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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/10



堀田祐美子
1967/1/10

日本の女子プロレスラー。身長168cm、体重78kg。兵庫県神戸市出身。

所属

  • 全日本女子プロレス(1985年 - 2003年)
  • フリーランス(2003年)
  • AtoZ(2003年 - 2006年)
  • フリーランス(2006年 - )

経歴

極真会館の元世界王者・中村誠の下で空手を学ぶ。全日本女子プロレス入団。この時受けたオーディションの模様はテレビ録画されていて、堀田のすぐ横に、後のダイナマイト・関西となる鈴木智江子が映っている。

1985/6/5、北海道・苫小牧スポーツセンターにてvs宇野久子(後の北斗晶)&神崎文枝でデビュー。パートナーは仲前芽久美(後のドリル仲前)。

1988年に西脇充子とファイヤージェッツを結成。「闘えファイヤージェッツ」でレコードデビュー。

1990年代中盤からは主力選手としてのポジションを確立するが、基礎的な実力に疑いはなかったものの、試合構成力や観客へのアピール力といったプロレスラーとしての必須能力に難があり、WWWA世界シングル王座戦線では後輩のアジャ・コング、豊田真奈美などの後塵を拝する。

1997年の全女選手大量離脱の際には全女に残留し「新生全女」をアピール。

1998年7月にはスポーツ平和党、2001年5月には自由連合より参院選比例代表候補として出馬する。

2003/5/11の横浜アリーナ興行にて全女退団を公式アピール。

2003/6/24にアルシオンを吸収合併しAtoZを旗揚げするも、AtoZは2006/5/3の後楽園ホール大会を最後に解散。以降フリーランスとして、伊藤道場、アイスリボン、ガロガなどを主戦場とする。ヒールの立場に立つことが多くなったが、前述の欠点は解消されておらず、ファンから厳しい評価を受けることが多い「リアルヒール」の扱いを受けることが多くなった。

2007年10月からCHICK FIGHTS SUNに参戦するようになったが、参戦に際し高橋奈苗代表に連日のように同じ内容のメールを送付して参戦をしつこくアピールし、さらに自らリングネームを「KY堀田」と改め、しまいには「入場テーマのCDが壊れた」という理由で、自分の入場テーマをア・カペラで唄いながら入場するなど、アピール力に難を持つ自身の欠点を逆手に取ったような「KY」なキャラクターを発揮。SUNのマットを混乱に陥れている。

2009年より「パッション・レッド」に加入。「パッション・ホッティー」のリングネームを名乗る。






フランシスコ・フィリォ
Francisco Filho
1971/1/10

ブラジル出身の空手家(四段)、キックボクサー。「一撃」「極真の怪物」の異名を持つ。極真会館(松井派)所属。なおブラジルポルトガル語でFilhoは「息子」を意味する。またネイティブ発音に従い、lhoはリョと一般的に表記される事が多いため、ブラジル関連メディアなどでは、フランシスコ・フィーリョあるいはフィリョと表記される場合もある。「フィリォ」の表記は帯に刺繍されている名前及び本人の日本語のサインによる。

空手の師匠は磯部清次、K-1出場に際してはアメリカでモーリス・スミスにキックボクシングを学んだ。

来歴

フィリォが空手家を志した動機は幾つかあるが、その一つとして、『キックの鬼』が挙げられる。彼が幼い頃、ブラジルでは梶原一騎原作の日本アニメ『キックの鬼』が放送されていた。その主人公沢村忠(ブラジル人には、サワムラという名字が「サヴァムー」と聞こえていたという)の活躍にフィリォは憧れ、強い男になりたいという思いが芽生えたという。

1991年11月に行われた極真会館主催の第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会に出場。4回戦でアンディ・フグに一本勝ち(止めがかかってからフィリォの放った上段回し蹴りによる失神KO。実際には反則になるが、最高審判長を務めていた大山倍達の「止めがかかったとはいえ、その不意をつかれる者は勝者ではない」という判断により一本となった)。兄弟子のアデミール・ダ・コスタが第4回大会でアンディに敗れていたため、リベンジを果たした形となった。同大会でベスト16となり、敢闘賞を受賞した。

1995/3/18、極真会館総本部において百人組手を完遂。

1995/11/3 -11/ 5、第6回全世界空手道選手権大会(極真会館松井派主催)第3位

1997/4/20、第1回全世界ウェイト制空手道選手権大会(極真会館 松井派主催)重量級優勝

1997/7/20、K-1初参戦。前年度K-1GP王者であり、極真空手ルールでは勝利を収めているアンディ・フグとK-1ルールで再戦し、1R後半に出した一発のパンチで失神KO勝利して返り討ちにした。前年度のK-1王者を文字通り“一撃”で沈めたフィリォの登場は、極真カラテの神話性を復活させるかのような衝撃を与えた。K-1主催者の石井和義館長は当時のインタビューで、「フィリォの中に大山倍達総裁の姿を見た」と語っている。

