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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
2/24



大木金太郎
1929/2/24 - 2006/10/26

韓国・全羅南道出身の元プロレスラー。本名は金一(キム・イル、김일)。身長185cm、体重120kg(現役当時)。生年はかつては1933年とされていた。

来歴

1958年に、同郷の英雄力道山に憧れて漁船で日本に密入国し、プロレス入りのチャンスをうかがっていたが、1959年に入管法違反で逮捕される。力道山が同郷のよしみで身元引受人となり、日本プロレスコミッショナーの大野伴睦代議士を動かしたことで釈放され、「日本プロレス」に入門し同年11月にプロレスデビュー。翌年にはジャイアント馬場とアントニオ猪木が入門・デビューし、「若手三羽烏」と称された。

1963年にアメリカ武者修行に旅立ち、ミスター・モトとのタッグチームでWWA世界タッグ王座を獲得するなど活躍したが、同年12/8に力道山が刺され12/15に死亡したことで、力道山を心の拠り所にしていた大木は居場所がなくなり、韓国へ一旦帰国した。韓国では「大韓プロレス」のエースとして、様々な企画を成功させ韓国プロレス界の発展に尽力した。

その後豊登が「東京プロレス」を旗揚げし、アントニオ猪木も日本プロレスを去って東京プロレスに参加したため、「日本プロレス」はその穴埋めに大木を韓国から呼び戻すと、「金剛山金太郎」のリングネームで売り出そうとしたが失敗。「大木金太郎」へと戻り「日本プロレス」No.2のレスラーとして活躍していたが、東京プロレスは崩壊しアントニオ猪木が出戻り、再び馬場・猪木の陰に隠れた存在となった。

1967年6月に、韓国のソウルでマーク・ルーインからWWA世界ヘビー級王座を獲得し名実共に韓国プロレス界のトップに立ったが、短期間でタイトルを奪回されている。この頃「二代目力道山襲名」「国際プロレス移籍」という話もあったがいずれも実現しなかった。

上田馬之助の密告事件を発端に猪木・馬場が次々に「日本プロレス」を退団し、それぞれが新団体を創立したことにより、遂に「日本プロレス」No.1の地位を獲得し、1972年12月にボボ・ブラジルとの「頭突き世界一決定戦」がインターナショナル・ヘビー級王座の決定戦となり第一戦は敗れるが、3日後の再戦で勝利しインター王座を獲得した。しかし、馬場と猪木の抜けた穴は大きく「日本プロレス」の人気は急激に凋落。坂口征二が日本プロレスのテレビ中継をしていたNETの意向を受けて新日本プロレスとの合併を模索するが、大木はこれに猛反対して合併話を潰してしまう。結果として坂口は退団、同時にNETの新日本プロレスへの乗り換えを招き、日本プロレスは1973年4月に崩壊した。

1973年の日本プロレス崩壊後は一旦他の日本プロレス選手とともに全日本プロレスに入団するが、対等合併と仲介者に聞かされていたのに実質吸収合併でありマッチメイクで冷遇されたことから退団。インターヘビー・アジアヘビーの防衛戦をやらせてもらえずに不満がたまっていたところに、ザ・ファンクスを招いて馬場がインター・タッグに挑戦した時に、パートナーに大木ではなく新人の鶴田友美(後のジャンボ鶴田)が起用されたのが決定的な原因だったという。

その後、新日本プロレスに参戦して1974/10/10蔵前国技館にて猪木とのシングル戦を行う。この試合は猪木が大木の頭突きをひたすら受け続けてバックドロップで仕留め、試合終了後には二人が感極まって抱き合うという、猪木にとっても大木にとっても後世に残る名勝負となった。また坂口とは日本プロレス崩壊時の「俺が新日本と合併しようとしたのを潰して追い出しておいて何を今さら」という遺恨から、プロレス史に残る壮絶なセメントマッチを展開する。ソウルで猪木の挑戦を受けてインターヘビーの防衛戦を行ったこともあるが、これは猪木唯一のインター戦となった。

1975/10/30、蔵前国技館にてジャイアント馬場とのシングル戦を行う。この試合で馬場は大木の頭突きを受けきった後、猪木と大木の試合時間13分13秒の半分の時間(6分49秒)でフォール勝ちをおさめ、猪木との格の違いをアピールした。

