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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/1



駿河海光夫
1920/1/1 - 2010/11/24

出羽海部屋所属の元大相撲力士、日本プロレス所属の元プロレスラー。大相撲時代は、身長186cm、体重98kg、最高位は東前頭14枚目。プロレスラー時代のリングネームは駿河海、身長186cm、体重105kg。本名は杉山光男。

来歴

静岡県静岡市出身。出生地は現在の駿河区。

天竜三郎一派の関西角力協会に入門したが番付掲載2場所ほどの1937年12月に解散となったため、日本相撲協会に復帰者とともに新規加入して、1938年1月場所に出羽海部屋所属より葵龍(あおいりゅう)という四股名で幕下付出で初登場した。

1939年5月場所より駿河海と改名してから順調に出世し、新十両の1942年1月場所に十両優勝、翌5月場所でも2場所連続十両優勝して1943年1月場所で新入幕を果たした。十両時代には、東富士(後に第40代横綱)、汐ノ海(後に大関)とともに大いに将来を嘱望されていた。汐ノ海のニックネーム「赤鬼」に対して、「青鬼」のニックネームで周囲から好一対と評された。組んでもよし離れてもよしの取り口で、突っ張って左四つ吊りに威力を発揮したが新入幕の場所に膝を怪我してしまい、その後は一度も勝ち越すことができずに1945年11月場所限りにて25歳の若さで廃業した。

大相撲時代の幕内通算成績は、在位4場所で、13勝19敗1分14休であった。

大相撲廃業後は1953年に力道山を頼ってプロレスに転向し、1956年には重量別日本選手権大会に出場して初代日本ジュニア・ヘビー級王者となった。その後、力道山との権力闘争に嫌気がさして引退した東富士とともにプロレス界を引退した。

2010/11/24、腸閉塞により、入院先の病院で死去。享年90歳。






アブドーラ・ザ・ブッチャー
Abdullah The Butcher
1936/1/1(?)

カナダ・オンタリオ州ウィンザー出身のプロレスラー。本名はローレンス・ポール・シュリーブLawrence Paul Shreve)、一般にはラリー・シュリーブLarry Shreve)。ニックネームは「黒い呪術師」。入場テーマ曲はピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』。

プロレス界を代表する悪役レスラーの一人。来日回数は140を超えており、歴代外国人レスラー最多である。

生年月日は長らく1936/1/1とされており、ジャイアント馬場も「ブッチャーは自分より年上だ」と語っていたが、実際は1941/1/11。親日家としても知られ、現夫人は日本人と韓国人のハーフである。

来歴
ネイティブ・アメリカンの父とアフリカ系アメリカ人の母の間に生まれる(専門誌やプロレス団体のパンフレットではスーダン出身と自称している。実際には母方の祖父がスーダンに住んでいたことがあるだけ)。少年時代は柔道と空手に熱中した。
1961年、デトロイト地区のプロモーターであったジャック・ブリットにスカウトされデビュー。デビュー当時は「プッシーキャット・パイキンス」、「ゼーラス・アマーラ」などを名乗っていたほか、現在の「アブドーラ・ザ・ブッチャー」に落ち着くまで何回かリングネームを変えている。また、海外武者修行中のサンダー杉山ともしばしばタッグを組んだ。
1960年代はカナダ各地を主戦場に、バンクーバーではドクター・ジェリー・グラハムと組んで1967年にクリス&ジョン・トロスからNWA世界タッグ王座(バンクーバー版)を獲得し、10月から11月にかけてはジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。モントリオールでは1969年にイワン・コロフからIWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している。1970年にはスチュ・ハートの主宰するカルガリーのスタンピード・レスリングでビル・ロビンソンと北米ヘビー級王座を争った。
1970年代前半はアメリカの五大湖地区を拠点に活動。1972/6/24には、オハイオ州アクロンにてアーニー・ラッドを破りNWF世界ヘビー級王座を獲得。ザ・シークの牛耳るデトロイトでは、ボボ・ブラジルを相手にNWA世界タッグ王座やUSヘビー級王座を巡る抗争を展開した。
南半球にも遠征し、1973年11月にはオーストラリアにおいてNWA世界ヘビー級王座に挑戦。王者ジャック・ブリスコからフォールを奪うも、ラフファイトが反則とみなされ王座は剥奪、幻の戴冠となった。ニュージーランドでは、1974/3/12にジョン・ダ・シルヴァを破り英連邦ヘビー級王座を獲得している。
1970年代半ばからは日本を主戦場としつつ、現在のホームタウンであるアメリカ南部のジョージア地区に進出、ジム・バーネットが主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングのトップ・ヒールとなり、1975/2/21にはロッキー・ジョンソンからNWAジョージア・ヘビー級王座を[11]、1977/2/11にはトニー・アトラスから同TV王座をそれぞれ奪取した。
1980年代は日本遠征の合間を縫って、エディ・グラハム主宰のフロリダ地区やジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック地区など当時のNWAの主要テリトリーにも特別参戦。フロリダではダスティ・ローデス、ワフー・マクダニエル、ブラックジャック・マリガンらと遺恨試合を展開した。ミッドアトランティックでは1983/11/24の『スターケード』、1985/7/6の『グレート・アメリカン・バッシュ』、それぞれの第1回大会に出場している。
また、この時期には日本参戦と並行してプエルトリコのWWCにも頻繁に遠征。同地の英雄カルロス・コロンやブルーザー・ブロディらと血の抗争を繰り広げた。ブロディ最後の対戦相手はブッチャーである。
1991年にはWCWに登場。同年10/27の『ハロウィン・ヘイボック91』における「チェンバー・オブ・ホラー金網電気椅子デスマッチ」(スティング、リック・スタイナー、スコット・スタイナー、エル・ヒガンテ組VSベイダー、ブッチャー、カクタス・ジャック、ダイヤモンド・スタッド組)では敗者となり、全身に電流を流された。
2008年12月にプエルトリコ、2009年4月にはカナダで引退試合を行った。ただし、それぞれ地域限定での引退であり、本人は「日本では生涯現役」と語っている。

