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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/17



コルシカ・ジョー
CORSICA JOE
1920/1/17 - 2010/3/14

本名はフワンソワーズ・ミケット。アルゼンチンでプロレス・デビューし、スカンドル・アクバ、ジョニー・コスタスなどとの抗争で名を挙げた。ゴリー・ゲレロとのコンビで活躍しテキサス・タッグ選手権を保持したこともある。コルシカ・ジーン(コシキ・ジーン)、ロレンゾ・パレンテとのコンビでも有名。平気でメリケンサックで相手の額を叩き割るといった悪党だった。ただし来日当時は完全にピークをすぎていた。女子レスラーのサーラ・リーと結婚。





モハメド・アリ
"The Greatest" Muhammad Ali
1942/1/17

アメリカ合衆国の元プロボクサー。アフリカ系アメリカ人。ケンタッキー州ルイビル出身。本名は同じで、旧名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアCassius Marcellus Clay Jr.)。アフリカ系の他に、イングランドとアイルランドの血を引いていた。 デビュー当初「カシアス・クレイ」と呼ばれていたが、後にイスラム教へ改宗したのを機に、リングネームのみならず本名自体を「モハメド・アリ」に改名し、その名で呼ばれるようになった。アマチュアボクサーとしてボクシングを始め、1960年のローマオリンピック・ライトヘビー級金メダリスト。プロに転向するや無敗でヘビー級王座を獲得。その後は3度王座奪取に成功し通算19度の防衛を果たした。
20世紀最高のスポーツマンの一人である。また、人種差別と戦ったり、ベトナム戦争の徴兵拒否など社会的にも多くの注目を集めた人物である。

来歴

幼年期

1942/1/17にアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアスと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイとして生まれた。父親と同じ名前であるため、ジュニアが名前の最後についていた。

アマチュア時代

ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。アリが通っていたジムには、後に世界ボクシング協会(WBA)世界ヘビー級王者になるジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。セントラル高校に進学している。

その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。さらに、AAUボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。

1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキーを判定で破って優勝。

プロ転向と改名

1960/10/29にプロデビュー。タニー・ハンセイカーと対戦し、6R判定勝ちを収めて、プロデビュー戦を勝利で飾る。また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であることを公表し、リング名を現在の本名であるムスリム(イスラム教徒)名のモハメド・アリに改めた。この名前は、預言者ムハンマドと指導者(イマーム)アリーに由来する。なお、1975年にはイスラム教スンナ派に改宗している。

1962/11/15に元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと対戦。試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4ラウンドにKOする」という予言を書いてリングに向かい、その予言の通り4ラウンド目に3度ダウンを奪ってKO勝ちした。

1963/3/13に、元世界ライトヘビー級王座挑戦者のダグ・ジョーンズと対戦。アリが10R判定で勝利。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出されたが、アリは試合前にジョーンズを6RでKOすると公言していたため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。

リング外での闘い

ベトナム戦争への徴兵を拒否したことから無敗のままヘビー級王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。また露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。その後黒人解放運動などの貢献が称えられ、ドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞。

キンシャサの奇跡

王座剥奪後の1971/3/8、ジョー・フレージャーに挑戦する。初めての敗北を喫したが、3年後の1974/10/30、フレージャーに代わり新王者となっていたジョージ・フォアマンにKO勝ちを収め、王座に返り咲いた。

この挑戦試合はアフリカのザイール(現・コンゴ民主共和国)で行われ、"Rumble in the jungle"というタイトルがつけられていた。当時、一般には全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最高のハードパンチャーと目されたフォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」とも呼ばれる。

この試合でアリは、ロープにもたれながら相手のパンチを腕でブロックし、自分では打ち返さずに、防戦一方になっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を消耗させて、最後の一発で逆転するというクレバーな作戦をとり、見事な勝利を収めた。アリはこの戦法を"rope a dope"と名づけた。

ただし、以降の防衛戦でこの戦法を多用する一方、対戦相手のパンチを被弾することも増加していったため、後年のパーキンソン病の遠因ではないかとする説がある。

来日

1976/6/26に来日し、日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。特別ルールで戦い結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け

病との闘い

引退後にパーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入った。公の場に出る機会は大きく減ったが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けるアリへの評価は、アメリカ社会そのものの変化もあってむしろ高まっていった。

1996/7/19、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火。金メダルを再授与された。この開会式では聖火台の点火者は当日まで秘密にされていたが、女子水泳選手のジャネット・エバンスが、点火台まで聖火のトーチを運び上げた時、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(火が点くと同時にそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで火が点くしかけだった)。

