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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
2/23



若林健治
1958/2/23
フリーアナウンサー。元中部日本放送(CBC)・元日本テレビ(NTV)のアナウンサー。東京都渋谷区出身。血液型はO型。

若林健治とプロレス]

全盛期

上述の通り日本テレビへ転職してしまうほどプロレスを愛しており、『全日本プロレス中継』にてジャンボ鶴田や四天王プロレスで心の叫びとも言える熱い実況で有名となった。特に竹内宏介とのコンビは「若竹コンビ」と言われた。プロレス愛では比類なきアナウンサーである。

その「若竹コンビ」で司会を担当したある番組での、プロレスの名勝負を流すコーナーでは、例えば1967年12月の馬場対クラッシャー・リソワスキー戦が流れた際には「その試合(流血戦になったので)親にテレビを消されたんですよ!」とコメントするなど、プロレスへの思いを語っている。

また、SWSの出現により全日本プロレスが崩壊の危機を迎えたとき、「命に賭けても守りたいプロレス!それが全日本プロレス」と実況したり、「このオーは、福井に対してのオーか!」とジャンボ鶴田のオーを同日同時刻に行われたSWSの福井でのプレ旗揚げ戦を明らかに意識して実況している。だが、時を経て当時のプロレス界におけるSWSの重要性に気付きはじめ、「失礼なことを言ってしまった」と天龍に直々に謝罪した(下記著書による)。

1990年代に入り、全日本のリングが鶴田軍対超世代軍の争いで加熱するにつれ、若林の実況もヒートアップ。1990/6/8、三沢光晴が初めてジャンボ鶴田に勝った試合を実況。「三沢が勝ったー!」の名実況を生む。これがきっかけで、今に続く実況スタイルを確立。その後も両軍の戦いを中心に数々の熱い実況を展開した。

スタン・ハンセンが場外乱闘で実況席のモニタを掴み取ろうとした時、必死になってモニタを引っ張り阻止したことは非常に有名である(モニタが日テレでなく札幌テレビ放送の機材だった為、壊されると面倒なことになるため必死に抵抗したという)。

当時実況の二大エースであった福澤朗アナウンサー(日テレの後輩)の代理として「プロレスニュース」のコーナーも担当し、ミドルネーム『若林“恩知らず”健治』名義でも登場したが、これは、キラー・カーンがそれまで同じ軍団で行動を共にしてきた長州力の試合に突如乱入(1986年8月)し長州を襲い反旗を翻した為に「何を考えているのか。恩知らずのキラーカーン」と若林が発した実況台詞からである。なお、その巨体から「若林マンモス健治」の異名もとった。

独身で結婚経験がなかったことから、渕正信や越中詩郎(※このうち越中は後に結婚)らとともに『週刊プロレス』・『週刊ゴング』の読者コーナーでたびたび独身ネタの題材にされる(先輩アナの今井伊佐男も一時期独身を貫いていた)など、プロレスファンにもその存在が認知されていた。

流転

そんな順調なアナウンサー人生であったが、全日本プロレス中継の放送時間が視聴率低下の影響で60分から30分に縮小された。憤慨した若林は「30分が悔しいんです!」「戻せ1時間枠!」と実況中に叫んだことが日テレ上層部の逆鱗に触れ(視聴者の抗議がくることを恐れた日テレが出向を命じたという説もある)、系列ラジオ局のラジオ日本へ出向となる。

しかし、ファンからの要望で、日テレ復帰と同時期に全日本プロレス中継にも復帰。ファンの声でプロレス中継にカムバックしたアナウンサーは史上初であり、本人は復帰にあたり視聴者に向け感謝の言葉を述べた。復帰直後の日本武道館大会では「若林コール」が起きた。当時は既に平川健太郎がプロレス担当チーフアナウンサーとなっており、若林はセミファイナルの試合を担当することが多かったが、メインイベントの実況にも頻繁に起用されていた。2000年に発売されたドリームキャスト用ゲームソフト『ジャイアントグラム2000 全日本プロレス3〜栄光の勇者達〜』の実況音声も担当している。