日本での活躍
日本プロレス参戦期(1970-1972年)
1970年、日本プロレスの8月興行『サマーシリーズ』で初来日。日本ではほぼ無名の存在であったが、開幕戦のBI砲とのタッグ戦でジャイアント馬場からピンフォールを奪い、東京スタジアム大会での馬場との初シングルでは、それまでにない桁外れの場外戦を繰り広げるなど、シリーズが進むにつれて人気が沸騰。最終戦ではシリーズのエースであったカール・ハイジンガーに代わって、馬場の持つインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。
その後1971年、1972年と2年連続『ワールドリーグ戦』にアフリカ代表として参戦、1971年大会では優勝決定戦に進出するなど、一躍大物の仲間入りを果たした。

全日本プロレス参戦期(1972-1981年)
1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、同団体の常連となり、悪役として馬場やジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ザ・ファンクスをはじめとする強豪レスラーたちと幾多の抗争を繰り広げた。
馬場との対戦は全日本プロレスのドル箱カードとなり、その抗争は延べ20年の長きに渡った。PWFヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座などをめぐり、数々の死闘を重ねた。ブッチャー自身、「馬場との闘いはすべてが記憶に残っていて、すべてに満足している」「馬場というライバルがいたからこそ、私は日本の観客がなにを望んでいるか理解でき、彼らを喜ばすための技術を向上させることができた」と語っている。
1972年、デストロイヤーが日本陣営に加わると、彼との抗争を開始。初期の全日本プロレスを支える人気カードとなった。1974年の『第2回チャンピオン・カーニバル』では、3回の再試合が行われたが決着がつかず、両者失格。USヘビー級王座をめぐる一連の闘いは、お互いに隠し持った凶器で攻撃する凄惨なものとなり、足4の字固めを狙うデストロイヤーに対し火炎攻撃を繰り出したこともあった。
1975年12月の『オープン選手権』では、ハーリー・レイスの左肩を脱臼させ、途中棄権に追い込んだ。さらに翌日の「力道山十三回忌追善特別大試合」(日本武道館)では、「頭突き世界一決定戦」と題された大木金太郎戦[17]の試合前、欠場の挨拶をするレイスを急襲し因縁に火がつく形となった。1976年5月、『第4回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で馬場を下し初優勝。このリーグ戦における大木とのシングルマッチ(日大講堂)にレイスが乱入、エキサイトのあまり会場を飛び出してのストリートファイトとなり結果、交通機関を麻痺させる騒ぎを起こし警察沙汰となった。川崎体育館で行われたレイスとの決着戦は、ブッチャーのキャリアの中でもトップクラスの大流血戦となり、ノーコンテストに終わった。
1977年の『世界オープンタッグ選手権』ではザ・シークとの「地上最凶悪コンビ」を実現させ、ザ・ファンクスと抗争を展開。12/15に蔵前国技館で行われたザ・ファンクスVSブッチャー・シーク組の最終戦は、とりわけ壮絶な試合展開となった。ブッチャーがテリー・ファンクの右腕に凶器のフォークを突き立て、テリーが兄ドリー・ファンク・ジュニアを救出すべく左ストレートを連打する場面は多くのファンに記憶されている。その模様が日本テレビの全日本プロレス中継(同年12月24日放送分)にて全国に中継されたために反響も大きかった。苦情や抗議の声も寄せられたという。しかし、日本のプロレス史の中でも名勝負として語られるほどの記念碑的な試合となった。
1978年10月にはビル・ロビンソンを破り、PWFヘビー級王座を奪取。馬場を相手に1度防衛に成功するが、翌年2月のシカゴにおける再戦で敗れ、馬場に奪還されている。
1979年5月、『第7回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で鶴田を破り2度目の優勝[18]。同年8/26、新日本プロレスのトップヒールであったタイガー・ジェット・シンと組み、『プロレス夢のオールスター戦』(日本武道館)で馬場・猪木組と対戦した。同大会を挟んで行われた『ブラック・パワー・シリーズ』ではミル・マスカラスと抗争、執拗に覆面を剥ぎにかかるが、決着戦は両者リングアウトに終わっている。同シリーズで実現したボボ・ブラジルとの「黒人最強コンビ」は馬場、鶴田を苦しめたものの、最終戦で仲間割れした。同年10月にはレイ・キャンディとのコンビでインターナショナル・タッグ王座に就いている。
1979年12月、『世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦で、地獄突き誤爆に怒ったザ・シークの火炎攻撃を受け仲間割れ。以降は1970年代にカルガリー地区で流血の抗争を展開したキラー・トーア・カマタとコンビを組み、シークとは幾多の流血戦を繰り広げた。1980年、『第8回チャンピオン・カーニバル』ではレイ・キャンディとミステリアス・アサシンを配下に、テリー、ディック・スレーター、テッド・デビアスらファンク・ファミリーと軍団抗争を展開。同年10月には鶴田からUNヘビー級王座を奪取している。

新日本プロレス参戦期(1981-1985年)
1981年、新日本プロレスに移籍。新たにアントニオ猪木を標的とする。移籍の名目は「IWGP参戦」であったが、実際にリーグ戦にエントリーされることはなかった。
新日本ではバッドニュース・アレン、S・D・ジョーンズと「黒い恐怖軍団」を結成し、猪木や坂口征二らとの抗争を開始。タッグながら初代タイガーマスクとも対戦した。1982年1月の猪木とのシングルマッチはアレン乱入による反則負けに終わっている。猪木との試合はかみ合わないことも多く、その後はやや精彩を欠く存在となった。
1982年4月にはハルク・ホーガンとシングルで対戦、両者リングアウトに終わるも、強い印象を残した。さらにはワフー・マクダニエル、ダスティ・ローデス、ディック・マードックといった強豪レスラーとも対戦している。ラッシャー木村との共闘、仲間割れによる抗争アングルも組まれた。
この当時のことを新日の営業部長であった大塚直樹が回想しているが、「IWGPにエントリーさせなかったのは自分(大塚)の判断」(IWGPの次のシリーズの目玉外人にしたかったから)、「地方興行の際、タニマチとの宴会に嫌がらず参加してくれた」など、プロとしてフロントとの関係が良好であったことが明かされている。その証拠として、移籍時に交わした契約どおりのギャラが契約切れまできちんと支払われたと自著で述べている。

全日本プロレス復帰(1987-1996年)
1987年に全日本プロレス復帰。TNTとのコンビで『世界最強タッグ決定リーグ戦』に参戦した。ファンからは復帰を歓迎され、どの会場でもブッチャー人気が爆発して、全盛期であった1980年頃を彷彿させる大「ブッチャー」コールも起きるようになった。
1988年にはタイガー・ジェット・シンとの「凶悪タッグ」が復活。ブルーザー・ブロディ追悼試合ではスタン・ハンセンと対戦し、ブロディのチェーンで互いの額を叩き割る大流血戦となった。1990/9/30の「馬場デビュー30周年記念試合」においては馬場と初タッグを結成し、ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント組と対戦。馬場の左大腿骨骨折からの復帰戦の相手も務めた。その後、鶴田とのタッグも実現した。
1990年代前半にはジャイアント・キマラとのタッグが定着。ベビーフェイスに転向し始め、空手パフォーマンスや試合後のお辞儀で人気を博す。馬場同様に第一線からは退いて「楽しいプロレス」を担当するようになり、前座で観客を暖める役割を担った。