また、練習時に踏まれた右足の小指が骨折し、おかしな位置でくっついてしまったために引退後は軽い歩行困難になっている。さらに、アントニオ猪木との戦いで執拗に蹴られた足は、血栓症が慢性になってしまい入退院を繰り返したことが明らかになっている。

引退後

1990年に湾岸危機に際し、イラク・フセイン大統領との直接対話のため、病をおしてバグダッドに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。開放された多くの人が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した。

2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務め、久し振りに公の場に姿を見せた。

2005/11/9、アメリカ合衆国ホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。

2009年にはアイルランド・クレア郡エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた。


 
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泰葉
1961/1/17

東京都出身のシンガーソングライター、タレント、プロデューサー、プロレスラー。血液型A型。初代林家三平の娘。春風亭小朝の元妻。本名:海老名 泰葉(えびな やすは)。

所属事務所は、小澤音楽事務所→レッドバス・エンタープライズ(結婚による芸能界引退まで)→アイアン・キャンドル→ねぎし事務所(亡父の事務所で実母が代表者)→2010年4月株式会社FISEMAN。結婚引退中は、夫小朝の事務所「春々堂」の社長だった。

2009年からは川嶋あいら『つばさアーティスト』の一員として、ライブ「つばさ祭」に出演している。






マイク・アルフォンソ
Mike Alfonso
1965/1/24 - 2007/2/17

アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州タンパ出身。ザ・グラジエーターThe Gladiator)、マイク・オーサム / マイク・アッサムMike Awesome)などのリングネームで知られる。

来歴

1989年にデビュー。「ザ・プロ」(The Pro)、「マイク・オーサム」(Mike Awesome)などのリングネームで、アメリカの中小団体で活動していた。

1990年、大仁田厚がプエルトリコに遠征中、当時抗争中であったビクター・キニョネスとプエルトリコ勢のレスラー達に襲撃され負傷、そのペナルティとしてプエルトリコのレスラーが出場停止となったため、本来来日するはずだったレスラーの代役として、ターザン後藤の推薦で、同年9月にザ・グラジエーターとしてFMWに初来日。2メートル級の長身から放たれるパワーボム「アッサムボム」とノータッチのトペ・スイシーダを披露した。

以来、FMWの常連外国人レスラーとして活躍。1995年のリーグ戦『グランドスラム』では、決勝戦でハヤブサを倒して、世界ブラスナックル王座を奪取。その後、金村ゆきひろからインディペンデント・ワールド世界ヘビー級王座を奪って、2本のベルトを統一。初代FMW認定2冠王者となった。1997年川崎球場大会では、田中将斗相手の試合が、当日参戦していた全日本プロレス小橋建太の存在が霞むほどのド迫力マッチとなり、以後田中との試合はFMWとECWを股にかけた名勝負として育っていく。

FMWがエンターテイメント路線に変更後はアメリカに戻り、ECWに参戦して活躍する。1999年には全日本プロレスにも参戦した。

ECWヘビー級王座戴冠中の2000年に、多額の契約金と共にWCWに移籍。このことは一部ECW関係者、ファンの反感を買ったとされる。

WCW崩壊後はWWF(現:WWE)に登場するも後に解雇された。

2005年に行われたWWEのPPV、WWE ECW's One Night Standに対田中戦で出場。この際に前述の移籍騒動について解説者に取り上げられていた。

プロレスリング・ノア出場予定だったシリーズ開幕前に内臓疾患により全戦欠場。本人は引退を決意。1年間の休暇を取り、その間に不動産取引のライセンスを取得。2006年から地元フロリダ州タンパの不動産会社に勤務していた。

2007/2/17、外出に誘おうとした友人により、自宅の中で首を吊って死んでいる姿で発見される。検死の結果、自殺であるとみられている。42歳没。妻と2人の娘を残しての死であった。3日後、WWEはECW(2006年よりECWはWWEの1ブランドとして週1度のTVショーを行っている)の番組冒頭で、アルフォンソの死を告知し、追悼映像を放映した。

獲得タイトル

ECW
  • ECW世界ヘビー級王座 : 2回
  • ECW世界タッグ王座 : 1回(w / レイヴェン)
WWF
  • WWFハードコア王座 : 1回
FMW
  • インディペンデント・ワールド世界ヘビー王座 : 1回
  • 世界ブラスナックル王座 : 2回
  • 世界ブラスナックル・タッグ王座 : 2回(w / ビッグ・タイトン、ミスター・ポーゴ)
  • 世界ストリートファイト6人タッグ王座 : 1回(w / ホーレス・ボウダー&大矢剛功)