その後は再び全日本を主戦場とするようになり、タイガー戸口(キム・ドク)とタッグを組んでのインターナショナル・タッグ王座獲得、1975年12月にはオープン選手権及び力道山十三回忌追悼興行(「頭突き世界一決定戦」と題されたアブドーラ・ザ・ブッチャー戦)に参加、1977年12月には「世界オープンタッグ選手権」に参加した。1978年と1979年には「世界最強タッグ決定リーグ戦」にも連続して参加している(1979年のパートナーはキラー・トーア・カマタ)。大木・ドクの韓国師弟コンビと馬場・ジャンボ鶴田の日本師弟コンビの抗争はこの時期の全日本のドル箱カードであった。また、アジアヘビー級王座とアジアタッグ王座が全日本で復活した時に王座決定戦でグレート小鹿を破りアジアヘビー級王者になっている。

1980年2月に「国際プロレス」入団。日本では長く封印状態にあったインターヘビーの防衛戦を上田馬之助らと4回行った他、ニック・ボックウィンクルのAWA世界王座にも挑戦した。しかし、同年11月から欠場し、そのまま離脱する。その後「全日本プロレス」に戻る。この時全日本からの「NWA認定のインター選手権を、NWAに加盟していない国際プロレスで実施したのはNWAメンバーとして問題である(大木は馬場の推薦で、韓国のプロモーターとしてNWAに加盟していた)」という勧告に応じてインターヘビーを返上、全日本プロレスで復活させている(引き替えに1977年に馬場に奪取されてそのまま封印されていたアジアヘビー級王座が大木に返還されている)。これを機会に再び全日本に来日するようになったが、1982年の阿修羅・原戦を最後に、首の持病が悪化し事実上の引退となった。

「引退セレモニー」とその後

1995/4/2に行われたベースボール・マガジン社(週刊プロレス)主催のオールスター戦「夢の懸け橋」東京ドーム大会で、それまでの功績を讃えて正式な「引退セレモニー」が行われた。

車椅子姿で花道を入場してきたが、リング・インの際は気丈に立ち上がり、ルー・テーズと共にリング内に進むと四方へ頭を下げ、ファンの声援を受けると現役時代からであるが流暢な日本語で「(感激で)胸がいっぱいで声が出ません」と涙を流した。ファンへの感謝とお詫びの言葉、力道山との思い出などを語り、引退のテン・カウントを聞くと眼を閉じて号泣した。リングを降りる間際ニュートラル・コーナーへ歩み寄ると、鉄柱に頭を付け愛おしそうに撫で、リングをあとにした。

自宅が火災に遭い全焼してしまい、持っていた過去のビデオや資料がすべて焼失してしまった。その後、日本のプロレスファンから、自身の試合を収録したビデオを贈られた際には感激したそうである。

1994年、2000年には本国韓国で国民勲章を受章している。

2005年9月の「月刊朝鮮」によると、ソウル市内の病院に入院中で、頭突きの後遺症による脳血管疾患と高血圧・心不全・下肢浮腫を患っている状態であったという。体重は78kgほどまで落ち、10年前に再婚した夫人が看病に当たっていると韓国国内に報じられた。

2006/9/9、韓国ソウルのソウル蚕室総合体育館で開かれた「世界プロレスリング協会(WWA)2006ソウル大会」に、数少なき後輩たちのファイトを見守るために姿を現した。車椅子に乗った大木ことキム・イルが現われると、2000人あまりの観衆たちは熱い拍手を送り、彼の名前を連呼した。痛風にもかかって体の調子が相変わらずよくはないが、「今大会のような世界的大会が今後も開催されるように、韓国プロレスの発展のお手助けになりたい。多くの方々が心配してくれたお陰で健康状態がよくなった。熱心に後輩たちを後援するつもりだ。今後もファンがプロレスに多くの声援を送ってくだされば良いと思う」とのメッセージを残した。しかし2006/10/26、ソウル乙支病院において慢性心不全と腎臓血管異常による心臓麻痺により死去。77歳没。

死の直前、テレビ番組の企画でアントニオ猪木が病床の大木を訪問している。猪木のデビュー戦の相手は大木であり、若手時代力道山にしごかれていた猪木に親身に接してくれたのも大木であった。

