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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
1/31



エル・ヒガンテ
El Gigante
1966/1/31 - 2010/9/22

ホルへ・ゴンサレスJorge González、アルゼンチンのフォルモサ州エル・コロラド出身のプロレスラー。

WWFにおけるジャイアント・ゴンザレスGiant Gonzales)のリングネームでも知られる。日本では、大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントを超える長身から「超巨人」、またプリモ・カルネラのニックネーム「動くアルプス」にあやかり、南アメリカ出身であることから「動くアンデス」などの異名で呼ばれた。

来歴

母国アルゼンチンでは歴代最高の身長を持つバスケットボール選手として活躍。ナショナル選抜チームに所属し、1986年のFIBA世界選手権にも出場した。1988年、NBAドラフトの第3巡でアトランタ・ホークスに指名されるが、NBAのレベルに達することができずに廃業。ホークスと同じくテッド・ターナーが所有していたWCWのジム・ハード副社長およびジム・ロスのスカウトにより、プロレスラーに転向することとなった。

当時WCWのブッカーでもあったヒロ・マツダのもとでトレーニングを積み、1990年5月のPPV "Capital Combat" にてファンの前で紹介された後、同年7/7にメリーランド州ボルチモアで開催された『グレート・アメリカン・バッシュ'90』にてデビューを果たす。スペイン語で「ザ・ジャイアント」を意味するエル・ヒガンテをリングネームに、当日はポール・オーンドーフ&ジャンクヤード・ドッグとのトリオでフォー・ホースメン(アーン・アンダーソン、シッド・ビシャス、バリー・ウインダム)と対戦した。WCWではデビュー以来ベビーフェイスのポジションで活動し、アンドレ・ザ・ジャイアント以上の巨人レスラーとして注目を集め、1991年は2月から6月にかけてリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に再三挑戦している。

1991/3/21には新日本プロレスの東京ドーム大会『'91スターケードin闘強導夢』に初来日、ビッグ・キャット・ヒューズを一蹴した。以降も新日本プロレスに特別参加の扱いで度々参戦し、同年8月の再来日では獣神サンダー・ライガーと凸凹タッグを結成。1992/1/4の東京ドーム大会ではビッグバン・ベイダーと対戦している。

1993年、ジャイアント・ゴンザレスと改名してWWFに移籍。ハービー・ウィップルマンをマネージャーに付けてヒールに転向し、1/24の『ロイヤルランブル'93』のランブル戦に筋肉柄の全身タイツという異様なコスチュームで乱入、ジ・アンダーテイカーを急襲した。以後、アンダーテイカーとの抗争アングルが展開され、4/4の『レッスルマニアIX』ではクロロホルムを使ってアンダーテイカーを昏睡状態にさせた。しかし、8/30の『サマースラム'93』での決着戦でアンダーテイカーに敗れ、試合後にウィップルマンと決別してベビーフェイスに転向。その後はアダム・ボムとの抗争が予定されていたが、10月にWWFを離脱した。

WWF退団後はリングネームをエル・ヒガンテに戻し、1994/5/1、新日本プロレスの福岡ドーム大会に来日して安田忠夫に勝利。以降は日本を主戦場とし、1995/2/8には仙台でグレート・ムタと対戦した。同年12月はWARに参戦し、北尾光司とのタッグや天龍源一郎との対決も実現した。

翌1996年、坐骨神経痛により引退し、アルゼンチンに帰国。近年は糖尿病との闘病を続け、車椅子での生活を送っていた。2010年9月22日、サン・マルティンの病院にて死去。享年44歳。





謙吾
1976/1/31

日本の元総合格闘家。本名は渡部 謙吾(わたなべ けんご)。埼玉県越谷市出身。

2000/9/24のジョー・チャールズ戦からリングネームを本名である「渡部謙吾」から「謙吾」に変更した。

来歴

ラグビー

埼玉県立草加高等学校出身。草加高校時代はラグビー県選抜メンバーとして国体に出場。また日本代表メンバーとしてニュージーランド遠征も経験。進学した大東文化大学ラグビー部では1年生でレギュラーとなり、2年生の時には関東大学ラグビーリーグ戦グループで優勝。4年生では主将となり、1997年には関東大学ラグビーリーグ戦グループベストフィフティーンにも選ばれた。この頃、明治大学ラグビー部に所属し後にプロレスラーとなった鈴木健想とも対戦歴がある。

総合格闘技

1998年1月、パンクラスに入団。東京道場所属となる。同年9月、パンクラス旗揚げ5周年記念興行日本武道館大会でプロデビュー。対戦相手は、元パンクラス王者のバス・ルッテンだった。

パンクラスでは比較的大型の選手だったが、線が細く、如何せん外国人には骨格・パワーで大きく劣るため目立った結果を残せなかった。また、前述の線の細さもあってかDEEP2001でのドス・カラス・ジュニア戦など怪我が多いことも難点である。

2003/5/2、新日本プロレスでLYOTOとULTIMATE CRASHルールで対戦。5分3Rを戦い抜き、判定負け。

2003/8/6、パンクラスism所属のまま、アメリカ合衆国ラスベガスにあるジョン・ルイスの道場で武者修行を行うことになったと発表。ケージでの練習を中心に行うことになった。

2003/11/2、アメリカ合衆国サンディエゴで行われたKOTC 30に参戦。ウェイド・シップと対戦するも、パウンドによりTKO負け。

2005/8/22、アメリカ合衆国ロサンゼルスを拠点に活動することになったと発表した。パンクラスは謙吾との契約を同日付けで凍結。

2006/4/29、K-1ラスベガス大会のトーナメント戦に出場した。謙吾にとっては初の立ち技での試合であったが開始40秒でゲーリー・グッドリッジにKO負けを喫した。

2008年6月、引退を発表。

その他

2005年には映画「あずみ2 Death or Love」に主人公・あずみ(上戸彩)の前に立ちふさがる真田幸村からの刺客、上野甲賀衆の一人・六波(ろっぱ)役として出演した。

戦績
24試合8勝13負3分

パンクラスビデオ紹介

 
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ジャイアント馬場
1938/1/23 - 1999/1/31

日本のプロレスラー、プロ野球選手、タレント。本名は馬場 正平。全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。

血液型O型。身長209cm、体重135kg。リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークのプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアが「ババ・ザ・ジャイアント」と命名したことに由来する。

日本プロレス界史上最大の巨体を持ち、力道山、アントニオ猪木と並ぶビッグネームでもあり、CMやテレビ番組などでも人気を博した。 現役時代NWA世界ヘビー級王座に3度就いた。

プロ野球選手時代

新潟県の三条実業高校野球部出身。在学中の1955年にスカウトされ、中退してプロ野球・読売ジャイアンツに投手として入団する。背番号は59(本人は『剛球』投手の意味だと解釈していたという)。新潟県第1号のプロ野球選手だったということもあり、将来を嘱望されていた。長嶋茂雄とは、「馬場ちゃん」と呼ばれるほどの親友であり(プロ入りは馬場のほうが先だが、年齢は長嶋のほうが上)、長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場である。また、王貞治の新人時代、キャンプで馬場が打撃投手を務め、角度のある速球に王がてこずり「これがプロか」と思ったエピソードもプロレススーパースター列伝ほか複数の著書で紹介されている。

