本文へスキップ
 

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/18



テッド・デビアス
Theodore "Ted" Marvin DiBiase Sr.
1954/1/18 

アメリカ合衆国の元プロレスラー。ネブラスカ州オマハ出身。WWF(現・WWE)ではミリオンダラー・マンThe Million Dollar Man)のニックネームで活躍した。

ウエスト・テキサス州立大学の出身で、ザ・ファンクス、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンの後輩に当たる。

来歴

デビュー前後

往年の名レスラー、"アイアン" マイク・デビアスを父に持つが母の連れ子であるため血縁関係はない。15歳の時に心臓発作で父を亡くし、その後はアリゾナ州の祖父母のもとに預けられる。高校卒業後はテキサス州のウエスト・テキサス州立大学に進学してアメリカンフットボール部に所属しつつ(同期にティト・サンタナ、タリー・ブランチャード)、ザ・ファンクスのもとでトレーニングを受け、大学中退後の1974年にプロレスラーとしてデビュー。以降、アマリロ、セントラル・ステーツ、ミッドサウス地区で活躍。

1979年、ニューヨークのWWFに短期間参戦し、当時保持していた北米ヘビー級王座をパット・パターソンに奪われている。これがインターコンチネンタル王座と改名され現在に至っている(北米ヘビー級王座は同年11月にパターソンを破った坂口征二が第3代の王者となり、以降は新日本プロレスが管理)。その実力で早くから注目され、1978年2月にディック・スレーター、1980年11月にケン・パテラを破り、NWA世界ヘビー級王座の登竜門といわれたミズーリ・ヘビー級王座を2度獲得。一時期はリック・フレアーと並び「次期NWA王者最有力候補」とも呼ばれた。

全日本プロレスでの活躍

1976年8月に全日本プロレスにファンク一家の一員として初来日を果たし、以降も技巧派レスラーとして参戦を続ける。しかし1981年末のスタン・ハンセン全日本移籍の報復措置として新日本プロレスから誘われ、キラー・カーンの仲介で契約寸前まで行くも、団体間で紳士協定が結ばれ移籍は白紙撤回された。

1985年に新日本に移籍したブルーザー・ブロディに代わりスタン・ハンセンのパートナーとなり、PWF世界タッグ王座を獲得、さらには同年の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝を果たす。1983年には天龍源一郎との決定戦を制し、アントニオ猪木・坂口征二・高千穂明久・ジャンボ鶴田と受け継がれたUNヘビー級王座を獲得した。

ミリオンダラー・マン

1980年代はビル・ワットのMSWAを主戦場としていたが、1987年にWWFに再登場。「急逝した父親の莫大な財産を受け継ぎ、一生遊んで暮らすこともできるが、暇を持て余しているので暇潰しにプロレスをやることにした」という、嫌味な金満ギミックのミリオンダラー・マンとしてヒールで活躍。その金満キャラゆえ、現在でも設定上「配管工の息子から成り上がった」 "アメリカン・ドリーム" ダスティ・ローデスを嫌悪している(もっともダスティを嫌う理由は「先に殿堂入れされたから」というものもある)。なお、黒人ボディーガードとして従えていたマイク・ジョーンズのリングネーム "バージル" は、ダスティの本名でもある。

WWF世界ヘビー級王座こそ獲得できなかった(アンドレ・ザ・ジャイアントから金で買ったというストーリーがあったが、当然公認はされていない)ものの、ハルク・ホーガン、ランディ・サベージ、ジェイク・ロバーツらトップスターと長期間に渡って抗争。タッグでは、IRSことマイク・ロトンドとのマネー・インコーポレーテッドでWWF世界タッグ王座を3度奪取した。

1994年からはマネージャーとしての活躍が主となり、ミリオンダラー・コーポレーションなるヒール軍団を組織してブレット・ハートやジ・アンダーテイカーと敵対。スティーブ・オースチンらが彼のもとで実力をつけ、後に団体を牽引するトップスターへと上り詰めている。この間、1990/4/1の日米レスリングサミットではアルティメット・ウォリアーのWWF王座に挑戦して敗れている。

全日本プロレス復帰

1993年、一時全日本プロレスに復帰。ハンセンとのコンビを復活させて世界タッグ王座を獲得。同年の最強タッグでもハンセンと組んで出場したが序盤で負傷帰国、ハンセン&ジャイアント馬場のタッグチーム実現の伏線となった。