獲得タイトル

  • WWAヘビー級世界王座
  • WWA世界タッグ王座
  • インターナショナル・ヘビー級王座
  • インターナショナル・タッグ王座
  • 極東ヘビー級王座
  • アジアヘビー級王座
  • アジアタッグ王座

得意技

  • ヘッドバット:大木は石頭として知られ、ヘッドバットと言うより「頭突き」と言った方が当てはまる。片手で相手の頭を鷲掴みにし一本足の体勢から投球フォームのように繰り出す独特の頭突きスタイルは「原爆頭突き」(または「一本足頭突き」)と呼ばれ、リングガウンの背中には原爆投下時のキノコ雲のような噴煙も描かれた。藤原喜明に受け継がれており、両者ともにヘッドバットの使い手として知られる。
  • 日本プロレス時代などに「足4の字固め」を決め技として使っていたこともある。
  • 国際プロレスのリングではよく“X固め”を得意技としていた。

逸話

  • 豊登、猪木の日本プロレス離脱により、馬場に次ぐ二番手の地位を築いていた大木であったが、猪木の日プロ復帰、坂口の入団などにより中堅の地位に甘んじていた1968年1月には、国際プロレス(当時はTBSプロレス)への移籍話が取り沙汰された。TBSプロレスは旗揚げシリーズで、エース候補として売り出しを図ったグレート草津、サンダー杉山がことごとくタイトルマッチ(TWWA世界ヘビー級選手権)でルー・テーズに敗れ、当初は看板選手として売り出す考えのなかった豊登まで駆り出されるなど、日本人陣営が手薄である事は明白であった。そこで、当時TBSプロレスのブッカーであったグレート東郷が大木に接触し、TBSプロレスへの移籍に一旦は合意。大木は一時は日プロに辞表を提出、TBSプロレスの興行が行われる予定の仙台へ来場したが、日プロ後援者らの介入で直前でこれを阻止され、大木はTBSへの移籍を断念する結果となった。この一件が後にユセフ・トルコによる東郷への暴行事件の伏線の一つとなった。
  • 得意技に頭突きを選んだ理由としては、当時朝鮮系は石頭というステレオタイプ的なイメージから力道山が「お前は韓国人だから頭を鍛えなさい」といわれたことに依拠する。映画力道山での初登場シーンは掛け声とともに鉄柱に突進するシーンである
  • 日本プロレスの崩壊後、韓国を拠点にしつつ、新日本・全日本の両団体に参戦していた大木であったが、1980年2月には視聴率の低迷にあえぐ東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に乞われる形で、国際プロレスに入団。しかし、国際プロレスの社長であった吉原功は全く関知しておらず、国際側と12チャンネル側の関係がさらにギクシャクする形となったことは否定できなかった。結局、大木はわずか9か月後の11月10日に退団。翌年には、国際プロレスは12チャンネルから放映を打ち切られて崩壊した。
  • 1968/12/1、宮城県スポーツセンター大会で、大木は左耳の半分が削がれ、大流血する壮絶なリング・アクシデントを経験している。この試合では大木は猪木とタッグを組み、ブルート・バーナード、ロニー・メイン組と対戦。大木の執拗な挑発に対してバーナードは角材を持ち出した。大木はその角材を自慢の石頭で受けようとし、頭を固定するため軽く首を振った瞬間に、バーナードが振り下ろした角材が左耳を直撃。上半身を鮮血で染めるほどの大流血となった。試合後、大木は病院に直行し14針縫合したが、医師の話では「あと2センチほどで左耳は完全に削ぎ落ちていた」というほどの大怪我であった。同様なケースとして、1959年にキラー・コワルスキーがユーコン・エリックの左耳を削ぎ落としてしまった事故が挙げられる。
  • 1970年代後半に交通事故に遭い、一命は取り留めたもののかなりの重症で、しかも頭の中にまでガラスの破片が入り込む程であった。それでもリングに上がり得意の頭突きを見せたが、大木は頭突きを続けながら、その頭の内部に入り込んだガラスの為流血をしたにもかかわらず、それでも頭突きを止めなかった。