2000/2/17、秋山準が三沢からシングル初勝利を挙げた試合を実況。「秋山が勝ったー!」と絶叫した。三沢の対鶴田初勝利から、ちょうど10年後のことであった。

しかし、復帰から1年もしないうちに、当時の三沢社長を中心とした大量離脱から中継が打ち切りとなり、再びプロレスと縁が切れてしまう。

日テレは全日本プロレス分裂後、三沢率いるプロレスリング・ノアの試合中継へ切り替えたが、彼がノア中継の実況を行うことは遂になかった。若林がノア中継へ登場しなかった理由については公式な説明がなかった為に不明だが、「熱狂的な馬場信者で日テレ上層部から嫌われているから(ただし、前述の街頭プロレスは『NNN Newsリアルタイム』内で生中継されている)」という説が流れている。

全日本分裂から3年後、奇しくもノアの日本武道館大会(メインは三沢vs小橋建太)が行われた2003/3/1に、NEO女子プロレスの板橋産文ホール(現:板橋グリーンホール)大会のメイン終了後に収録された『ぐるぐるナインティナイン』の「変装バカデミー賞」(同年3月14日放送、ホンコンが赤コーナーに扮した)を最後にしばらくマイクから遠ざかっていた。全日本プロレス中継の勇退後は『ズームイン!!SUPER』などの情報番組で活躍した。しかし、2006年6月に事業局へ異動。アナウンサーとしてのキャリアを一度は断念することとなる。

現場復帰

プロレス中継への情熱が消えることのなかった若林は、2007年の暮れに日テレを退職し、フリーアナウンサーに転向することを決め、これを機に実況活動を再開、2008/2/11の健介オフィスと3/1の全日本プロレス(ペイ・パー・ビュー生中継)の実況を行った。

同時期に、レスラー復帰を予告した大仁田厚のレポートをする際、怒号を浴びせられるも『私はテレ朝の真鍋さんとは違う!プロレス実況やるために日テレを辞めました!大仁田さん、プロレス変えてくださいよ!』と言い放ち、第二の大仁田劇場が幕開けした。 ちなみに若林は大仁田が全日在籍時に試合を実況した経験もある(1984年8月・田園コロシアムでの対マイティ井上戦)。大仁田も新人時代の若林を覚えており、再会時の第一声は「おぉ、若林!元気か?」だった。

また、2008/5/26にはMARS SIXTEEN主催で阿佐ヶ谷ロフトAで初の単独トークイベント『若林”フリー”健治の胸突き八丁十番勝負』が開催。イベントでは大日本プロレスの関本大介・ユリオカ超特Q等がゲストに迎えられ、懐かしのエピソードや現在のプロレスに対する愛を時間いっぱいまで語り尽くした。

翌年2009/8/22に東京・中野のStudio twlで、元週刊ゴング編集長・小佐野景浩氏をゲストに迎え、『若林フリー健治の胸突き八丁十番勝負~その二~』が行なわれ、大成功を収めた。

更に2010/1/11には中目黒GTプラザホールにて、天龍源一郎をゲストに迎え、第三回のトークイベントが開催された。

またフリー転向時から、後進の育成にも積極的に取り組んでおり、2010年8月1日、念願だったアナウンススクールを新宿にて開校する。本人が苦学生であったことから、破格の授業料で実施。開校1か月にして、内定者2名を輩出。

エピソード

少年時代は馬場が負けた翌日に登校拒否したこともあるほど、大のジャイアント馬場ファンであった。それを象徴するエピソードとして、1993年に大阪府立体育会館で行われた世界最強タッグ決定リーグ戦における一コマが挙げられる。スタン・ハンセンとのタッグで出場していた馬場が川田利明・田上明組(聖鬼軍)の集中砲火を浴びた時、「馬場頑張る!馬場頑張る!馬場頑張る!馬場頑張る!馬場頑張れ!馬場頑張れ!馬場頑張れ!馬場頑張れ!」と、「頑張る」が途中で「頑張れ」に実況が変化した。

