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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/8



阿修羅・原
1947/1/8

元プロレスラー。ラグビーの日本代表選手を経てプロレスに転向した。本名は原 進。長崎県北高来郡森山町(現諫早市)出身。

来歴

ラガーマン時代

長崎県立諫早農業高等学校在学中からラグビー選手として頭角を現し、進学した東洋大学、社会人としては近鉄に所属した。近鉄時代は日本代表に選出され、1976年には日本人として唯一世界選抜メンバーに選出されるなど、日本を代表するラガーマンとして活躍した。

プロレスラー時代

1976年秋、国際プロレスにスカウトされ入門。マスクマンとして先にデビューした後、1978年に素顔で正式にデビューした。その時の対戦相手は寺西勇。その後すぐに海外武者修行に出ており、修行先でのカナダでは2戦目に英連邦ジュニアヘビー王座を獲得(スケジュールの関係で即返上)し、同年冬に帰国。ラグビーファンである野坂昭如に阿修羅・原と命名された。1979年の新春シリーズより本格参戦し、5月にミレ・ツルノからWWUジュニアヘビー王座を獲得した。その後は同王座を巡りダイナマイト・キッドらと抗争を行い、国際プロレス次代のエースとして期待された。1980年4月には新日本プロレスに進出、藤波辰巳と勝負を繰り広げた(同年4月3日、WWFジュニアヘビー王座へ挑戦した試合では、原が鮮やかなバックフリップを決めたのに対し、藤波が当時では極めて珍しい後三角締めをフィニッシュに用いるという、印象に残る名勝負となった。)。しかしその前後からスランプに陥る。後にジュニア王座を返上してアメリカのミッドサウス地区(ビル・ワット主宰のMSWA)で再修行を行い、肉体をヘビー級へと変更した。帰国後の1981年5月にマイティ井上とIWA世界タッグ王者となるが、8月には国際プロが活動停止となった

その後はマイティ井上らと共に全日本プロレスに移籍。これをきっかけに天龍源一郎との縁が出来る。当初はフリーとしての参戦だったが、全日本参戦直後に実現した天龍とのシングル戦(1981/10/2)における原のファイトに感心したジャイアント馬場が所属選手になるように勧めたため、晴れて全日本と所属契約を結んだと言われている。その後天龍と原は1984年4月にもシングルで2度対決し、いずれの試合も好勝負としてファン・マスコミの間で名高い。また、1981年と1982年には天龍・原のコンビで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場している(まだ龍原砲とは呼ばれていなかった)。他にも井上や石川敬士と共にアジアタッグ王座を獲得するなど活躍した。1984年秋ごろに諸事情で全日本を一旦離れたが、1985年にフリー選手として全日本に復帰。この時期はラッシャー木村の国際血盟軍(木村・鶴見五郎ら旧国際プロレス選手の軍団)とともに闘うことが多かった。

当時のニックネームは“野生のダンプガイ”。1985年に全日本に復帰後のニックネームは“ヒットマン”。

1987年より天龍源一郎と共に「天龍同盟」を結成。天龍とのタッグ「龍原砲」は全日本で一時代を築き、長州力らジャパンプロレス勢が離脱した後の全日本を支えた。1987年9月にはPWF世界タッグ王座を龍原砲で獲得している。その後1988年11月に控室や事務所まで「借金取り」が来るほど金銭にルーズであることを理由に全日本を解雇となり、札幌で隠遁生活を余儀なくされる。しかしまもなく盟友・天龍の願いを受け1991年に天龍が所属していたSWSにて復帰。SWS崩壊後は天龍らとWARへ移籍。対抗戦の相手である新日本プロレスのリング上では、長州力、藤波辰爾らとも対戦をした。さらに、反WAR軍を結成し、スーパーストロングマシーンとタッグを組む。1994年引退。引退試合では天龍の厳しい攻撃を真正面から受け続けた。試合後、天龍は会場にいた原の家族へ向けてマイクを握り、「長らくお借りいたしました。今日、原をお返しします」と語りかけ、はなむけとした。