1959年オフ、二軍では最優秀投手を取るほどだったのにもかかわらず、巨人を自由契約になり(一軍での通算成績は3試合0勝1敗、防御率1.29。唯一責任投手となった1敗は杉下茂の200勝達成試合でのもの)、1960年、大洋ホエールズの練習生としてキャンプに参加した際、採用内定は出ていたものの、宿舎の風呂場で転倒して左ひじ軟骨を傷め、野球を断念し、現役を引退した。

プロレスラーへ

1960年4月には日本プロレスへ入団、力道山の元に弟子入り。同年9/30デビュー。その後何度かアメリカに渡り、数々のタイトルに挑戦する。

修行時代に馬場は、「練習生はジムに住み込み、基本的にノーギャラ」というのを知らず、力道山に「(給料は)幾らですか?」と単刀直入に聞き、「巨人時代は幾ら貰ってたんだ?」「5万です」「よし5万だ」で話はまとまった。もっとも、翌月には「試合もしてねえのに5万は高すぎる。3万だ」と値切られたという。ただ、道場にはアパートから通っていた。また、修行時代にヒンズースクワットで、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説も残っている(これに負けじと、アントニオ猪木も一緒にスクワットをし、汗の水溜りが出来たという)。当時は脚力も強く、逆エビ固めをかけようとする相手レスラーを、力だけで跳ね返した。

新人時代にはアントニオ猪木と16回対戦し馬場の16勝0敗。決まり手は猪木よりも身長が高いことを利用したフルネルソンが多い。馬場は猪木との戦歴を自ら話そうとはしなかった。

アメリカ時代のリング名は、当初は本名の馬場正平(ショーヘイ・ババ)であったが、「フランケンシュタイン・ババ」、「ビッグ・ババ」、「ババ・ザ・ジャイアント」など様々なリングネームがあった。アメリカでは、大舞台でのメインイベントの試合も多く、当時は大変な知名度があったとされる(そのため、『日本人として初めてアメリカで成功したレスラー』と言われている)。アメリカではヒールとして活躍し、米レスリング専門誌『レスリング・レビュー』では、生傷男ブルーザー、殺人狂コワルスキー、東洋の悪魔ババとして、世界三大悪党と並び称されるようになった。アメリカでの師匠は、フレッド・アトキンス。

若手時代の海外遠征では、プロモーターの意志に従い、アメリカの都心でも着流しに草履という格好で通した。しかしまだ有名になる前、テキサス州の田舎街のレストランにその格好で入ろうとした際、店の用心棒から「東洋人のくるところじゃない」と一喝され、足元にピストルで射撃されたこともあるという。

また、馬場は飲み屋へ出かけると少ない手持ちの金を使いジュークボックスの中に唯一入っていた日本の楽曲、坂本九の「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」を流していたという。後年、全日本プロレスの試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する。またニューヨークには当時珍しかった日本人が営業しているカレー屋があり、そこを訪れてはカレーをご馳走になったり、店主と遊びに行ったりしていたという。

1962/8/31、オハイオ州コロンバスにおいて、ビル・ミラーとカール・ゴッチが、当時のNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースと控え室でトラブルを起こし、試合を控えていたロジャーズが負傷欠場。対戦相手の馬場が一時NWA王者となったが、結局、馬場はタイトルを返上した。なお、レコードとしては認められていない。

1963年 力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国。その際、マネージャーだったグレート・東郷から、「力道山死後の日本プロレスは先行きが怪しい、高額の年俸(当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカに定住するように」と勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。それ以外にも、アメリカでの生活で売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦へ陥る姿も見ているので、いくら高額の年俸を稼いでも同じようになった時のことを考えて断ったという理由もあった。

1964年2月にはNWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の三大世界王者に連続挑戦した。

帰国後の馬場は力道山に代わるスターとして期待され、1965年インターナショナル・ヘビー級王座を獲得し、豊登に代わって日本プロレスのエースとなる。テーズ、サンマルチノ、ジン・キニスキー、ボボ・ブラジル、クラッシャー・リソワスキーなどの強豪レスラーとのインター防衛戦でエースの重責を果たし、1972年の離脱まで日本プロレスのトップに君臨した。タッグマッチでも、吉村道明との名コンビ、坂口征二と組んだ東京タワーズ、さらにはアントニオ猪木とのBI砲タッグでインターナショナル・タッグ王座を獲得するなどの活躍を見せた。

全日本プロレス時代

1972年10月に日本テレビの後押しで全日本プロレスを旗揚げした。

創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアとNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や鶴田、ザ・デストロイヤーとの組み合わせが展開された。同年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得した。1979年と1980年にもハーリー・レイスを破って獲得している。ただし、いずれも翌週の再戦で前王者に敗れ王座を失っている。

1979/8/26、日本武道館にて行われた「プロレス夢のオールスター戦」にて、アントニオ猪木と一夜限りのBI砲復活を果たし、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と対戦した。

1980年4月、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった。記者から後に知らされ、「最初から分かっていれば、まともな相手を選んでいた」とコメント。直後の、1981年1月には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催し、バーン・ガニアとの間で自身の保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行う。結果は3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛。

1981年12月、世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦において、ブルーザー・ブロディ・ジミー・スヌーカチームのセコンドとして登場したスタン・ハンセンが、試合後、ザ・ファンクスのテリー・ファンクとの乱闘を繰り広げたことから、急遽馬場らが乱入しハンセンとの遺恨勃発。1982年2月に行われたPWFヘビー級選手権試合で直接対決をし、死闘を繰り広げたが、両者リングアウトによる引き分けとなった。

1984年4月、ハンセン・ブロディ組のツープラトン・パイルドライバーで首を痛めて次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップ。

1985年7月、スタン・ハンセンに敗北し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するラッシャー木村や百田光雄とファミリー軍団を結成し、悪役商会との抗争を開始し、前座で明るく楽しいプロレスを展開し多くのファンを楽しませ、最後の試合が行われた1998/12/5までリングに上がり続けた。

生涯で通算5769試合を行った。

闘病生活と、その死

1999/1/31、東京医科大学病院にて、大腸癌(上行結腸腺癌)の肝転移による肝不全により死去。61歳没。戒名は「顕峰院法正日剛大居士」。

妻の馬場元子の意向により外部には馬場の病状やその生命が危ないことを一切漏らしておらず、当時全日本プロレス役員だったジャンボ鶴田やエースでマッチメイカーの三沢光晴、全日本の重鎮だったジョー樋口にさえもそのことを知らせていなかった。馬場の最期を看取ったのも元子、姪の馬場幸子(全日本プロレス取締役)、実姉のほか、レフェリーで運転手の和田京平と秘書の仲田龍の5人だけであった。

死後

1999/4/17に日本武道館でファン葬が催され、3万8000人が参加した。

同年5/2東京ドーム興行にて「引退記念試合」を行う。スタン・ハンセンを先導にかつてのライバルや盟友が登場。「マッチメイク」はジャイアント馬場、ザ・デストロイヤー組対ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー組の時間無制限一本勝負で、当時PWF会長のロード・ブレアースが立会人、ジョー樋口が特別レフェリーをそれぞれ務めた。

