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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/24



ミスター高橋
1941/1/24

日本の作家、小説家、元新日本プロレスのレフェリー、マッチメイカー。本名は高橋 輝男。ニックネームは『ピーター』。

概要

1941年、神奈川県横浜市に生まれる。元プロレスラー山本小鉄とは幼馴染。柔道三段、パワーリフティングヘビー級初代日本選手権者。

1963年、プロレスラーに転向。アジア各地を転戦する。

1972年、山本小鉄の勧誘でレフェリー兼外国人レスラー担当として草創期の新日本プロレスに入団。以来25年余にわたりメインレフェリーとしてアントニオ猪木らの試合を2万試合以上裁き、マッチメイカー、審判部長も務める。また、NWAの公認レフェリーだったこともある。その傍ら、週刊プロレスにプロレスラーのリング外のエピソードを題材にした連載「陽気な裸のギャング達」を持ち、数々の外国人レスラーの陽気な素顔を紹介していた。

新間寿は「ミスター高橋は大事な試合はまるで任せてもらえなかった」と発言しているが、新間が例として挙げている試合は、ほとんどが他流試合(ストロング小林、大木金太郎戦など)か異種格闘技戦(ウィレム・ルスカ、モハメド・アリ戦など)で、新日本所属レフェリーだった高橋が裁く道理がないものばかりである(但し、この件については宮戸優光の「いかにレフェリーとして認められていなかったという証明ですからね」という発言もある)。事実、新日本の通常の興行における大勝負はほとんど高橋が裁いている。

平成に入ると、長州力の信任を受けたタイガー服部にメインレフェリーの座を譲り、1998年に現役レフェリーを引退。高校の体育教師となる。

2000年前後からプロレス界の裏話を纏めた本を執筆。初回作『プロレス 至近距離の真実』では、広く世間に知られた有名レスラーたちの素顔や意外な一面、そして著者自身の経験談などを綴った。

しかし次作の『流血の魔術 最強の演技 全てのプロレスはショーである』で、一般には知られていないプロレス界の裏舞台に関する内容を赤裸々に記した。同書は暴露本とされることがあるが、高橋本人はそれを否定して「プロレス界への提言」だとしている。

近年では、プロレスの裏側を題材にした小説『東京デンジャラスボーイ』シリーズなどを執筆している。また、別冊宝島のプロレスムック本に掲載された原田久仁信の劇画に原作を提供している。

2008/11/1、新日本プロレスのリングドクター林督元が主催する「ドクター林リサイタル」に出演。『流血の魔術 最強の演技 全てのプロレスはショーである』執筆後、公の場では初めて、新日本プロレスの関係者と競演。

高橋の著書『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』は、プロレス関連本としては異例の20万部弱というベストセラーを記録し、版元の講談社が出稿した書籍広告もあいまって、日本のプロレス業界、マスコミ、そしてファンに対して大きな衝撃を与えた。これが一因でプロレス業界は凋落し、プロレス専門誌も売り上げを落としていったという見方がある。

  • 出版の動機は、高橋が「警備会社を作り、引退したレスラーの受け皿とする。新日本が全面的にバックアップする」という約束で退社したにもかかわらず、その約束を反故にされた恨みと言われている。しかし高橋本人はこれを否定している[7]。また、気心の知れたレスラーに「私の本に対して反論しないか。一般誌上で論戦を繰り広げる。そうすれば私の本ももっと売れるし、君の業界での評価も上がる」という話を持ちかけていたことが、週刊ゴング編集長の金澤克彦により同誌で記載されている。新間寿は「高橋に何度も『公開討論会をやろう』と言っているのに返事をよこさない」と証言している。

この著作に対して、当時の各団体、プロレスマスコミは軒並み黙殺した。

新日本プロレスでは長州力が同書の話題になると激怒。アントニオ猪木は、高橋が喰うためにやったのだから放置しておけと相手にしないスタンスだったが、新日本プロレス内部では、同書に対してノーコメントというマスコミ対応をするようにとの通達が出された。多くのプロレスマスコミが触れない中、『紙のプロレス』が同書を取り上げて高橋にインタビューしたが、それを理由にプロレスリング・ノアが同誌に取材拒否を行った。

現役レスラーとしては、例外的にウルティモ・ドラゴンが内容に疑義を呈する発言を出している。同書については、プロレス業界から離れたり、距離を置いている新間寿やターザン山本は、一時期高橋の本に対して頻繁に反論や批判を行っていたが、山本の反論本は全く売れなかった。