教育者時代

引退後は郷里の森山町に帰り、町の教育委員会に依頼されて森山町立スポーツ交流館で町民の健康づくりのスポーツコーチを務めた。その後、母校の長崎県立諫早農業高校でラグビー部コーチとなって、当時長崎県立長崎北陽台高等学校にラグビー名門校のお株を奪われて凋落傾向にあったラグビー部の建て直しに当たったほか、その他の学校でも筋トレの方法などを教えた。諫早農高は2002年、全国大会に出場した。しかしまもなくその職も離れ、現在は脳梗塞で体が不自由となった父の介護をしながら暮らしている(2004年に母が亡くなり父の介護に専念するようになったという)。






ルーク・ウィリアムス
Luke Williams
1947/1/8

ニュージーランド・オークランド出身の元プロレスラー。本名はブライアン・ウィッケンズBrian Wickens)。

兄貴分ブッチ・ミラーとのタッグチーム(ザ・ブッシュワッカーズ、ザ・シープハーダーズ、ザ・キウイズ)での活動で知られる。

来歴

ヘビー級王者ジョン・ダ・シルバにスカウトされ、1960年代後半にNWAニュージーランド(後のオールスター・プロレスリング)にてデビュー。スウィート・ウィリアムSweet William)をリングネームに、1970年代初頭より先輩格のザ・ブルートことブッチ・ミラーとのコンビで活動、東南アジアを経て1973年にカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに進出し、当時ニック・カーターと名乗っていたミラーとザ・キウイズThe Kiwis)を結成する。

1974年9月、カーター(ミラー)とのザ・キウイズとして、スウィート・ウィリアムスSweet Williams)の名義で国際プロレスに初来日、館山にてラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦した。国際プロレスには、1976年7月にも単独で再来日している。1979年5月にはミラーと共に全日本プロレスに参戦。同年よりチーム名をザ・シープハーダーズThe Sheepherders)に改め、ヒールのタッグチームとして各地を転戦、プエルトリコのWWCではアブドーラ・ザ・ブッチャーとも共闘している。

1982年から1983年にかけては、ミラーが一時的にニュージーランドに帰国したため、同じ南半球のオーストラリア出身のジョナサン・ボイドを新パートナーに活動。テネシー州メンフィスのCWAではジェリー・ローラー&ビル・ダンディーの帝王コンビやロックンロール・エクスプレス、テキサス州サンアントニオのSCWではディック・マードック&マニー・フェルナンデスなどのチームと抗争を展開した。

1984年からはミラーとシープハーダーズを再結成し、南部エリアを中心に各テリトリーのローカル・タッグ王座を再三奪取、日本では「タッグ泥棒」なる異名を付けられた。1987年2月には新日本プロレスに来日、IWGPタッグ王座の決定リーグ戦に出場している。

1988年末、チーム名をブッチ&ルークのザ・ブッシュワッカーズThe Bushwhackers)に変更し、ブッチとは従兄弟同士という設定でWWFに登場。WWFではコミック・リリーフを担当するベビーフェイスのベテラン・チームとして売り出され、そのコミカルなキャラクターで子供ファンの人気を集めた。1990年12月には、当時WWFと提携していたSWSに来日している。以降、WWFには1996年まで長期間に渡って在籍し、退団後もブッシュワッカーズ名義でブッチと共にインディー団体を転戦。2001/4/1には『レッスルマニアX-Seven』のギミック・バトルロイヤルに揃って出場している。

引退後はブッチとは別の道を歩み、かつて主戦場としていたプエルトリコに居住。近年はIWAプエルトリコ(International Wrestling Association)のブッカーを担当している。各地のインディー団体にもスポット参戦しており、2007年12月にはTNAに登場、2008年と2009年はROHに度々出場し、2010年6月はカナダ・ノバスコシア州のUCW "Summer Explosion Tour" に参加した。