インディペンデント団体参戦期(1996-2000年
1996年、東京プロレス(第二次)に突如移籍すると、かつての凶器攻撃、流血戦が復活。同団体では高田延彦との異次元対決が実現した。1997年には天龍源一郎率いるWARに参戦し、北尾光司と巨漢タッグを結成。1999年から戦場としたグレート小鹿の大日本プロレスでは、BJW認定デスマッチヘビー級王座を獲得した他、アブドーラ小林との師弟対決が話題となった。

現在(2001年-)
2001年の『ジャイアント馬場三回忌追悼興行』(東京ドーム)を機に、三度全日本に復帰。同大会ではキマラと組み、テリー・ファンク、大仁田厚組と対戦した。
武藤敬司社長体制になってからも参戦している。2002年にはテリーとのタッグが実現。2003年には武藤やボブ・サップらと「チームW-1」を結成し、RO&Dと闘った。自身と同じくプロレス・格闘技の枠を越えて人気者となったサップを非常に気に入っており、インタビュー等ではしばしば「私の息子だ」と語っている。WRESTLE-1では2度にわたりSATA...yarnこと佐竹雅昭と対戦し、いずれもフォール勝ち。2005年のW-1では中嶋勝彦からも勝利を奪い、健在ぶりを見せつけた。
2007/5/9にハッスルに参戦し、芸人RGと対戦して勝利。12月には『世界最強タッグ決定リーグ戦』に12年ぶりに参戦、鈴木みのるとタッグを組んだが、勝ち点8で優勝決定戦進出はならなかった。同期間中IWA・JAPAN にも出場、ミックスドマッチでダンプ松本とのタッグが実現した。2008/1/2の『新春シャイニングシリーズ』における恒例のバトルロイヤルでは優勝を果たしている。
2009/7/19、神戸ワールド記念ホールにて開催されたDRAGON GATEの『真夏の祭典』に登場、ハリウッド・ストーカー市川より2分34秒でピンフォールを奪った。7/26の『ハッスル・エイド2009』(両国国技館)でタイガー・ジェット・シンとのコンビを20年ぶりに復活させ、HG&RG組と対戦するも仲間割れ。7/30の遺恨決着戦(後楽園ホール)では、お互い1度もリングに上がることなく両者反則に終わった。
2010/1/4、新日本プロレス『レッスルキングダムIV IN 東京ドーム』に参戦。新日本マット登場は25年ぶり。矢野通、飯塚高史、石井智宏と組み、テリー・ファンク、長州力、蝶野正洋、中西学組と対戦。飯塚と仲間割れして地獄突きを見舞い、テリー組の勝利をアシストする形になった。2/11、『大阪ハリケーン2010』で大阪プロレスに初参戦、8人タッグマッチに出場した。3/22、DRAGON GATE『COMPIRATION GATE 2010』に出場し、オープン・ザ・トライアングルゲート選手権で曙と初対戦。望月成晃にフォール負けを喫した。7/11、DRAGON GATE『KOBEプロレスフェステイバル2010』では曙と初タッグを結成。お笑いサバイバル・ハンディキャップドリームマッチに出場した。同18日には東京愚連隊主催で来日40周年記念興行『BUTCHER FIESTA~血祭り2010~』を開催。鈴木みのると組み、藤原喜明、NOSAWA論外組と対戦した。

