリーズではウォリアー&リージョン・オブ・ドゥームと "The Warriors" を結成して出場。WWFには1992年まで所属し、退団後はテキサスのインディー団体を転戦した。

1993年、コカインの使用により起訴される。他のドラッグ使用による執行猶予中だったこともあり、2/18に実刑を伴う有罪が確定。同日、自宅にて(当所では有罪が確定した人物には1日の執行猶予が与えられる)ピストルで自らの命を絶った。

男のみの6人兄弟の中、現在でも健在なのは次男のケビン・ロス・アドキッセン(ケビン・フォン・エリック)のみ。ケビンもかつてはプロレスラーとしてNWAミズーリ・ヘビー級王座を獲得するなどの活躍をしたものの(日本ではデビッドとのコンビでアジアタッグ王座を奪取)、現在はプロレスから身を引いている。

2009年4月、フォン・エリック一家の一員としてWWE殿堂に迎えられた。

獲得タイトル

NWA
  • NWA世界ヘビー級王座:1回
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:1回
WCCW
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:4回
  • NWAテキサス・タッグ王座:3回(w / ブルーザー・ブロディ×1、スキップ・ヤング×1、タイガー・コンウェイ・ジュニア×1)
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:5回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:6回(w / ブルーザー・ブロディ×3、ケビン・フォン・エリック×2、アル・マドリル×1)
  • NWA世界タッグ王座(テキサス版):3回(w / アル・マドリル×2、テリー・オーンドーフ×1)
  • NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):6回(w / ケビン&デビッド・フォン・エリック×2、ケビン&マイク・フォン・エリック×1、ケビン&ブライアン・アディアス×1、ケビン&ランス・フォン・エリック×1、ケビン&マイケル・ヘイズ×1)
  • WCWA世界ヘビー級王座:4回
  • WCWA世界タッグ王座:4回(w / ケビン・フォン・エリック×3、ジェフ・ジャレット×1)
WWE
  • WWFインターコンチネンタル王座:1回
  • WWE Hall of Fame 2009 (プレゼンターはマイケル・ヘイズ)
その他
  • USWFテキサス・ヘビー級王座:1回





"ホット・スタッフ" エディ・ギルバート
"Hot Stuff" Eddie Gilbert
1961/8/14 - 1995/2/18

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はトーマス・エドワード・ギルバート・ジュニアThomas Edward Gilbert, Jr. )。テネシー州レキシントン出身。

業界紙『レスリング・オブザーバー』の "Wrestling Observer Newsletter awards" において1988年度の "Best Booker" に選出されるなど、ブッカーとしても活躍した。父親のトミー・ギルバート、弟のダグ・ギルバートもプロレスラーである。

来歴

初期

父トミー・ギルバートのトレーニングのもと、1979年に地元テネシー州メンフィスのCWAにてデビュー。ベビーフェイスの新鋭としてトミーやリッキー・モートンとのタッグチームで活動し、モートンとのコンビではアメリカ武者修行中の大仁田厚(ミスター・オーニタ)&渕正信(マサ・フチ)とも南部タッグ王座を争った。

1982年の下期からは約1年間、ビンス・マクマホン・シニアが主宰していたニューヨークのWWFをサーキット。サージェント・スローターやマスクド・スーパースターなど、当時のWWFヘビー級王者ボブ・バックランドの挑戦者となるヒール勢のジョバーを務め、カート・ヘニングとの若手コンビでも活動した。1982/11/25には、フィラデルフィアにてタイガーマスクのWWFジュニアヘビー級王座にも挑戦。WWFルートで1983年10月に新日本プロレスに初来日したが、負傷により途中帰国している。

1984年より古巣のCWAに復帰し、AWAに移籍したファビュラス・ワンズ(スティーブ・カーン&スタン・レーン)の後任として、トミー・リッチとニュー・ファビュラス・ワンズを結成する。ココ・ウェアとノーベル・オースチンのプリティ・ヤング・シングスなどと抗争したが、CWAを離脱したカーン&レーンへのあてつけとして組まされたクローン・チームだけに成功には至らず、リッチとの仲間割れアングルのもとギルバートはヒールに転向。以後はリッチやジェリー・ローラーと抗争を繰り広げ、1985年2月にはローラーから南部ヘビー級王座を奪取した。

ホット・スタッフ

CWAでのヒールターンは彼のマイクパフォーマンスの才能を開花させ、1985年下期からはホット・スタッフHot Stuff)をニックネームに、ビル・ワットのMSWAにプレイング・マネージャーとして移籍。1986年に同団体がUWFと改称してからは若手ヒール時代のスティングとリック・スタイナーを配下に、ハリウッド・ジョン・テータムとジャック・ビクトリーのマネージャーだったミッシー・ハイアットと共闘して、H&HインターナショナルHot Stuff & Hyatt International)なるユニットを結成した。

