本文へスキップ
 

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/11



永源遙
1946/1/11

日本の元プロレスラー、元大相撲力士(立浪部屋所属)。石川県鹿島郡鹿西町(現在の中能登町)出身。プロレスラー時代は多くの団体を渡り歩き、現在はプロレスリング・ノアの相談役。百田光雄とのシングルマッチは「宿命の対決」とも言われ、100回を超える回数を戦っている。現役後年は唾飛ばしで名を馳せ、対戦相手も永源を観客に向け、喉元を殴打させることで発せられる永源の唾を浴びる観客(それを除ける傘、新聞紙を持参する観客)が多くなった。

来歴

大相撲の立浪部屋に入門し、永源の四股名で1961年7月場所に15歳で初土俵を踏んだ。1963年9月場所には序二段で優勝したが、その後伸び悩み1965年5月場所限りで廃業した。最高位は、幕下71枚目。大相撲廃業後、1966年5月に東京プロレスに入団してプロレスラーに転身し、永源 勝のリングネームでデビュー。翌年の1967年に東京プロレスが崩壊した後は日本プロレスに移籍した。

1973年にアメリカで武者修業を行ったが、同年帰国後に新日本プロレスに移籍した。前座・中堅の要として活躍、1980年には、ストロング小林とのコンビで、国際プロレスからIWA世界タッグ選手権を奪取。また、大会場で組まれていたドン荒川とのシングルマッチは、後の百田光雄とのシングルマッチのプロローグで、このシングルマッチはファンだけでなく、社長だったアントニオ猪木自身も楽しみな試合だったと語っている。

1984年にジャパンプロレス結成の際に同団体へ移籍。ジャパンプロレス消滅後の1987年には全日本プロレスへ移籍した(ジャイアント馬場は、永源のプロモーター・関係者への顔の広さや営業能力を高く買い、自ら手元に置く決断をしたという)。全日本プロレスでは、渕正信、大熊元司らと「悪役商会」というチームを組み、ジャイアント馬場、ラッシャー木村らの「ファミリー軍団」と前座試合(通称「ファミ悪決戦」)を行っていた。なおこの前座試合は、数多くのお約束ムーブが織り込まれており、全日本における名物試合の一つとなっていた。永源は、ロープサイドの攻防の最中にリングからツバを観客席に向かって吐くことがお約束のムーブとなっており、観客もそれを見越して新聞などをあらかじめ持参してガードしていた。

1990年に、天龍源一郎らを引き抜いて旗揚げしたSWSのメインスポンサーだったメガネスーパーから、タニマチとの関係や営業能力を買われて億単位の支度金を用意されて参加を要請されたが、断っている。永源は現役に拘っており、SWSに移籍したらさっさと引退させられてフロント専任になるであろうことが容易に想像できたからである。

2000年、全日本大量離脱→プロレスリング・ノア旗揚げと共に同団体へ移籍。この際、当時の全日本所属選手や取締役、さらには支援者のほとんどがノアに追随した背景には永源の力が大きかったといわれる(当時、アントニオ猪木もインタビューで永源がノア側に就いたことを知り、ノアの成功を予想するようなコメントを出していた)。ノアでは取締役営業部長の役職で、主にマッチメイクを担当する重要なポストを担いつつリングにも上がり、百田光雄との第一試合シングルマッチはNOAHの名物となっていた。実況アナが「後世に残したい日本の伝統芸能」と発するのもお決まりとなっているほどで、二人のシングルマッチは100戦を超えたが、大幅に永源が負け越している。全日本時代からお馴染みだった客席へのツバはこの時もお約束だった。

2005年1月、神戸ワールド記念ホール大会メインイベントにて丸藤正道の持つ、グローバル・ハードコア・クラウンに挑戦し、惜しくも敗れる。これが永源にとっての最後のタイトルマッチとなった。

2006年1月、還暦記念試合が行われ、その後のセレモニーで赤い帽子とちゃんちゃんこに身を包んだ永源は自らの口から3月末に現役を引退することを発表した。2006年3/26、自身の出身地である旧鹿西町の、スポーツセンターろくせい大会で現役引退試合を実施。試合は永源が井上雅央からの首固めで負け。2006年4月28日、引退記念パーティが帝国ホテルにて行われ、各界の著名人ら800人が出席して催され、プロレス関係者以外にも梅宮辰夫、渡哲也、西城秀樹、せんだみつお、栃東、魁皇、千代大海をはじめとした各界の有名人が参加し、西城秀樹はミニライブまで披露した。