バス・ルッテン
Bas Rutten

1965/2/24

オランダ北ブラバント州出身、アメリカ合衆国カリフォルニア州在住の総合格闘家。格闘技歴は極真空手二段、テコンドー二段。元UFC世界ヘビー級王者。

概要

母国オランダでキックボクサーとして活躍した後、1993年に旗揚げしたパンクラスに参加する。1995/9/1に鈴木みのるを破り第3代キング・オブ・パンクラシストになる。1996年1月に負傷のため返上するが、5月16日には暫定王者であったフランク・シャムロックを下し統一戦に勝利。9/7には船木誠勝を相手に王座防衛を果たし、同年10月をもって王座返上。以降、パンクラスにはゲスト的に参戦を重ねる。

1995年2月にオランダでチカラジムを設立し、その後もヨーロッパを中心にバス・ルッテン・アカデミーの設立やビバリーヒルズ柔術クラブで格闘技を教えたりと後進の育成にも尽力している。

1998/9/14、パンクラスで渡部謙吾のデビュー戦の相手を務め、TKO勝ちを収めた。

1999/1/9、UFC初参戦となったUFC 18のメインイベントで高阪剛と対戦し、TKO勝ち。同年5/7、UFC 20でケビン・ランデルマンとUFC世界ヘビー級王座決定戦を行い、判定勝ち。第4代UFC世界ヘビー級王者になった。しかし、高阪戦に続きルッテン寄りのレフェリングが議論を呼び(詳細はUFC 20を参照)、ルッテンはミドル級転向を表明、王座を返上する。しかし、その後UFCで試合を行うことはなかった。

2001/10/14、バトラーツに参戦。東京ベイNKホール大会に於いて、UWFルールでカール・マレンコに勝利を収めた。

2000/12/31、「INOKI BOM-BA-YE 2000」に出場しプロレスを初体験後、新日本プロレスへの参戦が決定し、2002/5/2に東京ドームで中西学を撃破した。その後も棚橋弘至や成瀬昌由とも対戦して勝利している。同年7月20日札幌では IWGP ヘビー級選手権試合で第31代王者の永田裕志に挑戦するもナガタロックIIでギブアップ負けを喫している。10/26福岡ではIWGPジュニアヘビー級選手権試合で第43代王者の金本浩二にも挑戦し、アンクルホールドで敗れる。

その後、練習中の腕二頭筋の断裂により格闘技を休止していたが、2006/7/22に、WFA (World Fighting Alliance) にてルーベン・ビシャレアル(ウォーパス)と対戦し1R 3分24秒ローキックでKO勝ち、約7年ぶりの総合格闘技復帰を果たした。同年に以前から悪くしていた膝の靭帯、足の付け根の筋肉、肋骨の手術を行った。

2007年、IFLのロサンゼルス・アナコンダスでコーチを務めた。

その他情報

  • 役者としてテレビドラマや映画出演でも活躍しており、PRIDEのアメリカ放送では解説を務めていた。
  • 2000年の練習中による腕二頭筋の断裂は本来なら手術を要する大怪我なのだが、彼には手術に踏み切れない理由があるということで実際に手術をしたかどうかは不明[
  • 試合後に「ルッテンジャンプ」と呼ばれた両足を開脚してジャンプするパフォーマンスを行っていた。
戦績
33試合28勝4負1分

 
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フロイド・メイウェザー・ジュニア
Floyd Mayweather Jr.
1977/2/24

アメリカ合衆国のプロボクサー。父親フロイド・メイウェザー・シニアは元ウェルター級プロボクサー。ボクシング史上に残る名トレーナー、叔父ロジャー・メイウェザーも元2階級制覇王者でトレーナーというボクシング一家に生まれ育った。「史上最速のスピードスター」と評価されるほどの圧倒的なスピードと超人的な反応速度、卓越したディフェンステクニックで相手を翻弄する試合を得意とする。階級を上げてからパワーは目減りしたものの、寸分の狂いもないタイミングで打ち出すダイレクトブローと常人離れした高速コンビネーションを武器に芸術的なKOを演出する。プロでの戦績は全戦全勝、史上初めて全勝のまま5階級制覇を達成するなど、2008年に一旦引退するまでの間パウンド・フォー・パウンド最強のボクサーとして評価されていた。現在はWBCのスーパーウェルター級で名誉王者の座に就いている。
  • プロボクシング: 41戦 41勝 25KO 無敗

