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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/27



茂木康子
1969/1/27

日本のブラジリアン柔術家(茶帯)、総合格闘家。東京都練馬区出身。ストライプル所属。VALKYRIEプロデューサー。

服部恵子と共に日本の女子柔術を牽引してきた「女子柔術界のパイオニア」。長い手足を活かした引き込み技を得意とし、「ピンクスパイダー」の異名を取る。選手活動の傍ら、ストライプルで女性専門の柔術クラスを開講するなど、後進の育成にも熱心である。






デューク佐渡
1978/1/27

みちのくプロレス公認レフリー
2000/3/18大田区民プラザ体育室で初レフェリング

 
 
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ゼウス金谷
1982/1/27

日本のプロレスラー、元プロボクサー。本名は金谷 成格)。大阪府大阪市出身。身長183cm。プロボクサー時代はクルーザー級、仲里・ATSUMIボクシングジム所属。

人物

怪力の持ち主。素手でフライパンを折り曲げるパフォーマンスができる。

2002年の準ミス・インターナショナル日本代表でモデルの吉永翔と結婚。2010/2/7挙式。

戦績

  • 2008年末に仲里・ATSUMIボクシングジムに入門。
    • 元WBC世界スーパーフライ級王者の徳山昌守を特別アドバイザーに招きトレーニング。
  • 2009/5/24 - C級ライセンスプロテスト受験(六島ジム)不合格。
  • 2009/7/19 - C級ライセンスプロテスト受験(六島ジム)合格。
  • リングネームを「ゼウス金谷」とする。
  • 2010/4/22、日本ボクシングコミッションに引退届を提出し、プロレス復帰を決めた。

プロボクシング: 1戦 0勝 0KO 1敗 0分

2009/12/19 大阪韓国人会館
vs伊藤竜矢(アポロ)





火野裕士
1985/1/27

日本の男子プロレスラーである。KAIENTAI-DOJO所属。大阪府枚方市出身。身長178cm、体重95kg。火野裕士はリングネームで、本名は所属団体の規定により非公開とされているが、自身のブログで本名が日野裕介)であることを公開している。

経歴

  • 練習生「日野」として「吉田屋」に加入していたが、デビューの際に離脱。

2005年

  • 2リーグ制に伴いRAVE所属となった。ユニット「New Standard」を結成し、12/9に開催されたインディーサミットに出場した。

2006年

  • プロレスリング・エルドラドに参戦し、高校のレスリング部の先輩である辻本恭史・沖本摩幸と組んで「南京Fuckin'高校レスリング部」を結成。リングネームを先輩に合わせる形で本名に「本」を足した日野本裕介として解散まで活動。
  • 11/14に開催されたGPWA興行にNew Standardのメンバーで出場した。

2007年

  • 1/7の後楽園ホール大会にてJOE&ヤス・ウラノの保持するSTRONGEST-K TAG王座に稲松三郎とのタッグで挑戦し撃破、第4代王者となった。

入場テーマ曲

  • 「evil flame」(武士 from shann)※インディーズ・メーカー「KAIENTAI DOJO3 SUPER BEST」収録
  • 「WILL」(Y.Takeya feat.K.Doi and Yas-K)※キングレコード「KAIENTAI DOJO」収録(旧テーマ曲)

タイトル歴

KAIENTAI-DOJO
  • STRONGEST-K TAG王座
K-AWARD
  • 新人賞(2004年)

特記

  • 決めゼリフは「このボケどもがー!!」。
  • 雑誌「JUNON」の「2004年ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」ではベスト40入りしている。
  • TBSテレビの番組「爆笑問題のバク天!」ではプロレスに反対する父を説得するという企画で出演した。地元大阪での大会に観戦に訪れた両親に対して試合後のリング上で涙ながらに手紙を読み日本中を感動させた。
  • 全日本プロレスに参戦中の"brother"YASSHIの高校時代のレスリング部の後輩である。
  • 花井美里のシングル「予感」のプロモーションビデオにエキストラ出演、初回盤の特典DVDに収録されている。
  • 筋肉キャラをアピールしているので、DRAGON GATEの鷹木信悟がKAIENTAI DOJOに参戦した時は、「どっちの広背筋がスゲェか勝負しろ!」と突っかかった。ちなみに広背筋とは背中から肩にかけての筋肉であり、自分では見られないかなりマニアックな部位である。