1987年にワットがNWAのジム・クロケット・ジュニアにUWFを売却した後は一時アラバマ地区に転出したが、1988年よりWCWへの移行期にあった末期のジム・クロケット・プロモーションズに移籍。ベビーフェイスのポジションに回り、リッキー・スティムボートのNWA復帰のパートナーとなってリック・フレアー&バリー・ウインダムと抗争した。UWF時代の盟友リック・スタイナーとも再合体し、1989年2月にバーシティ・クラブのスティーブ・ウィリアムス&ケビン・サリバンからUSタッグ王座を奪取している。また、WCWではフレアーやサリバン、ジム・コルネットらと共にブッキング・コミッティの一員となり、フレアー&スティング対テリー・ファンク&グレート・ムタの抗争アングルなどを手掛けた。

1990年、ジム・ハード副社長による新体制への以降に伴いWCWを脱退してメンフィスに戻り、CWAの後継団体であるUSWAに登場。再びヒールターンし、ジェリー・ローラーとのユニファイド世界ヘビー級王座を巡る抗争劇を展開した。1991年9月には、当時USWAと接点のあったW★INGプロモーションに参戦し、久々の来日を果たしている。

その後はテキサス州ダラスのGWFを経て、1993年は初期のECW(イースタン・チャンピオンシップ・レスリング)でヘッド・ブッカーを担当した。選手としても、ダーク・パトリオットこと実弟ダグ・ギルバートと組んでECWタッグ王座を獲得したが、ポール・ヘイマンのプロデューサー就任により同年秋にチャンピオンのままECWを離脱している。

ECW脱退後の1993年11月、ゴムマスクを被って覆面レスラーのブギーマンに変身し、W★INGプロモーションの『モースト・デンジャラス・タッグ・ウォーズ』にレザーフェイス(リック・パターソン)のパートナーとして出場。当時、W★INGにはダグ・ギルバートがフレディ・クルーガーに扮して活躍しており、両者はリーグ戦で対戦したが、10秒程度で試合を終わらせた後、それぞれマスクを脱ぎ捨て自分たちの素顔を曝して兄弟であることを明かし、マイクで同団体への批判を公言した上で全日本プロレスへの移籍を表明するという前代未聞の事件を起こした。ギャランティやマッチメークへの不満など行動におよんだ原因には諸説あるが、彼はアメリカでも各団体でトラブルを起こしており、全日本移籍も結局は実現しなかった。

1994年からはUSWAに復帰し、ジェリー・ローラーとの抗争を再開。ジム・コルネットが運営していたケンタッキー州ルイビルのSMWやプエルトリコのWWCなどにもブッカーとして関わった。

1995/2/18、プエルトリコにて心臓発作により死去。33歳没。彼は1983年に交通事故に遭って以来ペインキラーを常用しており、それが心臓に負担を与えていたとされている。1996年にはニュージャージーにてトリビュート・イベントが開催され、トミー&ダグ・ギルバート、ジェリー・ローラー、トミー・リッチ、アル・スノー、キングコング・バンディ、マーティ・ジャネッティ、ダン・スバーン、2コールド・スコーピオ、シッド・ビシャス、ジョージ・スティール、ドリー・ファンク・ジュニアらが参加した。

なお、UWFでH&Hインターナショナルを結成していたミッシー・ハイアットとはNWA(WCW)移籍後の1988年に結婚したが、後に離婚している。1991年にはデブラ・ミセリーと再婚するも、こちらも約4カ月間で破局を迎えた。

獲得タイトル

セントラル・ステーツ・レスリング
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / リッキー・ロメロ)
CWA / USWA
  • AWA南部ヘビー級王座:1回
  • AWA南部タッグ王座:4回(w / トミー・ギルバート×2、トミー・リッチ、リッキー・モートン)
  • CWAインターナショナル・ヘビー級王座:2回
  • USWAヘビー級王座:1回
  • USWA南部ヘビー級王座:1回
  • USWAタッグ王座:1回(w / ブライアン・クリストファー)
  • USWAユニファイド世界ヘビー級王座:4回
NWAトライステート / MSWA / UWF
  • NWAトライステート・タッグ王座:3回(w / トミー・ギルバート、リッキー・モートン×2)
  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / トミー・ギルバート)
  • ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / ザ・ナイトメアー)
  • UWF世界タッグ王座:2回(w / スティング)
  • UWF世界TV王座:1回
ジム・クロケット・プロモーションズ
  • NWA USタッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / リック・スタイナー)
イースタン・チャンピオンシップ・レスリング
  • ECWタッグ王座:1回(w / ダーク・パトリオット)
グローバル・レスリング・フェデレーション
  • GWF北米ヘビー級王座:1回
  • GWF TV王座:2回
ワールド・レスリング・カウンシル
  • WWC北米タッグ王座:1回(w / トミー・ギルバート)

  

















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