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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/6



竹内宏介
1947/1/6

日本のプロレス評論家。元週刊ゴング編集長・日本スポーツ出版社元社長、のち編集顧問。静岡県熱海市生まれの東京都台東区出身。通称「熱血・週刊ゴング編集人」。現在の愛称は魂のプロレス請負人。現在は脳梗塞で倒れ病床にある。

来歴

幼少時代、力道山による空前のプロレスブームが起こり、竹内も例外ではなく、街頭テレビに映る力道山に熱中した。1965年にベースボール・マガジン社に入社し、格闘技専門誌である『プロレス&ボクシング』のカメラマンとしてプロレスに携わる。また、カメラマンでありながら記事も書いており、19歳の若さで『プロレス&ボクシング』、『月刊ボディビルマガジン』の編集長に就任するが、日本スポーツ出版社から新雑誌創刊のためにヘッドハンティングされたことを受け、1968年に日本スポーツ出版社に中途入社。そして『週刊ゴング』の前身である『月刊ゴング』を創刊する。ジャイアント馬場、新間寿という全日本、新日本両団体の中枢の人物に信頼された。編集長を退いた後も社長在任中も、『週刊ゴング』には連載の執筆や菊池孝・門馬忠雄などとの鼎談など必ず顔を出していた。

編集業の傍ら、東京12チャンネルで放送されていた国際プロレス中継の解説者としても活躍。そのハイテンションな喋り口が視聴者に受け、NETテレビの「ワールドプロレスリング」の解説者を兼任していた。

当時、ロサンゼルスでミル・マスカラスが「謎の覆面レスラー」として話題を呼んでいるという話を『東京スポーツ』の桜井康雄から聞かされた竹内はいち早くこれに目をつけ、マスカラスを3年間追い続ける。1971年、マスカラスは日本プロレスに初来日、期待に違わぬ大活躍を見せる。その7年後の1978年、竹内も「マスカラス専用解説者」として全日本プロレス中継解説者に就任する。以降、全日本プロレス中継のレギュラー解説者として活躍。放送内では「ボクはマスカラスファンですから」と公言していた(アナウンサーの倉持隆夫が「自他ともに認めるマスカラスファンの竹内さん」と呼びかけたこともある)。

全日本プロレス中継の解説者としては、先代の山田隆、田鶴浜弘が引退した後、1990年代初期より若林健治との通称・若竹コンビで人気を博す。常にハイテンションなコンビであり、試合そっちのけで喋ることも多かった。1992年を最後に放送席から離れていたが、1999/5/2、東京ドームで行われたジャイアント馬場引退記念興行より復帰し、以降2000年の全日本分裂・中継終了までレギュラー解説者を務めた。その直後の10/9、新日本・東京ドーム大会で新日本vs全日本の対抗戦が行われ、竹内はゲスト解説者として一回限りの「ワールドプロレスリング」復帰を果たした。

2000年以降は馬場元子派に付き、中継終了後もタイトルマッチの選手権試合宣言でリングにあがる等全日本プロレスを応援していたが、現在は執筆活動に力を入れている。2005年、国際プロレスの秘蔵映像を竹内が持っていることが分かり、DVD「伝説の国際プロレス」が発売された。

FMW(フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング)の名付け親でもある。

口癖は「どうもっ!」、「ですねっ!」。

自宅にプロレス関係のビデオが汗牛充棟の如く何千本とある様で、特にホームビデオが普及していない時代からの中継ビデオをも所持している。日本テレビで土曜深夜に放送していた番組「FULLスポーツこれくしょん」では若林健治を家に招待し、そのビデオストックの棚の前から中継したことがある(1988年頃)。ストックの中にはテレビ中継のない試合を自ら会場で撮影したものもあり、前記国際プロレス秘蔵映像もその中の一部である。国際以外でも、全日本の世界最強タッグ決定リーグ戦で実現したジャイアント馬場VS長州力のタッグ対決の映像などを所蔵していると語っている。