ゲーリー・グッドリッジ
Gary Goodridge
1966/1/17

トリニダード・トバゴ出身、現カナダ国籍の総合格闘家、キックボクサー。

概要

アームレスリング世界一という怪力の持ち主で、完全に極まったアームロックを極められた腕のみで外してしまったこともある。左腕に刻まれた“剛力”のタトゥーの通りである。その太い腕から繰り出されるパンチと、常にアグレッシブに前へ出続けるファイトスタイルを有し、勝っても負けても派手なパフォーマンスを披露する。また、見た目とは裏腹な人の良さから、他の格闘家から尊敬されている。

UFC、PRIDEなどの総合格闘技を主戦場としていたが、2003/12/31の『PRIDE 男祭り 2003』以降はPRIDEのリングを去り、立ち技格闘技K-1を主戦場としている。どんなルールでも会場を沸かすことのできるオールマイティーファイターである。

PRIDE参戦当時のニックネームは「PRIDEの番人」。これはグッドリッジが、PRIDE初参戦の選手と数多く対戦したことに起因する。勝敗にかかわらず、初参戦の選手に厚い壁となって立ちはだかった。

2008/12/15、カナダオンタリオ州トロント郊外に自らのジム「Fighting University」をオープンさせた。

来歴

総合格闘技

1997/10/11、日本の総合格闘技イベントPRIDEの旗揚げ戦となった『PRIDE.1』で、サンボ選手権王者のオレッグ・タクタロフをその豪腕で殴り倒し、そのままグラウンドパンチの連打で戦闘不能に追い込みレフェリーストップ勝利。

そのアグレッシブなファイトスタイルを買われ、『PRIDE.2』でマルコ・ファス、『PRIDE.3』でアミール、『PRIDE.4』でイゴール・ボブチャンチンと連続で出場。その後も『PRIDE.16』までほぼ連続で参戦した。

2000年に開催した『PRIDE GRANDPRIX 2000』では、開幕戦で大刀光にギロチンチョークで一本勝ちするも、決勝戦では因縁の相手イゴール・ボブチャンチンにKO負けを喫してしまう。その後リコ・ロドリゲス、ギルバート・アイブルに連敗するも、谷津嘉章、ヴァレンタイン・オーフレイムに連勝する。

しかし、2001/7/29の『PRIDE.15』では、PRIDE初参戦のアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに三角絞めを極められ、タップアウト負け。

2003年に開催した 『PRIDE GRANDPRIX 2003』では開幕戦、決勝戦ともに第1試合のワンマッチに出場。8月10日の開幕戦ではエメリヤーエンコ・ヒョードルにTKO負け。しかし11/9の決勝戦ではPRIDE初参戦のダン・ボビッシュにKO勝ちし、番人の面目躍如を果たした。

2003/12/31の『PRIDE 男祭り 2003』で、ドン・フライと対戦。1R27秒右ハイキックでKO勝ち。試合前に勝敗にかかわらず、体力の限界を理由に格闘家からの引退を表明しており、これがPRIDEでの引退試合となった。

2004/4/30に復帰し、K-1 WORLD GP 2004 in LAS VEGASに参戦。以後、K-1を主戦場にしている。

2008/3/30、『The Khan』でチェ・ムベと対戦、2Rにカウンターの右フックからダウン後、パウンドでTKO負け。

2008/7/19、Affliction旗揚げ戦Affliction: Bannedでポール・ブエンテロと対戦し、判定負けを喫した。

2009/12/31、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜でゲガール・ムサシと対戦し、パウンドでTKO負け。

K-1

1999年からK-1に参戦し、武蔵、佐竹雅昭、ジェロム・レ・バンナ、グラウベ・フェイトーザらと対戦した。

K-1歴代王者のピーター・アーツやマーク・ハントとも互角に渡り合い、マイク・ベルナルドやシリル・アビディ、カーター・ウィリアムスなど多くのK-1ファイターに勝つなど、期待以上の活躍を見せる。

2005/7/29、『K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII』で開催されたHAWAII GPでは、カーター・ウィリアムスや藤本祐介らを全試合KOで破り優勝。

2005/9/23/、『K-1 WORLD GP 2005 in OSAKA 開幕戦』では、再びジェロム・レ・バンナと激突。リベンジを狙ったが、ローキックからパンチ連打を浴びて3回目のダウンを喫しKO負け。