当時は『週刊ゴング』誌上で正面切って取り上げることをしなかった同誌の元編集長の金澤克彦は、後にアダルトビデオのモザイクを喩えにして、疑似本番であることを明かすのは無粋であり営業妨害であると批判し、そして当時『週刊ゴング』が高橋本を黙殺せずに戦うべきだったと考えを改めている。一方、『週刊ファイト』紙は反論したところでヤブヘビだとのスタンスで黙殺をしたが、『週刊ゴング』同様に部数は激減していった。

元『週刊ファイト』編集長の井上義啓は、新日本プロレスにいた高橋が内幕を明かすことを問題視しながらも、内容そのものについては安直なプロレスにくさびを打ち込むものとして評価した。竹内宏介は、週刊ゴングで過去のアメリカのレフェリーであるレッドシューズ・ドゥーガンを引き合いに出し、「彼はたとえ潰れた団体であっても決して軽々しく企業秘密を明かしたりしなかった。そういう口の堅い点も彼が名レフェリーとうたわれた一因だろう。私が誰に何を言いたいか賢明な読者の方にはわかってもらえると思う」と発言している。

新日本プロレスの元フロントの永島勝司は、高橋のやったことを背信行為として、その主張をデタラメと推測と下しており、高橋との対談をした際にはプロレスを八百長と暴露したことを許せないと高橋を糾弾した。

高橋の幼馴染だった山本小鉄は、「リングの魂を金に替えたヤツを友人と思わない」と発言した。

引退したプロレスラーでは、キラー・カーンは自分に関する記述を嘘であるとして否定。さらに新日本プロレスへの恨みが出版の動機ではないという高橋の説明について、自分の店で新日本プロレスの悪口を言っていたとしてこれも否定した。ストロング小林は、本の内容の真偽については保留しつつ、恨みが動機という点ではカーンに同調した。小畑千代は内容についての反論ではなく、新日本プロレスで仕事をしてきた人間が内情を明かしたことを倫理観がないとして、高橋に不快感を示した。






前田日明
1959/1/24

総合格闘技黎明期に活躍した元プロレスラー、元総合格闘家。リングスCEO。元HERO'Sスーパーバイザー。総合格闘技大会THE OUTSIDERのプロデューサー。大阪府大阪市大正区出身。元在日韓国人三世(日本国籍に帰化済み。)。

プロレス界にキックボクシングやサンボの要素を持ち込み、格闘技を日本人にとって身近なものにした。また、プロモーターとして格闘技の大規模興行を成功させ、そのノウハウはK-1に受け継がれている。総合格闘技という言葉の創始者(佐山聡が使い始めたという説もある)とされ、佐山聡らと共に、日本の「プロレス」が現代の「総合格闘技」へと発展拡大していく流れを作った中心人物である。また、前田はリングス初期に試合会場を予約する際に「フリー・ファイト団体」として「プロレス」との差別化をはかろうとしていた。

来歴

少年時代

小学生時代は特撮テレビ番組『ウルトラマン』に熱中。その中で1967年4月9日に放送された最終回「さらばウルトラマン」において初代ウルトラマンがゼットンに倒されたのを見てショックを受け、ウルトラマンの仇を討つため打倒ゼットンを志し少林寺拳法を習い始めた。北陽高校時代は少林寺拳法、空手、バイクに熱中した。空手は無想館拳心道館長岩崎孝二から学んだ(二段を取得)。

新日本プロレス

1977年に佐山聡にスカウトされ新日本プロレスに入団。同年8/25、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。新日本プロレスの社長兼エースのアントニオ猪木に憧れて入団したのではなく、「肉が沢山食べられるから」「モハメド・アリに会える(同じジムに入れる)」が入団の理由であった。

その後、将来のエース候補として渡英しクイックキック・リー(「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミック)として活躍。ヨーロッパヘビー級王座を獲得し、IWGPトーナメント欧州代表として帰国。日本再デビュー戦の相手はポール・オーンドーフ(リバース・アームソルトにてピンフォール勝ちを収める)。当時の藤波辰巳とのタッグ名は「フレッシュコンビ」。ヨーロッパで修行したというブランド力や、長身を生かしたスープレックスと相手をロープに飛ばしてのフライングニールキックなどで人気レスラーとなった。また、甘いマスクで女性ファンも多く、帰国した年のファンクラブの集まりでは女性が多かったことが週刊プロレスで報じられている。

第1次(旧)UWF

1984年に第1次(旧)UWF(浦田昇社長)の旗揚げに参加。佐山聡の影響によりキックと関節技を中心とした格闘技色の濃いプロレススタイル(後にUWFスタイルと呼ばれる)が展開されるが、格闘技の試合は月に一度と言う“競技志向”の佐山と、会社が大変なんだから試合を増やそうと言う“興行志向”の前田が対立し、同団体は解散。