アンドレ・ザ・ジャイアント
André the Giant
1946/5/19 - 1993/1/27

本名:アンドレ・ルネ・ルシモフAndré René Roussimoff)、フランス・グルノーブル出身のプロレスラー。

巨人症のため非常に巨体のプロレスラーとして知られ、公式プロフィールによれば、身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされる(ただし体重については年齢と共に増加していたことが映像でも確認できる)。彼の巨体に対抗できるレスラーが限られていたため、生涯多くのハンディキャップ・マッチやバトルロイヤルに出場していた。

圧倒的な体格もさることながら、アームロック等のレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる、数少ない巨人レスラーだった。

来歴
フランスのモリヤンにて、ブルガリア=ポーランド系の家庭に生まれる。少年時代からサッカー、ボクシング、レスリングなどに打ち込み、1964年18歳の時にパリでアンドレ"ザ・ブッチャー"ルシモフとしてデビュー。“プロレスラーになる前にはきこりをしていて、山中にいるところをエドワード・カーペンティアに「発見」された”という逸話(プロレススーパースター列伝など)が有名だが、事実ではない(実際、プロレスラーになる前はパリの家具運送会社に勤務していた)。“無名だった時代にカーペンティアに見出された”というのが真相である。もっとも、南アフリカでデビュー説もあるなどフランス時代の経歴についてははっきりしない部分も多く、様々な説がある。フランス時代はモンスター・ルシモフ(Monster Roussimoff)またはモンスター・エッフェルタワー(Monster Eiffel Tower)という名で活動。
カーペンティアに連れられ1970年にカナダ・モントリオールに移住し、現地ではジャン・フェレ(英語風に「ジーン・フェレ」と誤読されることが多い)の名で活躍した。ここで映画『キング・コング』をモチーフにした世界八番目の不思議(The 8th Wonder of the World)というニックネームが付けられた。巨人選手対決として、キラー・コワルスキーやドン・レオ・ジョナサンなど超大物選手とも対戦した。
1973年にアンドレ・ザ・ジャイアントと改名し、WWWF(現WWE)のプロモーターのビンス・マクマホン・シニアと契約。しかしWWWFとは専属契約をしたわけではなく、マクマホン・シニアのブッキングでNWAやAWAはもとより世界中の様々な団体を定期的に短期参戦して回るようになる。これは「いつでも会える怪物」は一般層のファンにはすぐに飽きられる、というマーケティング上の都合からの判断である。実際、それまでにプロレス界に登場した怪物・怪奇レスラーは短期間で人気が衰えており、マクマホン・シニアはそのあたりを懸念したものである。
この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレはスペシャルゲストの立場で各地のビッグイベントに出場。テリー・ファンク、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、スーパースター・ビリー・グラハムら当時のNWA・AWA・WWWFの世界王者を始め、ザ・シーク、ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ、アーニー・ラッド、イワン・コロフ、バロン・フォン・ラシク、マスクド・スーパースター、ブルーザー・ブロディ、リック・フレアー、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、ロディ・パイパー、サージェント・スローターら全米のトップスターと対戦した(欧州では1979年12月にローラン・ボックとのシングルマッチも実現している)。1974年のギネスブックには「年俸世界一(40万ドル)のプロレスラー」として彼が掲載されている。当時の為替レートは1ドル=約300円。
1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となった。スーパースター軍団となったWWFでは同じ巨人型のビッグ・ジョン・スタッドがライバルとなり、レッスルマニアの第1回大会ではスタッドと『15000ドル争奪ボディスラム・マッチ』で対戦した。アンドレはアメリカでは絶対のベビーフェイスであったが、1987年、WWFでは長らく盟友だったハルク・ホーガンを裏切りヒールに転向、ボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、コスチュームも黒のワンショルダーに変更した。同年のレッスルマニアIIIではWWF王座を賭けホーガンと「世紀の対決」が行われたが敗れる。この試合でホーガンがアンドレをボディスラムで投げたシーンはアメリカプロレス史上屈指の名シーンとなった。翌1988年のレッスルマニアIVにて再戦が行われ、WWF王座の奪取にも成功。
1980年代中期頃から急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われて行った。その後、当時WWFがホーガンに代わる主役として期待していたアルティメット・ウォリアーの売り出しに使われ、連敗を重ねる。また「ヘビ嫌い」との設定が加わりジェイク "ザ・スネーク" ロバーツとも抗争したが、体調不良のため1990年にWWFを退団。その後、更に増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少したが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍した。
父親の葬儀へ出席するために帰国していた1993年1/27、急性心不全のためにパリのホテルの自室で死去。長年に渡る過度の飲酒(全盛期はビール、レスラー後期から晩年はワインを愛飲していた)が原因と言われている。飲酒量が桁違いだったため、酒にまつわるアンドレの逸話は数知れない。ミスター高橋によると試合前でも何本も酒を飲み、しかも後年はほとんどトレーニングをしなかったため、余計心臓に負担がかかっていたことは明らかだったという。
WWFは生前の活躍に敬意を表するために、WWF殿堂(後のWWE殿堂)を設立し、殿堂入りの第一号を彼に与えた。
2008年には彼の功績をまとめたDVDもWWEより発売された。
日本での活躍