獲得タイトル

  • アトランタオリンピックフェザー級銅メダル
  • 第22代WBC世界スーパーフェザー級王座
  • 第27代WBC世界ライト級王座(後に名誉王者に認定)
  • 第28代WBC世界スーパーライト級王座
  • 第10代IBF世界ウェルター級王座
  • 第33代WBC世界ウェルター級王座(後に名誉王者に認定)
  • 第37代WBC世界スーパーウェルター級王座





筑前りょう太
1973/2/24

椎葉 亮司、日本のプロレスラー。福岡県糟屋郡志免町出身(一時は博多区出身を名乗っていた)。リングネームは出身地に因む。血液型A型。元マスクマンSHIIBA(シーバ)。現在はNPO法人九州プロレス理事長であり中心レスラー。
プロレスによる地域興しを模索し、KAIENTAI-DOJO所属時に在住していた千葉では千葉商工会議所青年部の理事を務めていた。現在はプロレス興行の傍ら、子供の健全育成やスポーツ文化の増進を目的に、学校などでの講演活動も行う。

来歴

  • 九州産業大学在学時から体を鍛え、卒業後、プロレスラーになるためメキシコへ渡航。
  • 1998/1/4、「SHIIBA」という名の覆面レスラーとしてメキシコ・アステカブドーカンにてミル・マスカラス&ブルー・デモン・ジュニア組と対戦。パートナーはアイスキラー。
  • 帰国後、磁雷矢・飛影・SHIIBAの3人でルチャリブレ日本なるユニットを組み、華☆激に参加。大きな和太鼓を担いで入場し、リング上で演奏するパフォーマンスで場内を湧かせた。
  • 大量離脱後の全日本プロレスにも参戦していた。
  • KAIENTAI-DOJO(K-DOJO)所属になってからは「千葉ポートタワーズ」のメンバーとして活躍。その後、ヒールユニット「勤王党」のメンバーとなった。
  • K-DOJOでの活動と並行し新日本プロレスに魔界倶楽部のマスクマン「魔界2号」として参戦。巨体ながらテクニカルな部分を存分に披露した。だがIWGP U-30無差別級王座保持者である棚橋弘至とのマスク剥ぎマッチに敗れ素顔となった。後に、新日本プロレスの単発興行であるWRESTLE LANDにも再び魔界2号として参加している。
  • 2007/5/19に開催のパフォーマンスイベントRINGにて「レッツゴー!陰陽師」のダンスが行われた際に矢部野彦麿役の和泉元彌と共に坊主ダンサーズの一員として参加し注目された。
  • 生まれ故郷の九州で地域密着型のプロレス団体を立ち上げる夢を実現するため、KAIENTAI-DOJOからの脱退と九州プロレス設立を決意した。九州プロレスは2007/10/16、日本初のNPO法人によるプロレス団体として認証され、筑前は理事長に就任。
  • 2007/12/15にKAIENTAI-DOJO所属としての最終試合を行い、千葉商工会議所のメンバー等も多数応援に駆けつけた。
  • 2008/2/5、九州プロレス設立記者会見。2008年5/11、プレ旗揚げ戦。2008/7/6、福岡市天神の西鉄ホールにて旗揚げ戦を開催。

タイトル歴

  • UWA&UWF認定インターコンチネンタルタッグ王座(パートナー : TAKAみちのく) : 1回
KAIENTAI-DOJO
  • STRONGEST-K2003 優勝

入場テーマ曲

  • 初代:「WANT WALK A WAY」(メルソン)
  • 二代目:「黒田節」
  • 三代目:「offensive poune」(T.A.Factory)※キングレコード「KAIENTAI-DOJO」に収録

特記

  • 必殺技の前には「かつぐばーい!」、「とぶばーい!」などと予告の博多弁で雄叫びをあげてテンションを高めている。私生活やリング外でも博多弁で通した。
  • 一時期対戦相手に握手を求め、それに応じようとする相手に「嘘じゃー!!」と叫び襲撃するという手口も使っていた。
  • 以前のプロフィールでは、誕生日が1月4日だった。現在は2月24日となっている。
  • 好物は益正の牛すじ。筑前りょう太、SHIIBA、魔界2号で選手名鑑が分かれていたときも、このデータだけは共通だった。
  • 家庭での子育てぶりを綴るブログを書いている。
  • 観客60歳以上限定の興行「R-60」をプロデュースした。