リング外での活躍
ヒールでありながら、愛嬌のある独特のキャラクターと憎めない風貌で絶大な人気を集め、CMにも起用された。
1979年、河口仁による漫画『愛しのボッチャー』が講談社『週刊少年マガジン』にて連載開始。悪役ながらドジで憎めないブッチャーならぬ「ボッチャー」が、「ジャイアント葉場」「アントニオ猪林」らとドタバタを繰り広げるプロレスギャグ漫画で、ブッチャー人気の火付け役となった。翌1980年には「サントリーレモン」のテレビコマーシャルに出演、モデルの影山真澄と共演した[19]。CMソング『レモンのキッス』(アパッチ)のレコードジャケットにも起用されている。さらにレコード『ザ・ブッチャー』をリリース。ブッチャーが叫び、『全日本プロレス中継』で実況を担当していた日本テレビの現役アナウンサー、倉持隆夫と松永二三男が歌声を披露する異色の内容であった。
1981年、東映映画『吼えろ鉄拳』に出演。真田広之と共演、用心棒・スパルタカスを演じた。翌年には著書『プロレスを10倍楽しく見る方法』『続・プロレスを10倍楽しく見る方法』(訳:ゴジン・カーン)を刊行。いずれもベストセラーとなった。
これら以外にも、多くのテレビ番組やCMに出演している。ブッチャー本人によると、家族を日本に連れてきたことがないため「日本では俺は人気者だ」と言っても全然信用されないという。
エピソード
日本のプロレス界に一大旋風を巻き起こした悪役レスラーの一人である。全盛期のファイトスタイルは、隠し持った凶器(フォークなど)で相手を流血させ、地獄突きなどの空手殺法から、「毒針エルボー」と表現されたエルボー・ドロップでとどめを刺すというもの。1980年前後はマンネリ防止のためか、クラッシャー・ブラックウェルから伝授された山嵐流バックドロップをフィニッシュに用いていたが、定着はしなかった。空手の有段者であり、ブッチャーが息を吐きながら空手の構えをすると喝采が起きた。
その強烈なインパクトから、当時ゲームやマンガにおいて悪役レスラーが登場する場合、ブッチャーをモデルとしたキャラクターになることが多かった。また、小?中学生の間で「ブッチャー!」と叫びながら地獄突きをする行為が流行り、当人が全盛期を過ぎてもその行為は根強く残った。そうした理由からか、日本での知名度は今なお幅広い層にわたる。
「全日本プロレス中継」や大会パンフレット等では、しばしば「知名度No1外国人レスラー」と紹介されていた。大日本プロレス参戦時には、社長のグレート小鹿が『週刊プロレス』誌上で「集客力があるから(ブッチャーを)呼ぶんです。特に地方での集客が違いますね」と語っている。
相手を流血させるだけでなく、自らもよく流血した。そのため額は傷を負いすぎて皮膚が弱くなり、少し頭をぶつけただけでも流血するようになってしまった。昔の逸話であるが、ホテルのラウンジでブッチャーが一人で佇んでいる時に他の客が入店し、ブッチャーの存在に気付くや「プロレスは八百長なんだよ」と連れに言い始め、その日本語が通じたかは不明だがブッチャーは飲んでいたグラスを握りしめ破損させ、自らその破片を額にあて流血させ更にその場で自分の流血の額を縫い始めたというエピソードがある。
ミスター高橋は自身の著書の中で「今日の試合は流血は無しだ」とあらかじめ伝えられていたにもかかわらず、ブッチャーがこっそり隠し持っていた何らかの道具(カッターナイフを加工した物ではないかと解説されている)で自らの額を切り裂き流血、試合を台無しになってしまった事が何度かあったというエピソードを語っている。これについて高橋は、当時のブッチャーは既に全盛期を過ぎており(新日移籍時で40歳)、その衰えを隠すための彼なりの苦心から出た行為ではなかったかと推測している。
WCWにてタッグを組んでいたミック・フォーリーによれば、ブッチャーは打ち合わせの内容を覚えないので、試合前に打ち合わせすることはなかったという。また、自分で持ち込んだ凶器を入れた場所すら忘れたこともあったとのこと。
私生活ではケチで有名なようで、かつて遠征先でタイガー・ジェット・シンが同部屋に泊まった際、シンが起きる前に宿泊費を払わずホテルを出てシンを激怒させたというエピソードがある。また、食事をおごれば気さくに話してくれるという一面もある。幼少時に貧困にあえぎ、多くの人にお金でだまされた経験による行動と言われている。
来日の際にはしばしば老人ホームへ慰問に訪れている。近年の日本向けインタビューでは「親をリスペクト(尊敬)しろ。親を尊敬しない人間の面倒など誰も見てくれないぞ」「日本人はアメリカ風になりすぎて古い日本の良さを忘れている」など、悪役らしからぬ真面目な発言もしている。
また、米国ジョージア州アトランタで「Abdullah the Butcher's House of Ribs and Chinese Food」というバーベキューレストランを経営するという一面も持つ。

