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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/15



畠中浩旭
1969/1/15

北海道出身のプロレスラー。本名およびデビュー当時のリングネームは畠中浩(はたなか ひろし)。

経歴

大木金太郎に憧れ、レスラーになる。14歳の頃から、自己流トレーニングを開始。韓国の大木金太郎に直談判を決行するが会うことができず帰国。韓国が駄目ならと、片道切符と1000ドルを握り締め、メキシコへ。しかしながら、何千人のルチャドールのいるメキシコでいきなり試合をするのは難しく断念。それからも、レスラーデビューをしようと何度も海外へ渡ろうとした。苦労の末、最終的に、プエルトリコに渡り、ついに1990年3月、待望のプロレスデビューを飾ることとなった。

SWSの旗揚げに伴い、ケンドー・ナガサキに誘われて入団、道場「檄」に所属。SWS崩壊後はNOW、東京プロレス、道産子プロレス道場元気と所属団体を移った後、再びプエルトリコに渡リ、顔を真っ白に塗ったペイントレスラー、グレート・センセイとして活躍。その後、日本の様々なインディー団体に登場。

1998/9/13、レフェリーのクレイン中條(現:北都プロレス)とともに「アジアン・スポーツ・プロモーション」を旗揚げ。現在も代表として、地元北海道を中心にプロフェッショナルレスリングを展開している。

その他、韓国でフリーで参戦している。






シェイン・マクマホン
Shane Brandon McMahon
1970/1/15

コネチカット州ハートフォード出身。シェイン・O・マックのニックネームを持つ。かつてはWWEのグローバルメディア部門の副社長を務め、WWEのバックステージ、テレビ番組両方に関わっていた。

正式なプロレスラーではないが、選手として試合にも何度となく出場し、タイトルを獲得したこともある。父親のビンス・マクマホン同様、あるいはそれ以上に体を張ったハードな試合を行うこともあった。プロレスの才能は、並みのレスラーを上回っているとの評価を受けている。なお、大一番で見せる「コーナーtoコーナー」はロブ・ヴァン・ダムが元祖である。

来歴

1993年にボストン大学を卒業した後、父ビンスが経営するWWE(当時WWF)へ入社。販売、マーケティング、デジタルメディア部門などを受け持つようになる。

マクマホン一家のストーリがWWFの前面に押し出されるようになるにつれ、WWFの番組、試合に登場するようになる。1999年には父親のビンスやロックと組んでヒールのユニット「コーポレーション」を結成。ストーン・コールド・スティーブ・オースチンと抗争を行う。

2001年にはWCWのストーリー上のオーナーとなり、同じくストーリー上のECWオーナーである妹のステファニー・マクマホンと結託。WCW / ECW連合軍(アライアンス)を率い、WWFとの抗争を行った。

2003年にベビーフェイスとしてケインとの抗争でアンフォーギヴェン、サバイバー・シリーズに登場して以降はレスラー活動は控えていたが、2006年より再開(以下後述)。 一時期、ハウス・ショーに父親に代わって随行しており、日本武道館やさいたまスーパーアリーナで開催されたハウス・ショーにも登場し、大きな歓声をもって迎えられている。

プライベートでは、2003年10月に結婚。相手はWWEのテレビ番組『WWFライブワイヤ』で司会を担当したことがあるマリッサ・マズゥーラである。2004年2月13日に長男誕生。長男も写真ではあるが既にWWEに登場している。

2005年10月、WWEのテレビ番組であるRAWの放送局がUSAネットワークに戻った際の特番『WWEホームカミング』に登場。ただし登場してすぐにストーン・コールド・スティーブ・オースチンからスタナーを受けてダウンさせられた。

2005年11月、サバイバー・シリーズ後のRAWに登場。エリック・ビショフとGMの座を巡って抗争を開始したが、エリック・ビショフ解雇後は、父ビンスと親子ヒールとして活動しショーン・マイケルズと抗争を開始。2006年3月18日に行われた興行、サタデー・ナイト・メイン・イベントにおいてショーン・マイケルズと対戦した際、シェインがシャープ・シューターを出した直後にビンスがゴングを要請し、かつてのモントリオール事件を再現するかのような結末で勝利した。その後も引き続き登場し、ショーン・マイケルズ、トリプルHのDXと抗争を繰り広げた。2007年はウマガを仲間に加えて、父ビンスと共にボビー・ラシュリーと激しく争っていた。

2008年3月の『レッスルマニア24』でのフロイド・メイウェザー・ジュニアの参戦についての交渉役をしていたとも伝えられている。

団体の日本公演では、2004年7月の日本武道館公演をはじめ、度々来日(初来日はレフェリーとして参加した1990/4/13の『日米レスリングサミット』)。2005年2月のさいたまスーパーアリーナ大会では、11月の記者会見や、直前に開催されたロイヤルランブルで負傷した父ビンスの代理として来日している。

2009年1月に父親のビンスにパントキックを浴びせたランディ・オートンに怒りをあらわにし、再びリングに登場する。その後トリプルHやバティスタを交えオートン率いるレガシーと抗争する。この抗争以降はリングには上がらず副社長としての業務に戻る。

2009年10月、WWE.com上で2010年1月1日をもってWWEを去ることが発表された。その理由は社の上層部にしか告げられず、公には明らかになっていない。母リンダの選挙活動のサポートをするとの推測や、父ビンスとの確執が伝えられる等様々な噂が流れているがどれも確定情報ではない。

2009年11月、UFCの代表ダナ・ホワイトと会談したとの情報が流れる。ホワイトはその件について「ノーコメント」としている。


 
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