1985/12/6、藤原喜明、木戸修、高田伸彦(現:高田延彦)、山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本に復帰。前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。

1986/4/29、三重県津市体育館において新日本サイドの不可解なマッチメイクで、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチだと言われているが、最後はアンドレが試合を放棄してしまい、26分35秒ノーコンテストに終わる。

同年10/9、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」で、ドン・中矢・ニールセンとの「異種格闘技戦」を、逆片エビ固めでギブアップさせ勝利、この試合を期に「新格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになった。この試合について、後年、ニールセンは「ここはこうやって、その次はこう、と流れを決めたわけではなかった。でも、ボクが言われたのは“試合を盛り上げてくれ”ということ。そして、1Rにいいパンチが入ったのに、セコンドに“アーリーノックアウトはダメだ”って言われた」と、プロレス雑誌『kamipro』で証言した。

1987/11/19、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、前田が長州力を背後からキックし、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた(長州vs前田 顔面蹴撃事件)。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否したことにより1988/2/1に新日本プロレスからプロレス道にもとる行為を理由に解雇される。後に前田は、プロレス雑誌「Gスピリッツ」におけるインタビューで、全日本プロレスでの天龍・輪島戦の衝撃に対抗するため顔面蹴りを試みたところ、長州が顔を反らしてしまったためにアクシデントに至ってしまったと証言している(和解済み)。

第2次(新生)UWF

第2次(新生)UWFは、1988/5/12に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ戦を行った。当時、創刊されたばかりの格闘技通信は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢した。第2次UWFは格闘技であることを標榜した、競技色の強いプロレスであった。

その後、前田と神新二社長との間で、神社長の会社の株式の無断の独占問題と不明朗な経理で問題が発生。1990年10月、前田は船木誠勝戦直後に、フロントを非難。これを受けたフロントは前田を出場停止処分とする。この一連の前田とフロントとの確執は前田と所属選手間にも波及。翌1991年初頭に、前田は自宅マンションでの選手集会で第2次UWFの解散を宣言した。

リングス

リングス設立

第2次UWF解散後の1991年春、リングスを設立。同年5/11に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。リングスの興行はWOWOWで生放送された。さらには、UWF時代の人脈からオランダのクリス・ドールマンの全面協力を得ることになった。正道会館からは、石井和義館長が佐竹雅昭ら空手家をリングスに派遣した。石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積しそれが後のK-1の飛躍へとつながった。

前十字靭帯の断裂

旗揚げ第2戦前の練習で、前田は前十字靭帯断裂の重傷を負った。その後しばらくはニーブレスをつけて強行出場を続けるが、最終的には手術を行い長期欠場となった。エース不在の興行的な穴はディック・フライ、ヴォルク・ハン、高阪剛、田村潔司、山本宜久、長井満也、成瀬昌由らが埋めることになる。この頃、リングスは旗揚げ当初より続いた外国人頼りのカードから脱却する。

KOKルールの採用

1993年から始まったUFCの影響を受けて、1999年からリングスもバーリトゥードに近いKOKルールを採用した。KOKルールは、グラウンド状態での顔面への打撃は禁止であったが、スタンド状態での顔面打撃を認めた画期的なルールであった。佐山は初期の修斗ルールと同じと言っていたが、グラウンドでの腹部・腰部・足部への打撃有無の違いがある。

ヒクソン・グレイシーとの対戦宣言

1998年に開催されたPRIDE.1では、高田延彦がヒクソン・グレイシーに敗北。これを機に、前田はヒクソンとの対戦を宣言し交渉を進めるが、ヒクソン側が高田延彦との試合を決めたため、実現することはなかった。

リングス活動停止

1999/2/21、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。しかしながら、ロシアの英雄であるカレリンをレスリング以外の場に唯一立たせた意義は大きい。カレリンとの引退試合は民放のニュース番組で特集されるほど、世間から注目されていた。後に前田は、引退試合の相手にカレリンを選んだ理由について「本当に強い人間っていうのは、こういうことだよっていうのを証明したかった」と語っている。

前田引退による興行人気の低下によって、2002年にリングスは活動停止。しかし、リトアニア、オランダ、ロシアでは大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営し、リングスKOKルールを採用した格闘技イベントZSTが開催されている。

ビッグマウス(ビッグマウス・ラウド)

2005年、元新日本プロレスの上井文彦に請われ、上井が旗揚げした新プロレスイベントビッグマウスにスーパーバイザーとして参画。同時に、船木誠勝と和解。

2006/2/26、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行で、前田は船木と共にビッグマウス・ラウドを脱退。上井による会社資金の横領の露見、それによる資金難による団体所属選手および社員の給与未払い、道場を用意しようとしなかった等、上井の資金の使い込みをめぐる確執が脱退理由であった。