中邑真輔
1980/2/24

日本のプロレスラー、総合格闘家。画家。京都府峰山町(現・京丹後市)出身。新日本プロレス(以下新日本)所属。京都府立峰山高等学校、青山学院大学卒業。
来歴
青山学院大学ではレスリング部と美術部に同時に在籍し、レスリング部で主将を務め活躍した。並行して和術慧舟會RJWでも1期生として練習を行っていた。画家としても展覧会に出展している。
2002年、新日本プロレスに入団(同期は山本尚史、田口隆祐、後藤洋央紀、長尾浩志)。同年8/29、日本武道館における安田忠夫戦でデビュー、セコンドには当時引退をして中邑を指導していた木戸修が付いた。レスリングでの実績とデビュー前に総合格闘技のトレーニングを行っていたことから、当時の新日本の格闘技路線の申し子として期待を受け、デビュー戦後はシリーズには帯同せずLA道場で総合格闘技のトレーニングを重ねるという新人としては異例の待遇を受けた。
2002/12/31、INOKI BOM-BA-YE 2002におけるダニエル・グレイシー戦で総合格闘技初参戦、2003/5/2には新日本「アルティメット・クラッシュ」でヤン・ノルキヤと対戦し総合格闘技初勝利を収めた。
2003/6/13、高山善廣が所有していたNWFヘビー級王座に挑戦。敗れはしたものの、高い評価を受ける。同年8月にはデビュー1年にも満たないキャリアながらG1 CLIMAXへ初出場を果たした。
最年少IWGP王者誕生・総合格闘技参戦
2003/12/9、大阪府立体育会館大会で天山広吉を破り、初挑戦にしてIWGPヘビー級王座を獲得。デビューから史上最速、最年少での王座獲得であった。同年大晦日のK-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!ではアレクセイ・イグナショフと対戦するが、イグナショフの膝蹴りを受けダウンし、すぐに立ち上がるもレフェリーの平直行が即座にTKOを宣告し敗北。中邑側は抗議を行い、審議の結果無効試合となった。2004/1/4、高山を破ってNWFヘビー級王座を奪取(その後封印)。2004/5/22、K-1 ROMANEXでイグナショフと再戦しギロチンチョークで勝利。
この頃から同じく次期エース候補である棚橋弘至、柴田勝頼と共に「新闘魂三銃士」と称されたが、2005年の柴田の退団によって団体の新三銃士構想は立ち消えとなった。
2004/11/3、大阪ドーム大会で中西学と組んで藤田和之、ケンドー・カシン組と対戦したがピンフォール負け。試合後にアントニオ猪木から鉄拳制裁を受けた。
2004/12/11に棚橋弘至と組み、IWGPタッグ王者決定戦にて佐々木健介、鈴木みのる組と対戦。棚橋が前日に左膝を負傷するアクシデントが見られたが、猛攻の意地で耐え抜き最後は棚橋が鈴木からドラゴン・スープレックス・ホールドでピンフォール勝ちを収め、第47代IWGPタッグ王座に就き、2005/10/30に陥落するまでに4度の防衛を果たした。
2005/1/4、棚橋を破ってIWGP U-30無差別級王座を奪取。3/26に全日本プロレスに流出したIWGPヘビー級王座に挑戦。対戦相手の小島聡の右腕を潰すと予告し、「負けたら丸坊主になる」とまで発言しこの一戦に望んだが時間切れ引き分けに終わり結局、両方とも実現することは無かった。
ヒールターン
2006/1/4、IWGPヘビー級王者ブロック・レスナーに挑戦したが、その圧倒的なパワーに屈し、10分もかからずに完敗を喫した。
2006年3月、会社は無期限の海外遠征に出すことを決意。この遠征は元IWGP王者の肩書が団体・対戦相手を制限するため、覆面レスラーとして行うと発表された。かつては海外遠征からの帰国後、王者となるのが日本プロレス界におけるレスラーの格上げの常套手段であったが、中邑の場合はこの手順を逆転させた稀な例である。遠征先では試合を一切行なわずに新日本ロス道場で汗を流し、9/24に帰国の挨拶。