リングアナウンサー仲田龍が涙声で馬場に対する最後のコールを行うなど、セレモニーはあくまでも「試合」として扱われた。ゲストからのメッセージで、キニスキーは「偉大なスポーツマン、アスリート、本物のプロフェッショナル・レスラーだった。あなたと日米で闘えて誇りに思う」と、またサンマルチノは「あなたは体だけでなく心もジャイアントだった」と称えた。さらにパートナーのデストロイヤーは日本語で「社長、ほんとうにお疲れさまでした」と深々と頭を下げ、会場中の涙を誘った。追悼の10カウントゴングが鳴らされた後、リング中央に置かれた愛用のシューズをデストロイヤーがつかんだ瞬間に、実況を担当した日本テレビ放送網の平川健太郎は、「デストロイヤーが、いま馬場とがっちりと握手を交わしました。共にリングを去ります馬場とデストロイヤーです」「プロ野球・巨人軍のエースを夢見たかつての少年が、レスラーとして選んだ最後のリングは東京ドームでした」とコメントした。

記録

主な戦績

  • 1960/9/30、田中米太郎とのシングル戦でデビュー、股さきで勝利。
  • 1961/5/25、猪木寛至(後のアントニオ猪木)と初対決、フルネルソンで勝利。
  • 1964/5/29、豊登とタッグを組み、ジン・キニスキー、カリプス・ハリケーンと対戦し勝利。アジアタッグ選手権王者に就く(初のタイトル奪取)。
  • 1965/11/24、ディック・ザ・ブルーザーと対戦し勝利。インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。
  • 1966/11/5、吉村道明と組んでフリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシス組を破りインターナショナル・タッグ王座を奪取。
  • 1967/10/31、アントニオ猪木と組み、ターザン・タイラー、ビル・ワット組と対戦し勝利。インターナショナル・タッグ選手権を奪回(BI砲初タイトル)。
  • 1968/6/27、ボボ・ブラジルを三十二文ドロップキック三連発で破り、2日前に奪われたインターナショナル王座を奪還。
  • 1971/12/7、アントニオ猪木とタッグを組んでの最後のタイトル戦。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク組に敗れる。
  • 1973/2/27、ボボ・ブラジルを破り世界ヘビー級争覇戦8勝2引き分けの成績で初代PWF世界ヘビー級王者(後に「世界」を外してPWFヘビー級王座に改称)に認定される。
  • 1973/10/9、ジャンボ鶴田との初タッグ。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク組の持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦したが、引き分けて奪取ならず。
  • 1974/12/2、ジャック・ブリスコと対戦。60分3本勝負、2-1でブリスコを下し、NWA世界ヘビー級王座を獲得。日本人選手初。
  • 1979/10/31、ハーリー・レイスと対戦。60分1本勝負、1-0でレイスを下し、NWA世界ヘビー級王座に再度就く。
  • 1980/9/4、ハーリー・レイスと対戦。60分1本勝負、1-0でレイスを下し、NWA世界ヘビー級王座に三度就く。
  • 1982/2/4、初めてスタン・ハンセンとPWF王者をかけて闘う。両者反則に終わるが健在ぶりを示した。
  • 1984/7/31、蔵前国技館。前年ハンセンに奪還されたPWF王座をスモールパッケージホールドの技能技でハンセンから奪還。
  • 1985/7/30、福岡スポーツセンター。スタン・ハンセンと対戦。60分1本勝負、0-1でハンセンに敗れPWFヘビー級王座から陥落。これを最後にタイトル争いの第一線から撤退。
  • 1990/4/13、アンドレ・ザ・ジャイアントとの大巨人コンビが実現。東京ドームでの日米レスリングサミットでデモリッションを破る。
  • 1994/3/5、「夢のカード」と題して、長年のライバルスタン・ハンセンとタッグを組み、三沢光晴・小橋健太組と対戦。10年ぶりに日本武道館でのメインイベントに登場。三沢にフォールを喫するも、大きな感動をファンに与えた。
  • 1998/1/23、後楽園ホールメインイベント。同日60歳の誕生日を迎えたことを記念しての「還暦宣言特別試合」。三沢光晴、マウナケア・モスマンと組み、小橋健太、川田利明、渕正信組と対戦。得意技のランニング・ネックブリーカー・ドロップで渕からフォールを奪い、現役レスラーとしての健在ぶりをアピールした。試合後のインタビューにて徳光和夫が差し出すマイクを前に「子どもの頃は60歳といったらずいぶん年寄りだなとも思ったが、自分がなってみたら『何だまだやれるじゃないか』」と答える。
  • 1998/12/5、日本武道館でラッシャー木村、百田光雄と組んで渕正信、永源遙、菊地毅組と対戦。これが生涯最後の試合となった。

獲得タイトル

  • NWA世界ヘビー級王座…第49代(防衛1回)、第55代(防衛1回)、第57代(防衛0回)
  • インターナショナル・ヘビー級王座…第3代(防衛21回)、第5代(防衛18回)、第7代(防衛10回)
  • PWFヘビー級王座…初代(防衛38回)、第5代(防衛15回)、第7代(防衛3回)、第9代(防衛3回)
  • アジアヘビー級王座…第6代王者。大木金太郎から奪取したが、1度も防衛戦を行わずに返上。
  • インターナショナル・タッグ王座…12度獲得。
    • 第7代 (防衛7回)…パートナーは吉村道明
    • 第9代(防衛0回)、10代(防衛11回)、12代(防衛4回)、14代(防衛14回)…パートナーはアントニオ猪木。
    • 第16代(防衛2回)…パートナーは坂口征二。
    • 第23代(防衛12回)、25代(防衛2回)、27代(防衛9回)、29代(防衛19回)、31代(防衛1回)、33代(防衛4回)…パートナーはジャンボ鶴田。
  • アジアタッグ王座…3度獲得。
    • 第11代(防衛7回)、13代(防衛3回)…パートナーは豊登。
    • 第17代(防衛4回)…パートナーは吉村道明。4度の防衛後、馬場がインター二冠王になったため王座を返上した。
  • NWA世界タッグ(デトロイト版)…1度獲得。
    • 歴代は不明(防衛0回)…パートナーはジャンボ鶴田。1度も防衛を行わずにタイトルを返上した。
  • チャンピオン・カーニバル…7度優勝。
    • 1973年、1974年、1975年、1977年、1978年、1981年、1982年。

入場テーマ曲

  • 日本テレビスポーツのテーマ
馬場の代名詞とも言える楽曲であり、プロレスそのものをイメージさせる楽曲としても各局のテレビ番組などで多く使われている。1980年代中盤からは、大相撲からプロレスに転向し全日本に入団した輪島大士に譲り、王者の魂に変更した。
  • 王者の魂(作曲:実川俊・TEmPA)
使い出したのが1982年頃(1980年代中期はビッグマッチ限定)で、その数年後には中継が深夜に移動したため、アントニオ猪木の「炎のファイター」(イノキ・ボンバイエ)に比べるとプロレスファン以外の知名度は低い。そのため、「ジャイアント馬場=日本テレビスポーツのテーマ」というイメージが現在でも持たれている。