初来日は1970年。まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、吉原功へスカウトされモンスター・ロシモフのリングネームで国際プロレスへ参戦。この時出会ったバーン・ガニアによって寝技の訓練を受ける。これによって大きな体を活かした技だけでなく、グラウンドでは弓矢固めなどの高等技も軽々とこなすようになる。日本ではヒールとしての活動だったが、前述のようにその後のアメリカではベビーフェイスとして活動した。もっとも日本でも、ザ・シークやフレッド・ブラッシーのようなスタイルのヒールを演じていたわけではなく、ジャイアント馬場をも凌ぐ余りの巨体故にヒール扱いされてしまったものである。
その後、日本でのリングをWWWFと提携していた新日本プロレスへ移し、アントニオ猪木とも対戦(猪木とは新日本参戦後期に何試合かタッグを組んだこともある)。その猪木との1974年2月の初対戦では、当時のマネージャー、フランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせジャイアント・プレスでフォール勝ち。その後の対戦は猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバーススープレックスで投げるというムーブが定着した。1982年にはMSGシリーズで優勝(新日本のシングル・リーグ戦で外国人の優勝はこれが初めて)。実況アナウンサーである古舘伊知郎が、大巨人、人間山脈、一人民族大移動などの表現を使ったことから、これらがアンドレのニックネームとなった(古舘はこの他にも「一人というには大きすぎる。二人といったら世界人口の辻褄が合わない」「人間というより化け物といった方がいいような」「都市型破壊怪獣ゴジラ」「怪物コンプレックス」「一人大恐竜」「ガリバーシンドローム」といった形容詞も使用している)。新日本プロレス登場末期には、覆面を被り、ジャイアント・マシーン(Giant Machine)と名乗って出場していたこともある。また新日本参戦末期には将軍KYワカマツが悪役マネージャーに就いた。なおマシーン軍団はWWFでもコピーされたため、アメリカでも同様のキャラのまま戦っている。晩年まで履いていた黒もしくは青のワンショルダー・タイツは、この頃の名残である(それまでは青や緑や赤のショートタイツを着用)。また、ジャイアント・マシーンの正体はいわずもがなだったが、相棒であったスーパー・マシーン(正体はマスクド・スーパースター)については、WWFオフィシャル発表では「北海道生まれの日本人」ということにされており、プロモーション用のインタビューでも珍妙な日本語を話していた。また、アンドレは国際プロレスに特別な思い入れがあったようで、新日本に1974年より本格参戦した後も同年6月と1979年7月に国際にも特別参加したことがある(1979年参戦時にはラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦)。
1981/9/23、新日本の田園コロシアム大会で行われたスタン・ハンセンとの一騎打ちは今もって日本プロレス史上最高の外国人名勝負と言われる。この頃のアンドレはスピード・パワーともに全盛期であり、アントニオ猪木ですら不意をついた形でのリングアウト勝ちを拾うのが精一杯であった。ハンセンはそのアンドレに臆することなく、真正面からパワーでぶつかった。試合内容はおよそ人間が対決しているとは思えないほどの迫力であり、引き分け後の再試合を含め延べ二試合でハンセンはアンドレを二度投げた(一回目はボディスラム、二回目は一本背負い気味に)。また、ハンセンの命綱である左腕を執拗に殺しにかかるアンドレの巧みなリングワークに対し、ハンセンがそれを跳ね返してウエスタン・ラリアットでアンドレを場外に叩き落すなど、試合の基本的なストーリーも高いレベルにあった。試合結果は両者リングアウト引き分け後の再試合で、アンドレがレフェリーのミスター高橋に暴行を加えハンセンの反則勝ちとなったが、結果に納得のいかない両選手による試合後の乱闘も含めて、高いエンターテイメント性を有した試合となった。
1990/4/13の日米レスリングサミットで、久々に日本マットに登場し馬場と日米大巨人タッグを結成(大巨人コンビ)。同年9/30、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは全日本へ主戦場を移し、1992/10/21の全日本・日本武道館大会「全日創立20周年記念試合」馬場&ハンセン&ドリーvs鶴田&アンドレ&ゴーディ戦では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。全盛期の動きとは程遠いアンドレだったが、ハンセンの渾身のウエスタンラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせるなど、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。
アンドレはその長身から何処へ行っても好奇の目で見られることが多かったのに加え、1970年代の日本ではまだ外国人が珍しかった時代でもあることが重なり、新日本プロレスへ参戦していた頃のアンドレは非常にナーバスであり、彼の悩みが周囲になかなか理解されず、自然とアンドレは憎まれ役へシフトしつつあった。そして自分の立場には徹底しており、ヒールとしてのイメージが損なわれることを嫌がり、あえてファンのサインも断っていた(ヒールでもリング外でのファンサービスに応じるレスラーは多いが、アンドレは敢えて避けていたという)。リング内ではまさに全盛期の活躍であったが、対照的に日本でリング外におけるアンドレのインタビューやプライベート等を収めた記事は非常に少ない。ただし初来日のきっかけを与えてくれた、旧国際プロレス関係者は日本におけるアンドレの数少ない理解者であったため、新日本プロレスへ参戦していた時も水面下で交流が続いていた。
一転して全日本プロレスへ参戦していた頃のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、国際・新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスであり、全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールで迎えられ、アンドレも笑顔でファンに応じたり、また登場時での花束贈呈の時は、受け取ると即座にブーケトスの様に後方の客席に花束を投げてプレゼントしたり、コールの時には二本指を立てて腕を上げるアピールを見せていた。