ジャイアント馬場との関係
ジャイアント馬場との関係はブッチャーに言わせると「葉巻仲間」である。葉巻を嗜むレスラーが少ないため、話をできるのは馬場くらいだった。会った時にはお互い手持ちの葉巻を1本ずつ交換して吸っていたという。
また、馬場が死去する少し前に、「ジャイアント馬場が自分に何か語りかけてくるが、何を言っているのか分からず声をかけると目が覚める」という夢を何度も見たとのこと。入院したとは聞いていたので、心配からそういう夢を見るのかと思っていたが、死んだと聞いた時には本当に驚いたという。このことについては「俺が死んだら馬場に聞いてみるよ。『あの時何を言いたかったんだ?』って」とコメントしている。

岡田彰布との関係
ルーキー時代の阪神タイガース・岡田彰布(現オリックス・バファローズ監督)に対し「こいつは、絶対に大物になる」と賛辞を送り、食事を共にするなど交流があった。岡田の後援会・岡田会は当時、ブッチャーの後援会もしていた。岡田は現在でも恩を感じており、2005年の阪神リーグ優勝の際には祝勝会にブッチャーを招待するプランもあったが、実現はしなかった。

獲得タイトル

全日本プロレス
  • PWFヘビー級王座:1回
  • PWF USヘビー級王座:1回
  • PWF南半球ヘビー級王座:不明
  • UNヘビー級王座:1回
  • インターナショナル・タッグ王座:1回(w / レイ・キャンディ)
  • チャンピオン・カーニバル優勝:2回(1976年、1979年)
NWA
  • NWA USヘビー級王座(デトロイト版):1回
  • NWA世界タッグ王座(デトロイト版):1回(w / キラー・ブルックス)
  • NWA世界タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / ドクター・ジェリー・グラハム)
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):2回(w / ドクター・ジェリー・グラハム、アーマン・ハッサン)
  • NWAカナディアン・ヘビー級王座(カルガリー版):1回
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAジョージアTV王座:1回
  • NWAニュージーランド・英連邦ヘビー級王座:1回
WWC
  • WWC世界ヘビー級王座:1回
  • WWCカリビアン・ヘビー級王座:2回
  • WWC北米ヘビー級王座:2回
  • WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:3回
  • WWCユニバーサル・ヘビー級王座:3回
  • WWCハードコア王座:1回
その他
  • NWF世界ヘビー級王座:2回
  • スタンピード北米ヘビー級王座:6回
  • カナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座(モントリオール版):1回
  • IWAインターナショナル・ヘビー級王座:3回
  • WCWAブラスナックル王座:1回
  • MWWFヘビー級王座:2回
  • TWA認定タッグ王座:1回(w / 大黒坊弁慶)
  • BJW認定デスマッチヘビー級王座:1回

入場テーマ曲

  • 必殺ドラゴン拳(カール・ダグラス)
    「吹けよ風~」以前に、短期間使用された。
  • 吹けよ風、呼べよ嵐(ピンク・フロイド)
    ザ・シーク、タイガー・ジェット・シンなど
    全日本プロレスの悪役外国人全般のテーマ曲となった    アルバム『おせっかい』『時空の舞踏』に収録。