レスラーとしての評価

試合運びは非常に基本に忠実(いわゆるアメリカン・スタイルに則った形)で、余程のことがない限り奇を衒ったことはしない。ただし不測の事態(対戦相手が掟破りの攻撃を仕掛けた場合など)においてはいわゆるシュートと言われる技術で対応する(アメリカ武者修行時代にフレッド・アトキンス(米マット界で「関節技の鬼」と同時代のレスラーから恐れられていた選手。タイガー・ジェット・シンもアトキンスから関節技のノウハウを教わっている)から関節技のノウハウを教わっていた)。

高千穂明久は馬場について、試合の組み立て、運動能力、スタミナ、スピードなど全てを兼ね備えた万能のプロレスラーであり、「プロレスラーとしては最高」「猪木さんと馬場さんでは差があったよ。モノが違った」と語っていて、またシュート(真剣勝負)でも強かったとも回想している。しかしビル・ロビンソンは「十回やれば九回は私が勝つだろう」と語っている。

性格

  • 基本的におおらかな性格。小さなころは非常に親孝行で、人との間に角を立てるのが本当に嫌だったという。
  • 旧知の間柄の人達には面倒見が良かった反面、見知らぬ人には慎重深く警戒心が強かった。記者、その他の人達との雑談においても、一人でも初顔の者がいると気付いた途端、一切話すのを中断したという。
  • 野球をしていた当初、一度スパイクシューズを履かずにストッキングのまま練習に出てきてひどく叱られたことがあったが、戻ってスパイクを履こうとはしなかった。巨大なスパイクの中に猫が子供を産んでしまったというのがその理由であった。
  • 契約には厳しいことで知られ、ジャパンプロレスとして参戦していた長州力が契約途中で離脱した際には断固たる措置を取ったという。しかし、天龍源一郎がメガネスーパー社から新団体旗揚げの話を持ち掛けられ全日本の契約終了後にSWSへ移籍した際、(当時団体の移籍は非常識とされていたため)憤慨していたジャンボ鶴田に対して「なぁ、人は裏切るより裏切られた方がまだいいだろう」と諭した。これは天龍と馬場の間に十分な話し合いが持たれていた結果であるが、他の契約期間が終了していない全日勢が何人もSWSへ流れていった際には「話が違う」と激怒した。
  • 辞めていった日本人選手を二度と全日本マットに上げることはしなかったが、その弟子はリングに上げた(冬木弘道の弟子の、邪道、外道等)。師匠のことで弟子が巻き添えになることはマット界ではよくあることだが、馬場は師匠のこととは別のことと割り切っていた。
  • 「シュート(真剣勝負・ガチンコ)を超えたものがプロレス」という発言を残した。他団体が格闘技路線を進めていた頃の全日本プロレスのキャッチコピー「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」や「プロレスとは『プロレス』である」といった発言は、馬場本人のコメントではなく馬場夫妻と数十年に渡ってプライベート含めて親交があった元『週刊プロレス』編集長のターザン山本が考え出したものであるが、馬場自身もこのコピーを気に入っていた。
  • 食事作法や礼儀作法、服装などに厳しく、後輩や弟子たちにも徹底的に叩き込んだが、馬場本人はファンにサインをする際も(1000円相当のグッズを買う必要があり)、足を組んで座り下を向いたまま葉巻を吸いながら応じていた。1990年代、全日本の選手たちが決してシャツをズボンから出さなかったことは、馬場の教えが徹底されていたからであり、現在でもお付きだった和田京平や仲田龍、泉田純至らは「エリ付きのシャツでないといけない」という馬場の教えを守り、夏場でもTシャツではなくポロシャツを着ている。選手の茶髪も長い間許されなかったと言う。ジーンズも嫌いで、持ってはいたが「あれは作業着だ」と言っていた。
  • プロレスラーが技を一般人にかけることを非常に嫌っていた。TBSラジオの番組にゲスト出演していたとき、パーソナリティの松下賢次に何かプロレス技をかけて欲しい、というリスナーからのFAXがあった。馬場は「素人さんにプロレスの技をかけることは、絶対してはいけないこと」と語っている。ただし、かつて『笑っていいとも!』にゲスト出演した際、タモリにヘッドロックをかけたことはある。また、試合中エキサイトして我を忘れてしまうこともあったらしく、「場外乱闘で興奮状態になった馬場さんに技をかけられた」というプロレスファンの投稿が、雑誌に載ったこともある(投稿者は「痛かったけど、嬉しかった」と言っている)。なお、2007年にアサヒ飲料『WONDA』のCMにおいて、桑田佳祐に対し技を繰り出すプロレスラーとして生前の馬場の映像が合成で使われた。
  • 自らのプロレス観とかけ離れたレスラーとの対戦には消極的ではあったが、そのレスラーが人気者だった場合、プロモーターの立場として観客動員等、興行価値を優先し、積極的に起用し続けた(後述のミル・マスカラス、ビル・ロビンソン、長州力等)。
  • アントニオ猪木からシングル対戦の要求はたびたびあったが馬場は最後まで応じなかった。表向きの理由は、それぞれの団体が専属契約していたTV局(日本テレビ、テレビ朝日)同士のどちらが放映するのか話がまとまらないとのことであった。しかし実際は、馬場が猪木に対して不信感を持ち、今ひとつ信用出来なかったことが最大の理由として挙げられている。

嗜好

歴史小説が好きな読書家で、年間200冊以上の本を読み、柴田錬三郎、司馬遼太郎のファンだった。他にも絵画などを趣味に持つ。「引退したら(当時別荘を持っていた)ハワイで絵を描く生活がしたい」と語っていたが、それが現実になることはなかった。『水戸黄門』の大ファンで、欠かさず見ていたという。アイドルとして人気絶頂だった松田聖子に初めて会った時、「テレビは『水戸黄門』しか見ないから知らない」と言ったという話や、初代水戸黄門役の東野英治郎と初めて面会した時は、直立不動の姿勢となり、思わず頭を下げてしまったと回想している。また、初代風車の弥七役の中谷一郎と会った時には「おう、弥七」と声をかけ(年齢は馬場が中谷の8歳年下であった)、うっかり八兵衛役の高橋元太郎と会った際にも「八兵衛」と声をかけたと言う。『水戸黄門』に忍者などのキャラクターが出るようになると「突飛なことはやらない方がいい」と苦言を呈していた。東野時代のような典型的な勧善懲悪ものを好んだ。また、逆に高倉健に会った際はファンの人かと思い「はい、どうも」と座ったまま握手をした。

音楽では民謡を好み、尺八を演奏することも出来た。

ハワイを非常に気に入っていて、オフはよくハワイの別荘で過ごしていた。ハワイマット界にも関わりが深く、全日本プロレスのタイトル認定機関であるPWFの初代会長ロード・ブレアースはハワイのプロモーターであった。日本プロレス時代の人生設計では、「38歳で日本のプロレス界からは引退し、その後はハワイに引っ越して気楽な隠居暮らしに入る」というつもりだったという。