著書は「全日本プロレス馬場『戦略』の真実!?防御は最大の攻撃なり!!」「プロレス醜聞100連発」「昭和プロレス浪漫」「プロレス雑学簿」など多数。






赤城マリ子
1954/1/6

岩手県盛岡市出身の元女子プロレスラー。本名・加瀬谷 東子。

来歴

中学卒業後に上京。会社員として勤務後、全日本女子プロレスに入門。全女を経営する松永家とは親戚に当たる。

リングネームは赤木マリ子より2代目を襲名(初代は望月しのぶに改名)。後に表記は「赤マリ子」に変わった。

1970/3/19デビュー。

1972/10/11、ジャンボ宮本と組み、WWWA世界タッグを獲得。ペギー黒田、佐々木順子、柳みゆき、マッハ文朱とのタッグでも王座に君臨した。

シングルでも1976/3/15にジャンボ宮本よりWWWA世界王座を奪取。

選手晩年は覆面ヒールに転向し、シルバー・サタンとのシルバー・ペアを組んだ。

1979年7月引退。フジテレビ「全日本女子プロレス中継」解説者となる。

退社後は品川区で「マリ子の店」を経営していたが、2009年ごろ閉店。

店を経営してからはほとんどマスコミに現さなかったが、2010年に短編映画「ミステルロココ」に協力するとともに女優として出演も果たした。

なお、引退後に全女入りした立野記代が3代目赤城マリ子を襲名する話も出ていた。

タイトル

  • WWWA世界シングル王座
  • WWWA世界タッグ王座
  • 全日本軽量級

 
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キャプテン・ソルジャー
1974/1/6





日向あずみ
1975/1/6

本名:久住 智子、日本の元女子プロレスラー。千葉県松戸市出身。現役時代はJWP女子プロレスに所属していた。身長160cm、体重58kg。血液型A型(2007年1月に実はAB型であることが判明)。プロレスラーのキャリアにおいて、本名およびリングネームでの活躍で知られる。

人物

レスリングセンスが素晴らしく天才との評価を受けることも多いが、独特ののんびりした口調もファンに不思議な人気がある。

試合ではヒザを使ったスピードのある攻撃の方に目を奪われがちだが、実は相手の攻めを受けることが先行するタイプである。それが俗に言う「スイッチが入った」状態になると、気迫こもった鬼の攻撃が始まり一気に試合ペースを支配する。

JWP認定無差別級王座戴冠4度、通算防衛15度は歴代1位。

現在はフロントとしてJWPを支えている。また、トレーナーとして後進の育成にも努めている。

所属

  • JWP女子プロレス(1994年 - 2009年)