引退

1996年にWCWに移籍、nWoのマネージャーになるが首の故障が癒えず引退。引退後は宣教師に転身し、チャリティ活動を行いつつ、プロレスのリングにも時折登場する。2005年に2人の息子マイク・デビアス、テッド・デビアス・ジュニアがプロレスラーとしてデビュー、継父も含めて親子3代でプロレスラーとして活動することとなった(後に三男のブレット・デビアスもデビュー)。

現在は宣教師活動の一方、WWEでプロデュース業務を担当。2009/7/6にはRAWのホストを務めた。2010年、WWE殿堂に迎えられている。

獲得タイトル

NWA
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / アルヴィン・スミス、メルセッド・ソリス)
  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ディック・マードック)
  • NWA北米ヘビー級王座(トライステート版):1回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:2回
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:2回
  • NWAナショナル・ヘビー級王座:2回
  • NWAナショナル・タッグ王座:2回(w / スタン・フレイジャー、スティーブ・オルゾノスキー)
MSWA
  • ミッドサウス北米ヘビー級王座:4回
  • ミッドサウス・タッグ王座:4回(w / マット・ボーン、ジェリー・スタッブス、ヘラクレス・ヘルナンデス、スティーブ・ウィリアムス)
WWF / WWE
  • WWF北米ヘビー級王座:1回
  • WWF世界タッグ王座:3回(w / IRS)
  • WWE Hall of Fame:2010年度
全日本プロレス
  • UNヘビー級王座:1回
  • 世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン)
  • PWF世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン)

担当選手

1994年にセミリタイアし、マネージャーとして以下の選手達を担当した(WWFでのデビアス本人のマネージャーは、バージルと仲間割れ後の1991年よりセンセーショナル・シェリー、1992年からはジミー・ハートが務めた)。

WWF / ミリオンダラー・コーポレーション
  • イーヴィル・アンダーテイカー
  • ニコライ・ボルコフ
  • IRS
  • バンバン・ビガロ
  • タタンカ
  • キングコング・バンディ
  • カマ
  • 1-2-3キッド
  • ヘンリー・O・ゴッドウィン
  • サイコ・シッド
  • "ザ・リングマスター" スティーブ・オースチン
WCW
  • nWo
  • スタイナー・ブラザーズ(リック&スコット)
  • レイ・トレイラー
  • クリス・ベノワ

備考

スタン・ハンセンのパートナーとして

現役時代はその試合巧者ぶりが高く評価されており、とりわけスタン・ハンセンとのコンビは名タッグと言われている。ハンセンとのコンビ結成当初は前任のブルーザー・ブロディと比べられることもあったが、ブロディとは異なりデビアスが卓越したテクニシャンタイプであること、ハンセンを徹底的にサポートしてハンセンが闘いやすいように試合を作れたことが次第に認められていった。ジャイアント馬場は1993年にハンセン&デビアスがコンビ再結成を果たした第1戦目の試合のTV解説において「この2人は昔から素晴らしいコンビでしたよ」と絶賛していた。1985年のタッグリーグ戦優勝の際には、リング上でマイクを掴んだパートナーのハンセンから「Ted DiBiase is No.1!」という賞賛を受けている。

ハルク・ホーガンとの関係

1987年にWWF移籍のニュースが日本に伝えられた際、日本のプロレスファンはWWF王者ハルク・ホーガンとの対戦を「新日・全日代理対決」として注目していた。なお、ホーガンのWWFにおけるMSGでのデビュー戦の相手はデビアスが務めている(1979/12/17)。WWFではホーガンのライバルとして抗争を繰り広げたが、WCWではnWoの「後援者」として短期間ながらホーガンと結託した。






デビッド・バウティスタ
David Michael Bautista, Jr.
1969/1/18

アメリカ合衆国のプロレスラーである。バティスタBatista)のリングネームで知られる。バージニア州アーリントン出身。

前妻が日本人とアメリカ人のハーフであったことから日本通であると言われ、腕には「天使(娘の名前がAngel)」「武」と漢字でタトゥーを入れている。ニックネームはAnimal(アニマル、野獣の意)、愛称はデイブ。WWEを代表するスーパースターの一人であった。

来歴

初期

父はフィリピン人、母はギリシャ人で、幼い頃に両親が離婚したため、双方の家を行き来しながら育った。ボディビルダーを志すが、断念。酒場の用心棒として働きながら、ザ・サモアンズのアファ・アノアイのもとでプロレスのトレーニングを始めたのは二十代後半になってからのことだった。