 
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若松市政
1942/1/1

日本の元プロレスラー、マネージャー、現政治家(北海道芦別市議)である。北海道函館市出身。
来歴
電気技術者や港湾荷役作業者を経験した後、1972年に国際プロレスに一般社員として入社。リング運搬や会場整備の傍らトレーニングに励み、翌1973/9/29、31歳にして大位山勝三との試合でプロレスラーとしてのデビューを飾る。1981年に国際プロレスが崩壊するとカナダへ渡り、大剛鉄之助のブッキングで、悪役マネージャーとして活躍した。日本に帰国後、1984年から将軍KYワカマツのリングネームで、ストロングマシーン軍団の悪役マネージャーとして新日本プロレスに参戦し人気を博し、ストロングマシーン軍団解散後はアンドレ・ザ・ジャイアント、ケンドー・ナガサキ、ミスター・ポーゴの悪役マネージャーを務めた。1990年のSWS設立に際しては選手獲得等に動いたと言われ、SWS旗揚げ後は同団体内の道場である「道場・檄」の道場主に就任、ブッカーとして活躍、レスラーとしてもリングに上がっている。SWS崩壊後は、他のプロレス団体に参戦しつつ、1994年北海道に「道産子プロレス道場 元気」を設立した。
また高野拳磁が主宰していたPWCにも協力。何かを念じただけで相手が吹き飛ばされる「空気投げ」を実現させた。次第にその「宇宙パワー」は増強されていき、リング上で座禅を組み腕を広げただけで相手を悶絶させ、ついには指一本触れることなく失神に追い込んで勝利したこともある。公式記録は「大いなる宇宙のパワーによりKO勝ち」。
1999年、芦別市の市議会議員選挙において当選。市会議員ともなった。その後は目立ったプロレス活動はしていないが、北海道でのインディー興行で挨拶したり、「道場・檄」時代からの縁で畠中浩旭の「ASIAN SPORTS PROMOTIONS」興行に選手として参戦して、健在ぶりをアピール。
2007/12/31に後楽園ホールで行われたプロレスサミットでは、芸タッグランブルに大日本プロレスのグレート小鹿とのタッグで出場し、勝利を収めた。
エピソード
悪役マネージャーとしてブレイクしたが、元来非常に真面目な人物である。国際プロレス時代にはレスラーとしてデビューした後も資材運搬やレフェリングを行い、資金や人材面で苦労した団体のために尽力していた。
1976/9/13早朝、大分県での資材運搬中に、台風のための土砂崩れにより家財道具を持ち出している家族に遭遇した。トラックを停めて作業を手伝ったところ、偶然、災害取材に来ていたNHKスタッフがその姿を見つけて、「プロレスの選手も地元民に応援して、必死の作業を続けております」と現場中継し、若松の姿が全国で放映された。しかし、本人は夢中で作業を手伝っていたため、後日関係者から聞かされるまで、放映された事を知らなかったらしい。
1981/3/25、シリーズ最終戦陸前高田大会終了後に急性膵臓炎でダウンし緊急入院。4/2に退院したが、その足で宣伝カーで一関市に乗り込んで次期シリーズのポスター貼りをやった上で、単身運転し続けて東京まで戻った。
新日本プロレス参戦時には、白や赤のコスチュームにサングラス、手にはムチと拡声器をトレードマークに暴れ回り、観客から巨大な「帰れ!」コールを受けるのが常だった、なおそれを逆手にとってコスチュームの背中に「KAERE」と文字を刺れていた。悪役ではあるがコミカルなキャラクターで、観客に「ハゲ」と野次られると、「お前もいつかハゲるんだ!」と切り返すなどトークに軽妙さがあった。またアントニオ猪木に言い放った「お前を倒すのに3分もいらねぇ、5分で充分だ!」という台詞は語り草になっている。
新日参戦時の1985年に「俺はKYワカマツだ 檄!」というレコードを出した事がある。レコードジャケットには「歌、若松市政」とあるが、内容はラップに近く、歌詞は「お前ら!親孝行しろ」など真面目な内容だった。
新日参戦時、レスラーとしてメインを務めた事がある(猪木&上田組vsアンドレ&ワカマツ組)。その時実況をしていた古舘伊知郎には「シンデレラ中年」と呼ばれた。