1999年2月1日、馬場の訃報に接した際は、涙を流しながら麹町にあった日テレ本社(当時)の周りをひたすら彷徨い続けたという。

名言集

  • 「プロレスを愛するなら、プロレスを守れ!」
  • 「人間は超獣に勝てないのか!」(ブロディvs鶴田戦にて)
  • 「“イカ天”とは“イカす天龍”のことであります!」(東京ドームの天龍vsサベージ戦で)
  • 「おー!! マスクを脱いだー!! タイガーマスク、マスクを脱いだー!」(三沢がマスクを脱いだ瞬間)
  • 「類似品にご注意ください!」(SWS旗揚げ戦の日に行われた6人タッグで)
  • 「鬼か、魔物か、怪物か!」(1991/4/18、ジャンボ鶴田vs三沢光晴の三冠ヘビー級選手権で、ジャンボ鶴田に対して)
  • 「ありがとう、ありがとう、汚れた顔の天使たち!」(1991年4月18日、ジャンボ鶴田vs三沢光晴の三冠ヘビー級選手権の試合中)
  • 「プロレスとは、裸の詩(うた)、心の詩、漢の詩、涙の詩、魂の詩!」
  • 「時代が先か、君が先か、こみ上げてくる気持ちにしかできないことがある!」
  • 「鶴田の時代は終わっていない。しかし三沢時代はもう始まっています!」(1991年4月18日、ジャンボ鶴田vs三沢光晴の三冠ヘビー級選手権で、鶴田の入場の時)
  • 「何でもアリがプロレスです!何でもアリがプロレスです!」(2000/5/26、小橋健太vs高山善廣の三冠戦で両者が殴り合いを展開したシーンで。これが全日本旧体制での最後の三冠戦となった)
  • 「優勝はかかっていませんが俺たちの決勝戦!」
  • 「竹内さん、我々の夢がかないましたね!」「このコンビの夢を何回見ましたかねえ!」(馬場とアンドレ・ザ・ジャイアントの初タッグで、竹内宏介と)
  • 「流した汗は嘘をつかない!」
  • 「解説は魂の解説B!竹内宏介さんです」(週刊ゴングの人気ページ「三者三様」を意識したもの)
  • 「魂の徳光さん!」(東京ドームでシェリー・マーテルと舌戦を繰り広げた大先輩の徳光和夫に対して)
  • 「三沢が勝った~三沢が勝った~、全日本に新しい時代到来!ニューヒーロー誕生!」(鶴田対三沢で三沢が勝利した時の実況。「三沢が勝った~」は涙声に聞こえる)
  • 「乾坤一擲」「胸突き八丁」

著書

  • プロレスのために日本テレビを辞めた男(2008年、ブレインナビ)





福岡晶
1971/2/23

日本の元女子プロレスラー。本名は宮本 晶旧姓:福岡)。秋田県秋田市出身。

JWP女子プロレスに旗揚げから参加しJWP認定無差別級王座を獲得するなど、同団体の主力選手として活躍した。

経歴・戦歴

高校時代は器械体操でインターハイに出場。1989年にジャパン女子プロレス入門、同年12/1日の後楽園ホール大会において、対杉原由佳子戦でデビュー。優れた身体能力と高いルックスから、デビュー当初より将来のスター候補と目されていた。

1992年のジャパン女子解散後、JWP女子プロレスの旗揚げに参加。JWPの掲げる「ピュアハート・ピュアレスリング」を最も体現した選手として、「ピュアハートの申し子」と呼ばれた。団体対抗戦ブームの中にあっては、JWPの主力選手の一人として活躍する。一時は「脱ピュアハート宣言」をして、ファイトスタイルの変更を模索するも低迷。だが1995年、尾崎魔弓とのタッグで全女の「猛武闘賊」こと三田英津子・下田美馬組からJWP認定タッグ王座を奪還すると、以後はトップ戦線で活躍するようになる。1997年にはダイナマイト・関西からJWP認定無差別級王座を奪うなど、JWPのエースとして一時代を築いた。また、後輩のキャンディー奥津・矢樹広弓とユニット「ひーちゃん'S」を結成し、エンターテイメント性の高い試合でも観客を沸かせた。

1998/10/11の対久住智子(日向あずみ)戦で首を痛め、また結婚が決まったことを機に引退を決意。1999/3/28日の後楽園ホール大会で、奥津の退団により解散した「ひーちゃん'S」を再結成して、引退試合を行った。引退後は故郷の秋田に戻って家族で飲食店を経営する傍ら、地元でのプロレス興行にも協力している。秋田のローカルヒーロー・超神ネイガーショーにも、プロレス技を得意とするヒロイン「ネイガー・マイ」として出演している。

2009/11/2、同期のGAMIの20周年記念興行『GAMILIBRE5〜GAMI CHRONICLE〜』(プロレスリングWAVE)のメインイベントで一夜限りの現役復帰を果たした。