キャピトル東急ホテルを東京ヒルトン時代から定宿としていたことはよく知られており、馬場〜三沢時代の全日本プロレスの記者会見は殆どキャピトル東急で行われた。また馬場は、関東での大会の後はキャピトル東急のコーヒーハウスである「オリガミ」で食事をしていた。お付きの和田や仲田、番記者の小佐野景浩らはこの「オリガミ」で馬場から食事作法を学んだという(週刊ゴングの増刊号にて、キャピトル東急ホテルの閉館により閉店となる直前のオリガミにて、鈴木みのるが「馬場さんの味を食す」という特集を組んだほど、ジャイアント馬場=キャピトル東急というイメージがプロレス界では定着している)。特に、この「オリガミ」に勤務するウェーター・ウェートレスは「馬場さんにおもてなしすることが登竜門だった」(BS日テレ2009年1月1日放送・2010年1月30日再放映の「俺たちは忘れない…10年目の再会 ジャイアント馬場よみがえる16文キック」での取材より)という。

大変健康に気を遣うと言われているが、後楽園ホールのロビーでも常に葉巻を吹かしていた。また1990年の骨折入院までは健啖家で、酒に強く(曰く「いくら飲んでも酔わないので酒は面白くない」)、甘党であったが(あずきの缶詰を常に携帯しており、食事の締めとして餅に付けて食べるのが好きだった)、このことが糖尿病の遠因になった。骨折後は足腰の鍛錬により専心するようになり、毎日恵比寿の自宅から(マンションのエレベーターも使わなかった)六本木にあった全日本プロレスの本社までウォーキングするのが日課だった。若手時代は汗っかきだったが、糖尿病を患って以降は汗をかかない体質になってしまい、以来サウナ好きでもあった。

葉巻を愛好していたが、テレビ番組の出演で親しくなった逸見政孝がスキルス性胃癌で入院したため、願掛けの意味から禁煙を決意。だが結局願いはかなわず、逸見は死去。以降、馬場が葉巻を口にすることは二度となかった。

甘いもの、特にあんこが好きと述べていた。テレビ番組「ニュースステーション」の企画である「最後の晩餐」でも人生最後に食べたいものを大福と答えている。

愛車はアメリカ武者修行時代に苦楽を共にしたブルーノ・サンマルチノからプレゼントされたキャデラック。

愛唱歌は『砂山』であったという。少年時代から辛いことがあると、気分を紛らわせるためにこの歌を良く歌っていたことをテレビ番組に出演した際にも語っていたことがある。

金銭感覚

負傷のためプロ野球選手の道を断念せざるをえなかったが、プロレスチャンピオンになって年収が3億円を超えたと話す(給料袋が縦に立ったという)。当時のプロ野球界の最高峰であった巨人の「ON(長嶋茂雄や王貞治)が『年俸3千万円、4千万円』などといっていたのを見て、おかしくて笑いが出てしまった」という逸話を晩年に語っていた。ただし、経営者として節税出来たことから、新聞で発表される長者番付の馬場の順位は下位であった。本人のコメントによるとアメリカ時代には1試合で2万ドル(当時で約7百万)稼いでいた。

1本数万円(途中からは1本10ドルのカナダ産)の葉巻を愛用し、キャピトル東急ホテル内「オリガミ」で出される1個2500円のチーズバーガーを食べ、三沢に1個1万円のメロンを潰して作ったメロンジュースを振舞ったり新婚旅行の費用をポケットマネーで出すなど豪快なところもあったが、所属選手の年俸は新日本プロレスよりはるかに安かった。また、選手に対する契約に保険や負傷欠場時の給与補填などを制度として行わなかったため(内臓疾患で長期欠場していたロッキー羽田曰く、「馬場さんがポケットマネーから生活費をくれていた」)、馬場死後に選手大量離脱の要因となった(新体制はそれを導入する方向だったが、オーナーである元子夫人が「馬場さんの時代にはなかった」と全て拒否した)。なお、その遺産は、渋谷税務署に8億7千万円と公示された。死後、永源遙は週刊プロレスのインタビューで「猪木さんは金を使うことが好きな人、馬場さんは金を使うことを忘れた人だった」と話している。また、猪木が参院議員に当選後に借金14億円と報道されたのを聞き、「俺との差は30億円ある」と言ったと高千穂が後に述懐している(また「俺ならキャッシュで払える」とも語ったという)。

プロレスラーとの人間関係

力道山からは特別可愛がられた。これは馬場に「元巨人軍投手」という肩書きがあったことと、2mを超える身長に力道山が惚れ込んでおり「これはワシをも凌ぐスターになるかもしれん」と思ったからである。アントニオ猪木はいわば叩き上げであり、また従順でなかった猪木を力道山はあまり好んでいなかったとされ、ちょっとしたミスで殴られたり蹴られたりが当たり前だった中、馬場は一度も殴られたことが無いというエピソードがある。また、馬場は入門当初から付き人を経験しておらず、すぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたなど完全な特別扱いであった。

馬場自身が「私は力道山に一度も殴られたことが無い」と発言していたが、それは理不尽な暴力を受けたことは無いという意味で、自伝によると力道山から空手チョップの手ほどきを受けた際、皮膚を鍛えるために特殊な農具で手を何度も思い切り叩かれたという。叩かれている間力道山に「どうだ痛いか」と聞かれたが、「痛くないと言えば余計に力を加えるし、痛いと言えばそのうち痛くなくなると言って叩くのをやめないので、黙って耐えるしかなかった」と述懐している。

力道山には弟子に酒の一気飲みを強要する癖もあり、馬場も何度も大量に飲まされたという(馬場自身は酒嫌いだった)。実際、師匠である力道山はスポンサーの前で「プロレスラーの頑強さ」を見せることをしていた。デビュー前の馬場は、スポンサーの前で力道山に「ジョニ黒」を一気飲みさせられ、目の前に「火花が散った」という。一息ついた馬場が水を飲もうとしたところ、チェイサーに差し出されたのは「ビール」だったという。

野球上がりで腕が細かったため(当時のピッチャーは腕を痛めるといけないという理由で腕立て伏せもしなかった)、巡業で津軽海峡を渡る際、青函連絡船で力道山の指示でいつも到着するまでバーベルを持たされていた。馬場は北海道へ行くたびにあの時のことを思い出すと語っていた。

新日本プロレスを旗揚げしてからの猪木の挑発には「何度もはらわたが煮えくり返る思いがした」と自伝に書いているが、猪木には基本的に「同じ釜の飯を食った男」という気持ちがあり、憎しみの感情はみられなかった(馬場が後期の猪木に一貫して持っていた感情は不信感だった)。猪木も同様で、表向きの発言と実際に馬場に会う時の態度は全くと言っていい程違っていた。

ただし新日本プロレス陣営の中で坂口征二は馬場も非常に信頼しており個人的に交流もあった。特に1990年2月新日本のドーム大会では馬場は坂口の依頼に応え団体の壁を超え全日本の選手を貸し出した。また馬場が死去した時坂口は真っ先に駆けつけた