経歴・戦歴

1994年
  • 12/4、東京・後楽園ホールでのJWPの「三都市街戦2」シリーズ開幕戦における、同じJWPの先輩レスラー能智房代戦で、本名でデビュー。この興行では、後にJWP四天王と呼ばれる宮口知子(輝優優)、天野理恵子(カルロス天野)、本谷香名子(美咲華菜)もデビューを果たしている。
1995年
  • 1/15、千葉・君津市体育館で、デビュー後の初勝利を同期の倉垣靖子(倉垣翼)から挙げる。
1996年
  • 5/18、東京・大田区体育館での全日本女子プロレス主催「第1回ジュニア・オールスター戦」に出場。田村欣子の全日本ジュニア王座に挑戦し敗れるも、大会ベストバウト賞を受賞。
  • 8/10、東京・後楽園ホールで「JWP認定ジュニア王座決定ザ・ジュニア・ボディーヒート・ワンナイトトーナメント」において宮口知子、能智房代、天野理恵子を破り優勝。第5代JWP認定ジュニア王者となった。
  • 8/12、8/13、東京・日本武道館で2日間に渡って行なわれた全日本女子プロレスの「ディスカバー・ニューヒロイン・タッグトーナメント」に当時のJWPのエース、ダイナマイト・関西とのチームで出場。決勝戦でアジャ・コング・田村欣子組と対戦し、田村を旋回式ボディ・プレスで下して優勝。表彰式の写真が「週刊プロレス」誌の表紙を飾った。
1997年
  • 3/9、後楽園ホールでこれが引退試合となる矢樹広弓を下しJWPジュニア王座8度目の防衛。
  • 5/21、埼玉・コモディイイダ鳩ヶ谷店駐車場にて宮口知子の挑戦を雪崩式ダブルアーム・スープレックスで退け、JWP認定ジュニア王座の連続防衛回数を10回に伸ばした。
  • 6/8、神奈川・ 横浜文化体育館、にて当時福岡晶が所持していたJWP認定無差別級王座に挑戦するも敗れる。
  • 8/17、後楽園ホール昼夜興行の夜の部で宮口に敗れ、JWPジュニア王座から転落。
  • 9/20、後楽園ホールでのJWP認定後楽園タッグ王座決定ワンナイト・トーナメントに本谷香名子と組んで出場。優勝し後楽園タッグ王者となった。
  • 12/7、京都・KBSホールにおいて宮口知子とのタッグで、デビル雅美&福岡晶の保持していたJWP認定タッグ王座に挑戦するも、自身がデビルにフォールされ敗れる。
1998年
  • 2/11、東京・後楽園ホールで豊田真奈美&伊藤薫のJWP認定タッグ王座に挑戦。パートナーの福岡晶が豊田をムーンサルト・フットスタンプでフォール、同タイトルを獲得した。
  • 6/14、東京・後楽園ホールにおいてデビル雅美&キューティー鈴木に敗れてタッグタイトルを失うも、7/31、神奈川・川崎市体育館で再び福岡晶と組んで挑戦し、タイトル奪回(自身がデビルをフォール)。
  • 9/6、観客動員が低迷し始めていたことに危機感を持ち決起、後楽園ホール昼夜興行の夜の部でキューティー鈴木を初公開のみちのくドライバーIIでフォールし「フリーでやらせてもらう」と発言。
  • 10/11、「お客さん、一人でも多く集まれ!!」と題した興行(後楽園ホール)のメインで福岡と一騎討ちを行い、みちのくドライバーIIでフォール勝ち。
1999年
  • 2/24、東京・東天紅上野店にてJWP認定無差別級王座挑戦者決定トーナメント決勝戦でデビル雅美と闘いフォール勝ち。なお、本名の「久住智子」での試合はこの日まで、2/27の千葉・君津市民体育館以降のリングネームは「日向あずみ」となった。