獲得タイトル

  • IWA世界タッグ王座:1回(w / マイケル・ネイダー a.k.a. ミシェル・ナドール)
    • 1970/1/18、王座決定戦でサンダー杉山&グレート草津を破り獲得。
  • NWAオーストラ・アジアン・タッグ王座:1回(w / ロン・ミラー)
    • 1978/12/8、オックス・ベーカー&ブッチャー・ブラニガンから奪取。
  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ダスティ・ローデス)
    • 1978/12/25、トーナメント決勝でスタン・ハンセン&アーニー・ラッドを破り獲得。
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)
    • 1981/2/12、ボビー・ジャガーズ&ランディ・タイラーから奪取。
  • WWF世界ヘビー級王座:1回
    • 1988/2/5、ハルク・ホーガンから奪取。
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / キング・ハク)
    • 1989/12/13、デモリッション(アックス&スマッシュ)から奪取。
  • WWF Hall of Fame (1993年度)
    • 1993/6/3に発表。殿堂入り第1号。

入場テーマ曲

彼のためにつくられた入場テーマ曲『ジャイアントプレス』は、その後日本マットに登場した巨人プロレスラーや大巨人格闘家が必ず使っている。 しかし、WWE時代は一貫して入場テーマ曲がなかった。

エピソード、その他
その巨体ゆえに投げ技をかけられることはほとんど無かったが、ハルク・ホーガンやスタン・ハンセン、ハーリー・レイス、ローラン・ボック、エル・カネック、ブラックジャック・マリガンなどのレスラーによってボディスラムで投げられている(マリガンは日本では報じられることはなかったが、1982/9/18、WWFのフィラデルフィア大会における6人タッグマッチでアンドレを投げている)。日本人で成功したのはアントニオ猪木、長州力、ストロング小林の3人のみである。アンドレをボディスラムで投げることがレスラーのステイタスだった時期もあった。ブルーザー・ブロディもオーストラリアで投げたというが、これは非公式記録となっている。カール・ゴッチに至ってはモンスター・ロシモフ時代のアンドレをジャーマン・スープレックスで投げ切っており、これがスープレックスでアンドレを投げた唯一の記録とされている。なお、アンドレ自身は「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」とハンセンへ語っていたといい、ハーリー・レイスは投げる時にアンドレが自分に「早くしろ」と囁いたと坂口憲二に語っていた。これらの証言から踏ん張った状態のアンドレを本当に投げることのできたレスラーがどれだけ居たのかは不明。
ベースボール・マガジン社発行の『プロレス異人伝 来日外国人レスラー・グラフィティ』の「外国人係は見ていた」の項にてインタビューを受けたタイガー服部によると、アンドレはヒッププッシュを繰り出す際によく屁を放っていたそうで、その臭いはリング内の選手やレフェリーはおろか、リング外にいるカメラマンや若手選手、リング最前列から10番目くらいの観客にまで届いたという。
マネージャーを務めたアーノルド・スコーランによるとかなりのアイデアマンで、日本で大巨人伝説がマンネリ化し始めて来た頃、レスラー以外の人間を襲撃するというアイデアを自ら猪木に提案した。ただし、その際に襲撃されたのは気心の知れたレフェリーのミスター高橋やリングアナウンサーの田中秀和ら新日プロのスタッフであり、決してファンや一般人には手を出さなかった。