HERO'S

ビッグマウスとK-1との提携で、「HERO'S」(総合格闘技イベント)発足時より「スーパーバイザー」として参加。同興行の看板役の他に、試合ルールの運用、選手発掘などを行う。しばしば記者会見等の公の場に姿を現した。

2007/10/5、「HERO'S KOREA 2007」の開催発表記者会見に出席。前日10/4にPRIDE事務所が閉鎖され活動停止となったことに関し「天網恢々粗にして漏らさず」と発言。同日深夜、HERO'S公式サイトで谷川貞治が「不適切な発言」と謝罪文を掲載する事態となった。

同年12/31、「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」で田村潔司vs所英男の試合後のリング上にプレゼンターとして登場。勝利者賞のトロフィーを田村に放り投げるように押しつけるトラブルを起こした。

2008/2/15、「THE OUTSIDER」)の記者会見を開き、HERO'Sの発展的解消に伴い同イベントのスーパーバイザーを降板したことが発表された。それまで確執が取り沙汰されていた旧PRIDEとHERO'Sとの連立イベントDREAMについては「めでたいこと」と述べた。

THE OUTSIDER

2008/1/21、RINGS公式サイトで、いわゆる「不良」を主な対象とした格闘技大会「THE OUTSIDER」の立ち上げを発表し、3/30にディファ有明において旗揚げ大会を開催した。

獲得タイトル

プロレス

  • ヨーロッパヘビー級王座
    UWFヘビー級王座
元はWWF(現WWE)インターナショナルヘビー級王座だったが、旧UWFとWWFの関係が消滅したと同時に改称される。)
  • IWGPタッグ選手権:(パートナーは高田延彦)

人物

  • 2006年12月、15年来の親友であったフリーカメラマンの女性と入籍した(2007年3月3日に自身のブログで発表)。2007年5月には長男が誕生。2009/1/17に結婚披露宴を行った。
  • 在日韓国人三世。韓国訪問での体験などを経て帰化を決意。1983年に日本に帰化申請を行い、翌年受理された。韓国名(旧名)は「高 日明」(コ・イルミョン、고일명)。
  • 新日本デビュー当時のリングネームは「前田明」であったが、旧UWF旗揚げ時にリングネームを本名の「日明」に改名した。「日明」と命名した祖父への思いから「前田日明」に改名したと、後に「週刊プレイボーイ」で語っている。
  • 『ウルトラマン』で怪獣ゴモラが大阪城を壊した翌日、その様子を確認に行ったが特に変化が見られなかった。そのため、近くで掃除をしていた男性に尋ねたところ「皆が徹夜で修理した」と聞かされた(浅草キッドの海賊男に出演したときに発言)。
  • 天龍源一郎もリングの魂の番組内で、戦ってみたい相手として前田の名前を挙げていた。
  • 1995/5/20、リングス興行で鶴巻伸洋戦を終えた弟子・坂田亘に対し、試合内容の不甲斐無さなどを理由に予告どおりバックステージで制裁。
  • 1997年初頭に発した「現役生活も残り少なくなった」との引退示唆発言は業界に戦慄を与え、特に長州力には衝撃的であったため、前田との一般雑誌での対談の際に何度も真意を問うた(過去の顔面蹴撃事件の遺恨はここで清算)。そして、自らの引退(一度目)と猪木のカウントダウンファイナルを前田の引退試合より先に組んだことを、後にオフレコ扱いで、ある雑誌のインタビューで語っていた。
  • 近年の若手レスラーに対しては批判的なスタンスをとることが多いが、KENTAだけはその反骨的なスタイルが気に入ったのか、高い評価を与えている(月刊Gスピリッツ Vol.3より)。
  • 六本木で前田より大柄の在日米軍5人組が、前田の愛車のベンツのボンネットに腰掛けて日本人を侮辱する態度を取ったのでハイキックなどで4人を倒した。最後の一人は「You are strong!」と言って対戦を拒んだ。前田は最後に「Don't be fun of Japanese」(日本人をなめんなよ)とセリフを残した(週刊プロレスのインタビューにて)。
  • 大の巨乳好きでも有名であり、かつて「リングの魂」が、「最強の巨乳は前田日明が決める!」と題してリングスのイメージガールオーディションを企画したことがあるほど。その企画に審査員として呼ばれた前田は、オーディションに参加した女性(当然巨乳の女性ばかり集まった)の胸を手にしていたペンの先でつつくなど、その巨乳好きを披露した。また、「リングの魂」出演時には、当時グラビアアイドルとして売り出し中だった井上晴美自身から、写真集を直接プレゼントされ、思わず顔をほころばせる場面もあった。
  • 2005/11/23放送のテレビ朝日『ワイド!スクランブル』において、優秀な人物を見ると「あれは在日コリアン」と主張する在日認定行為が在日社会で行われていると証言し、「ウチらの(在日の)年寄りは何でも韓国人にしたがるんですよね」「優秀な人を見たら在日だって」「うちのおばあちゃんはカール・ルイスは在日だと言っていた」「山本晋也監督は在日だってウワサが結構ありますよ」と証言した。また、朴慶南・金守珍との鼎談で、金守珍が「在日に違いない。半分は疑いながらも、そう信じていた。僕ら小学校時代から高校まで、強い人はみんなコリアンにしてきたんですよ。今でも朝鮮学校に行ってる子供はそうですよ」「そうあってほしいという願望があるんです。在日はよくスポーツ選手や芸能人のことを、『あの人もコリアンらしい』などと言いますよね」と発言し、それに対して、前田は「親父たちの世代の言うこと聞いていると、ゴジラもウルトラマンも、全部コリアンということになる」と応じた。(在日認定参照)
  • 日本で最初のアイコラ職人(浅草キッドの海賊男に出演したときに発言)。
  • 現役時代、一番迫力が有ったのはスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットだと語っている(新日本の若手時代、セコンドで止めに入る際、決まって受けていた)。
  • 同い年に赤井英和(正確には前田の方が早生まれで同学年ではない)が居り、「あいつと会わすな。あいつと会わすと大阪が壊れる」と二人を引き合わせないように周りが苦労したようである。この二人の逸話については、喧嘩の花道として二宮清純が書籍化し、三池崇史が映画化している。

