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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/7



デビル雅美
1962/1/7

日本の元女子プロレスラー。本名は吉田 雅美。福岡県北九州市若松区出身。身長168cm、体重91kg。怪奇派レスラー『スーパーヒール・デビル雅美』としての顔も持つ。

リングネームは吉田まさみ天神マサミデビル雅美と変遷。“デビル雅美”の命名の由来は、ヒール役だからという当時所属団体であった全日本女子プロレスの判断である。

女子プロレス第1次全盛期から一度も引退することなく活動していた唯一のレスラーで、日本の女子プロレスラーとしては最長の活動歴を誇る。2008/12/30の後楽園興行にて引退した。

所属

  • 全日本女子プロレス(1978年 - 1987年)
  • フリーランス(1988年 - 1992年)
  • JWP女子プロレス(1992年 - 2000年)
  • フリーランス(2000年 - 2008年)

来歴

中学校時代は吹奏楽部に所属。家計を助けるために高校を1年で中退、全日本女子プロレス入団後の1978/8/21、静岡県の駿府会館興行における小峰広子戦でプロレスデビュー。

全日本女子プロレス所属時は『デビル軍団』を率い、ヒールとして女子プロレス界で暴れまわった。また、この時期には歌手としても活動。アルバム『レイン・オブ・ティアーズ』やシングル『燃えつきるまで』『サイレントグッパイ』(渡辺典子主演のTBS系ドラマ「赤い秘密」主題歌)なども発表しており、歴代女子プロレスラー随一の歌唱力ともいわれる。

1987年に全日本女子プロレスを退団後(形の上では『国内引退』)、フリーランスとしてジャパン女子プロレスに参戦、神取忍とのシングルマッチが高い評価を得る。

ジャパン女子プロレス崩壊後、1992年にJWP女子プロレス所属となった。JWPには2000年まで所属している。

GAEA JAPAN解散以降はOZアカデミーを中心に引き続きフリーランスとして活動。また、孫弟子にあたる里村明衣子が立ち上げたセンダイガールズプロレスリングの新人選手の育成に尽力し、仙女の観客からは「お母さん」の愛称で親しまれている。

引退発表以降は積極的にあらゆる選手との試合をこなし、その中で、プロレスセンスを認めた上でデビュー当時の自身に体型が似ている松本浩代にはライガーボムを、体格にそぐわないパワーを持った輝優優にはファイヤーバレーを、かつてタッグを組んで以降子弟関係にあり、現在のヒールスタイルにデビルの影響を色濃く受けた植松寿絵には現在の女子プロレス界において唯一継承出来る人物としてスーパーヒールのキャラクターをそれぞれ伝承した。

2008/12/30、長与千種プロデュースの後楽園興行にて引退、31年弱に及ぶレスラー人生に幕を閉じた。

特筆すべき点としては、第一試合ではスーパーヒールとして登場。かつて共にユニットを組んで活動したことのあるダンプ松本・KAORUと組み、本興行限定で復帰した愛弟子の長与千種らと激戦を展開。ラストは長与をファイヤーバレーで破り、スーパーヒール初登場以来15年以上にわたる全勝伝説を守り抜いたまま、その存在に幕を下ろした。

最後のマイクパフォーマンスでは、1年に1度は今回の様なあらゆる団体が登場して女子プロレスの現状を披露するオムニバス形式の興行を行うことや、それによって黒字が出れば選手の怪我などを金銭的にフォローすることなどを目的とした女子プロレス基金的なものを設立することを提案し、自身の人生の大半を置いた女子プロレス界の未来を想う言葉を残した。

現在は地元に戻りミュージシャンとして活動している。






タニー・マウス
1976/1/7

本名:谷山 美奈、日本の女子プロレスラー。NEO女子プロレス所属。東京都世田谷区出身。

レスラーとしてのキャリアにおいて、本名およびリングネームでの活動で知られる。

所属

  • 全日本女子プロレス(1994年 - 1997年)
  • ネオ・レディース(1997年 - 2000年)
  • NEO(2000年 - )