プロレスデビューは31歳。WWE下部組織のOVWに移籍してからはリバイアサンというリングネームで活動。2002年5月のWWE昇格後、リングネームを現在のものに改名し、当時宣教師のギミックをしていたディーボン・ダッドリーの助祭司兼用心棒として、SmackDown!に登場した。同年11月、RAWに移籍。2003年春、トリプルH率いるエボリューションに加入するも、負傷により約半年の欠場を余儀なくされたが、復帰後はリック・フレアーとタッグを組み、WWE世界タッグ王座を二度獲得。2003年末から2004年春にかけてのエボリューションによるRAW内タイトル独占に貢献した。

2005年 野獣バティスタ

一貫してヒールだったが徐々に観客の声援を集めるようになり、2005年に入るとロイヤルランブルで優勝。ベビー・ターンを果たし、WrestleMania 21にて当時王者であったトリプルHを破って、世界ヘビー級王座を獲得した。その後、バックラッシュ、ヴェンジェンスと、三回連続でトリプルHに勝利。ヴェンジェンスではWWEの試合形式では最も過酷なものの一つとされるヘル・イン・ア・セルを経験している。

同年に行われたドラフトにより世界ヘビー級王座を持ったままSmackDown!に移籍し、早速JBLと世界ヘビー級王座をめぐって抗争を繰り広げ、グレート・アメリカン・バッシュ、サマースラムと続けてJBLを下し、王座を守り抜いて見せた。その後はエディ・ゲレロとの「友情ストーリー」が始まり、10月、ノー・マーシーにてエディと防衛戦を行い、勝利する。11/1に行われた、RAWのPPVタブー・チューズデイでは、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンの代役として急遽出場した。その後もエディとの微妙な関係が続いたが、同年11/13のエディの死去をもってこのストーリーは終結している。

サバイバー・シリーズにて行われるRAW対SmackDown!の全面対抗戦において、SmackDown!側の主将を務めるが、11月の同番組収録時に登場したRAW所属のケイン、ビッグ・ショーのダブルチョークスラムを受けた際に背中の筋断裂の重傷を負った。重傷を負いながらもWWEの興行には参加し続け、エディの親友であったレイ・ミステリオとのタッグでWWEタッグ王座も獲得し二冠王となった。しかし2006年1月に行われたハウス・ショーにおいて、新たなライバルとなっていたマーク・ヘンリーとの試合中に上腕三頭筋を断裂。長期休業に入らざるを得なくなったため、世界ヘビー級王座を返上した。

2006 - 2007年

7/7、SmackDown!にて復帰。The Great American Bash 2006でヘンリーと対戦する予定であったが、サタデーナイト・メインイベントでヘンリーが怪我をして離脱したため、対戦相手がケン・ケネディに変更された。この試合でも反則負けを喫し、その後もなかなか王座を奪回出来ずにいたため大スランプとまで評されたが、11/26のサバイバー・シリーズでキング・ブッカーを破り、2度目の世界ヘビー級王座を獲得した。 翌2007年、レッスルマニア23で、ロイヤルランブルを制したジ・アンダーテイカーの挑戦を受けるも、敗北。その後4/29のBacklashでアンダーテイカーとラストマン・スタンディング・マッチをするも両者カウントアウトで王座奪還ならず。SmackDown!にて行われた金網戦では同着で脱出。引き分けによるアンダーテイカーの防衛という結果に終わる。

その後、アンダーテイカーから王座を奪取したエッジとの抗争が始まる。しかし、ヴェンジェンスでのラスト・チャンス・マッチ形式の王座戦で敗れた。7/20、SmackDown!で怪我のために、エッジがベルトを剥奪され、総勢20人のスーパースターが参戦した世界王座が賭けられたバトルロイヤルに参戦。最後の3人まで残ったが、ケインと共にグレート・カリに落とされた。世界王者返り咲きを目指し、カリと抗争し9/16のUnforgivenにてベルトを奪還する。今度は復帰したアンダーテイカーにベルトを狙われるようになる。 そして11/18のサバイバー・シリーズのヘル・イン・ア・セル戦でアンダーテイカーと世界王座戦に望むが、エッジの乱入により王座防衛となる。しかし、そのことに納得がいかず11/28のSmackDown!でエッジとの世界ヘビー級王座戦を行うが今度はアンダーテイカーの乱入にあう。 その後もアンダーテイカー、エッジと抗争しAlmageddon 2007でのトリプルスレットマッチを行うが敗北しエッジが王者となった。