政治

2009/12/28に2010年夏の参議院比例代表に民主党公認で出馬予定だったが、2010/3/3には第1次公認候補が見送られ、同年3/21には出馬辞退の意向が伝えられている。理由としては、外国人参政権について本人は反対しており民主党との意見の違いがあったほか、党の出馬時の金銭的支援についての食い違いがあったという。また前田側の選挙への姿勢に、石井一選対委員長が激怒した場面もあったとされる。

その後、民主党と連立与党を組む国民新党が前田と接触を持ち、参議院東京都選挙区に同党公認候補として擁立する方針を打ち出す。しかし、東京都選挙区からの立候補を望む同党と、比例区からの出馬を希望する前田との意思は合致せず、結果、同党からの出馬もなかった。

趣味

  • 釣り 釣りの為に小型船舶も所有している。
  • 読書。ポルノから哲学、戦記物まで読むと言うほど読書好き。特に太宰治や、孔子の論語に傾倒し、第二次UWFを旗揚げした際に「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」という、太宰治が「葉」(『晩年』所収)で引用したポール・ヴェルレーヌの「叡智(Sagesse)」の言葉を、孫引きした挨拶を行っている。また、作家の山田詠美氏とも交流がある。
  • 日本刀の収集・研究。日本刀は50振以上所有している。また日本刀に限らず、骨董品を見て回るのが好き(オーラの泉に出演したときに発言)。
  • 航空機が好きで、結婚した際「子供はパイロットにしたい」とコメントしている。夢は零式艦上戦闘機で太平洋を横断することと語っている。テレビ番組「所萬遊記」で、所ジョージに「一緒にムスタングに乗りましょう」と誘っている。また、元帝国海軍中尉でエースパイロットの坂井三郎を慕っている。また富士通AirWarriorからフライトシミュレーターも続けている。最近まではFighter Aceプレイヤーだったがサービスが終了してしまった。
  • 熱烈なMacintosh信者(エバンジェリスト)。数十MBが主流の時代に1,000MBを超えるメモリーを搭載したMacを使っており、Mac専門誌で取材されたことも有る。
  • 猫好き あまり知られていないが無類の猫好き。ロシアンブルーばかり3匹も飼っている。他にも旧RINGS関係者には猫好きが多い(成瀬昌由もよく猫を拾っていました)
  • サバゲー M4カービンのカスタム等、複数の銃を所有し装備や銃等、本気モード全開で楽しんでいる模様。銃や装備は、本人がショップまで出向き、米軍放出品等こだわりを持って購入している。ゲームフィールドが開催する定例会等にも、 THE OUTSIDERの選手や複数の関係者らと参加している事があり、一緒にゲームを楽しめたりする事もある。