経歴・戦歴

1994/11/3、全日本女子プロレス・いすゞ自動車大和工場体育館興行において、対藤本由美戦でプロレスデビュー。

デビュー当初は本名で試合を行っていたが、後にネズミをモチーフにしたキャラクターレスラー『タニー・マウス』に改名し、コミカルなファイトを見せる。

全日本女子プロレスの経営難により、他の選手と共に1997年に離脱。同年にネオ・レディース(現NEO女子プロレス)へ移籍し、旗揚げに参加する。

NEO女子プロレスでは宮崎有妃とのタッグチーム『NEOマシンガンズ』で活躍。チーム名はタニーのお気に入りの漫画である「キン肉マン」のタッグチーム「マシンガンズ」が由来。

2010/5/5、所属するNEO女子プロレスが同年12/31に解散となることが発表され、同時に自身もその日をもってプロレスラーを引退することを表明した

 
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渋谷修身
1976/1/7

日本の元総合格闘家。神奈川県三浦郡葉山町出身。

ファイトスタイルは、打撃技をあまり使わず、グラウンドにこだわるものであった。

パンクラスでは、近藤有己、國奥麒樹真と並んで「ハイブリッド三銃士」と呼ばれた。「心の近藤」「技の國奥」「体の渋谷」と表現された。

来歴

横浜高等学校でレスリング部に所属。同じレスリング部には宇野薫も所属していた。

1993年7月、高校3年時にパンクラスの第1回入門テストを受験し、合格した。宇野薫も受験したが、不合格となった。

1995/3/10、スコット・ビーザック戦でプロデビュー。

1996年、ネオブラッドトーナメントで3位となった。

1997/3/22、当時キング・オブ・パンクラシストであったバス・ルッテンとノンタイトル戦で対戦し、引き分けた。

1997/7/20、船木誠勝に初挑戦するも、フロントチョークで一本負け。

1998/12/19、鈴木みのるに初挑戦し、レフェリーストップによるTKO勝ち。

2000/9/24、キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチでセーム・シュルトに挑戦し、グラウンドの顔面パンチでTKO負けで王座獲得ならず。

2003/8/31、パンクラス旗揚げ10周年記念大会で新日本プロレスの矢野通と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

2004/11/26の試合を最後にリングから遠ざかり、2005/6/27付でパンクラス(パンクラスism)を退団した。

格闘技から遠ざかっている間、ボディビルなどの大会に出場するなどの経験をした。

2006/2/4、MARSで1年3か月ぶりに格闘技に復帰するも、ターレス・レイチに判定負け。

2006/11/25、CAGE FORCE 01でハマン・レイズと対戦、三角絞めで一本勝ち。

2007/11/25、HEAT5でジル・フレイタスとHEAT総合ルールで対戦し、判定負け。

2009/1/25、ZST.19で奥出雅之と対戦、アームバーで一本勝ちを収め第2代ウェルター級王座に就いた。

2010/7/3、ZST BATTLE HAZARD 04の引退ラストマッチで佐藤光留と対戦し、ストレートアームバーで一本負け。試合後には引退セレモニーが行なわれ、前田日明、鈴木みのるなどが駆けつけた。

通算戦績
90試合39勝34負17分





井上勝正
1970/1/7

日本の元プロレスラー。大阪府大阪市出身。血液型B型。身長170cm、体重80kg。現役時代は大日本プロレスに所属。

経歴

2002/6/30、東京・立川競輪場駐車場、vs松崎駿馬にてデビュー。

最初ボディビルとパワーリフティングの経験を積み、1995年、龍生塾に入りシュートボクシング(グローブ空手)を始める。

その後、龍生塾本部による格闘家集団「REX-JAPAN」の一員として大日本に参戦。

そして2002/6/3の試合後、プロレスラーになりたいと表明し大日本所属となる。

デスマッチ団体を豪語する同団体の中で、レスリング路線のエースとして君臨。主に第1試合に出場。

EAGLEプロ所属の近藤博之とタッグを結成していたが、互いにプロレスデビューが遅かった事から「チーム若作り」というチーム名となる。「チーム若作り」は、一時期大日本の第1試合に欠かせぬ存在になっていた(タイトル戦も第1試合で組まれた)。