本当に馬場を憎んでいたのは上田馬之助で、日本プロレスを退団した馬場と、力道山の作り上げた日本プロレスに最後までこだわっていた上田の感情的なしこりは、日本プロレス崩壊後大木金太郎らと全日本プロレスに移籍する際、上田が仲介者の対等合併の言葉を本気にした事(実際は吸収合併だった)と、馬場が大木・上田ら移籍組を冷遇した(馬場曰く「全日本創立に奔走した仲間と、新日本とうちを両天秤に掛けたような元同僚を同格に扱うことは出来ない」という理由)ことで決定的になったという。「猪木追放事件」も、一般には「猪木・馬場らによるクーデター計画の存在を上田が上層部に密告した」ことが原因とされているが、上田は近年になって「実は最初に密告したのは馬場である」と語っており(詳しくは上田馬之助の項を参照のこと)、このことも上田と馬場の関係悪化に大きく影響していたと思われる。ただ、竹内宏介によると「上田が『猪木が会社乗っ取りと馬場の追い落としを企んでいる』と馬場に話して、それを馬場が上層部に話した」という。

プロレスのプロモーター(興行主)としても、NWAに加盟し第一副会長までのし上がったことで世界的に有名であった。アメリカ武者修行時代にプロモーターの指示に絶対に逆らわなかったことや、馬場自身の人柄を買われたことで、全日本プロレス旗揚げ時にNWAのプロモーターだったドリー・ファンク・シニアや、当時ニューヨークの看板選手だったブルーノ・サンマルチノが協力を買って出た。ギャラの約束を必ず守り、大物選手はファーストクラスで来日させるなど丁重に扱ったことで外国人レスラー間の評判が高かった。当時は「名外国人を本場アメリカから呼ぶことに団体の意義・名誉のあった時代」であり、日本人レスラーへの給与形態などはやや違ったのである。その代わり、ズル休みなどは大物外国人でも絶対できなかったという。また力が衰えてきてもそれなりのポジションで来日させ続けた。アブドーラ・ザ・ブッチャーやドリー・ファンク・ジュニアなどは1990年代中盤まで回数は減ったものの来日し続けている。

NWA副会長であり、WWWF(現WWE)発足の頃すでに大スターだったことから、ビンス・マクマホン・ジュニアも、馬場に対しては頭が上がらなかった。マクマホンがWWFとして日本マット界を傘下に治めようと奮闘していたとき、馬場はNWA第一副会長として一喝したことがある。後に馬場は「マディソン・スクエア・ガーデンで世界王座に挑戦したときにほんの子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と述懐している。

付き人だった大仁田厚を特別可愛がり、一時は本気で養子縁組を考えたこともある。大仁田が馬場の付き人をしていた頃、興行に馬場の赤いパンツを持って行くのを忘れたことがあった。困った大仁田は、同じ会場に赤いパンツを履く身長2mの外国人選手がいたため、この選手の控室に忍び込んでパンツを盗んだ。馬場はそのパンツで試合に勝ったものの何かおかしいと気づき、「このパンツ俺の?」と大仁田に聞いた。大仁田は「外国人選手から借りてきました」とウソをついたが馬場はこの嘘を即座に見破り「馬鹿野郎、貸すわけないだろ!」と怒鳴って張り手タイプの空手チョップを食らわせた。そして洗濯して返すようにと命じ、3日間口をきかなかったという。その後、別の興行で大仁田はまたしても馬場のスーツのズボンを忘れたが、素直に謝ったところ、馬場は何も言わず興業中の約1か月間、スーツに赤ジャージのズボン姿で通した。大仁田はこの一件を通じ馬場さんから一番大切なことを学んだと語っている

1987年11月、所属選手のハル薗田(マジック・ドラゴン)が、全日本プロレスから派遣されて南アフリカ共和国のプロレス興行に参戦する際に、結婚したばかりの園田夫妻にポケットマネーを提供して、興業後の新婚旅行を奨めた。ところが、南アフリカに向かう飛行機がインド洋上で南アフリカ航空295便墜落事故となり、ハル薗田とその夫人が事故死することとなった。馬場は生涯、園田の派遣と新婚旅行を奨めたことを悔やんでいたという。リング上で弔辞を読んでいる時に号泣した。

世界中のプロレス界を股にかけた大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントが最後に選んだリングは、天龍一派の大量離脱で黄昏時を迎えていた馬場全日本だった。二人がコンビを組んでいた頃「馬場とアンドレが天の川で流しソーメンを食べていた」などという伝説が流れたこともある。実際二人は大変仲がよく、話し相手に困らないようにと、アンドレの若手時代からの親友であるマイティ井上を話し相手として帯同させ、アンドレ参戦時の外国人用移動バスの冷蔵庫には、アンドレ好みのワインが常に置かれていたという。

なお、アントニオ猪木とは全く疎遠だったというわけでは無く、年に数回会っていたという。ただしそれは、それぞれの団体が同じ興行先にかち合わないように確認するため等の事務的なものであった。

芸能人との関係

彼の体の大きさはよく芸能人のネタにされた。

  • ビートたけしには「巨人時代、ボールを投げようとしたら捕手の森の頭を叩いてしまった」「投げた瞬間にキャッチャーをまたいでしまうため、野球をやめた」「タクシーに乗ろうとしたら、左のドアから右のドアに出てしまい、乗れなかった」「車のサンルーフから頭を出して運転していた」「飛行機に乗る時は、両手を翼の中に入れて、腹這いになる」「ゴルフもショートコースはパターしか使わない。カップインしたボールを取り出そうとしたら、グリーンも一緒に持ち上がった」「一緒に飛行機のファーストクラスに乗った時、前の席に座っていた馬場さんがシートを180度倒したらオレの腹の部分に頭がのった」など。
  • これらのネタは、学生時代に「ビートたけしのオールナイトニッポン」の熱心なリスナーであり投稿者でもあった、消しゴム版画家でエッセイストでもあったナンシー関が考えたとも言われる。本人も著書の中で、ジャイアント馬場の大きさについてのネタを考え出すといくらでも浮かぶと語っている。
  • ダウンタウンの松本人志もカーナビで馬場の居場所が写るとネタにしたり、「ダウンタウンのごっつええ感じ」でも馬場をネタにしたコントがあった。
  • 島田紳助もトークで時々馬場のネタを使うことがよくある。それで「クイズ紳助くん」では馬場を崇拝している円広志が怒るというパターンが何度もあった。
  • 田中裕二は座っていた馬場に身長で「負けた」という(笑っていいとも!での証言)。
  • ジャイアントコーンのCMで共演した酒井法子がデビュー当時使っていた「のりピー語」で「馬場ピー」は「大きい」を意味していた。CM撮影時に一口かじったアイスを、スタッフが「処分しますので」と引き取ったが、馬場は「勿体ないよ」と言うと、最後まで食べたというエピソードがあり、酒井法子は「身長だけでなく、心も大きい人でした」と語っている。また、第12回アメリカ横断ウルトラクイズの第4チェックポイントで「馬場ピー」の意味について出題され、この回の準優勝者となる解答者が、「汚い。」と珍解答をしてしまい、司会者の福留功男が「馬場さんが怒るよ」と説教した挙句、その後は当該解答者のニックネームにもなった。
  • 女優の水野久美は同郷で上京前からの友人。馬場にとって水野はマドンナで、上京後互いに下積み時代だった頃も馬場は水野の引っ越しを手伝ったりした。
  • シンガーソングライター松山千春とも親交があった。自ら出していた月刊誌にジャイアント馬場との対談を発表したこともある。松山は馬場の死去後、1999年8月に「Champ never die」という曲を発表、馬場に捧げている。
  • シンガーソングライター円広志…プロレスの大ファンでジャイアント馬場を崇拝している。かつて日本テレビのオシャレ30・30に出演した時には、馬場への想いを熱弁したこともある。1994年に、当時中京テレビでレギュラー出演していたヴィヴィアンの企画で馬場と対面したさいには、本人から愛用の革靴をプレゼントされた。その馬場に対する愛情の反面、アントニオ猪木ファンを嫌悪しており、猪木ファンから馬場ファンであることを揶揄されると大変根に持つ。
  • 2006年8月NHK教育テレビ知るを楽しむ私のこだわり人物伝で、4週にわたり香山リカがジャイアント馬場について語った。香山は少女時代、馬場に抱き上げてもらったことがある。
  • B'zのシングル曲『ギリギリchop』は、プロレスファンである稲葉浩志が馬場の死に哀悼の意を込めてタイトルを付けたとライブのMCで語っている。
  • 死去する約2か月前「徹子の部屋」へ2週にわたり出演したが、これが一般視聴者へプロレスについての最後のメッセージの場となった。馬場は受けの説明等を行い、この時初めてテレビで歌も歌った。また弟子(ハル薗田)の飛行機事故死がきっかけで飛行機が怖いとコメントして、黒柳徹子へはスクワットのやり方を教えた。黒柳はこれがきっかけで今でも毎日スクワットをしている(黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と語っている)。