トラブル

  • パンクラス社長である尾崎允実がリングスに出場していた外国人選手と会話していたのを見て、これを引き抜き工作だと考え、ホテルのロビーで尾崎の胸倉を掴むなどして脅迫。民事・刑事両方で前田が敗訴。
  • 1994年に開催された極真空手トーナメント大会に前田が来賓として出席。そこに居合わせた『フルコンタクトKARATE』編集長・山田英司を会場の女子便所内に監禁した。山田は過去にUWFがプロレスであることを暴露し、当時はリングス・パンクラスへの批判記事を雑誌に掲載していた。前田の放った掌底を、格闘技経験のある山田がスウェーでよけたという話がある誌面に出て、前田は「俺の掌底をスウェーでかわした?裁判官立会いで再現したろか」とコメントした。
  • 元弟子でもある安生洋二と、1994年にリングスとUWFインターナショナルとの対抗戦の交渉決裂後に罵りあう。1996年6月にはFIGHTING TV サムライ開局のパーティーで前田が安生を不意に裏拳で小突いた(レスラーやマスコミ等が周囲にいる中での出来事であり、アントニオ猪木が仲裁)。1999/11/14は、UFC-J会場において、安生が背後から不意に前田を殴打した。前田は失神し、前田の失神姿がプロレス雑誌の表紙となった。その後、前田は安生を訴え、安生は略式裁判で罰金刑を受けた。
  • 2001/5/30付の東京スポーツに「有罪判決 リングス前田 暴行女性は元妻」という記事が1面に掲載されたことに対し、500万円の損害賠償を求めた訴訟を起こす。東京地裁(菅野博之裁判長)は、『米国で有罪判決を受けた』事実、および前田が『結婚していた』ことは「真実と認められない」と判断、200万円の支払いと謝罪広告掲載を命じ、東スポは敗訴(2002/9/13判決)。

入場テーマ曲

  • 「KATANA」
  • 「THE ROOM (BRAINWASH) PART ONE」 - リック・ウェイクマンのアルバム「1984」の4曲目。英国より凱旋帰国した時の入場テーマとして使用していたが、前年から既に小林邦昭の入場テーマ曲として定着しており、なぜ使用に至ったかは不明。
  • 「ダンバインとぶ」(歌詞は入れずブリッジで繫いで編集したものを使用)
  • 「キャプチュード」 - 代表的な入場テーマ。「キャプチュード」が日本では呼称となってしまっているが、英語の実際の発音は「キャプチュード」とは程遠く、「キャプチャァド」に近い。オリジナル音源はイギリスのプログレッシブロックバンド、Camelのアルバム、"Nude"(en:Nude (Camel album))の11曲目。
  • 「JUST A HERO」 - リングス旗揚げ時に使用された新田一郎作曲のオリジナル曲だったが、しばらくしてキャプチュードに戻している。ただしWOWOWのリングス中継でのBGMとしては長期間に渡って使用された。

映画

  • YAWARA!(1989年、東宝)本人役
  • WARU(2006年、真樹プロダクション)主人公の友人役

著書

  • 『格闘王への挑戦』講談社、1988年、
  • 『パワー・オブ・ドリーム』角川書店、1988年、
  • 『誰のために生きるか』PHP研究所、1992年、
  • 『最強の自分をつくる』PHP研究所、1994年、
  • 『真格闘技伝説 RINGS』ピンポイント、1994年、
  • 『無冠』集英社、1998年、

 
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維新力浩司
1961/1/24

日本のプロレスラー、バー店主。身長175cm、体重81kg。東京都杉並区出身。本名は飯橋 浩司

大鳴戸部屋所属の元大相撲力士。最高位西十両筆頭(1989年11月場所)。

経歴

実兄はプロレスメジャー団体で裏方として働いていた飯橋一敏(国際プロレスのリングアナ→崩壊後は全日本プロレスでバス運転手→三沢独立後はプロレスリング・ノア。どういうわけだか維新力が兄と同じ団体に属したことはない)。そのためプロレスに強いあこがれを持っいた。

相撲の経験は小学校・中学校時代を通じて地域の祭りの大会に出場する程度であったが、格闘技が大好きであったため親方を尊敬していたという理由で大鳴戸部屋を選んで入門した。初土俵は1976年3月場所。初めの四股名は若高鉄。のちに四股名を「維新軍の長州」にちなんだ現在の名に改名。あきらかにプロレス入りを予感させるものである(維新力はのちに実際にプロレス入りしたが、運命のいたずらか長州に忌避されたのか、長州力や維新軍とはまったく接点がないまま今日に至る)。相撲取りにあるまじき腹筋の浮いた体格と、むしろ俳優・山下真司そっくりの端正な顔立ち、元気溢れる勇敢な取り組みで、十両では若花田・貴花田と並び立つ屈指の人気を博した。愛称は平成の牛若丸。1989年11月場所で西十両筆頭まで昇進したものの、体重が80kgそこそこの小兵であったため幕内までは届かなかった。1990年7月場所に東十両11枚目で2勝13敗と大幅に負け越し、幕下転落が確実となったため、この場所限りで廃業した。十両での通算成績は141勝159敗(20場所)。