2010/11/22、SMASHがプロデュースする「ワールド・レジェンド・リバイバル」の第1弾選手として、SWS以来の20年ぶりの来日が実現。JCBホールで行われた『SMASH.10』に出場し、児玉ユースケから勝利を収めた。

獲得タイトル

スタンピード・レスリング
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(カルガリー版):2回(w / ブッチ・ミラー)
PNW
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:3回(w / ブッチ・ミラー)
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / ブッチ・ミラー)
ジム・クロケット・プロモーションズ
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / ブッチ・ミラー)
WWC
  • WWC北米タッグ王座:4回(w / ブッチ・ミラー)
  • WWC世界タッグ王座:2回(w / ブッチ・ミラー)
UWF
  • UWF世界タッグ王座:2回(w / ブッチ・ミラー)
CWF
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / ブッチ・ミラー)
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ブッチ・ミラー)
CWA
  • AWA南部タッグ王座:2回(w / ジョナサン・ボイド)
  • CWAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ブッチ・ミラー)
SCW
  • SCWサウスウエスト・タッグ王座:2回(w / ジョナサン・ボイド、ボビー・ジャガーズ)
  • SCW世界タッグ王座:1回(w / ブッチ・ミラー)
SECW
  • NWAサウスイースタン・タッグ王座:1回(w / ジョナサン・ボイド)
  • NWAサウスイースタンUSジュニアヘビー級王座:1回

 
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ブル中野
1968/1/8

日本の元プロレスラー。米国のWWE世界女子王者を獲得した唯一の日本人。他に世界王座獲得多数。日本の女子プロレスが絶頂を極めた1990年代、その頂点として君臨していた。

本名は青木 恵子(旧姓・中野)。埼玉県川口市出身。あだ名はブルちゃんブル様。引退後は小料理店を経営している。

来歴

プロレス

前史

川口市立芝東中学校出身。学生時代はいじめに遭い、父親が強い子になるように無理矢理プロレスに入門させたが、バリバリのツッパリだった説もあり、はっきりとしていない。本人は母の影響でプロレスを見るのは好きだったものの、やるのは不本意だったという。当時が母が好きだったレスラーはアントニオ猪木。

駆け出し時代

本名の中野恵子にて1983年にプロレスデビュー。女子プロレスラーとしては恵まれた身長(170cm)をしており、それが最後まで役に立った。運動神経は当初は鈍かったが、努力で向上していった。本名で活動していた時代には全日本ジュニア王座も獲得している。太っているため、当初の同団体の慣例通り悪役(ヒール)に回された。当時先輩レスラーから無視され、誰も相手にされてなかった所をダンプ松本が世話するようになり、ヒールになったとも言われている。

悪役
極悪同盟

中野がレスラーとしてブレイクしたのは、パンクをモチーフにした、わかりやすいヒールの外観にギミックチェンジした後、ダンプ松本、クレーン・ユウらと組んだヒール軍団 "極悪同盟" での活動である。特にクレーン・ユウ引退後、ダンプ松本とのタッグチームはベビーフェイスのクラッシュギャルズとの抗争が人気を博し(このタッグチームは当時アメリカのマディソン・スクエア・ガーデンでも再現されている)、トップレスラーとしての地位を確立した。しかし、もともとヒール役は中野本人が志望したものではなく、上役からの指示によるものであった。ヒール役に指名され、かつインパクトのある右側の髪を半分残した坊主頭(ただし、この髪型は獄門党の初期まで)にダンプから切り落とされた時は号泣したことを後に告白している。

獄門党

1988年にダンプ松本が一時引退した後は自己をリーダーとした "獄門党" を結成、グリズリー岩本、アジャ・コング、バイソン木村らの実力派を従えて引き続きヒールの頂点として活動。クラッシュギャルズ引退後の1990/1/4に、後楽園ホールにて行われたWWWA世界シングル王座決定トーナメントで西脇充子を破って優勝し、第37代王者に輝く。以後約3年間に渡りチャンピオンとして全日本女子プロレスの屋台骨を支え、その強さから "女帝" と呼ばれるようになる。