現役引退後もプロレスリング・ノアの常務取締役として営業面を統括する要職にあったが、2009年6月に三沢光晴が試合中の事故で亡くなったことに伴い、同年7月に開かれた同社の臨時株主総会で取締役を辞任し相談役に退いた。2010年からはGHC管理委員に就任するなど、現在もノアの要職にある。

エピソード

さまざまな団体を渡り歩いて培った人脈と情報網はプロレス界一。地方のプロモーターとの付き合いもプロレス界随一とも言われるほど深く、巡業中、各会場に必ず永源に会いに来る人がいる。アントニオ猪木も「あいつは世渡りがうまい」と舌を巻くほどである。永源の結婚式仲人を務めたのは政治家の森喜朗であり、猪木が政界に出馬する際には、森喜朗や福田赳夫元総理などを猪木に紹介している。

そのほかにも、人脈の広さを物語るエピソードには事欠かない。正月にはお世話になった方々に挨拶をするため、年賀状だけではなく電話で挨拶をし、中元・歳暮は300件ほど送っているが「身近な人を大切にするのは当たり前」とインタビューで述べている。また、仲田龍によるとノア旗揚げに際して会社の備品やパソコン、合宿所で必要な日用品など、買ったものは一つも無いという。全て顔が広い永源が、知り合いの会社やスポンサーからタダで貰ってきたものであり、それも全て新品であったという。

選手としてはコミカルなスタイルを貫いた永源だが、彼は新日本などで実績を積んだ経験があり、「猪木的」なシュート技術もきちんと習得しているといわれる(アントニオ猪木の異種格闘技戦のセコンドにはいつもいた)。

新日本時代、猪木に面と向かって「リング上のアントニオ猪木は光っているけれど、猪木寛至としてはパッとしませんね」と直言したことがある。猪木も怒らず神妙に聞いていたと言うが、その直後に新間寿から「永源ちゃん、そんなこと言うもんじゃないよ。みんな同じこと思っているんだから」と忠告されたというエピソードがある。

タイトル履歴

  • IWA世界タッグ王座(&ストロング小林)
  • セントラルステーツタッグ王座(&ミスター・ヒト)

入場曲

  • 必殺仕事人のテーマ(悪役商会の入場曲でもあった)





輪島大士
1948/1/11

石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、第54代横綱、全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。本名は輪島 博(わじま ひろし)。血液型はA型。大相撲時代は身長186cm、体重132kg。ニックネームは蔵前の星・黄金の左、現役引退後はワジー。

来歴

大相撲時代

姓は輪島で石川県出身だが輪島市出身ではなく、同じ能登半島の七尾市石崎町出身である。金沢高、日本大学と相撲部で活躍。真偽は不明だが、日大時代のテストでは、白紙の答案用紙に「日大相撲部、輪島」と書いておけば合格になったという伝説がある。また、もともと文理学部体育学科に在籍していたが、当時の体育学科は卒論が必修だったため、卒論が必修ではない同学部社会学科に転籍したといわれている。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業前の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵を踏んだ。東農大出身の元小結・豊山(現・立田川親方)は大学時代からのライバルである。

ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を大学の宿舎で過ごさせるという異例の特別待遇で入門し、幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り場所後に横綱に推挙され、初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。

同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった。「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたのに対し、「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせたのみである。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。

またこの頃、貴ノ花と同部屋の魁傑(現放駒)の3人で“阿佐ヶ谷トリオ”と呼ばれた。

学生相撲出身初の横綱であり、横綱になっても本名を四股名にしていたのは大相撲の歴史上でも輪島のみ(外国出身力士が帰化し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例である。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」(相撲は「摺り足」が基本で、足の裏を地面から離す「走る」行為は基本に反する、という考えからか?)と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。

千代の富士、鷲羽山等小兵力士には絶対的な強さを見せたが(自身もそれほど大柄な部類ではなかったが)、高見山等の巨漢力士に対しては脆さを見せる事も多かった。高見山には、当時最多記録だった金星12個のうち7個を与えており、現在に至るまで同一力士への金星配給の最多記録となっている。

横綱・北の湖とは好敵手であり、2人で輪湖時代(りんこじだい)を築いた(北の湖との通算成績は23勝21敗で、ほぼ互角)。また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という珍記録を持つ。ちなみに1989年3月場所で優勝した千代の富士も14日目の大乃国戦で左肩を脱臼して翌日の千秋楽を休場している(但し休場ではなく不戦敗の扱い)。