大方の予想通りすぐにプロレスに転向し、とはいえ兄の所属する全日本プロレスに入るどころか、それと敵対する、当時最も資金力のあったメガネスーパー(SWS)に新弟子として入団した。しかし大物であり角界の大先輩である天龍源一郎とは別の部屋(道場・檄)に入ったこと、およびSWS自体がほどなくして崩壊したことが運命を大きく狂わせた。後継団体のNOW、WARを経て内臓疾患により引退。前述のように高い知名度と身体能力、スター性のある甘いマスクを生かせずに終わったのは現在に至るまで謎であるが、政治的理由でマイナーに追いやられ続けた感がある。WARが提携していたLLPW所属の女子プロレスラー・ジュリアナ詩子こと穂積詩子と結婚(以後今日まで結婚継続)し、1994年には「どりんくばぁー『維新力の店』」を東京・吉祥寺にオープンした(現在も営業)。

店は続けながら、後にプロレス界に復帰した。現在はフリーとしてIWA・JAPAN、WAPアジアンプロレスなどを戦場として活躍。2010年現在49歳の今も現役。2006年以降、維新力主催プロモーション『どすこいプロレス』、『RIKIマニア』の開催もしている(2010年現在も続行。詳細はどりんくばぁー『維新力の店』HP参照)。

得意技は、スピードと跳躍力とスタミナを生かした空中殺法。

2007/10/20、テレビ朝日系討論番組「朝まで生テレビ! 激論“国技大相撲”に未来はあるか?」にパネリストとして出演した。ちなみに彼は、時津風部屋力士暴行死事件ではVTRや電話などの形で度々ワイドショーに出演していて、自らも「かわいがり」と称した兄弟子からの暴行を受けたことを明らかにしている。また、八百長、暴力団との交際、賭博行為が角界に存在していることを一貫して否定している。

著作

  • 『みんなまとめてゴッツァン』 ブックマン社 1991年1月
  • 『大相撲ズバリ!ここだけの話』 講談社 1993年5月





レジー・ベネット
Reggie Bennett
1961/1/24

アメリカ合衆国の元女子プロレスラー。カリフォルニア州サンディエゴ出身。

来歴

高校卒業後、ボディビルダーとして様々なタイトルを獲得。映画「グラント」に出演した際、プロレスラーのマンド・ゲレロとの出会いをきっかけにプロレスに転向。1986年にハワイでデビュー。その後、LPWAと契約。「ビッグ・モー」のリングネームでシェリル・ルーサー(リトル・モー)とのタッグ「ロコモーション」として活躍。

日本で知名度が上がったきっかけは1990年代前半に放映されたピップフジモトの栄養ドリンク「ダダン」のCM。「ダ・ダーン! ボヨヨン、ボヨヨン、ダ・ダーン!」の台詞で強烈な印象を残し流行語にもなった(ちなみに、このCMの振り付けを行ったのはポール牧)。これを機に日本の各団体がオファーを送り、1991年にFMWへ初来日を果たした。FMWでは工藤めぐみとのシングルマッチや、コンバット豊田とのブルロープデスマッチなどで話題となる。

その後、ジャパン女子プロレスに移籍するが、移籍後すぐにジャパン女子が解散してしまったため、1994年に全日本女子プロレスのリングへあがることになる。

全女ではIWA女子世界王座・オールパシフィック王座に君臨。格闘技戦にも挑戦するが、経営難の影響により解雇。

1997年、ロッシー小川のアルシオン旗揚げに参加。しかし、経営方針に疑問を持ち、小川と対立し退団。その後はフリーとして全女やJWP女子プロレスなどに参戦。

2000年、日本人ミュージシャンと結婚(のち離婚)し、2001/3/4の豊田真奈美戦を最後に引退。

現在はルイジアナ州で運送会社に勤務。
獲得タイトル

  • IWA世界女子王座
  • オールパシフィック王座





永島千佳世
1976/1/24

日本のプロレスラー。千葉県松戸市出身。OZアカデミー所属。身長156cm、体重52kg。血液型B型。

所属

  • GAEA JAPAN(1994年 - 2005年)
  • フリーランス(2005年 - 2006年)

ユニット

  • OZアカデミー(1996年 - )