タイトル歴

  • JWP認定無差別級王座(第4代) - 連続防衛6度は2009/10/4に春山香代子に破られるまでの記録であった。
  • JWP認定タッグ王座(第5・7・9・11・13代)

入場テーマ曲

  • 「OMENS OF LOVE」(THE SQUARE)
  • 「BAD BOYS」(WHITESNAKE)

ジャパン女子プロレス ビデオ紹介
JWPビデオ紹介1992年
JWP DVD紹介

 
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渡辺智子
1972/2/23

日本の元女子プロレスラー。千葉県千葉市出身。

柔道出身であり、新人の頃は体の線も細く、柔道の投げ技や飛び技を用いたテクニシャンタイプのレスラーだったが、徐々にウエイトアップし、パワーファイターへとファイトスタイルを変化させる。

所属

  • 全日本女子プロレス(1989年 - 2005年)
  • フリーランス(2005年 - 2006年)

経歴

1989年
  • 全日本女子プロレスのオーディションに合格、同期に、伊藤薫・長谷川咲恵・バット吉永がいた。入門当時は長与千種・ライオネス飛鳥のクラッシュギャルズが引退直前とは言え在籍していたため、直接の教えを受けた訳ではないが、クラッシュギャルズのブームを現役で体験した最後のレスラーでもある。
  • 10/8、後楽園ホールにおいて、対井上貴子戦でデビュー。その後、ブル中野率いる『獄門党』に加入。ヒールとして活動する。
2005年
  • 4/17、全日本女子プロレスの経営難により、所属選手が次々と離脱する中、最後まで全女に残り、素顔ではベビーフェイスとして活躍し、その一方で伊藤薫と共にヒールの覆面レスラータッグ『ZAP』を結成、ZAP-Tとしても活動する。その後、伊藤が全女を離脱した後も全女に残り、解散時には団体のエースとして活躍。
  • 全女解散後はフリーランスとして主にIWAジャパンで試合を行う。
  • 11/11、東京・新宿FACE(長与千種興行「Marvels Night」)において、キャンディー・キャンディーに扮して、一休さんに扮したサソリと対戦。勝利。
2006年
  • 9/23、新木場1stRING「伊藤薫道場〜心〜第一章」において、伊藤薫と組んで、佐藤綾子、市井舞組と対戦。伊藤が市井からダイビング・フットスタンプで勝利。
  • 12/29、新宿FACE「伊藤薫道場〜心〜第二章」で伊藤薫&浜田文子&上林愛貴&市井舞&佐藤綾子&森居知子&小林華子&田口御郁子との8人掛けの試合を最後に引退。

引退後は沖縄に移住するも、伊藤道場において特別講師として活動する傍らエキシビションにも参加していた。

2009年
  • 沖縄プロレスやその他沖縄で行われた興行においてドレイク森松とともに限定復帰。
2010年
  • 介護士及び障がい者ヘルパーの資格を取得し、地元に戻る。
  • 12/26の伊藤道場最終興行で1日限定復帰。これを最後にプロレス界から退く。

タイトル歴

  • オールパシフィック王座
  • 第104代WWWA世界タッグ王座(パートナーは前川久美子)
  • 第106代WWWA世界タッグ王座(ZAP-Tとして、パートナーはZAP-I)
  • 第108代WWWA世界タッグ王座(パートナーは前川久美子)
  • 第111代WWWA世界タッグ王座(パートナーは高橋奈苗)
  • 第117代WWWA世界タッグ王座(パートナーは前川久美子)
  • 全日本シングル王座
  • 第34代全日本タッグ王座(パートナーは井上貴子)
  • JWP認定タッグ王座

入場テーマ曲

  • 「HELL SMASHER」「バクバクKissの世界 -W EXPLOSION-」に収録。





モハメド・ヨネ
1976/2/23
プロレスリング・ノア所属のプロレスラー。本名:米山聡。愛知県名古屋市出身。

概要

1995年、藤原組に入門。同年8/18、南足柄市体育センターのアレクサンダー大塚戦でデビュー(大塚と共に藤原喜明の最後の弟子)。

翌1996年、格闘探偵団バトラーツに参加。その後現在のリングネームモハメド・ヨネを用い出す。リングネームはあくまでアフロ、色黒の風貌に由来するものでイスラム教徒ではない。