横綱昇進後は輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、74年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌75年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。この時期輪島の相撲は全く精彩を欠き、土俵上をバタバタと動き回っては自滅し『勝ち方を忘れた』と評され、新聞に「輪島27歳にして引退の危機」と書かれ、その相撲内容から、引退はあながちうがった見方とも思えない程危機的状態に追い込まれた。角界は貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。

だが輪島は復活した。1976・77年は12場所のうち輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度、優勝決定戦が1度。優勝も輪島5回、北の湖5回と実力は全く伯仲して、真の「輪湖時代」を迎えたといってよい。このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ史上第2位の12回優勝を記録した頃が、輪島の絶頂期であった。

1978年に入ると、輪島は3月場所の右膝靭帯の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰え等から、北の湖の後塵を拝することが多くなる。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。1979~1980年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたのは立派であると言えよう。また、輪島の部屋と大学の後輩である荒勢が北の湖に殆ど勝てず、輪島の援護射撃ができなかった事や、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないなど、輪島に不運な一面が多々あったのも否めなかった。

1981年3月場所中に引退し、停年退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※現在の花籠部屋とは別)を継承した。しかし、1982年4月妻(師匠・大ノ海の長女)は自殺未遂(その後離婚)、1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。(これほどまでの重大な処分が下された影には、輪島が当時抱えていた他の金銭問題や、現役時代からの私生活での豪遊ぶり等も不興を買ったという説もある。)結局これが原因で、その年12月に廃業(部屋は消滅、力士は花籠部屋出身の魁傑が開いた放駒部屋へ移籍)、さらに若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。 現役時代に、横綱ながらも週刊ポストに「輪島の美女対談。」と称する対談コーナーを持ち、当時の人気アイドル達を招いて、かなりくだけたトークを繰り広げ話題になったが、一方で「品が無さ過ぎる」というクレームもかなり来たと言われ、同コーナーは半年で打ち切られている。

プロレス時代

大相撲を離れた輪島は、1986年に全日本プロレスに入門。全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラー・パット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。本人曰く「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」とのこと。プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がなかったのも事実といえる。また阿修羅・原のバックドロップを受ける際に恐怖心からか体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷することも。

そういった経験不足の状態でありながら、馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行う。相撲技の「喉輪」と「かち上げ」を合体させて開発したという、オリジナルの必殺技ゴールデン・アームボンバー(喉輪落とし)で快勝したが、プロレスとしての見せ場を作る技術は低かった。なおゴールデン・アームボンバーは輪島引退後の全日マットで田上明が復活させ、後に高角度喉輪落とし(チョークスラム)へと発展していく。他に片足抱え式のバックドロップも得意としていた。

「お守り」として馬場が付いたタッグでのデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのようにバスでなく新幹線を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。しかし仲田龍によれば、輪島自身が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にしていたらしく、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である渕正信らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っていたそうであり、また練習もきちんと行っていたとのことであり、「全く仲間がいなかった」「練習をしなかった」というレッテルは間違いであることが分かる。 また輪島デビュー前に全日本プロレスから取材拒否を受けていた週刊プロレスの巻頭記事で、当時全日本と業務提携していたジャパンプロレスの大型新人であった馳浩が「輪島さんと同じリングに上がるんですか!?」と否定的な言動をしたという記述がされたが、これは後に馳本人により否定される。ジャパンプロの長であった長州力も新日本プロレスから北尾光司を契約解除する際に北尾と比較して「輪島は一生懸命やっていたからな」と語るなど、リング上ではすれ違いに終わったジャパン勢からもその姿勢は認められていた。

リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された(輪島が初登場した全日本プロレス中継で20%を超える視聴率を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。

レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない蹴り技を真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。当時新日本にUターンしていた前田日明はこの2人の試合を見て「これはヤバイ。あんな事をやられたら、自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという。

必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年「喉輪落とし」として多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身の天龍と激闘を展開したりとそれなりの活躍を見せたが、徐々に精彩を欠くようになり、大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団と同時に1988年12月に引退した。

プロレス引退後~タレント・評論家時代

プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する(登場時には「第54代横綱・輪島こと輪島大士」と紹介された)。

福澤朗の「好きな魚は?」の問いに、真顔で「マグロ!」(ブリと言う時もあった)、「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、とんねるずの石橋貴明からワジーと言うあだ名で呼ばれ出し、ワジーと言う愛称が、現役時代を知らない世代にも広く定着する。また、この番組ではテロップが初めて出た事でも有名。

輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に江戸文字体や相撲字体・歌舞伎文字体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。また、滑舌が悪いことを表すためか、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ『マグロ!?』という具合になっていた。

この番組には輪島功一も準レギュラーで出演していたが、石橋貴明は輪島功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。ちなみに、輪島功一とは従兄弟ということであったが、芸能活動を始めた時期が近かったために口裏を合わせて従兄弟にしたとのことである。しかし、この説明は、輪島直幸を含む3人が従兄弟である、と横綱現役の頃から言われていたという事実と矛盾する、輪島功一とは元々友人であった為「コウちゃん」「ヒロシ」と互いに呼びあっている。 なお、木梨憲武と輪島の共演はほとんどなく、木梨が輪島をなんと呼んでいたのかは不明。後に輪島が回想録等で話したところによると当初は元横綱のプライドがあり出演を固辞していたが貴明等が輪島の現役時代のファンであると口説かれ出演を応諾したという。

その後、アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任し、現在はキューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務め、地元の鮮魚販売会社スギヨのCMにもスギヨふるさとの味大使として登場している。また一時期TBS系「サンデーモーニング」等で相撲解説を担当していた。2008年に還暦を迎えたが、還暦土俵入りは行われなかった。

2009年1月18日、大相撲初場所8日目のNHK大相撲中継にデーモン小暮閣下と共に出演し、解説を務めた。輪島が本場所の土俵を観戦するのは年寄花籠を名乗っていた当時の1985年11月場所以来、23年2ヶ月ぶりのことであった。不祥事によって廃業した関係者は本場所に顔を出す例はほとんどないため、異例の出演となった。

略歴

  • 1970年1月 - 幕下付出で初土俵
  • 1970年5月 - 新十両
  • 1971年1月 - 新入幕
  • 1972年11月 - 大関昇進(輪島 博 改め 輪島 大士
  • 1973年7月 - 横綱昇進
  • 1981年3月 - 現役引退、年寄・花籠襲名
  • 1986年 - 全日本プロレス入団
  • 1988年 - プロレス引退

天然ボケキャラクター・ワジー

角界において横綱という最高位に立ちながら、相撲以外の事は全くと言っていいほど世間知らずな上に、温厚な性格(幼少期はイジメられっ子だった)もあって、純粋無垢な一面があった。そのため、年寄株を担保に入れて借金をした事など、処世術は上手いとはいえない。しかし、この天然ボケな一面が「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」にてブレイクし、タレント・ワジーとして愛される結果になった。輪島を力士時代から世話している和倉温泉「加賀屋」の小田禎彦会長は、「たまに変なことを言うから。」とノートに「輪島語録」を書き留めていたほどである。


輪島大士おまとめ動画集

 
広告


小林邦昭
1956/1/11

日本の元プロレスラー。長野県小諸市出身。身長183cm、体重105kg。関係者の間では「サンペイちゃん」の愛称で親しまれる。

来歴

長野県丸子実業高等学校を中退して1972年新日本プロレスに入門。1973年に栗栖正伸戦でプロデビュー。

1980年メキシコに遠征。1982年にアメリカに渡り、「キッド・コビー」のリングネームで活躍した。

1982年10月に帰国。パンタロンでマーシャルアーツスタイル(試合内容にマーシャルアーツスタイルを求められない時には、左半分が白、右半分が黒というユニークなショートタイツだった)で戦う姿は当時の日本のプロレス界では珍しかった。

また、初代タイガーマスクと抗争劇を展開し「虎ハンター」と呼ばれた。タイガーマスクのマスクを剥ぎにかかるファイトスタイルは、タイガーマスクの日本人ライバルとしてアンチ・ヒーローを求めるプロレスファンに支持された。

実際にはタイガー=佐山とは仲がとても良く、タイガーマスク誕生の当日も何も知らない二人は仲良く連れ添って帰ってきたが、事務所職員が慌しく走ってきて「今日から佐山はタイガーマスクとなるから」等々アングルを説明され、慌てて二人は分かれて道場へ戻ったという。小林は「無名の自分をゴールデンタイムでスターに引き上げてくれた」と佐山には感謝の念を表明している。

その後は新日本プロレスの中でも反体制の維新軍団として(長州力・マサ斎藤・キラー・カーン・アニマル浜口・谷津嘉章・寺西勇)らと行動を共にし、中でも寺西とはジュニアヘビー同士という事で多くタッグを組む。