  • 2/28、東京・後楽園ホールにて福岡のJWP認定無差別級王座に挑戦、途中ムーンサルト・フットスタンプをまともに受け苦しむも、みちのくドライバーII5発で勝利し第5代JWP認定無差別級王者となった。福岡はこの1か月後に引退。
  • 12/23、東京・後楽園ホールにて輝優優(宮口知子)の挑戦を受けての4度目の防衛戦。高角度後方回転エビ固めで敗れて無差別級のタイトルを失う。
2000年
  • 2/11、東京・後楽園ホールにて行なわれた全日本女子プロレスの興行において、前川久美子を破りオールパシフィック王座(第38代)を奪取。
  • 6/18、東京・後楽園ホールにおいて、コマンド・ボリショイとのタッグで全日本女子プロレスのZAP-I&ZAP-Tと対戦。反則勝ちでJWP認定タッグ王座を奪取するも、その後王座返上。ベルトは団体預かりに。
  • 7/15、東京・フジテレビ7階屋上庭園での全日本女子プロレスの興行で、渡辺智子に敗れ、オールパシフィック王座を失う。
  • 11/26、東京・ディファ有明において、コマンド・ボリショイにシングルで勝利。JWP四天王と呼ばれた選手達の中で、ただ一人ボリショイから勝利を挙げていなかった日向が、ボリショイ越えを果たした瞬間であった。なお、この興行から約3か月間、JWPは活動休止となった。
2001年
  • 2/12、アルシオン・後楽園ホール大会で浜田文子の保持するクイーン・オブ・アルシオン王座に挑戦するも敗れる。
  • 2/18、東京・ディファ有明にてJWPが活動再開。日向はコマンド・ボリショイのJWP認定無差別級王座に挑戦し勝利、第8代王者に。
  • 2/18、アルシオンのディファ有明大会で行なわれた「HYPER VISUAL FIGHTING TOURNAMENT ZION 2001」に出場。キャリアでは先輩にあたる玉田凛映や吉田万里子(共にアルシオン所属)を連覇して決勝戦に進出するが、GAMIに敗れて準優勝となった。
  • 8/31、東京・板橋区立産文ホールで春山香代子と組み、輝優優&元気美佐恵を破って第18代JWP認定タッグ王者になるも、9/10、東京・東京キネマ倶楽部でコマンド・ボリショイ&GAMIに敗れて王座を失う。
  • 12/9、東京・ディファ有明にてGAMIの挑戦を退け、JWP認定無差別級王座を防衛(3度目の防衛戦)。
2002年
  • 5/19、東京・ディファ有明にて輝優優を相手にドレスアップ・ワイルドファイト(ストリートファイトマッチ)にてJWP認定無差別級タイトル戦を行ない、5度目の防衛に成功。
  • 7/20、東京・新宿アイランドホールにおいて、輝優優とのタッグでコマンド・ボリショイ&GAMI組を破り、第20代JWP認定タッグ王者となった。シングルの無差別と合わせ、2冠王者として君臨。
  • 輝の退団→GAEA JAPAN移籍が表面化したあとの10/27、急遽輝との一騎討ちが組まれ、みちのくドライバーIIで勝利。
  • 11/3、東京・ディファ有明にてJWP10周年記念大会が行なわれ、日向は輝と組みJWP認定タッグの防衛戦を行なった。NEO女子プロレスの田村欣子&元気美佐恵の挑戦を受け、激闘の末にこれを退けてタイトルを防衛するも、輝のJWP退団により王座返上。また、日向は無差別級のタイトルも返上。
  • 11/10 - 11/15、コマンド・ボリショイと共に遠征先のメキシコで試合。アレナ・メヒコやアレナ・コリセオといった著名な会場にも出場する。
2003年
  • 3/6、東京・北沢タウンホールでのNEO女子プロレスの興行で、井上京子を破りNWA女子パシフィック王座&NEO認定シングル王座を奪取。