テレビ朝日のバラエティ番組「いきなり!黄金伝説。」に出演。小原正子(クワバタオハラ)とともに大食いチャレンジをしながら全国を縦断する企画に出演した。

バトラーツから自身ブランドのスクーターを販売するなど人気選手だったが、徐々に団体が低迷。事実上のバトラーツ解散興行となる東京ベイNKホール大会で、安田忠夫に何もさせてもらえず、わずか1分余でフロントチョークにより敗退し、インディーとメジャーの違いに愕然とする(安田はバトラーツのレフェリーだった島田裕二の懇願で参戦したが嫌々だったそうで、真剣勝負に出て秒殺したという)。

2001年、バトラーツ活動停止後、分裂後の全日本プロレスに参戦していたが、先輩レスラーである池田大輔の後を追いメジャー団体のプロレスリング・ノアへ参加する。丸藤正道の証言によると、ノア参加に伴い過去の実績を全て捨て、道場で受身や筋トレなど練習生並に過酷な基礎練習を行ったという。

2002/10/4、試合中に右膝の靱帯を断裂し長期離脱を余儀なくされる。翌2003/8/23に復帰。復帰時はトレードマークのアフロヘアーをやめていた。その後、池田大輔がノアを退団するが、ヨネはそのまま残留(池田は退団後もフリーとして継続参戦している)。

2005/3/5、丸藤正道を破り第3代グローバル・ハードコア・クラウン王者に輝く。この頃から森嶋猛とタッグを組むことが多くなり、2005/10/28、鈴木みのる&丸藤正道組よりGHCタッグ王座を奪取。

2006年公開の映画「力道山」に、豊登道春役で出演している。

これまでGHCシングルへの挑戦は一度もなかったが、2008年9月にGHCシングルへ初挑戦。試合前から王者佐々木健介を奇襲、キン肉バスターを連発(内一発は場外)して攻めたが、それでも王者を追い詰めることは出来ず、タイトル奪取はならなかった。

2009年初頭より 力皇猛・金丸義信・鈴木鼓太郎・平柳玄藩らとDisobeyを結成ノアマット制圧を目指す。

2009/12/6 日本武道館にて、第18代GHCヘビータッグ王者・佐々木健介&森嶋猛組とのタイトル戦で勝利。第19代タッグ王者となる。

新日本プロレスの真壁刀義の暴言に反応し、新日本プロレス 前橋大会で真壁刀義を襲撃。その後、ノアクリスマス興行で真壁刀義がヨネを襲撃、新日本プロレスの最大規模興行「レッスルキングダム IV」in東京ドームの記者会見の会場で、方船の襲撃王として真壁刀義を再襲撃する。

2010年1月より、日本オリンピック委員会承認団体 日本レクリエーション協会加盟団体 国際カバディ加盟団体 日本カバディ協会公認 カバディ親善大使に就任、カバディの普及に努める。

2010/1/4、新日本プロレスの最大規模興行「レッスルキングダム IV」in東京ドームにおける新日本プロレスVSプロレスリング・ノア対抗戦に参戦。真壁刀義に敗れた。

2010/2/28、日本武道館にて高山善廣・佐野巧真組とのタイトル戦を勝利し、初防衛を果たす。

2010/3/19よりGREEにて公式ブログスタート。

2010年3月の後楽園ホール大会のメインイベントにおいて、ビック村上・臼田勝美組と対戦するが、終始場外での試合を繰り広げ、ノアでは珍しいノーコンテストとなり、観客から大ブーイングを受ける。

雪辱を期した2010/3/26の千葉公園体育館で、GHCヘビータッグのタイトルをかけてビック村上・臼田勝美組と対戦、2度目の防衛を果たす。

2010/4/14、大阪府立体育会館第二競技場で行われたGHCタッグの3度目の防衛戦で、バイソン・スミス&キース・ウォーカー組に敗れ、王座から陥落した。

タイトル歴

GHCタッグ王座
第11代(防衛2回、&森嶋猛)、第13代(防衛0回、&森嶋猛)、第19代(防衛2回、&力皇猛)
GHC(グローバル・ハードコア・クラウン)無差別級王座
第3代(防衛3回)

入場テーマ曲

モハメッド1200
LAST MAN STANDING / Bon Jovi(森嶋猛とのタッグ時)
DISOBEY

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