2006/10/9、蝶野正洋とタッグを組み、ベビーフェイスからヒールへの路線変更を図った。また、半年間の海外修行でビルドアップされた肉体に合わせ、コスチュームもロングタイツからショートタイツに変更。長州力、中西学組相手に凱旋試合を行い、新技ランドスライドで長州から3カウントを奪った。
同月に行われたG1 TAG LEAGUEでは蝶野とタッグを組んでエントリー。決勝トーナメントにてジャイアント・バーナード、トラヴィス・トムコ組を撃破し決勝戦で棚橋、金本浩二組の王者タッグと対戦。最後は金本をランドスライドで叩き付け優勝。試合後に蝶野、バーナード、トムコと共に蝶野政権を築くと宣言。
2006/12/10にライバル棚橋の持つIWGPヘビー級王座に挑戦するが、ドラゴン・スープレックスで敗れ王座返り咲きはならず。
2007年3月、頸椎を傷め戦線を離脱。8/12、G1 CLIMAXの両国国技館において、決勝トーナメントまでコマを進めるも準決勝で永田裕志に敗北。その代償も大きく、肩鎖関節靭帯断裂および脱臼で3か月間の絶対安静と診断された。
2007/8/26に行われたLAST OF C.T.U興行の全試合終了後に稔、ミラノコレクションA.T.、後藤洋央紀、プリンス・デヴィットと共闘することを選択。因みに当時はBlackとユニット名が公式サイトで明らかになっていたが、稔曰く「蝶野のイメージが強すぎる」とのことでファンにユニット名を募集していた(後のRISE)。9/1に結婚披露宴を行なった。
2007/11/11に復帰戦を行い、メインイベントのIWGPヘビー級選手権試合終了後「次はこの俺と闘え」とマイクアピール。すると真壁刀義が乱入し「病み上がりで挑戦できるほどIWGPは甘くねぇんだよ」とかみつき、12/9の挑戦者決定戦にて真壁を下した。
IWGP王座統一、ノア対抗戦
2008/1/4、IWGPヘビー級王座を賭けて棚橋弘至と激突。ランドスライドで棚橋を破り、第48代IWGPヘビー級王者となった。2/17には3代目IWGPヘビー級王座を所持するカート・アングルとベルト統一戦を行い腕ひしぎ逆十字固めで見事タップを奪い、ベルト統一。約1年半に渡って新日本を悩ませていた3代目ベルトを取り返すことに成功。これに伴い4代目のIWGPベルトの制作が決定。その後、棚橋弘至を相手に防衛を果たしたが4/27、武藤敬司にムーンサルトプレスで敗れ、IWGPヘビー級王座から陥落した。
2009/1/4、後藤洋央紀と組んでプロレスリング・ノアの三沢光晴、杉浦貴組と激突。最後は杉浦を腕ひしぎ逆十字固めでタップを奪い勝利。以降、新日本とNOAHの対抗戦が継続されていった。2/15には棚橋弘至とIWGPヘビー級王座を賭けて8度目の対戦したが敗北。
2009/3/1にNOAHの日本武道館大会にミラノコレクションA.T.と共に乗り込み、杉浦貴、潮崎豪組と対戦。ミラノが潮崎にピンフォールを奪われ敗北を喫し、2度目の勝利はならず。同月に行われたNEW JAPAN CUPでは、1回戦で真壁刀義を破ったが、2回戦で後藤に敗れた。
CHAOS結成、三度目のIWGP王座
2009/4/5、真壁刀義とのシングルで対戦し、真壁と同ユニットG・B・Hに所属していた矢野通が真壁を椅子で殴打し、アシストを受ける形となった中邑が勝利を奪った。その後、G・B・Hを離脱した矢野らと共にCHAOSを結成。コスチュームも黒のロングタイツに変えた。CHAOSの他のメンバーのようなあからさまな反則やヒール行為などは行っていないが、ファイトスタイルが今まで以上に殺伐としたものになり、不気味さ、恐ろしさの観点から強さをかもしだすようになった。
2009年8月に行われたG1 CLIMAXでは全ての相手をボマイェ(顔面への膝蹴り)で白星を奪取し逸早く決勝トーナメントへ進出したものの決勝で真壁刀義に敗れ準優勝で終わる。翌日、準決勝で対戦した棚橋弘至が怪我により王座を返上。9/27にG1で敗北した真壁とIWGPヘビー級王者決定戦にて再戦。これをボマイェで勝利を収め、第53代IWGPヘビー級王者に載冠。なお、その日は最年少で同王座を獲得したときのテーマ曲Moving Cityで入場した。