1984年9月に維新軍団のメンバーらと新日本を離脱し「ジャパンプロレス」に参加し、全日本プロレスに参戦した。全日参戦中も二代目タイガーマスクを相手に虎ハンターとして活躍した。1985年NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得。1986年には世界ジュニアヘビー級王座を獲得。

その後新日マットに出戻り、1987年8月にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。1989/4/24の新日本プロレス東京ドーム大会では獣神ライガーのデビュー戦の対戦相手を務めた。ヘビー級へ転向すると、新日選手会と対立し越中詩郎らと「反選手会同盟(後の平成維震軍)」を結成。昭和時代の維新軍団と平成維震軍の2つの維新軍団に所属したのは小林のみである。

負けたら坊主という「カベジェラ・コントラ・カベジェラ」を新日の正規軍の野上彰(現:AKIRA)と行ない敗戦、坊主頭になる。しかし勝者の野上はその対戦にいたく感銘を受けたという事で後日自分も坊主になり平成維震軍入りする。

1999年に平成維震軍は解散、小林は2000/4/21に行われた獣神サンダー・ライガー戦を最後に現役を引退した。現役末期、胃がんに見舞われて3度の手術を経験し、後年、この癌が引退の原因であった事を自ら明かしている。前田日明が佐山聡との対談内で語ったところによれば、今も抗ガン剤治療を続けているとのことである。腹部は70センチにも及ぶ大きな手術痕があり、ライガーとの引退試合においても、手術痕を隠すため、上半身はタンクトップを着用しての試合であった。試合後の引退セレモニーには佐山が花束を持って駆けつけ、三沢も祝電を寄せた。

引退以降は主に裏方を担い、現在は新日本プロレスでIWGP実行委員、スカウト部長、新日本道場の管理人として勤務している。2006/7/27に後楽園ホールで行われたWAR最終興行では、平成維震軍の旗持ち(セコンド)として久々に表舞台に顔を出した。維震軍の胴着を着用し、旗で相手選手を攻撃したりと、元気な姿を見せている。

また、2007/9/21には、リアルジャパンプロレスの後楽園大会で、佐山聡を相手に1試合限定の復帰戦を行った。

エピソード

若手時代、新大阪〜東京を移動中の新幹線で、山本小鉄の「俺が奢るから、何でも好きなだけ食え」との言葉に、「本当に何でも食っていいんですね?」と答えて、ビュッフエにあるメニュー全種類を食べたという大食いエピソードを持つ。新日本に入ったのも、あまりの大食いにあきれた母親から「そんなに食べたいならプロレスラーにでもなれ!」と言われたことがきっかけであると言う。食への拘りは相当のもので、道場で料理の腕をふるっている。

大阪毎日放送のバラエティー番組のモーレツ!!しごき教室では、藤波辰爾、前田日明らとともに出演していた。

虎ハンターとしてのアンチ・ヒーローゆえに、タイガーマスクファンから多くのカミソリ入りの手紙や脅迫状が届いて困惑していたが、現役時代はずっと佐山に黙っていた(現役引退後、佐山に告白した)。

革命軍・維新軍以前から長州力との仲の良さは有名であり、「力ちゃんが結婚するまで俺も結婚しない」と約束したエピソードが何度もプロレス雑誌で紹介されている。

優しい人柄ではあるが試合前の控え室では厳格であり、新日に留学生としてきていたチャールズ・スキャッグス(スコーピオ)が音楽に興じて踊っているのをたしなめたり、青柳政司の世話に来ていた誠心会館の門下生の非礼な態度に制裁を加えた事がある(この行為が齋藤彰俊及び誠心会館との抗争→反選手会同盟への結成へと繋がっていく)。

後輩に対しての面倒見も良く、飲み屋に行っても自ら運転手を買って出て自分は酒を飲まず、後輩に好きなだけ飲ませ後の介抱もしてやったと言う。

引退しても数年後に復帰するプロレスラーが多いことに憤りを感じており、自らの引退の際にプロレス記者から「復帰はいつ頃ですか?」と言われ、温厚な小林が本当に怒ったエピソードが週刊プロレスに掲載された。

前出の“一試合だけの復帰”の理由は、小林と闘う事で「佐山選手の中の『野生の虎』を復活させる為」であり現役完全復帰と言う事ではない。

タイトル履歴

  • アメリカス・ヘビー級王座
  • NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座
  • 世界ジュニアヘビー級王座
  • IWGPジュニアヘビー級王座

入場テーマ曲

  • THE ROOM(BRAINWASH) PART ONE / リック・ウェイクマンのアルバム「1984」の4曲目。小林が使い始めて数ヵ月後、凱旋帰国した前田日明の入場テーマとしても使用された。