新日参戦時、マネージャーであるにも関わらず試合中にリング上にあがることがあった。レフェリーである山本小鉄と殴り合いになり歯を折られた。レフェリーがマネージャーを殴るという前代未聞の出来事だった。
リングネームの「KY」とは、「国際プロレス」と、同団体社長だった「吉原功」の頭文字をとったもの。自らをプロレスラーとして送り出してくれた、両者への敬愛の念がこめられている。
マシーン軍団
将軍KYワカマツとして手がけたレスラーの中で最も著名なのが「ストロング・マシーン」「マシーン軍団」である。「ストロング・マシーン」は将軍KYワカマツに操られているとの設定で1984/8/24に後楽園ホールに初登場。最初は一人だったが「増殖」し、戦慄の殺戮マシーン「ザ・ストロング・マシーンNo.1、No.2」の二人組となり、最終的には1号から4号まで存在した。当時実況を担当していた古舘伊知郎はこのギミックがお気に入りだったのか、数々の名言で形容されている。
1~4号の見分け方は、2号は胸毛が生えている事と髪がちぢれっ毛である事、3号はシューズを深く隠すように着用している事、4号は上半身がたるみ気味である事である。
1号は平田淳嗣と言われたが、外見上は全く同じで見分けが付かない為、試合中にレフェリーの眼を盗んで入れ替わるトリックプレイを得意にした。その後、短期間だがヒロ斎藤、ジャイアント・マシーン(アンドレ・ザ・ジャイアント)、スーパー・マシーン(マスクド・スーパースター)も仲間入りした。
2号は当時から、新日マットにも参加したことのある「力抜山」という韓国人レスラーであることを、当時のリングアナウンサーである田中秀和が自身のブログにて証言した。なお、当時から、力抜山の名でリングに上がったときにストロング・マシーンのシューズをはいていたことや、2号の必殺技コーナートップからのローリングソバットを力抜山が国際プロレス時代に使用していたことより、この説が有力視されていた。
3~4号の正体は現在も明らかにされていない。3号は長身の大型レスラーでありながらグラウンドや関節技を得意とする老練なレスリングで、国際プロレスの長身レスラーヤス藤井ではないかと言われている。
4号はハワイ在住の日系人「ヒロ佐々木」ではないかと言われている。4号のラリアットを多用する選手は阿修羅・原という説もある。また、4号の正体は一人ではなく入れ替わりがあり頭突きが強い選手だったときには、国際プロレスに参加していた韓国人レスラーの南海山ではないかという説もあった。いずれにせよ、若松が率いていたこともあり国際プロレス人脈である可能性が高い。
また、ウワジマ・ストロング・マシンと言うワカマツ公認の一般人(愛媛県宇和島市在住の女性漁師)もいる。これはウワジマ・ストロング・マシンの実家が漁師・真珠養殖業の他、親子3代で地元・愛媛県や高知県で開催されるプロレスのプロモーターをしており、また彼女が熱烈なマシン軍団のファンだったために公認している。後に、魔界倶楽部の魔界19号にも公認されている。奇しくも彼女は2009/12/20に男児を出産し、血液型がB型だった事から「淳嗣」と名付けたと、自身の経営する水産会社のホームページで発表。現在は「新日に入団させて、マシン2世にするべく教育している」との事。
マシン軍団の増殖ギミックは、後に新日マットを混乱させた海賊男や魔界倶楽部、さらには宇宙パワー、マミー等、広くインディーにもみられる。
なお、前述のシングルレコード『俺はKYワカマツだ 檄!』のB面タイトルは『ストロング・マシーン We are No.1』である。こちらの曲は、マネージャー・若松に付きものの「カ・エ・レ!カ・エ・レ!」のコールで始まり、英語のラップ風歌詞の上から「ストロングマシーン!ウィーアーナンバーワン!」「ゴー・マシン・ゴー!ゴー・マシン・ゴー!」の若松のシャウト連呼がひたすら続くというもの。後半疲れたのかシャウトがトーンダウンする。2009年10月12日のNHK-FM「今日は一日プロレス・格闘技テーマ曲三昧」において、当時のIWGPヘビー級チャンピオンの中邑真輔のリクエストにより放送された。