2005/11/19/、『K-1 WORLD GP 2005 inTOKYO 決勝戦』のリザーブファイトに選ばれるも、グラウベ・フェイトーザに判定負け。


PRIDE DVD/大会紹介

  



望月成晃
1970/1/17

日本の男性プロレスラー。東京都江東区出身。足立高等学校(現:足立学園高等学校)卒業。

得意の空手技を駆使したファイトで、レスラー人生で初めて所属しているDRAGON GATEのトップレスラー。

来歴

1994/1/21、WAR・後楽園ホールでデビュー。対戦相手は後にタズとなる、ピート・タンジーロであった。この頃はまだ、岡村隆志・TARUとともに武輝道場の一員であった。その後もフリーランスとして格闘探偵団バトラーツ、みちのくプロレスなど10以上の団体で活動していた。

メキシコへ渡航せずフリーの身分のまま闘龍門参戦。しばらくは正規軍の一員として空手着で戦っていた。

団体での本格的なブレイクは2期生望月享(現:横須賀享)、神田裕之(引退、レフェリー兼本部長、2006年復帰)と結成したヒールユニット、「不完全決着推進委員会」なる組織を掲げた(会長は望月)「初代M2K」時代。後に河野圭一(元武輝道場。後チョコフレークK-ICHI)、ダークネス・ドラゴン(現K-ness.)、堀口元気が合流する。入場曲の「G.W.D」(thee michelle gun elephant)が会場に鳴り響く中、スカジャンを身にまとい、キックボードで入場、パウダー、ブルーボックスなどの凶器攻撃、乱入してバッドエンド、ノーコンテスト決着などその他反則行為などその後同団体のヒール行為を作り上げた。

EL NUMERO UNO 2001開催時には「両者リングアウト推進委員会」(略して両リン)なるものを掲げ、リーグ戦を全て黒星にするという行為にも出た(望月享だけうっかり勝ってしまいメンバー全員による両リンは失敗)。しかしEL NUMERO UNO 決勝トーナメントに敗者復活枠があり、それを勝ち抜いて決勝トーナメントに進出。決勝でも「体力回復を図る為」(本人談)両リンをきめ、再試合になったところを優勝した。表彰式では「今まで色んな団体を渡り歩いてきたけど、この団体が一番弱い」という発言を残し、CIMAとマグナムTOKYOを激昂させた。ちなみにEL NUMERO UNO 2002ではリーグ戦を普通に戦って全敗したが、やはり敗者復活枠から勝ち上がり、準優勝している。

2001/12/10、CIMAとのカベジェラ・コントラ・カベジェラ・ランバージャックマッチにおいて、両リンを失敗し敗退。それを機に「完全決着推進」というスローガンを掲げるも、M2Kメンバーの反感を買い一匹狼になる。「負けたけど、きもちいいなあ!」などと「いい人発言」をするようになり、やがて正規軍入り。悪を蹴散らす正義のキャラクターとなるが、本人の中では常に外様意識からの疎外感があったようだ。2002/12/25後楽園ホールでの大鷲透戦後、「この団体に正規軍はいらない」という発言を残して正規軍を解散。神田裕之の許可を取り、M2Kを再結成(通称新M2K、メンバーは新井健一郎、ドラゴン・キッド、セカンド土井、三島来夢)するも大きな成果はあげられなかった。 2003年、望月は不甲斐ない試合を続け、M2Kのメンバーに不信感を抱かせる。そしてリーダーを賭けた試合を新井健一郎と行い、敗退。「原点回帰」というキーワードを残して、M2Kを去った。原点回帰の内容は「初代M2Kの時にやり残したヒールの道を究める」というもので、「はぐれ軍団(仮)」と合流。「不甲斐ない試合を続けていたのはわざと」と暴露。「悪冠一色」というユニット名を付けヒールターンを図るが、「リーダーを作らない」というメンバーの方針に馴染めず、結局追放される。追放直後にK-ness.、新井健一郎らに頭を下げてベビーターン。「ファイナルM2K」のリーダーとして活動。OPEN THE DREAM GATE(ODG)二代目チャンピオンとなった。