SHOW by ショーバイ!!でのキャラクター

馬場のキャラクター・人柄はCMやプロレス中継以外のテレビ番組を通じて、幅広い人気を集めた。中でも1988年から1996年まで放送された日本テレビ系クイズ番組『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』に出演した際には、様々な珍解答で視聴者の笑いを誘った。「何を作っているのでしょうか?クイズ」で、終了5秒前にボタンを押したが、正解の「ボクシンググローブ」がほぼ完成の形で画面に映っているにもかかわらず堂々と「赤べこ」と答え、司会者の逸見政孝を始めとする出演者全員を悶絶させたこともある。逸見はこの馬場の発言で笑い転げ、しばらく起き上がれなかったほどであった。

特番では代表者になるもののボタンを押さず、業を煮やして高田純次がボタンを押したこともあった。さらに、その時の正解は「トゥーシューズ」だったために高田がバレリーナを真似て正解を伝えたが、本人は「オッパイにあてるやつ」と答え、周りを悶絶させたこともあった。

早押しボタンを押さないことは週刊少年ジャンプの読者ネタにもされるほどであった。ごくまれに逸見・福澤などに「馬場さん、押す気ありますか?」と聞かれることがある。逸見の場合はさらに「わかったら押すんですよね?」と念押しする。それに対して馬場は「そうですよ!」と返す。早押しボタンのすぐそばにコーヒーを置いていたため、隣に座っていた川合俊一に「馬場さん、早押しボタンの上にコーヒーを置いたら押せないでしょ」と突っ込まれていた。サブ司会の渡辺正行に「押す意志無いじゃないですか」と突っ込まれた。放送143回目にして初めて早押しボタンを押したためだったのかスタジオ内が大騒ぎとなり、馬場自身も照れてしまいセットの裏に隠れてしまった程だった。(その時押していたのは実は早押しボタンではなくミリオンスロットのボタン。その回のEDではその場面が使われることになった)

同番組の特番では、パネラー席の早押しボタンが付くかのテストが行われたが、馬場は思いっ切りデスクを叩き、パネラー席を破壊してしまったことがある。山城新伍は、「(演出として)スタッフと相談して、馬場さんに内緒でデスクボードに細工をして落ちやすくしていたが、馬場さんはそれを察していて、知らんふりしてボードを叩き落してくれた」と語っている。

番組初期の頃は右から三番目の解答者席に座っていたこともあったが、基本的には一番左端の席が定着しており番組内では「馬場さんの席」の通称まで付いた程であった。番組中期以降は蛭子能収と交互に準レギュラーで左端の席で解答した。

しかし、クイズ自体の解答率は悪くなく何度も売り上げNo.1を取っており、回数も山城新伍(56回)、高田純次(37回)、山瀬まみ(23回)に次いで4位(17回)である。1回目のトップ賞を取ったのも馬場であった。

1993年12月15日放送時は1、2問目のみ逸見の代理司会を務めたことがある。この日の本来の代理司会は島田紳助。

山城は逸見の追悼スペシャルにて、逸見が胃癌の闘病生活に入ることを告白してから、逸見の早期回復を祈って願を懸けるために、馬場は大好きな葉巻を断ったエピソードも紹介し、馬場の人柄を讃えた。逸見が亡くなってから、自らのトレードマークだった葉巻を口にすることは生涯無かった。

野沢直子からはこの番組限定で「ジャイヤント」と呼ばれていた。

最終回スペシャルも自身の試合が終わってからその足でスタジオへ駆け付け、馬場の名場面特集も組まれた。

ものまね

もごもごしたしゃべり方や、こもった低音の声質がものまねのネタになりやすく、当初は、タレントなどにものまねされることに対し不快感を示していたが、徐々にそういったおふざけを容認するようになり、そのキャラクターや風貌から、多くのバラエティ番組やCMに起用されることとなる。また、全日本プロレスでの自らを主役とした、ギャグタッチのアニメビデオをリリースされるまでに至った。

早くから馬場をものまねのレパートリーにしていた関根勤には、初対面の際「ぼくはアッポーなんて言ってないよ」と文句を言ったが、「指で汗をぬぐい大きく息をつく動作なんです」と実演して見せたところ「それは似てる」と、それ以来関根に本人公認のお墨付きを与えたというエピソードもある。また、「笑っていいとも!」に出演したとき、突然関根にババチョップを打ち込むと、関根は機転を利かせて馬場のものまねで膝をついた。

身体について

巨人軍時代、下垂体腺腫により視神経が圧迫されて視力障害を引き起こしたため、開頭手術をしたことがある。当時の技術では成功率が非常に低く、医者から「失明する可能性が高いので、見える内にマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められた程だったが、手術は成功した。

ジャイアント馬場の代名詞「16文」(約38.4cm)は、日本に合う靴がほとんどなかったため、アメリカ遠征の際入手した靴にアメリカ規格の「16」(約34cm)とあるのを見たプロレスマスコミが16文と誤認して、そのまま定着したものである。一部では「16文ではなく16インチ(約40.6cm)」という更に誤った説もあった。

209cmの長身で、日本人レスラーはもとより、外人レスラーでも余り自分を超える身長の対戦相手がいなかった馬場ではあるが、1990年の世界最強タッグ公式戦でアンドレと組んでランド・オブ・ジャイアンツ(スカイウォーカー・ナイトロン&ブレード・ブッチ・マスターズ組)と戦った時だけは、アンドレが身長223cm、ランド・オブ・ジャイアンツがそれぞれ身長213cmだったため、馬場が最も身長が低いという珍現象が起きている。