2008年

2008年の初頭はエッジと抗争するが、SmackDown!で行われたビート・ザ・クロック・マッチで敗退し王座戦線を親友レイ・ミステリオに譲る。 1月のRoyal Rumbel 2008に8番手で出場。最後の3人までに残ったがエボリューションでの相棒であったトリプルHに落とされた。2月のNo Way Out 2008でのエリミネーション・チェンバー・マッチで王座挑戦のチャンスが回ってきたがまたしてもアンダーテイカーに敗北する。その後はMVPと抗争、US王座に挑戦するがここではウマガの乱入に遭う。しかしWrestleMania 24での番組対抗戦ではウマガに勝利する。 レッスルマニア以降は、師匠であるリック・フレアーを引退させたショーン・マイケルズと抗争する。 その間にエッジと抗争していたアンダーテイカーと世界ヘビー級王座戦を行った。(これはアンダーテイカーを消耗させるヴィッキー・ゲレロの戦略である)試合はショーン・マイケルズの乱入により世界王座は奪取できなかった。Backlash 2008でのショーン・マイケルズとの対戦では、予想通りの激戦となったが、ショーン・マイケルズがバスティタ・ボムを回避したときの着地で左足を痛めた振り(アングル。後にこのことを指摘したクリス・ジェリコとマイケルズは抗争することになる)をしてバティスタがためらった時に必殺技のスウィート・チン・ミュージックをくらって敗北を喫した。

6/28にドラフトでRAWに移籍する。

10/26Cyber Sundayでクリス・ジェリコを破り4度目となる世界王座を獲得したが、8日後のRAWでクリス・ジェリコに敗れ王座を奪還された。

2009年

前年終わり頃からランディ・オートンと抗争、ロイヤルランブル前にジョン・シナと組んだタッグ戦でオートンにパントを喰らい翌週から欠場する。これを機会にサマースラムで負傷したというふくらはぎの手術も行い、戦線離脱した(実際にはヨーロッパツアーでのふくらはぎの断裂が原因の欠場であると思われる)。

レッスルマニア25翌日のRAW放送でビンス・マクマホン対ランディ・オートン戦に介入し復帰、オートンにスピアーを、コーディ・ローデスにバティスタ・ボムを見舞った。なお、復帰直前に来日し、J SPORTS ESPNの特別番組で蝶野正洋と対談を行っている。

4/26に開催されたバックラッシュで2009年初のPPV出場を果たし、シェイン・マクマホン、トリプルHとチームを組み、レガシーを相手にトリプルHのWWE王座を懸けて戦うも、トリプルHがオートンにRKO、パントを喰らい王座移動、トリプルHの欠場という結果に終わった。

5/17に開催されたジャッジメント・デイではオートンが持つWWE王座を懸けて戦うも、オートンのレフェリーへの平手打ちにより反則勝ち。しかし、王座戦規定により王座の移動は無かった。6/7に開催されたエクストリーム・ルールズでオートンからWWE王座を奪取したが、その試合で二頭筋を断裂し、翌日のRAW冒頭でオートンに腕を折られて病院に運ばれる形で再び欠場に入った。

休場中の6/29にRAWのゲストホストを務め、オートンへの報復として当時移籍してきたばかりのエヴァン・ボーン、ジャック・スワガー、マーク・ヘンリー相手のガントレットマッチを決定した。

ブレーキング・ポイントから一夜明けた9/14のRAWに手術をした左腕に装具をつけた姿で登場し、引退をほのめかす発言をし、前日王座をジョン・シナに奪われたオートンと対峙。しかし左腕の装具やキャリアへの言及はオートンを油断させおびき出すためのものであり、回復していたバティスタはオートンにクローズラインを決めた後、引退ではなくRAWを去ることとSmackDown!への移籍を発表。またこの会の特別ホストトリッシュ・ストラタスに直訴しRAWでの最後の試合をオートンと行い、バティスタ・ボムでついにオートンを沈めた。

10月に行われたブラッギング・ライツでのテイカー、ミステリオ、CMパンクとの世界ヘビー級王座戦でバティスタがテイカーにバティスタボムを放ち、カバーに入ったところ親友のミステリオがカバーを邪魔したために試合中にミステリオとの口論になった。結局、試合はテイカーが勝ち王座を防衛した。試合後、ミステリオがバティスタの元に来て、慰めるがバティスタはミステリオを襲撃し、ヒールターンした。これによりテイカーの持つ世界ヘビー級王座への挑戦権も絡めつつミステリオと抗争を繰り広げる。