2009/10/12にZERO1の大谷晋二郎、11/8の棚橋弘至、12/5の永田裕志と防衛戦を行い、いずれもボマイェで防衛を重ねていった。
2010/1/4、高山善廣と6年振りに激突。激しい攻防の末、中邑がボマイェで勝利。さらに2/14では中西学と対戦。この試合で中西は荒鷲掴みという通称“ボマイェ返し”を開発してきたが、中邑も“ボマイェ返し返し”として荒鷲掴みをクリアし5度目の防衛に成功した。4月にはNEW JAPAN CUP優勝者の後藤を破り、6度目の防衛に成功する。
しかし、5/3の真壁刀義との対戦で敗れ、王座を奪われる。さらに、試合最中に真壁の雪崩式パワー・スラムを受けた際に、古傷である左肩を負傷してしまう(肩鎖関節損傷)。その後も2大会はケガをおして出場するが、ドクターストップがかかり、治療に専念するため、長期欠場となった。
その後6/19の復帰戦でダニエル・ピューダーと対戦しボマイェで勝利を収めた。 さらに、前チャンピオンのリマッチ権により真壁刀義にIWGP挑戦を表明した。
芸術家として
中邑はペインティングを得意としている。学生時代からレスリング部と美術部を掛け持ち、双方で活躍してきた。岡本太郎にインスパイアされWEB上で彼の描く「プロレスラー」という作品が公開されている。そして自ら描いた100点を越える絵画をもって、以下の絵画展を主催した。
『TOKYO WRESTLING ARTS』中邑真輔 vs ロジャー・ミカサ 現代美術展
2008年12月12日 - 18日
東京・青山SPACE INTART GALLERY
その他
今でこそ総合格闘技色の強いスタイルであるが、学生時代はインディーから女子プロレスまで追いかける生粋のプロレスマニアであった。LLPWの旗揚げ当時のメンバーを暗唱できるなど、知識も豊富である。2008年2月に放送されたFIGHTING TV サムライの『P-1選手権 第1回プロレスクイズ王決定戦』では新日本チームの一員として出場し(メンバーは他に海野宏之+週刊プロレス記者1名)、その豊富な知識量の一端を披露してチームの優勝に貢献した。
高校の先輩に野村克也がいる。
なおインタビューにおいて、ファン時代にスコーピオのファンサービスに感銘を受け、プロになった現在、彼のファンサービスの良さを目標にしていると語っている。
他にも、テレビにも度々出演しており、『恋するハニカミ!』(相手は「当時は年下」の夏川純)や『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』などのバラエティ番組、マクドナルドや資生堂unoのCMに出演した。

タイトル

  • IWGPヘビー級王座(第34代、第48代、第53代。第34代獲得時に於ける23歳8か月での戴冠は史上最年少記録)
  • NWFヘビー級王座(第21代・獲得後、封印)
  • IWGP U-30無差別級王者(第2代・獲得後、封印→返上)
  • IWGPタッグ王座(パートナーは棚橋)

入場テーマ曲

  • Subconscious
  • Moving City(旧テーマ)
総合格闘技
5試合3勝1負1無効試合
K-1 ROMANEX
2004/5/22
アレクセイ・イグナショフ
2R 1:51 ギロチンチョーク
K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!
2003/12/31
アレクセイ・イグナショフ
無効試合
Jungle Fight 1
2003/9/13
シェーン・アイトナー
1R 4:29 V1アームロック
新日本プロレス
ULTIMATE CRUSH
2003/5/2
ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ
2R 3:12 ギロチンチョーク
INOKI BOM-BA-YE 2002
2002/12/31
ダニエル・グレイシー
2R 2:14 腕ひしぎ十字固め
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