善悪を超えたヒロインへ

その実力から、ヒールでありながら女子プロレス界の最高位を占めた。このとき、最終的にはベビーフェイスがヒールを倒すという従来の対立構造が崩れ、さらには獄門党から配下のアジャ・コング、バイソン木村の両名からなる「ジャングル・ジャック」の独立を許し、ヒール対ヒールというかつてなかった対立構図が団体の中心となった。また、女子プロレスではそれまでなかった金網デスマッチやチェーン・デスマッチの敢行、大柄・巨体のレスラーとしてありえないはずのムーンサルト・プレスやトペ・スイシーダといった宙を舞う華麗な空中殺法など、あらゆる意味で女子プロレスの歴史を塗り替える顕著な働きを見せた。特に、このころから始まった団体対抗戦(他団体トップ選手との試合)は盛り上がり、ここでは(善玉悪役すべてを飛び越えて)会社を代表して臨んだ。

1990/11/14に横浜文化体育館で行われたアジャ・コングとの金網デスマッチにて、金網ゲージの頂上から飛び降りて放ったギロチン・ドロップで、一気にブレイクする。

1992/11/26、川崎市体育館においてアジャ・コングに敗れてWWWA世界シングル王座を失った後、1993年からアメリカのWWF(現WWE)へ長期遠征し、ルナ・バションをマネージャーに女子戦線のトップヒールとしてアランドラ・ブレイズと抗争した。WWE世界女子王座を獲得した唯一の日本人レスラーでもある。WWEのRAW10周年のイベントの際にはショーン・マイケルズがスピーチで彼女について少し触れている。ジム・ロスはUnforgiven 2007の実況の中で、ベス・フェニックスについて「アメリカのブル中野」と評した。

1994年に日本に復帰し、神取忍と女子初のチェーンデスマッチを行い勝利を収めた。1996年に再びアメリカへ遠征。WCWにてメデューサらと抗争を繰り広げた。この頃から「お前らが結婚して、子供作っても、ブル中野のプロレスを見せてやる」と長々とマイクパフォーマンスをする等、1ヒールレスラーから、女子プロレス界のご意見番としてヒール、ベビーフェイスを越えた存在となっていく。

1997年に左靭帯2本を切ってしまい、プロレスラーを引退。ただし、正式な引退試合や引退式は行っていないが2011年内に、体重を再び100キロ代に戻し1夜限りの引退試合を行う予定。その後、再びダイエットして60キロ台にするという。

ゴルフ

引退後は渡米しゴルフ修行。第二の人生としてプロゴルファーを目指すが、プロにはなれなかった。

ダイエット

プロレスを辞めゴルフに専念する過程で、ダイエットを実施し、50kgの減量に成功した。このダイエットの体験を基に後にダイエット本(後述)を執筆した。テレビ番組『リングの魂』内の企画においても、ダイエットスクールを開講したことがある。

近年もダイエット術を披露するため2010年4月20日放送の『魔女たちの22時』で10年ぶりのテレビ出演を行った。ここで紹介したダイエット術は特殊なもので、ある「色」を部屋中に張り巡らし、心理的効果で食欲を減退させるというものであった。また、2010/2/14にムエタイ選手の青木大輔と入籍したことを同番組内で発表した。

小料理屋

昔から、料理が得意で、味・レパートリーの多彩なことで知られていた。またかなりの酒豪でもある。帰国後にそれらを生かして、2010/7/23、小料理店「中野のぶるちゃん」を開店した。場所はもちろん中野である。

獲得タイトル

全日本女子プロレス
  • WWWA世界シングル王座 : 1回
  • WWWA世界タッグ王座 : 3回(w / ダンプ松本、コンドル斎藤、岩本久美子)
  • オールパシフィック王座 : 1回
  • 全日本ジュニア王座 : 1回
WWF / WWE
  • WWF世界女子王座 : 1回
CMLL
  • CMLL世界女子王座 : 1回

入場テーマ曲

  • GENOCIDE (「BEAUTIFUL FIGHTERS」に収録)
  • 女帝〜Boss of the World〜 (「完全版全日本女子プロレス選手別テーマ曲集」に収録)