2010年

WWEエリミネーション・チェンバーでビンス・マクマホンの命により、WWE王座戦を終えたばかりのジョン・シナと急遽王座戦を組まれ、WWE王座を獲得した。そしてレッスルマニア26で自身三度目のメインを張る。結果は、ジョン・シナの勝利。王座を明け渡した。その後、WWEスタジオが制作する「キリング・カーマ」という映画の撮影のために、しばらくはレスリングから離れる予定だったが、その自身の役が、トリプルHに変わったことにより、WWEに対して怒りを露わにするようになり、このころから、WWEを離脱する方針であると雑誌で取り上げられるようになる。そして、5月24日のRAW収録を持って、自らの口から引退とWWEを退団することが発表され、公式サイトからも、バティスタの名前は消えていた。

リングネーム

現在、過去に用いたことがあるリングネーム

  • バティスタ(現在も使用中)
  • デイブ・バティスタ
  • ディーコン・バティスタ
  • リバイアサン(Leviathan)

タイトル歴

WWE
  • WWE王座 : 2回
  • 世界ヘビー級王座 : 4回
  • WWEタッグ王座 : 1回(w / レイ・ミステリオ)
  • 世界タッグ王座 : 3回(w / リック・フレアー×2、ジョン・シナ×1)
  • 2005年ロイヤルランブル優勝
OVW
  • OVWヘビー級王座 : 1回

入場曲

  • I Walk Alone (Saliva) - 現在使用中
  • The Beast
  • Line In The Sand (Motörhead)

その他

  • 前妻との間に2人の娘がいる。
  • 現在はフロリダ州在住。
  • 2007年秋に、自伝 Batista Unleashed を発売。
  • 「天使」の刺青は前妻の名 "Angie" にちなんだもの。デザインをしたのは彼女の母である。
  • 2005年になって、「バティスタは実は1966年生まれ」という噂が広まったが、これはプロレスニュースサイトの主催者 デイブ・メルツァー(Dave Meltzer)の広めたデマであるとされ、公式サイトの管理人はこれを否定している。
  • プライベートで乗るバイクはチャック・パルンボのオーダーメイド。
  • 相撲好き。入場時のムーブは相撲の四股にマシンガンのアクションを付けたものである。
  • 2009年11月アメリカ公開の映画「Wrong Side of Town」(邦題:奪還)に出演。同じく元WWEレスラー、ロブ・ヴァン・ダムが主演だが日米ともにDVD、ブルーレイのジャケットでは主演のような扱われ方である。

 
広告


アレクセイ・イグナショフ
Alexey Ignashov
1978/1/18

ベラルーシ出身のキックボクサー。フリー。ニックネームは「レッド・スコーピオン」「毒サソリ」「ベラルーシの赤サソリ」。参戦当初は「アーツ2世」「東欧のアーツ」とも言われていた。かつては母国ベラルーシのチヌックジムに所属していた。

長身から繰り出される膝蹴りが得意。この膝は「レッド・スコーピオン(赤いサソリ)」と表現され、それがそのままイグナショフを表す代名詞となった。2003年以降はパンチを主とするカウンター狙いのファイトスタイルになっている。

2005年の夏に大学院を卒業し、以後は進路をプロ格闘技一本に絞っている。

2007年頃より活動の拠点をニュージーランドに移している。

来歴

アマチュアキックボクシングの世界選手権で優勝。

1999/10/24、オランダで開催されたIt's Showtimeでロブ・カーマンの引退試合の相手を務め、判定負け。

2000/6月/24、K-1 WORLD GP 2000 ヨーロッパ&ロシア地区D予選で優勝。横浜大会のGP予選トーナメントへ出場を決める。

2000/8/20、K-1 WORLD GP 2000 in 横浜で初来日。GP予選トーナメント1回戦でマット・スケルトンに判定負け。

2001/7/20、K-1 WORLD GP 2001 in 名古屋のGP予選トーナメント1回戦でピーター・マエストロビッチと対戦。膝蹴りでダウンを奪い判定勝ちを収めた。準決勝ではアンドリュー・トムソンから同じく膝蹴りでダウンを奪取しKO勝ち。決勝戦でロイド・ヴァン・ダムと対戦し、延長1R判定勝ちを収め東京ドームへの切符を手にする。

2001/12/8、K-1 WORLD GP 2001 決勝戦の1回戦でニコラス・ペタスと対戦。2R、イグナショフの首相撲からの膝蹴りでKO勝ち。続く準決勝では、フランシスコ・フィリォと対戦。前蹴りでフィリォを苦しめるが、フィリォのローキックで徐々にペースを奪われ判定負け。敗れはしたものの、この大会で優勝を果たしたマーク・ハントと同様、インパクトを残す結果となった。