マイティ井上とは若手時代から親友の間柄。アンドレは生涯独身を貫いたと言われているが、井上はアンドレに内縁の妻がいたこと、娘も一人いたことを明言している。本名については、井上が見たアンドレのパスポートには「アンドレ・レネ・ロシモフ」と書かれていたというが「アンドレの本名はジャン・フェレだ」と雑誌インタビューでは答えている。
井上が「電話をするから鉛筆を貸してくれ」とアンドレに頼まれ、メモを取るのかと思い鉛筆を貸したところ、つまんだ鉛筆の先でダイヤルを回し始めた。これはアンドレの指が太すぎて、ダイヤルの穴に指先が入らなかったためである。
現役時代からカーリーヘアのカツラを着用し、リングに上がっていた。これはより一層巨大感を表現させるために着用していたという。ただし後年はカーリーヘアーのカツラを外し、地毛のパーマヘアーで闘っている。
アンドレは弁護士に渡してあった遺書の中で「死後48時間以内の火葬」を希望していたが、パリには彼の巨体に対応できるだけの施設がなく、結局そのままアメリカへ移送された。
レスラー、プロレス記者、団体バス運転手など、アンドレには日本人の友人知人が多くいたが、黒人に対しては嫌悪感を隠さなかったと言われる。バッドニュース・アレンがアンドレの差別発言に激怒し、ホテルの屋上にアンドレを呼び出し「謝らなければここから突き落としてやる」と言って謝罪させたという逸話がある。しかし、黒人レスラーのアーニー・ラッドとは親友同士で、両者は北米各地で抗争を展開できる気心の知れた仲だった。同じくMSWA、WCCW、WWFなど各団体で抗争を繰り広げたカマラもアンドレのことを称えている(カマラのWWF入りはアンドレの仲介によるものだったという)。また、アイスマン・キング・パーソンズ、S・D・ジョーンズ、ジャンクヤード・ドッグ、トニー・アトラスなど、WWFや南部エリアでアンドレのタッグ・パートナーを務めた黒人選手は数多い。ロッキー・ジョンソンの息子のザ・ロックも、子供の頃にアンドレに可愛がってもらっていたという(ロックの自著『The Rock Says』には、アンドレに抱き上げられた少年時代のロックの写真が掲載されている)。
1984/12/19、ハワイNBCアリーナにおける興行の第8試合で、レフェリーを務めたことがある。シバ・アフィ、ラーズ・アンダーソン組vsマーク・ルーイン、ケビン・サリバン組の試合を裁くも、敗れたルーイン組が判定への不服からアンドレに食って掛かり、乱闘寸前になったという。
当時外国人レスラーの相談役も務めていた新日本プロレスのレフェリー、ミスター高橋がアンドレが宿泊していたホテルへ出向き「実は覆面を被ってほしいんだ」とおそるおそる切り出した。その際、差し出したのがジャイアント・マシーンのマスクである。そのマスクを見たアンドレは大喜びし、早速その場で着けてみせ「どうかな、(高橋のニックネーム)ピーター。似合うかい?」と満足気にポーズをとったという。高橋はプライドが高いアンドレは絶対に断るだろうと思っていたため、この反応は全く意外だったと後に述懐している。
1980年代の少年漫画では、アンドレを連想させるキャラクターがしばしば登場した。体躯やカーリーヘア等の特徴的な容貌が、視覚的記号の塊であるマンガという媒体において、格好の素材だったと考えられる。中でも少年サンデーに連載されていた池上遼一の『男大空』には、海主莫郎と言うキャラクターが登場し、池上のリアルな絵柄とあいまって抜群の存在感を示した。また、梶原一騎原作の『カラテ地獄変・牙』では、オーレ・ザ・ジャイアントというアンドレをモデルにしたレスラーが登場し、空手家大山倍達をモデルとした大東徹源と闘っている。