著書

  • 金網の青春 (自伝) フジテレビ出版(1991年12月)
  • ブル中野のダイエット日記―19号サイズの私が9号サイズに(中野恵子名義での出版)(1998年6月)
  • ブル中野の「ちがう自分」になる本―今日からあなたも変われる (中野恵子名義での出版)青春出版社(2003年3月)





井岡弘樹
1969/1/8

日本の元プロボクサー。元ストロー級日本王者・元WBC世界ストロー級王者・元WBA世界ライトフライ級王者。大阪府堺市出身。グリーンツダジム所属。エディ・タウンゼントの最後の愛弟子。現在はよしもとクリエイティブ・エージェンシー所属タレント(マネジメント契約)として活動する傍ら、井岡ボクシングジムの会長も務める。右ボクサータイプ。大阪経済大学経営学部第二部在学中。
  • 1987年、日本ミニマム級王者(これも、獲得時の最年少日本王者であり、日本最年少の世界チャンピオン獲得ともに今でも破られていない)
  • 1987年、WBC世界ミニマム級王者(2度防衛)
  • 1991年、WBA世界ライトフライ級王者(2度防衛)
戦績
42戦33勝8敗1分





キング・ファレ
1982/1/8

ファレ・シミタイトコ(Fale Simitaitoko)トンガ王国のプロレスラー。新日本プロレス所属。ラパハ出身。血液型O型。

来歴

11人兄弟の8番目という大家族の中で育ち3歳からラグビーを始める。6歳の時、一家全員でニュージーランド・オークランドに移住。ラグビーニュージーランド代表(オールブラックス)ジョン・カーワンに憧れ同国の名門大学へ進学。卒業後は徳山大学ラグビー部監督の紹介により、2002年、同大学へと進学した。その後チームの中心として活躍し中国四国地区代表チームへ幾度も成し上げた。

大学卒業後、2006年4月に株式会社サニックスに入社し福岡サニックスブルースの一員となるも、2年という短期間で退団。その後、堪能な語学力を活かし、英会話教師として働いていたが、ラグビー時代からの友人でありトンガ出身の大相撲力士南乃島の誘いで2009年5月、新日本プロレスの入団テストを共に受ける予定だったが、南乃島はこれをドタキャン。厳しいメニューをこなし見事合格を勝ち取った。

6月より練習生としてトレーニングを積み、一般公募していたリングネームから「キング・ファレ」と名づけられ、2010/4/4に中西学戦でデビューし敗北を喫した。


  



直井敏光
1966/5/6 - 1993/1/8

大阪府高槻市出身の元プロレスラー。

経歴

学生時代の1988年、パワーリフティングの全日本学生選手権で優勝の実績を持つ。

1994年、SWSに練習生として入門したが、デビューする事無くSWSの分裂を迎える。その後『道場・檄』『パライストラ』のメンバーが中心となって設立したNOWの所属選手となる。

1992/8/9、後楽園ホールでのプレ旗揚げ戦で鶴見五郎とエキシビジョン・マッチを行い、同年10/26、後楽園ホールでの畠中浩(現:浩旭)戦で正式デビュー、将来を嘱望されていた。

年が明けた1993/1/8、前日の福井県鯖江市での興行を終えて、リング機材を乗せたトラックで帰京する途中、福井県敦賀市の北陸自動車道上り線で道路の右側斜面に衝突し横転事故を起こした。病院に搬送されたが 同日12時40分、頭蓋骨骨折で死亡した。享年28(満26歳没)。

NOWでは直井の急逝を受けて、同年4月に大阪(大阪府立体育会館第2競技場)と川崎市体育館で『直井敏光追悼興行』を行い弔意を示した。






琴香
1990/1/8

ドラゴンゲート、
2009/4/6/ ドラゴンゲートの若手育成プロジェクト
「DRAGON GATE NEX」の神戸・ドラゴンゲートアリーナにおける、vsスペル・シーサー戦でデビュー。