2002年はビヨン・ブレギーに5RKO勝ち、ピーター・アーツに判定勝ちするが、GP開幕戦でステファン・レコに判定負けを喫した。

2003年、パリ大会のヨーロッパ・ロシア地域予選でパヴェル・マイヤー、アレクサンダー・ウスティノフ、シリル・アビディを下し優勝、GPへの切符を手にする。福岡大会ではヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤをローキックでマットに沈め、谷川貞治プロデューサーに「今年の優勝候補」、また角田信朗に「ホーストよりも説得力のあるローキックを出し始めている。」と評価される。続く大阪の開幕戦ではマイク・ベルナルドを2RKOで沈め、関係者やメディアからは、ステファン・レコと並び2003年のGP優勝最有力候補と称される。しかし、12月の決勝トーナメントではピーター・アーツに完封され判定で敗れ、初戦敗退。

2003/12/31、K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!で中邑真輔と総合格闘技で対戦。第3Rに膝蹴りで中邑を鼻骨骨折させダウンを奪いレフェリーストップ勝利となった。しかしすぐさま起き上がった中邑からカウントも取らずに即レフェリーストップとなったことに対し、中邑からクレームが付き、後に「無効試合」となった。

2004/5/20、It's Showtimeでセーム・シュルトと対戦し、1R左膝蹴りでKO勝ちを収めた。その後、飛行機で日本に直行し5/22のK-1 ROMANEXにおいて中邑と総合格闘技で再戦したが、中邑にギロチンチョークでタップアウト負け。

2004/9/25、K-1 WORLD GP開幕戦でガオグライ・ゲーンノラシンと対戦。延長戦の末、判定負けを喫した。試合後イグナショフは「あと3kg絞るべきだった、相手を過小評価していた。」とコメントしている。

2005/2/13、ビヨン・ブレギー戦で、3Rに膝を負傷しKO負けを喫した。この対戦で負った膝の怪我を引き摺ったまま、4月にピーター・グラハムと対戦。延長まで縺れるも惜しくも判定負け。続いて、5月には内田ノボルと対戦。蹴りが使えず判定負けを喫した。そのため、6月に膝の手術を行い、3か月の休養と準備期間を設けた。

2005/9/23、K-1 WORLD GP開幕戦ではワンマッチで前年度王者レミー・ボンヤスキーと対戦。互いにジャブ、ストレート、ローキック、膝蹴りの繰り出し合いの熱戦となった。試合は延長までもつれるも延長ラウンドの差で惜しくも判定負けとなった。

2006年、タイでアパートを借りて、一か月間トレーニングをして再起を図る。5月のK-1 WORLD GPオランダ大会のEUROPE GP1回戦でピーター・ボンドラチェックを右ストレートで下す。しかし、準決勝でリザーバー上がりのグーカン・サキに判定負け。この試合、イグナショフは終始サキの攻撃を防御するに止まり、殆ど反撃できなかった。試合後のインタビューで「カウンターを狙いすぎてしまった。」と語った。

2006/8/12、K-1 WORLD GPラスベガス大会の世界最終予選1回戦でイマニー・リーを相手に僅差の判定勝ちを収めた。しかし足の怪我により準決勝を辞退。

2007/2/24、K-1 Hungary 2007でアティラ・カラチと対戦しKO勝ち。しかし、練習中に親指を負傷したことなどもあってか、結局2007年シーズンは一度も本戦には出場できなかった。

2008/2/9、KO World Seriesにてグレゴリー・トニーと対戦するも、判定負け。

2008/3/30、The KHANにおいてユ・ヤンレと対戦し、2-0の判定勝ちを収めた。

2008年10月5日、TOUGH IS NOT ENOUGHにてビヨン・ブレギーと対戦し、ダウンを奪い判定勝ち。

2010/4/3、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAのメインイベントでバダ・ハリと対戦し、判定負け。2005/9/23以来、4年7か月ぶりの日本での試合となった。なお、アルコール依存症によりK-1から遠ざかっていたことが明かされた。

2010/5/21、K-1ヨーロッパ予選トーナメントに出場。1回戦でミンダウガス・サカラウスカスにKO勝ち、準決勝でフレディ・ケマイヨに3-0の判定勝ちを収めるも、怪我のため決勝を棄権した。代わりに決勝を戦ったケマイヨがWORLD GP開幕戦出場を決めた。