カプコンから発売されたアクションゲーム『ファイナルファイト』には「アンドレ」という名前の敵キャラが登場する。巨体や髪型など外見上の共通点も多いが、実際のアンドレに比べ筋肉質である。また、後に同社の対戦格闘ゲーム『ストリートファイターIII』シリーズには「ヒューゴー」という名のアンドレに似たキャラクターが登場し、その体格は実際のアンドレにより近くなっている。
スタン・ハンセンはアンドレを先輩として尊敬し続け、両者は新日本プロレスを去った後、全日本プロレスでほぼ10年ぶりの同行を喜び、試合後はよく二人で飲食に出かけた。その際、よく話題になったのが既述の田園コロシアムの一戦で、互いに相手を称え飽きることなく語り合ったという。
WWFに参戦したキラー・カーンとアンドレが対戦した際、アンドレが自身の過失で試合中に自分の足を痛めてしまい、それに気付いたカーンは機転をきかせトップロープからニー・ドロップを見舞った[12]。後日カーンは通訳を連れてアンドレの入院先へ見舞いに出向き、前述した試合の件について謝罪。しかしそれを聞いたアンドレは大声で笑いのけ、「気にするな、あれはアクシデント。君の機転が無かったら試合が台無しになっていたところだった」と逆に励ましの言葉をかけたという。さらにアンドレは「それよりも、あの試合は『キラー・カーンがアンドレ・ザ・ジャイアントの足をニー・ドロップで骨折させた』ということにしよう。俺が退院したら、君との試合は盛り上がること間違いなしだ」と言い、格好のストーリーラインまで提案している。このアングルは新日本プロレスに凱旋帰国したカーンの株を急上昇させ、彼を瞬く間にメインイベンターへ昇格させた原動力となった。この頃の新日本プロレスは全日本プロレスとの外国人選手引き抜き合戦の挙句、スター選手を失ったのと同時に猪木とタイガーマスクが怪我で休場と痛手を被った時期でもあるが、代わってメインに上った「あのアンドレの足を骨折させた大型日本人レスラー」とアンドレとの対戦は興行を大いに盛り上げた。
酒豪伝説
前述するようにアンドレは酒豪として知られ、特にビールやワインの消費量については様々な伝説が残されている。
ミスター・ヒトの著書『クマと闘ったヒト』では、車で800km移動する間に缶ビールを118本飲み、到着後更に5ガロン(約19リットル)のワインを飲み干したと記載されている。
マイティ井上は、札幌遠征時に「二人で一度に瓶ビールを136本空けたことがある」と証言している。その際は「汗とアルコールとオーデコロンが一緒になったようなにおいになった」という。
キラー・カーンと坂口征二によれば、1975年に新日本プロレスがブラジル遠征を行った際、ロサンゼルス経由サンパウロ行きの飛行機の機内にあったビールを全部アンドレが飲み干してしまい、他の乗客からクレームがついたという。
この他、1980年4月の札幌巡業でサッポロビール園で大ジョッキ89杯を空けた、「タンパの空港で50分でビール108本を空けた」(ハルク・ホーガンによる証言)、「ペンシルベニア州リーディングのホテルのバーでビール327本を空け、さすがのアンドレも気絶した」(ファビュラス・ムーラによる証言)など、消費量に関する伝説は枚挙に暇がない。ただこれらの伝説がどこまで本当なのかは不明。
馬場とは巨人同士でウマが合ったと言い、選手バスでは隣同士に座り二人で冗談を言い合いながらワインを飲んでいたという。そのため、全日本の選手バスにはアンドレ用のワイン冷蔵庫が用意されていた。
ワインは白ワインが好みだったというが、結局は赤・白の別や銘柄に関係なく「水のように飲み干してしまう」状態だったらしく、ハルク・ホーガンによれば「アンドレの誕生日の際に、移動バスにワイン1ダースをプレゼントとして用意したら、出発から2時間半で全部空けてしまった」という。
元々多かった酒量は晩年実父を失ったショックからか更に増え、ワインを手放せない状態だったと言われる。晩年は歩行すらままならない状態だったようで、移動にバギーバイクを使用していた。