1999/4/25、K-1 REVENGE '99にて同年のK-1GP王者アーネスト・ホーストに1R失神KO勝ち。敗れたホーストは「この時に初めて本気で引退を考えた」と語っている。

1999/11/5 - 11/7日、第7回全世界空手道選手権大会(極真会館松井派主催)優勝。決勝戦で数見肇を破る(外人選手として初の世界選手権王者となる)。

2000/4/23、K-1 THE MILLENNIUMでジェロム・レ・バンナに自身のお株を奪われる左ストレート一撃で1R失神痙攣KO負けを喫したシーンは「千年に一度のKO劇」と評された。

2001/12/8、K-1 WORLD GP 2001決勝大会で、ピーター・アーツ、アレクセイ・イグナショフに勝利するが、決勝戦でマーク・ハントに延長判定負けし、惜しくも準優勝。

2002/8/10に開催された一撃第2回大会より大会代表およびプロデューサーに就任した。

2004/5/30、一撃 5.30 ICHIGEKIにて、前年度K-1WGP王者であり、同年のK-1WGPでも連覇を達成したレミー・ボンヤスキーと対戦し、スタンディングダウンを奪って勝利。この試合を最後に現役から引退した。

2006年5月には、ブラジルに「フランシスコ・フィリォ 一撃アカデミー」を設立。

現在は現役を引退して、極真会館松井派ブラジル支部の「監督」を務めており、グラウベ・フェイトーザ、アレキサンダー・ピチュクノフ、エヴェルトン・テイシェイラらを指導している。

獲得タイトル

  • K-1 WORLD GP 2000 in 横浜 GP予選トーナメント 優勝
  • K-1 WORLD GP 2001 in 福岡 敗者復活トーナメントAブロック 優勝
  • K-1 WORLD GP 2001 準優勝
  • 第7回全世界空手道選手権大会 優勝(1999年)

 
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菊タロー
1976/11/17
(1976/1/10(今宮戎神社の「十日戎」の中日)生まれ、今宮戎神社境内出身を名乗っていた)

日本のプロレスラーで、覆面レスラー。大阪府大阪市生野区出身。かつて大阪プロレスにおいてえべっさんのリングネームで活躍。

菊タローはリングネームであり、また覆面レスラーの素顔ならびに本名は正式には公表されていないが、過去の経歴やリングネームが本名から1文字取ったことを明かしていること、さらに試合中にネタとしてマスクを脱いで見せる素顔などから、その正体は菊澤光信だと言われている。






レミー・ボンヤスキー
Remy Bonjasky

1976/1/10

スリナム共和国パラマリボ出身。現在の国籍はオランダのキックボクサー(バックボーンはムエタイ)、映画俳優。チームボンヤスキー所属。オランダ大学卒業。元投資銀行員(ABNアムロ銀行)という異色の経歴を持つ。

防御を中心とした技術と高い身体能力を生かしたフライング・ニー(跳び膝蹴り)、フライング・ハイ(ハイキック)などの蹴り技が武器。K-1 WORLD GPで3度の優勝を果たしている。

来歴

2001/6/24、日本で初の試合。K-12戦目でレイ・セフォーにTKO勝ちし、脚光を浴びる。

2003/10/11、K-1 WORLD GP開幕戦でボブ・サップと対戦。ロー、ミドル、ハイなどでダメージを与え、ダウンを奪うが、ボンヤスキーがスリップした時にサップに攻撃を受け試合続行不可能となったため、反則勝ちで決勝トーナメントに駒を進める。

2003/12/6、WGP決勝トーナメント準々決勝でピーター・グラハムを跳び膝蹴りで1RKO勝ち。準決勝でシリル・アビディをまたしても膝蹴りで1RKO勝ち。そして決勝で武蔵を判定で破り、初優勝を果たした。

2004/5/30、一撃キックルールでフランシスコ・フィリォと対戦し、ダウンを奪われて判定負け。

2004/9/25、曙にハイキックでKO勝ち。

2004/12/4、WGP決勝大会の準々決勝でアーネスト・ホーストと対戦し、延長判定勝ち。続く準決勝でフランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタと対戦。1Rと2Rはボタのボディブローの連打に圧倒され、最終第3Rも圧倒されていたが試合終了直前にハイキックでダウンを奪い、判定勝ち。決勝戦では武蔵に判定勝ちで2連覇を果たした。

2005/4/30、K-1ラスベガス大会でマイティ・モーから右フックでダウンを奪われ判定負け。決勝GPの準々決勝ではチェ・ホンマンを判定で下すも、準決勝でセーム・シュルトに膝蹴りに苦しみ1RKO負け。試合後、「4週間ぐらい前に怪我をしたところを攻められた。精神面じゃなく肉体面が敗因だ」、「王者のプレッシャーから解放された」とコメントした。

2005/12/31、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!にてザ・プレデターと対戦。判定2-1で判定勝ち。試合後、「12月のグランプリでの左足の負傷がまだ癒えておらず、思うように蹴れなかった」とコメントしている。