トニー・ホーム
Tony Halme

1963/1/6 - 2010/1/8

元プロレスラー、政治家、作家、俳優、歌手で、ボクサー、ストリートファイター、ボディガードで、TVスター
新日時代
1990年の秋に新日本プロレスのレスラーによって見いだされたとき、彼は日本にいて、人気ロックバンド、チープ・トリックのボディガードを務めていた。・・・ホームは自分がいかにハリウッドのセレブに通じているか、プロレスのビジネスにも詳しいかを吹聴した。彼は、南カリフォルニアのハーブ・エイブラムスのもとで、トニー・ザ・バイキング・ホームとして多少プロレスもかじっていた。新日本の多くの選手は彼に良い第一印象を持たなかったが、なにせあの体格とルックスである。ホームのプロレス歴など、日本では殆ど知られていないこともあって、ホームはプロレスラーとしてではなく、ボクサーとしてプッシュされることとなった。別のスポーツから来たアウトサイダーとして、彼をスターに育てていくというアイデアだったのである。
ホームのデビュー戦は1990年10月前橋で、ソウルテイカーに3R、KO勝ちを収めている。
リング外でホームは、スコット・ノートンやロード・ウォーリアー・ホークとトラブルを起こした。ストリートファイトでノートンをKOしたらしいという噂が広まり、舞台裏ではシュートで最強の男との評判もたった。
93年6月に新日本を離れた。
MMA時代
1997/5/10、ジョージア州アトランタで開催されたUFC13であった。ヘビー級トーナメントに参加したもので、最初の対戦相手は米グレコローマン・レスリングで何度も優勝しているランディ・クートゥアで、クートゥアもまた、デビュー戦。
フィンランドへ
1999年頃までに、ホームは母国でセレブになっていた。90年代後半に帰国してからは、フィンランド版の「アメリカン・グラジエーター」のような番組に、ビキンキ・ザ・バイキングとして出演していたからだ。ここから彼は活動を広げてゆく。
レコードは何枚か出したが、なかでも自分自身を歌った曲「ビキンキ」(Viikinki) は99年にフィンランドでゴールドディスクを獲得した。本は4冊出版、なかでも「神は慈悲深いが、俺はそうではない」が有名。2つの映画にも出演した。講演活動も開始し、「ドラッグディーラーは全員ロシアの牢屋に入れろ、なぜならあそこはうんと厳しい場所だし、コストの節約も出来る」などと主張し始めた。
これ以上の移民を許すまじ、等と主張する極右のトゥルー・フィン党から2003年に国会議員選挙に出馬、貧困層の支持を集め当選。評論家は、選挙民の現状への抗議の現れだと分析したが、人種差別的な極右勢力の台頭を危険視する向きもあった。
当選の翌日、彼はフィンランド大統領タルヤ・ハロネンのことをレスビアンだと呼んだ。レスビアンが大統領になれるなら、自分が議員になってもおかしくないだろうという話だった。ハロネン大統領はたしかにマニッシュな顔立ちではあったが、レスビアンではなかった。フィンランドのマスコミは大騒ぎとなった。ホームは後に、侮辱するつもりはなかった、大統領がレスビアンであるような気がしただけだが、実際には違っていたと謝罪した。政治家ホームはタブロイド紙に始まり、結局そこから脱出することはなかった。
その数ヶ月後、彼は家庭内の争いごとで拳銃を撃った。けが人は出なかったが、拳銃は不法所持だった。ホームは,鎮痛剤とアルコールのせいだったと説明、ドラッグテストの結果ステロイドが陽性となり、警察が自宅からステロイド剤を押収した。ホームは、知らない間に飲み物に混入されたと説明した。その後彼は昏睡状態に陥った。彼の公判は国内で生中継され、4ヶ月の職務停止処分を受けたが、議員を辞職することはなかった。
2006年には意識混濁で精神病院に収容されたり、肝硬変と診察されたり、すい臓炎を患ったりした。永年の飲酒のせいであった。

 









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