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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/2



篠真一
1957/1/29

頑固プロレス





マッチョ☆パンプ
1966/1/29

日本のプロレスラー、マスク・クリエーター。本名は梅本 和孝。京都府京都市出身。血液型はB型。

来歴

  • プロレスのマスク・コスチューム制作会社を経営しながら、アスレティックトレーナー・ボディビルダーを経てプロレスラーとしてデビュー、翌年にみちのくプロレス入団後「ミステル・カカオ」から「マッチョ☆パンプ」にリングネームを改名し現在はフリーで様々な団体に参戦している、2006年から覆面レスラー参戦の『覆面MANIA』開催、以降リングネームをミステル・カカオと使い分けてマスクマンとしてリングに上がっている。
  • プロレスラーを目指していたサラリーマン時代の小橋建太のパーソナル・トレーナーとして筋力トレーニングの指導をしていた事も有る。
  • ボディビルダーとしては「ミスター京都」など、いくつかのタイトルを獲得している。
  • マスク・クリエーターとしては業界屈指の腕前であり、多数のレスラーのマスク・コスチュームなどを手掛けている(名義は「ミステル・カカオ」のままで)。

タイトル歴

  • CMLLジャパンタッグ王座
  • CDDIタッグ王座(パートナー:斗猛矢)

入場テーマ曲

  • 「アフリカン・シンフォニー」(ヴァン・マッコイ)

 
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中島小百合
1970/1/29

日本の元女子プロレスラー。身長166cm、体重58kg、血液型A型。北海道常呂郡出身。

経歴・戦歴

1985年
  • 6/14、北海道・函館市民体育館において、対神崎文枝戦でデビュー。
1987年
  • 11/12、埼玉・戸田市スポーツセンターにて同期の浅生恭子と共に引退。

引退後は銀座の某デパートに就職。ベルト販売






MAX宮澤
1971/1/29

宮沢誠
-87kg 柔術紫帯
格闘技歴はレスリング(三段)、柔術がある。
1998年2月にWARでプロレスラーとしてデビューし、その後、過激な地下室マッチを行なうプロレス団体キャプチャーで「ニーハオ」の名で活躍。
コンバットレスリングでも優勝経験がある。
谷津・グッドリッジ戦ではセコンドも務めている。
2006年、キックボクシングJ-NETWORKにも初出場で勝利。





中迫剛
1974/1/29

日本のキックボクサー。大阪府豊中市出身。ZEBRA244所属。バックボーンは正道空手(初段)。

K-1ヘビー級ファイターであり、長身でスタイリッシュなファイトスタイルが特徴で、JAPANの貴公子魔界のプリンスのニックネームを持つ。

長い手足を活かした空手ベースの打撃を得意とする。メンタル面での弱さが長年の課題。

2005/12/18の試合から中迫 強とリングネームを改名した。

来歴

1998年にK-1デビューを果たし、同年のJAPAN GPで準優勝を果たした。佐竹雅昭、武蔵に次ぐJAPANのエースと期待されたものの、なかなか結果を残せなかった。

2001/3/17、K-1 GRADIATORS 2001でグラウベ・フェイトーザと対戦し、左ハイキックでKO負け。

2002/1/27、2001年WORLD GP王者マーク・ハントと対戦。右ハイキックでハントから生涯初のダウンを奪い、さらに左ハイキックでハントをKO寸前にまで追いつめるも、ハントに3回ダウンを奪い返され、KO負け。これだけでなく2002年の中迫は、ボブ・サップとの試合で、サップの反則ファイトに真っ向から立ち向かい殴り合ったり(この試合は中迫の反則勝ち)、JAPAN GPで好調に勝ち進み、決勝戦で武蔵と最後まで互角に渡り合った。

だが、その後2003年からまたもや低迷期に入る。2004年は、武蔵不在のJAPANグランプリで優勝候補と言われながら初戦で敗退するなど、散々な結果であった。

2005/6/14、K-1 JAPAN GPの1回戦で後輩に当たる堀啓と対戦。2001年の子安慎悟戦で見せたような気迫で真っ向勝負を挑んだが、判定負け。試合後のコメントでは「蹴りが右半分見えないから、インファイトをやるしか無かった」と語った。