  



百瀬博教
1940/2/20 - 2008/1/27 

作家、詩人、格闘技プロデューサー。日本スノードーム協会事務局長。総合格闘技イベントPRIDEとの関わりから、「PRIDEの怪人」の異名を持っていた。

格闘技との関わり

元プロレスラーのアントニオ猪木とは、1992年頃に知り合う。高校時代の後輩で芸能事務所ケイダッシュとプロレス団体UFO社長だった川村龍夫に新右翼活動家の野村秋介と猪木のトラブルの仲介を頼まれたのがきっかけだった。1990年代末頃から猪木とは接近し、猪木の詩集をプロデュースするなどした。

1999年に当時格闘技評論家の谷川貞治から総合格闘技イベントPRIDEを運営する森下直人社長を紹介され、PRIDE運営会社ドリームステージエンターテインメントが設立される際には3000万円を出資したとしている。

以後、2003年までPRIDEに関わり、アントニオ猪木とPRIDEに結び付け、自らもプロデューサー的役割を担っていた。選手には小遣いや土産を渡すなどタニマチ的な存在で、試合に勝った選手がリングサイドにいる百瀬に挨拶へ向うのはPRIDEの名物ともなっていた。

それまで協力関係にあったPRIDE、K-1、猪木が2003年年末に分裂し、アントニオ猪木がPRIDEを離れた後は、百瀬もPRIDEから姿を消した。その後は、K-1がPRIDEに対抗する形で立ち上げた総合格闘技イベントHERO'Sで格闘家高谷裕之を応援する姿が見られた。

















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