晩年は、ハードコア戦線にも参入している。

その熱血漢あふれるファイトスタイルは、2007年4月と7月に対戦した、新日本プロレスの中西学をも驚かせ、高い評価を得た。

2009年4月より、過去に痛めた両膝の治療のため、欠場していたが、8月2日、自身のブログにて膝の負傷にあわせ、以前より右目視神経を負傷していたことを告白し、会見にてレスラーを廃業することが発表された。「引退」ではなく「廃業」とした理由は、タイトルを一つも獲得していなかった為と説明する。

8/28後楽園大会、引退セレモニーを行い、正式に引退した。その後はイベントで訪れていた横浜のスーパー銭湯に入社し、10月から自身の新ブログを開設、11/3横浜にぎわい座大会において宣伝をするなど、大日本との関わりを現在も保っている。






ゲーリー・オブライト
Gary Albright
1963/5/18 - 2000/1/7

アメリカ合衆国のプロレスラー。ネブラスカ州リンカーン出身。

一撃必殺とまで称された強烈なスープレックスでKOの山を築いたことから「殺人風車」「殺人スープレックス」などの異名で呼ばれた。

来歴

中学時代にアメリカン・カレッジスタイル・レスリング(レスリング)を始め、ネブラスカ大学時代にNCAA(グレコローマン)レスリング選手権スーパーヘビー級を3度制覇。オリンピックでのメダル獲得が有力視されていたが、親の看護のために断念。1987年12月に当時のWCW副社長カウボーイ・ビル・ワットのスカウトでプロデビュー。1988年にはカナダ・アルバータ州カルガリーのスタンピード・レスリングにてインド人ギミックのヴォッカン・シンVokkan Singh)を名乗り、マッカン・シンとのコンビで12/30にブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)からインターナショナル・タッグ王座を奪取している。

1990年6月、新日本プロレスに初来日。当時はゲーリー・オルブライトと表記されており、橋本真也との一騎打ちも組まれた。1991年8月にはUWFインターナショナルに参戦。グレコ仕込の高速スープレックスで高田延彦をはじめ対戦相手を次々とKOし、旋風を巻き起こす。特にフルネルソン・スープレックス(ドラゴン・スープレックス)は受身を取ることができず、「殺人スープレックス」と恐れられた。

1995年10月にスティーブ・ウィリアムスに誘われて全日本プロレスに参戦し、スタン・ハンセンやスティーブ・ウィリアムスとタッグを組み世界タッグ王座を獲得、1996年3月には三沢光晴の三冠ヘビー級王座に挑戦、世界最強タッグ決定リーグ戦にも参加するなど活躍した。またウィリアムス、ザ・ラクロスとともにユニット「トライアングル・オブ・パワーT.O.P.)」を結成し、活躍した。1996/6/30、ジャイアント馬場と組んで三沢光晴&小橋健太と対戦するという異色の試合も行った。なお馬場とオブライトは1995年の最強タッグで対戦している。1997/8/26での世界タッグ選手権でスティーブ・ウィリアムスと組み、三沢光晴&秋山準と対戦した際、全日本プロレスとしては異例(しかもタッグ)の8分42秒という試合時間で、その際のフィニッシュ・ホールドがオブライトのフルネルソンスープレックスからの体固め、三沢からのピンフォールである。1998年の最強タッグでは、ジャイアント・キマラと組んで出場した。

2000/1/7、アメリカのインディー団体WXWの試合中に心臓発作で倒れ急死。最後の来日はウルフ・ホークフィールドとのコンビで出場した1999年の最強タッグだった。晩年は糖尿病を患っていたといわれており、体力の衰えから基礎練習もままならない状態だったという証言がある。なお、ウィリアムスはオブライトの死後も、試合の際に毎回ユニット「トライアングル・オブ・パワー」のポーズ(両手の親指と人差し指で三角形を作る)を見せていた。

オブライトがまだフルネルソン・スープレックスを出していなかった頃、プロレスライターの流智美に「もしオブライトがフルネルソン・スープレックスを使ったら」と話を向けられた安生洋二は「下手したら死人が出る。絶対考えたくない」と言ったという。


  

















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