2005/12/18、「R.I.S.E. DEAD OR ALIVE TOURNAMENT '05」のスペシャルワンマッチに出場し、百瀬竜徳と対戦しドローに終わる。この試合からリングネームを中迫 強に改名。

2006/6/3、K-1 WORLD GP 2006 in SEOULで行われたASIA GPに参戦。1回戦でガオグライ・ゲーンノラシンと対戦し、ダウンを奪い判定勝利。3度目の対戦でようやくリベンジを果たした。しかし、準決勝では藤本祐介に足の負傷もあってか、判定負け。

さらに、同年7月に開催された「K-1 REVENGE 2006」でワンマッチで出場し、ビヨン・ブレギーと対戦したが、ブレギーのパワーの前に、ほとんど何もできずに1ラウンドでKO負け。

2007/3/4、「K-1 WORLD GP 2007 IN YOKOHAMA」でザビット・サメドフと対戦するも判定負け。試合後に「膝に水が溜まり満足に練習出来なかった」とコメントした。

2007/8/11、「K-1 WORLD GP 2007 IN LAS VEGAS」でアレキサンダー・ピチュクノフと対戦し、判定負け。

2007/12/22、チームドラゴン主催興行で強太郎レンジャーと対戦し、KO負け。

2008/4/13、K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMAのオープニングファイトで佐藤匠と対戦し、判定勝ち。

2008/6/29、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAで行われたK-1 JAPAN GPに出場。1回戦でベルナール・アッカに判定勝ちしたものの、準決勝でエヴェルトン・テイシェイラにダウンを奪われ判定負け。

人物

  • 試合前インタビューでは、闘志を見せる言動を必ずしている(「『世界に一つだけの花』は、僕らの世界では綺麗事。一番にならなければ意味が無い」、「鬼になる、ヒールになる」など)が、その言動と試合内容との乖離が目立ちがちである。
  • ヒップホップ好きで、ファッションも典型的なB-BOYファッションである。空手を始める前はヘヴィメタル好きであった。
  • B級映画や漫画への造詣も深い。
  • K-1ブログ最終回では、2008年12月よりイタリアンラウンジ「BANCARA(バンカラ)」のオーナーをしていることを告白。
  • ブログやオフィシャルサイトはないが、Twitterでは趣味を中心につぶやいている。
  • 格闘家界きってのサッカーフリーク。2010 FIFAワールドカップでは、産経新聞にてコラム「中迫剛の蹴闘三昧」を連載。
戦績
47試合19勝26負2分

  



しなしさとこ
1977/1/29

日本の総合格闘家。本名(旧姓)は尻無 智子(しなし さとこ)。東京都足立区出身。フリーランス。スマックガール初代フライ級王者。日本体育大学卒業。

来歴

聖徳大学附属中学校(現・聖徳大学附属女子中学校)3年時に京北高校柔道部の監督だった父の影響から柔道を始め、日本体育大学在学中、全日本学生選手権でベスト8となった。

卒業後、サンボに転向。2000年11月にはサンボ世界選手権女子48kg級で銅メダルを獲得。2001年には全日本女子レスリング選手権大会でベスト8となった。

2001/9/27、スマックガールにて角田絵美相手に総合格闘技初挑戦(アマチュアルール)。この時からリングネームはしなしさとこであった。同年10/31、AX旗揚げ戦で藤井惠とエキシビション・サンボジャケットマッチを行った。

2001/12/26、AX第2戦で亜利弥'相手にプロデビュー。以来、修斗、DEEP、シュートボクシングなど様々な興行に出場。

2002年に全日本ブラジリアン柔術選手権金メダルを獲得。同年、スマックガールのJAPAN CUPライト級トーナメントで渡邊久江を下し優勝。2005年11月には大室奈緒子に判定勝ちしスマックガールフライ級王座を獲得し、渡辺久江との再戦をアピールするも、右眼底骨を骨折した。