以後、40日間弱の間に3度の防衛に成功するも、5/5のNEO後楽園ホール大会において田村欣子によって奪回される。

2004年
  • 4/10、東京・北沢タウンホールでのNEO女子プロレスの興行で負傷(左膝前十字靭帯断裂)。以後、約2か月間の欠場。4/18の全日本女子プロレス・後楽園ホール大会でアメージング・コングが保持していたWWWA世界シングル王座への挑戦が予定されていたが中止となり、1年後に全日本女子が解散したこともあって、その後日向に挑戦の機会が訪れることは無かった。
  • 9/12、3年10か月振りとなるJWPの、東京・後楽園ホールでの興行。メインの6人タッグは「日向あずみデビュー10周年試合」として行なわれ、日向が記念試合を勝利で飾った。
  • 11/28、東京・東京キネマ倶楽部大会。10/17から行なわれたJWP認定無差別級王者決定トーナメントの決勝戦で、春山香代子を下して第9代の無差別級王者に返り咲く。
2005年
  • 2/20、東京・東京キネマ倶楽部において米山香織の挑戦を退け、無差別級タイトルを防衛。この試合は専門誌「Lady'sゴング」誌上で、この年の最優秀試合との評価を受けた。
  • 5/15、東京・後楽園ホールで伊藤薫の挑戦を受け、これを破って無差別級タイトルを防衛。
  • 9/18、東京・後楽園ホールでの無差別級選手権試合で、倉垣翼のファイアーバード・スプラッシュに敗れ、王座陥落。
  • 12/3、新宿FACE大会でフリーとなった輝と3年ぶりの一騎討ちを行い、みちのくドライバーIIで勝利。
2006年
  • 9/18、東京・後楽園ホールで豊田真奈美を倒し、第12代JWP認定無差別級王者となった。
  • 11/26、東京・東京キネマ倶楽部で闘獣牙Leonを相手に無差別級タイトルを防衛。
  • 12/24、東京・後楽園ホール。NEO女子プロレスのエースとして二冠王座を11回連続防衛していたライバル・田村欣子と、互いのベルト(NEO統一2冠王座とJWP無差別級王座)を賭けた3冠統一選手権試合を行なった。60分フルタイムドローで両者共に防衛となったが、日刊バトル大賞で全体の半数近くの票を集めてベストバウトに選ばれる等、名勝負として非常に高く評価された。
2007年
  • 2/11、東京・東京キネマ倶楽部でのGAMI主催興行で、ディック東郷とシングルで対戦。必殺技ダイビング・セントーンを受けてフォール負けを喫す。
  • 2/18、神奈川・川崎市体育館でのNEO女子プロレスの興行で、里村明衣子とのタッグで元気美佐恵&高橋奈苗と対戦。4者入り乱れての激戦を制したのは、日向のダイビング延髄ニーだった。
  • 4/8、4/15、2大会に渡って行なわれたJWP主催の「ディスカバー・ニューヒロイン・タッグトーナメントII」に後輩の中島安里紗と組んで出場。宮崎有妃&野崎渚、田村欣子&栗原あゆみ、高橋奈苗&夏樹☆たいようを破って決勝戦に進出したが、元気美佐恵&勇気彩に敗れて準優勝となった。
  • 6/10、東京・東京キネマ倶楽部で蹴射斗をフォールし無差別級選手権を防衛。
  • 8/26、東京・後楽園ホールでアメージング・コングの挑戦を受けてのJWP認定無差別級選手権。試合中に故障箇所の左膝を痛めて苦戦するも、勝利して4年前の因縁に決着。
  • 10/5、宮城・Zepp Sendaiでのセンダイガールズプロレスリングの興行に出場。中島安里紗とのタッグで里村明衣子&ティラノサウルス奥田と対戦し、ランニング・ニーアタックで里村をフォール。里村は負傷し、長期欠場となった。
  • 10/7、大阪・大阪府立体育会館でのZERO-SUN興行。高橋奈苗とシングルで闘い、激闘の末に敗れる。
  • 10/8、東京・新宿FACEで行なわれた「どすこいプロレス」に参戦し、メインで維新力と組み高山善廣&浜田文子と対戦。維新力が高山に敗れた。
  • 12/9、東京・後楽園ホールで米山香織の挑戦を受けてこれを退け、JWP認定無差別級選手権の5度目の防衛に成功。
2008年
  • 3/9、東京・JWP道場にて行なわれた道場マッチにおいて、高角度後方回転エビ固めで阿部幸江に3カウント奪われる。特別レフェリー・春山香代子の高速カウントとは言え、日向がシングルマッチで後輩選手に敗れることは珍しい。