馬場は、1975年から1978年頃の一時期、髪を伸ばしていたこともある。この時、「パーマをかけている」と言われたが、実際は癖毛なのでそう見えるだけだったという。また、日本プロレス時代に、ボボ・ブラジル戦での頭突きの衝撃を和らげるために髪を伸ばしていたことがあった。

元子夫人との間に子供はいない。馬場は巨人症(成長ホルモン産生下垂体腺腫)であり、それが遺伝することを恐れて子作りをしなかったといわれている(実際には巨人症が遺伝することはほとんどない)。

馬場が死去した際、彼の遺体のサイズに合う棺がなく、葬儀の際には特注の棺を作ってもらうことも検討されたが、時間的な都合が付かなかったため、最終的に彼の遺体は布で包んだだけの状態のまま火葬場へ運ばれ、荼毘に付された。

その他

  • 日本プロレス時代、実況アナウンサーの清水一郎は、1970年頃までは馬場を巨人軍に在籍していたためか、「ジャイアンツ馬場選手」と実況では呼称していたが、その後は「ジャイアント馬場選手」と実況するようになった。
  • 1995年1月、元子夫人の明石の実家が阪神大震災の被害に遭い、和田・仲田らと家の片付けに向かった。関西地区の被害を目の当たりにした馬場は、ガスコンロや生活用品を買い集めた後関西地区に住んでいる全日本のファンクラブ「キングスロード」会員の名簿を取り寄せ、一軒一軒へ馬場自らが出向き、生活用品を差し入れて回ったという。
  • 晩年巨人のOB会へ出席した際、先輩の千葉茂に「おーい、馬場!」と手招きされた際、大喜びで後ろから抱きついた。この為馬場がおんぶされるような格好で甘えるという珍しい構図になった。目上から呼び捨てにされる機会がほとんど無くなり、久しぶりのことだったのでとても嬉しかったという。
  • 亡くなった前年には巨人阪神のOB戦に巨人OBとして出場。ファーストにランナーとして出るも牽制でアウトになり王貞治から「馬場さん頼むよ〜」と和やかな雰囲気で試合を楽しんだという
  • プロレス興行では大会場での試合、地方での売り興行関係なく入場口近くの売店の椅子に座り、グッズを購入したファンにサインを書いていた。馬場死後の全日本プロレスでは、愛用だった椅子を置いている。
  • 全日本を旗揚げした当初から年8回のシリーズと全国巡業をモットーとし最後の最後まで常設会場は持たなかった。アントニオ猪木率いる新日本が異種格闘技戦など斬新な企画を次々と打ち出しても、馬場は年8回のシリーズと全国巡業という型を続けていた。
  • 1977年の映画『007 私を愛したスパイ』のジョーズ役は当初彼が考えられていたが、結局リチャード・キールが選ばれた。ジョーズは頑丈な金属の歯を持っており、噛んで人を殺すが、逆に弱点でもあった。

プロレスマスコミとの関係

2010年6月、元週刊プロレス編集長のターザン山本は、1990年代初頭に馬場から多額の裏金の見返りに週刊プロレスの編集部や誌面、更には読者全体を巻き込む形でのSWSバッシングキャンペーンを行う様に依頼を受けたことを暴露本で明らかにした。

その後山本は実際に天龍源一郎を始めとするレスラーを引き抜いたSWSを「金権プロレス」とレッテルを貼った上で、文字通り誌面を挙げた一大バッシングを行い、馬場の狙い通り2年後にSWSは崩壊した。

山本はこのバッシングキャンペーン以外にも、当時の誌面作りの方向性で全日本プロレスを優遇する見返りに、全日本プロレス興行のビッグマッチにおけるブックやアングルを考案する権利を馬場から与えられていたことも暴露本で告白している。それらのブックの中にはジャンボ鶴田対三沢光晴戦の決着をピンフォールではなくフェイスロックでのギブアップとする結末なども含まれていたという。

出演CM

  • マイバンド(ヤマハ、1982年)※「僕にも弾けた!」のフレーズが話題となる
  • グリコジャイアントコーン(江崎グリコ、1980年代 - 1990年代)
  • ジャイアントカプリコ(江崎グリコ)
  • ビアシャトル(キリン)
  • かゆみ止め(メンソレータム)
  • 週刊就職情報(リクルート、1984年)
  • 日清からあげ粉(日清製粉、1993年)
  • ツーフィンガー(日本電装、1994年)
  • ららぽーと スキードーム ザウス(三井不動産、1996年)
  • 日清ごんぶと(日清食品、1996年)
  • JA貯金年金自動受取り(農林中央金庫、1997年 - 1999年)
  • WONDAモーニングショット(アサヒ飲料、2007年)※CG出演

その他

  • ウルトラマン(初代)が怪獣と格闘する際などの身のこなしは、ジャイアント馬場を参考にしたという説がある。なお、「ウルトラマンのキック力は十六文キックの一万倍」という設定が当時存在したという。ウルトラマン80には、その名も400文キックという技がある。
  • 柳田理科雄の『空想科学読本2』では、怪獣やヒーローの能力を比較して最強を決めるための統一基準として、「行動形態が怪獣やヒーローに近い」ことを理由にジャイアント馬場を採用、怪獣やヒーローの能力を表す単位として「ジャバ(ジャイアント馬場の略)」という新単位を考案している。この他にも、柳田は新刊本を出すごとに1冊に1度は必ずと言っていいほど、体の大きな人間の代表として馬場を引き合いに出しており(ちなみに足の速い人間の代表はカール・ルイス)、自らもこのワンパターンをどうにかできないものかと自嘲気味に語っている。
  • 1995年3月にタワーレコード渋谷店が移転しメガストア化した際の宣伝ポスターに、上を見上げる馬場がモデルとして起用された。
  • 2006年12月に阪神競馬場がリニューアルオープンし、馬場(走路)が大型化された。このリニューアル記念ポスターの1つでは「大きな馬場」が完成したことをもじり、「12・2 ジャイアント馬場、登場。」というコピーと、競馬場全体を踏みつけるような巨大レスラーブーツの画像が用いられた。

書籍

著書・関連著書

  • 『プロレス入門』 小学館、1971年
  • 『たまにはオレもエンターテイナー』 かんき出版、1983年
  • 『ジャイアント馬場の16文が行く』 ダイナミックセラーズ、1983年
  • 『個性豊かなリングガイたち』 ベースボール・マガジン社、1987年、
  • 『16文の熱闘人生』 東京新聞出版局、1994年、
  • 『馬場伝説』 筑摩書房、1996年
  • 『オレの人生・プロレス・旅』 ジャイアントサービス、1998年
  • 『16文が行く』 ダイナミックセラーズ出版、1999年
  • 『王道16文 完全版』 ジャイアントサービス、2000年
  • 『ねぇねぇ馬場さん』馬場元子 講談社、2000年
  • 『ジャイアント馬場』 日本図書センター、2002年、

参考文献

  • 『人生は3つ数えてちょうどいい』和田京平
  • 『NOAHを創った男-三沢光晴の参謀-』仲田龍・本多誠共著

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