2006年にバトラーツ参戦時にタッグを組んでいた稔のパートナーとして、武輝道場時代以来の新日本プロレス参戦が決定。それに先駆けて稔が新日本のリングで三角蹴り・ツイスターを、望月がDRAGON GATEのリングでミノルスペシャルを披露した。WAR FINALではIJ王座の防衛戦でセミ・ファイナルに登場。「これできっちり防衛してIJを封印する」と意気込み、かつての胴着で戦うもペンタゴンブラックに破れ王座陥落。試合後は胴着を脱ぎ捨て「メキシコでもどこでも追いかけていって、絶対に取り返す」と決意を語った。2006年11月23日に行われたタイトルマッチで勝利し王座を奪還、きっちりと有言を実行した。その後、WAR FINALでのタイトルマッチ前のコメント通り、IJシングルのベルトを封印。その後、マグナムTOKYO、ドン・フジイ、神田裕之とともにルネッサンスを結成。ファイナルM2Kのリーダーを横須賀享に譲り、自らを「御大」と称してファイナルM2Kから一歩引いた形で活動した。

2006/12/31に開催された「インディー・サミット」に参戦。みちのくプロレスのフジタ"Jr"ハヤトとバトラーツルールで対戦し勝利。2007/4/13IJタッグ(王者邪道・外道組)に神田裕之と組み挑戦、4/17ODG王者獣神サンダー・ライガーに挑戦するが共に敗北。2007/8/2、ZERO1-MAXに初参戦し、「天下一Jr.」への参戦を表明。また、因縁深い元悪冠一色の菅原拓也とタッグながら2年振りに対戦。9月からの「天下一Jr.」では決勝で田中将斗に敗北するも、ZERO1Jr.のトップ2である藤田ミノル、日高郁人を連破した。

2008/1/23、ZERO1-MAX後楽園大会に参戦。インターナショナルジュニアヘビー級選手権試合で日高を破り、ベルトを奪取した。

大阪タッグフェスティバル(大阪プロレス)でドン・フジイと組み優勝、大阪タッグ王座を奪取した

タイトル歴

DRAGON GATE
  • オープン・ザ・ドリームゲート王座…第2代王者(防衛4回)
  • オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座(パートナーはドン・フジイ・K-ness.)
  • オープン・ザ・お笑いゲート王座
  • IJタッグ王座(パートナーはドン・フジイ)
  • IJ王座…第12代王者(2006年11月23日、タイトル獲得後に封印したが、2010年4月19日に開催された『天龍プロジェクト』にて王座が復活される事になり、3WAY王座決定戦を制し、再び王座に就いている)
  • KING OF GATE 2006優勝
  • インターナショナルジュニアヘビー級王座
WAR
  • IJ王座…第10代王者(防衛5回)
  • IJタッグ王座…第5代王者(パートナーは超電戦士バトレンジャー)
闘龍門JAPAN
  • 英連邦ジュニアヘビー級王座
  • EL NUMERO UNO 2001 優勝
  • EL NUMERO UNO 2002 準優勝
ZERO1-MAX
  • インターナショナルジュニアヘビー級王座
大阪プロレス
  • 大阪プロレスタッグ王座(第25代 パートナーはドン・フジイ)

入場曲

  • 傷だらけの栄光/望月成晃(アニメ「あしたのジョー2」主題歌)
当初はおぼたけしのオリジナルバージョンを使用していたが、DRAGON GATE発足以降は自身がボーカルを務めたバージョンを使用している。
  • G.W.D / thee michelle gun elephant(M2K時)
  • FINAL STAGE

エピソード

  • 人を驚かせることが好きらしく、なにかとサプライズ予告をする。その例としては「完全決着推進」のスローガンや悪冠一色入り等、度々ファンや関係者の度肝を抜くようなことをやる。また、ブログなどで他の選手の正体に関することを暴露することもある。
  • プロレスリング・ノアの橋誠と顔が似ていることを以前から意識していたが、一切接点が無かった。2005年、天龍源一郎のセコンドとしてノア大会に初めて出向き、対面。望月自身も「やっぱり似てる」と感激していた。橋のパートナーである秋山準は、『こんな奴と顔が似てるなんて申し訳ない』と橋を無理矢理望月に向って土下座をさせた。2010年に望月が「生き別れの弟を連れてくる」と宣言し、ノアを退団した橋のDRAGON GATE参戦を発表、2/7後楽園ホール大会で初めてタッグを組んだ、3/3にはシングルマッチで対戦その後から橋に「兄貴」と呼ばれるようになった。
  • ファイト・スタイルは荒々しい蹴り技を繰り出すが、解説や試合後のマイクは比較的に冷静。現在は無所属という立場のためDRAGON GATE全体を客観的に静観し、その動向を窺いつつバランスを保っている。
  • 美食家であり、料理の腕前もかなりある。特にチャーハン、ペペロンチーノ、ロールキャベツはプロ級らしい。しかしなぜか、ファーストフードが大好きである。
  • 年々、コスチュームが短くなっていく(道着→ロングパンツ→ショートタイツ)
















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