経歴・戦歴

アマチュア時代
  • レスリングの名門安部学院高等学校在学中、1993年全日本女子オープン47kg級3位となる。世界チャンピオンの吉村祥子や上林美穂との対戦経験もある。
1995年
  • 4/15、東京・後楽園ホールにおいて、対植松寿絵戦でGAEA JAPANからデビュー。時間切れ引き分け。
2005年
  • 4/3、シュガー佐藤と組んでクラッシュ2000の最後の相手となる。
  • 11/11、東京・新宿FACE「長与千種興行(Marvels Night)」において、ガングロ女子高生チカに扮して、おかあさんに扮したデビル雅美と対戦。回転エビ固めで勝利。
2006年
  • 1/22、東京・新宿FACE「第13回OZアカデミー興行 〜笑う角には尾図来たる〜」において、前川久美子と対戦。カカト落としで敗れる。同大会、尾崎魔弓、カルロス天野と組んで、豊田真奈美、里村明衣子、高橋奈苗組と対戦。一回転フットスタンプで高橋から勝利。
  • 2/23、第2回T-1興行において、米山香織と戦うが、逆に丸め込まれて敗れる。試合後、握手を求めるフリをして、ジャーマンで投げ捨て、蹴りを入れて退場する。
  • 3/26、東京・新宿FACE「第15回OZアカデミー興行 〜鬼がでるか蛇がでるか〜」において、高橋奈苗と対戦。NAWASHIMAで勝利。同大会、尾崎魔弓、ダイナマイト・関西と組んで、米山香織、アップルみゆき、栗原あゆみ組と対戦。関西がスプラッシュマウンテンで栗原から勝利。
  • 5/27、東京・新宿FACE「OZアカデミー感謝祭」において、カルロス天野と組んで、タニー・マウス、宮崎有妃組と対戦。天野が宮崎のジャックナイフ式エビ固めで敗れる。同大会、15選手参加バトルロイヤル出場。
  • 8/12、東京・新宿FACE「第19回OZアカデミー10周年記念興行(〜Ozだけ〜!!!)」において、初戦のダイナマイト・関西戦で、スプラッシュマウンテンをウラカン・ラナで返し、41秒で。2戦目の対尾崎魔弓戦はオザキックの前に敗れる。3戦目の対カルロス天野戦を一回転フットスタンプで勝利する。最終的に2勝1敗で優勝する。
  • 8/6、東京・新宿FACE「豊田真奈美自主興行」において、カルロス天野、倉垣翼、日向あずみと組んで、伊藤薫、渡辺智子、吉田万里子、豊田真奈美と対戦。日向が豊田から雁之助クラッチで勝利。
  • 8/19、東京・板橋グリーンホール「ミッドサマー・タッグトーナメント」において、カルロス天野と組んで、田村欣子、松尾永遠組に敗れ、準優勝。
  • 9/10、東京・新宿FACE「第20回OZアカデミー興行 〜The heat late summer〜」において、カルロス天野と組んで、MAZADA、NOSAWA論外組と対戦。永島組が反則勝ち。同大会、尾崎魔弓と組んで、アジャ・コング、浜田文子組と対戦。尾崎がアジャの裏拳で敗れる。
  • 9/17、東京・後楽園ホールにおいて、田村欣子の持つタイトルに挑戦するが、敗れる。
  • 9/29、宮城・Zepp Sendaiにおいて、奥田朱理と対戦。ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。
  • 11/11、宮城・Zepp Sendaiにおいて、金成知佐子と対戦。勝利。
  • 11/17、東京・新宿FACE「第21回OZアカデミー興行 〜再会〜」において、アジャ・コングと対戦。頭部からの流血によりレフェリーストップで敗れる。同大会、植松寿絵と組んで、里村明衣子、加藤園子組と対戦。裏足4の字固めで加藤からギブアップ勝ち。

タイトル歴

  • 全日本タッグ王座(パートナーはシュガー佐藤)
  • 第2代AAAWジュニアヘビー級タッグ王座(パートナーはシュガー佐藤)※ベルト保持中に名称がAAAWタッグ王座に改称
  • 第4代AAAWタッグ王座(パートナーはシュガー佐藤)
  • 第6代AAAWタッグ王座(パートナーはシュガー佐藤)
  • 第10代AAAWタッグ王座(パートナーは里村明衣子)
  • 第12代AAAWタッグ王座(パートナーはシュガー佐藤)
  • 第8代AAAWシングル王座
  • 第4代OZアカデミー認定タッグ王座(パートナーは加藤園子)
  • 第6代OZアカデミー認定タッグ王座(パートナーは加藤園子)

入場テーマ曲

  • 「BORN TO WIN」「GAEA RHYTHM」に収録。

  

















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