人物

  • レミー・ボンヤスキーと並ぶ、K-1きってのインテリとして知られている。
  • 内容の難しいアーティスティックな映画を好む。
  • 普段は飄々としてつかみどころのない物静かな性格。ジェロム・レ・バンナは「イグナショフはリングに上がるとき、まるで風呂にでも入るような顔をしていやがる。俺にあんなことできない。アイツは凄い奴だよ。」とコメントしている。一方で試合中は気の強さを発揮することもしばしばである。
  • 敗北を喫したガオグライ・ゲーンノラシン戦後のインタビューでは、記者に敗因を聞かれ、「太ってしまったんだもの。」と答えた過去もあったが、「厳しい時期の自分を支えてくれるファンの皆さんには心から感謝したい」、「苦しいときでも応援してくれるのが本当のファンだと思う」、「これ以上ファンをがっかりさせられない」と、ファンに対する感謝の思いを語るという、新たな一面を見せ始めている。
  • 「日本で好きな場所、物は?」という質問に対して「日本の女の子」と答えたことがあった。
戦跡
97試合79勝18負





ザ・シーク
The Sheik
1926/6/9 - 2003/1/18

本名:エドワード・ジョージ・ファーハットEdward George Farhat)アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州ランシング出身のアラブ系アメリカ人(ギミック上はヨルダン・アンマン出身)。日本での異名は「アラビアの怪人」。プロモーターとしても活躍し、「デトロイトの帝王」と呼ばれた。

「シーク(首長)」の名を冠したプロレスラーは数多く存在するため、本国アメリカでは尊敬の意味も込めジ・オリジナル・シークThe Original Sheik)とも呼ばれる。

甥のサブゥーもプロレスラー。

来歴

両親はレバノンからの移民であり、10人兄弟の1人としてミシガン州ランシングにて生まれる。学生時代はアメリカンフットボールの選手だった。17歳のときに年齢を偽って陸軍に入隊し、第二次世界大戦に出征。その後、プロモーターのバート・ルビーにスカウトされ、1950年にプロレスラーとしてデビュー。デビュー前は、モンタナ州ビュートの銅山で採鉱夫をしていたともされる。

アメリカでの活躍

当初は普通のファイトスタイルでテキサス州等を転戦し、ドリー・ファンク・シニアとも戦った。リングネームもザ・シークではなく、「ザ・シーク・オブ・アラビア(アラビアの酋長)」だった。

その後「蛇」「侍女」「火炎攻撃」などのギミックを用い独自のスタイルを確立、1962年5月にはセントルイスでパット・オコーナーを破り、セントラル・ステーツ版のNWA USヘビー級王座を獲得している。1964年にはデトロイト地区のプロレス興行権を買い取り、「ビッグ・タイム・レスリング」を設立。NWAの会員資格を取得し、プロモーターとしても有力な存在となった。

1965年2月、ジョニー・バレンタインからデトロイト版のNWA USヘビー級王座を奪取。以降1980年5月まで15年強に渡り、バレンタイン、ボボ・ブラジル、ジノ・ヘルナンデス、テリー・ファンクらを破り同王座を通算15回獲得した。

他地区にも精力的に遠征しており、西海岸のロサンゼルス地区では1969年にフレッド・ブラッシーやミル・マスカラスとNWAアメリカス・ヘビー級王座を争っている。ニューヨークのWWWFでは1960年代にブルーノ・サンマルチノやアントニオ・ロッカと抗争(1968年のMSG定期戦では、10/21・11/18・12/9の3カ月連続でサンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦)、1970年代からは旧友グラン・ウィザードをマネージャーにスポット参戦し、1973/12/14には、同12/10日にスタン・ステイジャックを下しWWWF世界ヘビー級王者に返り咲いたサンマルチノの初防衛戦の相手を務めている。また、1974年にはトロントのメープル・リーフ・ガーデンにてアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦。1979/8/25には、デトロイトに遠征してきたボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦している。

プロモーターとしてもWWWF / WWFやカナダのトロント地区(メープル・リーフ・レスリング)などと提携し繁栄マーケットを築いていたが、日本車輸出量の増大によるデトロイトの景気急落などの諸事情で観客動員が落ち込み、1980年10月にビッグ・タイム・レスリングは活動を停止。以降はフリーランサーの立場で各地を転戦するようになり、フロリダ地区ではダスティ・ローデスと流血戦を展開。デトロイト時代の盟友アンジェロ・ポッフォ(ランディ・サベージの父親)がレキシントンで旗揚げしたICWなどにも参戦していたが、1982年以降はセミリタイア状態となった。