なお、「卒業マッチ」と題されたこの試合で、高校の制服姿の阿部はともかく、日向はなぜか婦警の格好であった。

  • 4/29、東京・後楽園ホール。挑戦者決定リーグ戦を勝ち上がってきた春山香代子を相手にし、JWP認定無差別級選手権の防衛戦を行なうも、激戦の結果敗れ王座転落。

この後、負傷箇所であるヒザの手術のために約5か月間、欠場となった。

  • 9/23、後楽園ホール大会で輝優優と組み、NEO女子プロレスの田村欣子&元気美佐恵を相手に復帰戦。いきなり本領発揮とはいかず、田村のフィニッシュ・ホールドである、肘のサポーターを投げ捨ててのランニング・エルボーバットに沈む。
  • 11/24、東京・新宿FACEでの「どすこいプロレス」に出場。維新力のパートナーを務め、蝶野正洋&立野記代と対戦。蝶野をエルボーで倒し顔を踏みつけるなど大いに気を吐いたが、最後は維新力が蝶野にフォールされた。
2009年
  • 4/12、東京・後楽園ホールで春山香代子のJWP認定無差別級選手権に挑戦。熱戦が展開され会場も盛り上がったが、雪崩式キーンハンマー、ラリアット連打、キーンハンマーと春山の大技攻勢に力尽き、ベルトの奪取ならず。
  • 5/5、東京・板橋グリーンホールでのチェリー興行『ファンタジーイリュージョン2』に出場。ユニオンプロレスの高梨マサ子と対戦し、みちのくドライバーIIで勝利。この興行は5/3から4日間にわたって行なわれた「春の板橋女子プロレス祭り」の一環であり、その7興行の全試合から「週刊プロレス」誌や「日刊バトル」のコラムでベストバウトに選ばれたのがこの試合だった。
  • 7/9、年末の後楽園ホール大会で引退することを発表。
  • 12/13、神奈川・ラゾーナ川崎プラザソル大会。輝優優とのタッグで米山香織・さくらえみ組を破ってJWP認定タッグ、デイリースポーツ認定女子タッグ、インターナショナル・リボンタッグの3つのタッグタイトルを奪取。
  • 12/27、後楽園ホール大会でのタッグマッチ(日向・ボリショイvs春山・米山)を最後に現役を引退した。
2010年
  • 4/18、引退試合を収録したDVD発売を記念して後楽園ホール大会にてサイン会を開く。
  • 11/3、ユニオンプロレス新木場大会で行われたJWP認定無差別級選手権・米山香織vsチェリーにて、立会人を務めた。

タイトル歴

  • JWP認定無差別級王座(第5、8、9、12代)
  • JWP認定タッグ王座(第11、13、16、18、20、33代)
  • JWP認定ジュニア王座(第5代)
  • JWP後楽園タッグ(初代)
  • オールパシフィック王座(第38代)
  • NEO統一2冠王座(NWA女子パシフィック&NEOシングル)(第11代)
  • デイリースポーツ認定女子タッグ(第6代)
  • インターナショナル・リボンタッグ王座(第7代)

入場テーマ曲

  • 「WE ALL FALL DOWN」(John Sykes)





亀田大毅
1989/1/6

日本のプロボクサー。大阪府大阪市西成区天下茶屋出身。右ファイター。ボクシング家族である亀田三兄弟の次男で、亀田興毅の弟であり、亀田和毅の兄である。父の亀田史郎がトレーナーを務めていた。現WBA世界フライ級王者。
  



HIROYA
1992/1/6

日本のキックボクサー。本名は河部 弘也)。神奈川県愛甲郡愛川町出身。WMFアマチュアムエタイ世界選手権ジュニア部門ピン級金メダリスト。15歳でK-1デビューしたことから、デビュー当時は「最強の15歳」と称された。

2007年3月の中学卒業後、タイ・バンコクのセントジョーンズ・インターナショナルハイスクールへ留学し、学業をこなすと同時にムエタイの修行を行っていた。魔裟斗の後継者として期待されている。

国際大会出場

2005/3/19 - 26にタイのタンマサート大学で行われた「2005 W.M.F. WORLD CHAMPIONSHIP」に参加。男子ジュニア部門のピン級で優勝した。2006年2月23日 - 3月1日にはインドのバンガロール市内にあるインドアスタジアムで行われた「2nd OPEN ASIAN KICK BOXING CHAMPIONSHIP 2006」に参加。男子ジュニア・ローキック部門54kg級で優勝し、男子フルコンタクト部門48kg級王者との対決を制した。2006年3月に再びWMF主催の世界選手権に参加。男子ジュニア部門バンタム級で準優勝を果たした。

K-1参戦

2006年9月、魔裟斗が所属するシルバーウルフジムを単身で訪れ、自分の技術を見せた(当初、魔裟斗は彼のことを自分のファンだと思い込んでいた)。すると、その技術に驚いた魔裟斗が谷川貞治K-1プロデューサーにそのことを報告、同プロデューサーがそのことをHIROYA本人に伝え、K-1参戦が決定した。