2006/5/13、K-1アムステルダム大会のスーパーファイトでジェロム・レ・バンナと対戦。一度は2-0の判定勝ちと宣告された。その後、バンナ側の抗議により、6月30日付で0-3の判定負けと記録が変更された。同年7/30、札幌大会で昨年ダウンを奪われ判定負けを喫したマイティ・モーとリベンジマッチを行う。ダウンこそ奪えなかったがローキックなどでダメージを与え判定勝ち。リベンジを果たした。開幕戦ではピーター・アーツと対戦予定だったが、アーツが病気で欠場したため、試合の2日前に代役で出場が決まったゲーリー・グッドリッジと対戦し、KOで下し決勝大会への切符を手に入れる。決勝GPではステファン"ブリッツ"レコに2度の金的を受けるアクシデントに苦しみながらも、カウンターでダウンを奪い判定勝ち。だが金的のダメージが残っていたため、準決勝を棄権した。

2007/4/28、K-1 WORLD GP 2007 IN HAWAIIのスーパーファイトにてグラウベ・フェイトーザと初対戦し、2-0の判定勝ち。

2007年8月、ミルコ・クロコップのチーム・クロコップのトレーニングにスパーリング・パートナーとして参加。

2007/9/29、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16にてステファン"ブリッツ"レコと対戦し、右跳び膝蹴りでKO勝ち。

2007/12/8、K-1 WORLD GP 2007 FINALの準々決勝でバダ・ハリに判定勝ちするも、準決勝でピーター・アーツに判定負け。

2008/4/26、K-1 WORLD GP 2008 IN AMSTERDAMのスーパーファイトにてメルヴィン・マヌーフにKO勝ち。

2008/7/13、K-1 WORLD GP 2008 IN TAIPEIのスーパーファイトでヴォルク・アターエフと対戦し、3RKO勝ち。

2008/9/27、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16でポール・スロウィンスキーと対戦し、判定勝ち。しかし不可解な判定に試合後スロウィンスキーは判定に不服を唱えていた。

2008/12/6、K-1 WORLD GP 2008 FINALの準々決勝でジェロム・レ・バンナに3RドクターストップTKO勝利、準決勝でグーカン・サキに2RKO勝利を収め、決勝でバダ・ハリと対戦する。1Rにハリからダウンを奪ったものの、2Rに足を掴まれ倒されたところにハリの反則攻撃(倒れた相手へのパンチと踏みつけ)が当たり、ダメージ回復のため試合が中断され、レミーはダブルヴィジョン(物が二重に見えること)を訴える。結局ハリがこの反則行為によって失格負けとなり、レミーが4年ぶり3度目のGP王者となった。

2009/3/28、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAでアリスター・オーフレイムと対戦。1R、2Rとプレッシャーをかけ続けるアリスターにペースを握られるも、3Rにダウンを奪い判定勝ち。しかし、K-1プロデューサーの谷川貞治は「アリスターの勝ちですね。2Rもアリスターのポイントで良いと思いますし、ダウン以外は全てアリスターが勝っていました」とコメントした。なお、試合後の会見で2日前に膝の裏側の筋を痛め歩行も困難な状態になり、試合当日は鎮痛剤を打って試合をしたことを告白した。

2009/9/26、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16でメルヴィン・マヌーフと対戦し、判定勝ち。

2009/12/5、K-1 WORLD GP 2009 FINALの準々決勝でエロール・ジマーマンに判定勝ち。準決勝でセーム・シュルトと対戦し、1R開始直後に左フックでダウンを奪い、あわやというところで2度のダウンを奪い返されてKO負けし、連覇ならず。

2010年8月、網膜剥離の手術を受け、成功した。


戦績
89試合74勝15負

獲得タイトル

  • WPKA世界ムエタイ スーパーヘビー級王座
  • K-1 WORLD GP 2003 in ラスベガス 世界最終予選 優勝
  • K-1 WORLD GP 2003 優勝
  • K-1 WORLD GP 2004 優勝
  • K-1 WORLD GP 2008 優勝





伊藤旭彦
1983/1/10

日本の元プロレスラー。三重県桑名市出身。身長177cm、体重91kg。プロレスリング・ノアに所属していた。

来歴・人物

三重県立桑名工業高等学校ではレスリングで国体に出場し、プロレスラーになる為に国士舘大学へ進学した。2003/6/15、レスリング部としてキングダム・エルガイツに参戦。

2005/1/24、プロレスリング・ノアに入門し、12/24、潮﨑豪をパートナーに力皇猛&ムシキング・テリー戦でデビューした。

柴田勝頼、後藤洋央紀の高校の後輩である(後藤とは大学も一緒)。

師匠は小橋建太。付き人であった谷口周平が長期欠場したため、代わりに小橋の付き人となった。

デビュー当初は黒いショートタイツだったが、現役末期はオレンジのロングタイツを着用していた。

2010/2/7付けで引退が発表された。

入場曲

  • The Rock Show (Blink-182)

  

















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