なお、セミリタイア後は後進の指導・育成を手掛け、甥のサブゥーをはじめ、ロブ・ヴァン・ダムやスコット・スタイナーらミシガン出身の選手をトレーニングしている。また、晩年はハードコア・レスリングのオリジネーターの1人として再評価されていた。

日本での活躍

日本には1972年9月、末期の日本プロレスに初来日。坂口征二とUNヘビー級王座を賭けての2連戦を行い、初戦で王座を奪取している(第2戦で奪回される)。翌1973年3月、全日本プロレスに初参戦。ジャイアント馬場が持つPWF世界ヘビー級王座の初防衛戦の相手を務めた。1974年11月には新日本プロレスにも参戦し、沖縄でアントニオ猪木とのランバージャック・デスマッチも行われたが、シリーズ途中に緊急帰国してしまった(キラー・ブルックスらがビッグ・タイム・レスリングから選手を引き抜き、デトロイトで新団体を興したことによる)。シークが新日本プロレスに参戦したのはこの1シリーズのみである。

1977年12月、全日本の『世界オープンタッグ選手権』にアブドーラ・ザ・ブッチャーと「地上最凶悪コンビ」を組んで参加。ザ・ファンクスを相手に凶器攻撃(主に五寸釘とフォーク)で大流血戦を繰り広げた。以降も全日本プロレスを日本での主戦場にファンクスとの抗争を続けるが、1979年の『世界最強タッグ決定リーグ戦』では、ブッチャーと仲間割れして顔面に火炎攻撃を見舞った。

翌1980年5月に行われたブッチャーとの遺恨戦では、実況席の倉持隆夫アナウンサーを襲い流血させた。同年暮れの世界最強タッグでは「シークのコピー」といわれたグレート・メフィストを連れて参戦、ブッチャー&キラー・トーア・カマタ組との最終戦では両者リングアウトに持ち込みブッチャー組の優勝を阻止している。1981年の世界最強タッグにはマーク・ルーインとのコンビで参加。ブッチャーと入れ替わりに新日本から移籍してきたタイガー・ジェット・シンと抗争を繰り広げたが、シンとのシングル戦ではリングアウト負けを喫した。その後、自ら保持するデトロイト地区USヘビー級選手権とシンの保持するUWA世界ヘビー級選手権のダブルタイトル戦をぶち上げるものの、ストーリーは続かず、昭和期ではこれが最後の来日となった。

1991年11月、FMWへの参戦で10年ぶりの来日が実現。以降はFMWを主戦場として、大仁田厚と抗争を繰り広げた(アメリカでも活動を再開し、1994年にはECWにも登場してケビン・サリバンやタズマニアックと対戦している)。

1992/5/6、FMW兵庫県・三田市大会における大仁田&ターザン後藤VSシーク&サブゥーのファイヤー・デスマッチでは、リングの周りの火炎の勢いが強すぎるというアクシデントが起きた。リングは凄まじい火炎に囲まれ酸欠状態となり、異変を察知したレフェリー・レスラー達は次々とリングを飛び降りたがシークは最後まで異様な姿でリング内に残り、ぎりぎりでリングから降りると逃げ惑う観客に睨みをきかせ、場外でも更に大仁田に火炎攻撃を仕掛けた。ノーコンテストの裁定が下ると自ら救急車に乗り込み病院へ直行した。

1998/12/11、大仁田が旗揚げした新団体「USO倶楽部」の後楽園ホール興行にて、本人を招いての引退セレモニーが行われた。

死去

2003/1/18、故郷のランシング近郊のミシガン州ウィリアムストンにて心不全により76歳で死去。彼の死は、当時来日したアブドーラ・ザ・ブッチャーによって、日本のファンに伝えられた。

2007年、プロレス界における功績を称えWWE殿堂に迎えられた。顕彰式は3/31、かつての本拠地ミシガン州デトロイトのフォックス・シアターで行われ、サブゥーとロブ・ヴァン・ダムがプレゼンターを務めた。

獲得タイトル

  • NWA USヘビー級王座(デトロイト版):15回
  • NWA USヘビー級王座(トロント版):4回
  • NWA USヘビー級王座(セントラル・ステーツ版):1回
  • NWA UNヘビー級王座:1回
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:2回
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:1回
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • IWAインターナショナル・ヘビー級王座(モントリオール版):2回
  • ICW USヘビー級王座:2回
  • WWE Hall of Fame:2007年度




  

















 ↑ トップへヤフーオークション
 


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system