2007/2/5、アマチュアルールでK-1 WORLD MAX 2007 〜日本代表決定トーナメント〜のワンマッチに15歳で参戦。20歳の高橋明宏を3Rにローキックでタオル投入によるTKOで下しK-1初勝利を飾った。

2007/4/4、K-1 WORLD MAX 2007 〜世界最終選抜〜において、第0試合として西村憲孝と対戦。1Rに3度のダウンを奪い、1RKO勝ち。

2007/4/19、タイ・バンコクのセントジョーンズインターナショナルハイスクールへ留学するため、日本を離れた。

2007/6/23、K-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMにおいて、18歳のオランダ人選手ロイ・タンとスペシャルマッチで対戦し、判定勝ち。

2007/9/1、タイでサクダー・ルークロムクラーオと対戦し、2RKO勝ち。

2007/10/3、K-1 WORLD MAX 2007 〜世界一決定トーナメント決勝戦〜において、高校3年生の韓国人選手クォン・オルチャンと対戦。お互いに最後までKOを狙う攻防となったが、勝負は判定での勝利となった。

2007/12/31、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!で開催された「K-1甲子園 U-18日本一決定トーナメント」に出場。1回戦で才賀紀左衛門と対戦し判定勝ちを収めたが、決勝で雄大と再戦し、打ち合った結果、延長ラウンドで判定負けでリベンジ失敗。

2008/1/3、「K-1甲子園」で優勝できなかったケジメとして、頭を丸刈りにした(1月11日のK-1 WORLD YOUTH 2008 記者会見で初披露)。

2008/2/2、K-1 WORLD MAX 2008で行われたオランダとの3対3対抗戦・大将戦でロビー・ハヘマンと対戦し、2RKO勝ち。

2008/4/9、K-1 WORLD MAX 2008 FINAL16で大晦日に対戦が流れた藤鬥嘩裟と改めて対戦し、判定勝ち。試合前から舌戦を繰り広げた。

2008/8/29、K-1甲子園 KING OF UNDER 18 〜FINAL16〜のK-1甲子園1回戦で園田顕悟と対戦。2Rに右フック、3Rに左ストレートでそれぞれダウンを奪うなどして判定勝ち。10/1、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのK-1甲子園準々決勝で平塚大士と対戦し、1R開始24秒2ノックダウンでKO勝ち。

2008/12/31、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜のK-1甲子園準決勝で嶋田翔太に3-0の判定勝ち、続く決勝では卜部功也に3-0の判定勝ちで優勝を果たした。

2009/2/23、K-1 WORLD MAX 2009で才賀紀左衛門と再戦し、2-0の判定勝ちを収めた。

2009/4/21、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL16で魔裟斗とエキシビションマッチで対戦した。

2009/7/13/、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL8で、総合格闘家キコ・ロペスと対戦。HIROYAは前日計量では1.7kgも体重超過した。2Rに右膝蹴りでダウンを奪うなどして3-0の判定勝ちを収めた。

2009/8/10、K-1甲子園 〜FINAL 16の62kg級トーナメント1回戦で西川康平と対戦し、3者とも30-29という僅差の判定勝ち。

2009/10/26、K-1 WORLD MAX 2009 FINALで行われたK-1甲子園準々決勝で日下部竜也と対戦し、2-1の判定勝ちを収めた。

2009/12/31、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のK-1甲子園の準決勝にて、野杁正明と対戦し、1・2Rダウン寸前まで追い込まれるなど終始圧倒されて判定負け。

2010年6月、セントジョーンズインターナショナルハイスクールを卒業し、帰国。同年8月、神奈川県相模原市(古淵駅)に自ら代表を務めるキックボクシングジム「Try Hard Gym」をオープンした。

2010/11/8、K-1 WORLD MAX 2010 -70kg World Championship Tournament FINALのスーパーファイトで久保優太と対戦し、0-3の判定負けを喫した。

21試合17勝6敗1分(2010/12/30現在)
















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