新山勝利
1969/1/11

日本のプロレスラーである。北海道苫小牧市出身。

経歴

FMWにて「サブミッション・アーツレスリング」の実績を引っさげて1990/7/22初代ザ・シューターと入れ替わるように2代目としてデビュー。

1992年に突如試合中マスクを自ら脱ぎ捨て、明けて5/24日からペイントレスラー「ザ・グレートパンク」として活動後に素顔に戻る。

FMW退団後はフリーランスとして様々なインディー団体で活動していたが、「FNSの日26時間テレビ 2009 超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!」の企画「三輪車12時間耐久レース」に家族と東海テレビ代表として出場、まだ現役である事をアピールした。






浜口京子
1978/1/11

日本の女子レスリング選手。「濱口京子」とも表記される。東京都台東区出身。武蔵野中学校卒業。武蔵野高校中退。武蔵野学院大学日本総合研究所客員教授。ジャパンビバレッジ所属。日本オリンピック委員会選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手。父は元プロレスラーのアニマル浜口(浜口平吾)。

略歴

中学時代は水泳をやっており、その後女子プロレスラーを志望。父・アニマル浜口が経営するアニマル浜口レスリング道場で父の指導のもとボディビルのトレーニングをするようになり、プロレスラー志望の男性選手に混ざって14歳からレスリングを始める。

レスリングを始めて4〜5年程度で全日本選手権・世界選手権等にて優勝。実績を重ね、2004年のアテネオリンピックに女子レスリング72kg級の日本代表として出場した。最終順位は3位(準決勝で王旭(中国)に敗退)。開会式では日本選手団の旗手を務めた。2006年の世界選手権女子72kg級決勝で、スタンカ・ズラテバ(ブルガリア)のバッティング(頭突き)を顔面に受け負傷。審判団に対し父が抗議をするが、ズラテバの当該行為にはペナルティが課せられないまま試合は続行。浜口は敗戦し、同選手権72kg級2位となった。試合後、浜口の負傷は全治4か月の鼻骨骨折(4ヶ所)と判明。日本レスリング協会は、ズラテバの危険行為に関する抗議文書を国際レスリング連盟およびブルガリアレスリング協会に送付した(後に当該審判の降格処分が決定)。

2005年および2006年の世界レスリング選手権の決勝で敗退。最終順位は2年連続で2位。2007年5月にビシケクで行われたアジア選手権72kg級の準決勝にて、アテネオリンピックで敗れた王旭を2対1で下し、つづく決勝ではオリガ・ジャニベコバ(カザフスタン)を2対1で下して優勝した。同年9月に世界レスリング選手権2回戦で、因縁となるズラテバと対戦。今度は技の掛け合い(攻防)の際の微妙な状況でズラテバにのみポイントが加算されるという事態が発生した。これに対しスコアボードを叩いて抗議する浜口であったがビデオ映像のチェックは行われないまま試合は続行。結果はズラテバの勝利に終わり、敗戦した浜口はこの大会では北京オリンピック出場権を得ることはできなかった。これについて、日本レスリング協会は誤審だとして国際レスリング連盟に対し審判に制裁を科すよう抗議した(後に当該チェアマンが処分されている)。

2008年のアジア選手権72kg級で優勝して出場権を得た北京オリンピックでは、準決勝で中国の王嬌に敗れたものの、3位決定戦で勝利、2大会連続で銅メダルを獲得した。

その他

  • 理想の親子で有名な関根勤によれば、浜口は一度も父をウザイと思ったことはないという。父の存在を「たとえ離れることがあっても、心の中ではいつも一緒」と述べている。
  • 家の水道の蛇口を力加減せず、きつく締めてしまうため、家族が困るとのこと(開けるために木槌が置いてある)」。
  • 鼠先輩の大ファンである。
  • 弟・剛史もレスリングの選手として全国大会で活躍し、現在は浜口道場長(トレーナー)を務めている。
  • 家族そろって嵐のファンである。
  • 2009年には、Japan Premium Projectが主催するイベントにロシア新体操・北京オリンピック金メダリストのカナエワ、モデルの滝沢カレンらとともに着物のファッションショーに出演。
  • ベースボールマガジン社の月刊プロレス誌1979年5月号で、プロレスラーの素顔を紹介する「人物スポット」欄に国際プロレス時代のアニマル浜口が登場し、1歳当時の浜口を抱きかかえた写真が掲載されている。

  

















 ↑ トップへヤフーオークション
 


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system