拳王
1985/1/1

中栄大輔は徳島県徳島市出身のプロレスラー。格闘家。徳島県立徳島東工業高等学校(現徳島県立徳島科学技術高等学校)、明治大学卒業。岩手県在住。

経歴

3歳のときより日本拳法を習い始める。高校時代は全日本拳法高校個人選手権大会で優勝。2003年に史上最年少で全日本拳法総合選手権で優勝する。2005年の日本拳法フランス世界大会で優勝、2006年、2007年の全日本学生拳法個人選手権大会では2連覇を達成する。

みちのくプロレスの社長新崎人生にスカウトされ、幼い頃からプロレスに興味を持っていたことと、徳島ではヒーローという人生からスカウトされたということでプロレス入りを決意する。

2008/3/2、みちのくプロレス徳島大会にて、対アレクサンダー大塚戦でプロレスデビューする。
6月20日、後楽園ホール大会を最後に、武者修行の旅へ出ていたが、2009/6/19のザ・グレート・サスケデビュー20周年突入ツアー後楽園大会において、人生の呼び込みによりサスケの挑戦を退けたフジタ"Jr"ハヤトの前に現れ、東北ジュニアヘビー級王座への挑戦を表明した。

1年の武者修行を終えて凱旋試合が2009/9/5の岩手・矢巾町民体育館にて開催された東北ジュニアヘビー級王座。復帰戦となるその試合でいきなり第11代チャンピオンのフジタ"Jr"ハヤトよりベルトを奪取。第12代王者となる。

人物

  • 拳法で培った打撃には定評があり、ボクシング出身で同じく若手の日向寺塁との前座試合はみちのくの定番カードとなっており、会場を沸かしている。
  • 超大物ルーキーと言われながらプロレスに対する気持ちはとにかく貪欲で、若手ながら常に対戦相手だけではなくファンも意識し、チャンスがあれば他団体のリングにも上がりたいと語っている。




  

















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