2006/4/11の復帰戦でも勝利するも、8/4のDEEP 25で行われたDEEP女子ライト級王者決定戦で渡辺久江に1ラウンドKO負けを喫し初黒星となった。

2007/11/3、結婚。同年10/9、DEEP 32の試合後のリングで「私事ですが結婚することになりました」と発表していた。

2008/2/22、DEEP 34にて開催されたDEEP女子フライ級王者決定トーナメントで、浜田福子、SACHIを下し初代DEEP女子フライ級王者となったが、5/19のDEEP 35では、総合3戦目のプロレスラー・市井舞に0-2の判定負け。10/23、DEEP 38で関友紀子と対戦し、腕ひしぎ十字固めで勝利する。

2009/1/23、DEEP佐伯繁代表から妊娠4か月で7月に出産予定であり、王座防衛期限を「産休・育児休暇扱い」で1年間延ばすことが発表された。7/5に男児を出産。

戦績
33試合29勝2負2分

獲得タイトル

  • 初代DEEP女子フライ級王座





エリオ・グレイシー
Hélio Gracie
1913/10/1 - 2009/1/29 

ブラジル出身の男性ブラジリアン柔術家であり、グレイシー柔術の創始者。ブラジリアン柔術十段(赤帯)。ガスタオン・グレイシー家の五男。身長170cm、体重65kg。

来歴

父ガスタオン・グレイシーから依頼され前田光世は兄カーロス・グレイシーやエリオを含む5人兄弟に柔道(柔術)の技術と精神を教えていた。その後、カーロスとエリオは、グレイシー柔術の技術体系を築き、エリオは「グレイシー柔術アカデミー」総裁となる。1930年代からバーリ・トゥードを戦い始め、約20年間無敗を誇りブラジルスポーツ界の英雄となる。

43歳の時、弟子であったヴァウデマー・サンターナと対戦。3時間以上の試合となったがKO負けとなり、この試合を最後に引退した。

90歳を過ぎてからも、道着に袖を通し道場に姿を現しては稽古、指導を行っていた。

2008年2月に、ヒクソン・グレイシーを会長とする全日本柔術連盟(JJFJ)の相談役に就任した。

2009/1/29、リオデジャネイロ郊外のBeneficencia Portuguesa Hospitalにおいて死去。享年95歳。

日本人柔道家との対戦

1951/9/6にリオデジャネイロ市で加藤幸夫とブラジリアン柔術ルールで対戦し、10分3ラウンド引き分け。9/23に再戦し8分目で加藤を絞め落としエリオの一本勝ち。

1951/10/23にブラジルリオデジャネイロ市のマラカナン・スタジアム(観衆はブラジル大統領を含む3万人)で木村政彦と対戦(10分3ラウンド)。2R開始3分で大外刈からのキムラロック(本来の名称は柔道の腕がらみ。木村が掛けた技である為、後にこう呼ばれる。)で腕を取られ、エリオは意識がなくなっていた(一説に骨折したと言われている)ため兄のカーロスがタオルを投入し敗北した。

他にも、矢野武雄、冨川富興、小野安一(2度対戦し2引き分け)らと対戦したが、木村以外に対しては不敗であった。

家族

  • 父ガスタオン・グレイシー
  • 長兄カーロス・グレイシー(Carlos Gracie
  • 四兄ジュルジ・グレイシー
  • 長男ホリオン・グレイシー(Rorion Gracie)1952/1/10生
    • ヒイロン・グレイシー(ホリオンの長男)
    • ヘナー・グレイシー(ホリオンの次男)
    • ハレック・グレイシー(ホリオンの三男)
  • 次男ヘウソン・グレイシー(Relson Gracie)1953/3/28生
  • 三男ヒクソン・グレイシー(Rickson Gracie)1959/11/21生
    • 孫ハクソン・グレイシー(Rackson Gracie、ヒクソンの長男)
    • 孫クロン・グレイシー(ヒクソンの次男)
  • 四男ホウケル・グレイシー(Rolker Gracie)1964/722生
  • 五男ホイラー・グレイシー(Royler Gracie)1965/12/6生
  • 六男ホイス・グレイシー(Royce Gracie)1966/12/12生
  • 七男ホビン・グレイシー(Robin Gracie) 1971/8/17生













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